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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第2部 吟遊詩人と剣舞姫
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第1話_森を出た少年

# 森を出た少年


 森の外の道は、歩いても前へ進むだけだった。小道が気を利かせて近道へ曲がることも、石が足に合わせて転がることも、倒木が「右足から踏め」と忠告することもない。ただ土があり、車輪の跡があり、荷を積んだ馬の蹄が乾いた窪みを残し、遠くへ続いていた。エノクはそれだけのことに、しばらく慣れなかった。森の道は、気まぐれで不親切な時もあったが、少なくとも生きていた。外の街道は黙っている。黙っているから、どこまで進んでも正しいのか間違っているのか教えてくれない。旅とは、もしかすると道が黙ることなのかもしれない、とエノクは思った。


「今、哲学をしている顔だな」


 腰の剣が言った。


「顔で分かるの」


「歩幅が不安定になる。考えごとをしている者は足元への礼を欠く。そして足元への礼を欠く者は転ぶ」


「転んでない」


「まだ、だ」


 ティンカーベルは鞘の中で、朝からずっと不機嫌だった。いや、もともと機嫌のよい剣ではないのだが、森を出てからは口調がさらに鋭くなっている。エノクが背嚢の紐を緩めれば「荷物に負けるな」と言い、足を速めれば「逃げるならもっと静かに逃げろ」と言い、休もうとすれば「休むなら場所を選べ」と言う。あまりにうるさいので、エノクは途中で一度、黙ってくれないかと頼んだ。剣は「黙るとお前が死ぬ可能性が三割上がる」と答えた。具体的な数字がどこから出たのかは分からなかったが、怖くなってそれ以上は言わなかった。


 森を出てから最初の半日は、思ったより静かだった。街道の左右には畑が広がり、ところどころに石垣と低い柵がある。遠くには羊の群れが白く動き、風車がゆっくり回っていた。空は高く、森の枝越しに見る空よりも広かった。広いということは、気持ちがよいだけではない。隠れる場所が少ないということでもあった。エノクは何度も背後を振り返った。そこにはただ丘と畑と道が続いているだけで、不思議の森の入口はもう見えない。昨日まで自分の世界だった場所は、外から見ればただの木立に過ぎなかった。そう思うと、胸の奥が急に心細くなった。


「振り返るなとは言わん」


 ティンカーベルが言った。「だが、振り返るなら前も見ろ」


「難しいことを言う」


「難しくない。首を戻せ」


 エノクは言われた通り前を向いた。道の先に、荷馬車が一台見えた。幌をかけた古い馬車で、横には豆袋と陶器の壺が積まれ、御者台には丸い帽子を被った男が座っている。男はエノクを見ると、手綱を緩め、気のよさそうな声を上げた。


「おう、若いの。一人旅か」


 エノクは返事に詰まった。一人旅か。そう問われれば、そうである。だが、腰には喋る剣がいる。胸には王家の鍵がある。背中には森の者たちの約束がある。一人と言っていいのか分からなかった。


「はい」


 結局、そう答えた。


「どこまで行く」


「南東の宿場町まで」


「ああ、レムルの町か。半日も歩けば着くが、荷台に乗るか。若い足でも、初旅なら泥道は堪えるぞ」


 男は笑った。悪い人には見えなかった。丸い頬、日に焼けた首、皺の寄った目元。森で会う道具たちとは違い、人間の顔は読みにくい。人が笑っている時、本当に笑っているのか、何かを隠しているのか、エノクにはまだよく分からなかった。


「どうする」


 ティンカーベルが低く問うた。


「乗ってもいいかな」


「ただで乗せる者は、ただの善人か、ただでは済まない者だ」


「どっち?」


「見ただけで分かるなら、お前に忠告していない」


 エノクは男へ向き直った。


「いくらですか」


 男は少し驚いた顔をして、それから大声で笑った。「しっかりしてるな。銅貨二枚でいい。町の手前までだ」


 銅貨二枚。エノクは背嚢の内側を探った。シモンは小さな革袋に硬貨も少し入れてくれていた。銅貨、銀貨、そして使うなと言われた小粒の宝石。エノクは銅貨を二枚出そうとして、うっかり銀貨を掴みかけた。ティンカーベルが鞘の中で鋭く鳴る。


「違う。銅だ。赤い方だ。白い方を出すな」


 エノクは慌てて銅貨を選び直した。御者の男が首を傾げた。


「今、何か鳴ったか」


「え、ええと、鞘が」


「古い剣か。旅人は剣をよく鳴らす。まあ、初旅なら銭袋はよく見ておけよ。レムルの町は悪い町じゃないが、いい町でもない。いい町というのは、たいてい金を取る時だけ自分でそう名乗る」


 男はそう言って、エノクを荷台へ乗せた。荷台は豆と乾いた草の匂いがした。幌の隙間から街道が流れていく。歩かずに進むという感覚は妙だった。森の小道とは違う。馬が歩き、車輪が回り、人の作ったものが前へ進めてくれる。エノクは少しだけ緊張を解いた。


「名は?」


 御者が訊いた。


 エノクは胸の内側で、シモンの言葉を思い出した。名を軽く渡さないこと。だが、宿や町では名を訊かれる。どこまでが軽いのか、まだ分からない。


「エノクです」


「家名は」


 心臓が跳ねた。ランバード。その名は、言ってはならない。だが、言わなければ怪しまれるのではないか。


「家名は、ありません」


 エノクは答えた。声が少し硬くなった。御者の男は、特に深く追及しなかった。


「森の子か」


「そんなところです」


「森の子は珍しくない。山の奥から出てきた薬草採りや、木地師の小僧なんかは、家名なんぞ持たんからな。町ではあまり正直に財布を見せるなよ。森の子は、目が澄んでる分、騙しやすいと思われる」


「目で分かるんですか」


「分かる。町の奴は人を見る時、まず金を見る。森の奴は人を見る時、まず顔を見る」


 エノクは黙った。御者の言葉は少し乱暴だったが、悪意はなかった。むしろ、最初に出会った外の人間がこの男でよかったのかもしれないと思った。ティンカーベルは何も言わなかった。つまり、少なくとも今のところ危険ではないということだろう。


 荷馬車は昼過ぎ、丘の上へ出た。そこから初めて、エノクは本格的な町を見た。レムルの町は、森の里とはまるで違っていた。木と石の家々が寄り集まり、赤茶けた屋根が段々に並び、中央には小さな鐘楼と市場の広場がある。町を囲む柵は高くはないが、門には槍を持った番兵が二人立っていた。外側には旅人の馬、荷馬車、巡礼者の列、毛皮を担いだ猟師、香辛料の匂いを漂わせる商人たちが集まり、道端ではパンを売る女が大声で客を呼んでいる。人の声、馬の鼻息、車輪の軋み、鍛冶屋の槌音、子どもの泣き声、犬の吠える声。森の賑やかさとは違う。森では、声がそれぞれの名を持っていた。町の声は、互いにぶつかり、混ざり、流れ、誰のものか分からなくなる。


 エノクは荷台から降りて、思わず立ち尽くした。


「口を閉じろ」


 ティンカーベルが言った。「世間知らずが顔からこぼれている」


「もう遅いと思う」


「少しでも拾え」


 御者は笑いながら荷台の豆袋を直した。


「レムルへようこそ、エノク。宿なら《麦角鹿亭》が無難だ。安すぎる宿は荷が消える。高すぎる宿は財布が消える。門を入って右、三つ目の角を曲がれ」


「ありがとうございます」


「礼はいい。銅貨二枚分は運んだ。あとは自分の足で歩け」


 エノクは深く頭を下げた。御者は片手を上げ、荷馬車とともに町の門へ向かった。エノクも続こうとして、門番に止められた。


「通行税」


「え?」


「通行税だ。旅人一人、銅貨一枚。商荷があるなら別。武器持ちは鞘印を見せろ」


 門番は慣れた声で言った。エノクは慌てて銅貨を探した。今度は間違えずに一枚出したが、鞘印という言葉で止まった。


「鞘印?」


 門番が眉を上げた。「剣を持ってるだろ。町の中で抜かないという印だ。傭兵なら組合札、旅人なら仮印。持ってないなら、門で木札を買え。銅貨三枚」


「剣を持ってるだけでお金がかかるの?」


「町中で剣を持った若造が暴れるたびに、誰かが後始末をする。その誰かに払う金だ」


 ティンカーベルが低く言った。「払え。ここで揉めるな」


「分かってる」


 エノクは銅貨を三枚出した。門番は木札を渡し、鞘の紐に結ばせた。ティンカーベルが不満そうに鳴る。


「私に札を下げるとは」


「町の決まりだって」


「剣の尊厳が」


「リドみたいなこと言わないで」


「鍋蓋と同列にするな」


 門番がまた眉を上げた。「さっきから、剣に話しかけてるのか」


 エノクは一瞬、血の気が引いた。外の世界では剣は喋らない。少なくとも、喋る剣を普通に腰に下げている旅人は珍しいはずだった。


「癖です」


「変な癖だな」


「森の育ちなので」


「森は広いからな。まあ、抜かなきゃいい」


 門番はそれ以上気にせず、次の商人を呼んだ。エノクは門をくぐった。町の空気が一気に濃くなる。焼いた肉の匂い、汗、馬糞、香草、酢漬け野菜、革、鉄、煙。あまりに多くの匂いが重なり、彼は少し目眩を覚えた。


「大丈夫か」


 ティンカーベルが言った。


「たぶん」


「たぶんで歩くな。壁際へ寄れ。人の流れを見ろ。正面から来る者だけが人ではない。横から財布を狙う手も人だ」


 言われて、エノクは慌てて銭袋の紐を押さえた。市場通りでは、誰もが早かった。商人は天秤を動かし、客は値切り、荷運びは怒鳴り、子どもは走り、犬はパン屑を追い、巡礼者は祈りながらも安い宿を探している。森の里では、誰かが転びそうになれば道が少し助けてくれた。町では、転べば踏まれる。そういう場所だった。


 《麦角鹿亭》は、御者の言った通り門を入って右、三つ目の角を曲がった先にあった。鹿の角に麦の穂を絡めた看板が下がり、入口からは煮込みの匂いと人声が漏れている。エノクは扉の前で深呼吸した。


「宿では何を言えばいい?」


「泊まりたいと言え」


「それだけ?」


「それだけを言え。余計なことを言うな。部屋代を聞け。先に全財産を見せるな。宝石は出すな。剣が喋ることも言うな。王子だとも言うな」


「最後のは言わないよ」


「世間知らずは、言わないつもりのことを顔で言う」


 エノクは顔を両手でこすった。


「直った?」


「多少ましだ。未熟者から疲れた未熟者になった」


「それ、ましなの?」


「少なくとも警戒されにくい」


 エノクは扉を押した。中は薄暗かった。低い天井に燻された梁、壁に掛けられた鹿の角、古い樽、長卓、火の入った炉。昼過ぎだというのに、旅人や商人が何人も座っていた。革鎧の男、灰色のローブをまとった巡礼者、羊皮紙を広げる商人、酔っているのか眠っているのか分からない傭兵。奥の帳場には、太い腕をした女主人が立っていた。髪を布でまとめ、鋭い目で客の出入りを見ている。


「泊まりか、食事か」


 女主人が訊いた。


「泊まりたいです」


「一人?」


「はい」


「馬は」


「いません」


「部屋は相部屋なら銅貨八枚、個室なら銀貨一枚と銅貨三枚。夕食付きはそれぞれ銅貨二枚増し。湯は別。剣は部屋で抜くな。騒ぎを起こしたら外へ放る」


 エノクは頭の中で硬貨を数えようとした。銅貨八枚。夕食付きなら十枚。個室は銀貨一枚と銅貨三枚。シモンに教えられた貨幣の表を思い出す。銅貨十枚で小銀貨一枚、小銀貨十枚で銀貨一枚だったか。いや、地域によって違うと言われた。すると銀貨一枚は高いのか、安いのか。


「相部屋、夕食付きで」


 ティンカーベルが小さく言った。


「相部屋、夕食付きでお願いします」


 女主人は片眉を上げた。「剣の言うことを聞くのかい」


 エノクは凍りついた。


「……え」


「今、剣が喋っただろ」


 宿の空気が、少しだけ変わった。近くの客がこちらを見た。エノクはどう答えればよいか分からず、口を開けたまま立ってしまった。ティンカーベルが小さく舌打ちのように鳴った。


「失敗したな」


「君が喋ったんだろ」


「お前が小声に反応した」


「剣に責任を押しつけられるとは思わなかった」


 女主人はしばらく二人、いや一人と一本を見比べ、それから大きく笑った。


「喋る剣か。珍しいね。だが、うちには喋る義足を連れた船乗りも泊まったことがある。世の中、妙な客ほど金を払えば客だ。剣の分の寝台は取らないよ」


 周囲の客も、興味を失った者から順に視線を戻した。完全に気にされないわけではないが、少なくとも大騒ぎにはならなかった。エノクは肩の力を抜いた。


「珍しいけど、驚かないんですね」


「驚くには、こっちは長く宿屋をやりすぎた。喋る剣より、払わず逃げる傭兵の方がよほど面倒だよ」


 女主人は帳面を開いた。「名は」


 また名だ。エノクは一瞬迷い、それから答えた。


「エノク」


「家名は」


「ありません」


「出身は」


「北西の森」


「目的地は」


 エノクはさらに迷った。七英雄を探しています、とは言えない。言えば笑われるか、怪しまれるか、あるいはもっと悪い何かを招くかもしれない。


「南へ」


 女主人は羽根ペンを止めた。「南は広い」


「まずは街道沿いに」


「まあ、初旅の子にはよくある答えだ」


 帳面に何かを書き、木札を渡す。「二階の六番。相部屋だ。荷は肌身から離すな。食事は日暮れ後。水は裏庭。湯は銅貨三枚。盗まれた荷は自分の責任。ただし、うちの者が盗んだなら私が耳を引きちぎる」


 その言い方があまりに真顔だったので、エノクは頷くしかなかった。


 相部屋は狭かった。寝台が四つ並び、窓は小さく、壁には前の客が残した短い落書きがある。「南門の葡萄酒は水増し」「赤髭の商人を信用するな」「七英雄の歌は二番から嘘」など、意味の分からない言葉が並んでいた。最後の落書きで、エノクは少し立ち止まった。


「七英雄の歌は二番から嘘、だって」


「落書きに真実を求めるな」


 ティンカーベルが言った。


「でも、シモンも、伝承は全部じゃないって」


「だからといって宿の壁が聖典になるわけではない」


「二番って、この前も君が言ってた」


「歌はだいたい一番が勇ましく、二番で都合が悪くなり、三番で死者が増える」


「嫌な歌の見方だな」


「剣はそういう歌を多く聞く」


 エノクは背嚢を寝台の下ではなく、枕元に置いた。ティンカーベルが「少しは覚えたな」と言ったので、少しだけ嬉しかった。彼は胸元の鍵と守り石を確かめる。どちらも無事だった。部屋に他の客はいない。窓からは市場の声が聞こえる。ここが外の世界の宿なのだと、改めて思った。森の寝台は彼を覚えていた。ここの寝台は、彼を知らない。座っても何も言わない。軋むだけだった。その沈黙が、妙に寂しかった。


 夕食まで時間があったので、エノクは市場へ出ることにした。ティンカーベルは「余計な買い物をするな」と言ったが、外の町を見ずに宿で座っているのは落ち着かなかった。市場は、午後になってさらに賑わっていた。干し魚、羊毛、薬草、銅鍋、革靴、古本、香辛料、安物の護符、旅用の小刀、焼き菓子、鳥籠、壊れた時計、謎の粉。すべてが声と値段を持っていた。森の道具たちのように物が喋るわけではない。だが、商人が代わりに喋りすぎるほど喋っていた。


「若い旅人さん、護符はどうだい。黒い炎除けだよ。昨今は物騒だからね」


「そこの剣の坊や、研ぎ油は要らんか。喋る剣でも刃は鈍るだろ」


「森の薬草かい。売るならうちが一番高く買うよ」


「宿を探してるのかい。もっと安いとこを教えよう。案内料は安くしとく」


 エノクは何度も足を止めそうになり、そのたびにティンカーベルが鞘の中で鳴った。


「止まるな」


「でも、護符って役に立つのかな」


「黒い炎除けの護符が銅貨三枚で効くなら、世界はもっと平和だ」


「研ぎ油は?」


「私は今、鞘から出る必要もない。あの油は魚臭い」


「安い宿は」


「宿を取ったばかりだ。誘導する奴についていくな」


「薬草は売れるかも」


「お前が薬草の相場を知っているならな」


 相場。金銭感覚。宿代。シモンが何度も言っていたことが、急に現実になっていく。エノクは革袋の中の銅貨を意識しながら歩いた。すると、店先に小さな青い石を並べている商人が目に入った。シモンが路銀代わりに持たせてくれた宝石に似ている。どれくらいの価値があるのか、知っておくべきではないか。そう思ってしまったのが、間違いの始まりだった。


「おや、若旦那。石に興味が?」


 店の男は細い髭を整え、柔らかい声で言った。衣は少し派手で、指にはいくつも指輪をはめている。エノクは警戒しようとしたが、石の価値を知らないまま旅をする不安の方が勝った。


「見るだけです」


「見るだけは無料。触るなら慎重に。買うなら歓迎。売るならもっと歓迎。旅の石は、旅先で軽くしておくのが賢いですよ」


 ティンカーベルが小声で言った。「離れろ」


「少しだけ」


「その言葉で失敗した者を、私は何人も見た」


 エノクは背嚢の内側から、小さな青玉を一つ出した。出した瞬間、商人の目がわずかに変わった。ほんの一瞬だったが、ティンカーベルが鋭く鳴った。


「しまえ」


「これは、どれくらいの価値が」


「ほう」


 商人は石を受け取ろうと手を伸ばした。エノクは渡さず、手のひらに乗せたまま見せる。そこだけは、シモンの教えを思い出した。


「青玉ですな。悪くはないが、傷が多い。色も浅い。旅人さん、これを売るなら銀貨二枚、いや、私は親切だから三枚出しましょう」


「銀貨三枚」


 それが多いのか少ないのか、エノクには判断できなかった。宿代の個室が銀貨一枚と銅貨三枚だった。なら三泊はできる。悪くないのではないか。


「馬鹿」


 ティンカーベルが言った。


 商人はにこやかに首を傾げた。「剣が何か」


「いえ」


「喋る剣ですか。では、剣殿にも分かるでしょう。旅の石は、持っていても腹は膨れません。銀貨三枚なら、若旦那のような初旅には助けになりますよ」


「銀貨三枚って、安いの?」


 エノクは思わず剣に聞いてしまった。商人の笑みが深くなった。


「おやおや、価値をご存じない。なら、なおのこと私のような信用ある商人に」


「信用ある者は、自分でそう名乗らない」


 ティンカーベルの声が、今度ははっきり響いた。近くにいた客が振り返る。商人の笑みが少し固くなった。


「剣殿は辛口ですな」


「剣だからな。その石は少なくとも銀貨十五枚。都なら二十。傷があると言ったな。傷ではない、内側の水脈だ。青玉ではなく水晶青玉。目利きのふりをした詐欺師め」


 商人の顔から笑みが消えた。エノクは慌てて石を握り込む。


「そうなの?」


「そうだ。しまえ。今すぐ」


 エノクは石を背嚢へ戻した。商人は舌打ちを隠さなかった。


「喋る剣を連れた森の小僧か。面倒な客だ」


「売らないなら客でもない」


 ティンカーベルが言った。「行くぞ、未熟者」


 エノクは頷き、店を離れた。背中に商人の視線が刺さる。市場の人混みに紛れながら、彼はようやく息を吐いた。


「ありがとう」


「礼より反省だ。なぜ石を出した」


「価値を知りたくて」


「価値を知らないから出すなと言っている」


「でも、知らないままじゃ困る」


「なら、信用できる相手を探せ。最初に声をかけてくる商人は、だいたいお前の財布へ声をかけている」


「外の世界、難しい」


「まだ入口だ」


 その言葉が少し怖かった。これで入口なら、この先はどれほど複雑なのだろう。エノクは市場の端で立ち止まり、壁にもたれた。人の流れが目の前を通っていく。誰も彼を知らない。王子とも、鍵を持つ者とも、森の少年とも知らない。ただ少し世間知らずな旅人として、通り過ぎていく。それは安全でもあり、寂しくもあった。


 その時、腰の銭袋の紐がわずかに動いた。


「左」


 ティンカーベルが短く言った。エノクは反射的に左手で銭袋を押さえた。小さな手が、そこから素早く離れる。振り向くと、痩せた少年が人混みへ逃げ込もうとしていた。年はエノクより少し下か。汚れた帽子を被り、裸足に近い靴を履いている。エノクは追おうとしたが、ティンカーベルが止めた。


「追うな」


「でも、盗もうと」


「盗まれていない。追えば仲間のいる路地へ誘われる」


「仲間?」


「一人で財布を狙う手ではない。お前が振り向くより早く、向こうの男がこちらを見た」


 エノクは市場の向こうを見た。確かに、樽の陰にいた男が目を逸らした。革帽子を被り、片頬に傷がある。彼は何事もなかったように立ち去っていく。


「盗賊?」


「小物だ。だが、小物に食われる旅人もいる」


 エノクは銭袋を押さえたまま、しばらく動けなかった。彼は名喰いと戦った。黒い炎の刺客を見た。カオスの影という巨大なものに追われている。だが、外の町で最初に彼を危うくしたのは、宝石を安く買おうとする商人と、銭袋を狙う子どもの手だった。世界は、魔王だけでできているわけではない。もっと小さな嘘や飢えや欲で、いくらでも人を傷つけるのだ。


 日が傾く頃、エノクは宿へ戻った。食堂は昼よりさらに混んでいた。旅人たちが長卓に詰め、麦酒の杯をぶつけ、煮込みの皿を取り合い、噂を投げ合っている。エノクは隅の席に座り、夕食付きの木札を見せて、黒パンと豆の煮込みを受け取った。味は濃く、少し塩辛い。森の食事とは違ったが、歩き疲れた身体には温かかった。


 周囲の会話が耳に入る。


「北の村でまた名なし病だとよ。朝になったら、誰も自分の子の名を呼べなくなってたって」


「黒い炎か」


「炎は見えなかったらしい。ただ、井戸の水が夜中に赤く光ったとか」


「星の船が戻ってから、どこもおかしい」


「声を落とせ。そういう話を嫌う神官もいる」


「神官が嫌おうが、空は裂けたんだ。ランバードが焼けた夜から、世界はずっとおかしいままだ」


 ランバード。エノクの匙が止まった。ティンカーベルが小さく鳴る。


「反応するな」


 エノクは俯き、煮込みを口へ運ぶ。味が分からなくなった。隣の卓では、赤ら顔の男が続けている。


「ランバード王家の血は絶えたって話だが、もし残ってたらどうなってたかね」


「残ってたら、とっくに魔王軍が見つけてる」


「王子が生きてるって噂もあったろ」


「噂は金を取らねえからな。生きてる王子なんて、酒場の歌にちょうどいいだけだ」


「七英雄でも探してるんじゃねえか」


 笑い声が起こった。エノクは匙を握る手に力を入れた。笑われたのは自分ではない。彼らは何も知らない。酒の肴として、滅びた王国と生き残りの王子の噂を笑っているだけだ。だが、その言葉は胸に刺さった。生きてる王子なんて、酒場の歌にちょうどいいだけ。自分が隠している名は、外ではその程度に消費されることもあるのだと知った。


 ティンカーベルが静かに言った。


「怒るな」


「怒ってない」


「怒っている時、人はそう言う」


「……少しだけ」


「なら食え。怒りで腹は膨れない」


 エノクは黒パンをちぎり、煮込みに浸した。飲み込むのに時間がかかった。


 その夜、食堂の奥では旅人たちが噂を続けた。黒い炎の村、海に出る幽霊船、竜王の湖へ向かう道が閉ざされた話、南の港で剣舞の踊り子が船乗りを三人叩き伏せた話、そしてどこかの酒場に、古い聖典とは違う七英雄の歌を歌う吟遊詩人が現れたという話。エノクはその一つ一つを聞き、外の世界の広さに圧倒された。彼が森で学んだ世界は、書物と歌とシモンの言葉でできていた。今、耳に入る世界は、泥と酒と金と嘘と恐怖と、ほんの少しの真実でできている。


 食事を終えて部屋へ戻ろうとした時、昼間の宝石商の店先で見た片頬に傷のある男が、宿の入口近くに立っているのが見えた。男はエノクを見ると、すぐに視線を逸らした。偶然かもしれない。だが、ティンカーベルが低く言った。


「見られている」


「宝石?」


「それと、お前の間抜けさだ」


「両方狙われるのか」


「狙われる価値があるものを持って、狙いやすい顔をしている。最悪の組み合わせだ」


「そんなにはっきり言わなくても」


「はっきり言わないと、お前は寝る」


 エノクは二階へ上がり、部屋に入る前に廊下を見回した。誰もいない。相部屋には、すでに二人の旅人がいた。一人は巡礼者風の老人で、寝台に腰かけて靴を脱いでいる。もう一人は布商人らしい中年の男で、荷を抱えたまま眠っていた。エノクは挨拶をし、自分の寝台へ座った。背嚢は枕元、剣は手の届く位置、銭袋は衣の内側。シモンとティンカーベルの忠告を一つずつ思い出しながら、慎重に眠る支度をした。


「今日は、いろいろ間違えた」


 エノクは小声で言った。


「まだ生きている。なら、今日の間違いは教材だ」


「ティンカーベルは、僕が失敗する前提で話すよね」


「成功する前提で話すには、根拠が足りない」


「ひどい」


「だが、門番に税を払い、宿を取り、石を取り返し、財布を守り、夕食を食った。初日としては、ひどいが最悪ではない」


「それ、褒めてる?」


「微量にな」


 エノクは少し笑った。疲れがどっと押し寄せる。相部屋の空気は森の寝室より重く、知らない人の寝息が聞こえ、階下の酒場の声が床板を通して響いている。安心できる場所ではない。だが、今夜はここで眠らなければならない。外の世界では、帰る場所が遠い時、知らない屋根を借りて夜を越すのだ。


 エノクは胸元の守り石に触れた。


「母さんは、町を知ってたのかな」


 答えはない。ティンカーベルも、すぐには何も言わなかった。やがて、剣は低く言った。


「王妃であっても、最初から世界を知っていたわけではあるまい」


「そっか」


「知っていくしかない。お前も」


 エノクは目を閉じた。食堂の噂がまだ耳に残っている。生きてる王子なんて、酒場の歌にちょうどいいだけ。七英雄でも探してるんじゃねえか。彼らは笑っていた。だが、エノクは本当に七英雄を探している。笑われるような旅を、彼は始めたばかりだった。


 眠りに落ちる直前、階下から弦の音が聞こえた。誰かが竪琴を試し弾きしている。短い調べだった。古い七英雄の歌に似ているが、どこか違う。聖堂で聞いた歌より少し軽く、酒場に似合うほど俗っぽく、それでいて最後の一音だけが妙に寂しかった。エノクは半分眠りながら、その音を聞いた。


「ティンカーベル」


「何だ」


「今の歌、知ってる?」


 剣は少し沈黙した。


「古い歌だ」


「七英雄の?」


「そうだ。だが、少し違う」


「宿の壁に書いてあった。七英雄の歌は二番から嘘って」


「壁の落書きにしては、悪くない」


「どういう意味?」


「明日、生きていたら考えろ」


「不吉な言い方するなよ」


「旅人の夜は、朝まで確定しない」


 その言葉通り、夜は完全には安全でなかった。宿の外、細い路地の陰で、片頬に傷のある男が《麦角鹿亭》の二階を見上げていた。彼のそばには、昼間の痩せた少年と、宝石商の店で客のふりをしていた別の男がいる。彼らは声を潜め、窓の位置と裏口の鍵を確かめていた。青玉を持つ森育ちの少年。喋る剣は厄介だが、寝ている間なら何とかなるかもしれない。そんな考えが、夜の湿った空気の中で交わされていた。


 だが、そのさらに奥、酒場の軒下に座る一人の旅芸人が、彼らを見ていた。つばの広い帽子を目深に被り、膝には古い竪琴を置いている。細い指が、弦の上で音もなく動いた。彼は笑っているようにも、退屈しているようにも見えた。やがて小さく呟いた。


「森から出たばかりの雛鳥にしては、ずいぶん面倒なものを抱えているねえ」


 その声は夜風に紛れ、誰にも届かなかった。旅芸人は立ち上がり、竪琴を背にかけると、路地の暗がりへゆっくり歩いていった。


 二階の相部屋で、エノクは知らずに眠っていた。王子であることを隠しているつもりで、隠すための世間もまだ知らない。剣士であるつもりはなく、剣に使われてようやく財布を守る。路銀代わりの宝石がどれほど人を引き寄せるかも、宿の壁に書かれた落書きがどれほど本当でどれほど嘘かも、酒場の歌が自分をどこへ導くのかも知らない。


 森を出た少年は、初めて町の夜に包まれていた。そこには魔王の軍勢だけでなく、商人の笑み、盗賊の手、旅人の噂、宿代の計算、酒場の歌、そして名を隠して生きる難しさがあった。世界は、思っていたよりずっと広く、ずっと騒がしく、ずっと疑わしかった。


 それでも、明日になれば歩かなければならない。七英雄を探す旅は、聖なる神殿でも古い戦場でもなく、銅貨一枚の通行税と、相部屋の硬い寝台と、安く買い叩かれそうになった青い石から始まったのである。

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