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胡蝶の夢  作者: Nameless
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みゆき

平穏な朝はいつだって、「この日常が永遠に続く」という静かな錯覚を抱かせる。

見慣れた笑顔、温かなお茶、そして十年という月日を共に重ねてきた穏やかな安らぎ——そのすぐ裏側に、不穏な影が静かに潜んでいる。

あの悪夢は、ただの一時的な夜の戯れに過ぎないのだろうか。

それとも、崩壊を待つ世界に刻まれた、最初の亀裂なのだろうか。

明日という未来が不確かになったとき、どれほど甘やかな現実であっても、あまりにも脆く揺らぎ始める。

学園の上空を覆う空は、一面の灰白色に染まっていた。酸化した鉛のような重く息苦しい色彩が、今にも崩れ落ちそうな蝕まれた天井となって大地を圧迫している。


コンクリートの街並みを見下ろす屋上の外縁、その最果ての縁に、一人の少女が微動だにせず立っていた。頬を打つ刺すような風が黒髪を乱すものの、彼女はピクリとも眉を動かさない。その瞳には光がない。二つの空虚な翡翠色の球体は、ただ下方に広がる誰もいない中庭を見下ろしていた。彼女の視界には何も映っておらず、ただ押し潰されそうな無機質な造形だけが広がっている。干上がった大地のように乾き切った唇が、音もなく規則的なリズムで動く。吹き荒れる風にかき消されそうな、壊れかけた脆弱な囁き。そこから漏れ出る言葉は、ただ一つだけだった。


「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」


それはまるで、壊れたゼンマイ仕掛けの機械。割れたレコードの傷に永久に囚われた針のように、その言葉だけを繰り返し刻んでいた。


「やめなさい、ミユキ!」


暗鬱な空気を刃のように切り裂く声。


ミユキは、ぞっとするほど不自然なぎこちなさでゆっくりと首を巡らせた。鉄製の扉の傍らに立っていたのは、どんよりとした曇天の下では異彩を放つほど、鮮やかな金髪をなびかせた少女だった。髪と同じ黄金色の射抜くような瞳が、冷ややかな怒りと呆れを孕んで燃えている。


「リン……」


ミユキの乾いた唇が開く。その名は掠れた無機質な吐息となって漏れた。


「あなた、完全に正気を失ったの?」


リンは嘲笑を含んだ鋭い声で一歩踏み出し、ミユキの制服の襟首を掴み寄せた。


「こんなところで飛び降りて、すべてを解決したつもり? ハッ、ふざけないでよ」


「命を捨てれば救われるとでも思っているの? そんなことをしたって、タクミをもっと苦しめるだけよ……あなたがこれまで与えてきた苦痛以上にね、朝比奈ミユキ!」


『タクミ』という名が出た瞬間、ミユキの身体に物理的な衝撃が走った。膝が激しく震え、その非難の意味を脳が処理するよりも早く、視界のすべてが歪み、崩壊した。


灰色の屋上が消え去り、息が詰まるような狭い廊下へと切り替わる。気づけばミユキは校舎の廊下を歩いていた。だが、空気はまるで液体のように重く、胸を圧迫する。周囲には生徒たちが群がっていた。その顔は影に覆われて見えないが、向けられる視線には明白な悪意と嫌悪、そして『歩くゴミ』でも見るかのような蔑みがこもっている。ロッカーに反射する囁き声が、歪み、重なり合いながら鼓膜を打つ。


「見ろよ、あの女……」

「よくあんなことできるよね……」

「最低……」

「厚顔無恥にもほどがあるわ……」


両耳を塞ごうとした瞬間、情景が跳ねるように変わった。今度は見覚えのある住宅街の細い路地で、ミユキは躓きながら歩いていた。閉ざされたカーテンの隙間から、手入れされた生け垣越しに、主婦や近隣住民たちが肩を寄せ合っている。その毒々しい唇が、悪意のシンクロを見せて動いていた。静かな午後の空気を切り裂くように、陰湿な陰口が襲いかかる。


「可哀想にねぇ、天堂くん……あんな子と付き合っちゃって。人生壊されたようなものよ……」

「ねえ、噂聞いた? あの子に酷い中傷をされて、男の子の方が飛び降りようとしたらしいわよ!」


その言葉に、ミユキの目が限界まで見開かれた。胸をきつく締め付け、無我夢中で駆け出したが、脚は彼女をただ底なしの暗闇へと運び去るだけだった。


次に気づいたとき、彼女は冷たく薄暗い部屋の床にへたり込んでいた。唯一の光源は、低いテーブルの上に置かれたテレビが放つ、病的なちらつきだけだった。画面には眩い光に包まれた記者会見の模様が映し出されている。スーツを完璧に着こなした一人の男子高校生が、降り注ぐカメラのフラッシュの中、壇上で洗練されたガラスのトロフィーを掲げていた。


画面下部のテロップには、血のような深紅の太字でこう書かれている。


**『現役高校生——最年少で最優秀文学賞を受賞』**


トロフィーを掲げる少年の顔へカメラがズームインする。それはミユキにとって、自分の顔以上に熟知している面影だった。その下に表示されるデジタル文字。


**『天堂 タクミ』**


その瞬間、取り止めのない凄絶な記憶のフラッシュバックがミユキの脳裏を切り裂いた。散らかった部屋、涙に濡れた叫び声、そして——タクミを怪物と呼び、加害者と決めつけ、全世界の前で彼の尊厳を粉々に踏みにじる、狂気じみた自分自身の罵声。


テレビの画面が暗転すると、真っ暗な部屋の中で、タクミがすぐ目の前に立っていた。だが、その瞳にミユキが幼い頃から見慣れてきた温もりはない。そこにあるのは、完全なる断絶と無関心だった。


「タクミくん……お願い……」ミユキはすすり泣き、震える手を伸ばした。「私が間違っていたの……許して……お願い……」


タクミはピクリとも反応しなかった。氷よりも冷たい瞳で彼女を見下ろし、一切の愛着を削ぎ落とした無感情な声で吐き捨てた。


「もう遅いよ、ミユキ。君の謝罪なんて、僕には必要ない」


彼は背を向け、そのまま暗黒の深淵へと足を踏み入れた。


「待って!」


ミユキは激しく息を吐き出し、まるで水底から這い上がってきたかのように身体を起こした。絶望的に酸素を求め、肺が引きつる。


胸籠の中で、鳥が暴れるように心臓が肋骨を打つ。全身を伝う冷や汗がパジャマを肌に張り付かせ、気味の悪い不快感をもたらしていた。彼女は慌ただしく周囲を見回した。


白いレースのカーテン越しに、柔らかい早朝の光が差し込み、整然とした部屋の床に淡い金の条光を描いている。


乱れた髪に両手を突っ込み、激しく上下する胸を押さえつけながら、ミユキは頭を抱え込んだ。


「夢……」掠れた声が喉の奥で鳴る。「ただの……夢だったんだ……」


「ミユキ—!」


階段の下から、母親の温かい声が響いた。「朝ごはんできてるわよ! 早くしないと学校遅れるわよ!」


ミユキは数秒間ベッドの上で固まっていた。聞き慣れた日常の音に身を委ね、リンの叱責とタクミの冷酷な拒絶の残響を、ゆっくりと押し流していく。震える息を大きく吐き出し、強引に毛布を押しやった。「今行くー!」と言い返したものの、その声には少しの張りもなかった。


---


30分後、ミユキは紺と白の凛とした制服に身を包み、玄関のドアを開けた。昨夜の夜露を含んだ朝の空気はひんやりと心地よく、睡眠を苛んでいたあの圧迫感とは対極の世界だった。通学鞄のストラップを整え、見慣れた住宅街の歩道を歩き始める。


数十メートル先、電柱に背を預け、小さなメモ帳に目を落としている見慣れた男子生徒の姿があった。


天堂 タクミ。


クラスメイトであり、恋人であり、そして10年もの月日を共に過ごしてきた幼馴染。制服を綺麗に着こなし、朝日に透ける柔らかなタンジェリンオレンジの髪が、彼に親しみやすく穏やかな雰囲気を纏わせている。


足音に気づくと、タクミはメモ帳を閉じ、顔を上げた。その表情に一瞬で温かく眩しい笑顔が咲き誇る。彼はミユキを迎えるために一歩踏み出した。


「おはよう、ミユキちゃん」彼は優しく声をかけたが、すぐに申し訳なさそうな、苦笑いに似た表情を浮かべた。「あ、昨日のこと、本当にごめんね」


彼は両手を合わせた。「放課後一緒に帰るって約束してたのに、部活の作業に没頭しすぎて時間忘れちゃって……本当にごめんなさい!」


ミユキは彼の目を見つめた。そこにあるのは本気の反省と温もりで、悪夢の中の冷酷な視線とはまるで別物だった。彼女の唇に、自然と柔らかく安心した笑みがこぼれる。


「いいのよ、タクミくん」ミユキは穏やかな声で言った。「謝らなくて大丈夫。夢に向かって頑張ってるのは知ってるから。小説の出版、目指してるんでしょ?」クスリと小さな笑いを漏らす。


タクミは首の後ろをかきながら、照れくさそうに笑った。「理解してくれてありがとう、ミユキちゃん! いやあ、ようやく原稿が形になってきてさ……キーボードに手を置くと、ついつい周りが見えなくなっちゃって」


ミユキは吹き出しそうになるのを必死でこらえた。


「もうすぐ遅刻しちゃうわよ」彼女はそう言って、彼の隣に並んで歩き出した。


校舎へと続く並木道を歩き始めると、頭上の木々から木漏れ日が揺らめいた。ほんの一瞬、タクミの顔に影が落ちた瞬間、ミユキの視界に目もくらむような映像が閃いた——光るテレビ画面、ガラスのトロフィー、そして全国賞を受賞した最年少作家であることを告げる鮮烈な見出し。


ミユキは歩みを乱し、困惑に目を大きく見開いた。その光景は1秒にも満たず、現れたのと同じ早さで溶けて消え、目の前の舗装道路をぽかんと見つめる彼女だけが残された。


(な……何、今の……?)目を擦りながら、ドクンと心臓が跳ねるのを感じた。


「ミユキちゃん?」


タクミの声が彼女を現実に引き戻す。彼は一歩先で立ち止まり、少し心配そうに眉をひそめて振り返っていた。首をかしげる。「大丈夫? 急に立ち止まって」


ミユキは慌てて瞬きをして目眩を払い、大したことないといった風に微笑んだ。「あ、ううん! 大丈夫……だと思う」


「ちょっと……今朝はまだ寝ぼけてるみたい」おでこを押さえながら誤魔化す。


タクミはしばらく彼女の顔を見つめていたが、やがて優しく呆れたような笑みを浮かべて息を吐いた。「学年有数の優等生さんでも、脳には十分な睡眠が必要だってことくらい知ってるでしょ」


手招きしながら歩き出す。「ほら、行こう。校門のラッシュに巻き込まれたくないしね」


「うん!」彼女は頷き、彼の隣へと急ぎ足で追いついた。


---


午前の授業は、チョークの粉、紙の擦れる音、そして記憶に残らない単調な講義の中で過ぎ去っていった。昼休みを告げる予鈴が鳴る頃には、ミユキの頭から今朝の胸騒ぎはほとんど消え去っていた。


彼女とタクミは一緒に賑やかな学食へと向かった。食堂はトレイの触れ合う音、大きな笑い声、そして大勢の生徒たちが発する喧騒で満ち溢れていた。二人は窓際の小さな二人掛けの席を確保し、向かい合ってお弁当を広げた。


タクミが昨日苦戦していたプロットの矛盾点について楽しそうに語るのを聞きながら、ミユキはおにぎりを一口頬張る。視線の隅で、近くの生徒たちが自分たちのテーブルを指差し、冷やかすような笑みを浮かべて囁き合っているのに気づいた。


「見てよ、あの二人……今日も一緒に食べてる」

「だって昔からずっと一緒でしょ? お似合いすぎるって……」


ミユキの頬がうっすらと熱を帯びる。カップルを見かけた高校生たちのたわいない冷やかしに過ぎなかったが、自分たちの絆を静かに認められている感覚は、どこか心地よかった。当のタクミは物語の構成を説明するのに夢中で、周りの視線にはまったく気づかず、箸を握った手を身振り手振りに動かしている。ミユキはその姿を優しい笑みで見つめ、彼という存在がもたらす深い安心感に包まれていた……。


——その話自体には、大して興味を持てずにいたのだが。


---


放課後を告げる最後のチャイムが校舎に響き渡ると、タクミはすぐに部活動へと向かった。ミユキはゆっくりと鞄を片付け、3階の廊下を目的地へと歩を進めた。


彼女は『文芸部』と刻まれた小さな真鍮のプレートが掲げられた木製のドアの前に立った。


静かにドアを引く。部屋には古い紙と木製床、そしてほのかに温まった電子機器の匂いが漂っていた。奥のデスクにはタクミが腰掛け、リズム良く、無駄のない速さでキーボードを叩いていた。その瞳は発光するモニターを鋭く見つめ、目の前で形作られていく原稿に完全に没頭している。


ミユキは柔らかく微笑み、中へ踏み込もうとしたが、視線がふと部屋の陰になったコーナーへと向いた。


小さなサイドテーブルに座り、分厚い文庫本をめくっている少女がいた。切り揃えられた短い茶髪。


橘 ミオ。


ミオはこの部活の部長だったが、賑やかに会話に加わることは滅多になかった。ミユキが敷居を跨いだ瞬間、ミオはゆっくりと顔を上げた。その視線はタクミに向かうことなく、まっすぐにミユキへと突き刺さる。


それは意図の読めない、奇妙なほど鋭い眼光だった。あからさまな敵意ではないが、どこか見定められているような重苦しい圧があり、ミユキを不安にさせる。何秒もの間、ミオはただ彼女を見つめていた。その暗い瞳には高校生らしい温もりは欠けており、まるでミユキには理解できない何かを推し量っているかのようだった。


背筋を凍りつくような不快感が駆け上がる。ミユキは無意識に半歩後ずさりし、鞄のストラップを握りしめた。


だがミオは、目を合わせた時と同じくらい唐突に視線を外し、一言も発することなく静かに本へと意識を戻した。


ミユキは静かに息を吐き出し、喉の奥の異物感を飲み込んだ。


(嫌な夢を見たせいで、今日の私は過敏になってるだけ……)胸の寒気を振り払うように自分に言い聞かせると、無理に明るい笑顔を作り、タクミのデスクへと歩み寄った。そして彼の肩に優しく手を置いた。「今日も頑張ってるわね、作家先生?」


タクミはタイピングの手を止め、照れくさそうに見上げてきた。「あ、ミユキちゃん!」と苦笑する。「ちょうど最後の段落が終わるところ。あと2分頂戴!」


---


文書を保存しパソコンの電源を落とすと、二人は一緒に校舎を後にした。夕日が沈み始め、空を琥珀色、菫色、そして深い深紅のグラデーションへと染め上げていく。


高い鉄門をくぐった時、ミユキの視線が通りの向こう側に止まった。石垣の近くに、同じ学校の制服を着た男子生徒が立っていた。だがブレザーのボタンは乱雑に外されている。目を引くボサボサの金髪に、両手をポケットに突っ込んだ遜酷な立ち姿。視線は明後日の方向を向いていたが、その存在感は周囲から浮き立つほど鋭く、独特の反抗心を放っていた。


(あんな生徒、どこかで見かけたかしら……)とミユキが瞬きをした瞬間、タクミが優しく袖を引っ張った。「ミユキちゃん? 信号、青になったよ」


「あ、うん!」彼女はその金髪の少年から視線を外し、横断歩道を渡った。


---


二人が向かったのは、大通りから2ブロックほど入った場所にあるレンガ造りのこじんまりとした店だった。風に揺れる木製の吊り看板には、温かみのある書体で店名が刻まれている。


『カフェ・ハナミチ』


ドアを押して中に入ると、頭上の真鍮のドアベルが軽やかな音色を奏で、挽きたての香ばしいコーヒー豆と焼き立てのバターパイの香りが二人を出迎えた。


「いらっしゃい!」


カウンターの奥から、落ち着いた大人の女性の声が響いた。


厨房から姿を現したのは、オレンジ色の長い髪をゆるいポニーテールにまとめた、背が高くエレガントな女性だった。洗練されたブラウスの上に清潔なダークカラーのエプロンを着けている。その顔立ちは、特に目元の優しい雰囲気がタクミと驚くほどよく似ていた。


「あらあら」女性はカウンターに肘をつき、頬杖をつきながら温かい笑みを浮かべた。「今日の我が家のお客さまは誰かと思えば。素敵な仲良しカップルさん、この素晴らしい午後に何をご注文かしら?」


ミユキの頬が瞬く間に鮮やかなピンク色に染まる。「あ、葵さんっ……!」恥ずかしさのあまり、彼女は小さく頭を下げて狼狽えた。


タクミも同じくらい顔を真っ赤にし、大袈裟に頭を抱えて呻いた。「お母さん、頼むから……お客さんの前でそういう冗談言うのやめてって、何回言えばいいの?」


天堂 葵——タクミの母親であり『カフェ・ハナミチ』のオーナーは、楽しそうに鈴を転がすような笑い声を上げた。「なによ。二人で入ってくるときはいつもお堅い顔してるんだから、これくらいからかわないと青春じゃないわよ!」ミユキにウインクしてみせる。「さ、いつもの席へどうぞ。淹れ立てのお茶と焼き菓子を持っていくからね」


「ありがとうございます、葵さん」頬の熱が引かないまま、ミユキはつぶやき、奥の角にあるボックス席へ向かうタクミの後をついて行った。


店内は静かで心地よかった。レースのカーテン越しに木漏れ日が差し込み、温かい空気の中に光の粒が舞っている。タクミは降参したようにベンチシートに腰を下ろしたが、エスプレッソマシンの後ろで立ち回る母親を見つめるその顔には、愛おしそうな小さな笑みが残っていた。


数分後、葵がトレイを持ってテーブルへやってきた。湯気を立てる紅茶のポット、2つのカップ、そして中央に完璧な黄金色に焼き上がったクロワッサンが1つ載ったお皿を置く。


「一番頑張ってる受験生と、可愛い愛娘へのサービスよ」葵は陽気にウインクすると、カウンターのお客に応対するために戻っていった。


タクミは苦笑しながら首を振り、紅茶のカップを手に取ってひとくち啜った。「ホント、相変わらずだなあ」


ミユキはすぐには答えなかった。彼女の視線は、二人の間の白い磁器皿の上に載ったクロワッサンへと落ちていた。黄金色のサクサクとした生地が、午後の光を浴びてキラキラと輝いている。


その焼き菓子を見つめていると、意識は自然と過去へと遡り、二人で紡いできた長くて途切れることのない記憶の糸を辿り始めた。


10年。人生の丸々一時代を、彼女は天堂タクミの隣で過ごしてきた。


木から落ちそうな野良猫を助けようとして膝をすりむいていた、小さな頃の彼の姿を覚えている。困っている人を決して見捨てられない男の子だった。筋金入りの楽観主義者で、自己犠牲的と思えるほど根本から優しく明るい心を持っていた。彼女が悲しい時、不安な時、抱えきれなくなった時、いつだってタクミがそこにいた。彼女の人生における、揺らぐことのない確固たる錨。彼はただの一度もぶれることなく、静かで無償の献身をもって彼女を大切にしてくれた。


彼は理想のパートナーであり、完璧な誠実さと無限の温もりを備えた人物だった。


ミユキはお皿からゆっくりと視線を上げ、窓の外を眺めながら静かに自分の世界に没頭しているタクミを見つめた。きっと頭の中で小説の一節を推敲しているのだろう。


誰にも気づかれないほど微かなため息が、彼女の唇から漏れた。


心の深層、めったに直視しようとしない静かな奥底で、かすかな渇望が蠢いていた。彼の優しさも、献身さも、無欲な性格も愛している。けれど……時々、ほんの時々……彼にとっての『当たり前の存在』としてではなく、息もつけないほどの激しい情熱をもって自分を見つめてほしいと願ってしまうのだ。


——ほんのもう少しだけでいいから、彼がロマンチストであってくれたなら。そう、心のどこかで願わずにはいられなかった。

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