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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第2部 吟遊詩人と剣舞姫
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第4話_新大陸への船

# 新大陸への船


 灰羊亭の夜が明けると、街道には雨の匂いが残っていた。夜のうちに短い雨が降ったらしく、宿場の土は黒く湿り、轍には薄い水が溜まり、旅人たちの靴底は出発前から泥を抱えた。エノクは背嚢を背負い直しながら、宿の軒下で空を見上げた。雲は低く流れている。森で見る空とは違い、街道の空は広い分だけ落ち着かない。どこから何が来るか分からない広さだった。アイオンは宿の亭主に昨夜の歌代の一部を宿代へ回し、残りを銅貨袋にしまいながら、いかにも旅立ちにふさわしい軽い調子で言った。


「さて、エノク。南へ行くと言いましたが、南にもいろいろあります。畑の南、酒場の南、恋人から逃げるための南、借金取りから逃げるための南。君の南は、どれです」


「七英雄に会うための南です」


「真面目な答えですね。朝には少し重い」


「あなたが聞いたんでしょう」


「聞きましたとも。では、真面目に答えましょう。七英雄の一人、竜王ザッハに会いたいなら、港へ出る必要があります」


 エノクは瞬いた。「港?」


「海です。大きな水。塩辛く、気まぐれで、船乗りの嘘と魚の骨と沈んだ祈りでできている場所」


「竜王ザッハは、山や湖にいるんじゃないんですか」


「その認識は半分正しい。ザッハの名は、古くは湖と血脈と大地に結ばれています。ただし、彼が守った竜の民は、この大陸だけに留まっていない。古い歌では、新大陸の奥、竜骨湖と呼ばれる水の底へ至れ、と歌われます」


「新大陸」


 エノクはその言葉を口の中で転がした。書物では読んだことがある。大陸の西南に広がる海を越えた先にある、竜の骨で山脈ができたと語られる広い土地。交易船と冒険者と竜信仰の民が行き来する場所。だが、書物の中の新大陸は、地図の端に色を塗られた遠い場所であって、自分がそこへ向かうとは考えたこともなかった。


 ティンカーベルが鞘の中で低く鳴った。


「船か」


「剣殿は船が苦手で?」


「剣は泳がない」


「なるほど。では海へ落ちないよう祈りましょう」


「お前が落ちたら、まず弦を切る」


「物騒な友情ですね」


「友情ではない」


 エノクは二人のやり取りを聞きながら、港という言葉の重さをようやく感じ始めた。彼は川なら知っている。森の小川、井戸の水、雨の匂い。だが、海は知らない。水が地平まで続くという話は、あまりに大きすぎて実感が湧かなかった。


「船賃って、高いんですか」


 エノクが問うと、アイオンは満足そうに頷いた。


「よい質問です。旅人として少し成長しましたね。海を渡るには、宿代より多く、酒代より痛く、命よりは安い金がかかります」


「分かりにくい」


「港へ着けば分かります。宝石を一つ使うかもしれませんが、今度は私が隣にいる。銀貨三枚で水晶青玉を奪われる心配は、まあ半分くらい減ります」


「半分なんですか」


「残り半分は、君の顔が正直すぎる分です」


 ティンカーベルが言った。「まず顔を鍛えろ」


「顔って鍛えられるの」


「嘘をつく時に胸元を見るな。財布を出す時に呼吸を止めるな。驚いた時に口を開けるな。まずそこからだ」


「剣に表情の稽古をつけられるとは思わなかった」


「剣に世話を焼かせるな」


 灰羊亭を出てから半日ほどで、街道は徐々に海へ向かう道の顔を見せ始めた。畑は減り、代わりに塩風に強い低い灌木が増え、道端の祠には聖天使アルティエルの白い翼ではなく、波を抱く女神や竜を象った古い木彫りが置かれていた。荷馬車の荷も変わった。麦袋よりも塩樽、羊毛よりも乾魚、陶器よりも油樽。旅人の服には潮の匂いがつき、商人たちは空ではなく風向きを気にしていた。アイオンは道中、港町の歌をいくつか口ずさんだ。どれも七英雄の歌ほど重くはなく、酔った船乗りが足で床を鳴らすための調子を持っていた。


「海の歌は、なぜどれも少し乱暴なんですか」


「穏やかな歌は波に負けます。船乗りは風と喧嘩するように歌うのです」


「風と喧嘩して勝てるんですか」


「勝てません。だから歌う」


 エノクはその答えを、分かったような、分からないような気持ちで聞いた。


 港町セレンダは、夕暮れ前に見えた。丘を越えた瞬間、エノクは足を止めた。空の下に、もう一つ空があった。いや、水だった。どこまでも広がり、夕陽を砕いて金と鉛の色に揺れる巨大な水面。水平線は薄い靄の中に溶け、海鳥が白い点となって飛んでいる。海は、想像していたより静かではなかった。遠くからでも低い音が聞こえる。波が岸を叩き、船が軋み、風が帆を打ち、港の鐘が鳴る。森の小川のように歌うのではなく、巨大な生き物が眠りながら呼吸しているような音だった。


「これが、海」


 エノクは呟いた。


「そうです。大きな水たまりです」


 アイオンが言った。


「その言い方、海に怒られませんか」


「海は怒る時、言葉ではなく船を沈めます。だから私は陸でだけ軽口を言います」


 ティンカーベルが低く言った。「口を閉じろ、エノク。完全に初めて海を見た顔だ」


「初めてだから」


「初めてでも、顔に大書するな。港では、初めて海を見た者は、初めて船賃を騙される者でもある」


 エノクは慌てて表情を引き締めたつもりだった。アイオンが横で笑う。


「顔が『引き締めています』と言っています」


「もうどうすればいいんですか」


「そのうち慣れます。慣れる前に財布を失わなければ大丈夫」


 港町は、これまでの宿場とは比べものにならないほど騒がしかった。潮と魚と煙と人と獣と香辛料の匂いが混じり、石畳は湿り、細い路地には洗濯物と網が吊られ、坂道を樽が転がり、怒鳴り声が飛び交う。港には大小の船が並んでいた。小さな漁船、沿岸を行く平底船、帆柱を二本持つ交易船、黒く塗られた快速船、船首に竜の頭を彫った新大陸航路の大船。帆は畳まれているものもあれば、修理中のものもあり、索具は蜘蛛の巣のように空へ張り巡らされていた。


 エノクは何度も立ち止まりそうになり、そのたびにティンカーベルが「歩け」と言い、アイオンが「見るなら足を止める前に端へ寄りましょう」と肩を引いた。港では、立ち止まる場所を間違えるだけで荷運びに怒鳴られる。実際、エノクは最初の角で魚籠を抱えた女にぶつかりかけ、「目が空に付いてるのかい」と叱られた。


「港の人は、言葉が強いですね」


「海が強いので、人も負けじと強くなります」


「森では、倒木ですらもう少し優しかった」


「倒木が喋る森と比較される港の女も気の毒です」


 船を探すのは、エノクが思っていたより複雑だった。新大陸行きと看板に書いてある船が、必ず新大陸へ行くとは限らない。途中の島で荷を下ろすだけの船、船賃は安いが乗客を荷物同然に扱う船、竜骨湖方面の港へは寄らない船、海賊が出る航路を避けて遠回りする船、逆に危険を承知で速く渡る船。アイオンは港の掲示板を一瞥した後、すぐに船宿や酒場ではなく、波止場の端にある古びた網倉へ向かった。


「切符売り場じゃないんですか」


「切符売り場で買うと、切符売り場の値段になります」


「当たり前では」


「港では当たり前がいちばん高い」


 網倉の前では、片目に傷のある女船長が樽に腰かけ、煙草草を噛んでいた。灰色の髪を後ろで束ね、片腕には青い波と竜の刺青がある。彼女はアイオンを見るなり、顔をしかめた。


「まだ沈んでなかったのか、嘘歌い」


「船長殿こそ、まだ船を浮かべておいでで何より」


「前に乗せた時、船員が三人、あんたの歌に釣られて港の娘に求婚した。全員振られて、一人は修道院に入った」


「愛の航路は荒れやすいものです」


「あんたのせいだ」


「風のせいにしておきましょう」


 エノクは黙って二人を見ていた。アイオンはどこの宿でも港でも、必ず誰かに呆れられる。だが、完全に追い払われることはない。嫌われているのか好かれているのか、相変わらず分からなかった。


 女船長の目が、エノクへ移った。


「そっちの坊やは?」


「旅の連れです。新大陸へ渡りたい」


「観光か、逃亡か、巡礼か、厄介ごとか」


「学びの旅です」


「つまり厄介ごとだな」


 ティンカーベルが鞘の中で鳴った。「この船長はまともだ」


「剣が喋るのか」


 女船長は驚いた様子もなく言った。


「よく言われます」


 エノクが答えると、女船長は鼻を鳴らした。


「最近の海じゃ、喋る剣くらいで驚いてたら舵は取れない。夜中に死んだ船員の声で歌う帆もあれば、積んでない鐘が鳴る船もある。で、行き先は」


「新大陸の竜骨湖に近い港へ」


 アイオンが言った。


 女船長の顔から、少しだけ冗談が消えた。


「竜骨湖だと?」


「正確には、その手前のラガル港までで結構です。そこから陸路を行く」


「あの辺りは今、きな臭い。竜信仰の氏族が古い誓いを掘り返し、内陸の砦は門を閉じてる。海も荒れてる。新大陸行きはあるが、命を安売りするつもりはない」


「船賃は払います」


「金の話だけじゃない。カオスの星が戻ってから、海路が変だ。潮が逆に流れる。羅針盤が夜だけ北を忘れる。赤い泡が浮く。沈んだはずの船が、誰も乗せずに帆だけ張って戻ってくる。海賊も増えた。魔物も増えた。あんたらみたいな陸の旅人は、波の上で後悔しても降りられない」


 エノクは黙った。カオスの影。名喰い。黒い炎。森や村だけでなく、海にも異変が起きている。シモンが言っていた通り、世界の傷は一か所に留まらない。


 アイオンは軽く肩をすくめた。


「後悔は陸でもできます。海でしか見られない後悔も、一度くらいなら歌になります」


「歌にする前に死ぬぞ」


「ならば歌い残しておきましょう」


「相変わらずだな」


 女船長は煙草草を吐き捨てた。「船は《暁?号》。三日後に出る。だが客は選ぶ。剣持ちの坊や、船酔いは?」


「分かりません。船に乗ったことがないので」


 女船長は、初めて本気で嫌そうな顔をした。


「正直すぎる」


「すみません」


「謝ることじゃない。だが、海は正直者を優しく扱わないぞ」


「よく言われます」


「誰に」


「剣に」


 ティンカーベルが言った。「正直者というより、単に隠すのが下手な未熟者だ」


「なるほど。剣の評価は辛いが正しそうだ」


 船賃の交渉は、エノクには半分も分からなかった。アイオンと女船長は、銀貨、新大陸銀、荷役手伝い、歌代、甲板掃除、危険海域割増、海賊保険の有無など、聞き慣れない言葉を次々に交わした。最後に、エノクが小さな黄玉を一つ出すことになった。女船長はそれを手の上で光にかざし、歯で噛まず、目を細めて見た。


「悪くない。だが大きすぎる。釣りを出す」


 エノクは驚いた。「出してくれるんですか」


「当たり前だ。私は船長であって、港の詐欺師じゃない」


 アイオンがにこやかに言った。


「船長殿は、客からは取りますが盗みはしません」


「褒め言葉として受け取っておく。三日後の朝、第二桟橋。遅れたら置いていく。船に乗ったら船長の命令が法だ。剣も歌い手も同じだ」


「私は法を好みませんが、沈むよりは従います」


「従わなければ帆柱に吊るす」


「港の風景として映えそうですね」


 女船長はアイオンを睨み、それからエノクへ向き直った。


「坊や、名は」


 エノクは一瞬だけ胸元へ意識を向けかけたが、慌てて止めた。名を隠す時、胸に手をやるな。アイオンに言われたことを思い出す。


「エノクです」


「家名は」


「ありません」


「よし。船の帳面にはエノクとだけ書く。船では余計な名を持つな。海は名を覚えると、時々返してくれない」


 その言葉は、ただの船乗りの迷信に聞こえた。だが、エノクには笑えなかった。名を奪うものを、彼はすでに知っている。海も名を返さないことがある。カオス帰還後の海なら、なおさらかもしれない。


 三日の待ち時間は、港の空気に慣れるための時間になった。アイオンは酒場で歌って船賃の足しを稼ぎ、エノクは船旅に必要なものを揃えた。塩気で悪くなりにくい乾パン、酢漬けの果実、船酔い止めの苦い薬草、油布、細縄、予備の水袋。買い物のたびにティンカーベルが値段を聞け、釣りを数えろ、店主の手元を見ろと口を出した。アイオンは「剣殿は買い物に向いていますね」と感心し、ティンカーベルは「お前が向いていなさすぎる」と返した。


 港の夜、エノクは多くの噂を聞いた。赤い霧の中から現れる黒帆の海賊。海面に映るはずのない星の船の影。船員全員が互いの名を忘れ、ただ役職だけで呼び合ったまま戻ってきた商船。網にかかった魚の腹から人の歯が出た話。波間で母の声を聞いた船乗りが、夜中に海へ歩いていった話。どれも酒場の誇張かもしれない。だが、誇張だけでは説明できない怯えが、船乗りたちの目にはあった。陸の者が魔王軍や黒い炎を恐れるように、海の者は潮と霧と声を恐れていた。


 出航の朝、セレンダの港はまだ薄い青に包まれていた。《暁?号》は第二桟橋に浮かんでいた。船首には翼を広げた?の彫刻があり、船体は濃い茶色、帆は白というより、潮と風で灰色に近い。大船というほどではないが、外海へ出るだけの強さは感じられた。船員たちは素早く動き、樽を積み、帆を確認し、索を巻き、船長は舵の近くで全体を見ている。


 エノクは桟橋の上で足を止めた。船は、わずかに揺れていた。それだけで、地面が信じられなくなる。森の小道も動いたが、あれは意志を持っていた。船の揺れは、海の機嫌に合わせているようで、自分がどちらへ立てばよいのか分からない。


「怖いですか」


 アイオンが問うた。


「少し」


「少しで済むなら大物です。私は初めて海へ出た時、船縁を抱いて人生の過ちをすべて告白しました」


「本当ですか」


「半分」


「どの半分ですか」


「船縁を抱いたところです」


 ティンカーベルが言った。「乗れ。桟橋で迷う者は、船でも迷う」


「励まし方が下手だな」


「励ましていない。急かしている」


 エノクは深く息を吸い、船へ足をかけた。板が揺れた。彼は思わず手すりを掴む。船員が笑った。


「陸足だな」


「陸足?」


「海を知らない足ってことだ。三日吐けば少しは船に嫌われなくなる」


「吐く前提なんですね」


「海に愛されるよりはましだ。愛されると引きずり込まれる」


 船長が怒鳴った。「無駄口より手を動かせ。帆を上げるぞ」


 縄が引かれ、帆が広がった。朝風を受けて、灰白の帆が膨らむ。船がゆっくり岸を離れた。桟橋が遠ざかり、港の石壁が低くなり、セレンダの屋根がひとつの塊になっていく。エノクは胸元の鍵と守り石を確かめた。陸が離れていくことが、こんなにも心細いとは思わなかった。足元には木の甲板がある。けれど、その下は海である。沈めば底が見えない。


「大丈夫ですか、エノク」


 アイオンが隣に立った。


「今のところは」


「今のところ、という言葉は海では貴重です。大事に使いましょう」


 船は港湾を抜け、外海へ出た。途端に揺れが大きくなった。エノクの胃が、身体の中で別の生き物のように動いた。彼はしばらく耐えた。耐えたが、最初の大きな波を越えた時、顔色が一気に変わった。


「左舷」


 ティンカーベルが言った。


「何」


「吐くなら左舷だ。風下を見ろ。剣にかけるな」


 アイオンが素早く肩を支え、エノクを船縁へ連れていった。エノクは海へ向かって、朝食と旅人としてのわずかな誇りを失った。船員たちの笑い声が聞こえる。恥ずかしかったが、それどころではなかった。


「初日に吐く者は伸びます」


 アイオンが慰めるように言った。


「本当ですか」


「嘘です」


「最悪だ」


「ですが、吐かないふりをして倒れるよりは賢い」


 ティンカーベルが言った。「姿勢が悪い。吐いた後に背を丸めるな。水を少し飲め」


「剣が船酔いの世話をするとは」


「お前が弱すぎるからだ」


 船旅の最初の日は、エノクにとって戦いよりも苦しかった。剣の訓練なら、倒れても起き上がればよい。船酔いは起き上がっても世界が揺れる。空を見ると揺れ、海を見ると揺れ、目を閉じても揺れる。アイオンは平気な顔で船員たちと賭け事をし、歌を一つ披露し、船長に怒鳴られ、また笑っていた。エノクは甲板の端で、油布にくるまって風を浴びながら、自分が本当に七英雄を探す旅に出たのか、それとも単に海に胃を捧げに来たのか分からなくなった。


 二日目になると、少しだけ慣れた。完全にではない。だが、波に合わせて膝を緩めることを覚えた。ティンカーベルが「船の上では剣より足だ」と言い、船員の一人が「剣もたまにはいいことを言う」と笑った。エノクは甲板掃除を手伝わされ、縄の巻き方を教わり、帆を引く時には邪魔にならない場所を覚えた。船乗りたちは口は悪いが、動く者には少しだけ優しい。動かない者には容赦なく怒鳴る。それは森とも町とも違う法だった。


 夜になると、海は黒い鏡のようになった。星が映る。だが、船長は星空を見て顔をしかめた。


「変だ」


「雲はありませんよ」


 エノクが言うと、船長は首を振った。


「星が多すぎる。海に映っている星の中に、空にないものがある」


 エノクは船縁から海を覗いた。黒い水面に星が散っている。その中に、ひとつだけ赤黒い点があった。空にはない。水の中だけにある星。胸元の鍵が、かすかに熱を持った。


 アイオンが隣で低く言った。


「見ない方がいい」


「何ですか、あれ」


「海が見たくないものを映しているだけです」


「カオス?」


「名を口にしない方がよい夜もあります」


 その時、見張りが叫んだ。


「右舷後方、黒帆!」


 船内の空気が一変した。眠っていた船員が跳ね起き、武器を取り、帆の角度が変えられる。エノクは右舷へ目を向けた。闇の中、遠くに黒い帆が見えた。星明かりを吸うような帆である。船影は細く、速い。海賊。噂に聞いた言葉が、現実の形で近づいてくる。


「速いぞ。南西から回り込む気だ」


 船長が舵を握りながら怒鳴った。「弓手、火矢を用意。客は船倉へ下がれ」


 エノクは動けなかった。船倉へ下がるべきだと分かっている。だが、足が甲板に貼りついたように動かない。


「下がれ、未熟者」


 ティンカーベルが言った。


「でも」


「船の上で戦ったこともないくせに、でもと言うな」


 アイオンも肩を掴んだ。「今は船長の命令が法です。船長は君より海を知っている」


「あなたは」


「私は邪魔にならない場所で役に立ちます」


「それ、一番難しいやつです」


「だから私がやるのです」


 エノクは船倉へ下がった。そこには他の客や荷が詰め込まれ、薄暗い空気の中で皆が息を潜めている。上では足音、怒鳴り声、帆を引く音、弓弦の鳴る音が響いた。ティンカーベルは鞘の中で落ち着かないように微かに震えていた。


「戦わないの」


「船を知らない者が甲板で剣を抜くと、敵より先に味方を斬る」


「君なら」


「私が動けても、お前の足が波を読めない」


「役に立てないんだ」


「今はな」


 その言葉は痛かった。だが、昨日までのエノクなら反発していたかもしれない。今は、甲板の揺れと船員たちの動きの速さを見て、ティンカーベルが正しいと分かってしまう。自分はまだ、森の地面でさえ剣に使われている。まして海の上では、立つだけで精一杯だ。


 上でアイオンの竪琴が鳴った。戦場には似合わない音だった。だが、その音が船の軋みと風の音に混じると、不思議と帆が一度大きく膨らんだ。船員の声が揃う。歌ではない。掛け声でもない。古い海の符牒のような旋律。アイオンの声が風に乗る。


「左の風は嘘をつく、右の波は牙を持つ、?よ?よ目を貸せ、暁の船はまだ沈まぬ」


 船が大きく傾いた。客たちが悲鳴を上げる。だが、その傾きで黒帆の船から放たれた火矢が外れたらしい。甲板で歓声が上がる。続いて船長の声。


「いい風だ、嘘歌い。もう一つやれ!」


「歌代は高いですよ!」


「生きて港へ着いたら払ってやる!」


「それは信用ならない約束ですね!」


 エノクは船倉の階段から顔を出した。黒帆の船はまだ追っている。だが、その向こうの海が妙に盛り上がっていた。波ではない。黒い水が内側から膨らみ、赤い泡が浮かぶ。海賊船の方でも叫び声が上がった。


「海魔だ!」


 船員の声が恐怖に変わった。


 海面から、長いものが現れた。鰻にも蛇にも見えるが、その身体は水ではなく黒い油でできているように光り、頭部には目がなく、代わりに人の口のような裂け目がいくつもあった。口の中から、溺れた者たちの声に似た音が漏れる。母を呼ぶ声、船長を呼ぶ声、名を呼ぶ声。エノクの胸元の鍵が熱を持つ。


「名を呼ぶな!」


 船長が叫んだ。「聞こえても返事をするな!」


 海賊船は、その声に遅れた。黒い海魔の身体が海賊船の舷側へ絡みつき、帆柱を揺らす。海賊たちの悲鳴が夜を裂いた。だが、海魔は海賊だけを狙っているわけではなかった。長い身体の一部が、《暁?号》へ向かって伸びてくる。


「エノク、下がれ!」


 アイオンが叫んだ。


 だが、エノクは胸元の熱に引かれるように甲板へ出ていた。海魔の口の一つが、彼の方を向いていた。目はない。なのに、見られている。口が開き、声が漏れる。


「エ……ノ……」


 ティンカーベルが怒鳴った。


「抜け!」


 エノクは剣を抜いた。甲板が揺れる。足元が滑る。だが、海魔の黒い触手が船縁を越えた瞬間、ティンカーベルが彼の腕を引いた。刃が黒い肉を斬る。肉というより、名の形をした泥を斬ったような感触だった。触手は甲板の上で跳ね、赤い泡を吐いて海へ落ちた。


「立て。膝を殺すな。船に逆らうな」


「分かってる」


「分かっていないから言っている」


 別の触手が伸びる。エノクは踏み込もうとして足を滑らせた。ティンカーベルが無理に腕を引き、刃で受け流す。衝撃で肩が痺れた。アイオンの歌が近くで鳴る。


「名なき波よ、名を持つ船を呑むなかれ。竜の骨まだ遠く、暁はまだ折れぬ」


 その歌に合わせるように、船員たちが銛を投げた。一本、二本、三本。海魔の身体に刺さるが、黒い水が傷を塞ぐ。船長が舵を切り、船を波に乗せる。エノクはティンカーベルに使われながら、伸びてくる小さな触手を斬った。自分が戦っているのか、剣が彼を甲板に立たせているだけなのか分からない。ただ、下がれば船員の一人が捕まる。それだけは分かった。


「右!」


 ティンカーベルが叫ぶ。


 エノクは右へ斬った。触手が裂け、黒い泡が飛ぶ。泡が頬に触れた瞬間、頭の奥で誰かが名を呼んだ。母の声に似ていた。いや、そう思わせる声だった。


「返事をするな」


 アイオンの声が、歌の合間に鋭く飛んだ。「それは君の母ではない」


 エノクは歯を食いしばった。母の守り石が胸元で冷たく光る。偽物の声が遠ざかった。彼はもう一度剣を振った。今度は、ほんの少しだけ自分の足で踏み込めた気がした。


 その時、海の下から低い響きがした。歌でも、叫びでもない。竜の喉が遠い水底で鳴ったような音。海魔がびくりと震えた。黒い身体がほどけ、赤い泡を残して海中へ逃げていく。海賊船も半壊しながら遠ざかっていた。黒帆は破れ、火矢は消え、夜の海には荒い波と船員たちの息遣いだけが残った。


 しばらく、誰も喋らなかった。


 やがて船長が舵から手を離し、甲板を見回した。


「損害を確認しろ。怪我人は船医へ。帆を戻せ。まだ終わってないぞ」


 船員たちが動き出す。エノクは剣を下ろし、その場に膝をついた。腕が震えている。ティンカーベルは静かに言った。


「吐くなら、今度も左舷だ」


「吐かない」


「よし。少しはましだ」


 エノクは苦笑した。アイオンがそばへ来る。彼の顔にも珍しく疲労があった。竪琴の弦が一本切れている。


「無事ですか」


「たぶん」


「たぶんで生きているなら上等です」


「さっきの声」


「海魔です。カオスの影に触れた海のもの。溺れた者の声、恋しい者の声、失った者の名を借りる。返事をすれば、名の端を掴まれます」


「海にも、名を奪うものがいるんですね」


「海は昔から多くを奪います。ただ、最近は奪い方が悪くなった」


 船長が近づいてきた。エノクの剣を見て、少しだけ目を細める。


「陸足にしては、よく立った」


「剣に立たされました」


「なら剣にも礼を言うんだな。坊や、海では自分だけで立ったと思った時が一番危ない」


「はい」


 船長はアイオンへ向いた。「嘘歌い。今の歌は何だ」


「船を励ます歌です」


「聞いたことがない」


「作りました」


「嘘だろう」


「半分」


 船長は鼻を鳴らした。「船乗りは半分の嘘が嫌いだ。残り半分が気になる」


「気にしている間は眠くなりません。夜番に向いています」


「まったく。次の港までに弦を直しておけ。海魔がまた来たら歌え」


「歌代は」


「命で払ってやる」


「それは高いのか安いのか」


「沈めば分かる」


 アイオンは肩をすくめた。エノクは二人の会話を聞きながら、遠い海を見た。黒い波の下で、先ほどの低い響きがまだ残っている気がした。海魔が逃げた理由。あの水底の音。竜の喉のような響き。竜王ザッハに向かう道で、海が何かを告げたのかもしれない。そう思ったが、確かめるすべはなかった。


 翌朝、海は何事もなかったように青かった。昨日の黒い泡も、海賊船の影もない。ただ、船員たちの腕には包帯があり、帆には焦げ跡があり、甲板の一部には黒い染みが残っていた。海は忘れるのが早い。けれど、人の身体と船の木は忘れない。


 エノクは船首近くに立ち、水平線を見た。船酔いはまだ完全には消えていないが、昨日ほどではない。ティンカーベルは腰で静かにしている。アイオンは少し離れたところで竪琴の弦を張り直していた。


「アイオン」


「はい」


「さっきの海魔は、カオスのせいなんですか」


「すべてをカオスのせいにすると、世界は簡単になります」


「違うんですか」


「影響はあるでしょう。星の船が帰ってから、海は多くの古い傷を起こしました。沈んだ船、忘れられた名、捨てられた祈り。カオスの黒い火は、それらを腐らせる。もともと海にあった恐怖が、悪い形で目を覚ます」


「じゃあ、竜王ザッハは」


「海と大地の境に関わる者です。彼が今も昔のままなら、何かを知っているでしょう。昔のままなら、ですが」


「会えると思いますか」


「思うかどうかは、賭け事には向いていますが旅には向きません。会いに行く。それだけです」


 エノクは水平線を見つめた。新大陸はまだ見えない。けれど、そこに向かっている。森を出た時よりも遠くへ来た。町で騙されかけ、酒場で歌を聞き、港で船賃を払い、海で吐き、海賊と海魔に襲われ、ほんの少しだけ甲板の上で剣を振った。王子としての覚悟はまだない。剣士としての力も足りない。だが、旅は彼を待たない。足元が揺れていても、進む時は進むのだ。


 三日目の夕暮れ、見張りが叫んだ。


「陸影!」


 船員たちが一斉に西南を見た。エノクも手すりを掴んで身を乗り出す。水平線の向こう、夕陽の金に縁取られて、黒い影が浮かんでいた。最初は雲かと思った。だが、やがてそれが山の稜線だと分かった。鋭く、長く、竜の背骨のように連なる山々。その手前に、薄青い霧をまとった新大陸の岸がある。


「新大陸」


 エノクは呟いた。


「そうです」


 アイオンが隣に立った。「あの山の奥に、竜骨湖へ至る道があります。竜王ザッハの名を呼ぶには、まずあの大地に足を置かなければならない」


 ティンカーベルが言った。


「海で少しは足を使えるようになったか」


「少しだけ」


「なら、次は大地だ。竜の大地は、森の苔より硬いぞ」


「優しくないものばかりだね、外の世界は」


「優しいものを守るために、優しくない場所を歩くんだ」


 その言葉がティンカーベルのものとしては意外に静かだったので、エノクは剣を見下ろした。ティンカーベルはそれ以上何も言わなかった。


 新大陸の影は、ゆっくりと近づいていた。海風には、これまでとは違う匂いが混じっている。湿った土、遠い森、火山の灰、そしてどこか水底から立ち上る古い竜の気配。エノクは胸元の鍵と守り石に触れた。竜王ザッハ。七英雄の一人。聖典では勇壮に歌われ、アイオンの歌では湖と血脈と大地に結ばれた者。彼に会えば、自分の背負うものが少しは分かるのだろうか。それとも、また知らなかった傷を知るだけなのだろうか。


 答えはまだ海の向こうにあった。


 《暁?号》は、夕陽を背に受けながら新大陸へ向かった。背後の海では、赤黒い泡が一つだけ浮かび、すぐに波へ呑まれて消えた。カオスの影は、陸にも森にも町にも、そして海にも広がっている。エノクはその広さを、初めて本当の意味で知り始めていた。


 旅はもう、森を出た少年の小さな冒険ではなかった。世界そのものが、名を失う夜へ向かって軋んでいる。その軋みの中で、彼はまだ未熟な手で剣を握り、嘘つき吟遊詩人の歌を聞きながら、竜王の大地へ近づいていった。

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