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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第3部 龍神湖と不死皇帝
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第3話_ジャッジメント襲撃

 龍神湖の水鏡は、竜王ザッハの言葉に応じて深く開いていた。広間の中央に満ちていた静かな水は、もはやただの湖水ではなかった。底の見えぬ青い竪穴となり、奥から冷たい風を吹き上げている。その風には、古い竜の血と、焦げた鱗と、遠い戦場の鉄の匂いが混じっていた。エノクは水面の縁に立ち、まだ一歩も踏み出していないのに、足元が千年前へ引かれていくような感覚を覚えていた。ザッハは力をくれなかった。祝福も武器も渡さなかった。代わりに、傷を見るよう命じた。英雄の歌ではなく、英雄が見せなかった傷を。エノクはその重さを飲み込もうとしていたが、喉の奥にはまだ恐れが残っている。知らなければならない。だが、知れば戻れない。その予感が、水の底から立ち上っていた。


 テイルは水鏡の傍らで腕を組み、苛立ちを隠さずに立っていた。父に力を認められず、人間と同じように傷を見ろと命じられた屈辱は、彼の全身から熱となって漏れている。頬から首筋の鱗は薄く青く光り、琥珀の目は何かを噛み砕くように細い。アリアはその様子を横目で見ていたが、何も言わなかった。彼女は怒りを抱えた者に、正面から言葉を投げる危険を知っている。イリスは記録帳を胸に抱き、水鏡から吹き上がる古い記憶の風に耐えていた。アイオンは帽子のつばを下げ、竪琴の弦へ指を置いている。彼の顔には軽い笑みがある。だが、その指先は笑っていない。ティンカーベルは鞘の中で沈黙し、エノクの腰に重くあった。


 その時、龍神湖の水が鳴った。


 はじめは、遠い雷かと思った。だが、音は空からではなく、水の底から来た。広間を支える竜骨の柱が震え、天井の水膜に黒いひびのような波紋が走る。竜族たちが一斉に顔を上げた。高座のザッハが黄金の目を細める。テイルが先に反応した。


「外だ」


 彼の声には、怒りと歓喜に似たものが混じっていた。自分の苛立ちをぶつける敵が現れたと、身体が先に喜んでいる。アリアが一歩前へ出る。


「待ちなさい。様子を」


「待ってられるか」


 テイルはすでに駆け出していた。竜族の若い身体は、石床を蹴る音さえ鋭い。彼は水鏡の脇を抜け、広間の外へ向かう。ザッハの声が背後から落ちた。


「テイル」


 その一言だけで、宮の空気が重くなる。だが、テイルは止まらなかった。


「侵入者を見に行くだけだ!」


「見に行く足音ではない」


 ザッハの声は低かった。テイルは答えず、回廊の奥へ消えた。


「まずいわね」


 アリアが短く言った。


 アイオンは小さく息を吐いた。


「若竜は、怒りに翼が生えると足元を見なくなる」


「追いますか」


 エノクが問う。


「追うしかないでしょう」


 アリアはすでに走り出していた。「あれは罠に向かう足よ」


 エノクも続いた。イリスが一瞬だけザッハを見る。竜王は高座から動かなかった。だが、動かないことが、何も感じていないことではない。巨竜の鱗の下で、古い力が湖全体へ広がっていくのが分かった。宮そのものを守るため、ザッハは霊脈を押さえている。だから今、外へ出られるのは若い者たちだった。


 回廊を駆けると、湖底の宮の美しさは一変した。青い霊脈の光が赤黒く瞬き、柱に刻まれた竜文字のいくつかが黒い煤を帯びている。竜族の戦士たちが武器を取り、子どもや老人を奥へ退がらせている。水の膜越しに見える外の湖面が、不自然に荒れていた。龍神湖は普段、風のままに揺れる湖ではない。内側から大地の息を聞いて波を立てる。その湖が、今は外から叩かれていた。黒い火の槌で、名を持つ水の表面を割ろうとするように。


「何が来たのですか」


 イリスが息を切らしながら言う。


 ティンカーベルが低く答えた。


「この響きは、裁きの鐘だ」


「裁き?」


 エノクの脳裏に、炎上する王宮の光景がよみがえった。彼自身は赤子で覚えていないはずなのに、語られた記憶と夢の残響が重なる。黒鉄の巨体、鎖、槌、罪を宣告する声。ランバードを焼いた夜、王城に現れた魔王軍の処刑者。


 アイオンの声から軽さが消えた。


「ジャッジメントです。ベルフェゴールの副官。死刑執行人。魔王軍の中でも、特に融通の利かない鉄屑」


「知ってるの?」


 アリアが走りながら問う。


「酒場で聞きました」


「嘘」


「今は半分だけにしておきましょう」


 外縁の門へ出ると、龍神湖の岸はすでに戦場になっていた。湖を囲む結界の外側、白い岩場の上に黒い霧が立ちこめている。その霧の中から、鉄の鎖が何本も伸び、結界の鱗模様へ絡みついていた。鎖はただの金属ではない。一本一本に裁きの文言のような黒い文字が刻まれ、触れた結界の光を鈍らせている。竜族の戦士たちが咆哮し、竜気を放って鎖を断とうとするが、断たれた鎖は黒い霧の中で再び繋がる。湖の水はざわめき、石柱のいくつかには赤黒い罅が入っていた。


 黒い霧の中央に、ジャッジメントは立っていた。


 それは人型ではあったが、人と呼ぶにはあまりに重く、冷たい存在だった。全身を黒鉄の甲冑で覆い、頭部には顔の代わりに縦長の仮面があり、そこには目ではなく、二つの裂けた光が灯っている。背には罪人を吊るすためのような鎖が束となり、右手には巨大な処刑槌、左手には黒い判決書のような鉄板を持っている。彼の足元では、湖岸の白い岩が灰色に変わっていた。生命を焼くのではない。存在に罪名を貼りつけ、重くし、沈める力。黒い炎とはまた別の、魔王軍の悪意だった。


 ジャッジメントの声が、湖面を低く叩いた。


「判決を告げる。竜族ザッハリオンの血族、および龍神湖の霊脈は、千年前の怠慢、世界救済義務の不履行、魔王カオス封印失敗後の沈黙、ならびに人間領域災厄放置の罪により、有罪」


 アリアが低く吐き捨てた。


「よくもまあ、敵が裁きを名乗れるわね」


 イリスの顔も青ざめていた。


「罪の言葉で結界を縛っている……」


 アイオンが目を細める。


「厄介ですね。あれは真実を混ぜています。完全な嘘なら弾ける。ですが、竜族の痛むところを裁きの文言にしている」


 エノクはザッハの言葉を思い出した。湖を閉じていた。外の痛みを見るのを遅らせた。その傷を、ジャッジメントは鎖にしている。敵が真実の一部を利用しているのだと分かった瞬間、胸が冷えた。


 テイルは、すでに黒い霧へ飛び込んでいた。


「黙れ、鉄屑!」


 彼の竜気が爆ぜた。人型のまま、背中に青い翼の幻が開く。テイルの身体は岩場を獣のように跳び、竜剣が湖の光を帯びて走った。速い。アリアの剣舞とは違う。技の精密さより、血と身体能力で押し切る強さ。黒い鎖の一本を斬り、二本目を蹴り砕き、三本目を肩で受けながらジャッジメントへ迫る。


「テイル、止まりなさい!」


 アリアが叫んだ。


 だが、テイルは聞かなかった。彼は怒っていた。父を罪人として裁く声に、竜族の誇りを縛る鎖に、自分がまだ力を認められなかった屈辱に、すべてを混ぜて怒っていた。その怒りは強かった。だからこそ、罠へ真っ直ぐ向かった。


 ジャッジメントは動かない。処刑槌も振らない。ただ、黒い仮面の光がテイルを捉えた。


「追加判決。若竜テイル・ザッハリオン。血脈に依拠した傲慢、命令不服従、戦況把握能力不足。執行対象として適格」


「ごちゃごちゃうるせぇ!」


 テイルが竜剣を突き込む。刃はジャッジメントの胸に届く直前、見えない黒い枠に阻まれた。空中に鉄の文字が浮かび上がる。罪、罰、拘束、執行。その文字が鎖へ変わり、テイルの腕と翼の幻を絡め取った。


「なっ」


 テイルが振りほどこうとする。竜気が噴き上がり、鎖が軋む。しかし、その力が強いほど、鎖の文字が黒く輝いた。テイルの力を、鎖が吸っている。彼の竜気を逆に結界へ叩きつけ、龍神湖の防壁を内側から歪めているのだ。


 ティンカーベルが叫んだ。


「罠だ。竜気を結界破りに使われている」


 エノクはぞっとした。テイルはただ捕まったのではない。彼の強さそのものが、龍神湖を壊す槌にされている。


 ジャッジメントの声が続いた。


「若き竜の過剰出力を利用。結界内圧、上昇。父王の沈黙に対する子の怒り、霊脈干渉に適合」


「放せ!」


 テイルは咆哮した。彼の首筋の鱗が青白く輝き、角が伸びかける。人型が竜へ近づいていく。だが、変じれば変じるほど鎖は太くなった。ジャッジメントはそれを待っていた。


「このままでは」


 イリスが震える声で言った。「テイルさんの力で、湖の結界が裂けます」


「分かってる」


 アリアは双剣を抜いた。「エノク、前に出すぎない。イリスは鎖の文字を見て。アイオン、あの判決の言葉を乱せる?」


「乱すだけなら。止めるには、もう少し品の悪いことが必要です」


「品は後で拾いなさい」


 アイオンは笑った。


「では、遠慮なく」


 竪琴が鳴った。戦場に似合わぬ軽やかな音が、黒い霧へ滑り込む。アイオンは歌い始めた。


「裁く者よ、秤はどこだ。槌は重く、目は塞がれ、罪状ばかりが口を持つ。被告の声を聞かぬ裁きは、ただの鉄屑の独り言」


 ジャッジメントの仮面が、わずかにこちらへ動いた。


「妨害音声を確認。吟遊詩人。罪状未登録。登録を開始」


「おや、私の罪を数えるには紙が足りませんよ」


 アイオンの歌に合わせ、黒い鎖に刻まれた文字の一部が乱れた。完全には消えない。だが、判決の文言が一瞬だけもつれ、テイルを締める力が弱まる。アリアはその隙へ走った。足元の白い岩を蹴り、低く飛び、双剣を交差させる。鎖そのものを斬るのではない。文字と文字の継ぎ目、判決の意味が繋がる節を狙って刃を入れた。


「硬い」


 アリアが歯を食いしばる。火花が散り、鎖の一本に亀裂が入る。だが、ジャッジメントは処刑槌を軽く振っただけで、重い衝撃波を放った。アリアは身をひねって避けるが、岩場が砕け、破片が飛ぶ。エノクはイリスの前へ立った。以前なら敵へ走っていたかもしれない。今は違う。守る線を塞ぐ。ティンカーベルが鞘から抜け、飛んできた破片を刃の腹で弾いた。


「よし。追うな」


「分かってる」


「今の分かってるは、少し信用できる」


 エノクは短く息を吐いた。


 イリスは背後で聖印を握り、鎖の文字を見つめていた。彼女の顔は青い。だが目は逸らしていない。


「罪の言葉が、テイルさんの怒りに絡んでいます。『不服従』『傲慢』『父への反逆』……でも、奥に別の文字があります」


「何」


 エノクが問う。


「『証人』です。テイルさんを罰するだけではなく、竜族の罪を証明するための杭にしようとしている」


 アリアが鎖を避けながら叫んだ。


「つまり、あいつを引っこ抜けば裁きが崩れる?」


「はい。でも力ずくでは、鎖が強くなります!」


 エノクはテイルを見た。若竜は怒りのまま暴れている。竜気が膨らみ、鎖に吸われ、湖の結界が歪む。強い。圧倒的に強い。だが、その強さが今は敵の道具になっている。エノクは自分が何をできるか考えた。力では無理だ。テイルの鎖を断つほどの剣技はない。竜気もない。ならば。


「テイル!」


 エノクは叫んだ。


「暴れるな!」


 テイルが血走った目でこちらを見た。


「黙れ! 弱い人間が命令するな!」


「弱いから分かる! それは力で破れない!」


「分かったような口を」


「分からないよ! でも、君が強いから罠になってるのは見える!」


 テイルの顔が歪んだ。屈辱と怒り。弱い人間に、自分の強さが利用されていると指摘される。それがどれほど腹立たしいか、エノクにも分かった。だが、言わなければならなかった。


「力を抜け、テイル!」


「抜いたら縛られる!」


「今も縛られてる!」


 テイルが言葉を失った。その一瞬、竜気の噴出がわずかに鈍った。鎖の文字が揺らぐ。アイオンがすかさず弦を鳴らした。


「若竜よ、怒れ。怒るなとは言わぬ。ただし、怒りの手綱を敵へ渡すな」


「歌うな!」


 テイルが怒鳴る。


「歌ではありません。助言です。少し音程があるだけで」


 アリアが鎖の節へ二撃目を入れた。亀裂が広がる。イリスが祈りを重ねる。


「テイル・ザッハリオン。その名を、罪の杭としてではなく、あなた自身の名として保ってください」


 白銀の光が鎖の文字へ触れた。罪状の文字が一瞬だけ薄れる。テイルの目が揺れた。


「オレ自身の」


 エノクはその隙を見た。


「ティンカーベル」


「行くぞ。ただし、斬るのは鎖ではない。名の結び目だ」


「見えるの?」


「お前には見えん。だが、イリスが薄くした。私が示す。お前は足を間違えるな」


「分かった」


「本当に分かれ」


 エノクは駆けた。アリアのように速くはない。テイルのように跳べもしない。足場は悪く、湖の結界は震え、黒い鎖が彼を払おうとする。だが、彼は真っ直ぐ敵へ向かわなかった。イリスの光が触れて薄くなった文字、アイオンの歌で乱れた判決、アリアの刃が作った亀裂。そこへ向かう。自分一人では何もできない場所へ、皆が作った細い隙間を通って行く。


 ジャッジメントの仮面が彼を捉えた。


「ランバード血族を確認。優先対象。鍵の反応あり」


 黒い鎖が一本、エノクへ飛ぶ。ティンカーベルが叫ぶ。


「左下!」


 エノクは膝を落とし、鎖をくぐった。頬に黒い風がかすり、頭の奥で「有罪」という声が鳴る。彼は歯を食いしばる。自分が何の罪を負っているのか、まだ分からない。ランバードの血か。鍵を持つことか。王国を覚えていないことか。生き残ったことか。だが、今はその声に返事をしない。


 テイルを縛る中心の鎖が見えた。見えた、というより、ティンカーベルの刃がそこを向いた。イリスの祈りが白く細い線を作り、アイオンの音が黒い文字を歪め、アリアが開いた亀裂の奥に、鎖がテイルの名へ食い込む結び目があった。


「今だ」


 ティンカーベルが言った。


 エノクは剣を振った。力は足りない。技も足りない。だが、刃は確かに結び目へ入った。硬い手応えの後、何かがほどける感触があった。鎖が一本、音もなく切れた。金属ではなく、判決の意味が切れたのだ。


 テイルの竜気が逆流した。彼は苦しげに呻き、膝をつく。だが、その瞬間、鎖の束が緩んだ。


「アリア!」


「分かってる!」


 アリアが踏み込み、双剣で残る二本の節を斬った。アイオンの竪琴が鋭く鳴り、ジャッジメントの判決文が一瞬だけ噛み合わなくなる。イリスがテイルの名をもう一度呼んだ。


「テイル・ザッハリオン!」


 若竜の瞳に、焦点が戻った。彼は咆哮した。怒りではない。今度は、自分の名を取り戻すための声だった。鎖が弾け飛び、青い竜気が黒い霧を押し返す。テイルは膝をついたまま、荒い息を吐いた。


 だが、ジャッジメントは崩れなかった。むしろ黒鉄の巨体が一歩進み、処刑槌を高く掲げる。


「判決変更。竜族の証明杭、失敗。ランバード血族、および同行者を妨害対象として登録。刑執行」


 槌が振り下ろされる。狙いはテイルと、そのそばにいるエノクだった。アリアは間に合わない。アイオンの音も一拍遅い。イリスの祈りでは物理の槌を止めきれない。エノクはテイルの前に立とうとした。だが、テイルの腕が先に動いた。


「どけ!」


 テイルがエノクを横へ突き飛ばし、自分も跳んだ。処刑槌は二人のいた場所へ叩きつけられ、白い岩が砕け、湖水が黒く跳ねた。衝撃でエノクは転がり、息が詰まる。テイルも岩に肩を打ったが、すぐに立とうとした。足が震えている。竜気を吸われすぎたのだ。


「立つな、馬鹿!」


 アリアが怒鳴った。


「誰が馬鹿だ!」


「今のあんたよ!」


 ジャッジメントが二撃目を構える。その時、龍神湖全体が低く鳴った。


 ザッハの声が、宮の奥からではなく、湖そのものから響いた。


「そこまでだ、処刑人」


 湖水が立ち上がった。巨大な竜の頭の形を取り、青い顎を開く。ザッハ本体が外へ出たわけではない。霊脈を通した水の顕現だ。それでも、その威圧は圧倒的だった。ジャッジメントの鎖が一斉に軋む。


「竜王ザッハ。罪状確認済み。執行対象」


「我が罪を裁くには、貴様の秤は軽すぎる」


 水の竜が咆哮した。湖の霊脈が一斉に光り、黒い霧を吹き散らす。ジャッジメントは処刑槌を構え、真っ向から受けようとしたが、青い水の顎に呑まれ、黒鉄の巨体が大きく後退した。鎖が何本も砕け、結界に絡みついていた黒い文字が剥がれ落ちる。


 だが、完全に消えたわけではない。ジャッジメントの仮面の光が、エノクへ向いた。


「鍵の所持者を確認。ランバード血族、生存。ベルフェゴールへ報告。次回執行を準備」


 エノクの胸元の鍵が強く熱を持った。ジャッジメントの姿が黒い霧に沈み始める。アリアが追おうとしたが、アイオンが制した。


「追わない。あれは本体の全てではありません」


「逃がすの?」


「今追えば、湖の外へ誘われます」


 アリアは悔しげに舌打ちした。ジャッジメントの最後の声が、霧の奥から響く。


「判決は保留されぬ。罪は蓄積される。竜王、ランバード、名を拾う神官、嘘を歌う者、滅びた国の剣舞。全て記録した」


 黒い霧は湖岸から引いていった。鎖の残骸が白い岩に散らばり、やがて黒い灰となって消える。結界の鱗模様は傷つき、いくつかの石柱には赤黒い亀裂が残った。竜族の戦士たちが負傷者を運び、湖の水はまだ荒く波立っている。勝った、とは言えなかった。退けただけだ。


 エノクは息を吐き、ようやく自分の手が震えていることに気づいた。ティンカーベルの刃には、黒い文字の焦げ跡がついている。


「手入れがいるな」


 剣が言った。


「今それ?」


「今だからだ。放っておくと刃に残る」


 イリスが駆け寄ってきた。


「エノクさん、怪我は」


「大丈夫。たぶん」


 イリスの目が厳しくなる。


「大丈夫です」


「本当に?」


「……肩を少し打ちました」


「見ます」


 アリアもテイルの方へ歩いた。若竜は膝をついたまま、荒い息をしている。鎖の痕が腕と胸に黒く残り、鱗の光は弱い。だが、彼はアリアの手を払おうとした。


「触るな」


「手当てがいる」


「いらねぇ」


「イリス」


 アリアが呼ぶと、イリスはエノクを見ながらも頷いた。


「テイルさんも診ます」


「さんはいらねぇし、診なくていい」


「診ます」


 イリスはきっぱり言った。いつもの柔らかい声だが、譲らない響きがあった。テイルは言い返そうとして、言葉に詰まった。アリアが彼の前にしゃがむ。


「助けられたのが気に入らない?」


 テイルの顔が強張った。


「助けられてねぇ」


「じゃあ、あの鎖を自分で抜けた?」


「抜けた」


「嘘」


「てめぇ」


「怒る元気はある。けど、立てない。今のあんたは、強がるほど格好悪くなる」


 テイルは歯を食いしばった。エノクはその横顔を見た。屈辱。怒り。恥。弱いと思っていた人間たちに、助けられた。しかも、エノクにも。テイルにとって、それは傷より痛いのだろう。


 エノクは近づきすぎない距離で立ち止まった。


「テイル」


「何だよ」


「助けた、って言うと怒ると思うけど」


「分かってるなら言うな」


「でも、僕もたくさん助けられてきた。助けられるのは悔しいけど、悪いことじゃない」


 テイルの目が鋭くなる。


「お前と一緒にするな」


「うん。君は僕よりずっと強い」


「なら」


「でも、強いから罠になった。僕は弱いから、それが見えた」


 テイルは黙った。エノクの言葉は慰めではなかった。事実だった。だからこそ、余計に刺さる。エノク自身も、それを言うのが苦しかった。


「僕だけじゃ何もできなかった。アリアが鎖を斬って、イリスが名前を呼んで、アイオンが判決の言葉を乱して、ティンカーベルが教えてくれた。みんなで、何とかした。君も最後に僕を突き飛ばしてくれた」


「礼なんか言うな」


「じゃあ、言わない」


「言えとは言ってねぇ!」


 テイルは混乱したように怒鳴った。アリアが肩をすくめる。


「面倒な子ね」


「誰が子だ!」


「今のあんた」


 テイルは悔しげに拳を握った。黒い鎖の痕が痛んだのか、わずかに顔をしかめる。イリスがすかさず布を当てた。


「動かないでください」


「だから」


「動かないでください」


 イリスの声は静かだが、今度も譲らなかった。テイルはなぜか彼女には強く出きれず、顔を背けた。


「……勝手にしろ」


「はい。勝手に手当てします」


 アイオンが小さく笑う。


「若竜殿、すでに包囲されていますね」


「てめぇも黙れ」


「残念ながら、私はまだ無傷です」


「口だけ切ればよかった」


「ひどい」


 その時、湖の水が再び静まった。ザッハの気配が広がる。水の竜はすでに消えたが、その声は宮の奥から届いた。


「戻れ」


 短い命令だった。だが、そこには怒りだけでなく、深い疲れがあった。


 テイルはびくりと肩を揺らした。父に叱られることを予感している顔だった。だが、それ以上に、自分が父の前で何をしたかを理解し始めている顔でもあった。無謀に飛び出し、敵の罠にはまり、湖の結界を破りかけ、人間たちに助けられた。彼が誇っていた強さは、今日、敵に利用された。


 龍神湖の戦士たちは、傷ついた結界を修復し始めた。白い岩に残った黒い灰を払う者、霊脈へ祈りを捧げる者、負傷した仲間を水の宮へ運ぶ者。エノクたちも宮へ戻ることになった。テイルは立とうとしてよろめき、アリアに腕を掴まれた。


「いらねぇ」


「倒れたら引きずる」


「脅しかよ」


「親切」


「どこが」


 イリスが反対側から支えようとすると、テイルはさらに嫌そうな顔をした。


「神官まで」


「手当ての途中です」


「歩ける」


「歩ける方が、支えられてはいけない理由にはなりません」


 テイルは言い返せず、顔を真っ赤にした。エノクは少しだけ笑いそうになり、すぐに堪えた。今笑えば、本気で噛まれるかもしれない。


 水の幕をくぐり、湖底の宮へ戻る。傷ついた結界の影響か、宮の青い光は少し暗かった。ザッハは高座で待っていた。巨竜の黄金の目は、まずテイルへ向けられた。


「何をした」


 その声は静かだった。静かな分、重かった。


 テイルは唇を噛み、答えられなかった。


 ザッハは続けた。


「敵を見ず、罠を見ず、自分の怒りだけを見た。お前の力は、お前のものではなく敵の槌になった。竜の血を誇りながら、霊脈を傷つけた」


「……分かってる」


 テイルの声は低かった。


「本当に分かっているなら、ここで怒鳴らぬ。黙って傷の痛みを覚えろ」


 テイルは拳を握ったが、怒鳴らなかった。


 ザッハの視線が、次にエノクたちへ移った。


「人間たちよ。若竜を救ったこと、礼を言う」


 広間が静まり返った。テイルが顔を上げる。


「親父!」


「事実だ」


 ザッハは言った。


「お前が認められずとも、事実は変わらぬ」


 テイルの顔が屈辱で歪んだ。エノクはその痛みを見て、胸が重くなる。礼を言われて誇らしいというより、テイルの傷に触れてしまったようで、どう受け取ればよいか分からなかった。


 ザッハはエノクへ目を向ける。


「弱い人間と呼ばれてなお、退かなかったな」


「僕一人では、何もできませんでした」


「それを知っているなら、よい。強い者ほど、一人でできると思い込み、罠へ落ちる」


 その言葉は、テイルだけでなく、広間にいる竜族全体へ向けられているようでもあった。ザッハ自身の過去へも。


 アイオンが静かに言った。


「ジャッジメントは、湖の傷を知っていました」


「あれはベルフェゴールの副官だ。怠慢と罪の匂いに敏い。竜族の沈黙も、私の後悔も、奴には鎖の材料となる」


「次も来ますね」


「来る。今度は、より深く刺すだろう」


 イリスは記録帳を握った。


「ジャッジメントは、罪を使って人を縛るのですね」


「罪そのものではない」


 ザッハは答えた。「罪から目を逸らした心を縛る。だから厄介なのだ」


 アリアが双剣の柄に触れる。


「なら、目を逸らさなければいい」


「簡単に言う」


「簡単じゃないのは知ってる。でも、他にない」


 ザッハはアリアを見た。滅びた国の剣舞姫であることを、彼がどこまで見抜いているのか、エノクには分からない。だが、巨竜の目は一瞬だけ深くなった。


「お前も、いずれ裁かれる言葉を持つ」


「でしょうね」


 アリアは逸らさなかった。


 ザッハは目を閉じ、再び開いた。


「湖底の記憶を見る前に、今の襲撃を忘れるな。これは偶然ではない。黒い炎は村を焼き、海を濁し、竜の霊脈に触れた。魔王軍は、我らが何を悔いているかを知っている。お前たちがこれから見る傷は、過去で終わったものではない。今も敵の手に握られている刃だ」


 エノクは黙って頷いた。七英雄の傷を知ることは、歴史を学ぶことではない。今の戦いの中で、敵が利用する弱点を知ることでもある。ザッハの沈黙、テイルの傲慢、エノクの未熟さ。すべてが鎖に変えられる。


 テイルはまだうつむいていた。イリスの巻いた包帯が腕に白く目立つ。彼はそれを睨むように見ている。弱いと思っていた人間の神官に手当てをされ、弱いと思っていたエノクに助けられ、嘘つきの歌と剣舞姫の刃に救われた。その事実を、彼はまだ飲み込めない。だが、飲み込めないものが喉に残っていることこそ、彼の旅の始まりなのかもしれないとエノクは思った。


 ティンカーベルが小さく言った。


「屈辱は、腐らせれば毒になる。噛み砕けば骨になる」


「テイルに言ってあげたら」


「今言えば噛みつかれる」


「剣でも?」


「面倒だ」


 エノクは少しだけ笑った。するとテイルが睨んだ。


「何笑ってんだ」


「ごめん。ティンカーベルが」


「剣のせいにするな」


「本当に剣が」


「知ってる。だから余計腹立つ」


 アリアが呆れたように言う。


「元気になってきたわね」


「誰のせいだと思ってる」


「自分で飛び出したせい」


 テイルは言葉を失った。アイオンがつい竪琴を鳴らしかけ、ザッハに見られて手を止めた。


 龍神湖の広間には、まだ戦いの余韻が残っている。外では結界の修復が続き、湖底の霊脈は傷の痛みを低く鳴らしていた。けれど、水鏡は閉じていなかった。ザッハの差し出した過去の傷は、なお中央に開いている。ジャッジメントの襲撃で中断された試練は、むしろ意味を増してしまった。


 エノクはその水鏡を見た。今なら分かる。英雄の傷を見るとは、遠い過去を眺めることではない。現在の自分たちの弱さを、そこに重ねられることだ。テイルが罠に落ちたように。自分が迷いながら剣を振ったように。竜王ザッハが沈黙を後悔しているように。


 ザッハの声が、静かに落ちた。


「休め。傷を縫い、刃を清め、名を整えよ。その後、湖底へ降りる。今度こそ、目を逸らすな」


 エノクは頷いた。アリアも、イリスも、アイオンも、それぞれの沈黙で応じた。テイルだけは何も言わず、包帯の巻かれた腕を見つめていた。


 弱いと思っていた人間に助けられた屈辱が、若竜の胸で熱く燃えていた。それはまだ、感謝にはならない。友情にもならない。ただの痛みだった。だが、その痛みは、ジャッジメントの鎖とは違い、彼自身の内側に残った。


 その痛みをどう扱うかで、テイルという名の重さは変わる。


 龍神湖の水は、何も言わずに彼らを映していた。英雄の傷へ降りる前に、彼ら自身の傷が、すでに開き始めていた。

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