表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第2部 吟遊詩人と剣舞姫
PR
15/34

第6話_滅びた国の名

 ラガルの港を背にした夜道は、海の匂いを少しずつ失っていった。代わりに、乾いた土、灌木の青臭さ、遠くの岩肌が昼の熱を吐く匂いが濃くなる。背後にはまだ港の灯が揺れていたが、それはもう帰る場所の灯ではなく、追手が動く場所の灯に見えた。崖の下では波が黒く崩れ、上では新大陸の星が荒々しく瞬いている。森の星とも、海の星とも違う。どこか低く、近く、刃の先に触れそうな星空だった。アリアは先頭を歩いていた。赤銅色の髪は戦う時のために高く結われ、酒場で舞っていた時の柔らかな布は短い外套の下にしまわれている。腰の双剣が、歩くたびに硬い音を立てた。その音は鈴ではない。舞台の音ではなく、旅の音だった。


 エノクは少し後ろを歩きながら、何度も彼女の背を見た。酒場では、彼女は剣舞の火そのものだった。今は、夜道に溶け込む刃の影に見える。助けようとして邪魔になったことを思い出すたび、頬が熱くなった。船酔いで吐いた時よりも、恥ずかしさが長く残っている。人を助けたいと思うことと、本当に助けられることの間には、こんなにも距離があるのだと、ようやく分かり始めていた。


「足音」


 アリアが振り返らずに言った。


「え?」


「あんた。足音が大きい。夜道で自分の居場所をばら撒きたいの?」


「すみません」


「謝るより直す。踵から落とさない。土を踏むんじゃなく、土に置く」


 エノクは足を直そうとした。途端に歩き方がぎこちなくなり、小石を踏んでよろけた。ティンカーベルが鞘の中で低く笑う。


「置いた足が土に嫌われたな」


「笑わないで」


「笑ってはいない。嘆いている」


「もっと嫌だ」


 アリアが横目で見た。


「剣にも叱られてるの?」


「だいたい毎日」


「いい剣ね」


「そこは同意できる」


 ティンカーベルが言うと、エノクは少し不満そうに腰を見下ろした。アイオンは最後尾を歩きながら、竪琴の弦を鳴らさずに指で押さえている。音を出さないための癖なのか、それともいつでも鳴らせるようにしているのか分からない。彼は港の方を一度振り返り、軽く肩をすくめた。


「追手はすぐには来ないでしょう。少なくとも、衛兵は詰所の記録を書いてから追います。役所仕事は時に旅人の味方です」


「商船組合の連中は?」


 アリアが問う。


「彼らは怒っていますが、酔いと打撲が勝っています。朝までは本格的に動けない」


「詳しいわね」


「怒った男の足取りと財布の重さを見るのは、吟遊詩人の基本です」


「嘘つきの基本でしょ」


「近い職能です」


 アリアは鼻を鳴らしただけだった。信用していない。エノクもまた、アイオンを完全には信用していない。だが、アイオンがいなければ、港の路地でとっくに捕まっていたかもしれない。それもまた事実だった。旅では、信じるか疑うかだけで人を分けられない。役に立つ嘘つきと、危険な善人と、優しい沈黙と、厳しい剣がいる。エノクには、まだその違いを見分ける目が足りなかった。


 しばらく進むと、崖道は内陸へ折れ、低い丘の陰に古い石積みの小屋が見えた。屋根は半分崩れているが、風を避けるには十分だった。かつて荷運びや巡礼者が使った休憩小屋だろう。入口には竜の鱗を象った古い護符が吊るされている。護符は割れ、紐は朽ちていたが、誰かが最近、そこへ小さな白い布を結び足していた。アリアはその布を見て、ほんの一瞬だけ足を止めた。


「どうしたの」


 エノクが訊くと、彼女はすぐ歩き出した。


「別に」


「今、止まった」


「目がついてるなら、足元にも使いなさい」


 取りつく島もなかった。小屋の中は湿っていたが、港の路地よりはましだった。アイオンが小さな火を起こし、エノクは乾パンと干し肉を出した。アリアは壁際に座り、外套を膝にかけ、双剣をすぐ手の届く位置へ置いた。くつろいでいるように見えて、背中を壁から離さない。入口、窓、崩れた屋根の隙間、すべてを一度見てから座っている。エノクはそれを見て、自分も真似ようとしたが、どこを警戒すればいいのか分からず、結局ティンカーベルに「入口が見える場所に座れ」と言われた。


 火が小さく燃える。外では虫が鳴き、遠くで夜鳥の声がした。港の騒ぎはもう届かない。沈黙が少しだけ落ち着いた頃、アイオンが干し肉をかじりながら言った。


「さて、アリア。あなたは竜骨湖へ向かう。私たちも同じ方角へ向かう。ここで互いの目的を少しだけ交換しておくのは、道中の誤刺傷を防ぐ上で有益かと」


「誤刺傷って何」


 エノクが小声で訊く。


「間違えて刺されることです」


「そんな言葉、普通にあるんですか」


「今作りました」


 アリアはアイオンを睨んだ。


「あたしの目的を聞き出したいだけでしょ」


「もちろん。それを有益と言い換えました」


「正直なのか嘘つきなのか、はっきりしない男ね」


「嘘つきは時々正直を混ぜます。その方が嘘が長持ちする」


「最低」


「よく言われます」


 アリアはしばらく黙っていた。火の明かりが彼女の横顔を照らす。舞台で観客を惹きつけていた柔らかな表情はない。そこにあるのは、若いのにあまりにも多くのものを見てきた顔だった。やがて彼女は、短く言った。


「あたしも魔王を追ってる」


 エノクは息を呑んだ。


「魔王を?」


「正確には、魔王の影と、それに連なる連中。黒い炎、名を奪う魔物、魔王軍の残党、魔王復活で得をする人間。そういうものを追ってる」


「どうして」


 エノクが問うと、アリアの目が鋭くなった。


「どうしても」


「それは、答えじゃ」


「あんたに全部話すほど、あたしたちは仲良くない」


 言葉は冷たかった。エノクは黙るしかなかった。アイオンが間に入るように、軽く竪琴の弦を指で押さえた。


「では、少しだけ。魔王軍に国を焼かれた、とか?」


 アリアの手が双剣の柄へ動いた。空気が一瞬で張り詰める。エノクは思わず身を固くした。アイオンは笑っているが、目だけは笑っていなかった。


「その名前を、軽く出さないで」


 アリアの声は低かった。


「国?」


「滅びた国の名よ」


 彼女は火を見つめた。「港の連中は、すぐ名前を酒の肴にする。内乱で滅びたとか、海賊に食われたとか、王家が愚かだったとか、神に見捨てられたとか。何も知らないくせに、名前だけを拾って笑う。滅びた国の名は、笑い話の題じゃない。そこにいた人間の墓標よ」


 エノクは胸を押さえた。ランバード。その名を酒場で笑われた時の痛みが蘇る。生きてる王子なんて、酒場の歌にちょうどいいだけだと笑った男たち。自分はその時、怒りを飲み込むことしかできなかった。アリアの言葉は、自分の胸の奥にも刺さった。


「あなたの国も、魔王軍に」


 エノクは言いかけて、止まった。彼女の目がそれを許さなかった。


「国を失った」


 アリアは言った。「それだけ」


 王女であることは、言わなかった。王家にいたことも、誰を失ったのかも。だが、「国を失った」と言った時の声は、ただの旅人のものではなかった。城壁の崩れる音、民の叫び、焼けた旗、守れなかった名。それらをすべて喉の奥に押し込めた声だった。


「ヴェルナ、ですか」


 アイオンが静かに言った。


 アリアは今度こそ短剣を半分抜いた。刃が火を映す。


「あんた、どこまで知ってる」


「歌で少し」


「その歌を誰が歌った」


「死にかけた船乗り。嘘つきの傭兵。逃げた神官。港の女将。ついでに、語りたがらない生き残りの目」


「最後のは、今のあたし?」


「半分」


「残り半分は?」


「秘密です」


 アリアは刃を完全には抜かなかった。だが、鞘へ戻すこともしなかった。彼女はアイオンをしばらく見て、それから短剣を戻した。


「ヴェルナの名を、酒場で歌ったら斬る」


「心得ました。歌うなら、あなたのいない場所で」


「いたら斬る。いなくても斬る」


「難易度が高い」


「冗談じゃない」


「分かっています」


 アイオンは珍しく、少しだけ真面目に頷いた。エノクはその様子を見て、アイオンが本当に分かっているのか、また分かったふりをしているのか判断できなかった。だが、アリアの方は、それ以上詰めなかった。


 沈黙が落ちた。火の中で枝が爆ぜる。エノクは自分の手を見た。指はまだ若く、剣だこも薄い。父や母の死を覚えていない。国が滅びた夜を知らない。森で育ち、名を呼ばれ、道具たちに囲まれて生きてきた。自分も滅びた国の王子だと知らされた。だが、その滅びを目で見たわけではない。アリアは違う。彼女は見たのだ。たぶん、剣を握ったまま、何かを守れずに。


「エノク」


 アリアが急に名を呼んだ。


「はい」


「昨日、あんたはあたしを助けようとした」


「……はい」


「あれは甘さよ」


 エノクは唇を噛んだ。「分かってます。邪魔になった」


「邪魔になったことだけじゃない。あんたは、何が起きているか見ないまま、自分が助ける側だと決めた。相手の強さも、敵の数も、店の出口も、周りの客も、衛兵が来た時のことも見ていない。ただ、女が絡まれている、助けなきゃ、で動いた」


「それは、悪いことですか」


「悪いとは言ってない。危ないと言ってるの」


 アリアの声は鋭いが、ただ責めるだけではなかった。切るべきところを切り、残すべきところを残そうとしている。


「あんたの善意は、今のままだと人を巻き込む。あたしが一人で片づけられた場に、あんたが入ってきたせいで、傭兵も亭主も衛兵も巻き込んだ。あんたが守りたかった相手を、余計な危険にさらした。助けるっていうのは、前に出ることだけじゃない。見ること。待つこと。退くこと。必要なら、自分が悪者になることも含む」


 エノクは何も言えなかった。森で彼が学んだ優しさは、壊れたものを直すこと、名を呼ぶこと、迷った道具を待つことだった。だが、外の世界の争いは、優しさだけでは形にならない。戦いの最中に間合いを乱せば、優しさは刃より危険になる。


 ティンカーベルが静かに言った。


「聞いておけ。こいつは正しい」


「君も、同じことを言うんだね」


「私は何度も言っている。お前が聞く耳を持っただけだ」


 アリアはエノクの腰の剣を見た。


「その剣、抜いたことはあるんでしょ」


「あります」


「魔物を斬った?」


「名喰いと、海魔を少し。ほとんど、ティンカーベルに動かされて」


「人は?」


 エノクは黙った。


「ないのね」


「ありません」


「じゃあ、分かってない」


 アリアは自分の双剣の片方、祖国から持ち出した細剣の柄に触れた。表情が少しだけ陰る。


「人に向かって剣を抜くっていうのは、相手を止めることじゃない。相手の血を流すかもしれないってこと。相手の手を使えなくするかもしれない。息を止めるかもしれない。相手にも名前があって、腹を空かせて、誰かに憎まれて、誰かに待たれているかもしれない。それでも抜くのが剣よ」


 エノクの喉が乾いた。


「でも、悪い人だったら」


「悪い人なら斬って軽くなるの?」


 アリアは即座に返した。「酔って踊り子に絡む男にも、明日の荷役を待つ船がある。盗賊にも、飢えた妹がいるかもしれない。魔王軍の兵にも、故郷の名があるかもしれない。だから斬るな、とは言わない。斬らなきゃ守れない時はある。でも、剣を抜くなら、その重さを知って抜きなさい。『助けたい』だけで抜く剣は、いつか守りたいものまで斬る」


 火が小さく揺れた。エノクは胸元の守り石に触れた。母が残した石。王家の鍵。ランバードの名。もし自分が剣を抜けば、その剣は自分一人のものではない。森で呼ばれた名、滅びた王国の名、託された者たちの名も、どこかで刃に乗る。そう思った瞬間、ティンカーベルの重さが変わった気がした。


「重い?」


 ティンカーベルが問うた。


「うん」


「ようやくか」


「君は、ずっと重かった?」


「当たり前だ。剣は軽く作られていても、抜かれた瞬間に重くなる」


「どうして今まで言わなかったの」


「言葉で言っても、お前は分かった顔をするだけだった」


 エノクはうつむいた。分かった顔。たしかに、何度もしてきた。シモンの言葉にも、ティンカーベルの叱責にも、アイオンの忠告にも。分かったつもりで、まだ何も知らなかった。


 その時、外で石が転がる音がした。


 アリアが一瞬で立った。双剣の柄に手がかかる。アイオンも竪琴へ手を伸ばす。エノクは遅れて立ち上がった。ティンカーベルが短く言う。


「三人。いや、四人。港の追手ではない。足音が軽い」


 小屋の外、闇の中から声がした。


「火を貸してくれないか」


 若い男の声だった。疲れているようで、敵意は薄い。エノクは入口へ向かおうとしたが、アリアが腕で止めた。


「待つ」


「でも」


「今、話したばかりでしょ。見なさい」


 エノクは息を呑み、入口の陰から外を見た。月明かりの下に、旅人が三人立っていた。いや、四人目は木の陰にいる。粗末な外套、革の帽子、背には荷。商人にも巡礼者にも見える。だが、足の位置がおかしい。火を借りに来た者なら、もっと正面から近づく。彼らは小屋の入口を囲むように散っていた。


 アイオンが小さく囁く。


「追い剥ぎですね。港の衛兵より働き者です」


「何で分かるんですか」


「火を借りる者は、火種を入れる器を先に見せます。彼らは手を空けている。空けた手で何かを掴むためです」


 外の男がまた言った。


「聞こえてるんだろ。火を少し分けてくれ。夜道で連れが冷えてる」


 アリアは低く答えた。


「火なら、そこに枯れ枝がある。自分で起こしなさい」


「火打石をなくした」


「なら港へ戻れ」


「冷たい女だな」


 声の調子が変わった。穏やかな旅人の声から、獲物を前にした男の声へ。木陰の四人目が動く。短弓を持っていた。


 エノクの身体が強張る。相手は魔物ではない。人間だ。だが、彼らは襲うつもりで来ている。もしここで剣を抜けば、人へ向けることになる。アリアの言葉がまだ耳の奥にある。相手にも名前があるかもしれない。それでも、抜かねばならない時がある。


「エノク」


 アリアが言った。「剣を抜くなら、今は人を斬るためじゃない。入口を守るため。あんたは前に出ない。抜いたら、そこから一歩も動かない。分かった?」


「分かった」


「分かった顔じゃなく、足で分かれ」


「はい」


 エノクはティンカーベルの柄を握った。手が少し震えた。


「抜け」


 ティンカーベルが言った。


 エノクは剣を抜いた。銀の刃が小屋の火を受ける。これまでと違う重さが腕に来た。刃の先にいるのが、黒い魔物ではなく人間だからだ。息が浅くなる。だが、彼はアリアに言われた通り、入口の横に立った。前へ出ない。守る場所を決める。剣を構える。ティンカーベルが微かに重心を整えたが、今回は無理に腕を引かなかった。


「いい。動くな」


 アリアはそう言うと、入口から外へ出た。まるで舞台へ出るように自然だった。だが、観客を魅せるためではない。敵の視線を自分へ集めるためだ。


「最後に聞くわ。行くなら見逃す」


 男たちは笑った。


「踊り子ひとりと、腰の引けた坊やと、楽師がひとり。荷を置いていけば、怪我はさせねえ」


「交渉が下手ね」


「何?」


「相手の力量を見ない追い剥ぎは、長生きしないってこと」


 短弓が鳴った。矢はアリアを狙った。だが彼女はすでに動いていた。身をひねり、矢を外し、同時に短剣を抜いて投げる。刃ではなく柄の部分が弓持ちの手首を打ち、弓が落ちた。次の男が小屋へ飛び込もうとする。エノクは息を呑んだ。


「入口」


 ティンカーベルが言う。


 エノクは剣を横に構えた。男はその刃を見て、一瞬足を止めた。殺意を込めて斬りかかるのではなく、通さないための刃。それでも刃は刃だった。男が強引に踏み込めば、腕か胸を斬る位置にある。男の目が揺れた。


「どけ、小僧」


 エノクは口を開いた。声が震えたが、言った。


「通さない」


「斬れるのか」


 男が嘲る。エノクは答えられなかった。斬れる、と言えば嘘になる。斬れない、と言えば剣を構える意味がない。彼はティンカーベルを握りしめた。


 剣が低く言った。


「斬ると決めるな。守ると決めろ。相手が入れば、結果として斬れる」


 エノクは息を吸った。


「ここは通さない」


 男が踏み込んだ。瞬間、ティンカーベルが刃の角度をわずかに変えた。エノクは自分の足で半歩だけ引き、刃の腹で男の短剣を受け流した。金属が鳴る。男の手首が開く。エノクは反射的に斬り返しそうになり、止めた。代わりに柄頭で男の肩を打つ。男は呻いて膝をついた。


「今、止めたな」


 ティンカーベルが言った。


「止めちゃ駄目だった?」


「場合による。今は、悪くない」


 エノクは息を吐く暇もなく、二人目に向き直った。外ではアリアがすでに二人を地面へ伏せさせていた。双剣は抜いているが、刃は急所を外している。手首、膝裏、肘、腹。動きを止める場所を正確に打っていた。だが、その動きにはためらいがない。斬るか斬らないかを迷っていない。斬らずに止めると決めたから、そう動けるのだ。


 アイオンは竪琴を一音だけ鳴らし、逃げようとした男の足をもつれさせた。男は顔から土へ倒れた。


「今夜は床ではなく土と親しくなりましたね」


「ふざけるな」


「命があるだけ詩的です」


 短い争いは、すぐに終わった。追い剥ぎたちは縛られ、小屋の外に転がされた。アリアは彼らの荷を調べ、奪われたものらしい小袋や旅札を取り出して顔をしかめた。


「他にもやってる」


「港道に出る追い剥ぎですね」


 アイオンが言った。「衛兵に渡せば、こちらの騒動まで蒸し返されます。放置すれば、また誰かを襲う」


「武器を捨てる。靴紐を切る。夜明けまで動けないよう縛る。水は置く」


 アリアは迷わず言った。


「甘い?」


 エノクが問うと、アリアは彼を見た。


「殺す理由がない」


「でも、また」


「だから武器と足を奪う。殺すか逃がすかだけが選択肢じゃない。覚えなさい」


 エノクは頷いた。剣を鞘へ戻す時、手が震えていた。人を斬らなかった。だが、剣を抜いた。相手が踏み込めば、本当に斬るところだった。刃を向けるとは、その可能性を場に置くことなのだと知った。相手もそれを感じたから、止まった。自分の覚悟が足りなければ、剣はただの飾りになる。覚悟が行きすぎれば、人を殺す。ちょうどよい場所など、戦いの中では誰も教えてくれない。だからこそ、アリアは迷うなと言ったのだ。


 火のそばへ戻ると、エノクは座り込んだ。全身から力が抜ける。アリアはその様子を見て、少しだけ声を和らげた。


「吐きそう?」


「船よりは、まし」


「なら平気ね」


「基準が厳しい」


「生きてるなら平気。傷は後で見る」


 彼女はそう言いながら、自分の腕の小さな切り傷へ布を巻いた。エノクはそれに気づく。


「怪我」


「かすり傷」


「手当てを」


「あんた、自分の手を見なさい」


 言われて見ると、エノクの掌も擦れて血が滲んでいた。柄を強く握りすぎたらしい。ティンカーベルが呆れたように言う。


「剣より先に自分の手を潰す気か」


「気づかなかった」


「それが未熟だ」


 アリアは小さな包帯を投げてよこした。


「巻きなさい」


「ありがとう」


「礼を言う前に巻く」


「はい」


 エノクが不器用に包帯を巻いていると、アリアが火を見たまま言った。


「あたしが魔王を追うのは、復讐だけじゃない」


 エノクは手を止めた。


「復讐だけじゃ、ない?」


「復讐はある。否定しない。国を焼いた連中、黒い炎を持ち込んだ奴、内側から門を開けた人間、笑って逃げた連中。見つけたら斬りたいと思ってる」


 彼女の声は静かだった。静かな分、熱が深い。


「でも、それだけで剣を振ってたら、あたしはたぶん、あいつらと同じになる。だから、理由を増やしてる。二度と同じことを起こさせない。国の名を笑い話にさせない。守れなかった人たちの名を、ただの滅亡記録にしない。そういう理由を、無理やりでも剣に乗せてる」


「重くないですか」


「重いわよ」


 アリアは即答した。「でも、軽い剣で国は守れない」


 エノクは胸元の鍵に触れた。軽い剣で国は守れない。軽い覚悟で名は背負えない。だが、重すぎるものを背負えば潰れる。シモンは、まず知れと言った。アリアは、重さを知れと言った。どちらも同じ場所へ続いているのかもしれない。


「僕も」


 エノクは小さく言った。「国を失ってる」


 アリアの目が動いた。


「ランバード」


 アイオンが低く呟くように言った。エノクは驚いて彼を見た。アイオンは火を見ている。まるで最初から知っていたように。


 アリアは息を止めた。


「ランバードって、あの」


「僕は、覚えてない」


 エノクは言葉を探した。「赤ん坊だったから。父さんも母さんも、国も、燃えた城も知らない。最近まで、自分が何者かも知らなかった。だから、あなたみたいに怒る資格があるのか分からない。ただ、滅びた国の名を笑われた時、嫌だった。胸が痛かった。何も覚えてないのに」


 アリアはしばらく黙っていた。火の向こうで、彼女の目が少しだけ揺れた。彼女は王女だとは言わない。だが、滅びた国を持つ者として、その痛みを否定しなかった。


「覚えてなくても、あんたの名に繋がってるなら痛むんでしょ」


「たぶん」


「なら、それでいい」


「それでいいの?」


「資格なんて、誰かに貰うものじゃない。国を失った痛みは、記憶の量で決まるわけじゃない。あんたはあんたの形で背負えばいい。ただし」


 アリアは鋭く続けた。


「背負ってるからって、無茶をしていい理由にはならない。ランバードの名で死に急ぐなら、あたしは止める。場合によっては殴る」


「殴るんですか」


「必要なら蹴る」


 ティンカーベルが満足そうに鳴った。


「やはり気に入った」


 アイオンは小さく笑った。「滅びた国同士、なかなか重い自己紹介になりましたね」


「茶化すなら斬る」


 アリアとティンカーベルの声が重なった。アイオンは両手を上げる。


「黙ります。少しだけ」


「少しだけか」


「長く黙ると死ぬ体質でして」


 その軽口で、張りつめた空気がわずかに緩んだ。だが、完全には戻らない。戻らなくてよかった。エノクは、戻してはいけないものを聞いた気がした。


 夜明け前、追い剥ぎたちの縄を確認し、武器を遠くへ投げ、最低限の水を置いて、一行は小屋を離れた。アリアは何も言わず先頭へ立つ。エノクはその少し後ろを歩いた。今度は足音を抑えようと意識する。相変わらずぎこちないが、昨夜よりは少しだけましだった。


 東の空が白み始める頃、丘の上へ出た。そこから先には、内陸へ続く乾いた道が見えた。遠く、山脈の裾野へ向かって細い煙が上がっている。最初は朝餉の煙かと思った。だが、色が違った。灰色ではない。赤黒い筋を含んだ、嫌な煙だった。


 アリアが足を止めた。


「何、あれ」


 エノクが問う。胸元の鍵が、かすかに熱を持った。ティンカーベルが低く言う。


「黒い炎の残り香だ」


 アイオンの顔からも笑みが消えた。


「道沿いの村が、ひとつあります」


「村?」


「ええ。名は、たしかミルファ。小さな農村です」


 アリアは双剣の柄を握った。怒りではない。警戒でもない。もっと深い、知っている痛みに触れた者の手つきだった。


「行くわよ」


 彼女は言った。


 エノクは頷いた。怖かった。昨夜、人へ向けて剣を抜く重さを知ったばかりだ。次に待つものが何か分からない。黒い炎。名を奪うもの。滅びた国の名を持つ三人と一本は、まだ朝の光が届ききらない道を、赤黒い煙の上がる村へ向かって歩き出した。


 エノクの腰で、ティンカーベルは静かに重かった。剣は鞘に収まっている。だが、もうただの旅の道具ではなかった。抜くことの重さを知った刃は、鞘の中でも確かに彼へ問いかけていた。次に抜く時、お前は何を守り、何を斬るのかと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ