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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第1部 滅びた王国と森の王子
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第6話_喋る剣ティンカーベル

 不思議の森の朝は、昨日と同じ顔をして始まった。茸の灯がまだ青白く残るうちに窓が一つずつ目を覚まし、井戸は眠たげな水音を立て、台所では鍋蓋のリドが「今日は自主休暇を申請します」と宣言して、すぐに鍋から落とされた。歩く椅子たちは食卓のまわりで位置を取り合い、三本脚の若い椅子が「今日はエノクの隣がいい」と言い張り、背もたれの高い老人椅子が「若者は距離感を学びなさい」と諭していた。外では小道が寝返りを打ち、昨夜と少し違う場所へ曲がり、木彫りの鳥たちは枝の上でぎこちなく羽づくろいをしている。見慣れた朝であった。けれど、エノクは食卓に座った時から、いつもの朝ではないことを知っていた。


 シモンが、あまりに静かだったからである。


 もともと騒がしい人ではない。だが、いつものシモンの静けさは、湯の冷めない茶器のように穏やかで、そばにいる者の呼吸を整えるものだった。今朝の静けさは違った。蓋をした箱のようであった。中に何かを入れたまま、まだ開けるべき時を迷っている。エノクは粥に匙を入れながら、何度もシモンの横顔を盗み見た。シモンは気づいているはずだったが、知らぬふりをしていた。そういうところも、今朝はいつも通りではなかった。


「シモン」


「はい」


「今日、奥の蔵へ行く?」


「行きます」


「僕も?」


「あなたも」


 エノクの匙が止まった。食卓の上で、リドがかたんと鳴った。三本脚の椅子が小さく跳ね、老人椅子まで背もたれを伸ばした。


「珍しい」


「昨日も行きました」


「昨日は様子を見に行っただけだろ。今日は違う顔をしてる」


「私はそんなに顔に出ますか」


「出ないよ。だから分かる」


 シモンは少しだけ笑った。その笑みが、エノクの胸をかえって重くした。否定しない時のシモンは、本当に何かを決めている。エノクは粥を口に運んだが、味がいつもより遠かった。リドが小声で言った。


「嫌な予感がします。私は今日は鍋の中に隠れることを提案します」


「鍋蓋が鍋の中に隠れてどうする」


「哲学的問いです」


「ただの現実逃避だよ」


「現実は時に逃避に値します」


 シモンが穏やかに言った。「リド、今日のあなたは正しい」


 台所が静まり返った。リド自身が一番驚いたように、ぴたりと動きを止めた。


「……私が正しいと、世界の均衡が崩れませんか」


「崩れません。ただ、外の現実が、逃げたくなるほど近づいているだけです」


 それ以上は、誰も朝食の席で尋ねなかった。匙たちは皿の縁で小さく震え、椅子たちはわざと大げさに脚を鳴らして沈黙を薄めようとした。エノクは最後の黒パンを飲み込むと、胸元の布袋に触れた。中の金属片は、昨夜より少し温かかった。


 奥の蔵へ向かう道は、昨日より短かった。森が急かしているようにも、見送りを惜しんで余計な回り道をやめたようにも思えた。道端の若木は何も言わず、苔の上に落ちていた小さな木靴は、エノクが通ると左右に分かれて道を開けた。蔵の扉は、今日も黙っていた。七つの鍵穴は薄い朝光を受け、どれも古い目のようにこちらを見ている。


 シモンは鍵束を取り出した。その中には、やはり焼け焦げた歪な鍵が混じっていた。エノクはそれを見た瞬間、胸の奥で何かが小さく鳴るのを感じた。聞こえたのではない。思い出しかけたのだ。石の崩れる音。水の逆流する音。誰かが「どうか、よき朝を」と囁く声。だが、記憶は指の間から逃げる魚のように消えた。


「どうしました」


 シモンが問う。


「今、何か……」


「何か?」


「分からない。鍵を見たら、少し胸が変になった」


 シモンは焼けた鍵を見つめた。しばらくの沈黙の後、彼はその鍵をそっと握り込んだ。


「その鍵は、あなたをここへつなげたものの一部です」


「僕を?」


「いつか話すと言いました」


「今日じゃないの」


「今日は、別の話です」


 エノクは言い返そうとしたが、シモンの横顔を見て口を閉じた。怒っているのではない。逃げているのでもない。何かを一つずつ、順番を間違えないように渡そうとしている顔だった。エノクは仕方なく頷いた。扉の七つの鍵穴に、七つの鍵が入る。最後の鍵が回ると、蔵の扉は重い息を吐いて開いた。


 中は昨日より暗かった。外の朝光が入り込んでいるはずなのに、棚の奥、布をかけられた箱、眠る武具、口を閉ざした鏡たちは、深い水底に沈んでいるように見えた。シモンは真っ直ぐ奥へ進んだ。エノクも続く。蔵の中のものたちは、いつになく静かだった。昨日は寝言を言っていた短剣も、矢を嫌う弓も、古い盾も、今日はただ見守っている。エノクはそれに気づき、喉を鳴らした。


 長い箱の前で、シモンは止まった。昨日、口の悪い剣が入っていた箱である。厚い布の上には薄く埃が積もっていたが、箱の内側から時折こつこつと叩く音がするため、埃は中央だけ丸く払われていた。


「起きていますか」


 シモンが問うた。


 箱の中から、すぐに声が返った。


「十六年寝かせておいて、今日は起きていますかとは礼儀がなっていないな。寝過ごしたらどうするつもりだった」


「寝過ごす剣なら、渡さずに済んだのですが」


「残念だったな。私は寝起きも性格も刃味も悪い」


「自慢になりません」


「事実確認だ」


 エノクは思わず言った。「昨日より機嫌悪くない?」


 箱の中の声が、ぴたりと止まった。次に、低く笑ったような音がした。


「おい、シモン。この小僧、私の機嫌を測れるほど偉くなったのか」


「エノクです」


「知ってる。足音で分かる。左足の置き方が雑で、右肩だけ先に出る。逃げる時は転ぶ。攻める時は死ぬ。守る時は守ったつもりで相手の邪魔になる。つまり、未熟者だ」


「まだ剣を抜いてもいないのに、そこまで言う?」


「抜く前に分かることの方が多い。抜いてから分かるようでは、だいたい遅い」


 エノクはむっとしたが、言い返せなかった。昨日、屋根の梯子がずれただけで慌てた自分の姿を思い出したからである。シモンは箱に手を置いた。


「ティンカーベル」


 その名が蔵に響いた瞬間、棚の奥の古い剣たちがかすかに鳴った。敬意なのか、警戒なのか、エノクには分からない。箱の中の声も、少しだけ硬くなった。


「何だ」


「今日、あなたを外へ出します」


「ようやくか。遅い。遅すぎる。刃が退屈で鈍るところだった」


「あなたに刃はありません」


「今はな。気分としては十六回ほど錆びた」


「外へ出れば、あなたは彼を守ることになります」


「知っている」


「ただ守るだけではありません。教えてください。彼は何も知りません」


「見れば分かる」


「それでも、お願いします」


 ティンカーベルはすぐ答えなかった。箱の内側で、何かがゆっくり動いた。エノクはその沈黙に、昨日までの軽口とは違う重みを感じた。シモンの「お願いします」は、ただの依頼ではなかった。長い時間、箱の中で眠らせていたものへ、ついに負わせる役目を告げる声だった。


「シモン」


 ティンカーベルが言った。「あんたは相変わらず卑怯だな」


「そうかもしれません」


「自分で渡せないものを、私に渡させる」


「はい」


「自分で折れないから、私を抜く」


「……はい」


 エノクは二人を見比べた。剣と人が、まるで古い友のように話している。いや、友というには少し刺がある。だが、刺があるからこそ長く残った関係なのかもしれない。


「何の話?」


 エノクが問うと、ティンカーベルは即座に答えた。


「お前が弱すぎるという話だ」


「だいぶ省略しただろ」


「剣は要点を斬る」


「僕の心も斬ってる」


「心が斬れたなら拾っておけ。戦場ではよく落ちる」


 シモンが箱の留め金に手をかけた。古い封印糸をほどき、金具を外す。蔵の空気が変わった。蓋が開く前から、細い風が起きた。剣の気配、というものをエノクは初めて知った。それは寒さではなく、熱でもない。自分の立っている場所と、立ってはいけない場所の境に、細い線を引かれる感覚だった。刃とは、ただ切るものではない。ものとものとの境を決めるものなのだと、言葉になる前に身体が理解した。


 蓋が開いた。


 中にあったのは、一本の剣だった。長さはエノクの腕より少し長く、旅の剣としては軽そうに見える。鞘は古い銀灰色で、ところどころに木と金属が入り混じった不思議な文様が走っていた。柄には小さな羽根にも見える装飾があり、鍔は四枚の薄い花弁のように開いている。だが、美しいだけの剣ではなかった。鞘の表面には細かな傷が無数にあり、柄には手に馴染むほど磨り減った跡がある。長く使われ、何度も直され、それでもなお手放されなかった剣の姿だった。


 エノクが覗き込むと、柄の宝石がぱちりと光った。


「近い。顔を近づけるな。未熟が映る」


「宝石が目なの?」


「目ではない。だが見える。耳ではないが聞こえる。口ではないが喋る。剣とは多機能だ」


「普通の剣は喋らないだろ」


「普通の剣と比べるな。失礼だ」


 シモンが両手で剣を持ち上げた。ティンカーベルは軽そうに見えたが、シモンの動きは慎重だった。赤子を抱く時に似ている、とエノクは思った。シモンは剣をエノクへ差し出した。


「受け取りなさい」


 エノクは手を伸ばした。だが、柄に触れる直前、ティンカーベルが鋭く言った。


「待て」


 エノクの手が止まる。


「爪」


「爪?」


「爪が少し欠けている。柄を握る時に引っかかる。直してから触れ」


「そこから?」


「そこからだ。剣を持つ手は剣に触れる最初の道具だ。道具の手入れをしない者に、私を持つ資格はない」


 エノクは自分の指先を見た。昨日、薪割りで欠けた爪があった。シモンは何も言わず、棚から小さな爪やすりを取って差し出した。エノクは頬を熱くしながら爪を整えた。蔵の中の盾が小さく笑った気がしたが、気のせいだと思うことにした。


「できた」


「手を洗え」


「まだ?」


「油と粥の匂いがする」


「朝食後だからね」


「私は食卓の延長ではない」


 結局、エノクは蔵の横にある水鉢で手を洗わされた。戻ると、ティンカーベルは満足したように言った。


「まあ、最低限だ」


「褒められてる気がしない」


「褒めていない」


 今度こそ、エノクは柄を握った。


 瞬間、身体が前へ引かれた。剣を持ったのではない。剣に手を掴まれたのだ。エノクは思わず足を踏み出し、危うく箱に膝をぶつけかけた。


「おっと。足まで素直に雑だな」


「今、引っ張っただろ」


「倒れなかっただけ褒めてやる」


「それも褒めてる気がしない」


「褒めてない」


 ティンカーベルの柄は、手に吸いつくようだった。冷たくはない。木の温もりと金属の硬さが同時にあり、握ると自分の脈と別の小さな脈が重なる。エノクは剣を持ち上げようとした。思ったより軽い。だが、軽いから扱いやすいわけではなかった。剣の重心が生き物のように動き、エノクの手首を少しずつ違う方向へ導く。彼が正面に構えようとすると、剣はわずかに下がり、左へ振ろうとすると右足を出せと訴える。言葉ではなく、柄から直接伝わる意志だった。


「シモン、これ、僕が持ってる?」


「持っています」


「本当に?」


「半分くらいは」


「半分?」


 ティンカーベルが鼻で笑った。「贅沢を言うな。今のお前なら三割でも多い」


「剣を持つのに割合があるのか」


「ある。十割持とうとして死ぬ阿呆もいれば、一割も持てずに振り回されて生き残る阿呆もいる。お前は後者から始めろ」


「阿呆なのは決定なんだ」


「剣に賢く見られたいなら、まず立て」


 シモンは蔵の外へ出た。エノクがティンカーベルを握ったまま続くと、剣は彼の歩幅まで細かく文句を言った。足音が大きい、肩が上がっている、剣先を下げすぎ、鞘を壁にぶつけるな、今の謝罪は壁に向けてか私に向けてか、と。エノクは蔵を出るだけで、すでに一日分の説教を受けた気分になった。


 訓練場は、里の西側にある開けた場所だった。といっても人間の騎士が使うような整った砂地ではない。苔と土と木の根が混じり、丸太の人形が数体立ち、枝から吊るされた木球が風で揺れている。端には古い木剣たちが並び、そのうちの一本はエノクが普段使っている名のない木剣だった。木剣はティンカーベルを見るなり、かすかに震えた。


「ほう」


 ティンカーベルが言った。「お前か。こいつの悪い癖を甘やかしてきた木片は」


「木片ではない」


 木剣が低く答えた。「練習用である」


「練習用なら練習させろ。転び方を覚えさせてどうする」


「彼はよく転ぶ。だから怪我をしない転び方を教えた」


「それだけは評価する」


「ありがたい」


「だが、それ以外はぬるい」


「木だからな」


「木でも芯は通る」


「剣でも口は悪い」


「事実だ」


 エノクは思わず口を挟んだ。「道具同士で僕の評価を始めないでくれる?」


 ティンカーベルと木剣が同時に言った。


「評価ではない。診断だ」


 シモンはそのやり取りを見て、珍しく声を立てずに笑っていた。エノクは少しだけ救われた気がしたが、すぐにシモンの顔が真面目になった。


「今日は、構えと足運びだけです」


「斬る練習は?」


「斬るのは最後です」


 ティンカーベルが言った。「いや、最後でも早い。まず生き残る練習だ」


「剣なのに斬らないの?」


「斬る前に死んだら、剣はただの荷物だ。お前はまず荷物持ちとしてすら未熟だ」


「君、僕を励ます気ある?」


「ない。生かす気はある」


 その一言は、軽口の中で不意に重く響いた。エノクは黙った。ティンカーベルの声に、ほんの一瞬だけ、箱の中で長く待っていたものの冷たさが混じったからである。彼はこの剣が何を見てきたのか知らない。誰の手に握られ、誰を守り、なぜ十六年も箱に眠らされていたのか知らない。だが、ただ口の悪い剣ではないことだけは、柄から伝わる脈で分かった。


 シモンが丸太人形の前に立った。「エノク。正面に構えなさい」


 エノクは見よう見まねで剣を構えた。足を肩幅に開き、両手で柄を握る。ティンカーベルが即座に怒った。


「違う」


「まだ何もしてない」


「だから違う。何もしていない時点で違う。膝が固い。肩が高い。腰が逃げている。右手に力を入れすぎ。左手が寝ている。目は丸太の顔を見ているが、丸太に顔はない。敵が顔だけで来ると思うな」


「一度に言いすぎだ」


「一度に悪いからだ」


 ティンカーベルはエノクの手の中でぐいと動いた。剣先が下がり、エノクの左足が半歩前へ出る。膝が少し曲がり、肩が落ちた。身体が勝手に整えられる。気味の悪さと安心が同時にあった。


「これが構え?」


「これが、私が今のお前を使うための構えだ」


「僕が君を使う構えじゃなくて?」


「百年早い。まず使われろ」


 シモンが頷いた。「その感覚を覚えてください。ティンカーベルが導く形には理由があります。最初は分からなくて構いません」


「分からなくていいの?」


「分からないまま従うだけでは足りません。ですが、分かる前に拒むのは危険です。今は、身体に覚えさせる時です」


 エノクは息を吸った。森の匂い、土の匂い、古い剣の匂い。ティンカーベルの柄を握る手に汗が滲む。


「じゃあ、どうすればいい」


「まず、丸太に斬りかからない」


 ティンカーベルが言った。


「訓練なのに?」


「初心者はすぐ斬りたがる。斬るのは気持ちがいいからな。だが、斬るために前へ出た足は、戻せなければ死ぬ。敵は丸太と違って、斬られる順番を待ってくれない」


 シモンは手に小さな木球を持った。「これを避けてください」


「投げるの?」


「はい」


「剣の訓練じゃなくて、避ける訓練?」


「剣の訓練です」


 木球が飛んできた。エノクは反射的に剣で払おうとした。だが、その瞬間、ティンカーベルが手を引き、身体が横へずれた。木球は肩のすぐ横を通り過ぎ、背後の草に落ちた。


「今、僕が避けた?」


「私が避けさせた」


「自信を持たせてくれ」


「事実は時に自信の敵だ」


 次の木球が飛んだ。今度は低い。エノクは足を引こうとしたが、ティンカーベルが前へ出た。剣の腹が木球を受け、軽く弾く。手首に衝撃が走った。


「痛っ」


「痛いで済んでいるうちに覚えろ。受ける時は刃で受けるな。力で止めるな。流せ。お前の腕は丸太より弱い。なら丸太の真似をするな」


 シモンは黙々と木球を投げた。最初はゆっくり。次第に速く、角度を変え、間をずらして。エノクは何度も転んだ。苔に膝を打ち、土を噛み、木球を額に受け、剣に文句を言われ、木剣に同情され、吊るされた木球にまで「今のは見事に当たりましたね」と感心された。ティンカーベルは容赦なかった。


「足が遅い」


「知ってる」


「知っているなら直せ」


「直そうとしてる」


「直そうとしている足では避けられない。直った足だけが避ける」


「理屈が厳しい」


「敵はもっと厳しい」


 息が上がり、腕が痺れ、肩が熱くなった。エノクは何度も「もう無理」と言いかけた。だが、言う前にティンカーベルが言った。


「無理と言うなら、倒れてから言え」


「倒れてる」


「起き上がれる倒れ方だ。なら無理ではない」


 エノクは苔の上に仰向けになり、空を見た。木々の枝の間から、薄い青空が見える。そこに星の船はなかった。赤黒い裂け目もない。けれど、北の方角の葉だけが、わずかにざわついている。彼は息を整えながら、剣を持つ手を見た。指が震えていた。自分の手ではないようだった。いや、半分は本当に自分の手ではなかった。ティンカーベルが動かし、導き、止め、生かしている。自分はただ、引っ張られて転び、引っ張られて避け、引っ張られて立っているだけだ。


「僕、全然使えてないな」


 彼は呟いた。


「当然だ」


 ティンカーベルが答えた。


「少しは慰めてよ」


「慰めて剣が上手くなるなら、私は詩人になっている」


「向いてないよ」


「知っている」


 エノクは笑った。苦しいのに、笑えた。ティンカーベルは口が悪い。だが、嘘を言わない。少なくとも、今のところは。エノクは起き上がり、もう一度構えた。身体は重い。膝は汚れ、額には小さなこぶができ、息は乱れている。だが、最初に構えた時より、剣の重心が少しだけ分かる気がした。


 シモンは木球を持ったまま言った。「続けますか」


「続ける」


 ティンカーベルが即座に言った。「返事だけはまともだな」


「返事以外も、そのうちまともになる」


「そのうち、という言葉で生き残れるほど世界は親切ではない」


「じゃあ、今から」


「よし。今のは少しだけましだ」


 木球が飛んだ。エノクは避けようとした。ティンカーベルが動いた。だが、今度は完全に引っ張られる前に、自分の左足がわずかに動いた。ほんの一瞬、剣の意志と自分の意志が同じ方角を向いた。木球は剣の腹をかすめ、横へ流れた。


「今のは?」


 エノクが息を弾ませて問う。


「偶然だ」


 ティンカーベルは言った。


「ええ」


「だが、偶然は最初の教師だ。忘れるな」


 シモンは静かに頷いた。その目には、安堵と不安が同時にあった。エノクはまだ弱い。剣に使われている。戦いを知らず、自分の名の重さも知らず、外の世界の悪意も知らない。だが、彼は起き上がった。もう一度構えた。それだけで、何も知らない少年の内側に、小さな変化が生まれていた。


 訓練は昼過ぎまで続いた。終わる頃には、エノクはほとんど立っているのがやっとだった。ティンカーベルは鞘に戻されてもなお文句を言い続けた。


「水を飲め。座るな、まず歩け。疲れた時に座ると立ち上がれなくなる。肩を回せ。いや、雑に回すな。剣を腰に下げる角度が悪い。鞘は尻尾ではない」


「剣って、こんなに喋るものなの?」


「喋らない剣は心の中で同じことを言っている。私が親切なだけだ」


「親切の形が尖りすぎてる」


「剣だからな」


 シモンはエノクに水筒を渡した。エノクは一口飲み、顔をしかめた。いつもの井戸水なのに、今日は妙に甘く感じる。疲れているせいだった。


「シモン」


「はい」


「どうして今日だったの」


 シモンはすぐには答えなかった。訓練場の端で、木彫りの鳥が一羽、北の森から戻ってきた。羽ばたきが乱れている。シモンはその鳥を掌に受けると、背の小さな歯車へ指を触れた。鳥はかすかに震え、くちばしを開いた。そこから声ではなく、ざらついた風のような音が漏れた。赤黒い霧の匂いが、一瞬だけ訓練場に広がった。


 エノクは身を固くした。


「結界の外?」


 シモンは頷いた。


「近づいているの?」


「はい」


「昨日より?」


「近く」


 ティンカーベルが低く言った。「間に合っていないな、シモン」


「分かっています」


「分かっていて一日構えの練習か」


「一日でも、構えを知らずに剣を握るよりましです」


「正しい。腹立たしいほど正しい」


 エノクは二人の会話を聞きながら、鞘に納まったティンカーベルを握った。「何が来てるの」


「まだ形は定かではありません」


 シモンは言った。「ただ、カオスの影に触れたものです。里を探っています」


「ここに来る?」


「結界が保てば、来ません」


「保たなければ?」


「その時は、戦うことになります」


 戦う。朝まで本の中や古い歌の中にあった言葉が、急に手の中の剣と同じ重さを持った。エノクは自分の腕を見た。泥と苔で汚れ、震えている。これで戦えるとは思えなかった。ティンカーベルの言う通り、自分はまだ剣を使っていない。剣に使われ、転ばされ、生かされているだけだ。


「僕で、役に立つのかな」


 彼は思わず口にした。


 シモンは答えようとした。だが、先にティンカーベルが言った。


「今は立たなくていい場所に立つな。役に立つかどうかを考える前に、邪魔になるな」


「本当に容赦ないな」


「容赦で死なせるよりましだ」


 その声は、いつもより少しだけ静かだった。エノクは剣を見下ろした。


「じゃあ、邪魔にならないくらいにはなる」


「低い目標だ」


「今の僕にはちょうどいい」


 ティンカーベルはしばらく黙り、それから小さく言った。


「よし」


 それは初めて聞く、短い肯定だった。エノクの胸に、奇妙な熱が灯った。褒められたわけではない。信頼されたわけでもない。ただ、始まりの場所に立つことだけは許された気がした。


 夕方、エノクは疲れ果てて家へ戻った。三本脚の椅子が心配そうに寄ってきたが、ティンカーベルが「座るな」と言うので、しばらく立ったまま粥を食べる羽目になった。リドは「剣より蓋の方が寛大です」と主張し、老人椅子は「若者は苦労した方がよい」と言い、匙はエノクの手の震えを見て自分から口元へ近づこうとした。台所はいつも通り賑やかだった。だが、誰も北の森の話をしなかった。話さないことで、かえって誰もがそれを知っていると分かった。


 夜、エノクは寝台に倒れ込んだ。寝台は彼の疲労を察して、いつもより少し柔らかく沈んだ。ティンカーベルは寝台の横に立てかけられている。剣を寝室に置くのは落ち着かなかったが、シモンは「今日から、あなたのそばに」と言った。ティンカーベル自身は「寝相で蹴るな。蹴ったら蹴り返す」と言った。


「剣が蹴れるの?」


「必要なら柄でやる」


「寝てる時くらい優しくしてくれ」


「眠っている時に襲われたら、優しく起こしてほしいか」


「……普通に起こしてほしい」


「普通とは便利な言葉だ。だいたい役に立たない」


 エノクは布団に顔を埋めた。「ティンカーベル」


「何だ、未熟者」


「君は、前にも誰かを守ったことがあるの」


 剣は黙った。エノクは眠気の中で、その沈黙が答えであることを知った。


「その人は、生きてる?」


 さらに長い沈黙があった。


「寝ろ」


「答えてない」


「明日の訓練で、お前が今日よりましだったら考える」


「ずるい」


「剣は取引もする」


「おやすみ」


「剣に夜は関係ない」


「じゃあ、見張りよろしく」


「当然だ」


 その声を聞いて、エノクは目を閉じた。身体は痛み、腕は重く、足はじんじんしていた。けれど、寝台の横に剣がいることは、不思議と嫌ではなかった。口は悪く、容赦はなく、少しも甘やかしてくれない。だが、ティンカーベルは嘘をつかない。少なくとも、彼を生かすと言った。その言葉だけで、森の夜の暗さは少し薄くなった。


 エノクが寝息を立て始めると、シモンが静かに部屋へ入ってきた。灯を持たず、足音も立てない。彼は寝台のそばでしばらく少年の顔を見下ろし、それからティンカーベルへ視線を移した。


「どうですか」


「ひどい」


 剣は即答した。


「でしょうね」


「足は雑。目は素直すぎる。握りは弱い。覚悟はない。戦いを知らない。世界を知らない。自分を知らない」


「はい」


「だが、起き上がる」


 シモンは目を伏せた。


「それだけで、今は十分です」


「十分ではない。だが、始めるには足りる」


 ティンカーベルの宝石が、闇の中でかすかに光った。「シモン。影は近いぞ」


「分かっています」


「明日か」


「早ければ」


「隠している暇はない」


「分かっています」


「その返事を十六年聞いた」


 シモンは何も言わなかった。眠るエノクの胸元では、布袋の中の鍵片が淡く光っていた。窓の外、森の北側で、結界の葉が一枚、黒く染まって落ちた。地面に触れる前に、それは灰となり、声もなく消えた。


 ティンカーベルは低く言った。


「明日、未熟者は泣くぞ」


「泣くでしょう」


「それでも言うのか」


「言わねばなりません」


 シモンはエノクの額にかかった髪をそっと払った。父のようであり、師のようであり、罪ある者のような手つきだった。


「この子は、剣を持ちました。次は、名を持たねばならない」


 夜の森は静かだった。けれど、その静けさの外側で、黒いものが結界を探っていた。エノクはまだ眠っている。王子であることも、鍵の意味も、滅びた王国の名も知らずに。枕元の生きた剣だけが目を覚まし、近づく朝を待っていた。

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