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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第1部 滅びた王国と森の王子
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第5話_十六年後の不思議の森

 ランバードの白城が灰となり、青川の水が黒く濁り、王家の名が大陸の地図から削られてから、十六年が過ぎた。人の国ではその歳月を長いと呼ぶ。赤子は少年となり、少年は剣を持つ年頃となり、戦で焼かれた街にも草が生え、石碑の文字は雨に削られ、悲嘆はやがて昔話の衣を着る。だが、不思議の森において十六年とは、古い時計がくしゃみを一つし、眠っていた扉が寝返りを打ち、苔むした井戸が夢の中で水音を変えるほどの短い時間にすぎなかった。森は時を数えることが下手であった。朝はしばしば昼のふりをし、夕暮れは気まぐれに三日ほど枝の上で眠り、同じ小道を歩いているはずなのに昨日は川へ、今日は台所へ、明日はまだ存在しない古い橋へ出る。後世の旅人たちはこの森を「おもちゃ箱をひっくり返したような森」と呼んだが、それは半分しか正しくない。ここは、誰かに捨てられ、忘れられ、壊れたものたちが、もう一度自分の形を思い出すための森であった。


 その朝、エノクは走っていた。森の小道を、というには少し問題があった。小道の方も走っていたからである。苔の上に敷かれた石が、少年の足に合わせるように一つずつ前へ転がり、倒木は「踏むなら右足からにしておくれ」と眠そうに呟き、頭上では木製の鳥が三羽、ばたばたとぎこちなく翼を動かしていた。エノクは肩から麻袋を提げ、片手に曲がった釘を入れた小箱を抱え、もう片方の手で逃げる鍋蓋を追っていた。


「待て、リド。今日こそは逃がさない」


 鍋蓋は小道の先でくるりと回り、甲高い声を上げた。「逃げているのではありません。厨房という狭い職場からの正当な散歩です」


「朝食の支度中に散歩する蓋があるか」


「あるから私がいるのです」


 鍋蓋は誇らしげに跳ね、エノクの足元をすり抜けた。エノクは勢い余って苔の上を滑り、倒れかけたところを、脇の若木に伸ばされた枝に襟を引っかけられた。首が締まり、情けない声が出る。


「うぐ」


「またですか、エノク」


 若木がため息をついた。まだ細い幹なのに、声だけは年寄りのようだった。「足元を見るという大陸全土に通用する知恵を、いつになったら覚えるのです」


「今、覚えた。たぶん」


「たぶん、では根は張れません」


 襟を離され、エノクは尻餅をついた。年は十六。背は同じ年頃の少年より少し高く、森で育ったため身体はよく動いたが、英雄譚に歌われるような威厳はかけらもなかった。髪は淡い栗色で、朝の光を受けるとわずかに金を帯びる。だが、寝癖はいつも手に負えず、額には枝で擦った小さな傷が絶えない。瞳は灰を含んだ青で、怒るより先に困り、疑うより先に信じる種類の光を宿していた。彼が上等な衣をまとい、磨かれた広間に立てば、あるいは王家の血を知る古老が何かに気づいたかもしれない。けれど、いまの彼は麻の上着に膝の擦り切れたズボン、片方だけ紐の色が違う靴を履いた、ただの森の少年であった。


 彼は王子ではなかった。少なくとも、本人にとってはそうだった。エノクという名は知っている。シモンに呼ばれ、椅子に呼ばれ、扉に叱られ、鍋に怒鳴られ、森の小川にまで時々呼ばれてきた名である。だが、ランバードという姓を彼は知らない。白城も、王妃セリスも、剣を掲げた王も、最後の執事も、彼の記憶にはなかった。幼い頃、悪い夢を見て泣きながら起きることはあった。赤い空と、燃える柱と、誰かが自分の名を呼ぶ声。けれど、朝になるとそれは水に溶ける墨のように薄れ、シモンが温めた山羊乳と、喋る椅子の文句と、寝坊した扉の機嫌取りに紛れてしまった。


「リド、厨房へ戻れ。シモンにまた僕が怒られる」


「シモン様は怒りません」


「怒らないから余計に困るんだ」


 エノクは立ち上がり、膝の苔を払った。リドと呼ばれた鍋蓋は、しばらく小道の上で揺れていたが、やがて不承不承というふうに跳ねながら戻り始めた。


「散歩の権利については、後ほど正式に抗議します」


「はいはい、食器棚会議に出してくれ」


「食器棚会議は前回、匙派と皿派の対立により流会しました」


「じゃあ鍋派を説得しておいて」


「鍋は頑固です」


「知ってる」


 そう答えながら、エノクは麻袋の中を確かめた。曲がった釘、欠けた歯車、片目を失った木馬、止まった懐中時計、そして誰かが落とした銀の鈴。これらを修理小屋へ持っていくのが、今朝の彼の役目だった。不思議の森では、物は簡単には捨てられない。折れた針には折れた針の記憶があり、欠けた皿には欠けた皿の意見がある。シモンはよく言った。ものは沈黙しているだけで、死んでいるとは限りません、と。エノクはその言葉を幼い頃から聞かされていたため、外の世界では鍋蓋が勝手に散歩しないという話を、いまひとつ信じていなかった。


 隠れ里は、森の中央から少し外れた円い窪地にあった。里と呼んでも、人の家は多くない。シモンの住む大きな木造の家、修理小屋、井戸、温室、蔵、眠る人形たちの小堂、そして森の者たちが勝手に増築した小さな屋根や戸棚が、苔と根と蔦のあいだに寄り添っている。家々はまっすぐ建っておらず、どれも少し傾き、どれも少し呼吸をしていた。窓は朝になると自分で開き、夕方になると眠くなって閉まる。扉は訪ねる者の足音で機嫌を変え、急ぎの時ほど「合言葉を忘れていませんか」と言いたがる。井戸は水をくれるが、悪口を言うと桶を返さない。洗濯紐は風の強い日ほど歌い、斧は木を切る前にその木と長い相談をする。里に住む者たちは、人、道具、人形、扉、剣、時計、木彫りの鳥、言葉を覚えかけた匙まで含めて、およそ数えきれなかった。


 エノクが広場へ戻ると、井戸端で椅子が二脚、口論していた。片方は背もたれの高い老人椅子で、もう片方は三本脚の若い椅子である。


「だから、座面の尊厳というものが」


「尊厳の前に脚の数を見なさいよ。こっちは三本で今日も頑張ってるの」


「若い者はすぐ頑張っていると言う」


「古い椅子はすぐ昔はよかったって言う」


「昔はよかったのです。人間は座る前に礼を言いました」


「それ、シモン様だけでしょ」


 エノクは横を通りながら言った。「二人とも、あとで脚の緩みを見るから、喧嘩しないで」


「私は喧嘩ではなく教育を」


「私は反乱を」


「反乱はあとで。釘が足りない」


 三本脚の椅子は不満そうに片脚で床を鳴らしたが、エノクの麻袋を見ると急にしおらしくなった。「新しい釘、ある?」


「曲がってるけど、伸ばせば使える」


「曲がった釘は話が合うから好き」


「君もまあまあ曲がってるからね」


「失礼な。個性的と言って」


 エノクは笑い、修理小屋へ向かった。小屋の扉は眠っていた。丸い取っ手から小さないびきが聞こえる。彼は拳で軽く叩いた。


「起きて。朝だよ」


「朝とは相対的な概念である」


 扉が目を閉じたまま呟いた。


「相対的でも、シモンが待ってる」


「シモン様は待つことに関して大陸一の達人だ。私ごとき扉が急ぐ必要は」


「今日の修理当番は君の蝶番からだよ」


 扉はぱちりと目を開けた。木目の中に浮かぶ二つの節が、瞳のように動く。


「早く入りなさい。仕事は尊い」


「急に勤勉になった」


「蝶番は命綱である」


 扉が開くと、修理小屋の中から木屑と油と古い布の匂いが流れた。天井からは糸巻きが吊られ、壁には大小さまざまな工具が並び、棚には修理を待つ道具たちが眠っている。隅の作業台では、シモンが片目の人形を直していた。長い髪には灰色が混じっているが、顔立ちは年を忘れたように穏やかで、十六年前とほとんど変わらなかった。彼が人間なのか、もう森の一部なのか、エノクには分からない。聞いたことは何度もある。そのたび、シモンは「私はシモンです」と答えた。それ以上でも以下でもないというふうに。


「おはようございます、エノク」


「おはよう、シモン。リドがまた逃げた」


「逃げたのではなく、散歩だと言うでしょうね」


「言った」


「彼は言葉を覚えてから、自由という言葉を少し大きく使いすぎています」


「誰に似たんだろう」


「さて」


 シモンは微笑み、人形の目をはめ込んだ。木製の小さな人形は、眠りから覚めるように瞬きをした。片方だけ新しい硝子の目が光を受ける。


「あれ。見える」


 人形は自分の手を見た。「半分じゃない」


「もう半分も、少しずつ慣れてください」


 シモンが言うと、人形はぎこちなく頷いた。


「ありがとう、シモン様。ありがとう、エノク」


「僕は何もしてないよ」


「持ってきてくれた」


「それだけなら、小道だって手伝った」


「小道にもあとで言う」


 人形は真剣な顔で答えた。エノクは笑い、麻袋を作業台のそばへ置いた。シモンはその中身を一つずつ見ていく。曲がった釘には「まだ働きたいようですね」と声をかけ、止まった時計には耳を寄せ、木馬の欠けた脚を撫でた。彼の手に触れられると、壊れたものたちは少しだけ安心するように見えた。シモンは命を作る者ではない、と自分で言う。眠っている声が、聞こえやすいように手伝っているだけです、と。けれどエノクから見れば、それは十分に奇跡だった。


「今日は奥の蔵へ行きます」


 シモンが言った。


「奥の蔵?」


 エノクは顔を上げた。「何か直すの?」


「確認です。古いものたちの様子を見に」


「僕も行っていい?」


「行きたいのですか」


「行きたい。奥の蔵はいつも鍵がかかってるし」


「鍵がかかっている場所には、鍵がかかっている理由があります」


「でも、鍵があるなら開ける理由もある」


 シモンは困ったように笑った。「そういう言い方は、誰に教わったのですか」


「扉」


「なるほど。教育方針を見直しましょう」


 エノクは作業台にもたれた。「だめ?」


「だめではありません。ただし、触れてよいものと、まだ触れてはいけないものがあります」


「まだってことは、いつかはいいんだ」


「言葉尻を拾うのが上手くなりましたね」


「シモンに育てられたから」


 その言葉を聞いた時、シモンの指がわずかに止まった。ほんの一瞬のことだったので、エノクは気づかなかった。シモンはすぐに工具を置き、いつもの穏やかな顔に戻った。


「では、朝食の後に行きましょう。空腹のまま古い蔵へ入ると、古いものたちが説教を長くします」


「お腹が空いてても説教は短くならないよ」


「あなたの言う通りです」


 朝食は、里の中央の大きな台所で取ることになっていた。食卓は自分で椅子を呼び、椅子は座る者を選び、匙は気に入らない料理に沈黙で抗議する。今朝の粥には茸と山羊乳、砕いた木の実が入り、焼きたての丸パンは布に包まれて湯気を立てていた。鍋蓋のリドはしぶしぶ本来の位置に戻っていたが、時々かたかたと鳴って不満を表明した。


「リド、静かに」


「自由は抑圧されるほどよく鳴るのです」


「粥が冷める」


「それは問題です」


 リドは黙った。エノクはパンをちぎり、粥に浸して食べた。台所の窓からは、朝の森が見える。青い霧、白い茸の灯、蔦を揺らす小さな風。遠くでは、歩く箒たちが落ち葉を掃いている。もっと遠くでは、結界の柱となる古木が、眠っているように立っていた。エノクにとって世界とは、長いあいだこの窓の内と外で完結していた。森の外にも町や国があり、広い道があり、海があり、竜が住む山があり、戦があることは知っている。シモンの書棚には外界の地図も、聖戦の古い歌も、旅人が残した日誌もあった。だが、それらは彼にとって物語に近かった。ランバードという名も、かつて滅びた古い王国として何度か聞いたことがある。けれど、それが自分の名の後ろに続くものだとは、思いもしなかった。


「シモン」


「はい」


「外の世界は、まだ怖い?」


 シモンは匙を置いた。「どうして急に」


「昨日、結界の外を見回った扉が言ってた。北の霧が黒くなったって。木彫りの鳥たちも、あまり遠くへ行かない。井戸も、夜に水が苦いって文句を言ってた」


 食卓の上で、匙たちが静かになった。リドも鳴るのをやめた。シモンはしばらく窓の外を見ていた。朝の森は美しかった。だが、その美しさは、外の闇を否定するものではない。むしろ、結界の内側だけが守られているからこそ、あまりにも澄んで見えた。


「怖いものは、あります」


 シモンは答えた。「昔も、今も」


「昔から?」


「はい」


「じゃあ、どうしてみんな平気そうに暮らしてるの」


「平気だからではありません。暮らしているからです」


 エノクは首を傾げた。


「怖いものがあるたびに食卓を畳み、窓を閉じ、歌をやめてしまえば、怖いものは来る前から勝ってしまいます。だから、粥を作り、椅子を直し、鍋蓋の散歩に手を焼くのです」


「それ、最後のは必要?」


「意外と」


 リドが小さく鳴った。「私は世界防衛に貢献している」


「朝食妨害じゃなくて?」


「解釈の違いです」


 エノクは笑った。シモンも笑った。けれど、シモンの笑みの奥に、エノクは何か薄い影を見た。長く一緒に暮らしていると、穏やかな人の沈黙にも種類があることが分かる。シモンが本当に困っている時、彼は声を荒げない。むしろ、いつもより丁寧になる。今朝の彼は、とても丁寧だった。


 朝食の後、二人は奥の蔵へ向かった。蔵は里の外れ、絡み合う古木の根の下に建っている。建っているというより、森に半ば埋められていると言った方が正しい。石と木と鉄で作られた低い建物で、扉には七つの鍵穴があり、そのどれも形が違っていた。扉は他の扉たちのようにお喋りではなかった。眠っているのではない。黙って見張っている。エノクは幼い頃、この蔵を何度も覗こうとして、そのたびに戻り道が迷路になった。蔵は近づく者を拒むのではなく、近づいた者の目的を試すのである。


 シモンは腰から古い鍵束を取り出した。エノクはそれを見るたび、胸の奥が少しざわめいた。理由は分からない。鍵束には、一本だけ奇妙に焼けた跡のある鍵が混じっていた。柄の部分が溶け、形を失いかけている。シモンはそれを決して使わない。けれど、いつも鍵束から外さずにいる。


「その鍵、何に使うの」


 エノクが問うと、シモンは手を止めた。


「これは、閉じた扉の記憶です」


「開けるためじゃなくて?」


「鍵には、開ける鍵と閉める鍵があります。そして、もう二度と同じ扉を開けないために持つ鍵もあります」


「難しい」


「そうですね」


「誰の鍵?」


 シモンは答えなかった。彼は別の鍵を七つの穴へ順に差し込み、最後に扉へ手を置いた。


「シモンです。中へ入ります」


 重い扉が、ゆっくり開いた。蔵の中は冷たかった。壁には古い武具、壊れた人形、眠る楽器、封じられた箱、布をかけられた鏡、動かぬ時計が並んでいる。空気は埃っぽいが、死んでいない。むしろ、多くのものが息を潜めているようだった。エノクが一歩入ると、棚の上の小さな鎧兜がかたりと鳴った。奥の暗がりから、剣の鞘がこつんと床を叩く音がした。


「ここには、戦う道具もあるんだ」


「あります」


「どうして隠してるの」


「戦う道具は、戦いを呼ぶことがあります」


「でも、戦いが来たら必要だ」


「その通りです。だから捨てずに、眠ってもらっています」


 エノクは壁に掛けられた短剣を見た。刃は曇っているが、柄には青い石が埋め込まれ、小さな声で寝言を言っていた。その隣には、刃のない剣の柄、矢を嫌う弓、戦場の話をしたがらない盾がある。さらに奥、厚い布をかけられた長い箱が置かれていた。その箱だけは、周囲のものと違って妙に落ち着きがない。中で何かが寝返りを打つような音がし、時折、小さな舌打ちのようなものが聞こえる。


「今の、聞こえた?」


 エノクが箱を指した。


「聞こえました」


「あれ、何?」


「剣です」


「剣が舌打ちする?」


「します」


「どういう剣?」


「口の悪い剣です」


 エノクは目を輝かせた。「見たい」


「まだです」


「少しだけ」


「少しだけ見ても、少しだけで済まない剣です」


 箱の中から、くぐもった声がした。


「おい、聞こえてるぞ。誰が口が悪いだ。事実を正確に述べる性格なだけだ」


 エノクは驚いて箱に近づこうとしたが、シモンが静かに手で制した。


「眠っていてください」


「眠れるか。十六年も箱に詰められて、背中が錆びるわ」


「剣に背中はありません」


「気分の問題だ。で、その足音は誰だ。新入りか。へたくそな歩き方だな。左右の重心が甘い。転ぶぞ」


「転ばないよ」


 エノクはむっとした。


「ほら、返事も素直。剣に向いてない」


「僕が剣を使うなんて言ってない」


「じゃあ何に向いてる。鍋蓋追いか」


 箱の中の剣は鼻で笑ったような音を立てた。エノクは言い返そうとしたが、シモンが先に口を開いた。


「今日は様子を見に来ただけです、ティンカーベル」


 その名を聞いた瞬間、箱の中の音が止まった。エノクは名を心の中で繰り返した。ティンカーベル。剣にしては不思議な、軽やかな響きの名だった。


「ふん」


 やがて箱の中から声がした。「様子なら最悪だ。持ち主候補は鈍そうだし、世界は外で腐ってるし、あんたは相変わらず肝心なことを後回しにしてる」


 シモンは何も答えなかった。その沈黙には、先ほどの食卓のものより深い影があった。エノクは箱とシモンを交互に見た。


「持ち主候補って、誰のこと」


「あなたのことではありません」


 シモンは早かった。


 箱の中でティンカーベルが笑った。「今の否定は下手だな、シモン」


「あなたは少し黙ってください」


「十六年黙ってた」


「三日に一度は喋っています」


「剣にとって三日は十六年だ」


 エノクは思わず笑った。シモンは困った顔をしたが、完全には叱らなかった。蔵の重苦しさが、少しだけ緩んだ。けれど、ティンカーベルの言葉の中にあった「外で腐っている」という一節は、エノクの耳に残った。


 蔵の確認を終えた後、二人は結界の縁へ向かった。エノクが頼んだわけではない。シモンが珍しく、自分から誘ったのである。隠れ里の周囲には、七本の古木が立っている。それらはただの木ではなく、シモンが長い年月をかけて森のライラと結んだ結界柱であった。幹には古い人形の手、錆びた鍵、割れた鏡、折れた楽器の弦などが埋め込まれ、それぞれが微かな声を持っている。七本の柱は日々、森と外界の境を縫い合わせていた。結界があるかぎり、外からこの里を見つけることはできない。迷い込んだ者は、ただの苔むした森を歩いたと思い、いつの間にか別の丘へ出る。


 だが、その日、北の結界柱の葉は黒ずんでいた。完全に枯れてはいない。だが、葉脈に沿って赤黒い筋が入り、幹に埋め込まれた古い鏡の破片が曇っている。シモンは膝をつき、幹に手を当てた。エノクも隣にしゃがんだ。


「病気?」


「似ています」


「治せる?」


「治します」


「治せる、じゃなくて?」


「治します」


 シモンは同じ声で繰り返した。エノクはそれ以上聞かなかった。代わりに、幹の黒ずんだ葉へそっと触れた。指先が冷えた。冬の冷たさではない。触れたものが自分の輪郭を忘れそうになるような、奇妙な寒さだった。エノクは思わず手を引いた。


「何、これ」


「黒い炎の残り香です」


「炎なのに冷たい」


「カオスの炎は、燃やすためだけのものではありません。名を曇らせ、形をほどき、帰る場所を分からなくする」


 シモンはそう言ってから、しまったという顔をした。エノクは聞き逃さなかった。


「カオスって、聖戦の魔王?」


「そう伝えられています」


「でも、千年前に封じられたんじゃないの」


「そうも伝えられています」


「シモン」


 エノクは眉を寄せた。「そういう答え方、ずるい」


 シモンは幹に手を当てたまま、しばらく黙っていた。森の奥で風が鳴った。葉が揺れ、遠くの扉が一つ、誰も訪ねていないのに閉じる音がした。


「伝承とは、真実をそのまま入れておく器ではありません」


 やがてシモンは言った。「人が持ち運べる形に整えたものです。整える時、こぼれるものもあります」


「じゃあ、聖戦の歌も?」


「歌は、歌う者が息を続けられる長さに切られます」


「シモンは知ってるの? こぼれたところを」


 シモンはエノクを見た。その目は穏やかだったが、とても古かった。十六年の目ではない。千年の疲れを、薄い布で包んでいるような目だった。エノクはその視線を受け、胸の奥がざわついた。シモンは時々、こういう顔をする。エノクが知らない誰かを見ているような顔。エノクでありながら、エノクではないものを見ているような顔。


「少しだけ」


 シモンは答えた。「少しだけ、知っています」


「教えてくれないの」


「いつか、話します」


「いつかって、いつ」


「あなたが、聞いた後も自分の足で立てる時です」


 エノクはむっとした。「子ども扱いしてる」


「しています」


「はっきり言うなよ」


「あなたは十六歳です。十分に若く、十分に未熟で、そして十分に大切です。だから、急がせたくありません」


 エノクは言葉を失った。怒ることもできた。自分はもう子どもではないと言うこともできた。だが、シモンの声には、過保護な大人の甘さだけではないものがあった。恐れであり、後悔であり、決めたことを先送りにしている者の苦さだった。


「外に、何か来てるの?」


 エノクは小さく問うた。


 シモンは北の霧を見た。結界の向こうは、普通ならただ深い森が続いて見える。だが、その日は霧の奥に、ほんのわずか赤黒い筋があった。遠い空で星が裂けた夜の残滓のような色。森の鳥たちは鳴かず、小道はその方角へ伸びるのを嫌がっていた。


「影が、近づいています」


「魔王軍?」


「まだ、そう呼ぶほど形を持ってはいません。ですが、カオスの名を呼ぶものたちです」


「ここは見つからないんじゃなかったの」


「そのために結界があります」


「じゃあ、大丈夫だ」


 エノクは言った。言ってから、自分の声が少し軽すぎたことに気づいた。シモンは彼を責めず、微かに笑った。


「そうですね。今日のところは」


「明日は?」


「明日は、明日考えましょう」


「それ、リドと同じくらい信用できない言い方だ」


「鍋蓋と並べられるのは、少し複雑ですね」


 エノクは笑い、シモンも少しだけ笑った。けれど、結界柱の黒い筋は消えなかった。シモンは幹に額を寄せ、低く何かを唱えた。言葉というより、木に向けた手紙のような響きだった。幹に埋め込まれた鏡片が一つずつ光り、黒い筋がゆっくり薄くなる。エノクはその横顔を見つめていた。シモンは優しい。森の誰もがそう言う。壊れたものを捨てず、泣く人形を叱らず、口の悪い剣を十六年も箱ごと世話し、何も知らない自分を育ててくれた。だが、その優しさの底に、深い井戸のような暗さがあることを、エノクは最近になって知り始めていた。


 夕暮れ、里ではいつものように灯がともった。茸の灯が青白く光り、窓があくびをしながら閉まり、歩く椅子たちは食卓の周囲へ集まった。修理を終えた木馬が広場を得意げに一周し、片目だった人形は新しい硝子の目で星を探した。エノクは薪を割り、井戸から水を汲み、逃げようとしたリドを今度は鍋の上にうまく戻した。台所には粥ではなく、根菜の煮込みと焼いた茸、蜂蜜を塗った黒パンの匂いが満ちた。平和だった。少なくとも、見える範囲では。


 食後、エノクは家の屋根へ上った。屋根へ上る梯子は時々、降りる時に別の場所へつながるため注意が必要だったが、今夜は機嫌がよかった。森の夜空には、外の世界と同じ星があるはずだった。だが、不思議の森の星は少し低く、枝に引っかかっているように見える。エノクは膝を抱え、星を眺めた。胸元には、小さな布袋に入れた金属片があった。彼は物心ついた頃から、それをお守りとして持たされている。シモンは「大切な預かりものです」としか言わない。袋の中身は何度か見たことがある。銀とも金ともつかぬ色の、鍵のようで鍵ではない欠片。触れると不思議に温かく、時々、遠い水音が聞こえる気がする。


 エノクは布袋の上からそれを握った。


「僕は、何を預かってるんだろう」


 誰に言うでもなく呟いた。すると、屋根の下から声がした。


「知りたいのか」


 エノクは驚いて覗き込んだ。蔵の方角からではなく、家の壁に立てかけられていた古い木剣が喋っていた。子どもの頃から練習に使っている木剣で、名前はまだなかった。シモンは、名前は無理に与えるものではないと言っていた。


「聞いてたの?」


「木は聞く」


「知ってるの?」


「知らん」


「じゃあ、かっこつけるなよ」


「だが、知りたいと思ったなら、お前はもう少し強くならねばならん」


「木剣までシモンみたいなこと言う」


「私は木だからな。シモンより少し年上だ」


「本当?」


「嘘だ」


 エノクは吹き出した。屋根の上で笑っていると、少し離れた窓からシモンが見上げていた。灯を背にしたその姿は、森の奥に立つ古い木のようだった。


「冷えますよ」


「すぐ降りる」


「梯子が気を変える前に」


 エノクは下を見た。梯子はもう半分ほど横へずれていた。


「こら、待て。まだ降りてない」


「私は月を見たい」


「梯子が月見するな」


「自由は」


「その言葉、リドから習っただろ」


 梯子は黙った。シモンが静かに笑った。エノクは布袋を胸元へ戻し、屋根から降りた。その夜、彼はいつもと同じ寝台で眠った。寝台は少し軋みながら、彼の身体に合わせて柔らかく沈んだ。窓は閉まり、灯は小さくなり、遠くで時計が間違った時を告げた。夢の中で、エノクは赤い空を見た。誰かが自分の名を呼んでいる。エノク。エノク。声は母のようでもあり、老人のようでもあり、燃える城の中から聞こえるようでもあった。彼は手を伸ばしたが、何も掴めなかった。


 同じ夜、シモンは眠らなかった。彼は修理小屋の奥にある小さな机に向かい、古い記録を開いていた。そこには十六年前、森の苔の上に現れた赤子のこと、胸元に結ばれていた鍵片のこと、産着に縫われた名のこと、門の崩壊によって失われた旅路のことが、彼自身の手で記されている。記録の端には、焦げた鍵束の一部が置かれていた。最後の執事が扉を閉めるために使ったもの。その名を、シモンは忘れないよう何度も書いた。パーカス。マルタ。カイル。ダナン。王と王妃の名も。ランバードの名も。


 机の上には、もう一つの布があった。小さな白い守り石である。王妃がエノクの産着に忍ばせたもの。エノクにはまだ見せていない。見せれば問われる。問われれば、答えねばならない。シモンは守り石に触れ、目を閉じた。


「いつまで隠すつもりだ」


 背後から声がした。蔵の箱の中からではない。修理小屋の壁に掛けられた古い鏡が喋っていた。鏡は普段、ほとんど口をきかない。映すことに疲れた鏡であった。


「隠しているのではありません」


 シモンは答えた。


「言わないことを、たいてい世間ではそう呼ぶ」


「彼には、まだ時間が必要です」


「世界は待つか」


 シモンは答えなかった。鏡の表面が曇り、そこに森の外の光景が映った。黒い丘、名を失った村、道端に立ち尽くす人々、赤黒い煙に包まれた川。カオスの影は大陸をゆっくりと覆っていた。星の船は常に空に見えるわけではない。だが、その魂魄の残り香は、夢、病、飢え、忘却、黒い炎となって世界のあちこちへ滲み出ている。ランバードが滅びた夜から、魔王は完全な肉体を得ていない。鍵を持たぬからだ。だが、肉体を得ずとも、影は伸びる。名を曇らせ、境を緩め、古い封印を探り、鍵の匂いを追っている。


 鏡の中で、北の霧が赤黒く揺れた。小さな影が、結界の外縁をかすめる。まだ中へは入れない。だが、確かに探している。森の名を、里の息を、エノクの胸に眠る鍵の微かな光を。


「明日」


 シモンは呟いた。


「明日?」


 鏡が問う。


「彼に、剣を渡します」


「ようやくか」


「早すぎると思っています」


「遅すぎるとも言える」


「そうですね」


 シモンは立ち上がり、窓の外の森を見た。隠れ里は眠っている。鍋蓋も、椅子も、扉も、人形も、まだ自分が世界の中心だと思っている少年も。守りたいものは多すぎた。かつて彼は、作った命を愛しすぎて、孤独にしてしまった。その罪は今も消えない。だからこそ、エノクだけは、選ぶ前に世界へ押し出したくなかった。王子だからではない。鍵の継承者だからでもない。十六年間、名を呼んで育てた子だからである。


 だが、結界の外では、黒い影が近づいていた。森は長く隠れてきた。眠る扉、歩く椅子、喋る鍋蓋、口の悪い剣、名を知らぬ少年を抱え、時の流れから身をずらして生きてきた。けれど、世界の傷は森の外だけに留まらない。黒い炎は名を嗅ぎ、鍵を探し、いつか必ずここへ来る。


 シモンは机の上の記録を閉じた。表紙には、ただ一語だけが刻まれていた。


 エノク。


 その名を指でなぞり、彼は灯を消した。森の夜は深く、優しかった。だが、北の結界柱の葉には、消しきれなかった赤黒い筋が一本、まだ残っていた。

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