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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第2部 吟遊詩人と剣舞姫
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第3話_七英雄の歌

 レムルの町を出てから二日、南へ続く街道は、エノクに外の世界の広さよりも、まず外の世界の不親切さを教えた。森の道ならば、喉が渇いた頃に小川が現れ、疲れた頃に腰掛けられる倒木があり、迷った時にはどこかの枝が「そちらではありません」と咳払いをしてくれた。だが街道は、何も言わない。石は固く、轍は乾き、日差しは容赦なく、雨雲は旅人の都合など考えない。エノクは一日目の夕方には足の裏に豆を作り、二日目の昼には背嚢の肩紐が鎖のように感じられ、三度ほど「少し休んでもいいかな」と言いかけた。そのたびにティンカーベルが「休むなら日陰を選べ」「水を先に飲め」「背を丸めるな、荷が重くなる」と口を挟み、アイオンが「若い旅人の足は、文句を言いながら丈夫になるものです」と笑った。


「あなたは歩き慣れているんですね」


 エノクが言うと、アイオンは竪琴を背に揺らしながら、軽い足取りで答えた。


「吟遊詩人は歩く商売ですから。酒場から酒場へ、町から町へ、時には追手から追手へ」


「最後のは商売なんですか」


「経験です。旅において経験とは、だいたい失敗の別名です」


「説得力があるのに信用できない」


「よい傾向です。私の言葉をすぐ信じる者は、酒を奢らされるか、恋文を代筆させられるか、ひどい時は両方です」


 アイオンは笑い、道端に咲く赤い野花を一本摘んで帽子に挿した。ティンカーベルが鞘の中で鳴る。


「花を摘む暇があるなら周囲を見ろ」


「剣殿、周囲をよく見る者ほど花に気づくのです」


「周囲をよく見る者は、まず背後の荷馬車に気づく」


「気づいておりますとも。荷馬車二台、護衛三人、前の馬は蹄鉄が緩い。荷は麦袋と塩樽。御者は眠い。後ろの護衛は左利き。ついでに、今朝からエノクの歩幅が半歩短くなっています。靴擦れでしょう」


 エノクは思わず自分の足元を見た。


「気づいてたんですか」


「歌い手は、客の喉が乾く前に酒をすすめ、財布が軽くなる前に歌を切り上げ、同行者が倒れる前に宿を探すのです」


「なら早く言ってください」


「言えば、あなたは無理をして『平気です』と答えたでしょう」


「……言ったかも」


「でしょう。若い旅人は、足より先に見栄をすり減らす」


 ティンカーベルが低く言った。「その見栄はすでにかなり薄い」


「剣にまで言われた」


「剣は正直です」


「口は悪いけどね」


「口の悪い正直は、口の甘い嘘より長旅に向く」


 アイオンはそう言って、道の先を指した。「今夜は、あの丘の向こうの宿場に泊まりましょう。名は灰羊亭。羊の煮込みが有名です。灰色なのは羊ではなく、亭主の髭ですが」


「行ったことがあるんですか」


「もちろん」


「どんな宿ですか」


「床は軋み、酒は薄く、歌代は悪くない。盗人は少なめ、喧嘩は多め。つまり旅人向きです」


「それ、旅人向きなんですか」


「世の中、完璧な宿は物語の中だけです。現実の宿は、何を諦めるかで選ぶものです」


 その言葉は軽く聞こえたが、エノクは少しだけ頷いた。町を出てから、アイオンはほとんど真面目な助言を冗談の形で投げてきた。水は先に汲むこと。相手が親切すぎる時は値段を聞くこと。馬車の車輪の音で速度を知ること。祈りを唱える巡礼者が必ず善人とは限らないこと。食べ物を分けてくれる相手には礼を言うが、調理前の茸はすぐ口にしないこと。ティンカーベルはそれを聞くたびに「胡散臭いが、間違ってはいない」と評し、エノクはますますアイオンをどう扱えばよいのか分からなくなった。


 灰羊亭は、丘を越えた先の宿場にあった。宿場といっても、レムルの町ほど大きくはない。街道沿いに旅籠が三軒、鍛冶屋、馬小屋、井戸、小さな祠、塩漬け肉を売る店、荷馬車を停める広場があるだけの場所である。だが夕暮れ時には、そこに旅人たちが集まり、狭い道は思いのほか賑わっていた。羊毛商、巡礼者、傭兵、楽師、薬売り、荷運び、そして故郷を持たぬ顔をした者たち。皆が一夜の屋根と温かい食事を求め、同じ火の周りに集まる。エノクはまだ、その雑多な人々の間を歩く時に肩へ力が入った。誰が商人で、誰が盗人で、誰がただ疲れているだけの人なのか、見分けられないからである。


 灰羊亭の看板には、なぜか灰色の髭を生やした羊が描かれていた。入口を開けると、羊肉の煮込みと麦酒と煙草草の匂いが一度に押し寄せてきた。中はレムルの宿よりさらに騒がしかった。梁は低く、壁には古い旅札や壊れた馬具が掛けられ、中央の炉では大鍋が泡を立てている。亭主は看板と同じ灰色の髭を持つ大男で、客が入るたびに目だけを動かして財布の重さを測っているようだった。


「おや、アイオンじゃないか」


 亭主は太い声を上げた。「まだ生きてたのか」


「亭主殿、その挨拶は再会の喜びが深すぎます」


「お前が来ると客は増えるが椅子が壊れる」


「では今夜は床に座って歌いましょう」


「床が壊れる」


「信用がない」


「実績がある」


 店内の何人かが笑った。アイオンは慣れた様子で帽子を取って一礼し、エノクを顎で示した。


「部屋を二人分。できれば屋根が落ちない部屋を」


「屋根が落ちない部屋は高い」


「では、落ちるまでに逃げられる部屋を」


「相部屋でいいなら銀貨一枚。食事込み。剣の分は取らん」


 亭主の目がティンカーベルへ向いた。すでに喋る剣について知っているのか、ただ剣を客として数える冗談なのか、エノクには判断がつかなかった。


「高くないですか」


 エノクが小声で言うと、アイオンは同じく小声で返した。


「二人分ですから、妥当より少し高い。ですが、私が歌えば酒代を相殺できます」


「宿代を歌で払えるんですか」


「払える時と、追い出される時があります。今夜は前者を目指しましょう」


 ティンカーベルが言った。「先に部屋を確保しろ。歌の成否に寝床を賭けるな」


「剣殿は堅実ですね」


「お前が不安定すぎる」


 結局、アイオンが亭主と軽口を交わしながら値を少し下げ、夕食込みで相部屋を取った。エノクは硬貨を出す手元を慎重に隠し、アイオンが横から「銅貨ではなく小銀貨です」と囁いた時、少しだけ悔しくなった。だが間違えるよりはましだった。二日前なら、たぶん銀貨を出していた。


 食事は、濃い味の羊肉煮込みと黒パン、薄い麦酒であった。森の食事とはまるで違う。脂と塩と香草が強く、はじめは舌が驚いたが、疲れた身体にはよく染みた。エノクが夢中で食べていると、アイオンが向かいでにやにやしている。


「何ですか」


「いい食べっぷりです。歌にできます」


「食べているところまで歌わないでください」


「森育ちの少年、羊に負ける」


「負けてない」


「皿はほぼ空です」


「お腹が空いてたんです」


「旅では、それがいちばん正しい理由です」


 その時、亭主が卓の横へ来た。


「アイオン。客が歌を待ってる。七英雄のやつをやれ」


 エノクは匙を止めた。七英雄。その言葉だけで、胸元の鍵が少し重くなる。アイオンは片眉を上げた。


「他にも恋歌、戦歌、風刺歌、悪徳商人を泣かせる歌、亭主の髭を褒める歌など取り揃えておりますが」


「七英雄だ。巡礼者がいる。傭兵もいる。景気よくやれ」


「景気よく七英雄を歌うと、たいてい誰かが泣くか喧嘩します」


「それで酒が売れる」


「商売上手でいらっしゃる」


 アイオンは肩をすくめ、竪琴を手に取った。店内の一角、炉のそばに置かれた低い台へ上がる。先ほどまで煮込みや賭け事で騒いでいた客たちが、少しずつ顔を向けた。旅の夜に歌は重要らしい。人は腹を満たした後、今度は耳を満たしたくなるのだろう。エノクは席に座ったまま、アイオンを見つめた。


 ティンカーベルが低く言った。


「よく聞け」


「七英雄の歌を?」


「あいつが何を歌わないかもだ」


 アイオンは竪琴を軽く鳴らした。最初の音は、よく知られた聖堂の旋律に似ていた。エノクも幼い頃から聞いたことがある。シモンの里では聖堂のように荘厳には歌わなかったが、古い人形たちや木彫りの鳥が、夜に小さく口ずさむことがあった。千年前、星の船が墜ち、魔王カオスが現れ、聖騎士アベルと六人の英雄、そして聖天使アルティエルが世界を救ったという歌である。


 だが、アイオンの一音目は似ていただけで、二音目からわずかに道を外れた。聖堂の歌がまっすぐ石の床を進むなら、アイオンの歌は土と草の上を歩く。荘厳さよりも、埃と血と夜風の匂いがあった。


「星より落ちし黒き船、山を裂き、川を焼き、名なき灰を空へ撒く。王は問われた、箱の鍵を。民は問われた、明日の名を。剣は欠け、鐘は割れ、祈りは喉に血を混ぜた」


 酒場の声が少しずつ静まった。アイオンの声は大きすぎない。むしろ、聞く者に身を乗り出させる種類の声だった。軽薄な笑みを浮かべていた男の口から、まるで古い傷口をなぞるような歌が流れている。エノクは背筋を伸ばした。


「白き騎士アベル、死の川より名を呼ばれ、二度目の朝へ歩み戻る。彼は王冠を求めず、勝利の杯を掲げず、ただ倒れた者の名を拾い、道の石に刻みけり」


 エノクは眉を寄せた。聖堂で聞く歌では、アベルは天使アルティエルの祝福を受け、光の剣を掲げて蘇る。けれどアイオンは、祝福より先に「名を呼ばれ」と歌った。そしてアベルは勝利の騎士ではなく、倒れた者の名を拾う者として歌われた。


「傀儡子シモン、木と糸と器の友。壊れたものの声を聞き、泣けぬ人形に涙を貸す。彼は命を作らず、ただ眠る名を起こした。されど愛しすぎた器は、いつか孤独を知る」


 シモンの名が出た瞬間、エノクは息を止めた。周囲の客はただ古い英雄の名として聞いている。だが、エノクには違った。朝の粥、修理小屋、銀糸、傷ついた結界柱。彼を育てた穏やかな人の横顔が浮かぶ。アイオンは、シモンのことを「命を作る者」としてではなく、「眠る名を起こす者」と歌った。まるで実際にその手を見たことがあるように。


 ティンカーベルが鞘の中で、かすかに鳴った。


「竜王ザッハ、湖底に大地の鼓動を抱く者。血の誓いを重んじ、翼ある民を背負い、彼は空よりも深い水を選ぶ。怒りは山を砕き、悲しみは湖を満たす。人は彼を王と呼ぶが、竜は彼を最後の盾と呼ぶ」


 傭兵の一人が杯を上げた。竜王のくだりは人気があるらしい。だが、エノクはまた違和感を覚えた。聖堂の歌では、竜王ザッハは天空を駆けて魔王の軍を焼き払う豪勇の象徴だった。アイオンは空ではなく、湖と大地と血の誓いを歌った。英雄譚の竜王より、もっと重く、もっと古い存在に聞こえた。


 アイオンの指が弦の上を滑る。調べが少し低くなる。


「刃の阿修羅、境に立つ者。昼と夜、生と死、敵と友、その線を一閃にて知る。彼は斬るために剣を取らず、戻れぬものを戻さぬために剣を取る。刃は怒りに似て、しかして怒りより冷たし」


 エノクの腰でティンカーベルが沈黙した。剣の歌である。阿修羅の名は、エノクも知っていた。聖堂では剣神として、無敵の刃を振るう英雄として歌われる。だが、アイオンの歌う阿修羅は、勝つ者ではなく、境を決める者だった。剣とは何か、ティンカーベルが昨日から言っていることに似ている。刃とは、ただ切るものではない。ものとものとの境を決めるもの。エノクは、アイオンがなぜそれを知っているのか気になった。


「星導のダイダロス、土の下に星を造る者。歯車は祈りを噛み、銅管は風を記憶し、機構は夜空の道を測る。彼は天を愛し、地に閉じこもり、遠き船の影を誰より早く聞いた」


 機械使いダイダロスのくだりで、商人たちが興味深そうに耳を傾けた。機械都市の噂は旅人の間でも人気があるらしい。けれど、アイオンの歌はここでも聖堂のものと違った。聖堂ではダイダロスは魔王の星の船を破るための聖なる機械を作った智者として歌われる。アイオンは「船の影を誰より早く聞いた」と歌った。見たのではなく、聞いた。妙に具体的な言い方だった。


「盲目のヨシュア、目を閉じて星を読む者。彼は見えぬゆえに、見えすぎた。光の裏、言葉の底、祈りの沈黙、名の裂け目。彼は勝利の日にも笑わず、封じられた箱の前で、ただ風の向きを聞いていた」


 エノクは喉が渇いた。勝利の日にも笑わず。封じられた箱の前。聖堂の歌では、盲目の賢者ヨシュアは最後に「魔王は永遠に封じられた」と宣言する。だが、アイオンはそんな言葉を歌わない。むしろ、ヨシュアが何かを聞いていたと示す。風の向き。まるで、封印が完全ではないことを知っていたように。


 そして、次の節で、エノクははっきりと違和感を覚えた。


 聖堂の歌ならば、ここで聖天使アルティエルが七つ目の灯として歌われる。白銀の翼、名を守る光、魔王を封じる聖なる手。多くの地方では、アルティエルを七英雄の一人として数える。エノクも書物でそう読んだことがあった。シモンはその記述を見た時、少しだけ目を伏せたが、詳しくは語らなかった。


 アイオンは、違う歌を歌った。


「白きアルティエル、七つの灯を束ねし名の翼。彼女は英雄の席に座らず、英雄たちの名を呼んだ。倒れた者へ朝を与え、迷う者へ形を与え、消えゆく名を両手で包む。されど翼は血を持たず、涙は地に落ちず、星の外へ吹かれる風を止めきれぬ」


 客の多くは気づかなかった。アルティエルの名が出たので、巡礼者たちは胸に聖印を切り、傭兵は杯を置き、亭主でさえ少しだけ頭を下げた。だが、エノクは匙を握りしめた。英雄の席に座らず。英雄たちの名を呼んだ。聖典と違う。違うどころではない。アルティエルを七英雄から外している。


 では、七人目は誰なのか。


 アイオンの声が、少しだけ軽くなった。あまりにも自然に、まるで誰にも気づかれないように。


「そして、弦を持つ者がいた。名を結び、嘘をほどき、死者の声を風に乗せた。彼は剣を持たず、玉座を持たず、ただ耳を持ち、舌を持ち、忘れられる名を拾った。歌は彼を嫌い、聖典は彼を削り、石碑は彼の行を短くした。されど、最後の夜、箱の前で、誰かが真の名を呼ばねばならなかった」


 エノクは立ち上がりかけた。ティンカーベルが鋭く鳴り、彼を止める。


「座れ」


「でも」


「今、立つな。目立つ」


 エノクは必死に座ったまま、アイオンを見つめた。弦を持つ者。名を結ぶ者。歌は彼を嫌い、聖典は彼を削った。こんな節は、聖堂の七英雄の歌にはない。地方の異本にも、少なくともエノクがシモンの書棚で読んだ本にはなかった。吟遊詩人アリオン。シモンが名を挙げた、七英雄の一人。けれど、外の聖典ではしばしば消えている名。いや、そもそもエノクはそこまで整理して考える余裕がなかった。ただ、目の前のアイオンが、自分の名に似た響きを持つ消された歌い手の節を、あまりにもよく知りすぎていることだけが分かった。


 アイオンは歌い続けた。


「七つの灯は神像にあらず。ひとつは迷い、ひとつは悔い、ひとつは怒り、ひとつは沈み、ひとつは夢を見、ひとつは見えすぎ、ひとつは嘘を歌った。白き翼はその上にあり、黒き船はその外にあり、箱は閉じ、されど夜は完全には終わらず」


 酒場の空気が、ほんのわずかに冷えた。客たちは気づいているのかいないのか、杯を持つ手を止めていた。一般の七英雄の歌なら、ここで勝利の大合唱になる。魔王は封じられ、世界は救われ、アルティエルの光が空を満たす。だが、アイオンの歌は勝利を祝わなかった。箱は閉じた。されど夜は完全には終わらず。そんな節を、酒場の旅人たちはどう受け止めればよいのか分からない様子だった。


 亭主が小声で「おい、景気よくやれって言ったろ」と呟いた。アイオンはちらりとそちらを見て、急に調子を変えた。竪琴の音が明るく跳ね、声にいつもの軽薄さが戻る。


「だから今夜も杯を掲げよ、壊れた椅子にも座る者あり、薄い酒にも酔う者あり、嘘つき歌いにも銅貨を投げる者あり。七英雄に乾杯、白き翼に乾杯、明日の宿代に乾杯。生きて朝を迎える者は、みな少しばかり英雄である」


 最後の節で、酒場に笑いと拍手が戻った。傭兵が杯を掲げ、巡礼者が安堵したように息をつき、亭主が「それでいいんだ」と満足げに頷いた。客たちは銅貨を投げた。アイオンは帽子を逆さにしてそれを受け、芝居がかった礼をする。たった今、聖典の根を揺らすような歌を歌った男とは思えない軽さであった。


 エノクは拍手できなかった。指先が冷えている。胸元の鍵が、静かに重い。


 アイオンは台を降り、集めた銅貨を数えながら戻ってきた。


「どうでした、エノク。これで今夜の宿代は少し軽くなりましたよ」


「今の歌」


「はい、名曲でしょう」


「聖堂で聞く七英雄の歌と違います」


「聖堂で歌うには、酒場の床が少々汚れていますから」


「そういうことじゃなくて」


「では、音程ですか。聖堂の歌い手は石の壁に声を響かせますが、酒場では肉と酒樽に響かせる。自然と節も変わります」


「違います」


 エノクの声が少し強くなった。アイオンは笑っている。逃げる準備の整った笑みだった。ティンカーベルが黙っているのが、逆に怖かった。


「アルティエルを七英雄に数えなかった」


 エノクは言った。「それに、弦を持つ者って誰ですか。聖典にはそんな節、ありません」


 アイオンは銅貨を一枚、指の上で弾いた。くるりと宙を回った銅貨を、彼は見ずに受け止める。


「聖典にないものは、世界にない。そう考える人は多いですね」


「アイオン」


「ですが、聖典も誰かが書いたものです。誰かが写し、誰かが削り、誰かが注釈を足し、誰かが都合の悪い行を詩的表現だと言って脇へ避けた」


「あなたは、何を知ってるんですか」


「吟遊詩人が知っているのは、歌と噂と、酒場で誰が勘定を踏み倒そうとしているかくらいです」


「はぐらかさないでください」


「はぐらかすのも職能です」


 エノクは苛立った。だが、同時に恐れてもいた。もしアイオンが本当に、聖典にない七英雄の真実を知っているなら。もし、シモンが語らなかったことを、軽薄な笑みの裏に隠しているなら。聞きたい。だが、聞いてしまえば、また自分の知っている世界が壊れる。ランバードの名を知らされた時のように。


 ティンカーベルがようやく言った。


「今の節、どこで覚えた」


 アイオンは剣を見た。


「古い旅人から」


「名は」


「忘れました」


「嘘だな」


「ええ」


「お前が歌った弦の男は、七英雄の一人か」


 酒場の喧騒が、二人と一本の周囲だけ少し遠くなったように感じられた。アイオンは杯を取り、亭主が置いていった薄い麦酒を一口飲んだ。


「剣殿は、刃で真ん中を突きたがりますね」


「答えろ」


「七英雄とは、何でしょう」


「質問で返すな」


「では、詩で返しましょう。英雄とは、後の者が都合よく数える灯です。七つと決めれば、八つ目は邪魔になる。白い翼を数えたい者がいれば、弦を持つ者は欄外へ追いやられる。神殿は神を好み、王は騎士を好み、酒場は派手な死に方を好む。歌い手は、たいてい嫌われる」


 エノクは息を止めた。


「じゃあ、弦を持つ者は本当に」


「さあ」


 アイオンは笑った。「今のは、酔った吟遊詩人の戯れ言です」


「酔ってないでしょう」


「心はいつも少し酔っています」


「アイオン」


 エノクは彼を見つめた。「あなたは、どうしてそんなに詳しいんですか」


 アイオンは、しばらく答えなかった。酒場の灯が彼の横顔を照らす。笑みは残っている。だが、その奥に、エノクは一瞬だけ別のものを見た。疲れ。後悔。長く隠れてきた者の用心深さ。あるいは、歌われなかった名を抱え続ける者の孤独。


「詳しいわけではありません」


 アイオンは静かに言った。「ただ、長く旅をしているだけです」


「どれくらい」


「質問が多い少年は、早く大人になります」


「答えになってない」


「そういう答えです」


 ティンカーベルが低く唸るように鳴った。


「ますます怪しい」


「怪しさも、ここまで来れば風格でしょう」


「風格ではなく不審だ」


「では、不審な吟遊詩人として覚えてください。しがないより少し格が上がります」


 アイオンはまた軽く笑い、皿に残っていた黒パンをちぎった。エノクはそれ以上問い詰められなかった。問い詰めても、今のアイオンは答えない。そう分かったからである。


 夜が深くなるにつれ、酒場はまたいつもの騒がしさへ戻った。アイオンの歌に違和感を覚えた者も、麦酒を二杯飲めば「変わった節だったな」程度に流し、傭兵たちは竜王のくだりを気に入り、巡礼者はアルティエルの名が出たことに満足し、亭主は銅貨が集まったことで機嫌を直した。歌は人の心を揺らすが、すべての人が同じ深さまで沈むわけではない。多くの者にとって、今夜の歌は旅の慰みで終わる。


 だが、エノクには終わらなかった。


 彼は相部屋へ戻ってからも眠れず、宿の小さな窓の下で膝を抱えていた。外では馬小屋の馬が鼻を鳴らし、遠くで誰かが酔ったまま歌の一節を間違えて歌っている。胸元の鍵は静かだ。守り石も温もりを持たない。だが、エノクの内側だけがざわついていた。


「ティンカーベル」


「何だ」


「アイオンの歌、どれくらい本当だと思う?」


「本当と嘘を分けるには、材料が足りない」


「剣なのに、斬れないの」


「歌は肉より斬りにくい」


「でも、変だった」


「変だったな」


「シモンのことも、阿修羅のことも、ダイダロスのことも、ヨシュアのことも。聖典より、近くで見たみたいだった」


「そうだな」


「アルティエルを七英雄に数えなかった」


「それが気になるか」


「気になる。だって、聖堂の歌では」


「聖堂の歌が間違っていることもある」


 エノクは振り返った。ティンカーベルは寝台の脇に立てかけられ、鞘の中で静かにしていた。


「君は知ってるの?」


「少しは」


「教えてくれないの?」


「私は剣だ。歌の訂正係ではない」


「ずるい」


「そうだ。お前の周りはずるい大人とずるい剣ばかりだ。慣れろ」


 エノクはため息をついた。慣れたくはなかった。だが、旅はきっと、分からないことに慣れていくことでもあるのだろう。すべてをすぐ知ることはできない。シモンもそう言った。七英雄に会い、聞き、知れと。アイオンの歌は、その最初の裂け目だった。美しい聖典の絵に、細い亀裂が入った。その向こうには、もっと血と泥と嘘にまみれた何かがある。


「弦を持つ者」


 エノクは呟いた。「真の名を呼ばねばならなかった、って」


 ティンカーベルは答えなかった。


 同じ頃、宿の屋根の上にアイオンはいた。酒場で得た銅貨袋を膝に置き、竪琴を抱え、夜風に髪を揺らしている。灰羊亭の屋根は少し傾いており、普通の旅人なら危なっかしい場所だったが、彼はまるで古い舞台の上に座るように平然としていた。


 彼は低く、先ほど酒場では歌わなかった節を口ずさんだ。


「名を呼ぶ者、名を失う。弦を鳴らす者、歌から消える。箱の前に立つ者よ、嘘を歌え、真を隠せ、されど最後の一音だけは誤るな」


 その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。だが、夜の風だけは聞いていた。アイオンは歌を止め、自分の右手を見た。指先には、古い傷がいくつもある。弦で切った傷だけではない。剣の傷、火の傷、何かを握りしめすぎた傷。彼はそれを見て、苦笑した。


「まだ覚えているとはね」


 誰にともなく言った。


 背後の影から、小さな羽音がした。木彫りの鳥ではない。夜の鳥でもない。黒い紙片のようなものが一枚、屋根の端に落ち、すぐに灰となって消えた。アイオンは目を細めた。


「カオスの犬どもも、耳がよくなった」


 彼の声から、軽さが消えた。酒場で笑っていた吟遊詩人ではない。長い時を旅し、消された歌を抱え、追う者と追われる者の足音を聞き分ける者の顔であった。


「少し歌いすぎたかな」


 彼は自嘲気味に呟き、それから肩をすくめた。


「まあ、昔からそうだった。黙っていればいい時ほど、弦が鳴る」


 アイオンは竪琴を背負い直し、屋根の縁から軽く飛び降りた。地面へ落ちる音はしなかった。まるで夜風の一部になったように、彼の姿は宿の裏手の闇へ消えた。


 相部屋で、エノクはようやく眠りに落ちかけていた。夢の入口で、七英雄の歌が聞こえた。聖堂の荘厳な歌ではない。酒場の喧騒に混じった、アイオンの声である。白きアルティエルは英雄の席に座らず、弦を持つ者は歌から消え、箱は閉じたが夜は完全には終わらない。その歌は夢の中でも、どこか間違っているようで、どこか本当のようだった。


 エノクは胸元の鍵を握ったまま眠った。まだ何も分からない。だが、七英雄という名の向こう側に、聖典には書かれていない影があることだけは、もう知ってしまった。


 そしてその影の縁を、嘘つき吟遊詩人アイオンは、誰よりも正確な指でなぞっていた。

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