第5話_死の行進
龍神湖を離れて三日が過ぎると、風の匂いが変わった。湖の冷たい青さは背後へ遠ざかり、竜骨山脈の白い岩肌も次第に低くなり、道は乾いた丘陵と黒い草原の間をうねるように伸びていった。だが、その先にある土地は、港から内陸へ入った時の荒々しい新大陸とも、黒い炎に焼かれた村の焦げた沈黙とも違っていた。土が古い。空気が重い。遠くに見える石塔や崩れた城壁の影は、誰かが住むためというより、過去が逃げないよう杭で打ちつけたもののように立っていた。道端の石標には、人間の文字と、すでに使われなくなった帝国文字が並んで刻まれている。前者は旅人のための新しい文字、後者は滅びたシオゥル帝国の古い文字だとアイオンは言った。
「ここから先は、シオゥルの古い外縁です」
彼は竪琴を背負い直し、朽ちた石標の苔を指先で払った。そこには、翼を持たぬ黒い鷲と、折れた冠の紋が刻まれていた。
「かつてはランバードと並ぶ大国でした。帝都を中心に、砦、街道、墓地、穀倉、鉱山都市、神殿、軍営が広がっていた。今は、地図の上では廃帝国。酒場の噂では死者の国。子どもを脅す話では、不死皇帝の庭です」
「不死皇帝」
エノクがその名を口にすると、空気が少しだけ冷えた気がした。名そのものが寒さを持っているようだった。
テイルが鼻を鳴らした。
「死なない皇帝なんて、いかにも人間が好きそうな噂だな。王だの皇帝だの、死んだ後まで椅子にしがみつくのか」
アリアが横目で彼を見る。
「口に気をつけなさい。ここでは誰かの墓の上を歩いているかもしれない」
「知ってる」
「知ってる顔じゃない」
「墓なら湖にもある。竜だって死ぬ」
「なら、なおさら」
テイルは言い返しかけ、口を閉じた。最近、彼はすぐ怒るが、すぐに言い返しきれないことも増えていた。ザッハに命じられて外へ出たこと、ジャッジメントの罠にかかったこと、人間たちに助けられたこと。そのどれもが、彼の怒りの手前に小さな棘として残っている。だが、それが彼を少しだけ止めることもあった。
イリスは石標の前に膝をつき、指で古い帝国文字をなぞらないよう、少し離して見ていた。
「ここに、名前があります」
「読めるのか?」
テイルが少し驚いた声を出す。
「少しだけです。神殿で古い墓碑銘を読む練習をしました。これは地名ではなく、慰霊碑の一部です。……『北辺第二軍団、遠征より帰らざる者へ』」
彼女はそこで声を落とした。
「ここは、街道標ではなく、兵士たちの名を刻んだものだったのですね。でも、下半分が削られています。名前の部分だけ」
エノクは石標を見た。たしかに、碑の下部は荒く削られていた。風化ではない。誰かが意図的に削った跡でもない。ミルファの村の門と同じだった。最初から何も刻まれていなかったかのように、名のあった場所だけが滑らかになっている。イリスの顔が曇る。
「ここでも」
ティンカーベルが低く言った。
「黒い炎とは少し違う。だが、名を剥がす力がある」
「不死皇帝の力ですか」
エノクが訊くと、アイオンは曖昧に首を傾げた。
「噂では、死の行進が通った跡では墓碑が読めなくなるそうです。死者が立ち上がる時、名を墓へ残していけないのでしょう。あるいは、誰かが名を持っていく」
「死者が、自分の名前を持っていくのですか」
イリスの声は震えていた。
「死者が望んでいるなら、まだましです」
アイオンは珍しく軽口を挟まなかった。「望まずに剥がされているなら、最悪です」
テイルが足元の土を見た。靴の下で、黒い草が乾いた音を立てる。彼は眉をひそめ、膝をついて掌を地面に当てた。エノクはその仕草を初めて見た。ザッハが言っていた、大地の声を聞く竜の血の感覚だろう。テイルの顔から、いつもの不機嫌とは違う色が消えていった。
「冷たい」
「土が?」
「違う。土の下だ。根のもっと下。霊脈の皮が冷えてる」
テイルは掌を押しつけるようにして目を閉じた。首筋の鱗がうっすら青く光る。
「龍神湖の霊脈が傷ついた時とも違う。あれは裂かれる痛みだった。これは……寝ているものを無理に起こされ続けて、熱を失っていく感じだ」
イリスが息を呑んだ。
「死者が起こされるから、大地も眠れない……」
「たぶんな」
テイルは立ち上がった。顔色が悪い。彼自身は認めないだろうが、大地の冷えを聞くことは身体にも負担をかけているようだった。
アリアが低く言った。
「この先へ進む?」
「進むしかねぇだろ」
テイルは即座に返した。
「強がりじゃなく?」
「今のは違う。ここを放っておいたら、冷えが広がる。大地の底が死んでいく」
エノクは胸元の鍵に触れそうになり、手を止めた。黒い炎、死者の行進、大地の冷え。世界の傷は、別々ではなく繋がっている。龍神湖でザッハが言った通りだった。
その日の夕方、一行はシオゥル帝国の旧辺境にあたる村跡へ着いた。村と呼ぶには、家の形があまり残っていない。石壁だけが並び、屋根は落ち、井戸は塞がれ、畑は黒い草に覆われていた。だが、村の外れには大きな墓地があった。低い丘の斜面を利用した墓地で、石の墓標が段々に並び、いくつかは帝国式の小さな石棺になっている。墓地の入口には、錆びた鉄門が半ば開いていた。風が吹くたびに、門がきい、と鳴る。生者に開かれた門ではない。内側にいるものが出たがっているような音だった。
イリスは墓地の前で立ち止まった。
「ここで野営するのは、避けたいです」
「同感」
アリアが言った。「見通しは悪いし、墓に囲まれている。夜に何か出るなら、いちばん出やすい場所ね」
テイルが周囲を嗅ぐように見回した。
「でも、ここを離れても同じだ。冷えがこの丘全体に広がってる。むしろ、今夜ここで何が起きるか見た方がいい」
「見物じゃないのよ」
「分かってる」
「本当に?」
「しつこいな」
「昨日までのあなたの実績を考えるとね」
テイルは言い返そうとして、また黙った。アイオンが少しだけ楽しそうに笑う。
「成長していますね。反論を飲み込む若竜。題に」
「作るな」
「はい」
エノクは墓地を見つめた。風が止んでいるのに、墓標の間に黒い布のような影が揺れた気がした。ティンカーベルが腰で低く鳴る。
「夜まで待つ必要はないかもしれん」
「何か来る?」
「来るというより、起きる」
その言葉の意味は、日が沈む頃に分かった。
最初に音がした。地面の下から、こつ、と石を叩くような音。次に、土が細く割れた。墓地の奥、古い石棺の蓋が内側からわずかに持ち上がる。イリスが息を呑み、聖印を握った。アリアは双剣へ手をかけ、テイルは竜剣を抜きかける。アイオンが低く言った。
「まだ斬らない」
「分かってる」
アリアの声は短かった。テイルも歯を食いしばって剣を抜かずにいた。彼にとっては、それだけで努力なのだろう。
墓が開いた。
中から出てきたのは、白骨ではなかった。乾ききった兵士だった。肌は灰色に縮み、頬は落ち、古い帝国軍の鎧を身につけている。胸甲には黒い鷲の紋、肩には腐った革帯、腰には折れた剣。目はない。だが、眼窩の奥に青白い糸のような光が揺れていた。彼はゆっくりと起き上がり、墓の外へ足を下ろした。眠りから覚めた者の動きではない。誰かに糸で引き起こされた人形のようだった。
続いて、別の墓が開いた。石棺が、土の墓が、名前の消えた墓標の前が、次々に割れていく。兵士、農夫、修道女、子どもを抱いたまま骨になった母親、古い帝国の役人らしい服を着た男、額に竜骨山脈方面の巡礼印をつけた旅人。死者たちはゆっくりと立ち上がった。腐臭は薄かった。むしろ、冷たい土と古い布の匂いが強い。死者たちは呻かない。叫ばない。空腹の魔物のように襲ってくるわけでもない。ただ、墓から出て、同じ方角へ向きを揃えていく。
「これは」
エノクの声は掠れた。
「死の行進」
アイオンが言った。
墓地の奥から、黒い旗が現れた。誰が掲げているのか、最初は分からなかった。やがて、背の高い骸骨の兵士が一体、折れた旗竿を握っているのが見えた。旗は古い帝国旗に似ていたが、紋章は塗りつぶされている。黒一色。その中央に、かすかに銀の糸で王冠のようなものが縫われていた。風はないのに、旗は水の中で揺れる布のようにゆっくり動く。その旗の下へ、死者たちは一人ずつ集まっていった。
イリスが一歩踏み出した。
「待ってください」
彼女の声は震えていたが、はっきり届いた。死者たちの何人かが、ゆっくりと顔を向ける。イリスは記録帳を胸に抱き、墓地の入口へ進もうとした。エノクは思わず手を伸ばしかけ、止めた。今、止めるべきか、支えるべきか。アリアが低く言う。
「イリス、距離を保って」
「はい。でも、呼ばないと」
イリスは墓標の一つへ目を向けた。そこには、かつて名が刻まれていたはずの場所が滑らかに消えている。彼女は唇を噛み、墓標の横に置かれていた割れた陶板を拾った。そこに、かすかに文字が残っている。
「……ラ、ディ、ン。いいえ、ラディンではなく、ラディウス?」
彼女は行進へ加わろうとする帝国兵の死者へ向かって呼びかけた。
「あなたの名は、ラディウスですか」
死者の足が、ほんのわずかに止まった。
イリスの顔に希望が浮かぶ。だが、その瞬間、黒い旗が揺れた。旗の下から見えない糸が伸び、死者の胸へ絡む。青白い光が揺らぎ、帝国兵は再び歩き出した。イリスがもう一度呼ぶ。
「ラディウスさん!」
死者は止まらない。名が届く前に、名の縁を引き剥がされていく。イリスの手から陶板が落ちた。
「違う」
彼女の声が震えた。「聞こえているのに、戻れないんです。名前が、あの旗へ持っていかれている」
テイルが低く唸った。
「旗を斬ればいい」
「待ちなさい」
アリアが止める。
「また突っ込む気?」
「今度は罠じゃねぇ。あの旗が中心だろ」
「中心だから罠の可能性が高いのよ」
テイルは歯を食いしばった。竜剣の柄を握る手に力が入る。だが、彼は飛び出さなかった。飛び出したい身体を、無理やり押さえている。その背中に、ザッハの言葉が残っているのだろう。強い者が前へ出る意味。強い者が待つ意味。
「くそ」
彼は地面に手を当てた。すぐに顔が険しくなる。
「やっぱり冷えてる。死者が歩くたびに、土の下から熱が抜けていく。墓が空になるだけじゃない。大地が死者の眠りを失ってる」
イリスは行進を見つめていた。死者たちは列を作り、黒い旗の下で墓地の門へ向かう。足音はほとんどない。肉のない足、乾いた足、布に包まれた足、子どもの小さな足。それらが同じ速度で進む。個人の歩き方がない。癖がない。生前の重さがない。ただ、行進の一部として動いている。イリスにとって、それは黒い炎の村とはまた別の地獄だった。あの村では、名を失った者が彷徨っていた。ここでは、死者が名前を持つ暇もなく列へ組み込まれている。
「止めないと」
イリスが言った。
「どう止める」
アリアが問う。
「分かりません。でも、このまま行かせたら」
「追う」
エノクが言った。
全員の視線が彼へ向いた。
「今ここで全員を止める力は、僕たちにはないと思う。でも、どこへ向かっているのかは見なきゃいけない。黒い旗の先に、何かある。死者の名を持っていくものが」
アイオンが静かに頷いた。
「行進は帝都方面へ向かうでしょう。シオゥルの廃都。噂通りなら、不死皇帝の玉座です」
「噂通りなら?」
テイルが問う。
「噂は道案内になりますが、目的地の扉を開けた瞬間に嘘になることもあります」
「分かりにくい」
「つまり、見に行くしかないということです」
アリアは行進を見た。死者の列は墓地を出て、旧街道へ向かい始めている。襲ってこない。だが、通り過ぎるだけで周囲の草が黒く萎れ、道端の小さな野花が霜に触れたように折れていく。死者の歩みそのものが、土地の熱を奪っていた。
「正面から止めるのは無理ね」
アリアは言った。「数が多い。こちらから攻撃すれば、死者を斬ることになる」
イリスの顔が歪んだ。
「死者を、これ以上傷つけたくありません」
「分かってる。だから追う。けど、近づきすぎない。旗に触れない。死者の列を横切らない」
テイルが苛立った声を出す。
「そんな慎重にしてたら、何もできねぇ」
「何も考えずに飛び込むよりは、できることが残る」
「またそれか」
「またそれよ」
テイルは言い返しかけたが、黙った。代わりに地面を強く踏む。
「……行進の後ろは駄目だ。大地の冷えが濃い。歩くなら風上、丘の側を回る」
アリアが彼を見る。
「分かるの?」
「土が嫌がってる。行進の足跡を踏むなって言ってる」
「それは助かる」
テイルは一瞬、妙な顔をした。アリアに素直に評価されるとは思っていなかったのだろう。
「別に、お前のために」
「分かってる。大地のためでしょ」
「……そうだ」
イリスは落ちた陶板を拾い直した。ラディウスかもしれない名の欠片。彼女はそれを記録帳に挟み、震える手で書きつける。
「ラディウス。確定ではありません。帝国北辺兵の可能性。黒い旗の行進に加わる。名の反応あり。救出未了」
最後の四文字を書いた時、涙が一滴落ちた。彼女は慌てて拭うが、滲みは残った。エノクは何も言えなかった。救えなかった名を、未了と書く。その言葉に、イリスの痛みが込められている。
死者の行進は続いた。墓地だけではない。旧街道沿いの小さな墓、崩れた祠の裏に埋められた旅人の墓、畑の隅に立つ家族墓。黒い旗が通るたび、土が割れ、死者が起き上がった。眠っていた骨が、朽ちた服をまとい、忘れられた道具を握り、列へ加わる。名を呼ぶ者がいない死者は、最初から抵抗できない。名を残す墓標を持つ死者も、旗の影に触れると文字が薄れていく。イリスは何度も声を上げ、手がかりのある名を呼んだ。幾人かは一瞬止まった。だが、黒い旗が揺れると、見えない糸に引かれるようにまた歩き出した。
そのたびに、イリスの顔から血の気が引いていった。
「名前があるのに」
彼女はかすれた声で言った。「名前が、まだ残っているのに」
アイオンは低く言う。
「残っているから、奪われるのです」
「そんなの」
「ええ。最悪です」
いつもの軽さはなかった。
夜が深くなると、行進はさらに長くなった。黒い旗は一つではなかった。遠くの丘の向こうにも、別の旗が見えた。さらにその奥にも。月明かりの下、複数の死者の列が、シオゥルの旧街道へ集まっていく。まるで干上がった川へ、死者の流れが戻っていくようだった。音のない太鼓が聞こえる。実際に太鼓はない。だが、死者たちの足並みは、何か見えない拍子に合わせて揃っている。どん、どん、と大地の下で響く。テイルは耳を押さえた。
「やめろ」
「テイル?」
エノクが声をかけると、彼は歯を食いしばっていた。
「大地が冷えていく音がする。足音じゃない。土の下で、根が凍る音だ。こんなの、聞いてられるか」
「休む?」
「休まねぇ」
「でも」
「休んだら、もっと聞こえる」
テイルは歩き続けた。強がりもある。だが、それだけではない。彼は外の大地の痛みを、初めて真正面から聞いている。龍神湖の結界の内側ではなく、シオゥルの荒れた墓地の外で。ザッハが見てこいと言ったものが、いきなり彼の足元に現れていた。
アリアが彼の横へ並んだ。
「聞こえすぎるなら、呼吸を合わせなさい」
「何に」
「自分の足に。大地全部を聞こうとするから潰れる。今は、自分が踏む一歩分だけ聞く」
「剣舞の理屈か?」
「戦場で倒れない理屈」
テイルは一瞬反発しようとしたが、アリアの足元を見た。彼女は行進の足跡を避けながら、確かに一定の呼吸で歩いている。テイルは渋々、彼女の歩幅に合わせた。
「遅い」
「速すぎるのよ」
「……くそ」
それでも、彼は少し楽になったようだった。エノクはその様子を見て、アリアの言葉がテイルにも届くことに少し驚いた。二人はよくぶつかる。だが、どちらも戦う者であり、身体で世界を読む者だ。そこには、エノクにはまだ届かない共通の言葉があるのかもしれない。
やがて、一行は丘の上へ出た。そこから、シオゥル帝国の廃都が遠くに見えた。
月の下、黒い城壁が地平を切っていた。崩れているのに、なお巨大だった。城壁の内側には塔が立ち、尖塔は折れ、宮殿らしき影は黒い霧に包まれている。生者の灯はない。だが、無数の青白い火が街路に点っていた。墓火だ。死者が持つ灯。死者の行進は、いくつもの道からその廃都へ向かっている。黒い旗が何本も集まり、城門の前で揺れていた。城門の上には、巨大な黒い旗が掲げられている。折れた冠。骨の玉座。古い帝国紋を塗りつぶした闇の印。
イリスはその光景を見て、言葉を失った。
エノクも、息を忘れた。黒い炎の村は、一つの村の惨劇だった。だが、ここにあるのは国だった。死者だけが帰っていく国。眠れない者たちを臣民として集める、不死の帝国。
アイオンが低く言った。
「シオゥル帝国。かつてランバードと争い、聖戦で一時だけ同じ敵を見た国。その残骸です」
「残骸じゃない」
イリスが震える声で言った。
皆が彼女を見た。彼女は記録帳を抱きしめ、涙をこらえて廃都を見ている。
「残骸なんかじゃありません。あそこに集められているのは、名前のあった人たちです。兵士、母親、子ども、旅人、神官、商人、誰かの友人、誰かの家族。国の残骸じゃない。眠れない名前の群れです」
その言葉に、テイルが黙って地面を見た。彼は掌を土に当てる。しばらくして、低く言った。
「大地が、泣いてるみたいだ」
テイル自身が驚いたような顔をした。そんな言葉を、自分が口にしたことを信じられないのかもしれない。アリアは茶化さなかった。アイオンも歌わなかった。エノクは、竜王ザッハの言葉を思い出した。外へ出ろ。大地の痛みを聞け。弱い者がなぜ歩くのかを知れ。テイルは今、その最初の音を聞いていた。
黒い旗の下で、死者たちは廃都へ入っていく。城門が音もなく開いた。誰が開けたのかは見えない。門の奥から、巨大な影が一瞬だけ揺れた。王冠をいただいた骸骨のような影。遠すぎて確かではない。だが、その影が現れた瞬間、死者の行進が一斉に膝を折ったように見えた。
イリスが小さく呻いた。
「死者を、臣民にしている」
アイオンの表情が険しくなる。
「噂通りなら、あれが不死皇帝の外殻です」
「外殻?」
エノクが聞き返すと、アイオンは一瞬だけ口を閉じた。
「いえ。今はまだ、骸骨皇帝と呼んでおきましょう」
そのはぐらかしに、エノクは引っかかりを覚えた。だが、問い詰める余裕はなかった。廃都の門が閉じ始めていた。死者の列は、最後の一人まで吸い込まれていく。墓から起こされ、名を奪われ、黒い旗のもとに歩かされ、眠ることも帰ることもできないまま。
ティンカーベルが静かに言った。
「エノク。ここから先は、斬るだけでは進めない」
「分かってる」
「分かった顔ではなく?」
「分かった、と思う。まだ半分だけど」
「なら、その半分を忘れるな」
エノクは頷いた。死者を斬れば、動きは止まるかもしれない。だが、それは救いではない。イリスが名を呼ぶ。テイルが大地の冷えを聞く。アリアが剣を抜くべき場所を見極める。アイオンが隠された歌の裏を読む。ティンカーベルが刃の重さを教える。自分は何をするべきなのか、まだ分からない。けれど、ここで背を向けることだけは違うと分かった。
アリアが低く言った。
「今夜は近づきすぎない。丘の陰で夜を越す。見張りは増やす」
「賛成です」
イリスは震えながらも答えた。「でも、私は記録します。今夜見た行進を。ラディウスさんかもしれない人のことも。名前が分からない人たちのことも」
「書けるか」
テイルが問うた。
イリスは涙を拭い、頷いた。
「書けなくても、書きます。書かないと、あの旗が本当に全部持っていってしまう気がするので」
テイルはしばらく彼女を見た。それから、視線を逸らして言った。
「……地面の冷えは、オレが見る。近づいたら分かる」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。大地のためだ」
「はい」
イリスは静かに微笑んだ。テイルはむっとした顔をしたが、今度は怒鳴らなかった。
丘の下で、シオゥルの廃都は沈黙していた。だが、その沈黙の中には無数の足音が積もっている。墓から起きた死者たちの足音。名を失ってなお進まされた者たちの足音。黒い旗の下で、死者の国へ帰ることを強いられた者たちの足音。
エノクはその光景を胸に刻んだ。
黒い炎は名を焼いた。ジャッジメントは罪で縛った。そして不死皇帝は、死者を眠りから引き剥がす。敵は一つではない。世界を傷つける方法も、一つではない。
夜風が丘を越えた。冷たい風だった。テイルが言った通り、大地そのものが熱を失っていくような風だった。
一行は丘の陰へ身を寄せた。遠くの廃都では、黒い旗が月の下で揺れている。誰も歌わなかった。誰も軽口を叩かなかった。イリスは記録帳を開き、震える字で死の行進のことを書き始めた。テイルは掌を土に当て、顔をしかめながら大地の冷えを聞き続けた。
そしてエノクは、廃都の閉じた門を見つめた。
あの向こうに、死者を臣民と呼ぶ者がいる。
眠るべき名を奪い、墓を空にし、国を死者で満たす者がいる。
その者に会わなければならない。斬るためか、止めるためか、名を返すためか、まだ分からない。だが、旅はもうそこへ向かっていた。




