表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第3部 龍神湖と不死皇帝
PR
20/34

第2話_竜王ザッハ

 結界の内側へ入った瞬間、エノクは自分の足音が変わったことに気づいた。白い湖岸の岩を踏む音が、外にいた時よりも深く響く。乾いた石を踏んでいるはずなのに、その下には水があるようだった。いや、水だけではない。古い骨、眠る竜、山の根、血の通う大地。それらが幾重にも重なり、足裏からゆっくりと身体の中へ伝わってくる。龍神湖の空気は冷たかったが、寒いわけではなかった。むしろ、あまりに古いものの息の中へ入ったため、自分の体温が頼りなく感じられる。エノクは胸元の鍵に触れそうになり、すぐ手を戻した。湖は見ている。名も、癖も、隠したいものも、すべて水面の下から見ている気がした。


 テイルは先頭を歩きながら、何度も振り返った。その視線は案内役のものではなく、いつでも追い返せるよう見張る者の目だった。アリアがそのさらに後ろで、テイルの背と周囲を同時に見ている。イリスは記録帳を胸に抱え、竜文字の刻まれた石柱を見上げるたびに小さく息を呑んだ。アイオンはいつもの調子で口を開きかけ、そのたびにテイルから「黙れ」と目で刺されて、珍しく言葉を飲み込んでいた。ティンカーベルはエノクの腰で静かにしている。剣が黙ると、湖の音がよく聞こえた。


 湖岸の道は、水の上へ伸びていた。白い岩が弧を描き、半ば水に沈みながらも足場を作っている。水は透き通っているのに底が見えない。覗けば、青ではなく黒へ落ちていく。時折、深いところで大きな影が動いた。魚ではない。竜の尾か、湖底の岩か、あるいは記憶そのものが形を持って泳いでいるのか、エノクには分からなかった。イリスがふと水面へ目を落とし、すぐに顔を上げる。


「呼ばれているように感じます」


 彼女が小さく言うと、テイルは振り返らずに答えた。


「返事をするなって言ったろ」


「はい。ですが、呼ばれていることは分かります」


「分かるだけならいい。分かったつもりで手を伸ばす奴が沈む」


「沈むのですか」


「身体だけじゃねぇ。名ごとだ」


 イリスは聖印を握り直した。エノクも喉が乾いた。名ごと沈む。ミルファで見た人々の顔が浮かぶ。母でありながら名を失ったミレナ。息子と呼ばれながらリウであることを失いかけた子。黒い炎だけではない。古い湖にも、名を奪うのではなく、名を重さで沈める力があるのだ。


「竜族は、いつもこんな場所に住んでいるんですか」


 エノクが訊くと、テイルは鼻で笑った。


「人間がいつも平らな道と煙い家に住んでるのと同じくらいにはな」


「それは、たぶん違います」


「人間のたぶんは信用できねぇ」


 アリアが横から言った。


「あなたのたぶんも大概よ」


「オレは竜だ」


「竜のたぶんは安全なの?」


「人間よりはな」


「根拠のない自信ね」


「根拠は血だ」


 テイルはそう言い切った。その言葉に、アリアの目が少し細くなる。血に誇りを持つ者。血の重さを知りながら、まだその危うさを知らない者。彼女は何か言いかけたが、言わなかった。今は竜王の領域であり、無用な衝突を増やす場所ではないと判断したのだろう。エノクはその沈黙を見て、アリアの剣が抜かれない時にも鋭いことを改めて知った。


 湖岸の道はやがて、巨大な石門へ至った。門といっても、扉はない。二本の竜骨めいた白い柱が水中から立ち上がり、その間に淡い青の幕が垂れている。水でできた幕だった。風もないのに揺れ、光を受けて鱗の模様を浮かべ、奥にあるはずの景色を歪ませている。テイルはためらわずにその前へ立ち、手の甲の鱗を光らせた。


「入るぞ。息を止めるな。息を止めると湖に笑われる」


「水の中へ入るんですか」


 イリスが緊張した声を出す。


「違う。水の下へ行く」


「違いが分かりません」


「分かる必要はねぇ。溺れなきゃいい」


「それは励ましですか」


「事実だ」


 テイルは水の幕へ踏み込んだ。身体が幕に触れた瞬間、彼の輪郭が青く滲み、次の瞬間には消えた。アリアが眉を寄せる。アイオンは帽子を押さえたまま、わずかに楽しそうだった。


「さあ、竜の客間へ。招待状の文面は最悪ですが、場所は悪くなさそうです」


「お前、本当に怖くないのか」


 ティンカーベルが言うと、アイオンは肩をすくめた。


「怖がるべき時ほど、顔に出さない練習を長くしてきましたので」


「嘘か」


「半分」


 アリアが先に入った。続いてアイオン。イリスは一度深呼吸し、エノクの方を見た。


「エノクさん」


「はい」


「もし私が水の中で慌てたら、背嚢ではなく記録帳を先に」


「助けるのはイリスです」


「でも」


「記録帳も助けます。でも、先にイリスです」


 イリスは目を丸くし、少しだけ笑った。


「はい。では、私もちゃんと息をします」


 彼女が水の幕へ入る。エノクは最後に残った。ティンカーベルが低く言う。


「怖いか」


「怖い」


「よし。怖くないと言ったら、柄で殴るところだった」


「剣なのに殴るんだ」


「必要ならな。行け」


 エノクは水の幕へ踏み込んだ。冷たいものが全身を包んだ。だが、濡れなかった。水の中にいるようで、水ではない。音が遠ざかり、次に心臓の音が大きくなり、それから湖全体の鼓動と重なった。自分の名が、水の中で一度ほどけかける。エノク。エノク・ランバード。森のエノク。王子。鍵の持ち主。未熟者。青玉の坊や。守られる者。名を忘れない少女の隣を歩く者。いくつもの呼ばれ方が水の中で揺れ、彼はその中心に、自分がまだ定まりきっていないのを感じた。怖かった。だが、彼は返事をしなかった。湖に名を渡さなかった。ただ、胸の奥でシモンに呼ばれた時の声を思い出した。エノク。そこへ戻る。


 次に足が石を踏んだ時、景色は変わっていた。


 そこは湖の底にある宮だった。竜宮、という言葉をエノクは書物で読んだことがある。だが、目の前の場所は、華やかな水底の城ではなかった。巨大な洞窟と神殿と巣が一つになったような空間である。天井は遥か高く、青い水の膜が空のように揺れ、その向こうを魚影とも竜影ともつかぬものがゆっくり通る。床は白い石と竜骨を組み合わせて作られ、柱は鱗状の紋様を帯び、壁の奥では霊脈の青い光が血管のように脈打っていた。ところどころに、人間のものではない巨大な座や、竜の爪で削ったような祭壇がある。人型の竜族もいた。鱗を持つ老人、角のある女、尾を引く子ども、巨大な翼を半ば畳んだ戦士。彼らは皆、エノクたちを見た。好奇心ではない。歓迎でもない。異物を見る目だった。


 テイルが先に進みながら言った。


「見るな。人間に見られるのを嫌う奴もいる」


「向こうも見ています」


 アリアが言う。


「ここはオレたちの湖だ」


「なら、そちらの勝手ね」


「喧嘩売ってんのか」


「買う気があるなら」


「アリアさん、ここでは控えめに」


 イリスが小声で言うと、アリアは少しだけ肩をすくめた。


「分かってる」


「今のは分かっている人の声ではありませんでした」


「イリスまで」


 ティンカーベルが低く笑った。


 宮の奥へ進むにつれ、空気はさらに重くなった。いや、水の圧のようなものが増していく。竜族の子どもが柱の陰からエノクを見て、「人間だ」と小さく言った。そばにいた母親らしき竜族がその子の肩を引き寄せる。人間は珍しいのだろう。だが、珍しいから見たいというより、近づくなと教えるために見せているようだった。エノクは少し胸が痛んだ。人間が竜族に何をしてきたのか、あるいは竜族が人間から何を見てきたのか、まだ知らない。ただ、自分たちが歓迎されていないことだけは、はっきり分かった。


 やがて、一行は広い円形の間へ出た。そこは宮の中心らしかった。床には巨大な竜の紋が刻まれ、その中央に水をたたえた円形の窪みがある。水面は静かで、まるで空を逆さに閉じ込めた鏡のようだった。その向こう、奥の高座に、竜王ザッハはいた。


 最初、エノクは彼が岩だと思った。あまりにも大きく、動かなかったからだ。高座の上にうずくまる巨竜の姿。古い青黒い鱗は山脈の夜のようで、一枚一枚に銀の傷が走っている。角は左右へ大きく伸び、その片方の先は欠けていた。翼は畳まれているが、広げればこの広間の半分を覆うだろう。首には古い鎖の跡があり、胸の鱗の一部は黒く焼けている。目は閉じられていた。だが、眠っているのではない。大地が黙っている時と同じ沈黙だった。


 テイルは高座の前で膝をついた。先ほどまでの荒さが嘘のように、頭を低くする。


「親父。連れてきた」


 巨竜の瞼が開いた。


 琥珀ではなく、古い黄金の目だった。瞳孔は縦に裂け、その奥には山と湖と戦場の記憶が沈んでいた。エノクはその目を見た瞬間、膝が揺れた。威圧されたのではない。計られたのだ。自分の名、血、鍵、恐れ、迷い、昨日の失敗、覚えたばかりの決意。それらが一瞬で見られた気がした。


 巨竜は口を開いた。声は空気ではなく、床と水と骨を震わせた。


「人間が、また来たか」


 ただそれだけの言葉で、広間の水面が波立った。イリスは胸の聖印を握り、アリアは一歩半だけ重心を落とし、アイオンは帽子を取って深く一礼した。ティンカーベルは鞘の中で沈黙したままだった。


 エノクは自分も膝をつくべきか迷った。テイルが膝をついている。ここは竜族の王の前だ。だが、ただ恐れて倒れるように膝をつくのは違う気がした。彼は少し迷い、それから片膝をついた。敬意として。屈服ではなく。


 ザッハの目が、わずかに細くなった。


「名を言え」


 エノクは息を吸った。


「エノクです」


「それだけか」


 問いには重さがあった。エノクは喉を鳴らす。家名を隠すことには慣れ始めていた。だが、この竜王の前で隠すことに意味があるのか分からない。湖はすでに血の古さを見た。ザッハはアベルを知っている。ならば。


「エノク・ランバード」


 広間の空気が変わった。


 竜族たちの間に、小さなどよめきが走る。テイルが驚いて振り返った。


「ランバードだと?」


 アリアは目を細め、イリスは息を呑み、アイオンは表情を動かさなかった。ティンカーベルだけが、静かに鳴った。エノクは膝をついたまま、ザッハを見上げる。


「滅びた王家の名です。僕は、その血を引いています」


 ザッハは長い沈黙の後、低く言った。


「アベルの血か」


 その声に、エノクの胸が強く脈打った。アベル。聖堂の歌の英雄。祖先。まだ自分には遠すぎる名。だが、ザッハの声の中にあったのは、信仰でも伝説でもなかった。実際にその名を呼んだ者の響きだった。


「アベルを、知っているのですか」


 エノクは問うた。


 ザッハの黄金の目が、過去を見た。


「知っている。あの人間は、恐れを知らぬ愚か者ではなかった。恐れを抱えたまま、我ら竜の前へ来た。膝は震えていたが、言葉は震えなかった。私に力を貸せと言いに来たのではない。世界を捨てられぬなら共に来い、と言いに来た」


 エノクは息を忘れた。聖堂の歌では、アベルは竜王を説き伏せた英雄として歌われる。だが、ザッハの語るアベルはもっと人間だった。膝が震えていた。恐れていた。それでも言葉は震えなかった。


「アベルは、強かったのですか」


「弱かった」


 ザッハは即座に答えた。


 エノクは言葉を失った。テイルでさえ目を見開いた。


「弱かった。人間としては強い。騎士としても、王子としても、旗としてもな。だが、竜から見れば脆い。牙も鱗も翼も持たず、百年の眠りも知らず、山の声も聞けぬ。ただの人間だった」


 ザッハの声は低く、遠かった。


「だが、弱いまま退かなかった。あれは、人間の持つ最も厄介な強さだった」


 エノクはその言葉を胸に受けた。弱いまま退かない強さ。テイルに弱いと言われたばかりの自分には、重く響いた。


 テイルが立ち上がりかけた。


「親父、この人間がランバードなら」


「黙っていろ、テイル」


 ザッハの声が広間を震わせた。テイルは口を閉じたが、不満は顔に出ている。


 ザッハはエノクへ視線を戻した。


「何を求めて来た」


「力ではありません」


 エノクはそう答え、すぐに自分でも驚いた。ここへ来るまでは、七英雄に会えば何かを得られるのだと思っていた。力か、知恵か、道か。だが、ザッハの前に立つと、「力をください」と言うことがあまりにも軽く感じられた。


「知りに来ました。千年前、何があったのか。カオスを封じたはずなのに、なぜ黒い炎が戻っているのか。七英雄は世界を救ったと語られています。でも、僕はもう、その歌をそのまま信じられません」


 ザッハの目が、わずかにアイオンの方へ動いた。ほんの一瞬だった。エノクは気づいたが、意味は分からなかった。アイオンは帽子を胸に当てたまま、軽い笑みを浮かべている。だが、その笑みは薄かった。


「誰の歌を聞いた」


 ザッハが問う。


「酒場で、七英雄の歌を。聖典とは違う歌でした」


「酒場の歌など、半分は嘘だ」


 テイルが吐き捨てるように言った。


 アイオンが小さく言う。


「残り半分が厄介なのです」


 ザッハはアイオンを見た。広間の水面が一度だけ震えた。何かを知る者同士の沈黙が、そこにあった。だが、ザッハは何も言わず、エノクへ戻った。


「七英雄の伝説は、美しく磨かれすぎた骨だ」


 竜王は言った。


「骨?」


「肉を失い、血を洗い落とし、傷を削り、見栄えよく磨かれたものだ。民はそれを神殿に飾り、子どもに見せ、英雄は偉大であったと歌う。だが、骨だけを見ても、その者がどれほど痛んだか、どれほど汚れたか、どれほど間違えたかは分からぬ」


 イリスが静かに息を吸った。彼女はミルファで、死者を数ではなく名として扱った。ザッハの言葉は、その逆を語っているようだった。英雄を名だけにし、傷を落とし、骨だけにすることの危うさ。


「我らは世界を救ったと語られている」


 ザッハの声はさらに低くなった。


「だが、救いきれなかった。魔王の肉体は封じた。魂魄と名は逃した。アルティエルは消え、アベルは死に、残った者たちはそれぞれの沈黙へ帰った。人々は勝利を欲し、我らは沈黙を選んだ。その沈黙が、次の災いの土になった」


 テイルが小さく動いた。


「親父」


「お前も聞け、テイル。竜の血を誇るなら、竜の沈黙も聞け」


 テイルは唇を噛んだ。エノクは胸が痛んだ。七英雄の勝利が完全ではなかったことは、シモンからも聞いていた。だが、七英雄本人の口から聞くと、その重さは違った。これは伝承の訂正ではない。千年を生きた後悔の声だった。


「あなたは、なぜ動かなかったのですか」


 問いは、口に出してから鋭すぎたと気づいた。アリアがわずかに目を動かす。テイルの瞳が怒りに細くなった。


「てめぇ」


 しかし、ザッハはテイルを制した。


「よい」


 巨竜はエノクを見た。


「その問いを持って来たなら、まだ話す価値がある。私は竜族を守った。大地を守った。霊脈を守った。そう言えば、いくらでも言い訳はできる。だが、事実は単純だ。私は人間の王国が焼けるより前に、十分には動かなかった。黒い炎が山の根に届くまで、湖を閉じていた。竜族を守るためという名で、外の痛みを見るのを遅らせた」


「それは」


 エノクは何か言おうとして、言葉を失った。責めるのは簡単だった。だが、彼もまた守りたい場所を持っている。シモンの森、仲間たち、名を失った村。守るものがある時、人は外へ出るのが遅れるのかもしれない。


 ザッハは続けた。


「アベルならば、先に飛び出しただろう。あれは、そういう男だった。だから死んだ」


 広間が静まり返った。


「アベルは偉大だった。だが、正しいだけではない。自らの命を最後の支払いにする者を、後世は美しく歌う。だが、残された者はその歌の下で生きねばならぬ。ランバードの王たちは、アベルの血を引くという理由で戦場へ立ち続けた。お前の国も、その歌に縛られていたのではないか」


 エノクは反論できなかった。父アルクスの顔を覚えていない。母セリスの声も、ほとんど知らない。だが、ランバード王がカオスへ鍵を渡さなかったことは知っている。その誇りは尊い。けれど、その選択が王国の滅びと無関係でないことも、彼はもう知っている。


「英雄は、後の者へ重荷を残す」


 ザッハは言った。


「力も、誇りも、罪も、名もな」


 エノクは拳を握った。


「それでも、僕は知りたいです」


「知れば、歌へ戻れなくなる」


「もう、戻れないと思います」


 ザッハの目が細くなる。湖の奥で、何かが低く鳴った。


「シモンは何と言った」


 突然の名に、エノクは息を呑んだ。


「シモンを」


「知っているか、だと? 知っている。あの傀儡子の糸に何度も角を絡められた。柔らかい顔をして、頑固な男だ」


 ティンカーベルが小さく鳴った。懐かしさかもしれない。


「シモンは、七英雄に会い、光だけでなく傷を知れと言いました」


「らしいな」


 ザッハは目を閉じた。


「あの男は、自分の傷を語るのが最後になる。昔からそうだ」


 アイオンが小さく笑ったような気配がした。だが、声はなかった。


 エノクは顔を上げた。


「ザッハ。あなたは、僕に力を貸してくれますか」


 広間の空気が再び重くなった。テイルが息を止める。アリアも、イリスも、アイオンも、ザッハの答えを待った。


 竜王は、ゆっくりと言った。


「貸さぬ」


 短い答えだった。エノクの胸が沈む。予想していなかったわけではない。それでも、ここまで来た自分の中に、どこかで期待があったのだと知った。七英雄に会えば何かが変わる。認められ、力を得て、先へ進める。そんな都合のよい期待が。


 ザッハはそれを見透かしたように続けた。


「力は、弱い者へ渡せば強くする薬ではない。未熟な器へ竜の力を注げば、器が割れる。アベルの血を引くからといって、竜の力を背負えるわけではない。まして、お前はまだ自分の名の重さも掴みきれておらぬ」


 テイルが少し得意げに見えた。だがザッハの次の言葉で、その表情は消えた。


「そしてテイル。お前にもまだ渡せぬ」


「親父!」


「黙れ。お前は強い。だが、強さを振るうことと、強さを預けられることは違う。お前はまだ、弱い者を邪魔だと呼ぶ。守るべき者の遅さに苛立つ。竜の力は、お前の怒りを大きくするためにあるのではない」


 テイルの顔が赤くなった。怒りと屈辱が混じっている。だが、ザッハの声の前では言い返せなかった。


 エノクは、そのやり取りを見ていた。自分だけが拒まれたのではない。テイルもまた、父から認められていない。強いのに。血を継いでいるのに。竜族であるのに。エノクは初めて、テイルの苛立ちの奥にあるものを少しだけ見た気がした。


「では、どうすれば」


 イリスが静かに問うた。


 ザッハは彼女を見た。厳しい目が、ほんのわずかに和らぐ。


「名を記す娘よ。お前の祈りは、湖が嫌わなかった。だが、祈りだけでも足りぬ。剣だけでも、歌だけでも、血だけでも足りぬ。今戻ってきている災いは、肉体だけの魔王ではない。魂魄と名を焼くものだ。ならば、次代の者たちは、それぞれの欠けたものを持ち寄らねばならぬ」


「私たちが」


「そうだ」


 ザッハの視線が、エノク、アリア、イリス、アイオン、そしてテイルへ移った。


「まだ形になっておらぬ寄せ集めだ。弱く、騒がしく、秘密を隠し、互いを知らぬ。だが、湖はお前たちを完全には拒まなかった」


 アイオンが小さく言う。


「それは誉れと受け取ってよろしいので?」


「お前に誉れを与える気はない」


「手厳しい」


「特にお前は、水面に映らぬところがある」


 アイオンの笑みが一瞬だけ止まった。エノクはそれを見逃さなかった。ザッハは今、何かに気づいている。けれど言わない。竜王もまた沈黙を選んでいるのか、それともまだその時ではないのか。


 ザッハは高座から身を起こした。巨大な体が動くと、広間全体が揺れた。水面が波立ち、石柱の青い光が強くなる。彼は胸の黒く焼けた鱗をわずかに開き、そこに残る古い傷を見せた。黒い炎の痕だった。千年前についたものか、近年のものか分からない。だが、その傷は今も完全には癒えていなかった。


「お前たちは、龍神湖の底に沈む記憶を見る」


 ザッハは言った。


「記憶?」


 エノクが問う。


「千年前、竜族が何を捨て、何を守り、何を見殺しにしたか。その一端だ。美しい歌ではない。英雄の像に飾る話でもない。それを見てもなお、ザッハの力を求めるなら、その時にまた問え」


「試練、ですか」


「試練と呼べば聞こえはよい。実際は、傷を見せるだけだ。見る者が耐えられぬなら、そこまでのこと」


 テイルが一歩前へ出た。


「親父、湖底の記憶は竜族でも」


「だからお前も見る」


「オレも?」


「お前は父の背だけを見て育った。傷を見ていない。見よ。お前が誇る竜の血が、どれほど黙り、どれほど遅れたかを」


 テイルは言葉を失った。エノクは彼を見る。若竜の横顔には怒りがあった。だが、その奥に、恐れもあった。自分が誇ってきたものの傷を見る恐れ。それはエノクにも分かる。ランバードの名を知った時、自分もそうだった。


 アリアが静かに言った。


「傷を見るのは、得意じゃないけど」


 彼女は双剣の柄に触れる。


「見ないで振る剣の方が、たぶん危ない」


 イリスは記録帳を抱きしめた。


「私は、見たものを忘れないように書きます」


 アイオンは帽子をかぶり直した。


「では私は、余計な歌を控えめに」


「控えめではなく、今は歌うな」


 テイルが低く言う。


「ほら、もう少し仲良くなれそうです」


「なってねぇ」


 ティンカーベルがエノクの腰で言った。


「エノク。どうする」


 問いは短かった。だが、そこには剣としての重さがあった。進めば、また知らなかったものを知る。英雄の美しい姿は削られ、傷が見える。戻れなくなる。けれど、ここで目を逸らせば、旅の意味を失う。


 エノクはザッハを見上げた。


「見ます」


 声は震えなかった。少なくとも、自分ではそう思った。


「アベルの血としてではなく、エノクとして見ます」


 ザッハの黄金の瞳が、静かに彼を見た。


「ならば来い、エノク・ランバード」


 竜王がその名を呼んだ瞬間、広間の中央の水鏡が深く開いた。青い水面が渦を巻き、底のない竪穴のように下へ伸びる。そこから冷たい風が吹き上がり、古い戦場の匂い、竜の血の匂い、黒い炎の焦げた匂いが混じって広がった。


 エノクは一歩前へ出た。アリアが隣に立ち、イリスが少し後ろにつき、アイオンが静かに息を整える。テイルは不満と恐れを噛みしめながら、別の側へ立った。ティンカーベルは鞘の中で重く沈黙している。


 竜王ザッハは、力を与えなかった。祝福も、武器も、竜の血も、何一つ差し出さなかった。


 代わりに、傷を差し出した。


 七英雄の伝説が美しいだけではないことを知るために、エノクたちは龍神湖の底へ降りようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ