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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第3部 龍神湖と不死皇帝
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第4話_若竜の旅立ち

 龍神湖の夜は、地上の夜とは違う沈み方をした。空はない。湖底の宮の天井には青い水膜が広がり、その向こうで魚影とも竜影ともつかぬものがゆっくり通り過ぎる。水の揺らぎが柱や床へ薄い光を落とし、竜文字の刻まれた壁を、息づく鱗のように明滅させていた。だが、その美しさの奥には、昼間の襲撃が残した傷が確かにあった。外縁の結界はまだ完全には戻らず、湖岸の白い岩には黒い鎖の焼け跡が残り、霊脈を通る水の音も時折、痛みに似た軋みを含んだ。ジャッジメントは退いた。だが、去ったのではない。湖の深いところまで、あの処刑者の声は沈殿していた。有罪。執行。保留されぬ判決。エノクは休息のために与えられた石室で横になっても、その声を耳の奥から追い出せなかった。


 石室は人間の客に合わせてしつらえられたものではなかった。寝台は大きすぎ、掛け布は鱗のように重く、壁の水紋は眠る者の夢まで覗き込むように揺れている。イリスは隣室で傷ついた竜族の子どもの手当てを手伝っており、アリアは湖宮の衛兵と結界の損傷を見回りに出ていた。アイオンは、竜族の古老たちに囲まれて「嘘を歌う者とは何か」と問い詰められ、笑いながら逃げ場を探しているらしい。エノクは一人、ティンカーベルを膝に置き、刃についた黒い文字の焦げ跡を拭っていた。


「もっと布を短く持て」


 ティンカーベルが言った。


「こう?」


「違う。刃を撫でるな。汚れを追え。お前は剣を慰めているのか、手入れしているのか、どちらだ」


「両方では」


「気持ちは受け取っておくが、黒い判決文は気持ちでは落ちない」


 エノクは苦笑し、油を含ませた布で刃の根元を丁寧に拭いた。黒い焦げ跡は薄くなったが、完全には消えない。ジャッジメントの鎖を斬った時の手応えが、まだ腕に残っている。金属を斬ったのではない。罪状という意味の結び目を斬った。自分一人では見えなかった場所を、イリスの祈り、アイオンの歌、アリアの刃、ティンカーベルの導きで斬った。助けた、と言えるのだろうか。テイルは認めないだろう。けれど、あの若竜が鎖から解けた瞬間の表情を、エノクは忘れられなかった。怒りよりも先に、屈辱があった。強い者が、自分の強さを罠に使われ、弱いと思っていた人間に救われる痛み。その痛みは、黒い鎖よりも深く彼の胸に食い込んでいるに違いなかった。


「テイル、大丈夫かな」


 エノクが呟くと、ティンカーベルは少し間を置いた。


「身体は丈夫だ。竜族だからな」


「身体は?」


「心の方は、面倒な傷を負った」


「僕のせいでもある?」


「お前が助けなくても傷ついた。助けたから別の傷になっただけだ」


「どちらがよかったんだろう」


「生きている方だ」


 短い答えだった。エノクはそれ以上言えなかった。生きている方。単純で、けれど重い。黒い炎の村で名を取り戻せなかった者たちを見た後では、その言葉は簡単には聞こえなかった。


 やがて、石室の外で足音がした。荒く、短く、わざと音を立てているような足音だった。扉代わりの水膜が揺れ、テイルが姿を現した。腕にはイリスの巻いた白い包帯が残っている。胸元の鱗にもまだ黒い鎖の痕が走り、顔色はよくない。だが、立ち方だけは強がっていた。背筋を張り、顎を上げ、怪我などないと言いたげな顔をしている。


「おい、人間」


「エノクです」


「知ってる」


「じゃあ、エノクって呼べば」


「呼ぶか」


 テイルは不機嫌そうに部屋へ入り、エノクの前に立った。視線はティンカーベルの刃へ一瞬向き、それから逸れた。自分を縛った鎖を斬った刃を見るのが嫌なのだろう。


「親父が呼んでる」


「ザッハが?」


「竜王だ。呼び捨てにするな」


「君は親父って呼んでる」


「オレはいいんだ」


「そういうもの?」


「そういうものだ」


 ティンカーベルが低く笑った。


「血の特権か」


 テイルの眉が跳ねる。


「剣まで口出すな」


「私は口を出す剣だ。まだ覚えていないのか」


「くそ、面倒な剣だな」


「それはよく言われる」


 エノクは立ち上がり、ティンカーベルを鞘へ戻した。テイルはすぐ背を向ける。待っているつもりらしいが、歩き出す速さは明らかに苛立っていた。エノクはその後を追う。湖宮の回廊は静かだった。竜族たちは傷の手当てや結界修復に追われている。すれ違う者たちはテイルを見ると、深く頭を下げる者もいれば、痛ましげに目を伏せる者もいた。テイルはそのどちらにも反応しない。見えていないふりをしている。だが、肩の力は一歩ごとに強くなっていた。


「みんな、心配してる」


 エノクは思わず言った。


「分かってる」


「じゃあ」


「分かってるって言ってんだろ」


 テイルの声が尖った。回廊の水紋がわずかに揺れる。エノクは口を閉じた。分かっているからこそ、言われたくないのだ。自分が守るべき里の者たちに心配されること。竜王の息子として強くあるべき自分が、怪我人として見られること。エノクにはその誇りの形が完全には分からないが、痛みの形なら少し分かる。


 大広間へ入ると、すでにアリア、イリス、アイオンがいた。アリアは双剣を帯び、腕を組んでいる。イリスは薬箱を抱えており、テイルを見るなり包帯の緩みを確認しようとして一歩出た。テイルが即座に身を引く。


「触るな」


「包帯がずれています」


「知らねぇ」


「知ってください。傷が開きます」


「竜はそんな簡単に」


「昨日、倒れかけました」


 イリスの声は柔らかいが、言葉は容赦なかった。アリアがわずかに笑い、アイオンが帽子の陰で口元を隠す。テイルの顔が赤くなる。


「お前ら全員、昨日のことを言いすぎだ」


「昨日だから言っているのです」


 イリスは真面目に答えた。


「時間が経つと、もっと言いにくくなります」


「神官ってのは、もっとこう、優しく包むもんじゃねぇのか」


「包帯は包みます。事実は包みません」


 アリアが小さく吹き出した。テイルはますます不機嫌になる。エノクも少し笑いそうになったが、堪えた。今笑えば、きっと竜剣の柄で殴られる。


 高座の上では、ザッハが静かに彼らを見ていた。巨竜の胸には、昨日より濃く黒い傷が浮かんでいる。ジャッジメントの鎖を湖越しに押し返した代償だろう。だが、その目は衰えていなかった。黄金の瞳は深く、冷たく、しかしその奥に父としての苦さを隠している。


「集まったか」


 ザッハの声に、広間の水が低く応じた。テイルだけが少し身を固くする。


「昨日の記憶は、まだ水鏡に残してある」


 ザッハは中央の水面を見下ろした。「お前たちに見せるはずだった、千年前の傷だ。だが、その前に現在の傷が開いた。ジャッジメントは偶然来たのではない。黒い炎の村、濁った海、竜の霊脈。すべては繋がっている」


「なら、なおさら早く記憶を見た方がいいのでは」


 エノクが言うと、ザッハは彼を見た。


「見る者の器が乱れている時、記憶は毒になる」


 その視線はエノクだけでなく、テイルにも向けられていた。テイルは唇を噛む。


「オレが邪魔だって言いたいのか」


「邪魔なのではない。危ういのだ」


「同じだろ」


「違う」


 ザッハの声が重くなる。だが、怒鳴ってはいない。


「邪魔なものは退ければよい。危ういものは、砕ける前に支えねばならぬ」


 テイルは一瞬言葉を失った。エノクも黙った。ザッハは厳しい。けれど、今の言葉には確かに親の響きがあった。テイルはそれを聞き取ったのか、余計に苦しそうな顔をした。


 ザッハは続けた。


「テイル。お前は外へ出ろ」


 広間の水音が止まったように感じられた。


「……は?」


 テイルは、最初、意味が分からなかったようだった。


「外へ出ろと言った。龍神湖を離れ、人間の道を歩け。黒い炎の村を見ろ。海の濁りを見ろ。焼けた国の跡を見ろ。竜の結界の内側では聞こえぬ声を聞いてこい」


「何言ってんだよ」


 テイルの声が低くなる。「今、湖が襲われたばかりだぞ。結界も傷ついてる。オレが残って戦う。昨日は罠だったけど、次は」


「次も罠にかかる」


 ザッハは容赦なく言った。


 テイルの顔が強張った。


「親父」


「お前は強い。だが、その強さはまだお前自身を大きく見せるために燃えている。湖を支える火ではない。昨日、敵はそこを突いた。お前が怒れば怒るほど、湖は傷ついた」


「分かってる!」


「分かっているなら、外へ出ろ」


「なんでそうなる!」


 テイルの声が広間に反響した。竜族の衛兵たちが遠くで身じろぎする。ザッハは動じない。


「お前は龍神湖しか知らぬ。竜族の強さしか知らぬ。弱い者を見れば、守る前に苛立つ。遅い者を見れば、待つ前に追い越す。泣く者を見れば、なぜ立たぬと怒る。お前の正義は速い。だが、速すぎる正義は、置き去りにした者の名を忘れる」


 イリスがそっと記録帳を抱きしめた。アリアは目を伏せず、ザッハの言葉を聞いている。アイオンは珍しく笑わなかった。


「外の世界には、竜の足で飛び越えられぬ痛みがある」


 ザッハは言った。


「大地の痛みを聞け。人間の遅さを見ろ。弱い者がなぜ、それでも歩くのかを知れ。竜の誇りとは、高く飛ぶことではない。地の裂け目に身を伏せ、下にいる者が落ちぬよう支えることだ」


 テイルの拳が震えた。


「それを、そいつらから学べっていうのか」


 彼の視線がエノクたちを刺す。「弱い人間から。嘘つきの吟遊詩人から。踊り子から。見習い神官から。喋る剣から」


「そうだ」


 ザッハは短く答えた。


 テイルは怒りで言葉を失った。エノクも言葉に困った。自分がテイルに何かを教えられるとは思えない。むしろ、戦い方も身体の使い方も、竜の力も、彼から学ぶことばかりだ。


「僕たちが、テイルに何かを教えるなんて」


 エノクが言うと、ザッハは黄金の目を向けた。


「教えようとするな。共に歩け。見るものを見ろ。助け、助けられろ。お前たちはすでに、それをした」


 テイルの顔がさらに歪む。助けられた事実を、父の前で改めて突きつけられることが苦しいのだろう。アリアが腕を組んだまま言った。


「本人が嫌がってるけど」


「嫌がるだろうな」


 ザッハは言った。


「だから命じている」


「親としても、王としても強引ね」


「竜王とは、時に強引でなければならぬ」


 アイオンが小さく口を開く。


「では、竜王殿。こちらの旅路に若竜を預けるということは、私たちに監督責任が」


「監督ではない。同行だ」


「同行者が暴走した場合は?」


「止めろ」


「簡潔ですね」


「昨日、できただろう」


 アイオンは笑ったが、少しだけ引きつっていた。


「毎回あれをやるのは、なかなか骨が折れます」


「竜の骨は折れにくい」


「そういう問題ではありません」


 テイルが低く唸った。


「オレは行かねぇ」


 広間の空気が張り詰めた。ザッハは黙って息子を見た。テイルは父の目を真正面から睨み返す。


「湖が傷ついてる。外敵が来た。ジャッジメントはまた来る。そんな時に、オレだけ外へ出ろだと? 逃げろってことか」


「逃げるのではない」


「同じだろ! 親父はいつもそうだ。外を見るな。湖を守れ。いや、今度は外を見ろ。残れ。行け。強くなれ。力を使うな。何なんだよ、結局!」


 その叫びは、長く押し込めてきたものだった。エノクは息を止めた。テイルの怒りは昨日の屈辱だけではない。幼い頃から積もったもの。父に認められたいのに、父の言葉がいつも壁として立ちはだかる痛み。強いのに、足りないと言われ続ける苦しさ。


 ザッハはすぐには答えなかった。巨竜の目が、ほんのわずかに揺れた。


「私は、お前を失いたくない」


 広間が静まり返った。


 テイルの怒りが、一瞬止まった。


「……親父?」


「強い竜は、自分が死ぬはずがないと思う。若い竜は特にそうだ。己の鱗を信じ、爪を信じ、血を信じ、火を信じる。だが、カオスはそれを笑う。黒い炎は鱗を焼かず、名を焼く。ジャッジメントは力を砕かず、誇りを鎖にする。私はそれを知っている」


 ザッハの胸の黒い傷が、青い光の下で浮かび上がった。


「千年前、強い者が何人も死んだ。弱い者も死んだ。正しい者も、愚かな者も、勇敢な者も、逃げた者も。私は生き残った。生き残った者は、死なせた者の名を背負う。テイル。お前に竜王の力を渡すことはできる。だが、力だけを渡せば、お前はいつかその力で自分を焼く」


 テイルは口を開けたが、声が出なかった。


「だから、外へ出ろ。竜王の力を受け継ぐためではない。竜の誇りと責任を学ぶためだ。強い者が前へ出る意味を、強い者が待つ意味を、強い者が膝をつく意味を知れ」


 ザッハの声は厳しい。だが、そこには隠しきれない痛みがあった。


「帰ってきた時、お前がまだ竜の血から逃げていなければ、その時こそ湖底の記憶を最後まで見せる」


「今は見せないのか」


「今のお前には、父の傷しか見えぬ。竜王の罪を見るには、まだ怒りが熱すぎる」


 テイルは歯を食いしばった。涙はない。だが、その顔は泣くよりも苦しそうだった。彼は父に力を認めてほしかった。外へ出て戦わせてほしかった。だが、命じられたのは、自分の強さを証明する旅ではなく、自分の未熟さを見に行く旅だった。受け入れられるはずがない。それでも、拒みきれない。ザッハがただの王命ではなく、父としての恐れを見せてしまったからだ。


 アリアが小さく息を吐いた。


「親子って、面倒ね」


 アイオンが囁く。


「歌にすると、だいたい三番くらいで客が泣きます」


「歌ったら湖に沈められるわよ」


「今は控えます」


 イリスはテイルを見ていた。彼女の目には同情があるが、安易な慰めはない。ミルファで名を失った者たちと向き合った時と同じように、痛みに名前をつけず、ただそこにあるものとして見ている。


 エノクは一歩前へ出た。


「テイル」


「何だよ」


「僕たちも、まだ何も分かっていない。僕は弱いし、旅でもたくさん失敗する。たぶん、君は何度も苛立つと思う」


「もう苛立ってる」


「うん。でも、君が来てくれるなら、助かる。昨日、最後に僕を突き飛ばしてくれた。あれがなかったら、僕は槌に潰されていた」


「礼は言うなって言っただろ」


「ありがとう」


「言うな!」


 テイルは怒鳴ったが、昨日ほどの鋭さはなかった。エノクは続けた。


「君が僕たちから学ぶかは分からない。でも、僕は君から学ぶことがあると思う。守るために前へ出る身体の使い方とか、竜の霊脈の聞き方とか、怒り方とか」


「怒り方を学ぶな」


 アリアが即座に言った。


「そこは学ばなくていいです」


 イリスも真面目に言った。


 ティンカーベルが低く鳴る。


「エノクの場合、まず転ばずに前へ出る方法からだ」


「それは……うん」


 テイルは彼らを見た。馬鹿にしたいのに、馬鹿にしきれない顔だった。弱い。騒がしい。遅い。人間のくせに妙な剣を持ち、名を拾い、嘘を歌い、剣舞で斬り、叱り、支える。自分が見下していたものが、思ったより簡単ではない。そのことが、彼の誇りをさらに苛立たせている。


「同行するなら、条件がある」


 テイルは低く言った。


 アリアが眉を上げる。


「急に乗り気?」


「乗り気じゃねぇ。命令だから行くだけだ。勘違いするな」


「条件は?」


「オレはお前らの下につく気はない。命令されるのも嫌いだ。足を引っ張るな。オレの戦いに余計な口を出すな。あと、吟遊詩人。オレの歌を作るな」


 アイオンは心外そうに胸へ手を当てた。


「まだ題しか考えていません」


「考えるな」


「『若竜、包帯を嫌がる』」


「殺すぞ」


「冗談です」


「半分だろ!」


「おや、学習が早い」


 テイルが本気で竜剣に手をかけたので、アリアが間に入った。


「同行の最初から殺し合いはやめなさい。条件はこちらからもある」


「何だよ」


「勝手に突っ込まない。罠だと言われたら止まる。イリスの手当ては受ける。エノクを弱い人間と呼ぶのは、まあ事実だからいいとして、戦場で邪魔になる言い方はしない。アイオンの嘘をいちいち全部斬ろうとしない」


「最後が一番難しい」


「分かる」


 アリアとテイルが、そこだけ妙に意見を一致させた。アイオンは笑顔のまま少し傷ついた顔をした。


「私は皆さんの心をつなぐ役目を果たしている気がします」


「嘘つきを斬りたいという一点でな」


 ティンカーベルが言った。


「剣殿まで」


 イリスが控えめに手を上げる。


「あの、私からも一つ」


 テイルは警戒したように彼女を見る。


「何だよ」


「薬を飲んでください。傷の熱が少しあります。旅立つなら、出発前に飲むべきです」


「……今その話か」


「今です」


 イリスは薬瓶を差し出した。テイルはそれを見て、露骨に嫌そうな顔をした。


「苦いやつだろ」


「はい」


「竜は苦い薬なんか」


「飲みます」


 イリスはにこりともせず言った。


「竜も傷を負えば熱が出ます。熱が出れば判断が鈍ります。判断が鈍ると、また罠にはまります」


 テイルは沈黙した。アリアが感心したように呟く。


「強いわね、イリス」


「いえ、神殿では薬を嫌がる子どもが多かったので」


「子ども扱いすんな!」


 テイルは怒ったが、結局薬瓶を奪うように受け取り、一息で飲んだ。次の瞬間、顔をしかめる。


「苦っ」


「よく飲めました」


「褒めるな!」


 ザッハの喉の奥で、低い音が鳴った。笑ったのだと、エノクは遅れて気づいた。竜王の笑いは、岩山の奥で雷が転がるような音だった。テイルは父が笑ったことに気づき、耳まで赤くなる。


「親父まで笑うな!」


「笑っておらぬ」


「今のは笑った!」


「竜王の呼吸だ」


「嘘つくな!」


 アイオンが小さく囁いた。


「親子ですね」


「そうですね」


 エノクは同じく小声で答えた。


 その後、旅立ちの準備は思いのほか早く進んだ。テイルは竜族の戦装束を旅用に改め、肩の鱗装甲を軽くし、腰には竜剣を帯び、背には小さな荷袋を背負った。荷物は少ない。着替え、砥石、竜族の乾肉、水晶の小瓶、湖の水を封じた青い護符。イリスが「包帯も」と言い、テイルが嫌がり、アリアが無言で荷袋へ押し込み、ティンカーベルが「学習しろ」と言った。竜族の若者たちが遠巻きに見ていた。羨望、心配、驚き、少しの嘲り。竜王の息子が人間たちと外へ出る。それは、湖の里にとっても異例なのだろう。


 テイルはその視線を無視しようとしていたが、うまくいっていなかった。彼は強い。だが、外へ出ることに慣れているわけではない。湖の結界の中で育った若竜が、初めて本当の外へ向かう。その不安を、怒りで覆っている。


 出発前、ザッハはテイルを高座の前へ呼んだ。広間にはエノクたちもいたが、竜族の者たちは距離を置いた。親子の別れに、踏み込んではならないと知っているのだ。


「テイル」


「何だよ」


「竜王の力は渡さぬ」


「分かってる」


「竜王の名も渡さぬ」


「いらねぇよ」


「だが、竜の血から逃げるな」


 テイルは顔を上げた。


「お前が外で何を見るか、私には分からぬ。人間の醜さを見るだろう。弱さを見るだろう。愚かさを見るだろう。だが、それだけを見て帰るな。人間がなぜ、それでも名を呼び、死者を弔い、歌い、剣を取り、祈るのかを見よ」


「……親父は、人間を嫌ってねぇのか」


「嫌ったこともある」


 ザッハは静かに言った。


「信じたこともある。見捨てたこともある。助けられたこともある。千年生きれば、ひとつの言葉では足りなくなる」


 テイルは何も言えなかった。


 ザッハは巨大な爪をゆっくり伸ばし、テイルの前に置いた。その爪の先には、青い鱗が一枚乗っていた。竜王の胸の近くから剥がれた古い鱗だろう。傷のある鱗だった。中央に黒い焦げ跡が走っている。


「持っていけ」


「力は渡さないって」


「力ではない。痛みの印だ。お前が怒りで耳を塞ぎそうになった時、これを見ろ。竜の鱗も焼ける。竜王も誤る。強さは、傷を持たぬことではない」


 テイルはしばらくその鱗を見ていた。受け取りたくない顔だった。父の傷を持つことは、父の弱さを認めることでもある。けれど、彼はやがて無言で手を伸ばし、その鱗を受け取った。掌の中で青黒い光が揺れる。


「……預かるだけだ」


「それでよい」


「帰ったら返す」


「帰ってこい。返すためでなくとも」


 テイルの喉が動いた。返事はしなかった。けれど、鱗を荷袋ではなく胸元の内側へしまった。ザッハはそれを見て、何も言わなかった。


 次に、ザッハはエノクへ視線を移した。


「エノク・ランバード」


「はい」


「若竜を守れとは言わぬ。お前にそれを命じるのは酷だ」


「はい……」


「だが、見捨てるな」


 エノクは背筋を伸ばした。


「はい」


「テイルが飛び出す時、お前が止められぬこともあるだろう。ならば、戻る場所を残せ。強い者が戻れる場所を持たぬ時、その強さは敵の餌になる」


 エノクは昨日の鎖を思い出した。強い竜気が、ジャッジメントの罠に使われた。力そのものではなく、戻る場所を見失った怒りが縛られたのだ。


「分かりました」


「分かった顔か」


 ザッハが問う。


 エノクは少しだけ苦笑した。


「まだ、半分くらいです」


 ザッハの目が細くなる。


「半分を自覚しているなら、残り半分を旅で知れ」


 ティンカーベルが小さく言った。


「竜王にまで見抜かれているな」


「最近、みんなに見抜かれてる」


「隠すほどの厚みがまだない」


「薄いってまた言う」


「事実だ」


 テイルが横から言った。


「オレも言っただろ。薄い人間」


「増えた」


 エノクが肩を落とすと、イリスが慰めるように言った。


「でも、薄い紙にも名前は書けます」


「イリス、それは慰め?」


「はい」


「たぶん少し違う」


 アイオンが笑った。


「実に詩的です。薄い紙に名を書く少年」


「やめてください」


「題が増えていく」


「増やさないで」


 アリアは呆れたように息を吐く。


「出発前から騒がしいわね」


 テイルが不満そうに言った。


「毎日これなのか」


「だいたい」


 アリアは即答した。


「今からでも戻る?」


「戻らねぇ!」


「なら慣れなさい」


 湖宮の外縁へ向かう道で、竜族の者たちが見送りに立っていた。竜族は人間のように手を振らない。多くは胸に拳を当て、ある者は角をわずかに伏せ、ある者は足元の石へ爪を立てて短い音を鳴らした。テイルはその一つ一つを見ないようにしていたが、耳は確かに動いている。竜族の子どもが一人、母親の陰から顔を出して言った。


「テイル、帰ってくる?」


 テイルは足を止めた。しばらく黙った後、乱暴に答えた。


「当たり前だ。オレが帰らなかったら、誰が湖の槍爺の愚痴を聞くんだ」


 子どもは笑った。テイルはすぐ顔を背ける。イリスが小さく微笑み、アリアも何も言わずにその場を通り過ぎた。


 水の幕の門へ着くと、テイルは一度だけ振り返った。湖底の宮。竜族の里。父のいる高座。霊脈の青い光。自分を形作ってきたすべてがそこにある。彼はその景色を睨むように見た。名残惜しそうにはしない。だが、目を逸らすこともしなかった。


「行くぞ」


 テイルは言った。


「自分で言うんだ」


 アリアがからかうと、彼は睨んだ。


「先頭はオレだ」


「道、分かるの?」


「湖の外縁まではな」


「その先は?」


「……人間の道は知らねぇ」


「じゃあ先頭は早いわね」


 アイオンが軽く手を上げる。


「そのあたりは私が」


「てめぇに先頭を任せるのが一番不安だ」


「信頼の出発ですね」


「信頼してねぇ」


「では、今後に期待しましょう」


 テイルはうんざりした顔で水の幕をくぐった。エノクたちも続く。冷たい水のような膜が身体を包み、湖の名が一瞬だけ耳元を通る。エノクは返事をしなかった。ただ、自分の名を胸の中で握る。エノク。森から出た少年。ランバードの血を引く者。まだ弱く、まだ迷い、けれど仲間と歩いている者。


 外へ出ると、龍神湖の光が一気に広がった。湖面は朝を映し、傷ついた結界の鱗模様はまだところどころ黒ずんでいる。それでも水は澄んでいた。遠く、竜骨山脈の稜線には白い雲がかかり、風は冷たく、土と水と竜の匂いを運んでいる。


 テイルは湖岸の白い岩に立ち、外の空を見上げた。湖底の宮とは違う空。雲が流れ、鳥が飛び、風が肌へ直接当たる空。彼は一瞬だけ眩しそうに目を細めた。


「外の空、久しぶりですか」


 イリスが尋ねた。


「別に。結界の外くらい何度も出てる」


「でも、遠くへは?」


「……うるせぇ」


 イリスは小さく笑った。


「では、初めての遠出ですね」


「違う」


「違うのですか」


「……遠出ではある」


 アリアが横で言った。


「素直じゃないわね」


「お前に言われたくねぇ」


「私は素直よ。嫌いなものは嫌いって言う」


「それを素直とは言わねぇ。喧嘩腰って言うんだ」


「似たようなものね」


「違うだろ」


 ティンカーベルが低く呟いた。


「前衛が二人に増えた。騒音も増えた」


「心強くなったとも言える」


 エノクが言うと、剣は少し間を置いた。


「それも事実だ」


 テイルはその言葉を聞いたのか、ふんと鼻を鳴らした。


「足を引っ張るなよ、エノク」


 初めて、彼はエノクの名を呼んだ。乱暴で、ぶっきらぼうで、礼儀など欠片もない呼び方だった。だが、弱い人間ではなく、エノクだった。エノクは少し驚き、すぐに頷いた。


「うん。君も、勝手に飛び出さないで」


「命令するな」


「お願い」


「もっと嫌だ」


 アイオンが笑う。


「では、歌にしましょう。若竜と森の少年、互いに文句を言いながら」


「歌うな!」


 テイルとティンカーベルとアリアの声が重なった。イリスが思わず笑い、エノクも笑った。テイルは顔をしかめながらも、もう剣には手をかけなかった。


 龍神湖を離れる道は、来た時よりも険しく見えた。だが、人数は増えていた。エノク、アイオン、アリア、イリス、ティンカーベル。そして若竜テイル。まだ仲間と呼ぶには刺々しい。信用も薄い。テイルは父への反発を抱え、エノクへの屈辱を抱え、自分の強さを証明したいという火を消せずにいる。ザッハの命に従ったというより、父の言葉へ反発するために歩き出したのかもしれない。それでよかった。最初から正しい旅立ちなど、きっとない。エノク自身も、怖さと未熟さを抱えたまま森を出たのだから。


 湖の方から、低い水音が届いた。ザッハの声ではない。だが、竜王が見ている気配がした。テイルは振り返らなかった。胸元にしまった傷ついた青い鱗が、彼の歩みとともに小さく鳴った。


 竜王の力を受け継ぐ旅ではない。


 竜の血を誇る若者が、その誇りに責任を持つための旅が始まったのだ。


 エノクたちは山道へ踏み出した。前には黒い炎の影と、七英雄の傷と、まだ知らぬ不死の皇帝の噂が待っている。背後には龍神湖の青い水が静かに広がり、若竜の名を見送っていた。


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