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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第3部 龍神湖と不死皇帝
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第1話_龍神湖

 龍神湖は、近づくほどに遠くなった。丘の上からは確かに見えていた。朝日に細く光る水面は、竜骨山脈の裂け目の奥で静かに横たわり、まるで大地そのものが瞼を開け、青い眼で空を見上げているようだった。だが、いざその水を目指して歩くと、道は何度も曲がり、谷は思わぬところで深く落ち、岩肌は人の足を拒むように鋭く突き出した。石標は途中から古い竜文字だけになり、人間の街道で使われる矢印も距離を示す数字も消えた。代わりに、竜の爪痕のような刻み、翼を畳んだ獣の影、湖へ向かって頭を垂れる山の紋が、ところどころの岩に彫られている。エノクには読めない。だが、読めない文字が、読める者だけを先へ通すために刻まれているのだということは分かった。


 風は湖の匂いを含んでいた。冷たく、深く、どこか金属に似た青い匂いである。セレンダの海やラガルの港の水とは違う。海の水は広がる匂いがした。龍神湖の水は、沈む匂いがした。山の根、古い骨、火山の灰、竜の眠り、そういうものが幾重にも重なり、風に溶けている。イリスは歩きながら何度も息を整えた。ミルファを出てからまだ疲れが抜けきっていない。木札の箱はアリアが半ば強引に背嚢の上へ括り直し、薬袋の一部はエノクが持ち、アイオンは「私は歌と空気を運びます」と言ってアリアに睨まれ、結局水袋を二つ持たされた。


「この道、本当に人が通るんですか」


 エノクは、目の前にそそり立つ岩の段差を見上げながら言った。段差というには高く、崖というには低い。人間の足には悪意があり、竜の足には少し退屈な程度の道だった。


 アイオンは帽子のつばを押さえた。


「人も通ります。通った後で、二度と来ないと誓う者が多いだけです」


「それ、道としてはどうなんですか」


「竜族に言わせれば、弱い足の方が悪いのでしょう」


 ティンカーベルが鞘の中で鳴った。


「文句を言う前に膝を使え。石へ真正面から登るな。右の割れ目に足を置け」


「右の……これ?」


「それは苔だ。滑って頭を割る気か」


 アリアが上から手を差し出した。


「違う。こっち。掴んで」


「ありがとう」


「礼は上がってから」


 エノクはアリアの手を借りて岩を登った。悔しいが、彼女の手は強く、迷いがない。引き上げられた瞬間、自分の身体がいかに余計な力を使っていたか分かる。アリアは続いてイリスへ手を伸ばした。イリスは少し躊躇したが、素直に掴む。アリアは彼女を引き上げながら言った。


「荷物、重いなら言う」


「大丈夫です」


「大丈夫な顔じゃない」


「……少し重いです」


「最初から言う。倒れてから言うのは報告じゃなくて事故」


「はい」


 イリスは叱られながらも、どこか安心したように息を吐いた。アリアの厳しさは、旅の中で少しずつ形を変えていた。冷たく見えるが、倒れる前に止める。無理を見抜く。強がりを許さない。イリスにとって、それは神殿の優しい言葉よりも現実的な支えになっているようだった。


 岩場を越えると、景色が開けた。そこには、巨大な水があった。


 龍神湖は、海のように広くはない。だが、海よりも深く見えた。竜骨山脈の谷間に抱かれ、青と銀と黒を重ねた水面が、風もないのにゆっくり脈打っている。湖岸の岩は白く、まるで古い骨が半ば水に沈んでいるようだった。水辺には人里らしいものがない。桟橋も、漁小屋も、祠の煙も見えない。代わりに、湖の周囲には巨大な石柱が立っていた。いくつかは倒れ、いくつかは水中へ沈み、いくつかはまだ天を突くように立っている。石柱には竜文字が巻きつき、薄い青い光が脈のように走っていた。


 エノクは思わず息を呑んだ。美しい、と思った。けれど、その美しさには人を招く柔らかさがない。神殿の白い庭や、ランバードの聖堂壁画に描かれる湖とは違う。ここは竜族の領域であり、人間が勝手に感動して足を踏み入れてよい場所ではない。湖そのものが、そう告げていた。


 イリスは聖印に手を当て、小さく祈りの姿勢を取った。


「……水が、生きています」


「水はだいたい生きている」


 ティンカーベルが言った。


「そういう意味ではなくて」


 イリスは少し困ったように湖を見た。「祈りを返してくるんです。言葉ではないのですが、こちらを見ているような」


 アイオンは湖面を見つめたまま、珍しく茶化さなかった。


「竜族の霊脈です。水であり、道であり、記憶でもある。下手に祈ると、祈りの方が試されます」


「試される?」


「あなたの名が、水に耐えられるかどうか」


 イリスは小さく身震いした。エノクも胸元の鍵に触れそうになり、途中で手を止めた。名を隠す時に胸へ手をやるな。もう何度も言われたことだが、この場所では、そういう小さな癖まで湖に見られているような気がした。


 アリアは湖岸へ向かおうとして、足を止めた。


「結界」


 短く言った。


 彼女の前の空気が、かすかに歪んでいた。目にはほとんど見えない。だが、湖へ続く白い岩の上に、薄い膜のようなものが張られている。陽の光を受けると、膜の表面に鱗のような模様が浮かび、すぐに消えた。アリアは小石を拾い、軽く投げる。小石は何もない空間に当たったように弾かれ、乾いた音を立てて足元へ転がった。


「強いわね」


 アリアは目を細めた。


 ティンカーベルが言った。


「竜族の古い結界だ。刃で斬るものではない」


「斬ろうとしてない」


「目が少し斬ろうとしていた」


「剣に目を読まれたくないわ」


 アイオンは結界の前へ進み、竪琴を背から下ろした。エノクは少し期待した。アイオンなら、歌で何かできるかもしれない。だが彼は弦を一本だけ軽く弾き、すぐに手を離した。音は結界に触れる前に沈んだ。湖が聞くのを拒んだようだった。


「おや」


 アイオンは苦笑した。


「開かないんですか」


「開くどころか、挨拶を無視されました。なかなか気位の高い湖です」


「あなたでも駄目なんですね」


「私を何でもできる便利な嘘つきだと思っていましたか」


「半分くらい」


「成長しましたね。半分は正解です」


 アリアが腕を組む。


「どうするの。ここまで来て引き返す?」


「まさか」


 アイオンは湖の奥を見た。「竜族の結界は、人間を完全に拒むものではありません。通る理由と、通す相手を選ぶだけです」


「どうやって選ぶの」


「たいてい、向こうから誰かが来ます」


「来なかったら?」


「その時は、湖畔で竜族への悪口を歌います」


「それで来るんですか」


「怒って来ます」


「最悪の交渉術ね」


 エノクは結界の前に立った。湖が近い。だが、指先を伸ばしても届かない。龍神湖へ来た。竜王ザッハのもとへ向かうために。七英雄の一人に会い、自分が何を背負っているか知るために。けれど、湖はただそこにあり、人間の決意など水面の小さな波ほどにも受け取らない。彼は自分がまた、弱い人間として立たされているのを感じた。


「エノク、触るな」


 ティンカーベルが言った。


「分かってる」


「分かっている顔で触るな」


「触らないよ」


 そう答えた時、湖面が動いた。


 風ではない。水の奥から、ゆっくりと円が広がった。青い水面に銀の輪が走り、遠くの石柱が一つ、低く鳴った。音は鐘ではなく、骨の中を響く太鼓のようだった。イリスが息を呑み、アリアが双剣の柄へ手を置く。アイオンは帽子を上げ、目を細めた。


 結界の向こう、湖岸の白い岩の上に、いつの間にか少年が立っていた。


 いや、人間の少年と呼ぶには、あまりにも気配が違った。背はエノクより少し高く、身体はしなやかで、若い獣のような力を内に溜めている。髪は暗い赤銅色で、陽を受けると鱗のような金の光が混じった。耳はわずかに尖り、頬から首筋にかけて薄い鱗が走っている。頭の両側には髪に隠れるほどの小さな角があり、瞳は琥珀色、怒りを含むと縦に細くなる獣の瞳だった。身に着けているのは人間の鎧ではない。革と鱗と骨を組み合わせた軽装の戦装束で、胸と肩を守る鱗装甲には湖の青い紋が刻まれている。腰には細身の竜剣。レイピアに似ているが、刃は金属というより、磨かれた骨と水底の青い鉱石を合わせたような不思議な光を持っていた。


 少年は結界の向こうから、エノクたちを見下ろした。実際には同じ高さに近いはずなのに、視線だけで高みに立っているように見える。


「人間どもが、こんなところまで何しに来た」


 声は若く、荒く、まっすぐだった。礼を包む布を最初から持っていない声である。


 エノクは一歩前へ出ようとし、アリアに腕で止められた。アイオンが帽子を取り、軽く一礼する。


「これはこれは。湖の門番殿でしょうか」


「誰が門番だ」


 少年の眉が跳ねた。


「失礼。では、湖の若き番犬殿」


「喧嘩売ってんのか、吟遊詩人」


「言葉を選び直した結果、少し悪化しました」


「黙れ」


 ティンカーベルが鞘の中で小さく言った。


「口が悪いな」


「君が言うの?」


 エノクは思わず囁いた。少年の耳がぴくりと動く。


「剣が喋ったか」


「ええ」


 エノクは答えた。


「珍しいだろうと思いますが」


「珍しくはあるが、驚くほどじゃねぇ。竜の里には、百年眠ってから文句だけ言う槍もある」


「ちょっと会ってみたい」


「お前が会ってどうすんだ。槍に説教されるだけだろ」


 少年は鼻で笑った。「で、弱そうな人間。お前が代表か?」


 エノクは一瞬言葉を失った。


「弱そう」


「違うのか?」


 少年は結界の向こうで腕を組み、エノクを上から下まで見た。「立ち方が甘い。足が岩を掴んでねぇ。剣を持ってるくせに肩が剣に負けてる。霊脈の前で息が浅い。そんなので湖へ近づいたら、水に名を持っていかれるぞ」


 ティンカーベルが低く言った。


「悔しいが、だいたい正しい」


「そこは否定してほしかった」


「嘘は言わない」


 アリアが前へ出た。


「初対面でずいぶんな口ね」


 少年の視線がアリアへ移る。彼は一瞬だけ目を細めた。アリアの立ち方と双剣を見たのだろう。今度は見下すだけではなく、少し警戒が混じった。


「そっちは少しは動けそうだな。だが、人間の剣舞だ。竜の爪には届かねぇ」


 アリアの口元が冷たく上がった。


「試してみる?」


「結界がなきゃ、今すぐでも」


「結界の内側で強がるの、便利ね」


 少年の瞳孔が縦に細くなった。空気が熱を帯びる。エノクは慌てた。出会って早々、アリアと少年が本気で喧嘩しそうになっている。いや、アリアの方は本気ではないかもしれない。だが、少年は挑発に乗りやすそうだった。


 イリスが小さく一歩出た。


「あの、私たちは争いに来たのではありません」


 少年は彼女を見た。


「神官か。細いな。そんな身体で山道を越えてきたのか?」


「はい。何度か転びかけましたが」


「転びかける前提で来るな。神殿にいればよかっただろ」


 アリアの眉が動いた。エノクもむっとしたが、イリスは少しだけ目を伏せ、しかし逃げずに答えた。


「神殿にいては届かない場所があると知ったので、来ました」


 少年は少しだけ黙った。その答えは、彼の予想と違ったのかもしれない。だが、すぐに鼻を鳴らした。


「人間はよく言う。届かない場所へ行くとか、守るとか、救うとか。で、だいたい途中で死ぬ。死んだ後で助けてくれと泣きつくのは、こっちの霊脈だ」


「ずいぶん人間が嫌いなようですね」


 アイオンが言った。


「嫌いじゃねぇ。弱いくせに騒がしいのが面倒なだけだ」


「なるほど。嫌いより悪い」


「てめぇ、本当に口が減らねぇな」


「商売道具ですので」


 少年は舌打ちした。そして、エノクへ視線を戻す。


「何しに来た。観光なら帰れ。巡礼なら外の祠で祈れ。竜王に会いたいなら諦めろ。親父は、人間の子どもに会うほど暇じゃねぇ」


「親父?」


 エノクは思わず聞き返した。


 少年は眉をひそめた。


「聞こえなかったのか」


「あなたは、竜王ザッハの」


「テイルだ」


 少年は名乗った。名乗るというより、名を投げた。


「テイル・ザッハリオン。竜王ザッハの血を継ぐ者だ。人間にはテイルでいい。長い名を噛むだろ」


「噛みません」


 エノクは言いかけたが、たぶん噛むと思って途中でやめた。


 アイオンが微笑む。


「これは光栄。竜王の御子にお会いできるとは」


「その言い方やめろ。気色悪い」


「では、若竜テイル殿」


「殿もいらねぇ」


「テイル君」


「斬るぞ」


「距離感が難しい」


 ティンカーベルが低く言った。


「アイオン、少し黙れ。話が進まん」


「剣殿に進行を叱られるとは」


 エノクは深く息を吸った。弱そうな人間。そう言われたことは痛かった。だが、事実でもある。アリアやティンカーベルが自分を未熟だと言うのとは違う。テイルの言葉には、人間そのものを軽く見る響きがあった。反発したい。けれど、反発できるほど強さを示せない。だからこそ、彼はできるだけまっすぐ立った。


「僕たちは、竜王ザッハに会いに来ました」


「だから、諦めろと言った」


「七英雄の一人として、聞きたいことがあります」


 テイルの目が鋭くなった。


「七英雄」


 その声には、誇りと苛立ちが混じっていた。


「人間はいつもそれだ。七英雄、七英雄。千年前の歌を持ち出して、親父に何かを求める。力を貸せ。知恵を貸せ。竜の血を貸せ。霊脈を開け。湖を渡らせろ。世界が危ないから動け。お前ら、人間の王国がいくつ燃えようが、竜の大地まで勝手に踏み込んでくる理由にはならねぇんだよ」


 アリアの目が冷たくなった。イリスも胸の聖印を握る。エノクは、ランバードの名を出されていないのに、自分の胸が疼くのを感じた。人間の王国がいくつ燃えようが。テイルにとっては、そう見えるのかもしれない。竜族の湖から見れば、人間の戦火は遠い。だが、燃えた場所にいた者にとっては、遠くない。


 エノクは言った。


「僕は、力を貸してほしいと言いに来たわけではありません」


「じゃあ何だ」


「知りに来ました」


 テイルが鼻で笑う。


「知ってどうする。弱い人間が真実を知ったら強くなるのか」


「分かりません」


「は?」


「分かりません。でも、知らないまま剣を持つよりは、知ってから迷いたい」


 テイルは呆れたようにエノクを見た。


「迷いたい? 馬鹿か。迷うなら最初から来るな。戦うなら戦う。逃げるなら逃げる。弱い上に迷う奴が一番邪魔だ」


 その言葉は鋭かった。だが、エノクは逃げなかった。以前なら、言い返せずにうつむいたかもしれない。今も胸は痛い。悔しい。だが、ミルファで名を拾ったイリス、滅びた国を背負うアリア、嘘を隠すアイオン、重さを教えるティンカーベルとここまで来た。迷っていること自体を、もう完全には恥じなかった。


「僕は弱いです」


 エノクは言った。「迷います。剣もまだうまく使えません。船にも酔いました。川でも転びかけます。人を助けようとして邪魔になったこともあります」


「自慢げに言うことか」


「自慢じゃありません。事実です。でも、弱いから何も見なくていいとは思いません。迷うから、誰にも会わなくていいとも思いません。竜王ザッハが七英雄として何を見て、何を失敗したのか。僕はそれを知りたい」


 テイルの顔つきが変わった。怒りだけではない。失敗、という言葉に反応したのだ。


「親父が失敗しただと?」


 空気が熱くなった。テイルの首筋の鱗が淡く光り、琥珀の瞳が縦に裂ける。結界の内側で、湖面がざわめいた。エノクは身を固くした。ティンカーベルが低く警告する。


「下がるな。だが挑発するな」


 アイオンが静かに割って入った。


「若竜殿。彼は侮辱しているわけではありません」


「てめぇは黙ってろ」


「ええ、できれば黙っていたい。ですが、ここであなたが怒りに任せると、湖の結界が少し荒れます。霊脈に響くでしょう。お父上に叱られませんか」


 テイルの眉が跳ねた。


「てめぇ、竜の霊脈が分かるのか」


「歌い手は、震える弦に敏感なのです」


「胡散くせぇ」


「よく言われます」


 テイルはエノクを睨みつけたまま、しばらく黙った。やがて、荒く息を吐く。


「親父は失敗なんかしてねぇ。竜王ザッハは、千年前にこの大地を守った。湖を守った。竜族の血を守った。人間の歌が何を言おうが、親父は竜王だ」


「なら、会わせてください」


 エノクは言った。「直接、聞きます」


「会わせねぇ」


「どうして」


「弱いからだ」


 テイルは即答した。「龍神湖は、人間の根性試しの場じゃねぇ。霊脈が裂けかけてる。黒い炎の匂いも山に入ってきてる。そんな時に、名も体も薄っぺらい人間を中へ通せるか」


 イリスが息を呑んだ。


「霊脈が裂けかけている?」


「神官には聞こえねぇのか」


 テイルは苛立ったように湖を指した。「湖の底が軋んでる。山の根が冷えてる。黒い火に焼かれた村の声が、川を伝ってここまで来てる。人間の村で起きたことが、竜の湖へ来ないと思うな。だから人間を入れたくねぇんだよ。弱いくせに、傷だけ持ってくる」


 その言葉に、エノクは反論できなかった。ミルファの黒い炎は、この湖にも届いている。人間の災いは、人間だけで終わらない。海にも、山にも、霊脈にも広がる。テイルの人間嫌いは傲慢だが、そこには竜の側から見た痛みもあるのかもしれない。


 アリアが静かに言った。


「弱い者は、傷を持ってくるだけじゃない」


「何だと」


「傷を見たから、伝えに来ることもある。黒い炎が村の名を焼いた。海にも影が出た。ここにも届いているなら、なおさら閉じているだけでは済まない」


「人間に言われなくても分かってる」


「なら、分かっている者同士で話すべき相手は、あんたじゃなくて竜王でしょ」


 テイルは歯を食いしばった。アリアの言葉は彼の誇りを正確に刺したらしい。自分が門前で止める役目ではなく、本当はもっと前へ出たい。だが父に止められている。そんな苛立ちが見えた。


 イリスが一歩前へ出た。


「テイルさん」


「さんはいらねぇ」


「では、テイル」


「いきなり呼び捨てかよ」


「すみません」


「謝るな。調子が狂う」


 イリスは少しだけ困った顔をしたが、そのまま続けた。


「私たちは、黒い炎に焼かれた村から来ました。私は、すべての魂を救えませんでした。名を取り戻せなかった方もいます。もし、その痛みが湖まで届いているなら、私も知りたいです。神殿の祈りが届かなかった場所へ行くために、旅に出ました。竜族の湖が人間を拒む理由があるなら、それも聞きたいのです」


 テイルはイリスを見た。細い、弱そうな神官見習い。けれど彼女の声は、先ほどよりも静かに湖へ届いていた。結界の表面に、ほんの少し白い光が触れる。テイルの表情がわずかに変わった。


「……お前、変な祈りを持ってるな」


「変、ですか」


「水が嫌がってねぇ」


 イリスは戸惑ったように聖印を握った。


「それは、よいことなのでしょうか」


「知らねぇ。少なくとも、そこの弱い剣持ちよりはましだ」


「また僕」


「お前が一番危なっかしい」


 テイルはエノクを指した。「竜の結界は、強い奴だけを通すわけじゃねぇ。だが、自分の薄さに気づいてねぇ奴は通さねぇ。湖の前で名を剥かれたら、すぐ沈むからな」


「薄いって、何が」


「存在だよ」


 テイルは苛立ったように言った。「血は妙に古い。胸元に何か隠してる。剣も普通じゃねぇ。けど、お前自身はまだ薄い。自分の形を掴みきれてねぇ。そんな奴が霊脈へ入れば、湖の声に引っ張られる」


 エノクは言葉を失った。王家の鍵、アベルの血、森で育った名、まだ掴めない自分自身。テイルはそれらの意味を知らないはずだ。だが、竜の血は何かを感じ取っている。エノクの内側にある古さと、本人の未熟さのずれを。


 ティンカーベルが低く呟いた。


「嫌なほど見えているな」


「竜の目って、そういうものなの」


「竜の血は大地の記憶を聞く。人間の目とは違う」


 アイオンは湖を見つめたまま言った。


「テイル。では、試せばよいのでは」


「何を」


「結界の前で、湖の名を聞けるかどうか」


 テイルは眉をひそめた。


「人間が龍神湖の名を聞けるわけねぇだろ」


「聞けないなら、それまで。聞けるなら、あなたの判断だけで追い返す理由は少し弱くなる」


「てめぇ、簡単に言うな。湖の名を聞こうとして壊れた人間だっている」


「壊すつもりなら提案しません」


「信用できるか」


「できません。ですから、あなたが見張る」


 テイルはアイオンを睨み、次にエノクを見た。エノクは何も言えなかった。湖の名を聞く。何をするのか分からない。ただ、その言葉だけで胸の奥が震えた。名を失った村を見たばかりだからだろうか。名を聞くことが、ただの試験ではないと感じた。


 アリアがエノクに言った。


「無理だと思うなら断りなさい」


「断っていいの?」


「当然。試練っぽい言葉に乗せられて死ぬ奴は多い」


「死ぬんですか」


「竜族の試しなんて、だいたい危ないでしょ」


 テイルが横から言った。


「死にはしねぇ。たぶん」


 全員の視線が刺さった。


「たぶんは危ない言葉です」


 イリスが真面目に言う。


「うるせぇな、人間ども」


 テイルは不機嫌そうに腕を組んだ。「湖の縁に手を触れず、結界越しに耳を澄ますだけだ。聞こえなければ終わり。聞こえすぎたら、オレが止める」


「本当に止められるの?」


 アリアが問う。


「竜族の結界の中で、オレが人間ひとり止められねぇと思ってんのか」


「思ってるというより、短気そうだから心配してる」


「てめぇ」


「やる前に喧嘩しない」


 ティンカーベルが言った。「エノク。選べ」


 エノクは湖を見た。青く深い水。人間を拒む結界。竜王ザッハへ続く入口。ここで引き返すことはできない。だが、ただ意地で進むのも違う。彼は弱い。迷う。薄いとまで言われた。けれど、名を聞くというなら、自分にはやらねばならない気がした。名を失うものと戦う旅なら、最初に拒む湖の名を聞くことから始まるのかもしれない。


「やります」


 エノクは言った。


「即答しないだけ、少しはましになったな」


 ティンカーベルが言った。


 テイルは結界の向こうで鼻を鳴らした。


「強がるなよ、弱い人間」


「強がりません」


「なら、その場に膝をつけ」


 エノクは言われた通り、結界の前で片膝をついた。白い岩は冷たく、掌を置くと湖の脈が遠く響くようだった。触れてはいない。結界が間にある。けれど、水の気配が皮膚の内側へ入ってくる。イリスが後ろで祈りを小さく唱え、アリアがすぐ動ける位置に立ち、アイオンが竪琴へ手を置き、ティンカーベルが腰で静かにしている。


「目を閉じろ」


 テイルの声が来た。


「余計な名を思うな。自分の名前だけ持っていろ。湖の名を奪おうとするな。呼ばれたら返事をするな。ただ聞け」


「返事をしない?」


「竜の名に返事をするには、血と誓いが要る。人間が軽く返せば、持っていかれる」


 エノクは目を閉じた。


 最初に聞こえたのは風だった。次に、遠い水音。岩の内側を流れる水、山の下で眠る水、湖の底でゆっくり巡る水。音は徐々に言葉のようになり、けれど人間の言葉ではなかった。重い。深い。長い。ひとつの名というより、山脈と湖と竜の血が何千年もかけて互いを呼び続けた響きだった。エノクはその中で、自分の名前を見失いそうになった。エノク。シモンが呼んだ名。母が名づけた名。水鏡に映った名。ランバードの名は背後にある。けれど今、彼はエノクとして立つ。いや、膝をついている。湖の前で、弱い人間として。


 水の奥から、低い声がした。


 名ではない。だが、名の前にある呼吸だった。


 彼は答えそうになった。胸元の鍵が熱を持つ。水の響きが、鍵の奥にある古い血へ触れる。アベル。ザッハ。アルティエル。パンドラボックス。知らない名たちが、水の底で目を開くような気配がした。


「返事をするな」


 テイルの声が、遠くから鋭く飛んだ。


 エノクは歯を食いしばった。自分の名を握る。エノク。ただのエノク。森で育ち、転び、叱られ、守られ、まだ弱いエノク。


 その瞬間、湖の響きが少しだけ形を変えた。拒絶ではない。受け入れでもない。獣が見知らぬものの匂いを嗅ぎ、噛むべきかどうか決めかねているような気配だった。エノクは呼吸を続けた。やがて、水音は遠ざかり、風の音へ戻った。


「そこまで」


 テイルが言った。


 エノクは目を開けた。全身が汗で濡れていた。膝が震え、立ち上がろうとして力が抜ける。アリアが肩を掴んで支えた。


「無理するな」


「返事、しなかった」


「それだけで十分」


 イリスが心配そうに覗き込む。


「エノクさん、大丈夫ですか」


「たぶん」


「たぶんは」


「危ない言葉でした。大丈夫です」


 アイオンが静かに笑った。


「よく耐えました。湖に名前を持っていかれずに済んだ」


 テイルは結界の向こうで、納得のいかない顔をしていた。だが、さっきまでの侮りだけではない。少なくとも、完全に馬鹿にする目ではなくなっていた。


「聞こえたのか」


「少しだけ」


「嘘ならすぐ分かるぞ」


「嘘じゃありません。言葉にはできないけど、山と水が長く呼び合っているような」


 テイルの表情がわずかに動いた。


「……人間にしては、ましな聞き方だ」


「それは、褒めてますか」


「褒めてねぇ」


 アリアが小さく言った。


「微量に褒めてる」


「褒めてねぇ!」


 テイルは怒鳴り、それから気まずそうに湖を見た。結界の鱗模様が一度、淡く光る。湖が何かを決めたようだった。


 やがて、テイルは乱暴に手を振った。


「ついて来い。ただし、勝手に動くな。湖へ手を入れるな。竜文字に触るな。水の音に返事をするな。親父の前で妙なことを言うな。特にそこの吟遊詩人、余計な歌を歌ったら湖へ沈める」


「歓迎の言葉としては、かなり具体的ですね」


「歓迎してねぇ。通すだけだ」


「感謝します、テイル」


 エノクが言うと、テイルはそっぽを向いた。


「勘違いするな。お前を認めたわけじゃねぇ。湖が追い返さなかっただけだ」


「それでも、ありがとう」


「弱いくせに礼だけは素直だな」


 ティンカーベルが言った。


「そこが厄介でもあり、美点でもある」


「剣まで甘いこと言うな」


「甘くはない。事実だ」


 テイルは不満そうに顔をしかめ、結界へ手をかざした。彼の手の甲の鱗が青く光り、湖岸の石柱が低く鳴る。透明な膜に竜鱗の模様が浮かび、ゆっくりと左右へ開いた。そこから流れてきた空気は、さらに冷たく、深く、古かった。エノクは息を呑む。龍神湖の本当の領域が、その向こうにある。


 アリアが小声で言った。


「気を抜かない」


「はい」


 イリスが記録帳を胸に抱いた。


「竜族の名を、間違えないようにしないと」


 アイオンが帽子を整えた。


「さあ、竜王の湖へ。歌の続きとしては、申し分ない舞台です」


「歌うなと言ったろ」


 テイルが振り返って睨む。


「まだ歌っていません」


「顔が歌ってる」


「それは難癖では」


 テイルとアイオンが睨み合い、アリアがため息をつき、イリスが困ったように笑い、ティンカーベルが「先が思いやられる」と呟いた。エノクはその真ん中で、まだ震える膝に力を入れた。弱い人間。薄い存在。そう言われた。悔しい。だが、その通りでもある。だからこそ、彼は知りに来たのだ。竜王ザッハが何を守り、何を失い、どんな失敗を胸に沈めているのかを。


 結界の内側へ、一歩踏み入れる。


 湖の空気が、彼の名をそっと撫でた。奪うのではなく、確かめるように。エノクは返事をしなかった。ただ、自分の名を胸の内で握ったまま、竜族の領域へ足を進めた。


 龍神湖は静かに広がっていた。水面の下で、古い竜の記憶が目を覚まし始めていた。

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