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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第2部 吟遊詩人と剣舞姫
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第7話_黒い炎の村

 朝の光が丘陵を越えても、赤黒い煙は消えなかった。普通の火ならば、夜明けの湿り気に押され、灰色になり、やがて細くほどけていく。だが、前方の村から立ち上る煙は違っていた。黒を芯に持ち、縁だけが鈍い赤に滲み、風を受けても真上へ昇らず、地面の近くを這うように広がっていた。焦げた木の匂いは薄い。代わりに、もっと嫌なものが鼻の奥を刺した。焼けた紙、濡れた土、古い血、そして、誰かの呼び声が途中で千切れたような匂い。エノクは胸元の鍵を押さえた。小さな金属片は、熱というよりも鼓動に近い震えを返している。遠い王都の夜、森を裂いた刺客、海面に映った赤黒い星。そのすべてと同じものが、この煙の奥にある。


「近いな」


 ティンカーベルが言った。いつもの皮肉はなかった。


「黒い炎?」


「その残り香だ。完全な炎ではない。触れたものを焼き尽くすほど濃くはないが、名を曇らせるには十分だ」


 アリアは双剣の柄に手を置いたまま、煙の方を睨んでいた。昨夜、滅びた国の名を語った時の声が、まだ彼女の周囲に残っている。彼女は村を見ているのではない。かつて自分が見た別の炎を見ているのだと、エノクには分かった。アイオンはいつものように軽い歩調で進んでいたが、口元の笑みは薄く、竪琴の弦に触れる指も鳴らすためではなく、いつでも音を止めるために置かれているようだった。


「村の名はミルファと言いましたね」


 エノクが言うと、アイオンは頷いた。


「ええ。小さな農村です。ラガルへ麦と乾豆を運び、竜骨湖へ向かう巡礼者に水を売る。昔から大きな戦には関わらず、地図の端に小さく書かれるだけの村です」


「それでも、名前がある」


 エノクの声は自分でも思ったより低かった。


「ええ」


 アイオンは短く答えた。「小さく書かれる名ほど、消された時に気づかれにくい」


 道は黒く濡れていた。雨は降っていない。なのに土は湿り、踏むと靴底に重く絡みついた。草の葉は先だけが焦げ、焦げた部分には灰ではなく、薄い黒い膜が張っている。近くの小川は流れていたが、水面に映る空がどこかおかしい。青ではなく、少し赤い。水を覗き込んだエノクは、自分の顔の輪郭が一瞬ぼやけるのを見て、慌てて離れた。


「見るな」


 ティンカーベルが鋭く言った。「あの水は、映したものの形を忘れかけている」


「水が?」


「黒い炎は、木や肉だけを焼くわけではない。名前、形、役目、帰る道。そういうものの縁を焦がす」


 エノクは喉を鳴らした。村へ近づくほど、音が減っていく。鳥が鳴かない。犬も吠えない。風はあるのに、乾いた麦の穂が揺れる音だけが聞こえない。まるで村の周りだけ、世界が聞くことを少しやめているようだった。


 ミルファの入口には、木の門があった。いや、門だったものがあった。両脇の柱は焼け残り、上に渡された板も形を留めている。だが、そこに刻まれていたはずの村名が消えていた。削られたのではない。焦げたのでもない。文字のあった場所だけが、最初から何も刻まれていなかったように滑らかになっている。エノクはその板を見上げ、息を呑んだ。


「村の名が」


「消えている」


 アイオンが言った。「土地の名を削るとは、悪趣味にもほどがありますね」


「カオスの仕業?」


「カオスそのものではないでしょう。影、あるいはその火を運んだ者。ですが、性質は同じです」


 アリアは門の下へ進み、膝をついて土を触った。指先に黒い粉がつく。彼女はそれを嗅がず、すぐに布で拭った。


「焼かれたのは昨夜じゃない。二、三日は経ってる」


「詳しいんですね」


 エノクが言うと、アリアは一瞬だけ目を伏せた。


「嫌でも覚える」


 それ以上、彼女は語らなかった。


 村の中へ入ると、エノクは最初、誰もいないのだと思った。家々は半ば焼け、井戸の屋根は崩れ、広場の麦干し台は黒く変色している。窓は割れ、扉は開いたまま、家畜小屋には何もいない。だが、しばらく進むと、人影が見えた。女が一人、焼けた家の前で壺を抱えて立っている。年は三十ほどだろうか。顔は煤で汚れ、髪はほつれ、足元には割れた椀が落ちていた。彼女はエノクたちを見ても逃げず、驚きもしなかった。ただ、壺の中を覗き込み、かすれた声で言った。


「水を、汲まないと」


 壺は割れていた。底が抜けている。水を汲んでも、すべてこぼれるだろう。


 エノクは近づこうとした。アリアの手がそれを止める。


「急に触らない」


「でも」


「見なさい」


 女は壺を抱えたまま、井戸へ向かって歩いた。井戸の縄は焼け落ち、桶はない。それでも彼女は、壺を井戸の縁に差し出し、何も入らない壺を抱えて戻る。戻った先には、誰もいない家。彼女は空の壺をかまどの横に置き、割れた椀を並べ、それからまた呟いた。


「水を、汲まないと」


 エノクの背筋が冷えた。


「生きているんですか」


「生きてはいる」


 アイオンの声は重かった。「けれど、自分が誰で、誰のために水を汲んでいたかを失っている」


 ティンカーベルが低く言った。


「名を焼かれた者だ」


 エノクは女へ声をかけた。


「あの、あなたの名前は」


 女はゆっくりこちらを見た。瞳は濁っていない。だが、その奥に自分を支えるものがない。


「名前」


「はい。あなたの名前を」


 女は考えるように口を動かした。けれど、出てきたのは名ではなかった。


「母」


「え?」


「私は、母。水を汲まないと。子が、喉を」


 彼女はそこで止まった。子、という言葉の先がない。子の名がない。喉が渇いていたのは誰か、椀を並べていた相手は誰か。彼女の中で、そこだけが黒く焼け落ちている。


 エノクは何も言えなかった。アリアが小さく舌打ちした。怒りをどこへ向ければよいか分からない時の音だった。


 村の奥へ進むにつれ、同じような者たちが増えた。老人が焼けた畑で鍬を振るっている。鍬の先は折れており、土ではなく灰を撫でているだけだ。彼は「畑を起こす」と繰り返した。名を訊くと、「畑番」と答えた。家の陰では、小さな男の子が焦げた木片を積んでは崩している。彼は「家を建てる」と言った。名を訊くと、「息子」と答えた。誰の息子かと訊くと、彼は口を開けたまま固まり、やがて泣き出した。だが、その泣き声にも名はなかった。誰に助けを求めればよいかを忘れた子どもの声だった。


 死者もいた。道端に倒れた者。家の中で寄り添うように黒くなった者。逃げようとして村の外れで力尽きた者。だが、死者の顔は不思議と焼け崩れていなかった。輪郭だけが曖昧で、目鼻や手足の線が、朝霧に濡れた墨のように滲んでいる。身体はそこにあるのに、誰であったかが抜け落ちていた。墓を作ろうにも名がない。祈ろうにも名がない。母、父、娘、粉挽き、畑番、羊飼い。役目だけが残り、名が消えている。


「これは」


 エノクはかすれた声で言った。「死んだ後も、帰れないんですか」


 アイオンは答えなかった。アリアも。ティンカーベルが小さく言った。


「名は、魂の帰り道でもある。呼ぶ者がなく、覚える者がなく、自分でも名を失えば、死者は死者である場所へ行けない」


「そんな」


「だから黒い炎は嫌いだ」


 ティンカーベルの声には、珍しく感情があった。怒りか、嫌悪か、昔の記憶か、エノクには分からなかった。


 村の中央には、小さなアルティエルの祠があった。白い翼を彫った石柱、虹色の古い硝子片、小さな鐘。地方の祠らしく質素だが、大切に手入れされていたのだろう。周囲には季節の花を植えた跡があり、石畳はよく掃かれていた。だが、今はその祠も黒く煤け、白い翼の片方が欠けている。鐘は割れて、地面に落ちていた。


 その祠の前に、少女がいた。


 最初は祈っているのかと思った。白を基調とした神官服を着ている。だが、その白は泥と煤で灰色に汚れ、裾は裂け、袖には乾いた血がついていた。淡い金とも銀茶ともつかぬ髪は一つにまとめられているが、ほつれた髪が頬に張りついている。体格は華奢で、長い旅や戦に慣れた者には見えない。けれど彼女は祠の前に膝をつき、震える手で一枚一枚、木札に文字を書いていた。そばには、割れた壺、焦げた布、焼け残った家族帳の断片、煤けた子どもの靴、錆びた指輪、名札の欠片が並べられている。少女はそれらを前にしながら、泣き腫らした目で、しかし手だけは止めずに書き続けていた。


「……粉挽きの老人。名、不明。右手に麦粉の痕。家族帳、焼失。近隣証言なし」


 彼女は小さく声に出しながら書いた。声に出さなければ、文字が消えてしまうと恐れているようだった。


「井戸番の少年。名、不明。左足に古い傷。壺の破片を握っていた。母の名、不明」


 ペン先が震える。彼女は唇を噛み、涙をこらえた。だが、涙は落ちた。木札に滲む前に、彼女は慌てて袖で拭った。


「……ごめんなさい。違います。井戸番ではなく、井戸へ走った子。まだ、役目で呼んではいけない。名を、探します。必ず」


 エノクは立ち尽くした。村に入ってから、多くの死者と名を失った人々を見た。だが、この少女だけは、死者を数えていなかった。何人死んだかではない。誰が失われたのかを、必死に拾おうとしている。名が分からなくても、「名不明」と書くことさえ苦しんでいる。名がないまま記録することを、敗北のように感じているのだ。


 少女は気配に気づき、顔を上げた。瞳は淡い青緑だった。疲れ切っているのに、その奥には白銀に近い小さな光が揺れている。彼女はエノクたちを見て、立ち上がろうとし、ふらついた。エノクが支えようと一歩出る。今度は、アリアに止められるより先に、彼自身が止まった。相手が助けを必要としているかを見る。そう言われたばかりだった。


 少女は自分で膝に力を入れ、祠の石柱に手をついて立った。


「旅の方、ですか」


 声は柔らかく、疲れていた。それでも、礼を失っていなかった。


「はい。僕はエノクです」


 名を名乗ってから、エノクは少しだけ驚いた。彼はこの村に入って初めて、ためらわずに名を言った。ここでは、名を隠すことが罪のように感じられたのだ。


 少女は小さく頭を下げた。


「私はイリスです。アルティエル神殿の見習い神官です」


 イリス。その名を聞いた瞬間、エノクの胸元の守り石が、ほんのわずかに温もった気がした。鍵ではない。母の石の方だった。彼は思わず胸を押さえかけ、アイオンに言われたことを思い出して手を止めた。イリスはその小さな動きには気づかなかったようだった。彼女の目は、エノクたちの背後、村の道へ向いている。


「あなたたちは、村の外から来たのですね。誰か、生きている人に会いましたか。名前を覚えている人はいましたか」


 質問が先だった。自分が何者かを説明するより、村人の名を知ることが先だった。エノクは首を振るしかなかった。


「母、と言う人がいました。畑番と言う老人も。子どもは、息子と」


 イリスの表情が痛みに歪んだ。彼女はそれでも木札を手に取り、すぐに書こうとした。


「場所は」


「入口から右の家。壺を持った女の人。井戸と家を行き来していました」


「壺……底の抜けた、赤い模様の壺ですか」


「はい」


「その家なら、家族帳の焼け残りがありました」


 イリスは震える指で木札の束を探した。一枚を取り出す。そこには、煤で黒くなった紙片が挟まれていた。


「……ミナ、か、ミレナ。最後の字が焼けています。夫の名は、たぶんオルク。子の名は、リウ。けれど、確かめる人がいなくて」


 彼女は立ち上がろうとした。足元がふらつく。


「案内してください」


「今ですか」


「はい。まだ呼べるかもしれません」


 アリアが口を挟んだ。


「あんた、休んでないでしょ」


「後で休みます」


「その『後』が来る前に倒れるわよ」


「倒れても、名前が消えるよりは」


「倒れたら誰が書くの」


 アリアの声は厳しかった。だが、イリスは怯えなかった。ただ一瞬だけ目を伏せた。


「……そう、ですね。ごめんなさい」


「謝るより、水を飲みなさい」


 アリアは自分の水袋を差し出した。イリスは戸惑ったようにそれを受け取り、一口だけ飲んだ。二口目を遠慮しようとしたところで、アリアが睨む。


「飲む」


「はい」


 エノクはそのやり取りを見て、少しだけ胸が温かくなった。アリアの厳しさは、斬るためだけのものではない。生きている者を倒れさせないためにも向けられる。


 アイオンは祠の周囲を見ながら、静かに言った。


「イリスさん。ここを襲ったものを見ましたか」


 イリスは水袋を返し、表情を引き締めた。


「全部は。私は隣の巡礼小屋にいました。夜明け前、村の鐘が鳴って、外へ出たら、黒い火が村のあちこちで燃えていました。普通の火ではありません。水をかけても消えず、木を焼いているのに熱が少なくて、人の影だけが先に崩れていくような火でした。黒い外套の人影が、二つ、三つ。魔族か、人間かは分かりません。村の人たちは逃げようとして、途中で自分の名前を忘れて、家族の名前を忘れて」


 彼女の声が震えた。


「私は、治癒と結界を使いました。でも、うまく届きませんでした。傷は塞げるのに、名前が戻らない。呼ぼうとしても、私が名を知らないから。神殿で習った祈りの言葉を唱えても、黒い火は少ししか退いてくれませんでした。鐘を鳴らして、村の人たちを祠へ集めようとして、でも、鐘が割れて」


 彼女は割れた鐘を見た。


「それから、名前が聞こえなくなりました」


 エノクは何も言えなかった。イリスは自分を責めている。だが、彼女が何をできたというのだろう。見習い神官一人で、黒い炎に焼かれる村を救えるはずがない。それでも、彼女は「救えなかった」と思っている。エノクは、その痛みに見覚えがあった。自分がいなければ森が襲われなかったのではないかと思った時の痛み。アリアが国を失った時に抱いたであろう痛み。救えなかった者は、いつも自分の手の小ささを責める。


「イリス」


 アリアが言った。「あんたのせいじゃない」


 イリスは首を振った。


「そう言ってもらえることは、ありがたいです。でも、私が何もできなかったことは、変わりません」


「できなかったことと、あんたのせいで起きたことは違う」


 アリアの声は、昨夜エノクを叱った時と同じだった。厳しく、痛いほど正しい。


 イリスは少し驚いたようにアリアを見た。それから、小さく頷いた。


「はい。……でも、できなかったことを忘れたくないんです」


 その言葉に、エノクは強く胸を打たれた。できなかったことを忘れない。救えなかった者を、なかったことにしない。イリスの前に並ぶ木札は、ただの記録ではなかった。彼女が自分の無力さから目を背けないための祈りであり、名を失った者たちへの最後の橋だった。


「案内します」


 エノクは言った。「壺の人のところへ」


「ありがとう、エノクさん」


 さん、と呼ばれたことに彼は少し戸惑った。旅の中で、アリアには世間知らずと呼ばれ、ティンカーベルには未熟者と呼ばれ、アイオンには青玉の坊やだの森のエノクだの呼ばれてきた。イリスの「エノクさん」は、柔らかく、けれど名を丁寧に扱う響きがあった。


 一行は、入口近くの家へ戻った。壺を持つ女はまだ同じ動きを繰り返していた。井戸へ行き、空の壺を抱え、かまどへ戻る。イリスは彼女の前に膝をついた。距離を詰めすぎず、急に触れず、まず目線を合わせた。


「あなたの名前を、探しています」


 女はぼんやりとイリスを見た。


「水を」


「はい。水を汲もうとしていたのですね。誰のために?」


「子が」


「その子の名前は、リウですか」


 女の指が、壺の縁で止まった。


「リ……」


 空気がわずかに震えた。エノクの胸元の守り石が、また温もった。イリスは木札を握りしめる。


「リウ。あなたの子の名前は、リウですか」


「リウ」


 女の目に、初めて焦点が戻った。壺を抱く腕が震える。


「リウが、喉を。水を。私は、私は」


 イリスは息を呑みながら、続けた。


「あなたの名前は、ミナですか。ミレナですか」


 女は顔を歪めた。思い出そうとしている。だが、黒い炎に焼かれた名は簡単には戻らない。彼女の口は何度も開き、閉じる。やがて、かすれた声が漏れた。


「ミ……レ、ナ」


 その瞬間、家の奥で何かが鳴った。割れた椀が、かすかに揺れる。かまどの横、煤けた壁際に、小さな影が立っていた。男の子の影だった。昼間の光の中でも透けて見えるほど薄く、輪郭は曖昧で、顔はよく分からない。だが、彼は母の方を見ていた。


「リウ」


 ミレナが言った。今度は、はっきりと名だった。


 影は少しだけ笑ったように見えた。声は聞こえなかった。ただ、かまどの上に残っていた黒い煤が、ふっと薄くなった。イリスは泣きながら祈りの言葉を唱えた。だが、その祈りは神殿で教わる定型句だけではなかった。


「ミレナ。リウ。あなたたちの名を、ここに記します。水を汲もうとした母と、その水を待っていた子としてではなく、ミレナとリウとして」


 彼女の手元の木札が、淡い白銀の光を帯びた。エノクは息を止めた。光は強くない。魔王を退ける聖なる閃光ではない。雨上がりの雲間にかかる細い虹のような光だった。だが、その光に触れた瞬間、リウの影は黒い煙ではなく、薄い朝霧のようにほどけた。消えたのではない。帰るべき場所へ向かったのだと、なぜか分かった。


 ミレナは壺を落とした。割れた壺は、もう水を汲む役目を果たせない。彼女はその場に崩れ、声を上げて泣いた。ようやく泣けたのだ。子の名を思い出したから。自分の名を取り戻したから。失ったものが何であるかを、思い出してしまったから。


 エノクは立ち尽くした。イリスは泣いているミレナのそばに座り、何も言わずに寄り添った。慰めの言葉を急がない。ただ、彼女の名を小さく呼び続ける。


「ミレナさん。ミレナさん」


 その声に、エノクは強く惹かれた。恋のような甘さではない。もっと根に近いものだった。彼が森で育てられた理由。シモンが道具にも名を呼んだ理由。アルティエルがアベルの名を呼び戻したという古い神話。エノクが守りたいものは、剣で敵を斬ることだけではない。名を失う者を、名のあるものとして世界につなぎ留めること。イリスはそれを、震える手でしていた。


 アリアも黙っていた。彼女はミレナとリウのいた家を見つめている。その目には怒りがあったが、今は剣を抜く怒りではない。名を奪った者を許さない怒りだった。アイオンは少し離れた場所で、帽子のつばを下げていた。彼の表情は見えない。ただ、竪琴の弦に置かれた指が、かすかに震えていた。


「イリスさん」


 エノクはしばらくして言った。「ほかにも、名を探している人がいるんですね」


 イリスは涙を拭い、頷いた。


「はい。まだ、たくさん」


「手伝わせてください」


 イリスは驚いたように彼を見た。


「でも、旅の方でしょう。危険です。この村には、まだ黒い炎の残りが」


「だからです」


 エノクは言った。自分でも、声が少し変わったと感じた。


「僕たちは、黒い炎を追っています。魔王の影も。竜王ザッハに会うために来ました。でも、この村を見て、そのまま通り過ぎることはできません」


 ティンカーベルが口を挟まなかった。アリアも止めなかった。アイオンだけが、小さく笑った。


「また助けたいと言い出しましたね」


 エノクは彼を見る。


「今度は、見てから言っています」


 アイオンの笑みが、少しだけ柔らかくなった。


「ならば、前よりましです」


 アリアが言った。


「手伝うなら、役割を決める。エノクは勝手に走らない。イリスは倒れる前に休む。アイオンはふざけすぎない。剣は口を出す」


「最後だけ当然のように命じるな」


 ティンカーベルが言った。


「口を出すの得意でしょ」


「否定はしない」


 イリスは戸惑い、そして深く頭を下げた。


「ありがとうございます。私一人では、もう、どうしていいか分からなくて」


「一人でやろうとしすぎ」


 アリアが言うと、イリスは小さく苦笑した。


「アリアさんも、人のことを言えない気がします」


 アリアは少し目を丸くした。エノクは思わず笑いそうになり、慌てて口を押さえる。アリアが睨んだ。


「何」


「いえ」


「笑った?」


「少しだけ」


「後で覚えてなさい」


 そのやり取りに、イリスもほんのわずか笑った。疲れ切った、涙の残る笑みだったが、それでも確かに笑みだった。黒い炎の村で、初めて人の表情らしいものが戻った瞬間だった。


 その日、彼らは村を歩いた。イリスは木札を持ち、エノクは焼け残った家族帳や道具を探し、アリアは危険な場所を先に調べ、アイオンは生き残りの言葉にならない呟きから手がかりを拾った。ティンカーベルは、黒い炎の残り香が濃い場所で警告した。老人の名は、壊れた粉挽き小屋の梁に刻まれていた。畑番と呼ばれていた彼は、ガルムという名だった。家を建てると言っていた少年は、焼け残った木札からノエと分かった。羊飼いの女は、自分の犬の名だけを覚えていた。犬の名を辿ることで、彼女の名がセラであると分かった。すべての名が戻ったわけではない。戻らない名の方が多かった。それでも、イリスは一つずつ記した。名が戻らない者には「名を探す」と書いた。「名不明」で終わらせなかった。


 夕暮れ近く、祠の前には木札が並んでいた。完全な名、欠けた名、手がかりだけの名。イリスはその前で祈った。声はかすれ、身体は疲れ、何度も言葉に詰まった。それでも彼女は一人ずつ呼んだ。ミレナ。リウ。ガルム。ノエ。セラ。名が分からぬ者には、「あなたの名を、まだ探しています」と呼びかけた。


 祈りの終わりに、村の空気が少しだけ変わった。黒い煙が完全に消えたわけではない。死者がすべて救われたわけでもない。名を失った者たちが全員戻ったわけでもない。それでも、村はただの焼け跡ではなくなった。そこには、呼ばれた名がいくつか戻っていた。世界に引っかかるための小さな釘のように。


 エノクは祠の前で、胸元の鍵を押さえた。カオスは名を奪う。アルティエルは名を呼ぶ。ならば、この少女の祈りは、どちらへ近いのか。答えはまだ分からない。だが、彼は強く感じていた。イリスと出会ったことは、偶然で終わるものではない。


 夜になっても、彼らは村を離れなかった。黒い炎の残りがある村で眠るのは危険だったが、名を失った生者と帰れない死者を置いて、すぐに出ていくことはできなかった。祠の前に小さな火を起こし、イリスは木札の束を抱いて眠りかけていた。アリアが無理やり外套をかけ、アイオンが「聖女候補を雑に扱う剣舞姫の歌ができそうです」と言って睨まれ、ティンカーベルが「歌うな」と短く制した。


 エノクは眠れず、祠の欠けた白い翼を見上げていた。黒い炎は村から名を奪った。だが、完全には奪い尽くせなかった。イリスがいたからだ。救えなかったと泣きながら、それでも木札に名を書き続けた少女がいたからだ。


 遠く、竜骨山脈の方で低い雷のような音が鳴った。竜の声か、山の崩れる音か、魔王の影かは分からない。エノクは剣に手を置いた。ティンカーベルは静かに重かった。


「エノク」


 剣が低く言った。


「何」


「今日、覚えておけ。斬れなかったものを、名前が救うこともある」


「うん」


「だが、名前だけで救えないものもある」


 エノクは祠の前に並ぶ木札を見た。戻った名。戻らない名。探されている名。イリスの眠る横顔。


「それでも、呼ぶんだね」


「そうだ」


 ティンカーベルは短く答えた。「呼ばれなければ、始まらない」


 夜風が村を通り抜けた。割れた鐘が、音にならないほど小さく震えた。黒い炎に焼かれた村で、名を失った者たちのそばに、エノクたちは座っていた。旅は竜王へ向かっている。だが、その道の上で、彼はもう一つのものを見つけ始めていた。世界を救うとは、魔王を倒すことだけではない。消えそうな名を、誰かが最後まで呼ぶことでもあるのだと。

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