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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第2部 吟遊詩人と剣舞姫
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第8話_名を忘れない少女

 夜が明けても、ミルファの村に本当の朝は来なかった。東の丘から薄い光が差し、焼け残った屋根の輪郭を浮かび上がらせ、井戸の縁に置かれた割れ壺の影を長く伸ばしても、村の空気はまだ夜の底に沈んでいた。黒い炎そのものはもう見えない。だが、炎の通った跡には、普通の火事とは違う冷たさが残っている。焼けた梁には熱がなく、灰は風に舞わず、焦げた壁には煙より深い沈黙が染みついていた。鶏の声はなく、犬の遠吠えもなく、朝餉の支度をする鍋の音もない。代わりに、祠の前で木札を数える少女の声だけが、細く、途切れずに続いていた。


「ミレナ。リウ。ガルム。ノエ。セラ。……名を探している人、七名。手がかりだけの人、十一名。まだ何も分からない人、二十三名」


 イリスは膝の上に木札を並べ、一枚ずつ指で確かめていた。昨夜からほとんど眠っていないはずなのに、彼女の手は止まらなかった。目の下には薄い影があり、白い神官服は煤と泥で汚れ、袖口には乾いた血が残っている。それでも彼女は、木札をただの数として扱わない。ひとり分を読むたびに、その札を少しだけ胸元へ寄せる。名が分からない者の札には、彼女は「不明」とだけは書かなかった。「探している」と書いた。エノクはその文字を見た時、胸の奥が痛くなった。まだ見つかっていない名を、失われたままにしないための言葉だった。


 アリアは祠の石段に腰を下ろし、双剣を膝に置いて周囲を見張っていた。黒い炎の残り香は弱まったが、消えたわけではない。家々の影の中には、まだ輪郭の曖昧なものが動く時がある。生き残りなのか、亡霊なのか、名を失った記憶の残骸なのか、遠目では分からない。アリアはそれらが近づきすぎないように視線だけで追い、必要なら立ち上がれるよう片足を少し前へ出していた。アイオンは割れた鐘のそばで、弦を鳴らさずに竪琴を抱えている。珍しく口数が少ない。時折、村の奥から聞こえる呟きに耳を澄ませ、そこに名の欠片が混じっていないかを探っていた。ティンカーベルはエノクの腰で黙っている。彼女が黙る時は、たいてい本当に危険か、本当に重いものがある時だった。


 エノクは井戸のそばで、村人たちへ水を配っていた。井戸水は黒い炎の影響を受けていたため、そのままでは飲めなかった。イリスが小さな浄化の祈りをかけ、アイオンが拾ってきた白石を沈め、ティンカーベルが「まだ赤い」とか「今なら飲める」と口を挟みながら、どうにか水袋へ移せる程度に戻した。壺を抱えていたミレナは、昨夜よりも表情が人間らしくなっていた。完全に正気へ戻ったわけではない。時折、空の壺を探すように手を動かす。けれど、エノクが水を渡すと、彼女は小さく「ありがとう」と言い、その後で「リウ」と呟いた。名を呼んだ瞬間、彼女の顔は痛みに歪む。それでも、痛みがある方がましなのだと、エノクは思った。名を失っている時、彼女は泣くことさえできなかったのだから。


 昼近くになって、街道の方から救護隊が来た。白鐘神殿の小さな旗を掲げた荷車が二台、馬に引かれて村へ入ってくる。旗は白地に薄い青の鐘と翼を刺繍したもので、地方のアルティエル神殿が巡礼路に置く印だった。荷車には薬草、包帯、水樽、毛布が積まれ、老神官と二人の神殿兵、数人の村人が乗っていた。昨夜、アイオンが丘の上で港歌に紛れた合図を送り、アリアが村の外れの狼煙台に白布を結んだ。その知らせを見た巡礼路の番人が、近くの神殿へ走ったのだという。


 イリスは救護隊を見た瞬間、安堵で膝をつきそうになった。だが、すぐに立ち直り、木札の束を抱えて老神官のもとへ駆けた。


「ロウエン司祭」


「イリス」


 老神官は荷車から降りるなり、彼女の姿を見て顔を強張らせた。長い白眉の下の目は厳しいが、娘を見るような痛みもある。


「生きていたか。よかった。昨日から戻らぬと聞いて、神殿中で騒ぎになっていた」


「申し訳ありません。でも、ここに」


「分かっている。まず水と手当てだ。詳しい話は後で聞く」


「いえ、先にこれを」


 イリスは木札の束を差し出した。老神官は一瞬戸惑い、それを受け取った。そこには、名前が戻った者、名の一部だけが分かった者、まだ探されている者の記録が、震える文字で書かれている。ロウエン司祭は一枚ずつ目を通し、深く息を吸った。


「……一晩で、これを?」


「全部ではありません。まだ、足りません。焼けた家族帳をもっと探さないと。生き残った方にも、少し休んだらまた聞き取りを。黒い炎に触れた人の中には、名を思い出しかけている人もいます。今ならまだ」


「イリス」


 老神官の声は柔らかかったが、止める力があった。


「あなたも休みなさい」


「後で」


「後ではなく、今だ」


「でも、名前が」


「あなたが倒れれば、誰がその名を読む」


 同じことを、アリアも昨夜言った。イリスは言葉を詰まらせた。老神官は木札を胸に抱え、彼女の肩に手を置いた。


「よくやった」


 たったそれだけで、イリスの顔が崩れた。彼女は声を出さずに泣き始めた。ロウエン司祭はその頭を静かに撫でた。


「よくやった、イリス。救えなかった者の数を報告するのではなく、名を探した。それは神官の務めだ」


「でも」


 イリスの声は震えていた。「私は、救えませんでした。黒い炎を消せませんでした。鐘も守れませんでした。リウ君は、名前を呼べた時にはもう」


「あなたは、死者を死者として送ろうとした。名を失った者に、名を探そうとした。それを『何もできなかった』とは言わせない」


 イリスは泣きながら首を振った。


「足りません。足りないんです、司祭様。祈りを唱えても、黒い炎には届きませんでした。神殿で習った通りに結界を張っても、火は壁の隙間から人の名前へ入り込んできました。傷を塞げても、名前が戻らない。祈りを知らない人、神殿に来たことがない人、家族帳が焼けた人、旅人、羊飼い、粉挽き、子ども。神殿の中で待っていたら、こういう人たちのところへ、私は届きません」


 ロウエン司祭は何も言わなかった。彼の目に、深い疲れがあった。地方神殿の老神官として、彼は多くの死と災いを見てきただろう。だが、黒い炎に名を焼かれた村を、こうして目の前にするのは初めてかもしれない。


 エノクは少し離れた場所で、その会話を聞いていた。彼は水袋を抱えたまま、イリスから目を離せなかった。アリアの剣舞に見惚れた時とは違う。アイオンの歌に引き込まれた時とも違う。イリスは華やかではない。煤で汚れ、涙で目を赤くし、手は震え、何度も失敗したと言っている。けれど彼女は、死者を数えなかった。名を探した。役目や被害者という言葉に逃げず、ひとりひとりに戻ろうとした。エノクはその姿に、強く惹かれていた。それは恋と呼ぶにはまだ静かすぎ、憧れと呼ぶには痛すぎる感情だった。自分が何を守りたいのか、言葉にならないまま胸の奥で光が差すような感覚だった。


「見すぎ」


 アリアが横から言った。


「え」


「イリスを」


 エノクは慌てて顔を逸らした。「そういうつもりじゃ」


「どういうつもりでも、疲れている人をじろじろ見ない」


「すみません」


「謝る相手が違う」


 ティンカーベルが低く笑う。


「未熟者は、名を扱う少女に弱いらしい」


「ティンカーベル」


「悪いとは言っていない」


 アイオンが隣で、少しだけ面白そうに言った。


「惹かれる理由としては、悪くありませんよ。顔や声や笑顔より先に、死者の名をどう扱うかを見る。なかなか将来性がある」


「何の将来性ですか」


「吟遊詩人が歌にする時の」


「しないでください」


「まだ一番もできていません」


「作らなくていいです」


 そう言いながらも、エノクの視線はまたイリスへ戻った。イリスは老神官とともに、村人たちの手当てに回っている。歩き方はふらついているのに、相手の名を呼ぶ時だけは不思議と声がまっすぐ届いた。ミレナさん。ガルムさん。セラさん。名が分からない者には、「あなたの名を、まだ探しています」と声をかける。そのたびに、黒い煙の残りがほんの少し薄くなるように見えた。


 救護隊が村の手当てを始めると、エノクたちは村外れの祠の陰でようやく腰を下ろした。アリアは包帯を巻き直し、アイオンは救護隊の神殿兵から聞き出した情報を整理し、ティンカーベルはエノクに「水を飲め」「背嚢を枕にするな」「剣を地面に置くな」と相変わらず口を出した。だが、エノクの心は落ち着かなかった。黒い炎の村をこのまま離れることにも、イリスを神殿へ戻すことにも、どこか引っかかりがあった。


「イリスは、神殿に戻るんですよね」


 エノクがぽつりと言うと、アイオンは彼を見ずに答えた。


「普通なら。見習い神官が、壊滅した村で一晩過ごし、名の記録を行い、救護隊に引き継いだ。神殿へ戻り、報告し、休養し、叱られ、褒められ、また祈りの仕事へ戻る。それが制度としては正しい」


「制度としては?」


「人の心は、制度ほど整っていません」


 アリアが短く言った。


「戻らない顔をしてる」


「イリスが?」


「うん」


 アリアは祠の方を見た。イリスはロウエン司祭に薬箱を渡しながら、何かを話している。距離があるため声は聞こえない。だが、彼女の背筋は、さっきまでの疲れ切った少女のものとは少し違っていた。迷っている。けれど、迷う場所はもう定まりつつある。エノクにも、そう見えた。


 夕方近く、村の中央に簡易の弔い場が整えられた。救護隊が運んできた白布と村に残る木材で、祠の前に小さな祭壇が作られ、木札が並べられた。ロウエン司祭は形式通りの弔いを始めようとしたが、途中でイリスへ目を向けた。


「イリス。あなたが読みなさい」


 イリスは驚いた。


「私が?」


「この名を集めたのは、あなたです」


「でも、私は見習いで」


「見習いが拾った名を、老いた司祭が奪うものではない」


 イリスの目に、また涙が浮かんだ。けれど今度は、こぼす前に彼女は頷いた。祭壇の前へ立ち、木札を手に取る。村人たち、生き残った者、救護隊、エノクたちがその周囲に集まった。空は薄紫に変わり、黒い煙の残りは夕風に散りかけている。


 イリスはひとりずつ名を読んだ。声は小さく始まり、少しずつ強くなった。


「ミレナ。リウ。ガルム。ノエ。セラ。オルク。ハンナ。トマ。エル。……名を探しているあなた。井戸へ走ったあなた。麦粉のついた手で子どもを抱いていたあなた。割れた鐘を鳴らそうとしたあなた。私は、まだあなたの名を知りません。でも、知らないまま終わらせません。あなたがここにいたことを、数ではなく、ひとりの命として記します」


 白銀の光が、彼女の足元から淡く広がった。強い奇跡ではない。黒い炎を一気に消し去る力でもない。けれど、木札の文字が一つずつ微かに輝き、村の空気がほんの少し呼吸を取り戻した。名を呼ばれた死者の影が、祠の周囲に薄く立ち上がり、そして朝霧のようにほどけていく。名をまだ探されている影は、完全には消えない。だが、黒い炎の中で彷徨うのではなく、祠の光の縁に座るように留まった。まるで、名前を待つ場所ができたかのようだった。


 エノクは拳を握った。ティンカーベルが静かに言う。


「あれが、あの娘の剣だ」


「剣じゃない」


「だが、戦っている」


 その言葉に、エノクは深く頷いた。イリスは剣を抜いていない。魔物を斬っていない。だが、カオスの黒い炎が奪ったものと、確かに戦っている。傷を治すより、敵を倒すより、時にもっと難しい場所で。


 弔いが終わると、村には初めて本当の夕暮れが降りた。赤黒い煙はまだ遠くに残るが、祠の周囲だけは空気が澄んでいる。救護隊は夜明けまで村に留まり、生き残りを白鐘神殿へ移す手配を始めた。ロウエン司祭は、イリスを祠の裏へ呼んだ。エノクは聞くつもりはなかったが、風が声を運んできた。


「戻りなさい、イリス。あなたには休息が必要だ」


「はい。必要だと思います」


「なら」


「でも、戻って休んだら、また神殿で待つことになります。傷ついた人が運ばれてくるのを待つ。死者の名が届くのを待つ。報告書に載った名を読む。それも大切です。でも、黒い炎は、報告書になる前に名前を奪います。鐘が鳴る前に村を焼きます。神殿に残って祈るだけでは、届かない場所があります」


「旅に出るつもりか」


「分かりません。怖いです。私は戦えません。長い旅もしたことがありません。荷造りも下手ですし、昨日も薬瓶を二つ割りました。きっと足手まといになります」


 その自己評価に、近くで聞いていたアリアが小さく「分かってるなら半分まし」と呟いた。エノクは肘で軽くつつこうとして、やめた。アリアの口は厳しいが、目はイリスを責めていない。


 イリスの声は続いた。


「それでも、ここで見た名前を、私は忘れたくありません。黒い炎に焼かれた人たちは、ミルファだけではないのでしょう。もし他にも、名前を失ったままの人がいるなら、私はその人たちのところへ行きたい。神殿の中から祈るだけではなく、そこへ行って、名前を聞きたいんです」


 長い沈黙があった。


 ロウエン司祭は、怒らなかった。代わりに、ひどく疲れた声で言った。


「あなたは、昔からそうだった。神殿の祈祷で聖句を間違えるのに、病人の名だけは決して間違えなかった。儀式の順番を忘れるのに、孤児たちの誕生日は覚えていた。私は何度も叱ったが、本当は少し羨ましくもあった」


「司祭様」


「神殿は必要だ。祈りを守る場所がなければ、人はすぐ忘れる。だが、祈りを運ぶ者も必要なのだろう。イリス。あなたが行くなら、神殿は止めない。ただし、逃げるために行くのなら許さない。自分の無力さから逃げる旅なら、黒い炎より先に心が折れる」


「逃げたいです」


 イリスは正直に言った。「本当は、ここからも、昨日の夜からも、自分ができなかったことからも逃げたいです。でも、逃げたくないとも思っています。矛盾しています」


「人は矛盾したまま歩くものだ」


 ロウエン司祭は言った。「なら、歩きながら祈りなさい」


 イリスのすすり泣く声が聞こえた。エノクは胸が詰まった。彼女は強いから旅に出るのではない。怖くて、無力で、逃げたくて、それでも忘れたくないから旅に出るのだ。その姿が、エノクにはまぶしかった。自分もまた、王子としての覚悟があるから森を出たのではない。留まれば大切な者を危険にさらすと知り、怖いまま踏み出した。イリスの決断は、その時の自分にどこか似ていた。けれど、彼女は自分よりもはっきりと、何のために歩くのかを言葉にしていた。


 夜、救護隊の荷車のそばで、イリスは小さな荷をまとめた。薬包、包帯、聖印、木札を入れる箱、羽根ペン、墨、小さな祈祷書、針と糸。荷造りは本当に下手だった。薬草袋の上に水瓶を置こうとしてアリアに止められ、羽根ペンを包帯の中に巻き込んでアイオンに笑われ、聖印を探して自分の首にかかっていることに気づかず、ティンカーベルに「見習い神官、まず自分の装備位置を覚えろ」と言われた。


「すみません、旅支度に慣れていなくて」


 イリスは顔を赤くした。


「見れば分かる」


 アリアが言いながら、薬袋を詰め直す。「重いものは下。すぐ使う包帯は上。水瓶は割れるから布で巻く。木札の箱は背中側に押し込まない。潰れる」


「はい。ありがとうございます、アリアさん」


「礼はいいから覚えて」


「はい」


 アイオンが横で楽しげに言った。


「実に心温まる光景です。港の剣舞姫が、神官見習いに荷造りを教える。歌になりますね」


「歌ったら、あなたの荷物を全部ほどきます」


 イリスが柔らかい声で言った。


 アイオンは一瞬、目を瞬いた。アリアがわずかに笑う。


「やるわね」


「いえ、あの、今のは、その」


「いい返しだ。覚えておきなさい」


 イリスはますます赤くなった。エノクは少し笑ってしまった。彼女が仲間に加わるという実感が、その小さなやり取りで初めて湧いた。神官として厳かに同行を宣言するのではなく、荷造りに失敗し、叱られ、からかわれ、それでも一緒に歩く準備をする。その方が、彼ららしい気がした。


 やがてイリスは、エノクの前へ来た。手には木札の箱を抱えている。


「エノクさん」


「はい」


「私も、竜骨湖へ向かう道に同行してもよいでしょうか」


 エノクはすぐに答えられなかった。嬉しいと思った。だが、嬉しいだけで頷いてよいことではない。旅は危険だ。黒い炎、魔物、追い剥ぎ、港の衛兵、海魔、魔王の影。イリスは戦いに慣れていない。本人もそれを分かっている。同行を受け入れることは、彼女を危険に巻き込むことでもある。


 だから、エノクは急いで「はい」と言わなかった。アリアに言われたことを思い出す。助けたいなら、まず見ること。自分の気持ちだけで動かないこと。


「危険です」


 エノクは言った。


「はい」


「僕も強くありません。守るなんて、簡単には言えません。ティンカーベルに使われて、ようやく戦っているくらいです。アリアにもよく叱られます。アイオンは、ええと、役に立つけど信用しきれません」


「ひどい紹介ですね」


 アイオンが笑う。


「正確よ」


 アリアが言う。


「君が来たら、危ない目に遭うと思います。それでも」


 エノクはイリスの木札の箱を見た。


「それでも、イリスが一緒に来てくれるなら、僕は心強いです。死者を数じゃなく、名で呼ぶ人が一緒にいてくれるなら、僕は自分が何を守りたいのか、忘れずに済む気がします」


 イリスは目を見開いた。次の瞬間、涙が浮かんだ。だが彼女はすぐには泣かなかった。木札の箱を胸に抱き、深く頭を下げた。


「ありがとうございます。私、きっとたくさん迷惑をかけます」


「僕もです」


「エノクさんは、もうかけていますね」


 イリスは言ってから、自分で驚いたように口を押さえた。アリアが吹き出し、アイオンが声を立てて笑い、ティンカーベルが満足そうに鳴った。


「見込みがある」


「す、すみません」


 イリスは真っ赤になった。


 エノクも少し遅れて笑った。


「大丈夫です。本当なので」


「本当にすみません」


「謝らなくていいです。僕も、もう少し迷惑を減らせるようにします」


「それは必要ですね」


「イリスさん」


「あ、また」


 短い笑いが、黒い炎の村にこぼれた。場違いに思えるほど小さな笑いだった。だが、場違いではなかった。名を呼び、弔い、泣き、それでも笑う。生きている者に許された、かろうじての抵抗だった。


 翌朝、ミルファの村を出る時、イリスは祠の前で長く祈った。戻った名の木札は白鐘神殿の救護隊が預かり、まだ探している名の写しをイリスが持つことになった。ロウエン司祭は彼女に小さな聖印と、新しい白布、そして一冊の空の記録帳を渡した。


「これは神殿の帳面ではない」


 老神官は言った。「あなたの旅の帳面だ。形式に合わなくてよい。あなたが見た名を、あなたの手で書きなさい」


 イリスは帳面を両手で受け取った。


「はい」


「そして、帰れる時には帰ってきなさい。神殿は、あなたを送り出すが、手放すわけではない」


「はい。必ず」


 イリスは深く頭を下げた。エノクはその姿を見ながら、森を出た朝の自分を思い出していた。行ってらっしゃいと言ってくれたシモン。帰る場所を残して旅立つことの重さと温かさ。イリスにも、帰る場所がある。その場所から、彼女は歩き出す。


 アリアは荷物を肩にかけ、竜骨山脈の方を見た。


「出るわよ。日が高くなる前に丘を越えたい」


「はい」


 イリスは慌てて荷物を背負い、少しよろけた。エノクが手を伸ばしかけ、今度は途中で止まる。イリスは自分で体勢を整え、恥ずかしそうに笑った。


「大丈夫です。……たぶん」


「たぶんは危ない言葉だ」


 ティンカーベルが言う。


「私も、そう思います」


 イリスは真面目に頷いた。


「真面目に返すな。剣が調子に乗る」


 アリアが言った。


「もう乗っている」


 ティンカーベルが返す。


 アイオンは竪琴を軽く鳴らした。


「四人と一本。なかなか歌の形になってきましたね。森の少年、嘘つき吟遊詩人、滅びた国の剣舞姫、名を忘れない神官見習い、そして口の悪い剣」


「歌うなら順番を変えなさい」


 アリアが言う。


「私の説明、少し恥ずかしいです」


 イリスが小さく言う。


「僕も森の少年のままなんですか」


 エノクが言う。


「今のところは」


 アイオンは笑った。「歌は旅の途中で変わります。呼び名も、役目も、名の重さも」


 エノクは胸元の鍵と守り石に触れた。そこに、イリスが祈りで呼んだ名の響きがまだ残っている気がした。ミレナ、リウ、ガルム、ノエ、セラ。救えたわけではない。すべてが戻ったわけでもない。だが、呼ばれた名は消えなかった。イリスが持つ小さな帳面の中に、そしてエノクの胸の中に残った。


 村の入口を出る時、名を取り戻したミレナが祠のそばから手を振った。彼女の隣には、まだ名を探している人々がいた。全員が見送っているわけではない。誰かを待つように空を見ている者も、割れた道具を抱えている者もいる。それでも、イリスは一人ひとりへ向かって頭を下げた。


「行ってきます」


 その声は、小さかった。だが、確かに届いた。


 ミルファの村を出た道は、竜骨湖へ続く丘陵へ伸びていた。遠くの山脈は朝の光を受け、竜の背のように青黒く輝いている。そこに竜王ザッハがいるのか、七英雄の真実があるのか、黒い炎の源へ近づくのか、誰にも分からない。けれど、一行はもう三人と一本ではなかった。木札の箱と空の記録帳を抱えた少女が加わったことで、旅の意味は少し変わっていた。


 魔王を倒すためだけの旅ではない。七英雄に会うためだけの旅でもない。失われる名を拾い、消されそうな命を数ではなく呼ぶための旅でもある。エノクはそのことを、言葉ではまだうまく言えなかった。けれど、隣を歩くイリスの白い神官服が泥に汚れながらも朝日に淡く光るのを見て、自分はこの光を覚えていたいと思った。


 イリスはふと、エノクの視線に気づいた。


「あの、何かついていますか」


「いえ」


「泥ですか」


「泥は、少し」


「やっぱり」


 彼女は慌てて袖を払おうとし、木札の箱を落としかけた。アリアが無言で支え、ティンカーベルが「荷物を持つ手を先に覚えろ」と言い、アイオンが笑った。


 エノクも笑った。黒い炎の村を背にして笑うことに、少し罪悪感があった。だが、イリスが名を呼んだ死者たちは、きっと泣き続けることだけを望んではいない。少なくとも、エノクはそう信じたかった。


 朝の風が吹いた。ミルファの祠の割れた鐘が、遠くで一度だけ鳴ったような気がした。音はかすかで、聞き間違いかもしれない。けれどイリスは振り返り、静かに目を閉じた。


「忘れません」


 彼女は言った。


 そして、名を忘れない少女は、神殿の壁の外へ歩き出した。

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