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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第1部 滅びた王国と森の王子
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第4話_最後の執事

 旅の扉は、完全には開いていなかった。石枠の内に満ちた青緑の光は、森の奥へ続く朝靄のように淡く、見つめるほど遠ざかり、目を離すほど近づく。水の匂いと苔の匂いが地下の冷気に混じっている。けれど、その向こうにあるはずの木々は輪郭を結ばず、幹は柱にも見え、枝は指にも見え、葉擦れの音は赤子の寝息ほど弱かった。古い魔導は目覚めていたが、星の船から降る赤黒い力が城の石、泉の水、空気の奥へまで染み込み、門の行き先を濁らせていた。扉の内側で、森と闇がせめぎ合っている。パーカスはそれを見て、かつて先代王に連れられてこの地下へ下りた若い日のことを思い出した。あの時の旅の扉は、もっと静かであった。水鏡のように澄み、こちらと向こうを分ける礼儀があった。いま目の前にあるものは、礼儀を失った門であった。開こうとしている。だが、どこへ開くのかを、まだ決めきれずにいる。


 階段の上から、爪が石を掻く音が近づいていた。細く、速く、数が多い。近衛の若者二人は剣を構え、乳母は震えながらアルティエルの聖印を胸に押し当てていた。パーカスの腕の中で、エノクは眠りと目覚めのあいだにいた。生まれてまだ一日も経たぬ身体は、世界の恐怖を知らない。ただ、地下の冷えと大人たちの鼓動を感じ取り、時おり小さく顔を歪める。産着の内側、胸元に結ばれた鍵片は、扉の光に応じて白く脈打っていた。その光は赤子の肌を傷つけず、むしろ薄い膜のように包んでいる。だが、パーカスには分かった。鍵は王子を守っているのではない。王子を呼んでいる。あるべき道へ、行くべき場所へ、まだ名を失っていない未来へ。


「執事長」


 前に立つ近衛の一人が、振り返らずに言った。名はカイル。まだ二十にも満たぬ青年で、つい数刻前までは王子誕生の祝い酒を一杯だけ飲めるかどうかで同僚と笑っていた者である。その隣に立つもう一人、ダナンは、頬に血を浴び、左腕が折れていた。それでも剣を右手で握っていた。


「門は」


「開きかけております」


「それは、開いているのと違うのですか」


「長く王宮におりますと、開きかけの扉ほど信用ならぬものはないと学びます」


 カイルは短く笑った。恐怖を押し殺すための笑いであった。「では、信用できるようにしていただかねば」


「努力しております」


「執事長でも、努力で足りないことがあるのですね」


「山ほどあります。今日ほど思い知らされた日はありません」


 パーカスはそう言いながら、石枠に手を置いた。手のひらの傷から新しい血が滲み、古代文字の溝へ流れ込む。光は強くなったが、門はなお揺れていた。血が足りないのではない。名が足りないのでもない。門は行き先を求めている。シモンの不思議の森。王家の記録にはそう記されていた。傀儡子シモン、聖戦を生き残った七英雄の一人。器に宿る声を聞く者。だが、千年を越えた記録は、しばしば祈りと同じくらい曖昧である。シモンが今もそこにいる保証はない。森が同じ場所にある保証もない。それでも他に道はなかった。王宮の地上は燃え、城壁は砕かれ、王と王妃は追手を食い止めている。扉が半分しか開いていなくとも、半分の未来があるならば、そこへ子を送らねばならない。


 階段の暗がりから、最初の魔物が飛び出した。小柄で、猿にも犬にも似ており、骨の上に黒い革を張ったような体をしていた。目はなく、口だけが大きい。カイルが踏み込み、横薙ぎに斬った。魔物は二つに割れたが、黒い煙となって床へ溶け、すぐに別の影へ寄った。ダナンがそれを踏みつけ、剣を床へ突き立てた。影が悲鳴に似た音を上げる。その間にも二体、三体と階段から降りてくる。


「時間を」


 ダナンが歯を食いしばった。「長くは無理です」


「長くなくてよい」


 パーカスは答えた。「王子様が通るだけの時間でよいのです」


 乳母が前に出た。「私が抱きます。あなたは門を」


「いいえ」


「でも、あなたは両手が」


「この子を託されたのは私です」


「私だって、乳母です」


 その声には、恐怖ではなく怒りがあった。乳母はエノクに乳を含ませる前から世話を命じられていた女で、王妃セリスが産屋で眠りに落ちたわずかな時間、赤子のそばにいた。彼女もまた、この子を置いていける者ではなかった。パーカスは彼女を見た。若くはないが、老いてもいない。顔は涙と煤で汚れている。けれど、その腕は赤子を抱くために開かれていた。


「名を」


 パーカスは言った。


「え」


「あなたの名です」


「マルタ、です」


「マルタ殿。あなたは戻りなさい。王妃様のもとへ」


「嫌です」


「王妃様は、最後まで王妃として立たれるでしょう。ですが、母としては今、子を失われた。せめて、その傍に子を知る者が必要です」


 マルタの顔が崩れた。パーカスは続けた。


「あなたはこの子の泣き声を知っている。重さを知っている。王妃様に、それを伝えられる。私は行かねばなりません。あなたは戻らねばならない」


「戻って、何を言えばいいのです」


 マルタは震える声で問うた。「王子様は大丈夫ですと、嘘を言えばいいのですか」


「嘘ではありません」


 パーカスはエノクを見下ろした。「大丈夫にするのです。そのために、いま皆が持ち場に立っております」


 マルタは唇を噛んだ。階段ではカイルが魔物の爪を受け、肩から血を散らした。ダナンがその前に割って入る。石床に黒い血のようなものが広がり、扉の青緑の光と混ざって不気味な色を作った。


「行きます」


 パーカスは言った。自分に向けた言葉でもあった。彼はエノクを外套で包み直し、片腕に抱いたまま、もう片方の手で石枠の中央に刻まれた古い印へ触れた。その印は小さな人形の形をしていた。丸い頭、細い腕、糸のない身体。傀儡子シモンの紋章。パーカスは古い祈りを知らない。魔導師でもない。彼が知っているのは、王家の食卓の順序、晩餐で誰をどこに座らせるか、王の外套にどの留め金を使うか、王妃が好む茶の濃さ、そして生まれたばかりの王子を抱く時に腕をどれほど曲げればよいかという、ごく地上の事柄ばかりであった。だが、彼はそのすべてを生涯かけて守ってきた。王家とは、王冠だけでできているのではない。寝室の火、食卓のパン、廊下の灯、名を呼ぶ声、それらを途切れさせぬ者たちの手でできている。ならば、最後に門へ捧げられるものが、魔導の詩でなくともよいはずだった。


「門よ、聞きなさい」


 彼は、執事が若い使用人へ言い聞かせる時と同じ声で言った。「この子は王子です。ですが、いまはただの赤子です。落とせば泣き、寒ければ震え、名を呼ばねば自分がここにいることも知りません。ですから丁重に扱いなさい。送り先は、シモン様の森。不思議の森。王家の記録に残る、命ある器の里。この子をそこへ。途中で迷わせてはなりません。これはランバード王家最後の執事命令です」


 その言葉が終わると、石枠の人形印が明るく灯った。門の向こうに、初めてはっきりと森が見えた。巨大な樹々、苔むした石、青白い灯をともす茸、枝から吊られた木製の鳥籠、ひとりでに揺れる古い玩具の馬。遠くに、小さな家々の屋根が見えたような気がした。門が開いたのである。


「今です」


 マルタが泣きながら言った。


 だが、階段の上から、別の声が降りてきた。


「困りますな。最後の扉まで、実に勤勉でいらっしゃる」


 ベルフェゴールの声だった。姿はまだ見えない。だが、黒い霧が階段を滑り降り、魔物たちの背を撫でると、その動きが一斉に鈍く、そして狡くなった。正面から斬りかかるのではなく、壁を伝い、床を這い、近衛の死角へ回り込む。カイルが叫び、左足に食いついた魔物を蹴り払った。ダナンがそれを斬った瞬間、背後から別の爪が彼の脇腹を裂いた。


「執事長、早く」


 カイルは振り返らずに叫んだ。「早く」


 パーカスは門の前に立った。だが、そこで気づいた。門は開いた。けれど、ただエノクを投げ込むことはできない。赤子は門の流れに耐えられない。誰かが抱き、向こう側へ渡り、置いて戻るか、あるいは共に行かねばならない。パーカス自身が通るべきだった。生きて通せと命じられた。そのためにここまで来た。だが、背後の追手は近い。自分がエノクを抱いたまま通れば、門は開いたまま残る。追手も続く。シモンの森に魔王の影を連れ込むことになる。


 彼は一瞬だけ、王妃セリスの言葉を思い出した。命を残して守りなさい。生きて通しなさい。彼はその命令に従うつもりであった。死ぬためにここへ来たのではない。だが、命令にはいつも、現場でしか分からぬ余白がある。執事とは、主の言葉をそのまま繰り返す者ではない。主の望みが言葉を越える時、それを形にする者である。セリスが望んだのは、パーカスが生きることではない。エノクが生きることだった。


「マルタ殿」


 パーカスは言った。「あなたは門のこちらに」


「何を」


「王子様を、向こうへ渡します。あなたは、私が合図したら扉の外側の銀楔を抜いてください」


「銀楔?」


 パーカスは石枠の下部を示した。そこには、古い金属の杭のようなものが三本打ち込まれていた。門を安定させる楔である。彼は先代王に連れられてきた時、聞いていた。旅の扉を閉ざすには、石枠の水脈を断つか、安定楔を破壊する。だが、起動中にそれを行えば、門は内側から崩れ、通路は裂ける。追手ごと飲み込むこともできるが、近くにいる者は助からない。


「嫌です」


 マルタは即座に言った。


「まだ説明しておりません」


「説明されなくても分かります。あなたは戻らないつもりです」


「戻るつもりはあります」


「嘘です」


 パーカスは少しだけ困った顔をした。「どうも、今日の私は嘘が下手ですな」


「王妃様に、何と言えばいいのです」


「王子様は、森へ向かわれました。鍵も共に。最後まで泣かれませんでした、と」


「あなたのことは」


「余計なことは結構です」


「余計ではありません」


 マルタの涙は止まらなかった。だが、彼女はもう拒まなかった。拒めば時間が失われると分かっていた。パーカスは彼女へ、ほんのわずかに微笑んだ。


「では、こうお伝えください。パーカスは、最後まで執事でした、と」


 階段の半ばで、ダナンが倒れた。カイルが叫んだ。倒れたダナンは、なお右手だけで魔物の足を掴み、近づけまいとしていた。黒い霧がさらに濃くなり、ベルフェゴールの影が階段の上に見えた。彼は悠然と降りてくる。まるで王宮の晩餐に遅れて現れた貴族のように。


「赤子をこちらへ」


 ベルフェゴールは穏やかに言った。「大魔王は寛大です。鍵さえ渡せば、その子はしばらく生かされましょう。もっとも、名は変わるかもしれませんが」


 パーカスの顔から表情が消えた。


「王子様の名に触れるな」


「おや」


「その名は、水鏡に映り、王妃様が呼び、陛下が認め、民が祝った名だ。貴様の主がどれほど巨大であろうと、土足で踏み込んでよいものではない」


 ベルフェゴールは微笑んだまま、ほんの少し目を細めた。「執事風情が」


「その通り」


 パーカスはエノクを抱き直した。「執事風情でございます。ゆえに、主の客でない者を通すわけには参りません」


 彼は門へ踏み込んだ。青緑の光が全身を包んだ。水中へ入るような感覚があった。呼吸が遠くなり、足元の石が消え、腕の中のエノクだけが現実として残った。門の向こう側は森だった。湿った土の匂い、葉の隙間から落ちる柔らかな光、遠くで鳴る木製の風鈴のような音。パーカスは一歩、また一歩と進んだ。足場はないのに、歩けた。背後では地下の円形の間が揺らぎ、前方では森の入口が近づいていた。


 だが、背後から黒い手が伸びた。魔物の一体が門へ飛び込みかけていた。さらにその奥に、ベルフェゴールの霧が触れようとしている。門が悲鳴を上げた。森の景色に黒い亀裂が走る。


「まだ、こちらではない」


 パーカスは歯を食いしばった。彼はエノクを自分の外套から解き、門の向こうに見える柔らかな苔の上へ差し出した。腕が震えた。赤子の重みが、突然、耐えがたいものになった。これを離せば、自分の腕には何も残らない。王妃から受け取った命、王から託された未来、ランバードという名の最後の温もり。それを離さねばならない。


「エノク様」


 彼は囁いた。「どうか、ご無事で。どうか、名をお忘れなきよう。いえ、赤子にそれは無理でございますな。では、誰かが呼んでくれるまで、生きていてください」


 彼はエノクを押し出した。赤子の身体は光に包まれ、ふわりと門の向こうへ渡った。苔の上ではなく、誰かに受け止められるように、ゆっくりと森の奥へ運ばれていく。鍵の光が白く瞬き、王妃の守り石が小さく輝いた。エノクはそこで初めて泣いた。細く、高く、しかし確かに生きている声であった。


 その泣き声を聞いた瞬間、パーカスは笑った。泣いたのではない。笑った。王子が生きている。泣ける場所へ届いた。それだけで、彼の腕から奪われた重みは、別の重みに変わった。守り終えた者の重みである。


 彼は振り返った。門のこちら側、地下の円形の間では、カイルが最後の一体を斬り伏せ、膝をついていた。ダナンはもう動かなかった。マルタは銀楔の前に座り込み、両手でそれを握っている。ベルフェゴールの霧が門へ流れ込もうとしていた。


「今です」


 パーカスは叫んだ。


 マルタは泣きながら楔を引いた。一本目。門が大きく揺れた。石枠から水が噴き出す。二本目。青緑の光に赤黒い線が走り、魔物の腕がその中で千切れた。三本目は固かった。マルタの力では抜けない。カイルが這うように近づき、折れかけた剣を楔の根元へ差し込んだ。


「マルタ殿、押せ」


「あなたも」


「押せ」


 二人は同時に力をかけた。銀楔が抜けた。瞬間、門は崩れ始めた。


 ベルフェゴールの顔から余裕が消えた。「愚かな。起動中の門を壊せば、ここ一帯が」


「存じております」


 パーカスは門の内側から答えた。彼はもう戻れなかった。背後の森は、エノクを受け取った後、急速に遠ざかっている。前には地下の間。そこへ戻れば、崩壊に巻かれる。だが、ベルフェゴールと追手もまた、門の裂け目に足を取られていた。黒い霧が吸い込まれ、魔物たちが悲鳴を上げ、石枠の古代文字が一つずつ砕けていく。


「執事風情が、魔侯を道連れにできると思うか」


 ベルフェゴールの声が歪んだ。彼はまだ完全には門へ入っていなかった。身を引けば逃れられるかもしれない。だが、カイルが最後の力で彼の外套を剣に巻きつけ、マルタが銀楔を抱えたまま水路へ投げ込んだ。水脈が逆流し、石枠の基礎が割れた。パーカスはベルフェゴールを見据えた。


「道連れなど、恐れ多い。私はただ、扉を閉めるだけでございます」


 彼は腰の鍵束を取り出した。王宮の多くの扉を開け閉めしてきた鍵束である。もちろん旅の扉に合うものではない。だが、彼はそれを握りしめ、砕けつつある石枠の中心へ叩きつけた。金属音が響いた。鍵束は一瞬で白熱し、溶け、古代文字の最後の線と絡み合った。門が内側から閉じようとした。外の世界、内の世界、森への道、地下の間、黒い霧、すべてが一つの渦へ巻き込まれる。


 最後にパーカスが見たのは、森ではなかった。王でも、セリスでもなかった。彼の目に映ったのは、王宮の長い廊下であった。朝ごとに燭台を点検し、絨毯の皺を直し、若い従僕を叱り、王妃の茶を運び、王の外套を受け取った、何の変哲もない日々である。あの廊下を守ることが、彼の生涯だった。いまその廊下は燃えている。だが、その先に生まれたばかりの名を一つ通した。ならば、廊下は完全には途切れていない。


「エノク様」


 彼は最後に言った。「どうか、よき朝を」


 旅の扉は砕けた。


 王宮の地下で、青緑の光が黒い炎とぶつかり、白い閃光となって城の基礎を揺らした。古い水脈が裂け、石壁が崩れ、追手の魔物たちは悲鳴ごと光に呑まれた。ベルフェゴールの影は寸前で身を引いたが、その片腕と外套の半ばを失い、地下の崩落に巻かれて姿を消した。カイルとダナンの名を呼ぶ者は、そこにはもういなかった。マルタは衝撃で壁へ叩きつけられ、気を失った。パーカスの姿は、光の中に消えた。


 その震動は地上にも届いた。祈祷室で戦っていた王は、足元の石が裂けるのを感じた。ベルフェゴールの気配が一瞬遠のき、黒い霧が乱れる。王はそれが何を意味するのかを悟った。パーカスが扉を閉じた。エノクは、行った。胸に痛みが走ったが、それは傷の痛みではなかった。父としての痛みであり、王としての安堵であった。


 セリスも悟った。彼女は祭壇の前に立ち、両手を組んでいた。涙は、ついにこぼれた。だが、声は崩れなかった。


「行ったのですね」


 王は頷いた。


「たぶん」


「たぶん、では困ります」


「ならば、行った」


 セリスは小さく笑った。泣きながら笑った。「はい。あの子は、行きました」


 その直後、ジャッジメントの断罪槌が祈祷室の壁を砕いた。近衛の最後の数名が吹き飛ばされ、黒鉄の巨人が部屋へ入ってくる。王はセリスを背に剣を構えた。彼の剣は欠け、鎧は裂け、足元には血が落ちていた。だが、彼の背中はなお玉座より高く見えた。


「判決」


 ジャッジメントの声が響いた。「ランバード王、鍵の逃亡幇助。罪、極刑」


「好きに裁け」


 王は剣を上げた。「私は、すでに王として判を押した」


 セリスはその後ろで、アルティエルの小像を抱いた。祈りではなく、記憶を抱くように。王宮の廊下には火が回り、天井の梁が焼け落ち、白城の窓から炎が噴き出していた。外では東門が破れ、バーンズがなお生きているかどうか、誰にも分からなかった。聖堂の鐘は割れ、広場の噴水は黒い灰で満ち、祝祭の旗は燃え落ちていた。


 王とジャッジメントがぶつかった。断罪槌と王剣の衝突が、祈祷室の床を砕いた。王は受け流し、斬り返し、巨人の兜へ一撃を入れた。火花が散る。ジャッジメントは揺らいだが倒れない。二撃目の槌が王の胸甲を叩き、白獅子の紋章に亀裂が入った。王は膝をついた。セリスが叫びかけたが、王は片手を上げて制した。まだ終わっていない。


「ランバードは」


 王は血を吐きながら立った。「ここで、終わらぬ」


 その声に応じるように、どこか遠くで赤子の泣き声が聞こえた気がした。実際には聞こえるはずがない。エノクはすでに門の向こう、遠い森へ送られている。だが、王とセリスには、その声が聞こえた。名を呼ばずとも、命が続いていると知らせる声だった。


 王は最後の力で剣を振った。白獅子の刃が、ジャッジメントの兜に深い裂け目を刻んだ。黒鉄の巨人が初めて後退する。だが、同時に断罪槌が王を打った。セリスの叫びが炎に呑まれた。祈祷室の天井が崩れ、白い小像が床に落ち、翼の片方が欠けた。赤黒い煙が部屋を満たし、王と王妃の姿を包んだ。


 夜明け前、ランバード王城は落ちた。


 東門は破られ、内郭は炎に包まれ、白城の塔は一本ずつ崩れた。城壁の上で最後まで旗を支えた兵の名は、のちの記録には残らなかった。聖堂に逃れた民の一部は地下水路から脱出したが、多くは黒い煙に追われ、名を呼び合いながら灰の中へ消えた。王都の青川は夜のうちに黒く濁り、橋の欄干には焼けた花冠が引っかかった。星の船は王都の上に影を落とし続け、カオスの魂魄は白城の炎を見下ろしていた。鍵は得られなかった。だから魔王は王国を許さなかった。王家の旗は焼け落ち、玉座は砕かれ、命名の間の水盤はひび割れ、水面に映ったばかりの名は、城の石から削られようとした。


 それでも、すべてが消えたわけではなかった。


 遠く、不思議の森の奥で、一つの光が落ちた。夜明け前の森は深い霧に包まれ、古い樹々は眠っているように静かだった。そこでは壊れた時計が木の根元で小さく時を刻み、片方の翼を失った木製の鳥が枝の上で首を傾げ、誰もいないはずの小道を、玩具の馬がひとりでに歩いていた。森の結界は外界の戦火をまだ知らず、葉の上には灰ではなく露があった。


 その森の中央、苔むした石の上に、赤子が現れた。青緑の光に包まれ、白い産着をまとい、胸元には小さな鍵片を結ばれている。赤子は一瞬、静かに空を掴むように手を伸ばし、それから泣き出した。森がその声を聞いた。木々がわずかに枝を揺らし、古い扉が遠くで目を覚まし、眠っていた人形たちが顔を上げた。


 やがて、霧の奥から一人の男が歩いてきた。穏やかな顔をした、年齢の読めぬ男である。彼の肩には小さな木彫りの鳥が止まり、手には灯りを入れた硝子の箱を持っていた。男は苔の上の赤子を見て、長い沈黙の後、膝をついた。胸元の鍵を見て、白い産着の縫い目を見て、王妃の守り石を見て、最後に赤子の顔を見た。


「……そうですか」


 男は静かに言った。その声には、驚きよりも深い悲しみがあった。まるで、いつか来ると知っていた知らせが、ついに戸口を叩いた時のように。


 赤子は泣き続けていた。男は慎重にその身体を抱き上げた。抱き方は慣れていないようで、少しぎこちなかったが、手つきは優しかった。木彫りの鳥が彼の肩で首を傾げ、赤子の顔を覗き込んだ。


「名は」


 男は産着の内側を確かめ、小さな布片に刺繍された文字を見つけた。王妃セリスが、逃がす直前に侍女へ縫わせたものだった。震える糸で、ただ一語。


 エノク。


 男はその名を声にした。


「エノク」


 赤子の泣き声が、少しだけ弱まった。


「私はシモンです」


 男は、森の主としてではなく、これからこの子を抱く一人の者として名乗った。「あなたがなぜここへ来たのか、いずれ話さねばならない日が来るでしょう。ですが、今は眠りなさい。あなたは、長い夜を越えて来たのですから」


 森の奥で、小さな家の扉がひとりでに開いた。温かな灯が漏れる。歩く椅子が慌てたように左右へ揺れ、古い毛布が棚から落ち、木製の鳥が先に飛んでいった。シモンはエノクを抱き、霧の中を歩き出した。遠くの空に赤黒い光は見えない。星の船も、燃える王都も、ここからは見えなかった。ただ、赤子の胸元で鍵片が一度だけ白く光り、そして静かになった。


 その夜、ランバード王国は滅びた。王と王妃の最期を正確に見届けた者はなく、近衛隊長バーンズの名も、聖堂の大司教の名も、多くの民の名も、灰と黒い水の中へ沈んだ。記録は焼け、石碑は砕け、白城は崩れた。後の世に残ったのは、魔王軍の襲撃によって王都が炎上し、王家の血は絶えたという報せだけであった。カオスは鍵を得られなかったが、ランバードの名を大陸から消したと信じた。


 けれど、不思議の森では、ひとりの赤子が眠っていた。王冠も玉座も知らず、父の剣も母の涙も覚えず、最後の執事の腕の温もりさえ、やがて夢の底へ沈めていく小さな命である。森の者たちは彼を王子とは呼ばなかった。シモンも、はじめからそうは呼ばなかった。ただ、名で呼んだ。


 エノク。


 滅びた王国から逃がされたその名は、燃える城ではなく、命ある道具たちの暮らす森の奥で、静かに朝を迎えた。

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