第2話_星の船の帰還
祝いの夜は、なかなか眠らなかった。王都ランバードの広場には夜半を過ぎても灯が残り、噴水の縁では眠り込んだ子どもを抱いた父親たちが葡萄酒の杯を傾け、聖堂の階段では巡礼者が肩を寄せ合って王子の名を語っていた。昼に配られた花冠は踏まれて形を崩し、石畳には青い花弁と白いパン屑が散っていたが、それさえも人々には祝福の名残に見えた。エノク。王子の名は、まだ新しい硬貨のように誰の舌にも慣れておらず、呼ばれるたびに少しだけ輝きを増すようだった。城下の若い吟遊詩人は即興の歌を何度も繰り返し、歌詞を忘れると周囲の者が笑いながら補った。聖堂の鐘はすでに沈黙していたが、民の声が代わりに夜気を震わせていた。
けれど、王城の北塔には祝いの声が届かなかった。厚い石壁と高い空のあいだに建てられた観測台では、占星術師オルドが星盤の前に膝をつき、灯皿の炎をいくつも消していた。夜を見るためである。灯りは人を安心させるが、星の異変を読むには邪魔になる。弟子たちは震える手で黄銅の環を回し、古い星図を重ね、記録板に墨を落とした。東の空に浮かぶ赤黒い光は、時を追うごとに大きさを増していた。最初は針の先ほどであったものが、いまは潰れた瞳のように見えた。その周りでは星が消えていた。雲に隠れたのではない。星座の糸そのものが、何者かに引き抜かれたように断たれていた。
「師よ、王へ知らせは」
「走らせた」
オルドは短く答えた。だが、返答を待つ余裕はなかった。彼は古い羊皮紙を広げた。それは聖堂の封庫から写された禁忌の天文記録で、千年前の聖戦を記したものだと伝えられていた。紙の端は黒く変色し、ところどころ文字が欠けていたが、赤い鉱石で描かれた奇妙な船影だけは、時を経ても褪せていなかった。船のようであり、棺のようであり、玉座のようでもある図。周囲には古代文字で短い警句が添えられていた。星ならざる星、帰り来る墓舟、名を焼く王の座。オルドはその文字を指でなぞり、喉の奥が渇くのを感じた。
「あり得ぬ」
弟子の一人が言った。「聖戦は終わりました。カオスは封じられたはずです。聖天使と七英雄が」
「聖典はそう語る」
「では」
「聖典がすべてを語るとは限らぬ」
自分で口にした言葉に、オルド自身が畏れた。長く王家に仕え、星を読み、神官たちと争わぬよう慎重に生きてきた彼が、聖典の余白を疑う日が来るとは思わなかった。だが、東天の赤黒い光は、信仰や礼儀では消えなかった。星盤の水銀は先ほどから波立ち、中央に黒い渦を作っている。弟子が震えながら聖印を握った時、空の奥で、音がした。
それは雷ではなかった。雷ならば雲の中で鳴り、大地へ落ちる。だが、その音は空の背後から聞こえた。世界という布の向こう側で、巨大な爪がゆっくりと引っかいたような音であった。観測台の石床が低く唸り、星図塔の窓が一斉に震えた。弟子たちが空を見上げる。赤黒い光の周囲に、細い裂け目が走っていた。ひとすじ、またひとすじ。夜空が割れていく。裂け目の奥には、星々の光ではない、黒く濁った赤の奔流があった。
「鐘を」
オルドは言った。声は掠れていたが、命令だけは明瞭だった。「北鐘を鳴らせ。祝いの鐘ではない。外敵の鐘だ」
弟子は一瞬、動けなかった。王子誕生の夜に外敵の鐘を鳴らすなど、民の心を乱す大罪にも等しい。だが、次の瞬間、空の裂け目がさらに広がり、そこから黒い影が姿を見せた。弟子は悲鳴を飲み込み、階段へ駆けた。
最初の警鐘は、祝祭の余韻を断ち切るにはあまりに鋭かった。広場で歌っていた者たちは、はじめ何の冗談かと顔を上げた。酔った商人が「まだ祝うのか」と笑い、近くの女が不安そうに彼の袖を引いた。二度目の鐘で、笑い声が消えた。三度目で、城壁の上の衛兵が松明を掲げ、外郭門の鎖が軋みながら下ろされ始めた。外敵を告げる北鐘は、ランバード王国で百年以上鳴らされていなかった。古老たちはその音を知識として知っていたが、耳で聞いた者はほとんどいなかった。鐘は祝祭の灯を一つずつ冷たいものへ変えていった。母親は子どもを抱き上げ、商人は樽を置き去りにし、神官は聖堂の扉を開いて民を中へ入れ始めた。誰もまだ敵の姿を見ていない。だが、空そのものが敵であることだけは、誰の目にも明らかになりつつあった。
王城の東の塔では、王妃セリスが目を覚ました。産後の疲労は深く、先ほどまで眠りに沈んでいたはずであった。けれど、警鐘の響きは母の眠りを容赦なく裂いた。寝台のそばでは、赤子のエノクが身じろぎし、小さな顔をしかめている。侍女たちが慌てて灯を増やした。窓の外の夜は赤かった。炎ではない。空の色であった。
「何が起きています」
セリスは身を起こそうとした。侍女が止めようとしたが、王妃の眼差しに触れて手を引いた。扉が開き、パーカスが入ってきた。老執事はいつものように整っていたが、その顔から血の気が引いていた。
「王妃様。どうか、まだお休みください」
「その言葉で休める母がいると思いますか」
セリスの声は静かだった。静かすぎるほどだった。「陛下は」
「玉座の間へ向かわれました。近衛隊長バーンズ殿が同行しております」
「北鐘が鳴りました」
「はい」
「敵ですか」
パーカスは一瞬だけ答えを遅らせた。侍女たちはその沈黙だけで震えた。
「まだ、敵の数も姿も定かではございません。ただ、北塔より緊急の報が」
「星ですね」
パーカスは目を見開いた。
「命名の間で、水が震えていました。あの時から、何かが来ていたのでしょう」
セリスはそっとエノクを抱き寄せた。赤子は不安を知るはずもなく、母の胸元で小さく息をした。セリスはその額に頬を寄せた。
「パーカス」
「はい」
「この子のそばを離れないでください。何があっても」
老執事は深く頭を垂れた。「我が命に代えましても」
「命に代える、という言い方は嫌いです」
セリスは微かに笑ったが、その笑みはすぐに消えた。「命を残して守りなさい。この子には、死んだ忠臣の話より、生きて名を呼んでくれる者が必要です」
パーカスは返す言葉を失った。長い沈黙の後、彼はもう一度、今度は臣下ではなく人として頭を下げた。
「承りました」
玉座の間には、すでに諸侯と将官、神官たちが集められていた。先ほどまで祝宴の残り香があった広間は、いまや戦議の場となっていた。床に落ちた花弁は踏み荒らされ、杯は片づけられ、壁際の楽師たちは姿を消していた。王は玉座に座らず、その前に立っていた。外套を軍装のものへ替え、胸には白獅子の紋章を留めている。バーンズはその右に立ち、すでに近衛の配置を伝える小札を手にしていた。
大司教が息を切らせて入ってきた。普段なら儀礼を欠かさぬ男であったが、今は祭服の裾を乱し、腕には封庫から持ち出した古い聖典を抱えていた。彼の後ろには、占星術師オルドが弟子に支えられて続いた。
「陛下」
オルドは膝をついた。「東天に、星の船の徴が現れました」
広間がざわめいた。若い諸侯の一人が笑おうとしたが、誰も続かなかった。星の船。その名は、子どもに聞かせる聖戦譚の中にしか存在しないはずのものだった。現実の戦議で口にされるには、あまりに古く、あまりに不吉だった。
「確かか」
王が問うた。
「確かめたくはございませんでした」
オルドは顔を上げた。「しかし、空が裂けております。星図にない赤黒い光が膨張し、周囲の星を喰らっています。古記録と一致します。あれは流星ではございません。自然の彗星でもございません。星の船です」
大司教が聖典を開いた。手はわずかに震えていた。
「聖典には、カオスはパンドラボックスに封じられたとある。聖天使アルティエルと七英雄の御業により、魔王の肉体は地の底へ鎮められた。だが……」
「だが、何だ」
バーンズが低く言った。
「古い異本には、魔王の魂魄は最後まで荒れ狂い、聖天使の光とともに時の彼方へ退けられた、とも読める箇所がございます。教義上は、完全な封印の象徴とされてきました。しかし、もしそれが象徴ではなく、実際の出来事であったなら」
「戻ったというのか」
諸侯の誰かが叫んだ。「千年前の魔王が」
王は動かなかった。恐怖を抱かなかったのではない。恐怖が深すぎる時、人はむしろ石のようになる。彼は玉座の背後に掲げられたアベルの紋章を一度だけ見上げ、それからオルドへ視線を戻した。
「魔王が戻ったとして、なぜこの王都を目指す」
答えたのは大司教ではなく、オルドでもなかった。玉座の間のもっとも奥、王家の記録官として控えていた痩せた老人であった。彼は長年、王家の封印文書を管理してきた男で、ふだんは人々から忘れられた影のような存在であった。
「陛下。恐れながら」
「申せ」
「王家の聖庫に眠るものを、魔王は求めているのではないかと」
王の顔がわずかに変わった。広間の多くの者には、その意味が分からなかった。だが、バーンズとパーカスを除けば、ごく少数の重臣だけが王家の古い秘事を知っていた。パンドラボックスの鍵。聖戦の後、アベルの血脈に託されたとされる小さな聖具。箱を開く鍵であり、箱を閉じ直す鍵でもあると伝わるもの。王家はそれを王権の象徴として掲げることを禁じられ、ただ守ることだけを命じられてきた。
「聖庫を封じよ」
王は即座に命じた。「内郭の扉を三重に閉じる。王妃と王子の守りを厚くせよ。バーンズ、外郭の軍は」
「東門と北門に厚く置きます。城下の民は聖堂と地下水路へ避難を開始。弓兵は城壁上へ。魔導兵は鐘楼と塔上に配置します。ですが、敵が空から来るなら、城壁は気休めにしかなりません」
「気休めでも民の背にはなる。やれ」
「御意」
その時、広間の大窓が赤く光った。全員が振り向いた。窓の外、王都の東の夜空が、縦に裂けていた。裂け目はもはや細い傷ではない。空の半ばから地平へ向かって、巨大な黒赤の門が開きつつあった。その奥から、船影が現れた。
星の船は、山よりも大きく見えた。実際にどれほど離れているのか、誰にも分からなかった。遠い空にあるようであり、王都の真上に覆い被さっているようでもあった。船体は黒曜石のように鈍く光り、外殻には骨に似た白い筋が走っていた。帆はなかった。櫂もなかった。ただ、船の腹には無数の赤い窓があり、それらはすべて眠らぬ眼のように瞬いていた。船の後尾からは赤黒い煙が流れ、煙は雲を腐らせながら渦を巻いた。やがてその煙が、一本の柱となって大地へ降り始めた。
王都全体が、それを見た。広場の人々は声を失い、聖堂へ逃げ込む足を止めた。城壁の兵は弓を構えたまま震え、神官は祈りの文句を忘れた。赤黒い煙の柱は王城の東庭へ降りた。そこには、アルティエルの白百合が植えられた庭があった。煙が触れた瞬間、白百合は黒く縮れ、土はひび割れ、噴水の水は血のように濁った。
煙は人の形を取ろうとした。だが、完全にはならなかった。ある瞬間には鎧をまとった王の姿に見え、次には角ある獣、次には焼けた翼を持つ影、また次には顔のない巨人となった。肉体ではない。魂魄であった。形を欲し、名を欲し、世界に触れるための器を探している、巨大な意志であった。
その影が、王城の方を向いた。窓越しであるにもかかわらず、玉座の間にいた全員が、自分だけを見られたように感じた。若い諸侯の一人が膝から崩れた。別の者は剣を抜こうとして鞘を取り落とした。大司教は聖印を掲げたが、聖句の最初の一節が声にならなかった。
声が響いた。
それは耳で聞く音ではなかった。石壁の中から、血の中から、記憶の底から響いた。王都じゅうの人間が同時に聞いた。眠っている赤子も、祈る老人も、城壁の兵も、地下室の鼠さえも、その声に身体を強張らせた。
『ランバード』
ただ一語で、王家の名が黒く染められるようだった。壁に刻まれた紋章が軋み、玉座の背後のアベルの旗が揺れた。
『アベルの血を残す者よ。箱の鍵を渡せ』
広間の空気が凍った。王は一歩も退かなかった。バーンズが剣を抜き、王の前へ出ようとしたが、王は片手で制した。
『我が肉体は、いまだ箱の内にある。鍵を渡せ。さすれば、汝らの名をしばし残してやろう。王都を焼かず、子を殺さず、玉座を砕かず、汝らの小さき歴史に猶予を与えよう』
甘い声ではなかった。むしろ、あまりに巨大なものが人の言葉を真似たため、そこには温度も抑揚もなかった。だが、提示されたものは明確だった。鍵を差し出せば、今は滅ぼさぬ。拒めば、王都は焼かれる。
王は窓へ向かった。側近たちが止めるより早く、彼は大窓を開け放った。夜風が赤黒く吹き込み、広間の灯火が一斉に歪んだ。王は玉座の間から東庭を見下ろした。そこに立つ煙の魔王は、見上げているのか、見下ろしているのかさえ分からなかった。
「大魔王カオス」
王の声は王都に響き渡るほど大きくはなかった。だが、不思議と東庭へ届いた。「我らランバードは、聖騎士アベルの血を守る家。お前が求めるものが何であるか、知らぬふりはせぬ」
広間の誰もが息を止めた。王は続けた。
「だが、鍵は渡さぬ」
赤黒い煙が揺れた。王都の上空で星の船の赤い窓が一斉に明滅した。
『拒むか。汝は、赤子の名を得たばかりではないか』
王の顔に、初めて怒りが浮かんだ。
『その名を、消してやろう』
玉座の間で、セリスのもとから駆けつけた侍女が悲鳴を上げた。王は振り返らなかった。
「名を脅しの道具に使うな、外なる亡霊よ」
彼は胸の聖印を握りしめた。「我が子の名は、今日、水鏡に映った。民の声に呼ばれ、母の胸で息をしている。お前がそれを欲しがろうと、焼こうと、呑もうと、渡すものではない」
『ならば、王よ。汝の拒絶を、王国の死で購え』
カオスの声が終わると同時に、星の船の腹が開いた。赤い窓だと思われていたものが裂け、内部から黒い雨が降り始めた。雨ではなかった。翼ある魔物、骨の馬に乗った騎兵、黒い槍を持つ影の兵、肉と鎧の境目が溶けた怪物たちが、空から次々と落下してきた。地に触れると、彼らは砕けず、むしろ土を腐らせながら立ち上がった。王都東の外縁、葡萄畑、巡礼路、白百合の庭、外郭門の前に、魔王軍が湧いた。
最初の悲鳴は東門から上がった。次に、鐘楼の弓兵が矢を放った。矢は黒い兵の胸に突き立ったが、兵は倒れず、突き立った矢の羽根だけが黒く燃えた。魔導兵が火球を撃ち、城壁下の怪物を吹き飛ばした。だが、煙の中から別の腕が伸び、倒れた怪物の残骸を引きずり集め、再び立たせた。城壁の上で若い兵が吐いた。バーンズの怒号が夜を裂いた。
「弓を止めるな。火を絶やすな。倒れたものが立つなら、立てぬまで砕け」
王は大窓から離れ、玉座の間を振り返った。そこには恐怖に硬直した諸侯と神官たちがいた。彼は彼らを叱らなかった。恐れるなと言うのは容易い。だが、恐れぬ者などいない。かつてのアベルでさえ恐れたと、王は幼い頃から聞かされていた。
「皆、聞け」
王の声が広間を打った。「これは伝承ではない。壁画でも歌でもない。いま我らの前にある戦だ。恐れるなとは言わぬ。恐れたまま持ち場へ行け。諸侯は兵をまとめ、民の避難を助けよ。神官は聖堂を開き、傷病者を受け入れよ。記録官は王家の文書を地下へ。大司教、アルティエルの灯を城壁へ分けよ。あの炎を見せれば、民はまだ祈れる」
大司教は深くうなずいた。顔は蒼白だったが、声は戻っていた。
「御意。聖堂の灯は、消させませぬ」
「バーンズ」
「はっ」
「東門を支えよ。だが、死守にこだわるな。民を内郭へ逃がす時間を稼げ。門が破られる前に退く判断を許す」
「陛下は」
「私はここに残る」
「ならば近衛を半数置きます」
「半数では足りぬだろう」
「陛下を失えば、この国は今夜終わります」
王はわずかに笑った。
「終わらせぬために、お前を東へ行かせるのだ」
バーンズは一瞬だけ歯を食いしばった。王に背を向けることを、彼は何より嫌った。だが、命令の意味は理解していた。彼は剣を胸に当て、深く一礼した。
「白獅子の名にかけて、東門を支えます」
「生きて戻れ」
「それは、敵次第ですな」
「私の命令だ」
バーンズはそこで初めて、わずかに笑った。「ならば、できるだけ従いましょう」
近衛隊長が駆け去ると、玉座の間は一気に動き出した。諸侯はそれぞれの兵を呼び、神官は聖印を掲げ、従者たちは書類と武具を抱えて走った。祝宴のために磨かれた床に、泥の足跡と血の跡がつき始めた。外では魔物の咆哮と人の叫びが混じり、東の空では星の船がなお王都を覆っていた。
王は一人、玉座の背後の小扉へ向かった。そこから王家の聖庫へ下りる階段が続いている。扉の前には、すでにパーカスが待っていた。老執事はいつの間にか王妃のもとから戻っていたらしい。その顔には、王がよく知る静かな覚悟があった。
「王妃と王子は」
「東の塔から内郭奥の祈祷室へお移しします。侍女たちには必要なものだけを持たせました」
「王妃は何と」
「ご自分も民の避難を助けると仰せでした」
「止めたか」
「止めました」
「聞いたか」
「聞かれませんでした」
王は短く息を吐いた。苦笑に近かった。「あの人らしい」
「陛下」
パーカスは声を低くした。「鍵は」
「聖庫から出す」
「危険です」
「聖庫に置いたままでも危険だ。カオスは場所を知っている。いや、感じているのだろう。ならば、守る者の意志が届く場所に置く」
パーカスは反論しようとして、やめた。王は古い階段を下りた。パーカスも続いた。地下へ向かうにつれ、外の戦の音は鈍くなっていった。代わりに、石壁の奥を流れる水の音が聞こえた。ランバード城の地下には、聖堂の泉から続く水脈があり、王家の命名の儀にもその水が使われる。王家にとって水は記憶であり、名を映す鏡であり、封印を冷やす静けさでもあった。
聖庫の扉は三重であった。第一の扉には王家の白獅子。第二の扉にはアルティエルの翼。第三の扉には、七つの灯皿と一つの箱が刻まれていた。王は腰から小さな鍵束を外し、古い祈りの言葉を唱えた。扉は重い音を立てて開いた。
聖庫の中は狭かった。そこには王冠も宝石もほとんどなかった。王家の真の宝は、見せびらかすものではなく、忘れずに守るものだったからである。中央の台座に、小さな銀の箱が置かれていた。王はその蓋を開けた。中には、掌に収まるほどの金属片があった。鍵と呼ぶには奇妙な形で、歯も柄もない。古代文字の刻まれた細い板のようでもあり、小さな剣の折れた欠片のようでもあった。色は銀とも金ともつかず、見る角度によって白くも青くも見えた。
「これが、千年守られたものですか」
パーカスは囁いた。彼も存在は知っていたが、実物を見るのは初めてだった。
「私も王位を継いだ日に一度見ただけだ」
王は鍵を手に取った。その瞬間、遠くで星の船が唸った。地下の石壁が震え、聖庫の灯が青く揺れた。鍵が王の掌で熱を持った。熱いのではない。鼓動に似ていた。
「陛下」
「分かっている。呼ばれているのだ」
王は鍵を胸元の鎖に通し、鎧の内側へ収めた。
「カオスはこれを欲している。ならば、これを渡さぬことが、今夜の戦の意味だ」
「王妃様と王子様を逃がす準備をいたします」
王はパーカスを見た。老執事は、すでに次に何を命じられるか分かっている顔をしていた。王はしばらく沈黙し、それから言った。
「まだ逃がすとは言っていない」
「言われずとも、準備だけは必要でございます」
「パーカス」
「はい」
「もし、城がもたぬ時は」
「王妃様と王子様をお守りします」
「王妃が残ると言ったら」
「失礼を承知で、お連れします」
「エノクを」
「はい」
パーカスは王の言葉を待たずに頷いた。「エノク様を、必ず」
王は老執事の肩に手を置いた。王と臣下の間に、それ以上の言葉は不要だった。
地上へ戻ると、戦はすでに王都の東を赤く染めていた。外郭門の前では魔物の群れが押し寄せ、弓兵の矢が雨のように降り、魔導の炎が夜を焼いていた。だが、魔王軍は怯まなかった。倒れても、黒い煙に包まれ、別の形で立ち上がる。骨の馬が城壁に体当たりし、翼ある獣が塔上の弓兵をさらい、影の兵が槍を構えたまま門の隙間へ殺到した。民は地下水路へ逃げ、聖堂には負傷者が運び込まれ、神官たちは祈りながら血を拭った。祝祭の花は、兵の足と魔物の爪に踏み潰され、白い花弁は泥と血に混じった。
バーンズは東門の上にいた。兜は失われ、頬の古傷から新しい血が流れていた。彼は二本目の剣を抜き、城壁をよじ登ってきた影の兵を叩き落とした。
「油を落とせ。火を入れろ。弓兵、空だ、上を見ろ」
命令は途切れなかった。兵たちは恐怖に震えながらも、その声に従った。バーンズがいるかぎり、東門はまだ城門であり、ただの木と鉄ではなかった。
その時、王城の上に白い光がともった。大司教が聖堂の灯を分け、城壁の高所に掲げたのである。アルティエルの灯は小さかった。星の船の赤黒い光に比べれば、あまりにか細かった。けれど、その白い火を見た瞬間、何人かの兵が泣いた。祈りを思い出したからではない。自分たちがまだ、名を持つ人間として戦っていることを思い出したからである。
王は城壁へ上がり、その灯の下で剣を抜いた。カオスの魂魄は東庭から王城を見上げていた。肉体なき魔王は、まだ完全には世界に降りきっていない。それでもその影は、王都の屋根より高く、塔より深く、夜そのものの中に根を張っているように見えた。
『鍵を渡せ、ランバード』
再び声が響いた。今度は先ほどより近かった。
王は剣を掲げた。
「断る」
『王国が焼ける』
「焼かせぬ」
『民が死ぬ』
「守る」
『子の名が消える』
王の眼差しが鋭くなった。
「消させぬ」
それは勝利を知る者の言葉ではなかった。絶望を知らぬ者の強がりでもなかった。彼は、すべてを守れないかもしれないと知っていた。城壁は破られるかもしれない。民は死ぬかもしれない。王妃と生まれたばかりの子に、自分の手が届かなくなるかもしれない。それでも、差し出してはならぬものがあった。恐怖に屈して鍵を渡せば、王国はその瞬間に名を失う。たとえ城壁が立っていても、民が生きていても、ランバードはランバードではなくなる。
カオスの影が広がった。星の船が低く鳴り、空の裂け目からさらに多くの魔物が降り始めた。王都の夜は炎と煙と祈りと悲鳴に満たされた。誕生を祝う鐘が鳴ったその同じ日に、戦の鐘が鳴り続けた。白城の旗は赤黒い風に打たれ、青川の水は不吉な光を映し、アルティエルの聖堂には避難した民の名を呼ぶ声が溢れた。
東の塔の奥で、王妃セリスはエノクを抱きしめていた。遠くの衝撃に窓が震えるたび、侍女たちは身をすくめたが、セリスは泣かなかった。彼女は赤子の耳元で、何度も名を呼んだ。
「エノク。エノク。ここにいます。あなたは、ここにいます」
赤子は何も知らなかった。王国も、鍵も、星の船も、魔王の名も、父が城壁で剣を掲げていることも知らなかった。ただ母の腕の中で、時折小さく泣き、また眠ろうとした。その小さな寝息は、戦の音に掻き消されそうでありながら、確かにそこにあった。
夜空を裂いて帰還した星の船の下で、ランバード王国は最初の拒絶を選んだ。大魔王カオスは鍵を得られず、王は膝を折らず、王都は炎の中でなお名を保とうとした。その代価として、夜は長くなった。城壁の外に魔王軍が満ち、赤黒い煙は王城へ向かい、白百合の庭は黒く枯れた。祝祭の歌は消え、代わりに剣と鐘と祈りが響いた。エノクと名づけられたばかりの王子の上に、滅びの影が初めて落ちたのである。




