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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第1部 滅びた王国と森の王子
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第7話_隠れ里襲撃

 夜明け前、不思議の森は息を潜めていた。いつもなら、まだ眠っているはずの窓が寝ぼけ声で欠伸をし、井戸が水底で夢を見ながら小さく笑い、台所の鍋蓋が誰にも頼まれていない議題を食器棚へ提出する頃であった。だが、その朝に限って、森は何も言わなかった。茸の灯は青白く震え、枝から吊るされた木製の鳥籠は風もないのに微かに揺れ、里の入口へ続く小道は、昨日まであったはずの曲がり角をひとつ隠していた。小道は怖がっていた。道でありながら、どこへ続けばよいかを忘れたように、苔の上で細く縮こまっていた。


 エノクは、剣に起こされた。


「起きろ」


 寝台の横から声がした。短く、鋭く、寝起きの少年にかけるには少しも優しくない声であった。


「……まだ暗い」


「暗いから起きるんだ。明るくなってから起きるのは鶏でもできる」


「鶏は偉いよ。毎朝ちゃんと起きる」


「鶏に負けている自覚があるなら上等だ。起きろ、未熟者」


 エノクは布団の中で呻いた。昨日の訓練で全身が痛い。肩は石を背負っているように重く、腿には見えない杭を打たれたような鈍痛があり、手のひらには柄を握り続けた痺れが残っていた。眠れるなら、昼まで眠りたかった。だが、ティンカーベルの声にはいつもの意地悪だけではない硬さがあった。エノクは片目を開けた。寝室の窓の外は、まだ深い藍色に沈んでいる。星は見えなかった。森の枝が空を覆っているからではない。星を見るべき空そのものが、薄い黒い膜で曇っていた。


「何か来てる?」


 エノクが起き上がると、寝台が心配そうに軋んだ。ティンカーベルは鞘に収まったまま、宝石のような柄飾りだけを微かに光らせていた。


「来ている。まだ結界の外だが、匂いが変わった」


「剣に匂いが分かるの?」


「分かる。血、錆、嘘、恐怖、未熟な寝汗」


「最後のはいらない」


「事実は必要かどうかに関係なく存在する」


 エノクは急いで上着を羽織り、胸元の布袋を確かめた。中の金属片は、熱を持っていた。昨日よりも、はっきりと。まるで眠っていた小さな心臓が、急に早く打ち始めたようだった。彼は息を呑んだ。布袋を握った瞬間、遠い水音と、石の崩れる音が耳の奥に蘇りかけた。だが、それはまたすぐに消えた。


 扉が勝手に開いた。廊下にはシモンが立っていた。灯を持たず、長衣の上から薄い外套を羽織っている。顔はいつも通り穏やかだった。だが、目が違った。森の朝を見る目ではなく、かつて戦場を見た者の目だった。


「エノク。剣を」


「分かってる」


「分かっていない顔ですが、持ちなさい」


 ティンカーベルが言うと、エノクはむっとしながら剣を腰に下げた。鞘の位置を直される。剣がわずかに重くなった気がした。昨日までは訓練の道具であったものが、今はもっと違う意味を持っている。彼はその意味をまだ言葉にできなかったが、背中が冷えるほどには感じていた。


 廊下へ出ると、家の中の道具たちが目を覚ましていた。椅子たちは脚を折りたたまず、食卓の下へ子どもの人形たちを隠している。リドは珍しく鍋の上で黙っていた。窓はすべて閉まり、隙間から外を覗いている。階段は足音を立てないよう、段を柔らかくしていた。人形たちの小堂から、細い祈りの歌が聞こえる。歌詞はなかった。ただ、糸と木と布が互いの名を確かめ合うような響きだった。


「外へ出ます」


 シモンが言った。


「僕も?」


「はい」


「戦うの?」


「あなたは、私のそばに。ティンカーベルの言うことを聞きなさい」


「私の言うことを聞け。シモンの言うことは半分でいい」


「半分?」


「優しすぎる分を引け」


 シモンは叱らなかった。エノクはそのことがかえって怖かった。いつもなら「ティンカーベル」と困ったように名を呼ぶはずなのに、今朝は何も言わない。剣の辛辣さを否定する余裕がないのだ。


 外へ出ると、里は青い霧に沈んでいた。茸の灯は消えかけ、修理小屋の扉は目を開けたまま固まっている。広場の中央では、歩く椅子たちが輪を作り、その内側に小さな人形や壊れやすい道具たちを集めていた。木彫りの鳥が何羽も低く飛び、北の結界柱の方へ向かっては戻り、また飛んでいく。森全体が一つの生き物となって、目に見えぬ傷口を塞ごうとしているようだった。


 北の結界柱は、昨日よりも黒くなっていた。七本の古木のうち最も高いその幹には、赤黒い筋が根元から枝先まで走り、埋め込まれた鏡片のいくつかは内側から曇っている。葉はまだ落ちていない。だが、葉の影が地面に映らなかった。そこだけ朝が来ていないようだった。


 シモンは柱の前へ進み、杖を地に立てた。杖といっても、歩くためのものではない。古い人形の腕、錆びた鍵、折れた針、木の根、銀糸を組み合わせた、不思議な形の杖である。彼が普段それを持つことはほとんどなかった。エノクは初めて見た。ティンカーベルが低く言った。


「本気だな」


「シモンが?」


「あれはただの修理師の杖ではない。傀儡子シモンの杖だ」


 エノクはシモンの背を見た。傀儡子。その言葉は、古い聖戦の歌の中で聞いたことがある。命を器へ宿す者。人形を友とし、壊れたものの声を聞く英雄。だが、歌の中の人物と、毎朝粥を温め、椅子の脚を直し、鍋蓋のわがままに付き合っているシモンが、どうしても一つに重ならなかった。


 結界の外で、何かが笑った。


 声はなかった。けれど、笑ったことだけは分かった。森の霧が外側から押され、透明な壁に黒い指が触れたように、空間が歪んだ。次の瞬間、結界柱の鏡片の一つが割れた。割れた破片から黒い煙が噴き、煙の中から細い腕が伸びた。人の腕ではない。指が七本あり、爪は針のように細い。その腕が結界の内側の空気を掴もうとした。


 シモンが杖を上げた。


「退きなさい」


 穏やかな声だった。だが、その響きは里のすべての道具へ届いた。眠っていた針が目を覚まし、扉の蝶番が鳴り、修理小屋の工具が壁から浮いた。広場の椅子たちが脚を踏み鳴らす。人形たちが一斉に顔を上げる。シモンの杖の先で、銀糸がほどけるように光った。


 黒い腕は引かなかった。むしろ、割れた鏡片の隙間からさらに身をねじ込んできた。腕の奥に、顔があった。顔と呼ぶべきかも怪しい。仮面のように平らで、目鼻はなく、ただ口だけが縦に裂けている。口の中には舌の代わりに小さな文字のようなものがびっしりと並び、そこから赤黒い息が漏れていた。


「名喰いだ」


 ティンカーベルの声が変わった。軽口が消え、刃だけが残る。


「名喰い?」


「カオスの影に舌を貸した雑魚だ。だが、食われると面倒だぞ。名を呼ばれる前に、自分が誰か分からなくなる」


 エノクの喉が冷えた。名を食う。森で育った彼にとって、それは死よりも不気味な言葉だった。ここでは壊れた匙にも、曲がった釘にも、名前を待つ権利がある。名を奪われるとは、ただ殺されるよりも深く失われることだった。


 名喰いは口を震わせた。そこから、幾つもの声がこぼれた。


「エ……ノ……ク」


 自分の名を呼ばれた瞬間、エノクの胸元の金属片が激しく熱を発した。彼は思わず布袋を押さえる。黒い腕が、まっすぐ彼の方へ伸びた。


「下がれ」


 ティンカーベルが叫ぶより早く、シモンの杖が振られた。銀糸が空中を走り、名喰いの腕に巻きつく。糸はただ縛るのではなく、腕の輪郭を縫い直すように締め上げた。黒い腕が軋み、指が一本ずつほどける。シモンは静かに告げた。


「この森の名を、あなたに渡すつもりはありません」


 杖の先が光った。腕は鏡片ごと外へ弾き出された。結界柱が大きく震え、黒い裂け目はいったん塞がった。だが、それで終わりではなかった。北の霧全体が、赤黒く濁った。ひとつではない。いくつもの名喰いが、結界の外に群れている。彼らは森の正確な位置を見つけたわけではなかったのかもしれない。だが、傷の匂いを嗅ぎつけた獣のように、結界の弱い箇所へ集まっていた。


 シモンは振り返らずに言った。


「エノク。剣を抜きなさい」


「え」


「抜け」


 ティンカーベルの声が鋭かった。「今は驚く場面ではない。動け」


 エノクは柄を握った。手が震える。昨日の訓練とは違う。木球ではない。丸太ではない。名を食うものが、すぐそこにいる。彼は剣を抜いた。鞘から現れた刃は、予想していた鋼の色ではなかった。薄い銀の刃の内側に、木目のような淡い線が流れている。刃というより、光を薄く伸ばして鍛えたもののようだった。


「構えろ。膝。肩。目。息」


「一度に」


「昨日と同じ文句を言うな。敵は昨日より多い」


 エノクは構えた。膝を少し曲げ、肩を落とす。ティンカーベルの重心が手の中で動き、身体の向きを整える。結界柱の右側で、また鏡片が割れた。小さな名喰いが一体、半身だけを内側へ滑り込ませた。シモンは大きな裂け目へ向かっており、そちらへ手を回せない。


「来るぞ」


 ティンカーベルが言った。


「どうすれば」


「私を邪魔するな」


 名喰いが跳んだ。口が縦に裂け、そこから細い文字の舌が伸びる。エノクは動けなかった。身体が、恐怖で止まった。だが、剣は止まらなかった。ティンカーベルが彼の腕を引き、足を半歩下げさせ、刃を斜めに払う。名喰いの舌が刃に触れた瞬間、銀の火花が散った。黒い文字がいくつも砕け、地面に落ちる前に灰になった。


「腕が遅い。恐怖が先に立っている」


「怖いんだよ」


「それでいい。怖くない奴は先に死ぬ。怖いまま動け」


 名喰いは再び跳んだ。今度は低く、足元を狙う。エノクはティンカーベルに引かれながら横へ転がった。苔に肩を打つ。痛みが走った。だが、名喰いの爪は空を切った。剣が勝手に返り、黒い足を斬る。名喰いは声にならぬ声を上げた。エノクの手首が悲鳴を上げる。ティンカーベルの動きに身体が追いつかない。


「重い、速い、無理」


「三つも文句を並べる余裕があるなら立て」


「本当に容赦ないな」


「容赦は敵に食わせろ」


 エノクは立った。名喰いはまだ倒れていない。足を斬られても、黒い煙が傷口をつなぐ。だが、動きは鈍った。ティンカーベルが低く言う。


「次は、お前が踏み込め」


「僕が?」


「私だけでは届かない。刃は足で届かせる。左。今」


 エノクは踏み込んだ。怖かった。足が地面から離れる瞬間、自分が前へ出ることの意味が分かった。逃げる場所が一歩分減る。だが、同時に届く場所が一歩分増える。ティンカーベルの刃が弧を描き、名喰いの口を斬った。黒い文字が砕け、縦に裂けた顔が崩れる。名喰いは煙となり、結界の外へ弾き飛ばされた。


 エノクは息を荒げた。勝ったのではない。ティンカーベルに使われ、どうにか倒れずに済んだだけだ。それでも、手の中には確かに斬った感触が残っていた。彼の顔から血の気が引く。生きているものを斬ったのではない。そう自分に言い聞かせようとした。だが、斬ったものが何であれ、刃は境を作る。その境の向こう側に、今の自分とは違う自分が立っていた。


「吐くなよ」


 ティンカーベルが言った。


「吐きそう」


「吐くなら左を向け。鞘にかけるな」


「そこ心配する?」


「剣にとって重大だ」


 エノクは笑いそうになり、同時に泣きそうになった。だが、そんな余裕は長く続かなかった。結界の正面で、大きな裂け目が開いた。名喰いたちの群れが押し寄せる。彼らの背後には、さらに濃い影があった。人の形をしているが、輪郭は霧のように曖昧で、頭部だけが異様に長い。両手には黒い鈴のついた杖を持ち、その鈴が鳴るたび、結界柱の葉が一枚ずつ黒く染まる。


「あれは」


 エノクが声を漏らす。


「刺客の核ですね」


 シモンが答えた。彼は結界柱の前に立ち、杖を両手で握っている。額には汗が浮かび、顔色はいつもより白かった。森の結界を維持しながら敵を退けるのは、彼ほどの者にも重い負担であるらしい。


 黒い影が、初めて言葉を発した。


「鍵を、返せ」


 それはカオスの声ではなかった。もっと小さい。だが、その言葉の奥には、星の船の赤黒い空気があった。


「アベルの血を、差し出せ。ランバードの名を、消し残した罪を正せ」


 エノクの胸が跳ねた。アベル。ランバード。その言葉は知っている。聖戦の歌に出てくる名。滅びた王国の名。だが、なぜそれが自分へ向けられているのか、分からなかった。いや、分かりたくなかった。胸元の鍵片が、焼けるように熱い。


「シモン」


 彼は声を絞った。「今の、何」


「後で話します」


「今、聞こえた。僕に言ったの?」


「エノク、前を見ろ」


 ティンカーベルが怒鳴った。「戦っている時に答え合わせをするな」


 その言葉通り、名喰いが三体、同時に飛び込んできた。シモンが杖を振る。広場の椅子たちが一斉に走り出し、脚で地面を蹴って名喰いたちへぶつかった。椅子の背もたれが盾となり、座面が跳ねて魔物を押し返す。修理小屋から工具が飛び出し、釘、鎚、鋸、錐が空中で銀の群れとなって名喰いの舌を断った。人形たちは糸を伸ばし、小さな身体で互いを結び、結界柱の割れた鏡片を押さえる。リドまで台所から飛び出し、鍋の蓋としてではなく円盤のように回転して、黒い爪を弾いた。


「散歩の成果です」


 リドが叫んだ。


「後で褒める」


 エノクは剣を握り直した。ティンカーベルが短く言う。


「右。低い。受けるな、流せ」


 彼は従った。昨日より遅い。敵は速い。だが、昨日より一つだけ違う。怖いまま動くことを、少しだけ知った。ティンカーベルに使われながら、エノクは倒れ、起き、避け、斬った。名喰いの爪が袖を裂き、肩に細い傷が走る。血が出た。その赤さを見た瞬間、エノクは自分が本当に傷つく場所に立っていることを知った。


「エノク」


 シモンの声が飛んだ。「下がりなさい」


 黒い影の刺客が、鈴の杖を掲げた。鈴の音が鳴る。世界が一瞬、遠のいた。エノクの耳から音が消えた。自分の名が、自分の内側から浮き上がるような感覚があった。エノク。誰の名だ。誰が呼んだ。どこで生まれた。何に属する。問いが舌のない声となって頭の中を満たす。彼は膝をついた。胸元の鍵片が燃える。布袋が焼け焦げ、金属片の白い光が露わになった。


 刺客の影が、まっすぐエノクを見た。


「鍵」


 影が言った。「見つけた」


 その瞬間、シモンの穏やかな顔が完全に消えた。彼は杖を地に突き立て、両腕を広げた。森じゅうの声が、彼のもとへ集まった。椅子の軋み、扉の蝶番、井戸の水音、木彫りの鳥の羽音、壊れた人形の小さな呼吸、鍋蓋の金属音、剣の鞘鳴り。すべてが一つの糸となり、シモンの指へ結ばれていく。


「ここは、名あるものの森」


 シモンの声は、もう穏やかな修理師のものではなかった。古い英雄の声であった。「捨てられたものにも名があり、壊れたものにも帰る場所がある。カオスの舌よ。ここで食える名は、一つもない」


 杖が光を放った。銀糸が空を覆い、結界の裂け目を内側から縫い合わせる。刺客の影が鈴を鳴らした。赤黒い波と銀の糸がぶつかり、森の朝が白く弾けた。エノクは目を閉じた。ティンカーベルが彼の腕を引き、身体を地面へ伏せさせる。轟音。木々の悲鳴。砕ける鏡。鈴の割れる音。


 次に目を開けた時、北の結界柱は半分ほど裂けていた。だが、刺客の影は消えていた。名喰いたちもいない。黒い煙が幾筋か空へ上り、結界の外へ逃げていく。シモンは柱の前に立っていたが、杖に体重を預けていた。彼の髪に、昨日より明らかに白いものが増えていた。


「シモン」


 エノクは立ち上がろうとして、膝が崩れた。ティンカーベルが呟く。


「無理に立つな。今のお前は立つより這う方が速い」


「うるさい」


「言い返せるなら生きてる」


 エノクは這うようにシモンのそばへ行った。広場には被害が出ていた。椅子の一脚は脚を折り、修理小屋の扉には黒い爪痕が残り、人形の小堂の屋根が半分崩れている。リドは地面に転がり、へこんだ身体で「これは散歩ではなく出張でした」と弱々しく言った。木彫りの鳥が一羽、羽を失って苔の上に落ちている。誰も死んではいないのかもしれない。だが、森は傷ついた。隠れていた里が、初めて外から触れられた。


「退けたの?」


 エノクが問う。


「はい」


 シモンは答えた。


「じゃあ」


「見つかりました」


 その一言で、エノクの胸が冷えた。


「今は退けました。ですが、彼らはこの森があることを知った。結界の匂いを覚えました。次は、もっと多く来ます。もっと強いものが」


「直せないの?」


「傷は塞げます。ですが、一度見つかった隠れ場所は、もう隠れ場所ではありません」


 エノクは言葉を失った。自分の胸元の鍵片を見る。布袋は焼け、金属片が露わになっていた。銀とも金ともつかぬ色。刃の欠片のようでもあり、鍵の歯のようでもある。触れると、熱はもう引いていた。だが、そこにあるだけで、里全体の視線を集めているような気がした。


「さっき、あいつが言った」


 エノクの声は震えていた。「アベルの血。ランバード。鍵。あれは、僕のこと?」


 シモンは目を閉じた。ティンカーベルは何も言わなかった。周囲の道具たちも、驚いた様子を見せなかった。まるで、エノクだけが知らなかったことを、森の多くは長いあいだ息を潜めて抱えていたようだった。


「エノク」


 シモンは言った。「家へ戻りましょう。話さねばなりません」


 その「話さねばならない」という言葉は、エノクが十六年間待っていたものだったはずである。シモンが隠している何か。胸元の鍵片。悪い夢。自分だけが知らない過去。知りたいと思ったことは何度もあった。だが、今、その扉が開くと知った瞬間、彼は逃げたくなった。


「ここで言って」


 エノクは言った。


「傷の手当てを」


「ここで言って」


 声が少し大きくなった。シモンは彼を見つめた。エノクは自分でも分かっていた。これは勇気ではない。逃げ場をなくすための意地だった。家へ戻れば、椅子があり、台所があり、いつもの食卓がある。その場所で聞けば、今までの暮らしが崩れるのをもっと強く感じる。ならば、壊れた結界柱の前で聞いた方がましだった。


 シモンは静かに頷いた。


「あなたは、ランバード王家の子です」


 言葉は、驚くほど簡単だった。だからこそ、エノクには最初、意味が入ってこなかった。


「……ランバードって」


「十六年前に滅びた王国です。白城と青川の国。聖騎士アベルの血を引く王家が治めていた国」


「それは知ってる。古い地図にあった。歌にも出てくる。でも、滅びたって」


「あなたは、その王国の最後の王子です」


 風が止まった。森の音が遠のいた。エノクはシモンの顔を見た。冗談ではない。比喩でもない。シモンは、彼が最も嫌う種類の嘘をついていない。


「違う」


 エノクは反射的に言った。


「エノク」


「違う。僕は、ここで育った。シモンに拾われて、里で暮らして、リドを追いかけて、椅子の脚を直して、木剣に転び方を教わって、それで」


「そのすべては、本当です」


「じゃあ、王子なんかじゃない」


「それもまた、あなたの一部です」


「一部って何だよ」


 声が荒くなった。エノクは自分が怒っているのか、怯えているのか分からなかった。ランバード王家。最後の王子。そんな言葉は、遠い物語の中に置いておくべきものだった。自分の胸や手や傷や汗に結びついてよいものではない。


 シモンは言葉を選びながら続けた。


「あなたは、アルティエル暦一〇一八年、ランバード王城で生まれました。王妃セリス様があなたを産み、水鏡にあなたの名が映りました。その名が、エノクです」


 エノクの耳の奥で、遠い声がした。エノク。母の声かもしれない。彼は頭を振った。


「その夜、星の船が帰還しました。カオスの魂魄が王都へ降り、王家にパンドラボックスの鍵を渡せと要求した。王は拒みました」


「カオスは、千年前に封じられたんじゃ」


「肉体は封じられました。魂魄と名は、完全には滅びなかった」


 ティンカーベルが低く補った。「聖典が歌うほど、世界はきれいに勝っていない」


 エノクは剣を見た。「君も知ってたのか」


「知っていた」


「どうして言わなかった」


「剣は鞘から出されるまで黙っているものだ」


「嘘だ。君、昨日からずっと喋ってた」


「肝心なことを喋るには、持ち主が肝心でなければならない」


「僕は肝心じゃなかった?」


「お前はまだ立っていなかった」


 エノクは言い返せなかった。怒りはあった。だが、ティンカーベルの声にも、シモンの声にも、彼を馬鹿にする響きはなかった。むしろ、遅すぎた告白に痛んでいる。


 シモンは胸元から小さな白い守り石を取り出した。エノクは息を呑んだ。石に見覚えがあるはずはない。だが、なぜか胸が詰まった。


「これは、王妃セリス様があなたの産着に忍ばせたものです」


「母さん……」


 その言葉は、考えるより先に口から出た。エノクは自分で驚いた。母。彼には母がいなかった。シモンが育ててくれた。里の者たちが世話を焼いてくれた。けれど、母と呼ぶ相手はいなかった。いなかったはずなのに、その言葉だけは、長い間どこかで待っていたように自然だった。


 シモンは守り石をエノクの手に置いた。


「あなたの父上は、ランバード王。名は、アルクス。強く、厳しく、けれどあなたを王国の道具にしないと誓った方でした。母上セリス様は、あなたを名のないまま夜を越させたくないと命名の儀を望み、最後にはあなたを生かすため、自らの腕から離しました」


 エノクの手が震えた。守り石は小さく、温かくも冷たくもない。ただ、重かった。


「嘘だ」


 彼は小さく言った。先ほどとは違う声だった。否定ではなく、お願いに近かった。


「嘘ならよかった」


 シモンの声が揺れた。「十六年前、王宮地下の旅の扉が開き、あなたはこの森へ送られました。あなたを抱いていたのは、パーカスという執事です。彼は追手を止めるため、扉を壊し、命を落としました」


 エノクの脳裏に、あの声が蘇った。どうか、よき朝を。知らないはずの声。夢の中で時折聞こえた声。


「僕は」


 エノクはうまく息ができなかった。「僕は、みんなに逃がされたの?」


「はい」


「父さんも、母さんも、その執事も、騎士たちも、みんな」


「あなたを生かすためだけではありません」


 シモンは言った。「鍵を未来へ渡すためでもあります」


 エノクは胸元の金属片を見た。


「これが、パンドラボックスの鍵?」


「そうです。千年前、カオスの肉体を封じた箱を開き、また閉じるための鍵。ランバード王家が守り続けてきたものです。カオスが今も完全な肉体を取り戻せないのは、その鍵を持たないからです」


「じゃあ、さっきのやつらは、これを取りに」


「はい。あなたを探していました。正確には、あなたの名と血と鍵を」


 エノクは後ずさった。足元の苔が沈む。里の者たちの視線が、彼へ向いている。責めている視線ではない。誰も彼を責めていない。だからこそ苦しかった。結界柱が傷ついた。椅子の脚が折れた。人形の小堂が壊れた。リドはへこみ、木彫りの鳥は羽を失った。さっきの刺客は、自分を探してここへ来た。


「僕のせいだ」


 エノクは呟いた。


「違う」


 シモンは即座に言った。


「だって、鍵があるから。僕がいるから、ここが見つかった」


「狙ったのはカオスです。傷つけたのは刺客です。あなたではありません」


「でも、僕がいなければ」


「その言葉を使うな」


 ティンカーベルが鋭く言った。エノクは驚いて剣を見た。ティンカーベルの声には怒りがあった。


「生き残った者が最初に覚える毒だ。自分がいなければ。自分が生きたから。自分のせいで。そんなものを抱いて剣を持つな。重くて腕が鈍る」


「でも」


「でも、ではない。お前を逃がした者たちは、お前が自分を呪うために死んだのか」


 エノクは息を呑んだ。


「違うだろう。なら、そこだけは間違えるな」


 厳しい言葉だった。だが、その厳しさはエノクを斬るためではなく、彼が自分の喉元へ向けかけた刃を叩き落とすためのものだった。エノクは守り石を握りしめた。涙は出なかった。まだ、泣く場所まで感情が届いていなかった。胸の中が、広すぎる空洞になっている。


「僕は、どうすればいい」


 彼はシモンへ問うた。


「逃げるの?」


「はい」


 シモンは答えた。


 エノクは顔を上げた。「戦わないの?」


「今のあなたでは、戦えません」


「ティンカーベルがいれば」


「剣に使われて生き延びることと、戦うことは違います」


 シモンの声は優しかったが、容赦はなかった。エノクは唇を噛んだ。昨日までなら、守られることにそこまで傷つかなかったかもしれない。けれど、真実を聞いた後では違った。自分を生かすために多くの者が死んだと知った直後に、自分は何もできないと言われる。それは、想像していたどんな刃より痛かった。


「じゃあ、僕は鍵を持って逃げ回ればいいの?」


「いいえ」


 シモンは首を振った。「あなたは、七英雄を探しなさい」


 森の空気が変わった。七英雄。その名は誰もが知る。聖騎士アベル、傀儡子シモン、竜王ザッハ、吟遊詩人アリオン、剣神阿修羅、機械使いダイダロス、盲目の賢者ヨシュア。聖天使アルティエルとともに魔王カオスを封じたと伝えられる者たち。エノクは幼い頃から、その歌を聞いて育った。けれど、それは歌であって、旅の行き先ではなかった。


「七英雄って、千年前の人たちだろ」


「私がここにいます」


 シモンは静かに言った。


 エノクは言葉を失った。知っていたはずだった。シモンが傀儡子と呼ばれる存在であることを、今日の戦いで見た。だが、あえて考えないようにしていた。目の前の穏やかな修理師が、聖戦の英雄の一人だということを受け入れるには、今日一日で知ったことが多すぎた。


「シモンは……本当に、七英雄なの」


「そう呼ばれたことがあります」


「呼ばれたことがある、じゃなくて」


「私は、かつてカオス封印に加わった一人です」


 シモンの目が深く沈んだ。「そして、完全には救えなかった一人でもあります」


 その言葉の意味を、エノクはまだ理解できなかった。だが、シモンが背負っているものの重さだけは伝わった。七英雄は、壁画の中で光っているだけの存在ではない。目の前に立つこの人は、笑い、鍋蓋に困り、少年を育て、そして千年前の失敗を今も抱えている。


「僕が、七英雄を探してどうするの」


「鍵を持つ者が、何を背負っているのかを知るためです」


「カオスを倒すんじゃないの?」


「それを急いではいけません」


 シモンははっきりと言った。「カオスは、剣を抜いて向かえば倒せる敵ではありません。千年前、私たちは力を集め、知恵を集め、命を賭け、それでも封印は完全ではなかった。あなた一人が怒りと恐怖で走っても、星の船には届かない」


 エノクは拳を握った。「じゃあ、何のために」


「知るためです。アベルが何を選んだのか。ザッハが何を守ったのか。アリオンがどんな言葉を残したのか。阿修羅がなぜ剣を振るったのか。ダイダロスが何を造り、ヨシュアが何を見過ごしたのか。そして、私が何を間違えたのか」


「間違えた?」


「はい」


 シモンは視線を伏せた。「あなたには、英雄の輝きだけでなく、英雄の傷を知ってほしい。そうでなければ、あなたはただ古い歌をなぞるだけになります」


 ティンカーベルが低く笑った。


「古い歌をなぞるだけの未熟者は、だいたい二番で死ぬ」


「二番って何」


「歌の話だ。長く保たないという意味だ」


「今、真面目な話なんだけど」


「私は真面目に失礼だ」


 そのやり取りに、ほんの少しだけ空気が緩んだ。エノクは自分がまだ息をしていることを思い出した。守り石を握る手は震えている。胸元の鍵は重い。だが、完全に膝を折ることだけは、まだしていなかった。


「七英雄を探せって言うけど」


 エノクはシモンを見た。「シモンは一緒に来ないの?」


 シモンは答えなかった。答えなくても、エノクには分かってしまった。彼は結界柱を見た。裂けた幹。黒く染まった葉。傷ついた里。もしシモンがここを離れれば、この森はどうなるのか。歩く椅子、人形、小道、井戸、リド、修理を待つ道具たち。彼らはただの物ではない。皆、名を持つ命だった。


「行かないんだ」


「私は、この里を閉じ直さねばなりません」


「でも、また来るって」


「だからこそです」


「僕だけ逃げろってこと?」


「旅立て、ということです」


 エノクは声を荒げた。「同じだろ」


「違います」


「何が違うんだよ。父さんも母さんも知らないうちに死んで、パーカスって人も僕を逃がして死んで、今度はシモンも里に残るって言う。僕はまた、誰かを残して行くのか」


 言ってから、エノクは自分の言葉に傷ついた。十六年前の記憶などないはずなのに、「また」と言ってしまった。身体の奥に、置いていかれた赤子の痛みが残っていたのかもしれない。


 シモンは近づき、エノクの肩に手を置いた。


「あなたは、置いていくのではありません。託されるのです」


「同じだ」


「今は、同じに感じるでしょう」


「ずるいよ、そういう言い方」


「はい」


 シモンは素直に認めた。「大人は時々、ずるい言い方をします。自分が耐えられない痛みを、若い者がいつか理解してくれると信じるふりをする」


「シモン」


「それでも、言わねばなりません。エノク。あなたはここに留まってはいけない。里にいれば、カオスの影は何度でも来ます。そして次は、今日より多くの名が傷つく」


 エノクは周囲を見た。脚を折った椅子が、わざと元気そうに身体を揺らしている。リドはへこんだまま、「私は円形なので多少の変形は個性です」と言った。木彫りの鳥は片翼で枝へ戻ろうとして、別の鳥に支えられていた。誰もエノクを責めない。誰も早く出ていけと言わない。だからこそ、彼は分かってしまった。ここに残りたいという願いが、彼らを危険にさらすのだと。


「僕は」


 エノクの声は掠れた。「王子なんかじゃない」


「はい」


 シモンは言った。


「え」


「あなたはまだ、王子であろうとしなくてよい」


 エノクは驚いてシモンを見た。


「王子として立とうとすれば、あなたは潰れます。剣士として戦おうとしても、まだティンカーベルに使われるばかりでしょう。カオスを倒す者になろうとすれば、最初の町に着く前に心が折れるかもしれません」


「そこまで言う?」


「言います。事実ですから」


 ティンカーベルが満足そうに鳴った。「たまにはシモンも切れ味がいい」


 シモンは続けた。


「だから、まずは何者でもないまま旅立ちなさい。エノクとして。名を持つ一人として。七英雄に会い、聞き、見て、あなたが何を背負うのかを知りなさい。背負うかどうかを決めるのは、その後でよい」


「決めていいの?」


 エノクは思わず問うた。「僕が?」


「はい」


「鍵を持ってるのに?」


「鍵を持つ者だからこそです。持たされたものを、ただ重いと泣くのでも、ただ誇るのでもなく、自分で意味を知りなさい」


 エノクは胸元の鍵片を握った。熱は静かだった。先ほどまで彼を焼くようだった金属片は、いまはただ重く、冷たく、確かにそこにあった。


「怖い」


 エノクは言った。ようやく、その言葉だけが本当の場所から出てきた。


「怖くて当然です」


 シモンは答えた。


「何も知らない。外の世界も、父さんも母さんも、王国も、カオスも。剣だって全然使えない。ティンカーベルに引っ張られないと、さっきだって死んでた」


「そうだな」


 ティンカーベルが言った。


「そこは少し慰めて」


「怖いと認めたのは、今日一番ましだ」


 エノクは剣を見た。ティンカーベルの宝石がかすかに光っている。


「それ、褒めてる?」


「少しだけだ。調子に乗るな」


 エノクは笑いかけ、けれど笑いきれなかった。目の奥が熱くなった。涙が出るかと思ったが、まだ出なかった。涙は、もう少し後に来るのかもしれない。


 シモンは彼へ、白い守り石を返さなかった。そのままエノクの手を閉じさせた。


「持っていなさい。それは、あなたの母上が残したものです」


「シモンが持っていてよ」


「それでは、あなたへ渡した意味がありません」


「なくしたら?」


「なくさないようにするのも、旅の訓練です」


「厳しいな」


「今日は、優しさだけでは足りません」


 森の上で、遠く雷のような音がした。結界の外で、まだ何かが動いている。今日の刺客は退いた。だが、終わっていない。むしろ始まったのだと、誰もが理解していた。


 シモンは杖を支えに立ち上がった。


「今夜は、里の傷を塞ぎます。明朝、旅の支度をしましょう」


「明朝?」


 エノクは顔を上げた。「そんなに早く?」


「遅いくらいです」


 ティンカーベルが言った。「本当なら昨日の夜に出るべきだった」


「剣は黙ってて」


「嫌だ。旅に出るなら、まず荷物を減らせ。未熟者は不安を荷物に詰める。だいたい重すぎて転ぶ」


「まだ行くって決めてない」


 そう言った瞬間、エノクは自分が嘘をついたと分かった。決めていないのではない。決めるのが怖いだけだった。周囲の傷ついた里を見れば、答えはもう出ている。ここに残れば、次の襲撃はもっと大きくなる。自分が大切に思うものほど、狙われる。ならば、行かねばならない。


 シモンは彼を急かさなかった。


「決めるのは、あなたです」


「でも、行かないと皆が危ない」


「それも、あなたが知った事実の一つです」


「ずるいな、本当に」


「はい」


 エノクは深く息を吸った。森の匂いがした。苔、木、油、煤、割れた鏡、へこんだ鍋蓋、傷ついた結界柱、そして朝の冷たい空気。生まれてからずっと、彼の世界だった匂いである。明日には、そこを出るかもしれない。そう思うと、急に足元の苔まで愛おしくなった。


「僕は、カオスを倒しに行くんじゃない」


 エノクは、確かめるように言った。


「はい」


「七英雄を探す。会って、聞いて、知る」


「はい」


「その後で、僕がどうするか決める」


「そうです」


「それでも、魔王軍は追ってくる?」


「追ってくるでしょう」


「鍵を狙って?」


「あなたの名も」


 エノクは守り石と鍵片を握った。名を狙われる。その意味はまだ完全には分からない。だが、さっき名喰いが自分の名を呼んだ時の寒さだけは覚えている。あれを二度と許したくないと思った。


「分かった」


 彼は小さく言った。


 シモンは、何も言わずに待った。


「怖いけど、行く」


 その言葉は、英雄の宣言にはほど遠かった。声は震え、膝は汚れ、肩には傷があり、剣はまだ彼を持ち主と認めきっていなかった。だが、その言葉を聞いた時、シモンの顔に、深い安堵と深い悲しみが同時に浮かんだ。


「よく言いました」


 ティンカーベルがすかさず言う。


「褒めるのは早い。旅の前に歩き方から直す」


「今くらい素直に褒めてくれない?」


「今のは、少し褒めた」


「分かりにくい」


「剣の褒め言葉はだいたい傷に似ている」


 リドがへこんだ身体で転がってきた。「では、私は旅の鍋蓋として同行を」


「しません」


 シモンとエノクとティンカーベルの声が重なった。リドは大げさに嘆いた。


「この里は自由に冷たい」


「君がいないと、鍋が困る」


 エノクが言うと、リドは少し黙った。それから、小さく鳴った。


「それは、重要な職務です」


「そうだよ」


「では、留守を守りましょう」


 その言葉に、エノクは胸が詰まった。留守。自分には帰る場所があるのだと、その時初めて強く思った。ランバードは滅びた。父と母はもういない。パーカスという執事は、自分を送り出して死んだ。けれど、この森はあった。帰ってくる場所として、あってほしいと思った。


 北の結界柱の裂け目から、朝日が一筋差し込んだ。完全な朝ではなかった。赤黒い影を含む、不安定な光である。それでも、光は光だった。シモンは杖を握り直し、里の者たちへ向き直った。


「皆、聞いてください。今日、私たちはこの森を守りました。けれど、安全は失われました。これから夜まで、傷を塞ぎ、隠し道を閉じ、古い門を眠らせます。エノクは、明日この里を出ます」


 ざわめきが広がった。椅子が脚を鳴らし、人形が互いの手を握り、扉が低く唸り、井戸が水音を深くした。誰も驚かなかったわけではない。だが、多くはどこかで覚悟していたのだろう。十六年前、森に赤子が落ちてきた日から、この朝がいつか来ることを。


 三本脚の椅子が、震える声で言った。


「帰ってくる?」


 エノクはすぐ答えられなかった。帰れる保証などない。外の世界を知らない。追手がいる。剣も使えない。七英雄がどこにいるかも分からない。だが、答えないことはできなかった。


「帰る」


 彼は言った。「いつか、ちゃんと帰る」


「約束?」


「約束」


 ティンカーベルが小さく鳴った。「約束は荷物になるぞ」


「それでも持つ」


「なら、落とすな」


 エノクは頷いた。シモンはその様子を見て、静かに目を伏せた。彼は知っていた。約束は人を支えるが、時に人を縛る。それでも今、この少年には必要だった。何も知らないまま旅立つのではない。帰る場所の名を持って旅立つのだ。


 その日、不思議の森は忙しかった。結界柱の裂け目に銀糸が縫われ、割れた鏡片は一つずつ外され、黒く染まった葉は火にくべられた。修理小屋では脚の折れた椅子が治療を受け、へこんだリドは木槌で叩き直されながら「形が戻るたびに思想が保守的になります」と文句を言った。人形たちは小堂の屋根を直し、木彫りの鳥は片翼の仲間へ新しい羽を削った。エノクも手伝った。だが、何をしても、自分が明日ここを出るという事実が手元に落ちてきた。釘を打つ音にも、荷物を畳む布の音にも、別れの響きが混じった。


 夕暮れ、シモンはエノクを修理小屋へ呼んだ。机の上には、旅装が置かれていた。丈夫な外套、革の手袋、古い地図、乾燥パン、薬草、路銀代わりの小さな宝石袋、そしてティンカーベルの鞘を腰に固定するための帯。どれも突然用意したものではなかった。長い時間をかけて、いつか必要になると分かって準備されていたものだった。エノクはそれを見て、何か言おうとしたが、言葉が出なかった。


「怒ってもよいのですよ」


 シモンが言った。


「何に」


「私に」


「怒ってるよ」


「はい」


「でも、何に怒ればいいか分からない。隠してたことか、僕を守ってくれたことか、明日行けって言うことか、全部か」


「全部でよいと思います」


「ずるい」


「今日、何度も言われました」


 エノクは椅子に座った。椅子は何も言わず、ただいつもより静かに彼の身体を受け止めた。


「シモンは、僕を拾った時、どう思った?」


「泣いていると思いました」


「それだけ?」


「とても小さく、とても重いと思いました」


「赤子なのに?」


「赤子ほど重いものはありません。未来が全部入っていますから」


 エノクは俯いた。守り石を掌に乗せる。白い石は夕暮れの光を受けて、ほんの少しだけ透けた。


「僕は、父さんと母さんのこと、何も覚えてない」


「それは、あなたの罪ではありません」


「パーカスのことも」


「はい」


「なのに、みんな僕を生かした」


「はい」


「僕が、変な奴だったらどうするつもりだったんだろう」


 シモンは少し驚いたように目を瞬かせ、それから微かに笑った。


「今も十分、変わったところはあります」


「そういう意味じゃなくて」


「分かっています」


 シモンはエノクの向かいに座った。


「生きてほしいと願う時、人はその者が立派になることまで保証して願うわけではありません。王になるから生きよ、英雄になるから生きよ、世界を救うから生きよ、ではないのです。ただ、生きてほしい。名を呼ばれる場所へ届いてほしい。あなたの父上と母上と、パーカス殿の願いは、まずそこにあったのだと思います」


 エノクは目を閉じた。ようやく、涙が一つ落ちた。守り石の上に小さく跳ね、すぐに吸われるように消えた。


「会いたかったな」


 彼は言った。


「はい」


「覚えてなくても、会いたかった」


「はい」


 シモンはただ頷いた。慰めすぎず、説明しすぎず、少年が初めて失ったものの大きさを知る時間を、そのまま置いてくれた。


 窓の外では、森が夜を迎えようとしていた。傷ついた結界はまだ弱く、北の空には赤黒い筋が残っている。けれど、里には灯がともっていた。茸の灯、台所の灯、修理小屋の灯、人形の小堂の灯。怖いものが近づいているからこそ、暮らしは消されてはならない。エノクはその灯を見た。自分はここで育った。王子としてではなく、鍵としてでもなく、名を呼ばれる一人として。


 そして明日、その名を持って森を出る。


 まだ何者にもなっていない。剣も使えず、王家の覚悟もなく、魔王を倒す道など見えない。ただ、胸には鍵があり、手には母の守り石があり、腰には口の悪い剣があり、背には帰る場所の約束があった。


 夜の向こうで、カオスの影はなお森を探していた。けれど、その森の内側で、エノクという名は、初めて自分の過去へ結び直されようとしていた。

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