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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第2部 吟遊詩人と剣舞姫
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第2話_嘘つき吟遊詩人アイオン

 町の夜は、森の夜よりも明るく、そして暗かった。窓の外には街灯の火がいくつも揺れ、酒場の笑い声が床板を伝って二階の相部屋まで滲み上がり、裏通りではまだ荷車の音がしていた。人の暮らしは夜になっても完全には眠らないらしい。だが、その明るさの隙間には、森にはなかった暗さがあった。誰かが誰かの財布を数える目。酔った者を見て懐を測る手。笑い声の裏に隠れる取引。扉の向こうで足音が止まった時、それが通り過ぎる者なのか、聞き耳を立てる者なのか、エノクにはまだ判別できなかった。


 エノクは浅く眠っていた。寝台は硬く、枕は低く、相部屋の空気には知らない人間の汗と革と干し草の匂いが混じっている。森の寝台ならば、寝返りに合わせて少し沈み、悪い夢を見ればそっと軋んで知らせてくれた。だが宿の寝台は、客の名を覚えない。誰が眠ろうと、誰が泣こうと、誰が夜明け前に荷を盗まれようと、ただ木として軋むだけだった。


「起きろ」


 ティンカーベルの声が、闇の中で細く響いた。


 エノクは目を開けた。胸元の守り石と鍵袋を咄嗟に押さえ、次に枕元の背嚢へ手を伸ばす。相部屋の他の寝台では、巡礼者風の老人が寝息を立て、布商人の男が荷を抱えたまま眠っている。階下の酒場はまだ騒がしいが、部屋の中は暗かった。窓から差す街灯の光が、床に細い線を作っている。


「何」


「廊下」


 エノクは息を殺した。扉の向こうに、確かに足音があった。二人、いや三人。ひとりは軽く、ひとりは重い。もうひとりは足音を消そうとして、かえって床板の軋みを不自然にしていた。取っ手が、ゆっくり動く。鍵はかけたはずだった。女主人に言われて、内側の掛け金も下ろした。だが、細い金属が差し込まれる音がして、掛け金がわずかに揺れた。


「剣を抜く?」


 エノクは囁いた。


「まだだ。相手が人間なら、抜いた瞬間こちらが厄介になることもある。宿で血を流せば、理由を説明する前に衛兵が来る」


「じゃあどうすれば」


「荷を押さえろ。足は床へ。立つな。寝ているふりをしながら動け」


「難しい」


「難しいから言っている」


 エノクは布団の下で身をずらし、背嚢の紐を手首へ巻いた。心臓がうるさい。森で名喰いと戦った時とは違う恐怖だった。あの時の敵は明らかに敵だった。黒い爪、裂けた口、名を奪う声。だが今、扉の向こうにいるのは人間である。昼間、通りを歩いていたかもしれない。市場で笑っていたかもしれない。パンを買い、宿代を払い、子どもに声をかけるかもしれない。その人間が、夜になると他人の部屋へ入ってくる。エノクには、その変わり方がひどく恐ろしかった。


 掛け金が外れかけた。


 その時、廊下で竪琴が鳴った。


 ぽろん、と間の抜けた音であった。盗人の動きも、エノクの呼吸も、一瞬止まった。続いて、酔いを含んだ軽い声が廊下に響いた。


「おやおや、夜更けの廊下に三つの影。ひとつは痩せた鼠、ひとつは傷ついた狐、ひとつは銭勘定の下手な狸。さて、誰の部屋をお訪ねかな」


 扉の向こうで、小さく舌打ちがした。


「誰だ」


 低い男の声。昼間、路地で見かけた片頬に傷のある男の声に似ていた。


「誰だと問われれば、答えましょう。眠れぬ夜の慰め、酔客の財布の敵、宿屋の女将の頭痛の種。しがない吟遊詩人でございます」


「消えろ」


「それは困る。私が消えるには、まだ今夜の歌代をもらっていない」


「殺されたいのか」


「いいえ。私は殺されるには少々惜しい男でしてね。少なくとも、私自身はそう思っている」


 竪琴が再び鳴った。今度は短く、鋭い音だった。扉の前にいた者の足音が乱れた。何かが床へ落ちる。小刀か、鍵開けの道具か。エノクは思わず起き上がりかけたが、ティンカーベルが低く言った。


「まだ動くな。あれは、かなり嫌な手合いだ」


「盗賊?」


「違う。吟遊詩人の方だ」


 廊下では、男たちが声を荒げていた。


「てめえ、何をした」


「何も。私はただ、あなたがたの足元に落ちていた勇気を、少し調律しただけです。どうやら音程が合わなかったようで」


「ふざけるな」


「ふざけるのは職能です。お許しを」


 次の瞬間、廊下で誰かが倒れる音がした。続いて、食器棚が倒れたような大きな音。相部屋の巡礼者が飛び起き、布商人も悲鳴を上げた。エノクは剣へ手を伸ばし、扉へ向かった。だが扉を開ける前に、外側から叩かれた。


「開けない方がいいですよ、森育ちの坊や。外は少々散らかっています」


 知らない声である。だが、先ほどの吟遊詩人の声だった。


「あなたは」


「あなたの枕元の背嚢を狙っていた連中を、廊下の飾り物に変えた者です。礼は銅貨でも銀貨でも、できれば酒でも受け付けます」


 ティンカーベルが言った。


「開けるな」


「助けてくれたんじゃ」


「助ける者と安全な者は違う」


 エノクは返事に迷った。その間に、階下から女主人の怒鳴り声が響いた。


「何の騒ぎだい。私の宿で床を壊した奴は誰だ」


「女将、よい夜ですね」


「アイオン。あんたか」


「はい。夜と悪党と安酒に愛される男、アイオンです」


「また面倒を拾ったね」


「拾ったのではありません。向こうから私の歌へ転がってきたのです」


 廊下が一気に騒がしくなった。宿の者が駆け上がり、倒れた男たちを縛り、女主人が悪態をつきながら油皿を持ってくる。エノクが扉を少し開けると、廊下には三人の男が転がっていた。一人は片頬に傷のある男、一人は昼間の痩せた少年、もう一人は市場で宝石商の店にいた客らしき男だった。彼らは眠っているわけではない。目を開け、口も動くのに、手足だけが絡まった糸に縛られたように動かない。床には鍵開けの針、小刀、細い紐、空の革袋が散らばっていた。


 その中央に、ひとりの男が立っていた。


 年は二十代とも三十代ともつかない。身なりは旅芸人らしく、濃紺の外套を片肩にかけ、腰には小さな短剣、背には古い竪琴を負っている。帽子のつばは広く、そこから零れる髪は夜明け前の影のような黒にも、灯を受ければ古い金にも見える不思議な色だった。目は笑っている。だが、その笑みの奥にあるものは読みにくい。軽薄そうで、胡散臭く、まるで自分の本心を何枚もの薄い紙で包み、さらにその上から安っぽい絵を描いて見せているようだった。


「初めまして、森育ちの坊や」


 男は芝居がかった仕草で帽子を取った。「私はアイオン。しがない吟遊詩人です。歌い、語り、時に酒場の隅で寝て、時に悪党の足をもつれさせる程度の、ごく平凡な旅人でございます」


「平凡な旅人は、悪党の足をもつれさせない」


 ティンカーベルが言った。


 アイオンの目が、剣へ向いた。ほんのわずか、笑みの奥が深くなった。


「おや、喋る剣。これはこれは。今夜は珍しい客が多い。剣殿、お名前を伺っても?」


「名乗る価値がある相手か検討中だ」


「手厳しい。ですが、手厳しい刃ほど長持ちするものです」


「お前、さっき何をした」


「歌いました」


「嘘だな」


「吟遊詩人の仕事です」


 エノクは二人のやり取りを聞きながら、胸の奥に妙なざわめきを覚えた。アイオン。名前の響きが、どこか古い歌に似ている。七英雄の歌。吟遊詩人アリオン。だが、目の前の男はアイオンと名乗った。似ているが違う。似ているからこそ、逆に引っかかる。エノクはそれを口にしそうになったが、ティンカーベルが鞘の中で小さく鳴った。余計なことを言うな、という合図だった。


 女主人が男たちを見下ろし、腕を組んだ。


「で、この鼠どもは、そこの坊やの部屋を開けようとしていたわけかい」


「ええ。若い旅人の荷物を夜中に点検する、慈善精神にあふれた方々です」


 傷の男が床で呻いた。「違う。俺たちは」


「鍵開けの針を持って、相部屋の扉の前で、夜中に、三人で、腰の小刀を抜いていた。実に説明のしがいがある状況ですね」


 アイオンはにこやかに言った。


 女主人は宿の若い下働きへ顎をしゃくった。「衛兵を呼びな。あと、こいつらの懐を調べる。うちの客から盗ったものが出たら、耳だけじゃ済まないよ」


 痩せた少年が青ざめた。彼はまだ若い。昼間、エノクの銭袋を狙った手である。エノクは彼を見て、怒りより先に困惑を覚えた。自分より少し年下に見える。もし森にいたなら、木靴を追いかけたり、人形の家を直したりしていたかもしれない年頃だ。


 アイオンはその視線に気づいたのか、わざとらしく囁いた。


「同情するなら、まず自分の財布を確認してからにしましょう。盗まれた後の同情は、たいへん高くつきます」


 エノクは慌てて銭袋を押さえた。無事だった。


「あなたが、助けてくれたんですか」


「助けたという言葉は、なかなか美しい。ですが、私は美しい言葉を安く使いません。たまたま歌おうとした場所に、たまたま悪党がいて、たまたま私の歌が彼らの足腰に合わなかった。それだけです」


「それを助けたって言うんじゃ」


「言ってもよいですが、言った瞬間、あなたは礼をする必要が生じます」


「礼はします」


「おや、素直。危険ですねえ」


 アイオンは楽しそうに笑った。ティンカーベルが低く言う。


「こいつに素直さを見せるな。餌になる」


「剣殿は私を何だと思っているのです」


「詐欺師に近い芸人」


「半分当たりです」


「どちらがだ」


「都合のよい方が」


 女主人は呆れたように息を吐き、エノクへ向き直った。


「坊や、荷物は無事かい」


「はい」


「なら今夜は扉の前に樽を置いて寝な。相部屋の連中も起こしておく。こいつらは衛兵に渡す」


「すみません、宿に迷惑を」


「迷惑をかけたのは盗人だ。あんたじゃない。ただし、宝石を市場で見せびらかしたなら、それは反省しな」


 エノクは顔を熱くした。「はい」


 アイオンが小さく口笛を吹く。


「やはり青玉の坊やでしたか。昼間、市場で妙に目立っていましたからね」


「見てたんですか」


「吟遊詩人は市場と酒場と処刑場をよく見ます。人の本性が出ますから」


「処刑場も?」


「たとえです。半分は」


「残り半分は?」


「聞かない方が、今夜はよく眠れます」


 エノクはますます、この男を信用してよいのか分からなくなった。助けられたのは確かだ。だが、助け方が怪しく、言葉が軽く、何を考えているのか掴めない。シモンの穏やかな嘘とは違う。アイオンの嘘は、笑いながら目の前で布をひらひらさせ、その布の裏で何かを隠すような嘘だった。


 衛兵が来るまでの間、アイオンは退屈しのぎと称して短い歌を奏でた。倒れた盗人たちを茶化す歌である。


「夜更けに鼠が三匹で、若い旅人の夢を嗅ぐ。ひとりは針を落とし、ひとりは小刀を忘れ、ひとりは自分の足を見失う。ああ、哀れな鼠たち。盗る前に転ぶなら、せめて靴を磨いておけ」


 廊下にいた宿の者たちが笑った。盗人たちはますます青ざめた。エノクは少し笑いかけたが、完全には笑えなかった。歌にされた者の恥ずかしさが、自分の身近に感じられたからである。自分も昼間、宝石を見せて騙されかけた。もしアイオンやティンカーベルがいなければ、明日には自分も誰かの笑い話になっていたかもしれない。


 やがて衛兵が盗人たちを引いていき、宿は少しずつ静けさを取り戻した。女主人は廊下に倒れた棚を直しながら、アイオンへ鋭い目を向けた。


「あんた、また厄介ごとを持ち込んだね」


「今回は追い払った側です」


「どうだか。あんたがいるところには、厄介ごとが寄ってくる」


「私の魅力が広く知られている証です」


「魅力で床板は直らない。明日の朝までに一曲歌って客を集めな。修理代にする」


「承知しました。涙と笑いと少々の嘘を込めて歌いましょう」


「嘘はいらない」


「それでは歌が半分になります」


 女主人は鼻を鳴らし、階下へ戻っていった。


 廊下には、エノクとアイオンだけが残った。相部屋の巡礼者と布商人は何か言いたそうだったが、騒動に疲れたのか、扉を閉めてしまった。アイオンは壁にもたれ、竪琴を抱えたままエノクを眺めた。


「さて、青玉の坊や。改めて、無事で何より」


「エノクです」


「知っています。帳場で聞こえました」


「じゃあ、青玉の坊やって呼ばないでください」


「では、森のエノク」


「森の、もいらないです」


「注文が多い。では、エノク君」


「君も少し」


「エノク」


「それで」


 アイオンは微笑んだ。「よろしい。私はアイオン。しがない吟遊詩人。歌と噂と安酒で生きております」


「しがない吟遊詩人は、盗賊を倒せるんですか」


「倒してはいません。少し転んでいただいただけです」


「どうやって」


「歌で」


「嘘ですよね」


「もちろん」


 あまりにあっさり認めたので、エノクは言葉に詰まった。アイオンは楽しそうに続けた。


「ですが、嘘にも種類があります。人を騙して財布を抜く嘘。怖がる子どもを眠らせる嘘。王を喜ばせるために盛られる嘘。死者を慰めるために歌になる嘘。そして、真実をそのまま出すと壊れる時、布に包むための嘘」


「あなたの嘘は、どれですか」


「日替わりです」


 ティンカーベルが言った。


「信用するな、エノク」


「剣殿はずっと私に冷たいですね」


「温める理由がない」


「では、これから作りましょう」


「作らなくていい」


 エノクは二人のやり取りを聞きながら、ふと気づいた。


「ティンカーベル、名前を言った」


「しまった」


 ティンカーベルが低く鳴った。アイオンは目を細めた。


「ティンカーベル。なるほど、愛らしい名だ」


「笑ったら斬る」


「笑いませんとも。剣に名があるのはよいことです。名のない刃は、持ち主より先に人であることを忘れる」


 その言葉は、軽い口調の中で不意に重かった。ティンカーベルもすぐには返さなかった。エノクはアイオンを見た。彼は相変わらず笑っている。だが今の一言だけは、酒場芸人の冗談ではなかった。


「あなたは、七英雄の歌に詳しいんですか」


 エノクは思わず訊いた。


 アイオンの笑みが、ほんのわずかに止まった。止まったというより、奥へ引っ込んだ。次の瞬間には、またいつもの軽い笑みが戻っていた。


「吟遊詩人ですから。七英雄の歌を三つも知らなければ、酒場で杯を投げられます」


「さっき、酒場で聞こえた歌。聖堂で聞く歌と違いました」


「聖堂は神に都合よく、酒場は酒に都合よく歌います。どちらも真実から少しずつ外れる。だから歌は面白い」


「本当の歌は?」


「さあ」


「知らないんですか」


「知っていたとしても、初対面の少年に廊下で話すほど私は安くありません」


「安酒で生きてるって言ったのに」


「安酒で生きる者ほど、話は高く売るのです」


 エノクはますます分からなくなった。アイオンは、知らないのではない。知っていて隠している。そう感じた。だが、問い詰めてもかわされるだけだろう。シモンの沈黙とは違う。アイオンの沈黙は、扉を閉めるのではなく、扉の絵を描いた布をぶら下げて、こちらを別の方角へ歩かせるようなものだった。


「明日、町を出るのですか」


 アイオンが尋ねた。


「そのつもりです」


「どちらへ」


「南へ」


「南は広い」


「今日も言われました」


「よい言葉は何度聞いてもよい。悪い言葉も、旅先ではだいたい何度も聞く」


「あなたは?」


「私も南へ。正確には、南へ行く人々が落とす噂と銅貨の方へ」


「それは南なんですか」


「時に東にも曲がります」


 ティンカーベルが言った。「同行を申し出る気か」


「申し出るなど厚かましい。私はただ、同じ道を歩くかもしれないと予告しているだけです」


「同じだ」


「いいえ。同行は責任を生みます。同じ道は偶然を装えます」


「胡散臭い」


「お褒めにあずかり光栄です」


 エノクは迷った。アイオンは怪しい。明らかに怪しい。だが、旅慣れている。町の危険を知っている。盗賊をさりげなく退け、宿の者にも顔が利き、七英雄の歌にも詳しい。今のエノクには、そういう者が必要なのかもしれない。だが、必要なものが安全とは限らないことも、今日一日で少し学んだ。


「どうして助けたんですか」


 エノクはまっすぐ問うた。


 アイオンは竪琴の弦を一本、指で弾いた。細い音が夜の廊下へ落ちる。


「若い旅人が、最初の町で財布と荷物を失って泣く歌は、あまり面白くありません」


「それだけ?」


「それだけです」


「嘘ですね」


「はい」


 また、あっさり認めた。


「じゃあ、本当は」


「本当を全部言う者は、旅人ではなく酔っ払いです」


「あなた、本当にずるいですね」


「ええ。旅慣れておりますから」


 アイオンは帽子を被り直した。


「エノク。ひとつだけ、無料で忠告を。あなたは隠しごとが下手です。名を隠す時、胸に手をやる。荷を守る時、守りたいものだけを見る。嘘をつく時、目ではなく声が正直になる。商人は財布を、盗賊は背嚢を、もっと悪いものは名を狙います。あなたは、狙われるものを多く持ちすぎている」


 エノクは言葉を失った。アイオンの目は笑っている。だが、その言葉は痛いほど正確だった。


「僕が何を持っているか、知っているんですか」


「いいえ」


 アイオンは言った。「知らないから、興味があるのです」


 ティンカーベルが鋭く鳴った。


「近づきすぎるな、吟遊詩人」


「心得ました。剣殿の刃の届かぬ程度には離れておきましょう」


「私の刃は、思ったより届く」


「それは頼もしい」


 アイオンは階段へ向かった。途中で振り返り、軽く手を上げる。


「では、森の……いえ、エノク。明日の朝、市場で歌います。もし南へ向かうなら、少し待ちなさい。旅の最初に、盗賊と詐欺師と宿代を学んだあなたには、次に歌と噂の扱いを学ぶ必要があります」


「あなたから?」


「不満ですか」


「不安です」


「正しい反応です」


 アイオンは笑い、階段を降りていった。その足音は軽く、階下の酒場の騒ぎにすぐ紛れた。だが、エノクはしばらく廊下に立ったままだった。ティンカーベルも黙っている。


「どう思う」


 エノクが小さく訊いた。


「あれは嘘つきだ」


「それは分かる」


「旅慣れている」


「それも分かる」


「危険だ」


「助けてくれた」


「危険な者が助けることもある」


「悪い人?」


 ティンカーベルはすぐ答えなかった。


「悪いだけなら、もっと分かりやすい」


「じゃあ」


「面倒な人間だ」


 エノクはため息をついた。「外の世界、面倒な人間ばかりだ」


「お前も外から見れば、十分面倒だ。喋る剣を持ち、宝石を持ち、世間を知らず、名を隠し、何か大きなものを背負っている顔をしている」


「顔に出てる?」


「だいぶ」


「直さないと」


「まずは寝ろ。明日、また騙されるためにも体力がいる」


「騙される前提にしないで」


「前提ではない。可能性だ」


 エノクは部屋へ戻った。扉の前には宿の下働きが樽を置いてくれていた。相部屋の二人は、今度は本当に眠っているようだった。彼は寝台に座り、背嚢を抱え、しばらく眠れなかった。廊下で聞いたアイオンの声が耳に残っている。しがない吟遊詩人。嘘を仕事と言い、助けた理由を隠し、こちらの弱点を笑いながら言い当てる男。胡散臭い。けれど、彼がいなければ、今夜エノクは荷を失っていたかもしれない。


 やがて夜は明けた。


 《麦角鹿亭》の前の市場は、朝から人で溢れていた。昨日の騒動など町全体から見れば小さなことで、商人は店を開き、パン屋は炉から焼きたてを出し、門番は欠伸をしながら通行税を取り、旅人たちは次の宿場へ向けて荷を整えている。エノクは朝食の薄い粥を食べ、宿代を支払い、背嚢を背負った。女主人は帳場で硬貨を数えながら言った。


「昨夜の盗人どもは衛兵に渡した。あんたの荷は無事かい」


「はい」


「ならよかった。あと、あの宝石商には近づかないことだね。今朝、店を閉めてたよ。昨夜の連中とつながってたんだろう」


「店を閉めた?」


「アイオンが朝から店先で歌ったのさ。『水晶青玉を青玉と呼ぶ髭男の歌』をね。客が集まりすぎて、逃げた」


 エノクは宿を出て、市場の方へ向かった。すぐに人だかりが見えた。中心にアイオンが立ち、竪琴を奏でている。帽子を傾け、声を張り、昨日の宝石商を名指しこそしないが、誰が聞いても分かるような歌を歌っていた。


「青い石を浅いと言い、深い財布を狙う髭。傷と呼んだは水の筋、安く買うのは商いか、安い魂の秤か。おお、青玉よ泣くなかれ、持ち主より先に目利きが濁る」


 市場の者たちは笑い、何人かは宝石商の店の方を指差した。店の戸は閉まっている。昨日、銀貨三枚と言った男は姿を消していた。アイオンは歌い終えると、帽子を回して銅貨を集めた。その動きがあまりに手慣れていて、先ほどまで正義のために歌っていたのか、それとも単に儲かる歌を選んだのか、エノクには分からなくなった。


 アイオンはエノクに気づくと、片手を上げた。


「おはよう、エノク。よく眠れましたか」


「あなたのせいで、半分くらい」


「半分眠れたなら上出来です。旅人の初夜としては健康的だ」


「宝石商を追い払ったんですか」


「追い払ったのではありません。歌ったら逃げたのです。歌の力ですね」


「本当は?」


「人は笑われると商売がしにくい。剣で斬るより安く済みます」


 ティンカーベルが言った。「今回は認める。悪くない」


「剣殿に褒められた。今日はよい日になりそうです」


「褒めてはいない。効率を認めただけだ」


「それを吟遊詩人の世界では褒め言葉と言います」


 アイオンは帽子に集めた銅貨を数え、一枚をエノクへ投げた。エノクは慌てて受け取る。


「これは?」


「あなたの青玉を題材にした歌の使用料です」


「いりません」


「受け取りなさい。受け取らないと、私は善人になってしまう。善人という評判は、酒場では時に致命傷です」


 エノクは困って銅貨を見た。ティンカーベルが言う。


「受け取れ。貸しにするな」


「そういうことです」


 アイオンは満足そうに頷いた。「剣殿とは話が合う」


「合っていない」


「では、合わない部分を旅の慰みにしましょう」


「旅?」


 エノクは警戒した。


 アイオンは南へ続く街道を指した。


「私は今日、南の港道へ向かいます。あなたも南へ行く。偶然ですね」


「偶然にするつもりなんでしょう」


「旅は偶然を装った必然と、必然を装った行き当たりばったりでできています」


「意味が分かりません」


「私も半分しか分かっていません」


 エノクは思わず笑いそうになった。だが、すぐに真顔になる。


「どうして僕に近づくんですか」


 市場の喧騒の中で、アイオンは少しだけ目を細めた。


「面白そうだから」


「嘘ですね」


「では、危なっかしいから」


「それも嘘?」


「半分」


「本当は?」


 アイオンは竪琴の弦に指を置いた。鳴らさず、ただ触れる。その仕草だけが、不意に静かだった。


「あなたが、歌の続きを持っているように見えたから」


 エノクは息を呑んだ。


「歌の、続き?」


「吟遊詩人は、途中で切れた歌に弱いのです」


「それも嘘ですか」


「さあ」


 アイオンはまた軽い笑みに戻った。「真実かどうかは、道中で少しずつ値上がりします。聞きたければ、銅貨では足りません」


「何を払えばいいんですか」


「まずは、退屈しない旅を」


 ティンカーベルが低く言った。


「ますます怪しい」


「怪しさは旅の薬味です」


「薬味だけ食わせるな」


「ならば本菜もそのうち」


 エノクは南へ続く門を見た。ひとりで行くつもりだった。いや、本当はひとりが怖かった。だが、誰かと行くなら信用できる者がよかった。アイオンは信用できない。なのに、危険を知っていて、嘘を見抜き、噂を扱い、盗賊の足を止め、商人を歌で追い払った。信用できないが、役に立つ。役に立つが、信用できない。森の中にはいなかった種類の人間だった。


「一緒に行くとは言ってません」


 エノクは言った。


「もちろん。私はただ同じ道を歩く予定です」


「僕の荷物を狙わないでください」


「宝石は魅力的ですが、私は歌で稼ぎます」


「本当に?」


「昨日も今朝も稼いだでしょう」


「その歌の題材に僕を使った」


「使用料は払いました」


 エノクは手の中の銅貨を見た。少しだけ笑ってしまった。


「分かりました。同じ道を歩くくらいなら」


「光栄です」


「でも、変なことをしたらティンカーベルが怒ります」


「それは怖い」


「私はもう怒っている」


「では、これ以上怒らせない努力をしましょう。成功は保証しませんが」


 アイオンは帽子をかぶり直し、竪琴を背へ回した。市場の入口で、昨日エノクの銭袋を狙った痩せた少年が、衛兵に連れられて通っていくのが見えた。少年は一度だけエノクを見た。恨みなのか、気まずさなのか、空腹なのか、その目にあるものをエノクは読み取れなかった。アイオンはその視線を横目で見て、小さく呟いた。


「町は歌より早く忘れます。だから、忘れられたくない者は、盗むか、歌うか、名を残すかする」


「あなたは歌う方?」


「日によります」


「盗む日も?」


「心を少々」


「最悪です」


「吟遊詩人ですから」


 二人と一本は、南門へ向かった。門番は昨日と同じ男で、エノクの鞘に結ばれた木札を確認し、アイオンを見ると顔をしかめた。


「また出るのか、アイオン」


「門番殿、別れを惜しまれるとは光栄です」


「惜しんでない。戻る時は面倒を持ち込むな」


「面倒は門で税を払いますか」


「払わないから面倒なんだ」


「なるほど、名言です。次の歌に使いましょう」


「使うな」


 門番は呆れながらも、通行を許した。エノクは町の外へ出る前に一度だけ振り返った。レムルの町は、昨日より少し違って見えた。怖い場所であり、騙される場所であり、眠れない場所であり、しかし学ぶ場所でもあった。森を出て最初に触れた人の町。そこで彼は、宿代と通行税と宝石の相場と、嘘つき吟遊詩人の名を知った。


 南の街道は、朝の光の中へ伸びていた。アイオンは軽い足取りで進み、エノクは背嚢を背負い直してその少し後ろを歩いた。ティンカーベルが言う。


「距離を取れ。あいつの歩幅に合わせるな」


「どうして」


「旅慣れた者の歩幅だ。お前が合わせると昼前に足が死ぬ」


 アイオンが振り返らずに言った。


「剣殿、聞こえていますよ」


「聞かせている」


「では、少しゆっくり歩きましょう。森の少年が初日に潰れては、歌になりません」


「歌にしなくていいです」


「それは旅が終わってから決めましょう」


 エノクはため息をついた。前途はすでに不安だった。だが、昨夜ひとりで眠った時より、少しだけ道の空気が違う。隣にいる男を信用したわけではない。むしろ疑うべき理由は増えた。それでも、外の世界には、信じるか疑うかだけでは測れない同行者がいるのだと知った。


 アイオンは歩きながら、竪琴を軽く鳴らした。


「森から出た少年、剣に叱られ町へ行く。青い石を握りしめ、嘘と税と宿代に泣く」


「勝手に歌にしないでください」


「安心なさい。まだ一番です」


 ティンカーベルが低く言った。


「二番から嘘になるのか」


 アイオンは振り返り、片目をつむった。


「いいえ、剣殿。よい歌は、一番から嘘で、最後だけ本当になるのです」


 そう言って、嘘つき吟遊詩人は笑った。その笑みは軽く、胡散臭く、朝日に透けてもなお底が見えなかった。エノクはその背を見ながら、胸元の鍵へ手を当てた。王子であることは隠している。鍵も隠している。旅の目的も、誰にでも言えるものではない。けれど、嘘を仕事にする男が、なぜかその隠しごとの周囲を歩き始めた。


 南へ向かう道の先で、七英雄の歌はまだ遠く霞んでいた。だが、その最初の調べは、もうエノクのすぐ隣で鳴り始めていた。

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