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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第2部 吟遊詩人と剣舞姫
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第5話_港の踊り子アリア

 新大陸の港、ラガルは、海から来る者に優しい町ではなかった。港というものがそもそもそうなのか、それともこの大陸の入口が特別そうなのか、エノクにはまだ判断できない。ただ、船を降りた瞬間に吹きつけた風は、セレンダの港よりも重く、潮と土と獣の匂いが混じっていた。遠くには竜の背骨のような山脈が青黒く連なり、港の背後には赤茶けた崖と灰色の倉庫群が段々に張りついている。波止場では異国の言葉が飛び交い、竜骨を模した船首飾りをつけた船、香辛料を積んだ南方船、鉄材を吐き出す荷船、帆に焦げ跡を残した傷だらけの船が並んでいた。海を渡る前に聞いた噂の通り、この港には竜信仰の氏族、商会、傭兵、船乗り、密輸人、巡礼者、逃亡者、そしてそれらを見分けるふりをする役人たちがひしめいていた。


 《暁?号》の船長は、船を降りる前にエノクへ言った。「坊や、ラガルでは三つ覚えときな。ひとつ、港の喧嘩は誰が始めたかより誰が払えるかで決まる。ふたつ、竜の名を軽く出すな。みっつ、酒場で踊り子に絡む奴からは離れろ」エノクは素直に頷いた。船酔いと海魔と黒帆の海賊を越えた後の彼は、自分が知らないことの多さを以前よりよく知っていた。ところが、その忠告を受けて半日も経たぬうちに、彼は三つ目を破ることになった。


 港で最初に必要だったのは、竜王ザッハへの道ではなく、宿と食事だった。ラガルから竜骨湖へ向かうには、内陸商隊に混ざるか、竜信仰の巡礼路を辿るか、古い鉱山道を使うか、いくつかの道があるらしい。だが、どの道もすぐには出られない。アイオンは港の掲示板、酒場の噂、荷役人の口笛、商人の靴の泥まで眺めた末、「今夜はまず、港の腹を探りましょう」と言った。


「港の腹?」


「酒場です。人は腹を満たす場所で、財布と舌を少し緩めます」


「また酒場ですか」


「旅の真実は、聖堂より酒場に落ちていることが多い」


 ティンカーベルが鞘の中で鳴った。「酒場に落ちているのは、真実より酔っ払いと喧嘩だ」


「剣殿、喧嘩もまた真実の一種です」


「面倒事の一種だ」


「どちらも似たようなものです」


 アイオンが選んだ酒場は、《錆びた竜鱗亭》という名だった。入口の上には、緑青の浮いた竜の鱗を模した看板が下がり、扉の横には折れた槍と古い船板が飾られている。中へ入った瞬間、エノクは熱気に押された。焼いた魚、羊肉、強い酒、汗、香油、煙草草、濡れた革、そして海から来た者と陸へ向かう者の焦りが、低い天井の下で渦を巻いていた。中央の広間は円く空けられ、周囲に粗末な卓が並び、壁際には弦楽器と太鼓を持つ楽師たちが座っている。船乗り、荷役人、商人、傭兵、巡礼者、港役人らしい男までが杯を手にし、皆が中央の空間を見ていた。


 そこに、踊り子がいた。


 最初、エノクは彼女がただ踊っているのだと思った。赤銅色の髪が灯火を受けて炎のように揺れ、腰の薄布が波のように翻り、足首の鈴が細かな音を散らす。腕には金属の輪、肩には短い黒革の飾り布、衣装は港の踊り子らしく華やかだが、余計な飾りは少ない。しなやかな身体は音に合わせて回り、止まり、傾き、次の瞬間にはまったく違う場所へ流れている。だが、その手に握られているものを見て、エノクは息を呑んだ。双剣であった。片方は細く美しい剣で、柄に小さな紋章のような飾りがある。もう片方は短く、実戦用の刃で、華やかさよりも使い込まれた鋭さを持っていた。


 剣が舞っていた。いや、彼女が剣を舞わせているのではない。彼女自身が、刃の軌跡になっていた。右手の細剣が灯を掬い、左手の短剣が影を裂き、踏み込む足は床板を叩くのではなく、床板の呼吸を奪うように静かに触れる。観客たちはその美しさに歓声を上げていたが、エノクの腰でティンカーベルが低く言った。


「あれは芸だけではない」


「剣舞?」


「戦いだ。客には踊りに見せているが、足、肩、視線、間合い、全部が斬るためにできている」


 エノクは目を凝らした。確かに、彼女の回転は無駄ではない。杯を掲げる酔客の手が少し前へ出れば、その手を避ける軌道へ自然に移る。床にこぼれた酒の上では滑らず、隣の卓から突き出た椅子の脚を踏まない。観客の視線を髪と腰布で引きつけながら、刃の先だけは誰の喉にも近づけすぎない。もし彼女が本気で刃を返せば、この広間の何人かは自分が斬られたことにも気づかず倒れるだろう。


「きれいだ」


 エノクは呟いた。


「きれいな刃ほど危ない」


 ティンカーベルが言った。「近づくな」


 アイオンは隣で、いつもの胡散臭い笑みを少しだけ引っ込めていた。


「アリアか」


「知ってるんですか」


「噂だけは。港から港へ、剣を踊らせ、酔漢を転がし、宿代を稼ぎ、気に入らない相手には拍手より痛い礼を返す踊り子。名前はアリア。近づく男の指を、まだ全部つけたまま返しているのは意外に慈悲深いとも評判です」


「評判が物騒すぎる」


「港の評判は、たいてい酒と痛みで飾られます」


 舞が終わると、酒場は大きな歓声に包まれた。銅貨や小銀貨が床へ投げられ、アリアは剣を下げて一礼した。舞台の顔で微笑んでいる。だが、その目は笑っていなかった。彼女は床に落ちた硬貨の位置を一瞬で見分け、近づく者の足運びを測り、出口と柱と楽師の距離を把握している。エノクは、あの人はずっと戦っているのだと思った。踊っている間だけではない。拍手を受ける時も、金を拾う時も、息を吐く時も。


 その時、船乗りの一団が席を立った。四人。どれも大柄で、顔は酒に赤く、腕には刺青がある。おそらく新大陸沿岸の荒い船で働く者たちだろう。先頭の男は、髭に酒の泡をつけたまま、床に落ちた小銀貨を拾うアリアの前へ銅貨を一枚放った。わざと足元へ転がすように。


「おい、踊り子。金をやる。今度は俺の膝の上で踊れ」


 酒場の空気が、ほんの少し固まった。常連らしい者たちは目を逸らし、初めて来た旅人たちは面白がるように見た。亭主は顔をしかめたが、すぐには止めない。港の酒場では、まず当人がどうするかを見るらしい。


 アリアは銅貨を見下ろし、それから男を見た。


「安い膝ね」


 声は低く、よく通った。


 周囲の客がどっと笑った。男の顔がさらに赤くなる。


「何だと」


「膝に値段をつけたいなら、せめて銀貨を出しなさい。もっとも、銀貨を積まれても乗らないけど」


「踊り子のくせに、口が」


「踊り子だからよ。口で先に切っておけば、刃を使わずに済むでしょう」


 男は手を伸ばした。アリアの腕を掴もうとしたのだろう。その瞬間、彼女の右足が半歩ずれた。派手な動きではない。だが、男の手は空を掴み、次の瞬間には手首を逆に取られていた。アリアは細剣を抜いていない。左手の短剣もまだ鞘の中である。ただ身体の向きと指の角度だけで、男の腕を捻り上げていた。


「触るなら」


 アリアは静かに言った。「指の数を数えてからにしなさい。減ってから騒がれても困るから」


 男が怒鳴った。仲間の一人が椅子を蹴って立つ。エノクは反射的に立ち上がっていた。船長の忠告も、ティンカーベルの「近づくな」も、その瞬間には頭から抜け落ちた。目の前で女性が絡まれている。助けなければと思った。森で育った彼の中では、それは自然な反応だった。


「やめろ」


 エノクは広間へ踏み出した。


 ティンカーベルが怒鳴った。


「馬鹿、待て!」


 アリアも同時にこちらを見た。その目に浮かんだのは、感謝ではなかった。明確な苛立ちだった。


「邪魔。どきなさい」


「でも」


「でもじゃない」


 エノクが言い終わる前に、後ろから別の船乗りが彼へ肩をぶつけた。意図的だった。エノクは足を取られ、踏みとどまろうとして椅子に膝をぶつけ、さらに卓へ手をついた。卓の上の杯が倒れ、麦酒が傭兵の膝にかかる。


「おい、小僧」


 傭兵が立ち上がった。


「す、すみません」


「謝るなら先に酒を戻せ」


「それは無理です」


「なら殴られろ」


 ティンカーベルが低く言った。「抜くな。まだ抜くな。今抜いたら全員敵になる」


「もう半分くらい敵です」


「お前が増やした」


 その間に、アリアは最初の船乗りを床へ沈めていた。手首を捻り、膝裏を蹴り、肩から落とす。一瞬だった。男は床板に叩きつけられ、口から息を吐いて動けなくなる。二人目が拳を振り上げる。アリアは身体を低く沈め、回転しながら腰布を翻した。踊りの続きのような動きだった。次の瞬間、二人目の足が払われ、男は椅子の山へ突っ込んだ。


 歓声と悲鳴が同時に上がる。誰かが「賭けろ、踊り子が三人目を何呼吸で落とすか」と叫び、別の客が「店を壊すな」と怒鳴る。亭主は太い腕で樽を押さえながら、「外でやれ!」と叫んだ。だが、すでに遅かった。


 三人目の船乗りが、エノクを人質のように後ろから掴もうとした。どうやらアリアへ近づくための盾にするつもりだったらしい。エノクは気づくのが遅れた。ティンカーベルが鞘ごと彼の腰で跳ねるように動き、身体を横へずらす。船乗りの腕は空を切ったが、勢い余ってエノクの背嚢を掴んだ。背嚢の紐が軋む。胸元の鍵が揺れ、エノクは血の気が引いた。


「離せ!」


 今度は考える前に動いた。エノクは船酔いで覚えた膝の使い方を思い出し、足を踏ん張って身体を回した。だが、動きはまだ未熟だった。背嚢は引かれ、彼の身体は逆に振られ、目の前の傭兵の卓へ突っ込む。卓が傾き、皿が飛び、煮込みが床に散った。


「エノク」


 アイオンの声が、妙に楽しそうでありながら、同時に鋭かった。「君は助けようとして災害を増やす才能がありますね」


「助けてください!」


「今、助けるべき相手が多すぎて順番を考えています」


 アイオンは竪琴を鳴らした。短い音が酒場の中を走り、何人かの酔客の足がもつれた。だが、彼は本気で止めてはいない。騒動を少しだけ曲げ、最悪の刃傷沙汰を避ける程度である。エノクはそれにも気づき、腹が立った。


「面白がってますよね!」


「半分だけです」


「残り半分は?」


「逃げ道を確保しています」


 アリアは四人目の船乗りの顎を肘で打ち、膝で腹を沈め、倒れる男の襟を掴んで床へ転がした。四人全員が、ほとんど剣を抜かれぬまま倒れている。鮮やかすぎて、酒場の客の何人かは拍手していた。だが、騒動は終わらなかった。倒された船乗りたちの仲間が別の卓から立ち上がり、煮込みをかけられた傭兵はエノクへ拳を向け、亭主は怒鳴り、楽師は楽器を抱えて逃げ、酒場全体が喧嘩の鍋になりかけていた。


 アリアはエノクの襟首を掴み、強く引いた。エノクは半分転びながら、彼女のそばへ引き戻される。


「あんた、何しに来たの」


「助けようと」


「誰を」


「あなたを」


 アリアは本気で呆れた顔をした。


「あたしが、あんたに助けを求めた?」


「求めては、ないけど」


「じゃあ邪魔。助けたいなら、まず自分の足くらい守りなさい」


 言葉が刺さった。ティンカーベルが低く言う。


「正しい」


「今、味方してくれないの?」


「正しさに味方した」


 傭兵の拳が飛んできた。アリアはエノクの襟を掴んだまま身体を回し、彼を押し下げる。拳はエノクの頭上をかすめ、その腕をアリアの短剣の鞘が下から打った。傭兵が呻く。アリアはその膝を蹴り、卓へ倒した。動きが速すぎて、エノクは自分が避けたのか避けさせられたのか分からなかった。


「立って」


 アリアが言った。


「はい」


「違う、そこじゃない。右足を引く」


「はい」


「返事だけじゃなく動く」


「はい」


「返事が多い!」


 彼女は怒鳴りながら、エノクを生きた荷物のように動かした。ティンカーベルとは違う。ティンカーベルは剣として彼の腕と足を導く。アリアは戦場の中で邪魔な味方を死なせないため、首根っこを掴んで位置を変える。情けなかった。だが、彼女がそうしなければ、エノクは今頃誰かの拳か椅子に潰されていた。


 その時、酒場の入口が開き、港の衛兵たちが踏み込んできた。青黒い革鎧に槍を持ち、胸にはラガル港の竜鱗紋がある。


「やめろ! 誰が騒ぎを起こした!」


 酒場中の指が、ほぼ同時に三方向を指した。倒れている船乗りたち、中央に立つアリア、そしてなぜか皿と煮込みまみれのエノクである。エノクは慌てて手を振った。


「僕は、ええと、止めようとして」


「止めようとして店を壊したのか」


 衛兵の一人が床の惨状を見た。割れた杯、倒れた椅子、裂けた卓布、煮込みの湖、伸びている船乗り、呻く傭兵。どう見ても言い訳が難しい。


 アリアは短く息を吐き、双剣を完全に鞘へ戻した。


「絡んできたのは向こうよ」


 衛兵は倒れた船乗りを見た。「こいつらはラガル商船組合の船員だ」


「だから何」


「組合船の船員を四人も潰せば、明日の荷役に穴が空く」


「手を出したのはあいつら」


「証人は?」


 アリアが周囲を見た。先ほどまで笑い、賭け、拍手していた客たちは、急に杯の底を見たり、壁の看板を読んだり、煮込みの味を確かめたりし始めた。港の酒場では、面白い喧嘩は見るが、証人にはならないらしい。


 アイオンが帽子を取って一歩出た。


「私が見ておりました。実に芸術的な自業自得でしたよ」


「アイオンか」


 衛兵の顔がさらに険しくなる。「またお前か」


「この港でも再会を惜しまれるとは、私は愛されていますね」


「惜しまれてない。お前がいると話がややこしくなる」


「では簡単にしましょう。踊り子に絡んだ船員が床と親しくなり、世間知らずの少年が正義感で卓と親しくなり、傭兵が煮込みと親しくなった。以上です」


「ふざけているのか」


「職能です」


 衛兵はこめかみを押さえた。亭主がそこへ割って入った。


「誰が悪いかは後でいい。店の修理代だ。あんたら、払えるのか」


 アリアは腰の小袋を取り出した。そこには先ほどの舞で得た硬貨が入っている。だが、酒場の損害をまかなえるほどではない。エノクは反射的に背嚢へ手を伸ばしかけ、ティンカーベルが鋭く鳴った。


「宝石を出すな」


「でも」


「今ここで出したら、騒動の値段が一桁増える」


 アイオンが横から言った。「亭主殿、ここは歌で」


「黙れ。床が直る歌なら歌え」


「残念ながら、床は直りません。客は増えます」


「今増えたら困る」


 アリアは苛立ったように髪をかき上げた。舞台の柔らかな顔はもうない。目は鋭く、唇は結ばれ、肩に怒りが残っている。


「分かった。足りない分は後で払う」


「後で戻ってくる踊り子ほど信用ならないものはない」


 亭主が言うと、アリアの目がさらに冷えた。


「逃げると思う?」


「港じゃ、誰でも逃げる」


 衛兵が低く言った。「騒ぎを起こした者は詰所へ来てもらう。商船組合から苦情が出れば、罰金か拘留だ」


 アイオンが素早くエノクの耳元で囁いた。


「拘留は避けたいですね」


「どうして」


「君の荷物と名を調べられます」


 エノクの胸元が冷えた。王家の鍵。ランバードの名。カオスの影。港の詰所で調べられてよいものは、一つもない。


 アリアもまた、衛兵の言葉に明らかに反応した。彼女は詰所へ行きたくない顔をした。単に罰金が嫌なのではない。身元を調べられることを避けたい者の目だった。アイオンはそれを見逃さなかったらしく、笑みを深くする。


「アリアさん」


「何」


「走れますか」


「は?」


「今から、少し」


 次の瞬間、アイオンの竪琴が鳴った。歌ではなく、鋭い不協和音だった。酒場の中の灯火が一斉に揺れ、誰かがくしゃみをし、別の誰かが足を滑らせ、倒れていた船乗りがうめきながら起き上がりかけてまた隣の傭兵へぶつかった。ほんの一瞬だけ、衛兵と亭主と客たちの視線が乱れた。


 アリアは迷わなかった。エノクの襟首を掴んだまま、酒場の裏口へ走った。


「ちょ、待っ」


「黙って走る!」


「僕、自分で走れます!」


「さっき走れてなかった!」


 ティンカーベルが叫ぶ。


「足を動かせ、未熟者。引きずられると首が締まるぞ」


 アイオンは最後に亭主へ銅貨袋を一つ投げた。


「修理代の前金です。残りは私の次の歌の売上から」


「戻ってくるな、嘘歌い!」


「では、歌だけ戻しましょう!」


 裏口を蹴り開けると、そこは魚の匂いが濃い細い路地だった。濡れた石畳、干し網、積まれた樽、夜の港へ続く下り坂。アリアは迷わず走る。エノクは半ば引っ張られ、半ば自分の足で追った。背後で衛兵の怒鳴り声が響く。アイオンは軽い足取りで後ろからついてきて、まるで散歩のように言った。


「実に活気ある初対面ですね」


「誰のせいよ!」


 アリアが怒鳴る。


「最初に絡まれたのはあなたです」


「絡んだのはあいつら。騒ぎを広げたのは、この坊やとあんた!」


「僕も?」


 エノクが息を切らしながら言うと、アリアは振り返らずに答えた。


「助けようとして卓を倒し、傭兵に酒をかけ、あたしの間合いに入って、背嚢を掴まれて、衛兵に顔を覚えられた。十分すぎるでしょ」


「返す言葉がない」


「返さなくていいから走りなさい」


 港の路地は複雑だった。アイオンが曲がり角を指示し、アリアが先頭で邪魔な木箱を飛び越え、エノクはそれに続こうとして足を引っかけ、ティンカーベルに罵倒されながらどうにか転ばずに済んだ。途中で魚籠を抱えた老人に怒鳴られ、眠っていた犬に吠えられ、洗濯紐をくぐり、湿った階段を駆け上がる。衛兵の足音はしばらく追ってきたが、アイオンが路地の角で短い港歌を口ずさむと、別の方向から酔客の喧嘩が始まり、追手の怒鳴り声はそちらへ流れた。


「今、何したんですか」


「港の喧嘩は、火種に少し歌を吹けばよく燃えます」


「最低ですね」


「お褒めにあずかり」


「褒めてない!」


 やがて三人と一本は、港町の外れ、崖沿いの古い荷揚げ道へ出た。夜の海が下に見える。船の灯が遠く揺れ、港の喧騒は背後でまだ唸っている。エノクは膝に手をつき、息を吐いた。船酔いよりはましだが、別の意味で胃が痛い。アリアは少しも息を乱していなかった。アイオンも、腹立たしいほど平然としている。


「説明して」


 アリアは双剣の柄に手を置いたまま、二人を睨んだ。「あんたたち、何者?」


「しがない吟遊詩人と」


 アイオンが言いかけると、アリアは即座に遮った。


「その嘘、いらない」


「手厳しい」


「あんたはさっき、衛兵の前でわざと騒ぎをずらした。歌い手にしては場慣れしすぎ。そっちの坊やは世間知らずのくせに、腰に妙な剣を下げてる。しかもその剣、さっきから喋ってる」


 ティンカーベルが言った。


「妙な剣ではない。由緒ある剣だ」


「口が悪い剣ね」


「見る目はあるようだ」


「褒めてない」


「知っている」


 アリアの視線がエノクへ向いた。


「あんたは?」


「エノクです」


「家名は」


 エノクは一瞬、言葉を詰まらせた。アリアの目が細くなる。まずい、と彼は思った。名を隠す時、胸に手をやらない。呼吸を止めない。だが、もう遅い。アリアはその一瞬を見ていた。


「……家名は、ありません」


「嘘が下手」


 アリアは冷たく言った。


 アイオンが肩をすくめる。「私もそう言ったのですが、本人は努力中です」


「その努力、命に関わるわよ」


 エノクは何も言い返せなかった。アリアの言葉はティンカーベルに似ている。痛いところを遠慮なく突く。だが、ティンカーベルが剣として言うのに対し、アリアの言葉は戦場を知る人間の声だった。


「あなたは、アリアさんですよね」


 エノクが言うと、彼女は少し眉を動かした。


「さんはいらない。気持ち悪い」


「じゃあ、アリア」


「呼び捨てにしていいとも言ってない」


「どうすれば」


「今は喋らなくていい」


 ティンカーベルが小さく笑ったように鳴った。


「気に入った」


「君は黙ってて」


 アイオンは崖の道から港の方を見下ろした。「さて、ラガルにはしばらく戻りにくくなりましたね」


「しばらく?」


 アリアが鋭く言う。「あたしはあの酒場で今夜の宿代を稼ぐ予定だった。あんたたちのおかげで台無しよ」


「絡んできた船乗りを叩き伏せたのは、あなたです」


「あれは必要経費」


「エノクが卓を倒したのも、彼なりの必要経費ということで」


「認めない」


「ですよね」


 エノクは恐る恐る言った。「すみません。助けようとして、余計に」


「そうね」


 アリアは即答した。「余計だった」


「アリア」


「でも」


 彼女は少しだけ視線を逸らした。「絡んできた奴らを止めようとしたことまで、責める気はない。動き方が下手だっただけ」


「下手」


「ひどく下手」


「そこまで」


「剣を抜くなら迷わない。迷うなら抜かない。助けるなら、まず助ける相手が本当に助けを必要としているか見なさい。そうでないと、あんたは守りたい相手の足を踏む」


 エノクは黙った。今日、自分がまさにそれをしたからである。アリアは助けなど必要としていなかった。むしろ、自分が割って入ったせいで、彼女の間合いを乱し、騒ぎを広げた。


 アイオンが珍しく茶化さずに言った。


「よい助言です」


「信用ならない吟遊詩人に褒められても嬉しくない」


「おや、まだ名乗っていませんでしたか。アイオンです。しがない吟遊詩人」


「嘘つきの匂いがする」


「香水より長持ちします」


「嫌いな匂いね」


「そのうち慣れます」


「慣れる前に斬るかも」


「では、慣れる方向で努力します」


 アリアは深く息を吐き、港の灯を睨んだ。怒っているのは間違いない。だが、その怒りの下に、別の焦りがあった。町へ戻れないことが、単に宿代を失った以上の意味を持つようだった。彼女の耳飾りが夜風に揺れる。小さな紋章のような飾りが一瞬だけ灯を受けたが、彼女はすぐ髪で隠した。エノクはそれに気づいたが、何の紋章かまでは分からなかった。


「あなたも、竜骨湖へ?」


 アイオンが何気ない調子で尋ねた。


 アリアの手が、双剣の柄へ近づいた。


「どうしてそう思うの」


「この港で剣舞をしている流れ者が、商船組合の船乗りと揉めても町から離れたがらない。内陸へ向かう商隊の出発掲示を三度見ていた。舞の合間に、竜骨湖方面の傭兵と巡礼者の会話へ耳を向けていた。ついでに、あなたの剣舞にはヴェルナ式の境界足が混じっている。竜骨湖へ向かう理由としては、なかなか十分かと」


 アリアの目が変わった。


「ヴェルナを知ってるの」


 その声は低く、危険だった。アイオンは笑みを薄くした。


「歌で少し」


「その歌、誰に聞いた」


「旅先で」


「嘘」


「はい」


 エノクは二人の間に、先ほどの酒場とは違う緊張が生まれるのを感じた。ヴェルナ。聞いたことのある名だ。港湾貿易と剣舞の祭礼で知られた小王国。数年前に内乱と海賊襲撃で滅んだと、シモンの古い地図の余白に書かれていたかもしれない。だが、なぜアリアがその名にここまで反応するのか。


 アリアは一歩、アイオンへ近づいた。


「あんた、本当に何者」


「嘘つきです」


「それは見れば分かる」


「では、今夜はそこまでで」


「ふざけないで」


 ティンカーベルが低く言った。


「今はやめておけ。港の追手が来る」


 その言葉通り、遠くから衛兵の笛が聞こえた。港の坂道に灯が動いている。どうやら、完全には撒けていなかったらしい。アリアは舌打ちした。


「最悪」


「同感です」


 アイオンは軽く帽子を押さえた。「選択肢は三つ。港へ戻って罰金と身元調べを受ける。ここで衛兵と商船組合の男たちを相手にする。もしくは、今すぐ内陸道へ逃げる」


「逃げるって言い方が嫌い」


 アリアが言う。


「では、戦略的に宿代未払いの港を離れる」


「さらに嫌い」


「では、竜骨湖方面へ予定を早める」


 アリアは港の灯と、崖上の道を見比べた。しばらく迷った後、エノクを睨む。


「あんたたち、竜骨湖へ行くの」


「はい」


「目的は」


 エノクは答えに詰まった。七英雄、竜王ザッハ、カオス、王家の鍵。どれも簡単に言える言葉ではない。


 アイオンが代わりに答えた。


「古い竜王に、古い歌の続きを聞きに」


「相変わらず信用できない答えね」


「信用できないが、嘘だけでもありません」


 アリアは鼻で笑った。


「あたしも、竜骨湖の方へ用がある。途中までは道が同じ。けど勘違いしないで。仲間になる気はない。あんたたちの面倒を見る気もない。特に、そこの世間知らずの坊や」


「エノクです」


「世間知らずのエノク」


「悪化した」


 ティンカーベルが言った。


「正確になったな」


「君まで」


 アリアは崖道の先へ歩き出した。夜の内陸道は暗く、港の灯から離れれば、すぐに荒れた丘と灌木の影が広がる。遠くには竜骨山脈が黒く横たわり、その奥に竜骨湖へ続く道がある。港町から追われるようにして出るには、あまりに不安な道だった。


 アイオンは楽しそうに竪琴を背負い直した。


「いやはや、よい夜です。船を降り、踊り子に会い、店を壊し、衛兵に追われ、竜骨湖への道連れが増える。旅はこうでなくては」


「普通はこうじゃないと思います」


 エノクが言うと、アリアが振り返らずに言った。


「普通を期待してるなら、今すぐ港へ戻りなさい」


「戻ったら捕まります」


「じゃあ歩く」


「はい」


「返事はいい。足を動かす」


 ティンカーベルが満足そうに鳴った。


「やはり気に入った」


「剣に気に入られても嬉しくないわ」


「それも正しい」


 エノクは背嚢を背負い直した。港の灯は背後にある。そこには宿も食事も、まだ払っていない修理代も、怒った亭主も衛兵も商船組合の船乗りたちもいる。前には、新大陸の暗い丘陵と、竜王ザッハへ続くかもしれない道がある。そして、少し先を歩く赤銅色の髪の踊り子は、助けられるどころか、こちらを叱りながら先導していた。


 エノクは思った。外の世界では、助けたい相手が必ずしも助けを求めているとは限らない。剣を抜く前に見なければならないものがあり、善意だけでは人の間合いを乱すこともある。ティンカーベルに剣を使われ、アイオンに嘘を教えられ、今度はアリアに戦場での立ち方を叱られている。情けないほど未熟だった。だが、未熟だと知るたびに、旅は前へ進む。


 港の喧騒が遠ざかる。崖道の下で、夜の海が黒く鳴っていた。新大陸の風は冷たく、竜骨山脈の方からは、土と石と古い血のような匂いがした。アリアはその風の中を迷わず歩く。彼女の双剣が腰でかすかに鳴り、その音は舞の鈴よりずっと硬かった。


 エノクたちは、町を追われるようにして、竜王の大地へ踏み出した。まだ互いを信用してはいない。名も、目的も、傷も隠したままだった。それでも道は同じ方角へ伸びていた。港の踊り子アリアは、怒りと剣の音をまといながら、その道の先頭を歩き始めていた。

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