第8話_旅立ち
不思議の森に、朝が来た。いつもなら、朝はもっと勝手に来る。窓が気まぐれに開き、井戸が眠たい水音を立て、歩く椅子が食卓の場所をめぐって小さな争いを始め、鍋蓋のリドが「日の出に合わせて蓋も自由を得るべきです」と誰にも求められていない演説をする。だが、その日の朝は、誰かがそっと戸口へ置いていった手紙のように静かだった。青い霧は里の屋根の低いところに沈み、茸の灯は消えずに震え、北の結界柱には夜の修復の跡が銀色の糸となって残っていた。裂けた幹は塞がっていた。けれど、塞がった傷が傷でなくなるわけではない。黒く染まった葉の一部は焼かれ、灰は小さな壺に集められ、里の中央に置かれていた。誰もそれを死者の灰とは呼ばなかったが、誰も足で蹴ることはしなかった。
エノクは夜明けより前に目を覚ましていた。眠ったのかどうか、自分でも分からなかった。寝台はいつもより柔らかく彼を支え続けてくれたが、目を閉じるたびに赤い空と黒い霧と、自分の名を呼ぶ複数の声が浮かんだ。エノク。母の声。執事の声。シモンの声。名喰いの冷たい声。それらは重なり合い、ほどけ、最後には森の水音の中へ沈んでいった。胸元には王家の鍵がある。掌には王妃セリスの守り石がある。腰のそばには、生きた剣ティンカーベルが鞘の中で目を覚ましている。昨日までの自分なら、朝になればそれらすべてが夢だったと思えたかもしれない。だが、肩の傷は痛み、手のひらには剣の柄の痺れが残り、窓の外には傷ついた里があった。
「起きているな」
ティンカーベルが言った。
「見れば分かる?」
「呼吸が寝ていない。寝ているふりをするには、少し真面目すぎる」
「剣に寝たふりを見抜かれる人生になるとは思わなかった」
「これから先は、もっと思わなかったことばかりだ。慣れろ」
エノクは寝台から起き上がった。寝台が小さく軋んだ。
「まだ少し寝てもよいのですよ」
寝台が、珍しく言葉を発した。普段は軋みと沈み方でしか意思を示さない寝台である。エノクは振り返り、布団の端を撫でた。
「ありがとう。でも、今日は起きる」
「そうですか。では、帰ってきた時には、またよく眠れるようにしておきます」
その言葉に、エノクは喉を詰まらせた。帰ってきた時。約束した言葉が、もう森の者たちの中で生き始めている。彼は「うん」とだけ答え、旅装に着替えた。シモンが用意してくれた外套は、森の色をしていた。苔の深緑と、古木の灰色と、雨に濡れた土の茶色が混じった布で、目立たないが丈夫だった。革の手袋はまだ硬く、指先が少し余る。帯にはティンカーベルの鞘を固定する金具がついている。背嚢には乾燥パン、干した茸、薬草、包帯、小さな火打石、針と糸、折り畳みの杯、そして路銀代わりの宝石が入っていた。宝石といっても王冠につくような大粒ではない。森の古い蔵に眠っていた小石ほどの青玉や黄玉で、外の町では宿代や食料に替えられるとシモンは言った。
「重い」
背嚢を背負った瞬間、エノクは呻いた。
「当然だ」
ティンカーベルが言った。「旅は、持っていくものより、持っていけないものの方が重い」
「朝から詩人みたいなことを言う」
「不本意だ。忘れろ」
「忘れない」
「なら、背嚢の肩紐を直せ。右が緩い。重さに詩を感じる前に、荷崩れで転ぶぞ」
エノクは言われた通りに肩紐を締め直した。少し楽になる。ティンカーベルは口が悪いが、実用的だった。そこだけは認めざるを得ない。
部屋を出る前に、エノクは寝台、窓、棚、壁に掛かった古い木剣を順に見た。木剣は無言だった。いつもなら一言くらい皮肉を言うのに、その日は黙っていた。エノクは近づき、柄に触れた。
「行ってくる」
木剣はしばらく黙り、それから低く言った。
「転ぶな」
「それだけ?」
「転んでも起きろ」
「うん」
「本物の剣に振り回されすぎるな」
ティンカーベルが鞘の中で鳴った。「木片のくせに言う」
「木は根を知る。刃はそれをすぐ忘れる」
「ほう。帰ってきたら議論してやる」
「帰ってきたら、だ」
その言葉に、ティンカーベルは珍しく黙った。エノクは木剣をもう一度撫で、部屋を出た。
台所には、すでに皆が集まっていた。食卓には朝食が並んでいる。根菜のスープ、蜂蜜を塗った黒パン、昨日より少し厚く切られた燻製肉、温めた山羊乳。旅立ちの朝にしては、いつもの食卓に近かった。シモンの考えなのか、台所の道具たちの意地なのか分からない。だが、エノクはそれに救われた。特別な料理ばかり並べられていたら、きっと椅子に座る前に泣いていた。
リドは鍋の上で静かにしていた。静かすぎて不気味だった。
「どうしたの。具合悪い?」
「私は今日、沈黙という高貴な態度を選んでいます」
「昨日へこんだから?」
「鍋蓋のへこみと精神の深みを混同しないでください」
「でも、まだ少し曲がってる」
「これは戦歴です」
三本脚の椅子が、エノクのために自分から近づいた。老人椅子が文句を言わなかったので、エノクは少し驚いた。
「今日は譲ってくれるんだ」
老人椅子は背もたれを鳴らした。「旅立つ者に席を譲るのは、古い椅子の作法です」
「ありがとう」
「ただし、帰ってきたら説教します」
「何を?」
「旅先で椅子の扱いを粗末にしないことについて」
「覚えておく」
エノクは三本脚の椅子に座った。椅子はいつもより少し緊張しているのか、脚がかすかに震えていた。
「怖い?」
エノクが小声で尋ねると、椅子は答えた。
「椅子も怖い。座る人がいない時間は、少し寒いから」
エノクは手を置いた。「帰ってくるよ」
「約束は、昨日聞いた」
「何度でも言う」
「なら、何度でも聞く」
朝食は静かに始まった。だが、完全な沈黙ではなかった。リドは結局三度ほど余計なことを言い、匙はエノクの手が震えているのを見て自分から動こうとし、ティンカーベルに「甘やかすな」と叱られた。シモンはいつもの席に座り、エノクの皿が空になりすぎないよう、さりげなくパンを足してくれた。その動きがあまりにいつも通りで、エノクは胸が苦しくなった。明日の朝、この席に自分はいない。そう思うと、黒パンの味まで覚えておきたくなった。
食後、シモンはエノクを修理小屋へ連れていった。机の上には、もう一つ小さな包みが置かれていた。古い布で丁寧に包まれ、細い銀糸で結ばれている。
「これは?」
「あなたの母上の守り石を入れる袋です。手に握ったまま旅をするわけにはいきませんから」
シモンは包みを解いた。中には、白い石を収めるための小さな革袋があった。袋の表には水輪の紋、裏には小さな白百合の刺繍がある。縫い目は新しかった。昨夜、誰かが作ったのだろう。エノクは指で刺繍をなぞった。
「誰が」
「人形たちです」
「こんな細かいのを?」
「彼女たちは、手仕事が得意です」
修理小屋の隅にいた小さな人形たちが、一斉に顔を逸らした。照れているらしい。エノクは袋を胸に押し当てた。
「ありがとう」
人形の一体が小さく言った。「ほつれたら、帰ってきて直す」
「うん。必ず」
シモンは守り石を袋へ入れ、エノクの首にかけた。王家の鍵は胸元の内側、別の布袋に入っている。二つの重みが、鎖骨の下で近くなった。母の石と王家の鍵。どちらも彼にはまだ大きすぎるものだった。だが、どちらも手放せない。
「鍵は、決して人に見せないように」
シモンが言った。
「うん」
「その形を知る者は少ないですが、カオスの影に触れた者は、光で気づくことがあります。人の多い場所では布袋から出してはいけません」
「うん」
「宝石は一度に大きなものを出さないこと。小さな町では、宝石を持つ少年は獲物に見えます」
「うん」
「宿では入口と窓の位置を見ること。知らない者から渡された食べ物を簡単に口にしないこと。道を尋ねる時は、一人だけでなく二人に聞くこと。夜に聞こえる泣き声へすぐ近づかないこと。川を渡る時は、流れの音を聞くこと。橋が喋ったら、まず礼を言うこと」
「外の橋って喋るの?」
「稀に」
ティンカーベルが呆れたように鳴った。「最後の助言の優先順位がおかしい」
「礼儀は大切です」
「生存の方が大切だ」
「礼儀が生存を助けることもあります」
「それは否定しないが、未熟者の頭に入る量を考えろ」
エノクは苦笑した。「全部は無理かも」
「無理なら、まず三つです」
シモンは指を折った。「名を軽く渡さないこと。鍵を見せないこと。怖い時ほど、自分の足元を見ること」
「足元?」
「遠くの敵ばかり見ていると、近くの穴に落ちます」
「それ、僕がよく転ぶから?」
「はい」
エノクは少しだけ笑った。シモンも微笑んだ。けれど、微笑みの奥は沈んでいた。エノクは、いま聞いている助言の一つ一つが、シモンの中では別れの言葉なのだと分かっていた。だから、できるだけ頷いた。覚えきれなくても、聞き流したくはなかった。
修理小屋を出ると、里の者たちが広場に集まっていた。歩く椅子、窓枠、扉、木彫りの鳥、人形、工具、匙、皿、鍋、井戸、梯子、小道の石、木靴、眠りかけた時計。普段ならそれぞれ勝手に喋り、勝手に動き、誰かが必ず口論を始めるのに、その時は皆、道を開けていた。広場の中央から森の出口へ向かう小道が、まっすぐ伸びている。いつもの不思議な回り道も、いたずらな曲がり角もない。小道は今日だけ、迷わせることをやめていた。
エノクはその道を見て、足が止まった。
「本当に、出るんだ」
自分で決めたことなのに、言葉にすると胸が締めつけられた。
「そうです」
シモンは隣に立っていた。「ただし、戻れないわけではありません」
「戻るには、どうすればいい」
「森は、あなたの名を覚えています。あなたが本当に帰る必要がある時、道は見つかるでしょう」
「今、帰りたくなったら?」
「それは、まだ旅立っていないだけです」
「厳しい」
「今日は、何度でも厳しくなります」
ティンカーベルが言った。「泣き言を言うなら今のうちだ。森を出た後で言うと、私が全部聞く羽目になる」
「聞いてくれるんだ」
「聞こえてしまう。逃げ場がない」
「じゃあ、少しだけ言う」
「何だ」
エノクは広場を見回した。皆が見ている。言うのが少し恥ずかしかったが、言わずに行く方が後悔すると思った。
「怖い。行きたくない。ここにいたい」
広場に静けさが落ちた。ティンカーベルは、すぐには何も言わなかった。シモンも待った。エノクは続けた。
「王子とか、鍵とか、カオスとか、七英雄とか、全部大きすぎる。僕は昨日だって、ティンカーベルに引っ張られなきゃ名喰いに食われてた。外の町で騙されるかもしれないし、道に迷うかもしれないし、宿代の払い方もちゃんと知らない。僕が持ってる宝石だって、どれくらいの価値なのか分からない。剣も使えない。王子としての覚悟なんかない。父さんと母さんの顔も知らない。滅びた王国って言われても、頭では分かっても、胸が追いつかない」
言葉は止まらなかった。言いながら、エノクは自分の未熟さを広場中にさらしている気がした。だが、もう隠しても仕方がなかった。何も知らないまま旅立つのだ。ならば、何も知らないと認めるしかない。
「でも、ここにいたら、また刺客が来る。リドがへこんだり、椅子が折れたり、人形の家が壊れたりする。次は、誰かが本当に戻らないかもしれない。そう思ったら、怖くても、ここにはいられない」
彼は息を吸った。
「だから、行く。魔王を倒しに行くんじゃない。そんなこと、今の僕には言えない。七英雄に会う。シモンが言ったことを聞く。アベルが何を選んだのか、ザッハが何を守ったのか、アリオンが何を言ったのか、阿修羅がなぜ剣を振ったのか、ダイダロスが何を造ったのか、ヨシュアが何を見て、見なかったのか。それを知る。僕が何を背負っているのか、ちゃんと知る。その後で、僕がどうするのか決める」
広場の誰も笑わなかった。誰も「立派だ」とも言わなかった。ただ、それぞれの音で応じた。椅子が脚を鳴らし、井戸が水を深く響かせ、木彫りの鳥が羽を打ち、工具が小さく震え、リドが静かにかたんと鳴った。森が、彼の言葉を受け取った。
ティンカーベルが低く言った。
「長い。旅先では要点を言え」
「今くらい許してよ」
「今だから聞いた」
エノクは剣を見下ろした。柄の宝石が、少しだけ柔らかく光っているように見えた。
「それにしても、最後はまあまあだった。自分が弱いと知っている者は、強くなる余地がある」
「褒めた?」
「少しだけだ。二度言わせるな」
三本脚の椅子が泣きそうな声で言った。「エノク、座ってから行かない?」
「座ったら立ち上がれなくなるかも」
「じゃあ、帰ってきたら最初に座って」
「うん。約束」
老人椅子が厳かに言った。「外の椅子にも礼を尽くしなさい」
「それも約束」
リドが跳ねた。「旅先で鍋蓋に会ったら、自由について語り合ってください」
「鍋蓋って外にも喋るの?」
「語りかければ、いつか返事をします」
「それは僕が危ない人に見えない?」
「すでに喋る剣を腰に下げています」
「たしかに」
小さな笑いが広場に広がった。別れの朝に、笑えることがありがたかった。エノクは一人ずつに触れていった。折れた脚を直したばかりの椅子、片翼を新しくした木彫りの鳥、守り石の袋を縫ってくれた人形たち、修理小屋の扉、いつも文句を言う井戸、寝ぼけた梯子、名のない木剣。全部に長い言葉をかけることはできなかった。けれど、名を呼んだ。エノクにできるいちばん確かな別れは、それだった。
最後に、シモンが小道の入口まで歩いた。エノクも隣に立つ。小道の先は、深い霧に包まれていた。その向こうが外の世界である。町、街道、盗賊、商人、神殿、酒場、海、竜の湖、空の庭、機械の工房、剣の国、そしてカオスの影。何一つ知らない。知らないからこそ、足が重い。
シモンは懐から古い地図を取り出した。羊皮紙は幾度も折られ、端が擦り切れている。そこには大陸の主な道と町、古い聖地、七英雄に関わる場所が、シモンの細い文字で記されていた。
「最初に目指すのは、南東の街道です。森を出て半日ほど歩けば、小さな宿場町があります。そこで道を聞き、まずは人の暮らしを見なさい。すぐに英雄の足跡を追う必要はありません」
「いきなり七英雄のところへ行かないの?」
「外の町でパンを買うことも、旅の始まりです」
ティンカーベルが言った。「まず宿代で騙されない訓練だな」
「騙される前提?」
「世間知らずが宝石袋を持って歩く。騙されない方がおかしい」
「不安を増やすな」
「不安は持っていけ。過信より軽い」
シモンはさらに、小さな封書を差し出した。
「これは、どうしても困った時に開きなさい」
「今開けたら?」
「困ります」
「僕が?」
「私が」
エノクは少し笑い、封書を背嚢の内側へしまった。封には人形の紋と水輪の紋が重ねられている。
「シモン」
「はい」
「シモンは、ここに残って大丈夫なの?」
「大丈夫にします」
「その言い方、昨日も聞いた」
「便利な言い方です」
「ずるい」
「ええ」
シモンは笑った。だが、その笑みには疲労があった。昨夜、結界の傷を塞ぎ続けたせいで、彼の顔色は白い。杖を持たずに立っているが、指先にはまだ銀糸の光が残っていた。
「本当は、一緒に来てほしい」
エノクは言った。
「はい」
「来られないのも分かってる」
「はい」
「だから、ずるいと思ってる」
「それも、受け取ります」
シモンはゆっくり手を伸ばし、エノクの肩に置いた。十六年間、何度も同じ手がそこに触れた。転んだ時、熱を出した時、失敗して落ち込んだ時、悪い夢で起きた時。その手が今、彼を留めるためではなく、送り出すために置かれている。
「エノク。あなたは、王子として旅立つのではありません」
「うん」
「剣士としても、まだ旅立てません」
「それは、分かってる」
「ならば、名を持つ一人として旅立ちなさい。あなたは、エノクです。ランバードの名は、あなたの背後にあります。けれど、あなたの足を動かすのは、その名だけではありません。ここで育った十六年も、あなたの一部です」
シモンの声が、わずかに震えた。
「あなたが何を選んでも、ここで呼ばれた名を忘れないように」
エノクは頷いた。声を出すと崩れそうだった。けれど、言わなければならないと思った。
「育ててくれて、ありがとう」
シモンの目が細く揺れた。彼はすぐに答えなかった。長い時を生きる者にも、言葉を選ぶのに時間が必要な時がある。
「こちらこそ」
やがて、シモンは言った。「私に、あなたを育てさせてくれて、ありがとう」
エノクは耐えきれず、シモンに抱きついた。十六歳になって、もう子どもではないと思っていた。昨日、自分が王子だと知らされ、今日は剣を腰に下げて旅に出る。それでも、この瞬間だけは子どもでいたかった。シモンは静かに抱き返した。森の者たちは何も言わなかった。ティンカーベルも、その時ばかりは黙っていた。
抱擁は長くは続かなかった。長くすれば、離れられなくなる。エノクは一歩下がり、袖で目元を乱暴に拭った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
シモンは答えた。その言葉が、別れではなく日常の挨拶であることに、エノクは救われた。帰る場所から送り出される者だけが聞ける言葉だった。
小道が、霧の奥へ伸びた。エノクは一歩踏み出した。苔が沈む。二歩目で、背嚢の重みが肩に食い込んだ。三歩目で、ティンカーベルが言った。
「歩幅が大きい。焦るな。旅は最初の十歩で格好をつけると、十一歩目で足をくじく」
「最後までうるさいな」
「最初だからうるさい」
「これからも?」
「当然だ」
エノクは少し笑った。振り返ると、里の者たちがまだ見ていた。椅子も、リドも、人形たちも、木彫りの鳥も、扉も、井戸も、シモンも。彼は手を振った。皆がそれぞれのやり方で応えた。椅子は脚を上げ、リドはかたんと鳴り、人形は小さな布の手を振り、木彫りの鳥は片翼で飛び上がり、井戸は水を跳ねさせた。シモンはただ、片手を胸に当てた。
霧が濃くなった。里の姿が薄れていく。小道はまっすぐ続いていたが、背後はすぐに見えなくなった。エノクは胸元の二つの袋に触れた。王家の鍵。母の守り石。背には路銀代わりの宝石、腰にはティンカーベル、心には帰る場所の約束。持っているものは多い。けれど、彼自身はまだ空っぽに近かった。王子としての覚悟はない。剣士としての力もない。魔王を倒す誓いも、英雄になる決意もない。ただ、知らなければならないと思った。自分が何を背負わされ、何を受け取り、何を選べるのかを。
やがて霧が薄れ、森の外の光が見えた。そこには、彼が初めて見る本当の街道があった。土は踏み固められ、車輪の跡が走り、遠くの丘には人の作った柵が見える。森の中の道と違って、その道は勝手に歩いてくれなかった。行き先を選ぶのは、歩く者の足だった。
エノクは境のところで立ち止まった。背後の森は、もうただの深い木立に見える。不思議な里の灯も、喋る扉も、歩く椅子も見えない。外の人間が見れば、そこに隠れ里があるとは思わないだろう。シモンが結界を閉じ始めているのだ。
「ティンカーベル」
「何だ」
「僕、本当に行くんだな」
「今さら確認するな。もう十歩以上歩いた」
「十歩で戻ったら?」
「森の連中が泣く。シモンが困った顔をする。私は罵倒する」
「じゃあ、行くしかない」
「その程度の理由でも、足は前に出るなら十分だ」
エノクは街道へ足を置いた。土の感触が違った。森の苔のように優しく沈まず、石畳のように整ってもいない。硬く、乾き、ところどころ小石が足裏に当たる。外の世界の道だった。
その瞬間、胸元の鍵が一度だけ淡く光った。遠いどこかで、星の船の影が微かに身じろぎしたような気がした。カオスはまだ遠い。だが、完全に遠いわけではない。大陸のどこかで黒い炎が燃え、名を失う者がいる。七英雄はそれぞれの傷と沈黙を抱え、古い伝承の奥に隠れている。エノクはそれらをまだ知らない。知らないから、進むのだ。
彼は振り返らなかった。振り返れば、また森へ戻りたくなると分かっていた。代わりに、胸の中で名を呼んだ。シモン。リド。椅子たち。人形たち。パーカス。セリス。アルクス。まだ顔も知らない父と母の名は、うまく胸に馴染まなかった。けれど、呼んだ。呼び続ければ、いつか自分の中で場所を持つかもしれないと思った。
「まずは、宿場町だね」
エノクは言った。
「まずは、歩き方だ」
ティンカーベルが返した。「右肩が上がっている。背嚢に負けるな。王家の鍵を持つ前に荷物に負けるな」
「王子扱いしないんだ」
「王子扱いされたければ、まず転ぶな」
「厳しい」
「妥当だ」
エノクは笑った。笑いながら、少しだけ泣いた。涙は頬を一筋だけ伝い、すぐに朝風で乾いた。森の外の風は冷たく、知らない匂いがした。煙、土、遠くの家畜、人の暮らし、そして微かな黒い炎の残り香。怖かった。けれど、足は止まらなかった。
滅びた王国の王子は、まだ王子ではなかった。聖剣を持つ少年は、まだ剣士ではなかった。魔王を討つ者でも、英雄でも、世界を救う者でもなかった。ただ、エノクという名を持つ一人の少年が、喋る剣に叱られながら、不思議の森の外へ歩き出したのである。
その旅の目的は、勝利ではなかった。復讐でもなかった。まずは会うこと。聞くこと。知ること。七英雄と呼ばれた者たちの光と傷に触れ、自分が何を受け取ったのかを知ること。
朝の街道は、長く続いていた。エノクは背嚢を背負い直し、胸元の鍵と守り石を確かめ、ティンカーベルの鞘を腰に押さえた。そして、最初の一歩より少しだけ確かな足取りで、まだ知らぬ世界へ向かって歩き始めた。




