第9話_四人と一人の旅
ミルファを出た道は、朝の光の中でもしばらく黒い炎の匂いを引きずっていた。振り返れば、低い丘の向こうに焼けた村の屋根と欠けた祠がまだ見えた。白鐘神殿の救護隊が立てた小さな旗が風に揺れ、祠の前には名を書かれた木札が並び、イリスが結んだ白布が割れた鐘の下で淡く光っていた。エノクは何度も振り返りそうになったが、そのたびに前を歩くアリアの背が目に入り、足を戻した。アリアは一度も振り返らない。薄情だからではない。振り返れば進めなくなるものを、彼女はよく知っているのだろう。腰の双剣が硬く鳴り、赤銅色の髪が朝風に揺れる。その背中は、誰かを待つ背ではなく、道を切り開く背だった。
イリスはエノクの少し後ろを歩いていた。神官服の裾は旅用に少し短くたくし上げられ、白布は泥と煤でまだ汚れている。背には薬袋と木札の箱、胸には小さな聖印、腰には羽根ペンと記録帳を入れた革筒が揺れていた。旅支度はまだ馴染んでおらず、歩くたびに何かがこつこつと鳴る。何度も荷を直し、肩紐を引き、箱の位置を確かめては、前を向こうとしてつまずきかける。そのたびにエノクが手を伸ばしかけ、しかし昨日のことを思い出して途中で止まる。イリスは自分で体勢を立て直し、少し恥ずかしそうに笑う。
「すみません。私、歩くのも下手ですね」
「僕もです」
エノクが答えると、ティンカーベルが即座に言った。
「比べるな。お前の下手は年季が入っている」
「そこまで?」
「森で十六年育って、平らな街道に負けている。なかなかのものだ」
イリスが小さく笑った。エノクは恥ずかしかったが、その笑いは嫌ではなかった。黒い炎の村で泣いていた少女が、少しでも笑えるなら、それだけで道がわずかに軽くなる気がした。
最後尾では、アイオンが竪琴を背負い、帽子のつばを指で押さえながら歩いている。彼だけは、荒れた丘陵の道でも足取りが乱れない。前を見ているようで横を見ており、歌を考えているようで鳥の飛び方を読み、軽口を叩きながら遠くの煙や轍の深さを見逃さない。胡散臭い。だが、旅慣れている。エノクはこの数日で、その二つが両立することを学んだ。
「隊列としては、まあ悪くありません」
アイオンが言った。「先頭に剣舞姫、中央に神官見習い、やや前に未熟な剣持ち、最後尾に美声の吟遊詩人。絵になります」
「やや前に未熟な剣持ちって、僕ですか」
「ほかにいますか」
「未熟を省いてください」
「真実を省くと歌の味が落ちます」
「自分の説明だけ盛ってる」
アリアが振り返らずに言った。
「美声の、ってところ?」
「全部」
「手厳しい」
「先頭を歩く者に余計な会話をさせるな。気が散る」
「では、歌にしましょう」
「もっと気が散る」
アリアの一言で、アイオンは大げさに肩をすくめた。イリスはそのやり取りを見て、少し困ったように笑っている。エノクは、自分たちが本当に一緒に歩いているのだと、そこで初めて実感した。森を出た時には、ティンカーベルと二人、いや一本と一人だった。町でアイオンに出会い、港でアリアに巻き込まれ、黒い炎の村でイリスが加わった。いつの間にか、自分の周りには声が増えている。叱る声、からかう声、祈る声、剣の声。それらは決して穏やかに揃ってはいない。むしろ互いにぶつかり、皮肉を言い、警戒し、秘密を隠し、それでも同じ道を歩いている。
昼前、道は乾いた谷へ下った。竜骨湖へ向かう巡礼路の一部らしく、ところどころに竜の鱗を刻んだ石標が立っている。石標の文字は古く、表面は風と砂で削れていた。アイオンはその一つに手を置き、目を細めた。
「ここから先は、竜骨山脈の裾です。ラガルの商人たちは竜骨湖と呼びますが、古い氏族は龍神湖と呼ぶ。湖へ近づくほど、呼び方で相手の出自が分かります」
「呼び方で?」
エノクが訊くと、アリアが答えた。
「名前は、土地への立ち方を示す。商人は地図で呼ぶ。巡礼者は祈りで呼ぶ。そこに住む者は、もっと古い呼び方をする」
イリスが頷いた。
「神殿でも、土地の名を勝手に言い換えないように教わります。名は、ただの目印ではありませんから」
エノクは石標を見た。風化した文字は読みづらい。けれど、誰かがその名をここに刻み、誰かが長い間それを頼りに歩いてきた。ミルファの村の門から名が消えていたことを思い出す。あれは、ただ文字が消えたのではない。人が場所を呼ぶための手がかりを焼かれたのだ。
ティンカーベルが言った。
「考えながら歩くと、また転ぶぞ」
「今日は転んでない」
「今のところだ」
「その言い方、みんな好きだね」
「お前相手には便利だからな」
谷の底には、細い川が流れていた。水は澄んでいたが、川岸には黒い泡が少しだけ残っている。アリアが先に膝をつき、短剣の鞘で水面を突いた。泡は弾けず、薄い膜のように流れていく。イリスが聖印を握り、小さく祈った。
「黒い炎の影でしょうか」
「薄いな」
ティンカーベルが言う。「飲むな。渡るだけなら、靴を濡らす程度で済む」
「靴を濡らす程度って、地味に嫌ですね」
イリスが真面目に言うと、アリアが即座に返した。
「濡れた靴は乾かせる。黒い水を飲んだ腹は簡単には戻らない」
「はい」
「返事はいい。荷の紐を締める」
「はい」
イリスは慌てて荷物を直した。エノクも自分の背嚢を締め直す。アリアが川へ足を入れ、石の位置を確かめながら先に渡った。次にイリス。エノクは手を貸そうとしたが、アリアに「必要な時だけ」と目で制される。イリスは不安そうだったが、自分の足で一歩ずつ石を渡った。途中で水に足を滑らせかけ、エノクの心臓が跳ねたが、彼女は自分で杖をつき、踏みとどまった。
「大丈夫です」
イリスは振り返って言った。息は少し上がっているが、目は笑っていた。
「見ていました」
エノクが答えると、アリアが言った。
「見てただけなら上出来」
「助けなくてよかったんですか」
「助けが必要になったら言う。今のは自分で立てる揺れだった」
それからアリアは、わずかに声を柔らかくした。
「すぐ手を出さないのは、冷たいことじゃない。相手の足を信じることでもある」
エノクはその言葉を胸にしまった。森では、道具たちが互いに助け合っていた。だが、助け合うとは、相手のすべてを代わりにしてやることではない。自分で立てる場所は、相手に立たせる。それもまた信じることなのだ。
彼自身が川を渡る番になると、話は別だった。最初の三歩までは順調だったが、四歩目で苔のついた石を踏み、見事に滑った。ティンカーベルが「だから言った」と叫び、エノクは手を伸ばし、アリアが襟首を掴み、イリスが反射的に祈りの言葉を唱え、アイオンが向こう岸で拍手した。
「すばらしい。見本のような転びかけです」
「拍手しないでください!」
「転ぶ前に止まったので、拍手に値します」
アリアはエノクを岸へ引き上げながら、冷ややかに言った。
「人の足を信じる話をした直後に、自分の足を裏切るのは器用ね」
「わざとじゃないです」
「わざとなら置いていく」
イリスが濡れた袖でエノクの膝の泥を拭こうとし、途中で手を止めた。
「手当て、必要ですか」
「擦っただけです。大丈夫」
「本当に?」
「たぶん」
ティンカーベル、アリア、イリスの三つの視線が同時に刺さった。
「たぶんは危ない言葉」
イリスが真面目に言った。
「覚えたんですね」
「はい。ティンカーベルさんに教わりました」
「さんはいらない」
「でも、剣にも敬称は必要かと」
「不要だ」
「では、ティンカーベル……様?」
「悪化している」
アイオンが腹を抱えて笑った。アリアでさえ少し口元を緩めた。エノクは濡れた靴を気にしながらも、こういうやり取りが増えていることに気づいた。ミルファの村の悲しみは消えない。黒い炎の影も去っていない。それでも、旅の中には笑いが混じる。笑えるから軽いのではなく、重いものを抱えたまま歩くために、人は時々笑うのかもしれない。
午後、谷を抜けたところで、彼らは野営の跡を見つけた。火の跡は新しく、踏み荒らされた草、血のついた包帯、砕けた荷箱が残っている。アリアが片手を上げ、全員を止めた。エノクは反射的に剣へ手を伸ばす。だが、すぐには抜かなかった。アリアの横顔を見る。彼女は低く言った。
「襲撃の跡。昨夜か、今朝」
「追い剥ぎですか」
イリスが小声で訊く。
「違う」
アリアは地面を見ている。「足跡が軽すぎる。獣でも人でもない」
ティンカーベルが低く鳴った。
「名喰いの端。完全な個体ではない。黒い炎の残りに寄った屑だ」
その言葉が終わる前に、灌木の陰から灰色の影が跳んだ。狼に似ているが、足が六本あり、顔には目がなく、口の中に人の名前の切れ端のような黒い舌が揺れている。三匹。いや、四匹。エノクは剣を抜こうとした。だが、アリアの声が先に飛んだ。
「エノク、イリスの前! 前に出るな、盾になる位置!」
前に出るな。盾になる位置。エノクは一瞬迷い、次に足を動かした。イリスの前へ半歩。敵へ突っ込むのではない。彼女へ向かう線を塞ぐ場所に立つ。ティンカーベルが鞘から抜ける。腕を引かれる感覚はあるが、以前より少しだけ自分の意志と重なっていた。
「よし。今は斬りに行くな」
ティンカーベルが言った。
アリアはすでに一匹目へ踏み込んでいた。双剣が交差し、灰色の影の足を断つ。アイオンの竪琴が短く鳴り、二匹目の動きが半拍ずれる。エノクの前へ三匹目が跳んだ。口が開く。黒い舌が、名の欠片を探すように伸びる。
「エ、ノ」
呼ばれかけた瞬間、イリスが背後で聖印を握った。
「その名に触れないでください」
柔らかい声だった。だが、声の芯に白い光があった。エノクの胸元の守り石が温もり、灰色の影が一瞬怯む。ティンカーベルが叫ぶ。
「今だ、腹ではなく口を斬れ!」
エノクは踏み込まず、半歩だけ身体を沈めた。刃が横へ走る。口の中の黒い舌が切れ、影の狼は声にならない悲鳴を上げて後退した。エノクは追いかけなかった。追えばイリスの前が空くからだ。歯を食いしばって、その場に立つ。逃げた敵は、アリアが戻りざまに短剣の柄で打ち落とした。
最後の一匹はアイオンの足元へ回り込もうとしたが、アイオンはわずかに笑い、竪琴の弦を一本だけ弾いた。音が空気に輪を作り、影狼の耳のない頭を揺らす。そこへアリアの剣が走り、灰色の影は黒い煙を吐いて崩れた。
戦いは短かった。だが、エノクの手は震えていた。彼はイリスを振り返る。
「大丈夫ですか」
「はい。エノクさんは」
「たぶん」
言った瞬間、イリスが目を細めた。
「たぶん」
「あ、いや、大丈夫です」
アリアが戻ってきて、エノクの立ち位置を見た。
「今のは、悪くなかった」
エノクは驚いた。
「本当ですか」
「斬りに走らなかった。守る位置を離れなかった。褒めてはいないけど、前よりまし」
「それ、褒めてますよね」
「褒めてない」
ティンカーベルが言った。
「微量に褒めている」
「剣まで余計なことを」
アリアは顔を背けた。イリスが小さく笑い、アイオンが楽しそうに拍手を一つだけ打った。
「いや、実に成長しました。森の少年が、ほんの少しだけ番犬になりましたね」
「番犬」
「口が悪いな、吟遊詩人」
ティンカーベルが言った。
「剣殿にだけは言われたくありません」
エノクは少し不満だったが、胸の奥は温かかった。守った、とはまだ言えない。アリアが倒し、アイオンが乱し、イリスが名を守り、ティンカーベルが導いた。その中で、自分はただ、言われた場所に立っただけだ。だが、その「ただ」が、今の自分にできる役目だった。役に立つとは、必ずしも一番前で敵を倒すことではない。自分の未熟さに合った場所を守ることも、旅の一部なのだ。
野営跡を調べると、襲われた旅人たちは逃げ延びたらしかった。荷は散らばっていたが、死体はない。イリスは血のついた包帯を見つけ、その持ち主の名が分かるものがないかを探した。小さな木札に商隊印があり、アイオンがそれを見て言った。
「竜骨湖へ向かう巡礼商隊ですね。道は合っています。ただし、先に危険が増えている」
「追いますか」
エノクが言うと、アリアは首を振った。
「急ぎすぎると、同じ罠に入る。痕跡を見ながら行く」
「はい」
「返事はいい。周りを見る」
「はい」
「返事が多い」
「はい……あ」
イリスが笑いをこらえ、アイオンが竪琴を鳴らそうとしてアリアに睨まれた。
夕暮れ、彼らは竜骨山脈を望む高台で野営した。空は赤紫に染まり、山々は巨大な竜の背のように横たわっている。岩肌の筋が骨に見え、谷間には青い霧が溜まり、遠くで水鳥の声がした。アイオンによれば、あの霧の向こうに龍神湖へ続く古い道があるという。湖そのものはまだ見えない。だが、風の中に湿った水の気配と、どこか深い大地の鼓動のようなものが混じっていた。
野営の準備は、各人の性格がよく出た。アリアは迷わず見張りやすい場所を選び、風向きと逃げ道を確認した。アイオンは火を起こしながら、いかにも自分が働いているように見せつつ、いつの間にか重い枝をエノクに運ばせた。イリスは薬草と包帯を整理し、ついでに全員の擦り傷を見ようとしてアリアに「自分の足を先に」と言われた。エノクは水を汲みに行き、帰りに違う石標を目印にして少し道を間違え、ティンカーベルに「水汲みで遭難するな」と叱られた。
「僕、守られてばかりですね」
火のそばで、エノクはぽつりと言った。
アリアが干し肉を裂きながら答えた。
「今さら?」
「分かってはいたけど」
「分かってるならいい。守られる側が、守られている自覚を持たないのが一番危ない」
イリスは薬草茶をかき混ぜながら、静かに言った。
「守られることは、悪いことではないと思います。私も、今日は守られました」
「イリスは、僕の名を守ってくれました」
「あれは、たまたま祈りが届いただけです」
「たまたまでも、助かりました」
イリスは少し照れたように目を伏せた。
アイオンが笑う。
「よいですね。守り守られ、叱り叱られ、からかわれからかわれ。実に均衡が取れています」
「最後、僕しかからかわれてない」
「気づきましたか。成長です」
「アイオン」
「怒る元気があるなら、夕食は食べられますね」
ティンカーベルが言った。
「食べる前に剣の手入れだ。今日、黒い舌を斬った。刃に残り香がある」
「あ、はい」
「はいではなく、布を出せ。油は少しでいい。多すぎると鞘が嫌がる」
エノクは慌てて手入れ道具を出した。イリスが興味深そうに見ている。
「剣にも、そういうお世話が必要なのですね」
「当然だ」
ティンカーベルが言う。「神官の祈祷書も濡れたまま放っておけば傷むだろう」
「はい。たしかに」
「なら同じだ。刃にも名があり、手入れがいる」
イリスは真面目に頷いた。
「ティンカーベルは、大切にされたいのですね」
エノクの手が止まった。アリアがわずかに笑い、アイオンが口元を押さえる。ティンカーベルは一瞬沈黙し、それから低く言った。
「……手入れの話だ」
「はい。大切に手入れする話です」
「この娘、時々まっすぐ斬ってくるな」
ティンカーベルの呟きに、今度はエノクも笑った。火の明かりの中で、イリスは不思議そうに首を傾げ、アリアは肩をすくめ、アイオンは小さく竪琴を鳴らした。短い旋律だった。ふざけた歌ではない。どこか旅の始まりを思わせる、軽く、しかし少し寂しい調べ。
「また歌ですか」
エノクが言うと、アイオンは空を見上げた。
「題だけ浮かびましてね。四人と一人の旅」
「一人?」
「剣を一人に数えるか一本に数えるかは、歌い手の腕の見せどころです」
「私は一本ではなく、一振りだ」
ティンカーベルが言った。
「では、四人と一振りの旅」
「語呂が悪い」
「剣殿は注文が多い」
「題にするな」
「では、まだ胸にしまっておきましょう」
エノクは火を見つめた。四人と一人。四人と一本。どちらでもよかった。大事なのは、もう一人ではないということだ。けれど、一人ではないからこそ、自分の未熟さもよく見える。アリアのようには戦えない。アイオンのようには世界を読めない。イリスのようには名を祈れない。ティンカーベルのようには刃の重さを知らない。自分は守られる側であり、叱られる側であり、からかわれる側だ。それでも、この旅の中心に王家の鍵があり、自分の胸元で熱を持っていることも事実だった。逃げられない。だが、一人で背負う必要もないのかもしれない。
夜の見張りは、二人ずつに分けられた。最初はアリアとエノク。イリスは休ませるべきだとアリアが決め、アイオンは「美声を休める時間ですね」と言って火のそばで丸くなった。ティンカーベルは当然のようにエノクの膝の上で起きている。
星空の下、アリアは黙って山脈を見ていた。エノクはしばらく迷い、それから口を開いた。
「アリア」
「何」
「僕、今日少しだけ役に立てましたか」
「自分でそれを聞くうちは、まだ半分」
「半分」
「でも、昨日よりはまし」
「それ、アリアの中ではかなり褒めてますよね」
「調子に乗るなら取り消す」
「乗りません」
アリアは少しだけ口元を緩めた。
「守られるのが嫌?」
「嫌というか、悔しいです」
「なら覚えておきなさい。悔しさは、うまく扱えば足になる。下手に扱うと、前へ飛び出して死ぬ」
「また死ぬ話」
「旅はそういうものよ」
エノクは頷いた。以前なら怖くて耳を塞ぎたくなった言葉も、今は少しだけ受け止められる。剣を抜く重さを知ったから。名を失う村を見たから。守れないまま残される痛みを、アリアとイリスの目に見たから。
「アリアは、どうして僕たちと歩いてくれるんですか」
問うた瞬間、彼女の表情が少し閉じた。エノクはしまったと思った。彼女の過去に踏み込みすぎたかもしれない。だが、アリアは怒らなかった。
「道が同じだから」
「それだけ?」
「今はそれだけ」
「いつか、話してくれますか」
「話す必要ができたらね」
アリアはそれ以上言わなかった。エノクも追わなかった。今はそれでいいと思えた。秘密を無理にこじ開けることは、助けることとは違う。彼は少しずつ、それを覚えている。
夜半、見張りを交代したアイオンが、エノクの隣に座った。アリアは短く仮眠へ入り、イリスは木札の箱を抱えたまま眠っている。アイオンは竪琴を膝に置き、弦を鳴らさずに言った。
「よい仲間ができましたね」
「アイオンも、その中に入ってますよ」
「おや。信用しているのですか」
「信用しきってはいません」
「成長です」
「でも、道連れだとは思っています」
アイオンは少し黙った。その横顔は、酒場で見せる軽薄なものではなく、夜にだけ現れる古い影を帯びていた。
「道連れ、ですか」
「嫌ですか」
「いいえ。懐かしい言葉だと思っただけです」
「昔も、道連れがいたんですか」
エノクが訊くと、アイオンはいつもの笑みを戻した。
「吟遊詩人は、いつでも誰かの道連れです。恋人、傭兵、商人、逃亡者、嘘つき、聖人、悪党。どれも歌にするには便利ですが、長く一緒にいるには骨が折れる」
「七英雄も?」
アイオンの指が、一瞬だけ弦に沈んだ。
「その質問は、高いですよ」
「銅貨で足りますか」
「足りません」
「じゃあ、いつか」
「ええ。いつか」
アイオンははぐらかした。だが、完全に逃げたわけではないように、エノクには感じられた。七英雄の歌には亀裂が入っている。アルティエルを七英雄に数えない歌。消された弦の英雄。アイオンの名前と、その歌の知りすぎた細部。答えはまだ遠い。けれど、旅が進めば、その亀裂はいつか大きく開くだろう。
明け方、イリスが目を覚まし、見張りを代わると言い出した。アリアは「まだ早い」と言ったが、イリスは珍しく譲らなかった。
「私も、旅に加わったのですから。守られるだけではなく、できることをします」
「眠い目で見張るのは、できることじゃなく危ないこと」
「では、エノクさんと一緒に少しだけ」
エノクは驚いた。アリアは二人を見比べ、ため息をついた。
「短い時間だけ。眠くなったら言う。無理したら次から見張り禁止」
「はい」
「エノクも。イリスが眠そうなら言う」
「はい」
「二人とも返事が素直すぎて不安」
結局、日の出前の短い時間、エノクとイリスは並んで見張りに立った。空は薄く白み、山脈の影が少しずつ形を得ていく。イリスは木札の箱を膝に置き、遠くを見ていた。
「ミルファの人たちの名を、忘れないようにしないと」
彼女は言った。
「帳面に書いたのに?」
「書いても、読まなければ遠くなります。名前は、書くだけではなく、呼ばないと」
エノクは頷いた。
「イリスは、すごいですね」
「すごくありません。救えない人の方が多いです」
「でも、数にしない」
「数にした方が、報告は楽です」
「楽な方を選ばないのが、すごいと思います」
イリスは少し困ったように笑った。
「エノクさんは、時々まっすぐすぎます」
「よく言われます」
「でも、そのまっすぐさに救われる人もいると思います。危ない時もありますけど」
「後半が大事ですね」
「はい。とても」
二人は小さく笑った。朝日が山の端から差し始める。イリスの汚れた白い袖が淡く光り、エノクはミルファで初めて彼女を見た時のことを思い出した。煤と涙に汚れながら、木札に名を書き続けていた姿。あの姿に惹かれたのだと、彼は改めて思った。守りたいというより、忘れたくない。彼女が呼ぶ名を、自分も一緒に覚えていたい。
朝食は簡単な乾パンと薬草茶だった。アリアは全員の荷を確認し、アイオンはどこからか拾ってきた野果を並べ、ティンカーベルはエノクの剣帯の締め方に文句を言い、イリスは野果が食べられるものか一つずつ確認しようとしてアイオンに笑われた。旅支度が終わる頃、太陽は完全に昇り、竜骨山脈の向こうから低い霧が流れてきた。
その霧の中に、水の匂いがあった。湖の匂い。深く、冷たく、古い石の下から湧く水の匂い。アイオンが帽子を上げ、遠くを指した。
「見えますか」
丘の先、山々の裂け目の向こうに、青い光が細く横たわっていた。最初は空の切れ端かと思った。だが、それは水だった。遠すぎて全貌は見えない。それでも、朝日に照らされた一筋の湖面が、竜の鱗のように光っている。
「龍神湖」
イリスが祈るように呟いた。
「竜王ザッハの湖」
エノクは胸元の鍵を押さえた。鍵は静かだった。だが、その静けさが逆に重い。七英雄の一人が、この先にいるかもしれない。聖典で歌われる竜王ではなく、アイオンの歌にあった湖と血脈と大地の王。英雄は正しいだけではない。歌はすでに、そう告げている。
アリアは双剣の柄を確かめた。
「行くわよ」
アイオンは竪琴を背負い直した。
「歌の続きへ」
イリスは記録帳を胸に抱いた。
「名を忘れないために」
ティンカーベルがエノクの腰で鳴った。
「転ぶなよ、未熟者」
エノクは深く息を吸った。守られる側であることは、もう知っている。叱られることも、からかわれることも、支えられることも、恥ずかしいが嫌ではない。今の彼はまだ王子としても剣士としても未完成だ。だが、一人ではない。四人と一振りの旅が、ここから本当に始まる。
「行こう」
エノクは言った。
その声はまだ強くはなかった。けれど、森を出た朝よりも、少しだけ前を向いていた。四人と一振りは、竜王ザッハの待つ湖へ向かって歩き出した。背後には黒い炎の村と、名を取り戻した者たちの祈り。前方には龍神湖と、七英雄伝承の奥に隠された最初の真実。風は冷たく、道は険しく、世界は思っていたよりもずっと傷ついている。
それでも、旅は続く。嘘と歌と剣舞と祈りと、口の悪い剣に支えられながら、エノクはまだ知らぬ英雄のもとへ歩いていった。




