第3話_王宮炎上
夜は、明けなかった。東の空に開いた赤黒い裂け目は、時の流れそのものを押し留めたかのように王都ランバードの上へ広がり、星の船は雲を喰らいながら低く浮かんでいた。白城の外郭では火がいくつも上がり、黒煙は城壁を越えて中庭へ流れ込み、つい昨日まで王子誕生を祝う花で満ちていた石畳には、矢、折れた槍、潰れた兜、そして誰のものとも分からぬ血が散っていた。祝祭の名残はまだ消えきっていなかった。城門の柱には青と金の飾り布が結ばれ、広場の噴水には花冠が浮かび、聖堂の階段には配られた白パンが踏み砕かれて残っていた。だが、そのすべての上に黒い灰が降っていた。灰は熱くなかった。むしろ雪のように冷たく、触れた肌から名を奪うような不快な寒さを帯びていた。
東門は、なお立っていた。門扉には無数の傷が刻まれ、鉄帯は歪み、上部の見張り櫓は半ば崩れていたが、近衛隊長バーンズとランバードの騎士たちはそこに踏みとどまっていた。魔王軍の兵は人の姿をしていたが、人ではなかった。斬れば倒れる。だが、倒れた肉と影は黒い煙にほどけ、別の兵の足元へ絡みつき、その身体を大きく膨らませる。槍で胸を貫かれても呻かず、炎に焼かれても悲鳴を上げず、ただ門へ向かって進み続けた。彼らの背後には骨の馬に乗る騎兵がいて、さらにその後ろには、翼と腕と牙の数が見るたびに変わる獣どもが、王都の外縁を黒い波のように埋めていた。
「油を惜しむな。次があると思うな。今ここで使え」
バーンズの声は、喉を裂かれてなお響いた。彼は兜を失い、左肩の鎧は砕け、片目に血が流れ込んでいたが、城壁の上に立つ姿はなお塔のようだった。若い弓兵が弦を引く手を震わせているのを見つけると、彼は怒鳴らず、その背を拳で叩いた。
「名を言え」
「は……」
「お前の名だ」
「リ、リュカです」
「ならばリュカ、そこに立て。お前が射る一矢の後ろに、お前の母と妹が隠れていると思え」
若い兵は涙で顔を歪めながら、もう一度弓を引いた。矢は城壁をよじ登る影の兵の目に突き立ち、兵は初めてのけぞった。バーンズはすぐに次の兵へ声を飛ばした。彼は勇敢な者だけを戦わせているのではなかった。恐怖に崩れそうな者を、名によってその場へ縫い留めていた。
王はその背後、内郭の門前で騎士たちを率いていた。白獅子の紋章を刻んだ胸甲は煤に黒ずみ、剣にはすでにいくつもの欠けが生じていた。彼の周囲には王家直属の近衛が半円を作り、門を突破してきた魔物を次々と迎え撃っていた。王の剣は、若いころ国境で名を馳せた時と変わらず重く、正確だった。一撃で骨の馬の首を断ち、返す刃で黒槍の兵の膝を砕く。だが、敵の数は尽きなかった。倒れた騎士はすぐに後ろへ引かれ、別の騎士が前へ出る。その入れ替わりは整っていたが、整いすぎているからこそ、損耗の速さが分かった。
「陛下、東門の外郭がもちませぬ」
副官が駆け寄り、片膝をついた。肩に矢が刺さっていたが、彼はそれを抜こうともしていなかった。
「民の避難は」
「聖堂と地下水路へ半数以上。ですが、南市の一角に火が回り、逃げ遅れが出ております」
「近衛の第三隊を回せ」
「第三隊は聖庫前の守備に」
「聖庫に守るものはもうない」
王は低く言った。副官が目を上げる。王は鎧の内側に触れた。そこにあった鍵は、先ほどまで王の胸にあった。だが、その重みはすでに彼のものではなかった。鍵は一度、王の手で聖庫から出され、いまはまだ王の傍らにある。だが、王は知っていた。自分が守るべきは、鍵そのものではない。鍵を未来へ渡せる者であった。
「第三隊を南市へ。民を内郭へ入れよ」
「しかし、陛下」
「石の扉は民の名を呼ばぬ。生きている者を守れ」
副官は深く頭を垂れ、走り去った。王は城壁の上へ視線を向けた。星の船の腹が、ふたたび赤く開きつつあった。そこから、先ほどまでの獣や影兵とは違うものが降りてきた。
それは、黒い花弁のようなものをまとった男であった。空から落ちるのではなく、宙に置かれた階段を降りるようにゆっくりと現れた。細い身体、白すぎる顔、黒紫の長衣。背には翼があるようにも、裂けた外套が風を受けているだけのようにも見えた。口元には微笑があり、その微笑は城壁で人が死ぬことにも、王都が燃えることにも、いささかの関心を示していなかった。彼の足が外郭塔の屋根に触れると、塔を守っていた結界の青い光が、音もなく萎んだ。
「ベルフェゴール」
大司教が城壁の祈祷壇からその名を叫んだ。声には怒りよりも恐怖が勝っていた。「怠惰の魔侯。聖戦の残党め」
黒衣の男は、ゆっくりと首を傾けた。
「残党とは心外ですな。敗れた側に残る者をそう呼ぶのでしょう。われらはただ、長い眠りから起こされただけでございます」
声は柔らかく、遠い寝室で語られる物語のように耳へ滑り込んだ。城壁上の兵が何人か、弓を下ろした。ベルフェゴールは彼らへ笑みを向けた。
「疲れたでしょう。眠ればよろしい。剣を置き、門を開き、家族の名を忘れれば、もう怖がる必要もない」
その言葉を聞いた若い兵が、ふらりと一歩前へ出た。隣の兵が慌てて掴む。だが、彼の目は虚ろだった。ベルフェゴールの言葉は命令ではない。甘い許しだった。戦わなくてよい、守らなくてよい、名を持つ苦しみから降りてよいと囁く。疲弊した兵の心に、それは刃より深く入った。
大司教が聖印を掲げた。「白き翼の名において、眠りの呪を退けよ」
聖堂から分けられた灯が白く燃え、城壁の上に光の輪を作った。兵たちの目に焦点が戻る。ベルフェゴールは残念そうに息を吐いた。
「神官とは、眠れぬ者をさらに眠らせぬ職なのですね。まことに勤勉なことです」
その背後に、もう一つの影が降り立った。ベルフェゴールとは対照的に、それは重かった。空から落ちた瞬間、塔の屋根が砕け、石片が城壁へ降った。黒鉄の鎧に全身を覆われた巨躯。顔は兜の奥に見えず、兜の前面には裁きの天秤を歪めたような紋が刻まれていた。右手には巨大な断罪槌、左手には鎖でつながれた刃の束。背後には光輪めいた鉄枠があり、そこに無数の小さな鐘がぶら下がっていた。だが、その鐘は祝福の音ではなく、刑の宣告のように冷たく鳴った。
「ジャッジメント」
バーンズが唸った。「あれが、噂の処刑官か」
黒鉄の巨人は兜を動かし、城壁上の兵たちを見下ろした。声は鉄板を擦るように響いた。
「判決。ランバード王国、聖戦後の封印管理不履行。鍵の秘匿。大魔王への反逆。王家、神官、兵、民、すべて有罪」
「勝手な法廷だな」
バーンズは剣を構えた。
「刑を執行する」
ジャッジメントが槌を振り下ろした。塔の上部が半分消えた。石も兵も結界の光も、一瞬で黒い粉となって散った。衝撃が城壁を走り、何人もの兵が足を取られて落ちた。バーンズは歯を食いしばり、崩れた胸壁を蹴って前へ出た。
「弓兵、ベルフェゴールを狙え。魔導兵、処刑官の足を止めろ。近衛、俺に続け」
「隊長、あれは」
「化け物だ。だからどうした。城壁を通したら、後ろにいる子どもまで裁かれるぞ」
バーンズはジャッジメントへ突っ込んだ。断罪槌が再び振るわれる。彼は真正面から受けず、身を沈めて石床を転がり、巨人の膝裏へ剣を叩き込んだ。火花が散った。刃は鎧を完全には裂けなかったが、ジャッジメントの膝がわずかに沈んだ。そこへ魔導兵の氷槍が三本突き刺さり、別の騎士が鎖を巻きつけた。巨人は一歩止まった。それだけで十分だった。兵たちは恐怖の中に、まだ戦える隙間を見つけた。
だが、ベルフェゴールはその光景をただ眺めているだけではなかった。彼は指を鳴らした。東門の内側、避難民の列が通っている回廊の扉が、内側から開いた。そこに立っていたのは、ランバードの衛兵であった。彼の顔は青白く、目は眠る者のように半ば閉じている。彼は自分が何をしているのか分からぬまま、門の閂を外した。
「閉めろ」
近くの神官が叫んだ。だが、遅かった。扉の隙間から黒い霧が滑り込み、その後ろから小型の魔物が雪崩れ込んだ。女の悲鳴、子どもの泣き声、神官の祈祷、衛兵の怒号が狭い回廊で弾けた。ベルフェゴールは塔の上から、退屈そうに言った。
「城壁とは不便なものです。外から壊すより、内から開けた方が早い」
王はその報を、内郭門前で受けた。東門がなお完全には破れていないにもかかわらず、魔物が避難路へ出たという報である。彼はすぐに隊を二つに割った。
「私は回廊へ行く。第一隊はここを守れ」
騎士の一人が叫んだ。「陛下、王がお出になる場では」
「王が行かずに誰を行かせる。民の列が裂かれれば、城は内側から死ぬ」
王は返答を待たずに走った。王の周囲に十数名の騎士が続く。内郭の回廊には、すでに黒い霧が入り込んでいた。壁の聖句は煤け、床には倒れた避難民がいた。王は名を知らぬ彼らの前を走り抜けることに一瞬だけ痛みを覚えたが、足を止めなかった。生きている者を助けるためには、死者の前で立ち尽くすことは許されなかった。
回廊の角を曲がると、小さな魔物が子どもに覆いかぶさろうとしていた。王の剣が走り、魔物の首を壁へ叩きつけた。子どもは声も出せず、母親に引き寄せられた。王はその母へ言った。
「聖堂へ走れ。振り返るな」
「陛下……」
「名は」
「え」
「その子の名だ。呼びながら走れ」
母親は涙を流しながら叫んだ。「ミリア、走るよ。ミリア、ミリア」
子どもはその声に引かれるように立ち上がった。王は剣を返し、さらに二体を斬った。騎士たちが合流し、回廊の魔物を押し戻す。だが、その向こう、開いた扉の外には黒い霧が濃く、さらに多くの影が蠢いていた。王はその霧の奥に、ベルフェゴールの笑みを見るような気がした。
一方、東の塔の奥では、セリスがすでに決断していた。祈祷室へ移されていた彼女の周囲には、侍女、乳母、数名の近衛、そしてパーカスがいた。部屋にはアルティエルの小像と白い灯があり、石壁は厚く、外の音はいくらか遠かった。だが、遠いから安全なのではなかった。衝撃が来るたび、天井から白い粉が落ち、灯の炎が黒く傾いた。エノクは目を覚まし、泣いていた。生まれて間もない赤子の泣き声は細く、しかしこの部屋の誰の祈りより切実だった。
「王妃様、内郭のさらに奥へ」
近衛の一人が言った。「地下の聖堂ならば、ここより堅固です」
「堅固な場所は、いずれ棺になります」
セリスはエノクを抱きながら立ち上がった。産後の身体はまだ弱く、侍女が支えなければ足元が揺れた。それでも彼女の声は崩れなかった。
「パーカス。旅の扉は、まだ生きていますね」
老執事の顔色が変わった。侍女たちは互いを見た。旅の扉。その名を知る者は少ない。王宮地下、聖堂の水脈よりさらに下にある古代の門。聖戦以前からランバード城の下にあり、王家の者でさえ滅多に近づかない。古い記録では、七英雄シモンの不思議の森へ通じる道の一つであったとも、アルティエルの巡礼路の残骸であったとも言われている。長らく封じられ、使われぬまま忘れられかけていた。
「生きてはおります」
パーカスは慎重に答えた。「ですが、門は不安定です。行き先も、いま確かかどうか。起動には王家の血と古い鍵印が必要です。王妃様のお身体では」
「私が行くとは言っていません」
その言葉で、部屋の空気が止まった。パーカスは一歩近づいた。
「王妃様」
「この子を逃がします」
侍女の一人が口元を押さえた。乳母が涙を浮かべた。近衛は言葉を失った。パーカスだけが、すぐには反応しなかった。彼は長く王家に仕え、いくつもの決断を見てきた。だが、母が生まれたばかりの子を自分の腕から離す決断ほど、重いものを見たことはなかった。
「それは」
「言わないで」
セリスは静かに遮った。「あなたが何を言うか、分かっています。危険だと。陛下のご命令を仰ぐべきだと。王妃は王子と共に守られるべきだと。どれも正しいでしょう。けれど、正しい手順を踏んでいる間に、この子は魔王の手に落ちます」
「陛下は、まだ戦っておられます」
「だからです」
セリスはエノクを見下ろした。泣き疲れた赤子は、小さな手で母の衣を掴んでいた。
「陛下が戦っている間に、この子を逃がす。王が門を守り、母が名を渡す。どちらも、この子を守る戦いです」
パーカスは目を閉じた。セリスの言葉には、嘆きではなく王妃としての明晰さがあった。彼女は恐れている。離したくないと思っている。いますぐ扉を閉め、子を胸に抱いたままこの部屋で夜が過ぎるのを待ちたいと、誰よりも願っている。だが、それが許されぬことを知っている。カオスは鍵を求めている。鍵は王家の血に結びつく。生まれたばかりの王子は、鍵そのものではない。だが、未来の鍵であった。
扉が開き、王が入ってきた。鎧は血と煤に濡れ、左腕には裂傷があった。彼がここへ来たことに、誰も驚く余裕がなかった。セリスは彼を見るなり、何かを言おうとした。だが、王は先に首を振った。
「聞いていた」
「陛下」
「旅の扉を使う」
セリスの顔が、ほんの一瞬だけ歪んだ。それは安堵ではなく、決定が現実になった痛みであった。王は鎧の内側から、銀金の鍵片を取り出した。部屋の灯が、その表面に白く映った。エノクが泣き止んだ。まるでその小さな金属片が、自分を呼んでいることを知ったかのようだった。
「これは、私が守るべきものだった」
王は言った。「だが、守るとは、胸に抱いて死ぬことではない。未来へ渡すことだ」
彼は鍵をセリスへ差し出した。セリスは片手でエノクを抱き、もう片方の手で鍵を受け取った。金属片は彼女の手の中で淡く震えた。王はエノクの顔を覗き込んだ。戦場の血を帯びた父が近づくと、侍女の一人が思わず身を固くしたが、セリスは動かなかった。王は手袋を外し、指先でエノクの頬に触れた。
「エノク」
彼は初めて、父としてその名を呼んだ。命名の間で呼ばれた時とは違う。民に向けて告げた時とも違う。戦場から戻り、もう二度とこの名を呼べないかもしれない男の声だった。
「お前は、王冠のために生まれたのではない。生きるために生まれた。どうか、それを忘れるな」
「陛下」
セリスの声が震えた。王は彼女を見た。二人の間には、多くの言葉があった。言えば崩れてしまう言葉ばかりだった。だから、王は短く言った。
「すまない」
「謝らないでください」
「そなたとこの子を守ると言った」
「守っています」
セリスは涙をこぼさなかった。「いま、守ってくださっています」
王は彼女の額に唇を寄せた。それは王と王妃の儀礼ではなく、夫と妻の別れに近かった。パーカスは視線を伏せた。侍女たちは泣いていた。近衛でさえ、顔を歪めていた。
王は鍵をセリスの手から受け取り直し、小さな絹紐に通した。それをエノクの産着の内側、胸元へ結びつける。鍵片は赤子の胸に触れると、震えを止めた。まるでようやく本来の場所を見つけたように、静かになった。
「パーカス」
「はい」
老執事は膝をついた。
「エノクを連れて旅の扉へ。行き先は不思議の森。シモンなら、この子を守れる」
「必ず」
「鍵はこの子と共に。もし扉が不安定なら」
「私が身をもってでも通します」
「命に代えるなと、王妃が言った」
パーカスは一瞬、セリスを見た。王妃は小さくうなずいた。
「では、生きて通します」
王は満足したようにうなずいた。「それでよい」
その時、祈祷室の外で轟音がした。扉が内側へ歪み、近衛の一人が吹き飛ばされて床を転がった。黒い霧が廊下から流れ込む。霧の向こうに、ベルフェゴールの声がした。
「困りますね。大切なものを、勝手に隠されては」
王は即座に剣を抜いた。近衛たちが扉の前に立つ。セリスはエノクをパーカスへ渡そうとして、一瞬だけ腕に力を込めた。母の本能が、最後の抵抗をした。赤子を離すな。胸の中に隠せ。誰にも渡すな。その声はあまりに強く、セリスは息が止まりそうになった。
だが、彼女はエノクの名を呼んだ。
「エノク」
すると、その小さな身体が、自分だけのものではないことを思い出した。彼は王子である前に、一つの命であり、一つの名であり、これから世界へ出ていく者だった。母の腕は彼を守る。だが、母の腕だけでは、今夜を越えられない。
セリスはエノクをパーカスへ渡した。老執事の腕は震えていた。だが、受け取る手は確かだった。乳母が厚い外套をかけ、侍女が小さな布包みを差し出した。セリスは自らの胸元から、細い銀鎖を外した。そこには小さな白い石がついていた。王妃が幼い頃、母から譲られた守り石であった。
「これを」
彼女はエノクの産着に忍ばせた。「いつか、この子が私を覚えていなくても、母がいたことだけは残りますように」
パーカスは深く頭を下げた。「王妃様。必ず、お伝えします」
「いいえ」
セリスは首を振った。「この子が覚えていなくてもよいのです。生きてくれれば」
外の扉が砕けた。黒い霧が濃くなり、近衛の剣が何か硬いものと打ち合う音がした。ジャッジメントの重い足音が遠くから近づいている。鉄の鐘が、処刑の拍子のように鳴っていた。
「行け」
王が言った。命令ではなく、願いだった。
パーカスはエノクを抱き、乳母と二人の近衛を伴って、祈祷室の奥の小扉へ向かった。そこには王族だけが知る狭い階段があった。セリスは彼らの背を見送った。エノクは泣いていなかった。母から離されたことを理解していないのか、それとも鍵の微かな光に慰められているのか、小さな目を閉じていた。
小扉が閉じる直前、セリスはもう一度だけ名を呼んだ。
「エノク」
パーカスは振り返らなかった。振り返れば、足が止まると知っていた。
地下への階段は、王城のどの廊下より古かった。壁は粗い石で、ところどころに聖戦以前の文字が刻まれている。上では戦の音が轟いていたが、下へ進むにつれ、それは水の底で聞く雷のように遠くなった。代わりに聞こえてきたのは、地下水脈の流れと、壁の奥から響く低い唸りであった。旅の扉が、目覚めようとしているのだ。パーカスの腕の中で、エノクの胸元の鍵が淡く脈打った。
乳母は息を切らしながら言った。「パーカス様、本当にこの先に門が」
「あります。私も若い頃、一度だけ陛下の父君に伴われて見ました」
「行き先は」
「祈りましょう」
「それだけですか」
「古い魔導には、最後に祈りが必要なものが多い」
乳母は泣きそうな顔で笑った。「執事長がそんなことを仰るなんて」
「私も、今日ばかりは帳簿と鍵束だけでは足りぬと思い知りました」
短い会話だった。だが、そのわずかな人間らしさが、地下の闇を少しだけ薄めた。二人の近衛は無言で前後を守っていた。彼らの若い顔には恐怖が浮かんでいたが、視線は逸れていなかった。
階段の半ばで、上から激しい衝撃が響いた。石粉が降り、乳母が悲鳴を上げた。パーカスはエノクを外套の内側へかばい、壁に身を寄せた。遠く、セリスのいる祈祷室の方角から、剣戟と魔導の爆ぜる音が重なった。
地上では、王がベルフェゴールと対峙していた。祈祷室の扉は破られ、近衛は半数が倒れていた。ベルフェゴールは相変わらず優雅に立ち、黒い袖を煤から守るように軽く払っていた。その背後では、ジャッジメントが廊下を塞いでいた。断罪槌が床に触れるたび、石が砕ける。セリスは侍女たちの後ろに下がらず、アルティエルの小像の前に立っていた。手には短い儀礼剣を持っている。戦うための剣ではない。王妃が戴冠式で触れるための細い剣であった。
「王妃自ら剣を?」
ベルフェゴールは楽しそうに言った。「美しい。ですが、似合いませんな。あなたの手は、祈りと揺り籠のためにある」
「祈りも揺り籠も、守るものがある時には剣になります」
「そのような言葉を、誰が教えたのです」
「王です」
王が彼女の前に立った。剣を構え、左腕から血を流しながらも、その背はまっすぐだった。
「ベルフェゴール。お前の相手は私だ」
「いいえ、陛下。私の相手は鍵です。あなたは、その近くに置かれた扉の錠前にすぎません」
「ならば、錠前らしく壊れにくくあろう」
王が踏み込んだ。ベルフェゴールは指先だけで黒い霧を集め、刃の形にした。王の剣と霧の刃がぶつかり、部屋の灯が暗くなった。王は力で押した。ベルフェゴールは押されながらも笑っていた。彼の強さは、剛力ではなかった。足元から眠りが這い上がり、腕を重くし、心に囁く。もう十分だ。王としてよく戦った。目を閉じれば、痛みも責任も遠ざかる。王は歯を食いしばった。
「陛下」
セリスの声がした。
「眠らないでください」
「分かっている」
「あなたは、寝つきが悪い方ですもの」
戦場の只中に似合わぬ言葉だった。だが、王は笑った。短く、本当にわずかに。その笑いが、ベルフェゴールの呪を裂いた。王の剣が黒い刃を弾き、魔侯の袖を裂いた。ベルフェゴールの笑みが初めて薄くなる。
「人間とは、まことに面倒な生き物だ」
「それが我らの取り柄だ」
廊下の向こうで、ジャッジメントが動いた。近衛たちが止めようとしたが、巨人の槌が振るわれ、三人が壁へ叩きつけられた。セリスが息を呑む。王は振り向けなかった。ベルフェゴールがその隙を狙う。黒い霧の刃が王の脇腹を裂いた。王は膝をつきかけたが、倒れなかった。
地下では、パーカスたちがついに最下層へ着いた。そこには広い円形の間があった。天井は低く、壁のあちこちから清水が細く流れ、床の溝を通って中央へ集まっている。中央に立つものは、扉と呼ぶには奇妙だった。石の枠だけがあり、その内側には壁も木戸もない。ただ、空間そのものが薄く歪み、向こう側に深い森の気配が眠っているように感じられた。枠には古い蔦の彫刻と、水輪の紋、そして小さな人形のような印が刻まれていた。傀儡子シモンの印だと、パーカスは昔聞いたことがあった。
「これが、旅の扉」
乳母が囁いた。
「まだ眠っている」
パーカスはエノクを抱いたまま、扉の前へ進んだ。鍵が強く光った。だが、それだけでは門は開かなかった。古い魔導は、金属片一つで動くものではない。血、名、行き先、そして門を開く意志が必要だった。
パーカスは短剣を抜き、自分の手のひらを切った。近衛が驚いて止めようとしたが、彼は首を振った。
「王家の血ではありませんが、王家に仕えた血です。足しにはなるでしょう」
血を扉の石枠に塗ると、刻まれていた古代文字が一つずつ青く灯った。だが、光は弱い。パーカスはエノクの胸元の鍵に触れた。赤子は目を覚まし、小さな声を上げた。泣き声ではなかった。息のような声だった。
「エノク・ランバード」
パーカスは、はっきりとその名を呼んだ。「白城に生まれ、水鏡に名を受けし子。アベルの血を引き、セリス王妃の腕に抱かれ、ランバード王に祝福された子。この名を、ここに記す。門よ、聞け。この子を、シモンの森へ」
扉の奥で、水の音が変わった。流れが前から後ろへではなく、下から上へ昇るように響いた。石枠の内側に、淡い緑の光が滲む。森の匂いがした。濡れた苔、古い木、雨上がりの土、そしてどこか懐かしい木製の玩具の匂い。乳母が涙をこぼした。近衛の一人が、思わず聖印を切った。
「開いた……」
「まだです」
パーカスは顔を上げた。光は揺らいでいた。門の向こうに森は見える。だが、像は定まらず、時おり黒い影が横切った。星の船の魔力が、地下にまで染み込んできている。旅の扉は目覚めたが、安定していなかった。
その時、背後の階段から、重い足音が聞こえた。近衛が剣を抜いた。乳母がエノクを抱くパーカスの前へ立とうとしたが、パーカスは彼女を下がらせた。足音は一つではない。黒い霧を引きずる小型の魔物たちと、その背後に別の気配がある。ベルフェゴールではない。ジャッジメントでもない。もっと低く、飢えた追手の気配だった。
「乳母殿」
パーカスは静かに言った。「あなたは王妃様のもとへ戻りなさい」
「嫌です。私も王子様と」
「この門は、何人も通せるほど安定していません」
「なら、あなたが」
「私は王子様を抱いております」
乳母は言葉を失った。パーカスの声は穏やかだったが、そこには議論の余地がなかった。二人の近衛が階段の前へ立った。
「執事長、早く」
「まだ完全には」
「完全を待っていれば、追いつかれます」
その言葉は正しかった。パーカスは扉へ向き直り、エノクをさらに強く抱いた。王子の胸元で鍵が光っている。彼はセリスの顔を思い出した。王の手の重みを思い出した。命に代えるな、生きて通せ。その命令を思い出した。
地上では、王宮に火が回り始めていた。白い柱を黒煙が舐め、青い絨毯に火の粉が落ち、祝宴のために飾られていた金の幕が赤く燃え上がった。王宮炎上。その言葉は、この夜まだ誰の口にも上らなかった。だが、炎はすでに王家の廊を走り、壁画の英雄たちの顔を赤く照らしていた。聖天使アルティエルの翼の下を、煙が黒く汚していく。王は祈祷室の前でなお剣を握り、セリスはその背後で倒れた侍女の名を呼び、城壁ではバーンズがジャッジメントの槌を三度目に受け流した。
そして地下では、旅の扉が青緑の光を増していた。森の影が揺れ、遠い場所で誰かが振り向いたような気配がした。パーカスは赤子の耳元で囁いた。
「エノク様。どうか、泣かずに。いえ、泣いても構いません。生きている者は泣くものです」
階段の上から、魔物の爪が石を掻く音が近づいた。近衛が構え、乳母が祈り、パーカスは扉へ一歩踏み出した。王宮は燃えていた。王国は裂かれようとしていた。だが、その炎の底で、ただ一つの小さな名を未来へ逃がすため、古い扉が目を覚ました。




