絡み合った
迫りくる嵐の只中、儚く揺れる炉の火よ。
静かな誓いを交わした場所に、暗い影が踊る。
端正なる姿の裏に潜む、黄金の罠。
ビロードの陰より、物言わぬ瞳がじっと見つめている。
**第3章**
コンパクトなシルバーのマイヴィが路肩に車を寄せた頃には、夕闇は夜の深い闇へと完全に呑み込まれていた。ヘッドライトが静かな住宅街の通りに2本の黄金色の光を放ち、天道家のきちんとした石垣と庭の門を照らし出している。
運転席では、朝比奈小春が疲れた溜め息をつきながら目をこすっていた。午後の仕事を終えて制服のブレザーには少しシワが寄っていたが、その疲れにもかかわらず、彼女の顔には美雪が幼い頃から頼りにしてきた馴染み深い、温かくたくましい微笑みが浮かんでいた。
「本当にごめんなさいね、美雪」小春は座席で振り返り、娘に申し訳なさそうな笑顔を向けた。「同僚が急病で……旦那さんが急いで病院に担ぎ込んだらしくて、夜勤を代われる人を探して主任がパニック状態で電話をかけてきたのよ。現場にいた手前、断るわけにもいかなくてね」
美雪はドアノブに手をかけたまま動きを止め、心配と気遣いの混ざった視線を母親に向けた。「お母さん、朝の8時からずっと働いてるんでしょう? そこから徹夜で二重シフトなんて……本当に大丈夫なの?」
「お母さんの心配なんていらないわよ」小春は軽く手を振ってクスッと笑った。「出産なんだから仕方ないじゃない。フロアマネージャーも残業手当はちゃんとつけるって約束してくれたしね。それに赤ちゃんが生まれるのはみんな楽しみだし、この臨時収入で夏の予算も潤うわ。それに、葵さんに電話したら、喜んで泊めてあげるって言ってくれたしね」
「葵さんは、いつもお優しくしてくださるものね」美雪は呟き、冷たい夜の空気の中へと足を踏み出した。
美雪が助手席のドアを閉めようとしたその時、小春は疲れの残る目に突然いたずらっぽい光を宿らせ、コンソール越しに身を乗り出してきた。その唇の端には戯れるような笑みが浮かんでいる。
「また明日ね、美雪」小春は声を落とし、内緒話でもするような囁き声でからかった。「……でも、あなたってちょっとラッキーじゃない? イケメンの彼氏と同じ屋根の下で一晩中過ごせるなんてね?」
美雪は凍りつき、一瞬で両頬を真っ赤に染めた。「お、お母さん!?」
小春は楽しそうに声をあげて笑った。「覚えておきなさいよ、お嬢さん」彼女はコンコンと咳払いをした。「あなたたちはまだ高校生なの! *そういうこと* をするのは、まだ早すぎるんだからね。分かった?」
「お母さん、もうやめてよ!」美雪は顔を鮮やかな朱色に染めながら言い返し、思った以上に強く車のドアをピシャリと閉めた。
下ろされた窓越しに、小春は明るく手を振ってからドライブに入れて車を発進させ、通りを去っていった。美雪は数秒間歩道に立ち尽くし、胸の中で跳ね回る羞恥心を押し殺そうと両手で熱くなった頬を押さえてから、天道家の方へと振り向いた。
深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、美雪は短い石畳の小道を歩き、玄関のドアを優しくノックした。
10秒も経たないうちに、重厚な木製のドアが滑らかに開いた。温かい黄金色の光の中に立っていたのは、天道葵だった。鮮やかなオレンジ色の長い髪は緩く編まれて肩に垂れ、若々しく輝く笑顔は、夜の8時32分の冷気を一瞬にして吹き飛ばした。
「美雪ちゃん!」葵は歓声をあげると美雪を抱きしめ、その明るい瞳を心からの喜びで細めた。「いらっしゃい!」彼女は抱きしめていた腕を解きながら出迎えた。
「こんばんは、葵さん」美雪は丁寧におじぎをし、清掃の行き届いた玄関に入って靴を脱いだ。「急なお願いでしたのに、今夜は泊めていただいて本当にありがとうございます」
「もう、固いこと言わないの! ここはいつだってあなたの家みたいなものなんだから」葵は手でおざなりに、けれど愛おしそうに手を振りながら言った。彼女は廊下の奥へと向き直った。そこからは、豚の角煮と出汁、そして炊き立てのご飯のたまらない香りが漂っていた。「最高のタイミングで来たわね。ちょうど今夜の夕食が出来上がったところよ」
葵はエプロンを解いてフックに掛けると、意味深で密やかな笑みを浮かべて美雪に振り返った。
「美雪ちゃん、ちょっとお願いしてもいいかしら? 2階の拓海の部屋に行って、ご飯ができたって伝えてきてくれる?」
美雪はパチパチと瞬きをし、無意識のうちに泊まり用バッグのストラップを握りしめた。「あの……葵さんが下から呼んであげるわけにはいきませんか?」
「ふふっ!」葵はクスッと笑い、美雪の肩に手を置くと、2階へ続く木製の階段の方へと優しく背中を押した。「母親が『ご飯よ』って呼んだって、十中八九無視されるのがオチだからね。でも、可愛らしい彼女が呼びに行けば、クロックアップよりも早く下りてくるわよ。ほら、行ってらっしゃい!」
「クロックアップ……?」
美雪はその言葉に首をかしげたが、軽く押し出されるまま、磨かれた木製の階段を上り始めるしかなかった。
一歩一歩が妙に重く感じられた。みぞおちのあたりで、静かでソワソワとした緊張感が渦巻き始める。奇妙な感覚だった。
それもそのはず……
彼女と拓海は幼馴染で、お互いの庭で遊び、学校へも一緒に通い、10年もの間、食卓を共にしてきた仲だった。けれど、静かな2階の廊下に立ち、突き当たりにある閉ざされた木製ドアを見つめていると、現実が重くのしかかってきた。
彼の『彼女』になってから、彼の個人部屋に足を踏み入れたことなど一度もなかったのだ。
杉の木と清潔なリネンの微かな香りが強くなる中、彼女は廊下をゆっくりと進んだ。彼の名前が刻まれた小さな木製プレートがかかるドアの前で立ち止まり、美雪はノックしようと手を挙げた。
だが、関節が木に触れる前に、ドアが完全には閉まっていないことに気づいた。わずか数ミリほど開いており、隙間から部屋の中の温かな黄色の光が漏れ出ていた。
美雪は喉のつかえを飲み込み、あばら骨の裏で早鐘を打つ鼓動を感じた。手を伸ばし、ドア枠に優しく指先を添える。
「拓海くん……?」美雪は小さな声で呼びかけた。その声には繊細なためらいが混ざっていた。「お邪魔するわね……」
彼女がドアを押し開けると――
「変ーーーー身!」
鏡の前で妙なポーズを決めている彼氏の姿が目に飛び込んできた。彼女の視線はすぐに、彼の腰にあるベルトのバックルのようなものへと向けられる。
ベルトと呼ぶには大きすぎるそのバックルには、ライオンの顔らしき意匠があしらわれていた。
『セット』
『オープン』
美雪がポカンとした表情で部屋のドア枠に立っているのに気づき、拓海の顔が跳ねるように彼女の方へと向けられた。
『ライオン!』
『ライオン!』
――カシャッ!
美雪のスマートフォンからフラッシュが焚かれた。
一方の拓海は、カンフーのような変な構えのままフリーズし、気まずそうに歪んだ笑みを浮かべた。
「あ、あれ……美雪ちゃん。もう……着いてたの?」
美雪はさっき撮ったばかりの写真をスマホで確認しながら、小さく頷いた。
「お母さんが、夜ご飯だって」美雪は親指で階下を指さした。
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天道家の食卓は、低く吊り下げられたペンダントライトの温かみのある琥珀色の光に包まれていた。煮物、照り焼きの豚肉、味噌汁、白ご飯が盛られた小さな小鉢が並び、温かく団らんとした家庭の光景を作り出している。
「んん……葵さん、すごく美味しいです!」豚の角煮を一口食べた美雪は、柔らかく微笑んだ。「味がしっかり染みていて」
「好きなだけお食べ、美雪ちゃん!」葵は両頬を手に乗せ、向かいに座る高校生二人を見つめながら嬉しそうに微笑んだ。「最近ちょっと顔色が悪いみたいだったから。中間テストのお勉強、頑張りすぎてるんじゃない?」
拓海はご飯を呑み込み、箸を置いた。「本当にそうなんだよ。なあ、母さん、昨日なんて図書館で寝落ちしてたんだぜ?」
「どの口が言ってるのよ」美雪はジト目を向けながら言い返した。「拓海くんこそ、ノートパソコン叩くスピードが速すぎてキーボードから火が出るかと思ったわ」
ノートパソコンという言葉に葵の目が輝いた。彼女は明るく好奇心に満ちた視線を美雪に向けた。「あ、そういえば美雪ちゃん、拓海から小説のプロジェクトのこと、もう見せてもらったかしら?」
美雪は湯呑みを置き、優しく頷いた。「はい、葵さん。部活の時間にも毎日原稿を執筆しているんですよ」
「でしょう!?」葵の顔に、隠しきれない母親としての誇りが満ちあふれた。彼女はテーブル越しに身を乗り出し、熱のこもった囁き声で美雪に言った。「今朝ね、大手Web小説プラットフォームに章を投稿し始めるつもりだって言ってきたのよ! 信じられる? うちの小さな拓海が、インターネット上の作家さんになるのよ!」
拓海の顔が一瞬で真紅に染まった。「お、お母さん! やめてよ! 大げさに言わないでくれよ!」
「どうしてダメなのよ、拓海」葵は軽くふくれっ面をして胸に手を当てた。「昨日キッチンカウンターに置いてあった最初の3章、読ませてもらったわよ! あれを読んだらね、ネットの人たちに見つかったらあっという間にみんなに愛される作品になるって確信したわ」
拓海は首の後ろをかき、お椀を見つめながら椅子の上で少し身を縮こまらせた。「そんな大層なもんじゃないって……ただの趣味の原稿だしさ。Web小説の市場なんて凄い書き手で溢れ返ってるんだ。僕の物語なんて、きっと他に何千とある投稿の中に埋もれて終わりだよ……」
「もう……自分の息子を安売りしないでちょうだい!」葵は味方を求めるように美雪へ向き直った。
「美雪ちゃん、この子の文章読んだでしょう? 言ってやって! この子に凄い才能があるって、美雪ちゃんもそう思うでしょう?」
美雪はテーブルの向こうの拓海を見つめた。その瞬間の彼は、あまりにも無防備に見えた。
肩を少しすぼめ、目を自分の料理に落とし、自虐という盾の裏で必死に緊張と期待を隠そうとしている。
美雪の唇に、優しく心からの笑みが広がった。「葵さんの言う通りだよ、拓海くん」彼女の声は静かだったが、揺るぎない誠実さに満ちていた。「拓海くんの文章はとても分かりやすいし、登場人物の描き方が魅力的だから、読む人は本気でそのキャラたちのこれからを応援したくなるの。きっと一晩で何千人もの人に届くよ」
拓海は顔を上げ、美雪と目を合わせた。彼女の褒め言葉によって肩の緊張が目に見えてほぐれ、その代わりに静かで誇らしい温もりが宿り、恥ずかしそうな笑みが彼の唇に戻ってきた。
「ありがと、美雪ちゃん……」
葵は誇らしげにニッコリと微笑み、パンと手を叩いた。「ほらね! 間違いないわ! さあ、二人ともご飯を食べ終えちゃいなさい。今夜は勉強も――執筆も――たっぷりあるんだからね」
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1時間後、食卓は片付けられ、美雪は拓海の部屋の畳まれたラグの上に座っていた。
部屋は綺麗に整理整頓され、木工用ワックスと紙の微かな香りが漂っていた。床の中央には低い木製の勉強机が置かれ、開かれた教科書、色分けされた蛍光ペン、そして現代史と文学の試験用参考書が広がっている。
そして、趣味のためのスペースも少々。
ミニカーや、『J』の文字が入った紫色のUSBメモリ、フルーツのモチーフと組み合わされた南京錠のようなもの、さらにはロボットのような模様や金型がついたカプセル状の物体まで並んでいた。
そして、山のようなベルトのバックル。
2時間近くの間、部屋に響いていたのはシャーペンが紙を走る音、ページをめくる静かな音、そして時折聞こえる拓海のノートパソコンの冷却ファンの駆動音だけだった。
拓海は彼女の向かいにあぐらをかいて座り、光るパソコンの画面を凝視していた。Web小説の投稿ページはすべて記入済みだ。
タイトル、ジャンルタグ、あらすじ、そして第1話の本文が、ポータルの入力欄にきれいにフォーマットされている。
しかし、彼の指はタッチパッドの上で固まったままで、カーソルは『章を投稿する』と書かれた鮮やかな青いアイコンの直前で細かく震えていた。
「拓海くん?」美雪は歴史のノートから顔を上げ、頬杖をついた。「そのボタンひとつを、もう10分も見つめてるわよ」
拓海は長く震える息を吐き出し、茶髪を手でかきむしった。「分かってるんだけどさ……ただ……なんていうかさ……これを押したら、もう世に出ちゃうんだろ。みんなが読むんだ。もし面白くないって思われたら? もし誰一人として見向きもしてくれなくて、読みたいとも思ってくれなかったら? もし――」
美雪は彼に最後まで言わせなかった。
低い机越しに身を乗り出すと、彼女は手を伸ばし、タッチパッドの上の彼の手に自分の手をそっと重ねた。拓海が反応する間もなく、彼女は人差し指でぐっと力強く押し込んだ。
「はい……送信!」
パソコンの画面が一瞬明滅した。青い投稿ボタンは消え去り、代わりに鮮やかな緑色の確認バナーが点滅表示された。
『第1話の投稿が完了しました!』
拓海の目が飛び出さんばかりに見開かれた。「み、美雪ちゃん!?」彼はパニックに陥り、緑色のテキストを見つめながら頭を抱えた。「な、なにやってるんだよ!? まだ心の準備ができてなかったのに! 最後の段落の誤字チェックも終わってなかったんだぞ!」
美雪は正座をして腰を落とし、両手を後ろにまわした。顔に悪戯っぽく自信に満ちた笑みを浮かべ、お茶目にウィンクしてみせる。
「あの段落の誤字チェックなら、もう5回もやったでしょう、作家先生」彼女は滑らかに言った。「私が押してあげなかったら、子供ができるまであのボタンを見つめ続けるつもりだったでしょう?」
「ほら」美雪は拓海の肩をポンと叩いた。「ここまで頑張ってきたんだから。自分の才能を信じなよ」
拓海は呆然とした様子で数秒間美雪を見つめた。最初のパニックの波は次第に引き、代わりに突然の圧倒的な安堵感が押し寄せてきた。彼は息を吐き出すようにフッと笑い、ベッドのフレームに背中を預けながら首を振った。
「君には時々、本当にかないないよ」愛おしそうに目を輝かせながら、彼は静かに言った。
「でも、うまくいったでしょう?」美雪は目を可愛い三日月型に細めて答えた。
過酷な勉強セッションから息抜きをするため、拓海はクローゼットに手を伸ばし、使い古された青いプラスチックのデッキケースを取り出した。彼は小学生の頃からの共通の趣味である『遊戯王』のカラフルなデッキカードをシャッフルしながら、懐かしそうな笑みを浮かべて机に戻ってきた。
「勉強休憩タイムだ、優等生さん」拓海は宣言した。「君の運の良さが成績と同じくらい強いかどうか、試してみようか」
美雪は微笑み、ケースから自分のカスタムデッキを受け取った。「私のエクゾディアにライフポイントを吹き飛ばされても、泣かないでね」
ノートの間に小さなスペースを作り、二人はプレイマットを広げた。続く20分間、部屋は幼少期からの馴染み深い心地よいリズムで満たされた――カードを引き、攻撃を宣言し、奇想天外なモンスター効果にたわいもない冗談を言い合う。
しかし、拓海の手札にかがみ込み、モンスターの攻撃力を注意深く計算しながら次のターンを練っていると、美雪の動きが鈍くなった。
彼女は低いテーブル越しに彼の顔を見つめた。温かいランプの光に照らされた彼の柔らかい顔立ちは完全に無防備で、警戒というものがなかった。彼は紛れもなく優しく、穏やかで、二人が共有する静かで平和な生活に全身全霊を捧げていた。
突然、温かい部屋に忍び込む招かれざる幽霊のように、図書館でのユリの鋭い声が、美雪の頭の中で恐ろしいほどの鮮明さで響き渡った。
『良い関係って魔法じゃ動かないのよ、美雪ちゃん。必要なのはちゃんとした対話……彼からの優しさが当たり前だからって、決して甘えちゃダメ……』
そしてユリの声のすぐ後ろから、悪夢の恐ろしく冷たい囁きが追いかけてきた。
嘲笑する群衆、マサト・レンという名の金髪の少年が突然現れたこと、探していた拓海の血まみれになり破壊された顔の恐ろしい光景。
美雪の胃の奥深くで、冷たく重い結び目がキュッと締め付けられた。激しい葛藤の波が彼女の胸を突き抜ける。
彼女は拓海を見た。本当に、彼を見つめた。
彼女は、この静かな日常を破り、自分の心の中にある奇妙な空虚さについて、現実に滲み出し始めている付きまとう悪夢について、二人の10年間の絆が本当に二人にとって十分なのかどうかについて、彼と話さなければならないという切迫した絶望的な欲求を感じた。
彼女の唇が開いた。息が喉につかえる。
「拓海くん……」美雪は囁くような声で切り出した。その声には突然の重みが宿り、部屋の中に重く漂った。「私……」
拓海はマットの上にカードを1枚伏せ、顔を上げた。明るく澄んだ瞳が、まったく無邪気な好奇心を湛えて彼女の目と交差した。
「ん? どうしたの、美雪ちゃん?」
美雪の胸が小さく上下した。口を開き、言葉を絞り出そうとする……二人の関係が停滞していると感じたことはないか、と尋ねるために――
「あ! 忘れるところだった」拓海が声を張り上げた。思い出したかのように顔を輝かせ、彼女の思考の糸を完全に断ち切った。「さっき言い忘れてたんだけどさ。明日の朝、僕らの2年B組の歴史の授業で、埼玉へ公式の校外学習に行くんだ」
美雪はパチパチと瞬きをし、用意していた告白は瞬時に砕け散った。「え……埼玉へ校外学習?」
「うん」拓海は頷き、散らばっていたトラップカードをマットから拾い集めた。「2-Bの必須の歴史ツアーなんだ。城跡と地元の博物館……あとスタジアムに行く予定だよ。1時間目が終わったらすぐ出発して、戻るのは夕方遅くになるかも」
彼は少し身を乗り出し、いたずらっぽいニヤリとした笑みを浮かべて彼女を見た。「なーにその顔、美雪ちゃん? 彼氏が丸一日いなくて、寂しくなっちゃう?」
美雪は一瞬、凍りついた。あまりにも突然のニュースに完全に出鼻をくじかれたのだ。明日彼がいないという事実が明かされたことで、彼女の心に妙な波紋が広がった……。
失望と、そして予期せぬ、罪悪感を伴う解放感。
彼女は素早く平定を装い、自分なりの手慣れたニヤリ顔で内面の混乱を押し隠した。腕を組み、わざとらしく突っ張ねるように頭を後ろに傾ける。
「私が? 寂しい? まさか」美雪は軽く鼻で笑い、声に皮肉を混ぜ込んだ。「むしろ、拓海くんの小説で邪魔されずに集中して勉強できる静かな時間が手に入るわ。それにユリちゃんや他の友達とも遊べるし。全然平気よ」
拓海は彼女のからかいにも動じず、明るく温かい笑い声をあげた。「痛たた。相変わらず辛辣だなあ、美雪ちゃん」
彼はデッキを持ち上げ、机にトントンと叩きつけて整えてからプラスチックケースに滑り込ませた。そうしながら、彼の表情は静かで思索的なものへと和らいでいった。
「友達と言えばさ、美雪ちゃん……」
拓海は呟き、視線を書棚に飾られた写真立てへと滑らせた。そこには、夏の太陽の下、泥だらけになって笑い合う3人の幼い子供たちが写っていた。
「……優斗に最後に会ってから、本当に随分経つよね」
美雪の目も、彼の視線を追って写真へと向かった。
優斗。もう一人の幼馴染で、中学時代、3年前に別の地区へ引っ越していった男の子。
「そうね……」美雪は静かに同意し、その声には真の懐かしさと穏やかさが漂っていた。「本当に久しぶりね」
「あいつ、新しい学校で元気にしてるのかな」拓海は静かに言い、小さく息を吐きながらカードケースを傍らに置いた。「またいつか、みんなで集まりたいな……」
美雪は答えなかった。窓の外の静かな闇がガラスを押し付け、目に見えない避けられない『明日』の訪れを運んでくる中、彼女はただ写真を見つめ、それから拓海を見つめていた。
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晴れ渡った日の午後であるにもかかわらず、足下のコンクリートは氷のように不自然に冷たかった。
濃い青紫色の空の下、美雪は街の歩道を歩いていた。通りには人っ子一人おらず、街角の端でたった一つ温かい光が灯っているのを除いて、店は静まり返り暗かった。
一歩を踏み出すごとに絶大な意志の力を必要とするほど、胸が押しつぶされそうな息苦しい重みに苛まれていた。
彼女は『花道カフェ』の窓の前で立ち止まった。
ガラス越しに、カフェの店内を照らす柔らかい琥珀色の光を浴びて、拓海が座っていた。
磁器のカップを手に、ここ数ヶ月見たこともないほど晴れやかな顔で静かに笑っている。
彼の向かいに座っていたのは、紡がれた絹のように光を拾う長い金のウェーブ髪の少女……美雪が直感的に『凛』だと認識した少女だった。
鋭い嫉妬の痛みが美雪の喉元で弾けた。
ガラスを叩き割り、なぜ自分の場所に別の女の子が座り、自分のものであるはずの静かな温もりを楽しんでいるのか問い質したかった。だが、指を胸骨に押し当てた瞬間、その怒りは胸が悪くなるような蝕むような自己嫌悪へと溶けていった。
彼女には怒る権利などなかった。
苦痛に満ちた罪悪感の波が胸を切り裂き、入ってこない空気を求めて喘いだ。
割れたガラスのように、支離滅裂で恐ろしい光景が彼女の視界をよぎる――
学校の廊下での排斥運動、拓海の机に赤の油性ペンで殴り書きされた卑劣な誹謗中傷、蹴り開けられてゴミを詰め込まれたロッカー、そして……拓海を加害者だと世界中に決めつけさせた後、彼が衆人環視の中で打たれるのをただ見つめて立ち尽くす「傷ついた悲劇のヒロイン」の自分。
「ここで何をしているの、美雪」
その声は虚ろで、人の温もりなど一切感じられなかった。
美雪は振り返った。舗装路の上の背後に立っていたのは天道葵だった。鮮やかなオレンジ色の髪は後ろでまとめられていたが、その顔は完全に空白で、目は塗りつぶされた黒いガラスのように暗く無機質だった。
美雪は引きつる唇を猛烈に震わせながら、作り笑いを浮かべようとした。
「あ、葵さん……こんばんは。あの……拓海……くんは、中に……?」
「中にいるわ」葵が答えた。その声はあまりに冷たく、毒を含んだ音域まで落ち込み、二人の間の空気までもが凍りつくかのようだった。「けれど、彼はあなたのためにここにいるんじゃないのよ、お嬢さん」
美雪はカフェのドアに向かっておそるおそる一歩を踏み出した。「私……私、ただほんの少し彼とお話ししたくて――」
「二度と私の息子の近くに寄らないで」葵が鋭く遮った。
美雪は凍りつき、全身の血が凍りついた。
「朝比奈美雪」
フルネームを呼ばれた瞬間、彼女は自分が法廷に立つ犯罪者になったかのように感じた。
「私が息子の裏であなたがずっと何をしてきたか、知らないとでも思っているの?」葵の空虚な目が細められ、恐ろしい静かな怒りを閃かせた。「拓海があなたのコソコソした行動に気づくずっと前に……私は見いていたわ。あなたが他の男と一緒にいるのを。拓海ではない男とね。あなたがその男に向ける視線も、そして……世界をすべてを手に入れたかのような、あの不快な笑みも」
「違います……葵さん、お願いです……」美雪は息を呑み、目に涙を浮かべた。
「あの金髪の男と一緒にいるのを見た時、どれだけ長く付き合っていたとしても、二人で円満に別れたのだと思っていたわ」葵の切り裂くような声が続いた。「けれど、私の息子はデートのはずだった誕生日に……打ちひしがれて帰ってきた。壊されて。あなたがデートをするはずだったその日に、自分の部屋で壁を見つめて座っている息子の姿を見て、すべてが確信に変わったのよ」
葵は美雪に指を突きつけた。「あなた……あなたは息子の背中で不貞を働いたのよ、美雪。息子の信頼を壊した。これまで彼があなたに注いできた優しさを、何でもないものみたいに踏みにじったのよ」
「ごめんなさい!」美雪はすすり泣き、ついにまつ毛から涙が溢れ出て頬を焼いた。「ごめんなさい、葵さん! そんなつもりじゃ――」
「謝るなんて、あまりにも遅すぎるわ……」葵は静かに言い、一歩近づいた。彼女の影が美雪を丸ごと呑み込んでいく。「二度と、私たちの前にその顔を見せないで」
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光景が一瞬で粉砕された。
美雪はもう通りにはいなかった。母親の車の助手席に座っていた。
エンジンが低く一定の音を立てていた。隣で小春は、ナックルが真っ白になるほど強くハンドルを握りしめていた。小春の顎は硬い線を描き、目は前方の暗い道路を見つめ、美雪が生まれて一度も見たことのないような、静かで息の詰まるような怒りを放射していた。
母親は、二人を粉々に打ち砕いてしまうような言葉を必死に押し殺しているのが目に見えて分かった。
――フラッシュ。
車が消えた。美雪は無機質な白い病室に立っていた。消毒液のツンとした匂いが鼻を刺す。
病床に横たわっていたのは小春だった。過酷な照明の下で、その顔は蒼白でやつれ、病々しかった。深い絶望と傷心に満ちた瞳で美雪を見つめている。
「どうして……美雪?」小春は痛々しく途切れ途切れの声で囁いた。「どうして拓海くんをあんな風に裏切れたの? あのご家族が私たちのためにしてくれたすべての後に……」
「お母さん……ごめんなさい……」美雪は母親の冷たい手を握りしめ、泣きじゃくった。「ごめんなさい……」
突然、小春の目がカッと見開かれた。
彼女は絶望的で激しい力を振り絞り、腕から点滴の管を引き抜くと、病衣をなびかせながらベッドから脚を滑り出させた。
「お母さん! 何してるの!?」美雪は悲鳴をあげた。
「行かなきゃ!」小春は激痛に体を折り曲げながら叫び、ドアに向かって這うように進んだ。「葵さんの家に行かなきゃ! あなたがしでかした愚かなことのために、頭を下げて葵さんに許しを乞わなきゃいけないの! たとえ私が死ぬことになったとしても!」
「お母さん!」
二人の看護師がドアから駆け込み、必死に小春の腕を掴んでベッドに引き戻そうとした。小春が泣き叫び暴れる声が、無機質な廊下に響き渡り――
――フラッシュ。
病院の光景が荒れ狂う風の中に溶けていった。
美雪は高校の屋上の縁に立っていた。足下には暗く底のない深淵が広がっている。
冷たい風が彼女のスカートと髪を荒々しく吹き散らす。
暗闇を見下ろすと、恐ろしいほど鮮明な自覚が彼女を包み込んだ。自分は拓海を台無しにした。母親の心を壊した。自分を愛してくれたすべての人にとって、自分は毒だったのだ。
「もしかしたら……」美雪は足先をフチからわずかに滑らせながら、空に向かって呟いた。「……私が死んだら、全部うまくいのかな」
「これ以上拓海くんを苦しめるのはやめなさいよ、朝比奈美雪」
美雪は息を呑み、バッと首を振った。屋上のドアのそばに立っていたのは凛だった。
金の髪が強風の中で激しくなびいている。その青い瞳は冷たく、軽蔑に満ちていた。
「今あなたが跳んだら、彼をもっと苦しめるだけでしょ。彼から十分なものを奪ったんじゃないの?」
---
――美雪の目がカッと見開かれた。
喉から鋭く激しい喘ぎが漏れた。心臓は囚われた鳥のようにあばら骨を叩きつけ、全身が冷たく震える汗でびしょ濡れになっていた。
彼女は柔らかいマットレスの上に横たわっており、周囲には杉の木の微かで心地よい香りが漂っていた。
ブラインド越しに月光の淡い銀色の光が差し込み、壁のポスターを照らしている。
拓海の部屋に戻ってきていたのだ。
すぐ隣で、同じ毛布に入ってすやすやと眠っていたのは拓海だった。彼の胸はゆっくりとした穏やかなリズムで上下し、月光に照らされた顔は完全に落ち着いていた。
突然、圧倒的な感情の波が美雪の胸から押し寄せてきた。抑える間もなく唇から途切れた嗚咽が漏れ、声もなく眼から涙が溢れ出た。
拓海が身動きをした。瞼がうっすらと開き、眠気でかすんだ茶色の瞳が彼女を見つめた。
「美雪ちゃん……?」彼は掠れた声で呟いた。「どうしたの? 怖い夢でも見た?」
美雪は言葉が出なかった。胸に押し寄せる切ないほどの安堵感のせいで、言葉を形にすることができない。
代わりに、彼女は彼の肩に腕をまわし、首筋に顔をうずめて自分の体を彼の胸に押し付けた。
一瞬でも手を離せば彼が空の中に溶けて消えてしまうのではないかと怖れるように、必死の思いで彼にしがみついた。
拓海は瞬きをして眠気を吹き飛ばし、体が本能的に反応した。
それ以上何も尋ねなかった。ただ彼女の腰に腕をまわして抱き寄せ、彼女の髪に優しく頬を寄せた。
「大丈夫だよ……」拓海は優しく囁き、彼女の背中をゆっくりとしたリズムでトントンと叩き始めた。「僕はここにいるよ。ただの夢だよ、美雪ちゃん。僕はここにいる」
美雪は彼の綿のシャツに顔をうずめて静かに泣きじゃくり、頬の下で彼の胸の確かな温もりを感じ、心臓の規則正しく安心感のある鼓動に耳を傾けた。
拓海が背中をトントンと叩き続け、彼女を宥めて落ち着かせている間、美雪は片手を下に伸ばし、枕の下からスマートフォンを取り出した。
暗闇の中で、画面が彼女の涙に濡れた顔を照らし出した。
メッセージアプリを開き、マサト・レンの連絡先ページに進むと、オプションアイコンを押して【連絡先を削除】をタップした。
ダイアログが点滅した。
『この連絡先を削除してもよろしいですか?』
美雪は何の迷いもなく【はい】を押した。
彼女は画面を消し、スマホを床に滑り落とすと、拓海の胸に深く顔をうずめ、彼の静かな温もりに夜の残影を溶かしていった。
---
朝の太陽が鮮やかで眩しい光を放ち、街の上に差し込んだ。
美雪は一人、お泊まりバッグを肩にかけ、並木道の歩道を学校の門に向かって歩いていた。清々しい朝の空気が肌に心地よく、昨夜の感情の嵐のせいで目は少し重かったものの、胸はここ数週間で最も軽やかだった。
「美雪ちゃーん!」
後ろから聞き覚えのある大きな声が響いた。
美雪が振り返ると、坂道を駆け上がってくるユリの姿があった。短めの緑色の髪がリズムよく揺れ、ショルダーバッグを斜めがけにしている。
「おはよう、ユリちゃん」美雪は柔らかく微笑み、隣に追いついて歩き出した友人に挨拶した。
ユリは周囲を見回し、その鋭い緑色の瞳で、いつも美雪の半歩後ろを歩いている背の高いオレンジ髪の少年がいないことに即座に気づいた。
「あら?」
ユリは片眉を上げ、その瞳にいっそうの悪戯っぽい光を宿らせた。
「今日の騎士様はどうしたの、小鳥ちゃん? 喧嘩でもしたの?」
「拓海くんは今日いないの」美雪は校門をくぐりながらスムーズに答えた。「歴史のクラスが、今日の夕方まで埼玉へ校外学習に行ってるのよ」
ユリの顔に、邪悪で意地悪なニヤリ顔が大きく広がった。彼女はこのチャンスに飛びつくのに一瞬の躊躇も見せなかった。
「へえー? そうなの?」ユリはあごに指を当て、混み合う中庭に響き渡るほどの大きな声を張り上げた。「じゃあ、学年トップの優等生さんが、丸一日寂しい見捨てられた彼女になっちゃうってわけ!? なんて可哀想! 大好きな拓海くんに手を握ってもらわないで、どうやって過ごすつもりなの、小鳥ちゃ〜ん!?」ユリは美雪の周りをクルクルと回った。
「ユリちゃん! 声……声が大きいよ!」美雪は息を呑み、一瞬で顔を真っ赤に染めた。
近くにいた生徒たちが振り返り、やり取りを見ながらクスクスと笑った。2年生のグループが美雪の恥ずかしがる反応を見て温かい微笑みを浮かべ、朝の空気にからかうような囁き声が漂う。
「見て、顔真っ赤じゃん!」
続いて、スマートフォンからカシャカシャと数回のシャッター音が響いた。
「もうやめてよ、ユリちゃん!」美雪は火照る顔を両手で覆い、昇降口に向かって足早に進んだ。ユリは滅多に見られない友人の狼狽ぶりを楽しそうに笑いながら、すぐ後ろをついていく。
ユリのからかいにもかかわらず、一日が進むにつれて拓海がいないという現実が重くのしかかってきた。
隣に彼がおらず、昼休みの中の彼の静かな笑い声もなく、廊下での彼の穏やかな気配もない。学校で過ごす時間は妙に空虚で、永遠のように感じられた。午後の自習時間、美雪は3階の廊下を当てもなくさまよっていた。手には……




