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胡蝶の夢  作者: Nameless
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歪み

歪みは、雷鳴とともに訪れるわけではない。


それは、ありふれた午後に生じた静かな掛け違いから始まる。


微かな不満の糸が手繰り寄せられ、穏やかな日常という聖域が、ゆっくりと形を歪ませていくのだ。


平穏な今と、まとわりつく悪夢との境界線が薄れゆくとき、


どれほど柔らかな温もりであっても、今にも砕け散ろうとする儚い錯覚のように思えてくる。



放課後の柔らかな陽光が図書館の窓から差し込み、磨き上げられたオーク材の机の上に、光と影の黄金模様を描いていた。館内には古本特有のどこか懐かしい乾燥した紙の匂いが満ち、壁時計が刻む規則正しい音、ページをめくる掠れた音、そして肌寒ささえ感じさせる空調の風音が静寂を際立たせていた。


窓際の角席で、ミユキは黒い無地の表紙の分厚い本をノートの脇に立てかけ、方眼用紙の上にシャープペンシルを走らせていた。間近に迫った中間試験に向け、数学の公式を整然と書き連ねていく。だが、幾何学的なその美しい筆跡とは裏腹に、彼女の意識は完全に集中を欠いていた。昨日見た悪夢の残像——タクミの氷のように冷ややかな瞳と、自分を取り囲む群衆の息詰まるような嘲笑——が、頭の裏側に固びりついた不快なシミのように拭えずにいたのだ。なぜあれほど鮮明に覚えているのか、自分でも分からなかった。


椅子が床を擦る静かな音が、彼女の思考を途切れさせた。


隣の椅子が引かれ、一人の少女が軽やかな身ごなしで滑り込んできた。顔を向けると、肩まで伸びた短い緑髪に、印象的な同色の鋭い瞳を浮かべた少女がそこにいた。


「ユーリちゃん……」


ミユキが低く囁くと、その瞳にわずかに彩りが戻った。


ユーリは背もたれに寄りかかり、肘をついて意地悪な笑みを口元に浮かべた。「流石は優秀なお手本様ね。他の誰も教科書すら開いてないってのに、何日も前から試験勉強? 怠け者の私たちへの当てつけかしら」


ミユキはペンを置き、力無く小さな笑いを漏らした。


ユーリは静かな室内をぐるりと見回し、散らばった参考書に視線を走らせると、ミユキの向かいにある空席に目を留めた。「ところで……例の『騎士様』の姿が見えないけど? 当然、あんたの隣に侍ってるものと思ってたんだけど」


「タクミくん?」ミユキは入口の方を指差した。「飲み物を買いに行ってくれたの。私、少し休みが必要に見えたみたいで」


ユーリは呆れたように首を振りつつ、感心したようなため息をついた。「はあ、まったく理想の彼氏様さまね。常に気配りを忘れず、愚痴ひとつ言わず、ドリンクまで席に届けてくれるだなんて。最高の当たりくじ引いたわね、ミユキちゃん」


ミユキはノートに目を落とし、指先で紙の端を撫でた。耳にタコができるほど聞かされた言葉だった。誰しもがタクミを理想の恋人、幼馴染から結ばれた完璧なパートナーと称える。だが、その称賛が胸の奥に沈み込むたび、肋骨の下で歪で空虚な摩擦音が鳴り響くのだ。


「配慮ができる人なのは……分かってるの」ミユキの声が低く沈み込み、その重みに友人はすぐさま反応した。「本当に優しい人よ。でも……」


ユーリのふざけた雰囲気が一瞬で霧散した。眉をひそめて首をかしげ、鋭い緑の瞳でミユキを射抜く。「『でも』? その『でも』ってどういう意味?」


ミユキは躊躇し、シャープペンを握る指に力を込めた。その思いは数ヶ月前から煙のように胸の中に渦巻いていた。浅ましく、身勝手な感情だと分かっていたからこそ、言葉にするのは危険だと感じていたのだ。「その……時々ね、もう少しだけ……ロマンチックだったらいいのにって、思っちゃうの」


重苦しい静寂が、図書館の静けさ以上に重くテーブルの上に落ちた。


「ロマンチック……ですって?」ユーリは先ほどまでのからかいを完全に削ぎ落とした声で、ゆっくりと反復した。「彼がしてきたこと全部、あんたにはロマンチックに見えないわけ?」


「違うの! そういう意味じゃなくて!」ミユキは慌てて手を振った。「つまり……」


息を深く吸い込み、恩知らずに聞こえないよう必死に言葉を探す。


「私たちの関係って……どこにも進んでいない気がするの。10年も一緒にいて、一緒に歩いて、一緒にご飯を食べて、一緒に勉強して。心地いいけれど、あまりにも先が見えすぎてるの。熟年夫婦か、ただの日常の習慣みたいで。それが素晴らしいことなのは分かってる。でも……ずっと変わらないの」


「そこまで」


ユーリの声は平板で、あまりにも唐突な拒絶の響きを含んでいたため、ミユキは身体を強張らせた。ユーリは背筋を伸ばし、両手を木製のテーブルにべたりと置いた。


「ミユキちゃん」ユーリの瞳には、一切の冗談が失われていた。「容赦なく、本当のことを言わせてもらうわね。私には現実の恋愛経験なんてないし、彼氏がいたこともない。あんたたちの関係が、私が間近で見る初めての『本物の恋愛』よ」


彼女は身体を前に乗り出し、声を低く潜めた。


「でもね、小説を読み漁って、ドラマを観て、周囲のバカどもの愚痴を聞いてきた経験から言わせてもらえば——あんたが今自分から踏み込もうとしてるのがどんな愚かな道か、痛いほど分かるわ。あんたはね、一生後悔することになる破滅への道を、一直線に進んでるのよ」


見せたことのないユーリの迫覚に、ミユキは茫然と瞬きをした。口を開こうとしたが、ユーリは目の前にスッと人差し指を立ててそれを制した。


「分かってるわよ、ミユキちゃん。平和すぎて退屈してるのよ。あんたはね、安定と停滞を履き違えてるの」


一呼吸置き、静かに言葉を継ぐ。「今の時代、タクミくんみたいに優しい人がどれだけ貴重か分かってるの? 心からあんたを尊重してくれて、愛してくれて、笑顔も絶やさずに不満一つ言わずあんたの幸せを最優先にしてくれる。あんな人、ダイヤモンド並みの希少価値よ」


ミユキは喉の奥が詰まるのを感じながら、視線を落とした。


「いい人間関係は、魔法じゃ動かないの。コミュニケーションで成り立つものよ」ユーリの声は少し柔らかくなったが、厳しさは変わらなかった。「彼が自然に差し出してくれる優しさを、当たり前だと思わないこと。満たされないものがあるなら話し合いなさい。思っていることを伝えなさいよ。察してくれないからって、あるいは痛々しい自己満足の妄想小説の主人公みたいに振る舞ってくれないからって、一人で勝手に溜め込んで彼を逆恨みするのはやめなさい」


ミユキが返答を探す前に、じゅうたんが敷かれた通路から足音が近づいてきた。


緑茶の缶を二つ手にしたタクミが現れた。テーブルに座るユーリに気づき、彼は温かく微笑んだ。「あ、ユーリちゃん。こんばんは。ユーリちゃんも勉強?」


ユーリの鋭い表情は、恐ろしいほどの早さでいつもの軽薄な笑みへと溶けていった。彼女は滑らかな動作で椅子を引いて立ち上がる。「ううん、ちょっとこのお姫様を冷やかしに来ただけ。主役が戻ったなら、甘い二人だけの時間に身を引くわ」


トートバッグを肩にかけ、ミユキの横を通り過ぎる瞬間、ユーリは足を止めた。そしてミユキの耳元に身を寄せ、鋭く囁いた。


「さっき言ったこと、忘れないでね。バカな真似はやめなさいよ」


フリーズしたミユキを残し、ユーリはタクミに軽く手を振ると本棚の列の向こうへと消えていった。


タクミは冷えた缶の一つをミユキのノートの脇に置いた。塗装された金属の表面に、すぐさま水滴が結露していく。彼はユーリが立ち去ったばかりの椅子を引き、小さく安堵のため息をつきながら腰掛けた。


「二人で何話してたの?」タクミは自分の缶を『プシュッ』と静かに開けながら尋ねた。「僕が歩いてきた時、二人ともすごく真剣な顔をしてたけど」


ミユキは緑茶の缶の側面を滑り落ちる水滴を見つめた。ユーリの忠告が耳の奥で激しく響き渡り、自分の中に渦巻く割り切れない情念と激しく衝突する。彼女は顔を上げ、タクミの濁りのない無垢な顔を見つめた。そこには悪意も疑念も一切存在しなかった。


「大したことじゃないよ」ミユキは小さな笑みを作った。「テストの話をしてたの」


タクミはそれ以上追及しなかった。優しく頷いて彼女の答えを受け入れると、自分の現代史のノートを引き寄せた。「そっか。今期の一現代史、かなり難しそうだよね。第4章、一緒に復習しようか……」


ミユキはペンを握り直し、無理やり視線を紙の上に戻した。だが、二人の間に漂う静寂は、以前にも増して重苦しく感じられた。


---


気づけば、ミユキは自室の姿見の前に立っていた。彼女は今、首元に繊細な銀のネックレスを結び留めている。身に纏っているのは、オフショルダーの鮮烈な深紅のブラウスと、ダークトーンのスカート。


自分で買った記憶のない服だったが、鏡の中の自分は胸を躍らせ、興奮に心を揺らしていた。


胸が、電気のような刺激的な高揚感で跳ねる。


「ミユキ!」下から母親の声が響く。「デートなの? タクミくんが待ってるの?」


ミユキは鏡の中の自分を見た。その口元に、冷ややかで不遜な笑みが浮かぶ。自分のものではないような違和感を覚えながらも、身体は抵抗なくその表情を作っていた。


「うん! 街で待ち合わせしてるの!」


母親の追及を振り切るように明るく声を張り上げると、彼女はハイヒールに足を滑り込ませた。ハンドバッグを手に、甘美な高揚感に突き動かされるように家を飛び出す。


活気に満ちた昼下がりの繁華街を急いだ。アスファルトにハイヒールの音がリズム良く響く。


中央広場の噴水の傍らに、一人の青年が立っていた。ボサボサの金髪にがっしりとした肩幅、高級そうな黒のジャケットを羽織っている。石造りの縁に背を預けた不遜で無駄のない立ち姿は、すれ違う人々の視線を吸い寄せていた。


「マサト先輩!」


ミユキの声には、甘ったるい愛着が溢れていた。


レンが顔を上げると、その唇に鋭く独占欲に満ちた笑みが広がった。彼は一歩踏み出し、ごく自然に彼女の腰に手を回して引き寄せた。「待たせたな、ミユキ」


「ごめんなさい」彼女はクスリと笑い、躊躇することなく彼の体温に寄り添い、その指に自分の指を絡ませた。


二人は手を繋いで混み合うショッピング街を歩いた。笑い合い、ショップのウィンドウを覗き込み、一つのジェラートを分け合った。ミユキはこれまでに味わったことのないスリルを感じていた。それは、彼女の全存在を呑み込むような、激しく予測不能なエネルギーだった。


——その時、周囲の空気が凍りついた。


「ミユキちゃん……?」


声は小さく、掠れ、純粋な絶望に震えていた。


ミユキは足を止めた。ゆっくりと振り返る。数歩離れた場所に、地元のパン屋の紙袋を手にしたタクミが立っていた。彼の目は限界まで見開かれ、固く結ばれた二人の指先に釘付けになっていた。顔からは血の気が引き、目の前の現実を処理できないかのように胸を激しく上下させている。


「タクミ……くん……」


ミユキは呟いたが、その声に温もりはなかった。


「なっ……何なんだよ、これ……」タクミは一歩踏み出した。紙袋を握りしめる指関節が真っ白に強張っている。「ミユキちゃん……この人、誰……? なんで手を繋いでるの……!?」


ミユキが口を開くより早く、レンが無造作に割り込み、荒々しい掌でタクミの胸を押し弾いた。タクミは態勢を崩し、コンクリートの地面に倒れ込んだ。


「すっこんでろよ、負け犬」レンは不快な虫でも見るかのようにタクミを見下ろした。「まだ分かんねえのか? ミユキはお前なんかもう愛してないんだよ。俺の女なんだよ」


タクミはレンを完全に無視し、狂おしい視線でミユキの顔を探した。彼は這うように立ち上がり、ミユキの空いている手首を掴もうと必死に手を伸ばした。「ミユキ、嘘だって言ってくれ! なんでこんな奴といるんだよ!?」


——スパーンッ!


レンの拳が、容赦のない迅雷の動作で振り抜かれ、タクミの頬骨を正確に撃ち抜いた。


衝撃でタクミの身体は斜めに吹き飛び、近くの店舗のレンガ壁に激しく激突してから地面に崩れ落ちた。破れた紙袋から、乾いた地面の上にパンが転がり出る。


通行人から悲鳴が上がり、野次馬が一瞬にして群がり、衝撃と興奮の混ざった囁きが広がった。


「その汚い手で触んじゃねえよ、ストーカー野郎!」


レンはタクミを見下ろすように跨ぎ、周囲全体に響き渡る大声で叫んだ。


「学校中の奴らが知ってんだぞ! ミユキから全部聞いたんだよ! お前がどれだけしつこくつきまとって、マインドコントロールして、何年も彼女を虐待してきたかさあ!」


ミユキは息を呑み、恐怖に目を限界まで見開いた。


金髪の男が吐いた嘘を否定しようと口を開こうとした。だが、舌が上顎に貼り付いたように固まって動かない。喉が音を拒絶していた。


タクミは震える手で身体を起こした。口角から血が滴り落ちている。乱れた髪の隙間から顔を上げ、彼はまっすぐにミユキの瞳を見つめた。その眼差しはズタズタに引き裂かれていた——絶望、裏切り、そして根底からの恐怖が混ざり合った地獄のような色彩。


「ミユキちゃん……」タクミの声が詰まった。「言ってくれ……違うって……お願いだから言ってくれよ……!」


群衆が彼女を見つめていた。何十もの視線が彼女の肌を焼く。人々はすでにスマートフォンを取り出し、カメラのレンズをタクミの血に濡れた顔に向け、一挙一動を記録していた。


(ちがうって言って!)


彼女の心が叫んだ。


(あの人が言ってることは嘘だって、みんなに伝えて!)


だが、10年間自分を愛し続けてくれた傷だらけの少年を見下ろした瞬間——冷酷で恐ろしい何かが、ミユキの筋肉を支配した。


ゆっくりと、確信犯的に……ミユキは、小さくためらいがちに頷いた。


群衆が爆発した。


「最低だな!」

「見てみろよ、女の子にあんなことして!」


フラッシュが視界を奪う。怒号、罵声、悪意に満ちた笑い声が、悪魔の合唱のようにタクミの周囲で渦巻いた。タクミは言い返さなかった。ただミユキを見つめ返すその瞳から光が消え、魂が完全に粉砕されていく。全世界が暴徒と化し、逃げ場のない生き地獄へと彼を引きずり落としていった。


情景が破砕する。


群衆が消え去り、高級ホテルの重苦しく薄暗い室内に取って代わられた。カーテンは外の世界を遮るようにきつく閉ざされている。部屋には濃厚な香水と安ワインの匂いが充満していた。


ミユキは豪華な白いベッドの上に横たわっていた。レンが覆いかぶさり、彼女の頭の脇に両手を突き、その不遜な笑みに暗い勝利の色彩を浮かべている。


「本当、可愛すぎるよ」レンが顔を近づけ、低く囁く。


ミユキは完全に麻痺したままそこに横たわり、罪悪感という底なしの絶望に胸を締め付けられながら天井を見つめていた。彼女は刺激と引き換えに安定を捨て、その代償として、自分を心から大切にしてくれた唯一の存在を破壊したのだ。


レンが顔を寄せてきたその時、暗い部屋の中に低く歪んだ音が響き始めた。それはまるで深い井戸の底から聞こえてくるような声で、彼女の頭蓋骨の中で直接反響した。


『……ゆき……』

『……ミユキ……』


ミユキの目がカッと見開かれた。


激しい吐息が喉を突き破り、上半身が跳ね起きる。


心臓が肋骨を打ち破らんばかりに脈打っていた。全身が冷や汗で濡れ、筆箱をひっくり返しそうになるほど手が激しく震えている。


彼女は学校の図書館の、木製の学習机に座っていた。


彼女の隣、窓から差し込む夕日の柔らかな絵画のような橙色の光に包まれて、タクミが座っていた。彼は少し可笑しそうに優しい笑みを浮かべ、先ほど肩を軽く叩いた手を空中に浮かせていた。


「ミユキちゃん?」タクミが温もりのある声で優しく尋ねた。「大丈夫? うなされてたみたいだけど」


ミユキは荒い息を吐きながら、引きつった恐怖を瞳に宿して彼を見つめた。震える手で自分の顔に触れ、それから彼の傷のない頬、整った制服、何一つ損なわれていない美しい肌を見つめた。


「タクミ……くん……」声が掠れる。「私……寝ちゃってた……?」


タクミは穏やかに微笑むと、彼女のシャープペンシルを優しく拾い上げ、ノートの上に戻した。「うん、かなり深く眠ってたよ。起こすのがかわいそうなくらい疲れてそうだったから……でも」彼は大きな窓を指差した。空はすでに深い紫紺と夕焼けの紫色に染まっている。「……もう閉館時間なんだ」


ミユキは薄暗くなりゆく光の中で、自身の凄惨な裏切りの残響を頭の中で叫ばせながら、微動だにせず彼を見つめ続けていた。


---


図書館を出た二人を追うように、3階廊下のクッションフロアの上に影が長く伸びていた。学校は静まり返り、昼間の喧騒は黄昏の静けさへと溶けていた。


二人は昇降口へと並んで歩いた。足音がコンクリートの壁に静かに反響する。ミユキの頭は依然として重く、奇妙な夢の残酷な余韻に締め付けられていた。タクミの滑らかな顎のライン、優しい瞳、傷のない肌に視線を送るたび、理由のない安堵が突き刺さるように押し寄せ、直後に気味の悪い恐怖が彼女を苛んだ。


突然、タクミが歩みを止め、軽く額に手を当てた。


彼は申し訳なさそうな笑顔で振り返る。「完全に忘れてた。第5章の参考資料、文芸部の部室に置いたままだ。施錠される前に取ってこないと」


二人は部活動棟へと続く静かな廊下を折れた。夕日が高い窓から濃密な血の色の赤を投げかけ、木製の床板を暗いコーラルと琥珀色に染め上げていた。タクミが文芸部のドアを引くと、室内は薄暗く、窓から差し込む落ちゆく日光だけが部屋を照らしていた。


タクミは机の列を抜け、壁際に大きな木製キャビネットが並ぶ奥の角へと急いだ。


ミユキは前方のデスク近くの椅子を引き、膝の上で手を重ねて腰掛けた。書類の山やフォルダをガサゴソと探すタクミの背中を、彼女はぼんやりと見つめていた。


「こんばんは、朝比奈さん」


落ち着いた滑らかな声が静寂を破った。


ミユキは首を巡らせた。部屋の奥の角、影に覆われて最初気づかなかったデスクに、文芸部部長の橘ミオが座っていた。整えられた短い茶髪に、意図の読めない顔立ち。その暗い瞳は、夕日の残光を反射して怪しく光っていた。


「橘先輩……」ミユキは姿勢を正した。「こんばんは。いらっしゃるとは思いませんでした」


ミオは読んでいた分厚い本を『パタン』と静かな音を立てて閉じた。肘をついて顎を乗せ、その暗い瞳でミユキを射抜く。空気の一粒子一粒子が急激に薄くなっていくような圧迫感があった。


「部の予算報告書を確認していたのよ」ミオは滑らかに言った。彼女は首を少し傾げ、奥のキャビネットで作業を続けるタクミへと視線を向け、すぐにミユキへと戻した。「あなたたちはいつも一緒ね。本当に微笑ましいわ。正式にお付き合いを始めて、もうどのくらいになるの?」


いつも距離を置いている人物からのプライベートな質問に、ミユキは面食らった。「ええと……去年の春休みの終わり頃に、タクミくんから告白してくれて」


「そう? そうだったの」ミオの唇に微かな笑みが浮かんだが、その瞳には届いていなかった。「遅まきながら、おめでとう。本当にお似合いの二人ね。絵に描いたような幼馴染の恋愛だわ」


「ありがとうございます……」ミユキは礼儀正しく微笑みを返したが、胃のあたりで奇妙な緊張感がとぐろを巻き始めた。


ミオは背もたれに寄りかかり、両手の人差し指を合わせた。「ただ……差し出がましいかもしれないけれど……今日、図書館でお友達とお話しされていたのが少し聞こえてしまったの」


ミユキの息が詰まった。膝の上の手がぎゅっと強張る。「聞こえて……いたんですか?」


「ほんの数言よ」ミオはこともなげに言い、声を密やかな、どこか共犯者めいたトーンへと落とした。「図書館は静かだからね。それで……まあ、あなたが言っていたことが頭から離れなくて。二人の関係が、どこにも向かっていないように感じているって話」


恥ずかしさでミユキの顔が熱くなった。「あの……あれは、ただ……」


「弁明する必要はないわ、朝比奈さん」ミオは絹に包まれた鋼のように滑らかな声で制した。「むしろ、あなたの気持ちはとてもよく分かるわ。タクミくんは確かに素晴らしい男の子よ、本当にね。でも彼は、小説家になるという夢に完全に心を奪われている。男の子がそれほど大きな夢を抱いている時、彼の意識が『今、この瞬間』に置かれることは滅多にないの」


ミオは少し身を乗り出した。その暗い瞳が、柔らかいベルベットに突き刺さる針のように薄暗がりの中で光った。


「時々、すごく退屈になるんじゃないかしら?」


ミオの声には、異様なまでの共感が塗たくられていた。「常に自分の世界に閉じこもっている人の隣に座り続けるのは。原稿にばかり集中されて……あなたに注ぐエネルギーが残っていないなんて。あなたを『特別な存在』として扱ってくれないなんて」


彼女の指先が、ポンとミユキの胸元を突いた。


ミユキはその不躾な接触すら無視し、凍りついたようにミオを見つめ返した。その言葉は、彼女が必死に無視しようとしていた胸の奥の最も過敏な神経を、正確に撃ち抜いていた。


「だって」ミオは肩をすくめ、声はいまや囁きに近かった。「執筆を理由に、彼がデートをキャンセルしたり、一緒に過ごす時間を削ったりしたことが、これまでに何度あったかしら?」


目の前の1学年上の先輩が放つ怪しげな気配に気づく余地もなく、ミユキは固く唾を呑み込んだ。昨日の放課後、そしてそれ以前のいくつもの午後の記憶が、拒絶を無視して脳裏に浮かび上がってくる。


「昨日も……デートをキャンセルされたんです」ミユキは制服のスカートに視線を落とし、絞り出すように認めた。「原稿に夢中になりすぎて、約束を忘れちゃって……」


ミオがさらに深く針を突き刺そうとしたその時、紙の擦れる音が部屋に響き渡った。


「あった!」


重苦しい雰囲気を切り裂いてタクミの声が響いた。彼は印刷された原稿の束を手に、晴れやかな笑顔を浮かべて戻ってきた。「待たせてごめん、ミユキ」


ミオの表情は、一瞬にして完璧で礼儀正しい『頼れる部長』の顔へと切り替わった。彼女は洗練された動作でタクミへと向き直る。


「あ、天堂くん」ミオはデスクから立ち上がった。「帰る前に、ちょっとお願いがあるの。2階の私の教室に部室の合鍵を忘れてきちゃって。机の引き出しから取ってきてくれないかしら?」


タクミはなぜミオが自分で取りに行かないのかすら疑問に思わず、一秒の躊躇もなく引き受けた。「あ、はい! お安い御用です、橘先輩。すぐ取ってきますね」


「ありがとう」ミオは温かく言った。


タクミは原稿を前方のデスクに置くと、脱兎のごとく部室を飛び出していき、その足音は廊下の向こうへと急速に遠ざかっていった。


ドアが閉まった瞬間、部屋の温かい空気は完全に雲散霧消した。


ミオは向き直ると、ミユキの隣の椅子を引き、真横に腰掛けた。


ミユキは身を硬くし、再び空気が冷え込むのを感じた。


「朝比奈さん」ミオは低く、親密な声で切り出した。「あなた、すごく疲れた顔をしているわ。あなたのように可愛らしい女の子が静かに傷つき、関係の中で大切にされていないと感じているのを見るのは辛いわね……なんて言ったらいいのかしら、そう、『刺激』を失った関係の中で」


「橘先輩、私はそんな——」


「あなたは開いた本みたいに読みやすいわ」ミオは割り込み、その表情を恐ろしいほど計算された深い母性的な懸念へと和らげた。「あなたには情熱が必要よ、朝比奈さん。追いかけられ、求められ、若い女の子が味わうべき高揚感を知る権利があるのよ」


ミユキは静かに座っていた。ミオの優しく執拗な言葉の重みの前に、彼女の防壁は崩れていく。顔の緊張が解け、肩の力は消え、無防備で儚い憂鬱さが広がっていった。


ミユキのガードが下がったのを見て、ミオの暗い瞳の奥に微かな勝利の光が閃いた。


ミオはブレザーのポケットに手を伸ばしてスマートフォンを取り出すと、ミユキにも携帯を出すよう促した。そして手早く操作を行うと、ミユキの画面に一つの通知がポップアップした。


「これ……何ですか?」ミユキは画面に表示された電話番号を見つめた。


「私の知人の連絡先よ」ミオはそっと囁きかけた。「男女の関係というものを、とてもよく理解している男の子よ。女の子をどう扱えば満足させられるか、どんな刺激と献身を与えればいいかを知っているわ。もし寂しくなった時や、本当にあなたを見てくれる人と話したくなった時は……連絡してみなさい」


ミユキは画面を見つめ、思考を巡らせた。「でも……私、そんなこと……」


「持っておくだけでいいのよ」ミオは滑らかに言った。「連絡先を持っているくらい、何も害はないでしょう? あなたの心のための……そうね、セーフティネットだと思いなさい」


ミユキが返答する前に、部室のドアが再び開いた。


キャンバスバッグを手にしたタクミが戻ってきた。少し息を荒らげ、階段を駆け下りてきたせいで頬が少し赤らんでいる。


「ありました、橘先輩」タクミはバッグを彼女のデスクに置いた。「これで合ってますか?」


「ええ、完璧よ」ミオは上品な笑みを浮かべ、自分のデスクへと戻った。「本当にありがとう、天堂くん。助かったわ」


「いえ、これくらい何でもないです」タクミは置いた原稿を持ち上げると、ミユキに向き直った。その瞳には、単純で純粋な愛着が宿っていた。彼は開いたドアを親指で指し示す。


「あ……うん!」ミユキは慌ててスマートフォンをブレザーのポケットの奥深くに滑り込ませ、立ち上がった。「それじゃあ失礼します、橘先輩」


「またね、ふたりとも。気をつけて帰りなさい」


ドアが閉まる際、ミオの視線は静かな執着を孕んで、ミユキの背中にいつまでもまとわりついていた。


---


帰り道は、異常なほど静かだった。


夕空は微かな星々が点在する深い群青色のキャンバスへと変貌していた。郊外の歩道に街灯がぽつぽつと灯り、並んで歩く二人の前に長く交差する影を落としている。


タクミは第5章の進捗について、彼が構築している物語の構造に対する純粋な興奮を声に滲ませながら、軽やかに語っていた。だが、ミユキの耳にその詳細はほとんど届いていなかった。彼女の頭の中は、ミオが植え付けた静かな毒で満たされていた。


『男の子がそれほど大きな夢を抱いている時、彼の意識が今、この瞬間に置かれることは滅多にないの……』

『すごく退屈になるんじゃないかしら……』

『あなたには情熱が必要よ……若い女の子が味わうべき高揚感を知る権利がある……』


ミユキの手はブレザーのポケットの中にあり、指先がスマートフォンの輪郭を静かに撫でていた。ミオが発した一言一言が、彼女の胸の奥底にある最も恥ずべきコンプレックスを映し出す鏡のように感じられた。自分はユーリが警告したように、タクミの優しさを当たり前だと思っているのだろうか? それとも、ただタクミには決して与えられない『何か』に飢えているだけなのだろうか?


「ミユキちゃん?」


タクミの声が、渦巻く思考を断ち切った。


彼女はハッとして、ポケットから手を引き抜いた。「え? なに?」


タクミは彼女を見つめていた。その表情には、静かで優しい懸念が満ちていた。二人はミユキの家の門前に到着していた。「部室を出てから、ずっと静かだけど……大丈夫?」


ミユキは彼の温かく澄んだ瞳を見つめた。そこには悪意も、欺瞞もなく、10年間彼女を見守り続けてきた少年の一途な思いだけが存在していた。


激しい罪悪感が、彼女の胸を突き刺した。


彼女はただ静かに首を振り、口元に無理やり愛想の良い笑みを浮かべた。「ううん……ただ、中間テストのことを考えてただけ」


タクミの顔が安堵の笑みにほころんだ。彼は手を伸ばすと、一瞬だけ躊躇してから、彼女の頭を優しく撫でた——幼い頃から変わらない、愛おしい癖。


「無理しすぎちゃダメだよ。今夜はちゃんと熟睡するんだよ、いい? 脳をシャープに保つには十分な睡眠が大切なんだから」


ミユキは頷いた。


「また明日ね、ミユキちゃん」タクミは背を向け、手を振りながら歩き出した。ミユキも手を振り返す。


「おやすみなさい、タクミくん」


---


その夜遅く、外の世界は夜の静寂と暗闇に包み込まれていた。


ミユキは柔らかい綿のパジャマを着て、ベッドの上に横たわっていた。自室は暗く、レースカーテン越しに差し込む淡い月光と、顔の上に掲げたスマートフォンの青い光だけが部屋を照らしていた。


スピーカーから、通話中の静かなチャイム音が響いていた。


『——だから、木曜日までには書き直しが終わると思うんだ』タクミの声がライン越しに届く。少しこもった、眠たげな声だった。スピーカー越しに小さな欠伸が漏れる。『あ、ごめん……なんか話してたら眠くなってきちゃった』


「いいのよ、タクミくん」ミユキは枕に頭を預け、静かに言った。「すごく頑張ってるものね」


『うん……でも、頑張る価値はあるよ』タクミは低く笑った。そのトーンは優しく、彼女の記憶の中にある、ずっと変わらない安心感へと沈み込んでいく。『ねえ……』


スピーカーの向こうの声が、少しだけ熱を帯びるのが分かった。


『もしこの小説が賞を取って、出版されて、ベストセラーになったらさ……僕が壇上に立ってトロフィーを持って、その隣に君がいて。僕を支えてくれた感謝を伝えて、二人の写真がSNSの至る所に載ったりしてね』


ミユキは小さく微笑んだ。「きっとそうなるわ、タクミくん」


『よし、ミユキちゃん。もう遅いし、また明日の朝学校でね。夜更かししちゃダメだよ』


「ええ。おやすみ、タクミくん」


『おやすみ、ミユキちゃん。良い夢をね——例えば、僕の夢とかさ』


ツルン、と音がして通話が切れた。画面はロック画面の壁紙へと戻る。そこには昨年の春祭り、満開の桜の木の下で二人が並んで立ち、カメラに向かって眩しい笑顔を向けている写真が映し出されていた。


だが、時計の針はまだ夜の8時を回ったばかりだった。


ミユキは暗闇の中に横たわり、自室の静寂が再び押し寄せて自分を呑み込んでいく中、光る画面を見つめていた。


『良い夢をね……』


胸の奥が空洞のようにぽっかりと空き、気味の悪い焦燥感が渦巻いていた。夜の電話の、変わらない安らぎ。


同じ構成、同じ優しいトーン、同じルーティンが、彼女を完全に満たされないまま放置していた。


まるで脳内の抗いがたい危険な囁きに導かれるように、ミユキは手招きされるままメッセージアプリを開き、先ほどミオから送られてきたメッセージを確認した。


彼女はその電話番号を打ち込んだ。「友達追加」メニューを開き、検索バーに番号を入力して実行キーを押す。


一瞬の読み込みの後、一つのユーザープロフィールが表示された。


画面を見つめた瞬間、ミユキの心臓が喉から飛び出しかけた。


アイコンの画像には、ネオン煌めく夜の街角に立つ一人の青年の姿が映し出されていた。ボサボサとスタイリングされた金髪、鋭い目鼻立ち、そして危険でクールな自信を漂わせる、不遜で計算された佇まい。彼はカメラから視線を外し、その薄い唇に嘲笑のような笑みを浮かべていた。


ミユキの目が小さく見開かれた。否定しようもなくハンサムな、現代のファッション誌から飛び出してきたかのように危険な魅力を放つ男だった。


そして、彼女の視線は表示名へと落ちた。


**『真人 蓮』**


その名が脳に刻まれた瞬間、ミユキの顔面から血の気が完全に引いた。


喉の奥で息が詰まり、手が激しく震えてスマートフォンが痺れた指先から滑り落ちそうになる。


視界がぐにゃりと歪んだ。部屋を照らす淡い月光が、一瞬にして凍りついた——。

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