第6話_不死皇帝の帝都
シオゥルの廃都は、夜が明けても夜のままだった。東の空に太陽は昇っているはずだった。丘の背後には薄い金色の光が差し、遠い山の稜線も淡く縁取られている。だが、廃都の上だけは光が沈んでいた。城壁の内側には黒い霧が低く溜まり、折れた尖塔の先からは青白い墓火が揺れ、空は見えているのに、街そのものが空を拒んでいるようだった。エノクたちは丘の陰で短い休息を取り、死の行進が完全に門の奥へ消えた後もしばらく動かなかった。イリスは眠らなかった。彼女は膝の上に記録帳を開き、夜のうちに見た死者たちのことを書き続けていた。ラディウスかもしれない兵士。名の欠けた修道女。子どもを抱いたまま列へ加わった母親。墓標から名が剥がれた旅人。確かな名ではないものにも、彼女は印をつけ、「探す」と添えた。筆跡は乱れていたが、消そうとはしなかった。涙で少し滲んだ箇所も、そのまま残した。
テイルは丘の土に掌を当てたまま、長い間黙っていた。いつものように何かを罵ることも、早く行くぞと急かすこともしない。大地の冷えを聞いているのだろう。彼の首筋の鱗は、夜の間ずっと青白く光っていた。やがて彼は顔を上げ、ひどく不機嫌そうに言った。
「近いほど、音が鈍い」
「音?」
エノクが訊く。
「大地の下の音だ。普通は水が動く音、根が伸びる音、石が熱を抱く音がある。ここは違う。全部、布をかけられたみたいにくぐもってる。死者が歩いた跡だけじゃない。あの街そのものが、下から冷えてる」
アリアは廃都の城壁を見つめていた。双剣の柄に手を添えているが、抜く気配はない。抜いたところで、あの城壁の奥に満ちる死者の国を斬れるはずがないと分かっているのだろう。
「正面から入るのは危険ね」
「裏から入っても危険ですよ」
アイオンが静かに言った。「こういう都は、城門だけが入口ではありません。下水路、崩れた城壁、古い軍用門、墓地の地下道、王族用の避難路。ですが、死者の国では道そのものが生きているとは限らない。昨日あれだけの死者を受け入れた後です。どこから入っても、向こうには分かるでしょう」
「じゃあ、どうするの」
「堂々と入ります」
テイルが顔をしかめた。
「頭おかしいのか、吟遊詩人」
「よく言われます。ですが、隠れて入っても、死者に息音は誤魔化せません。あちらがこちらを招くつもりなら門は開く。拒むつもりなら、どの道も閉じる」
エノクは廃都の黒い門を見た。昨夜、死者の行進を吸い込んだ巨大な門。黒い鷲と折れた冠の紋が刻まれ、門扉には無数の鉄鋲が打たれている。門の前には、死者たちの足跡が泥ではなく霜のように白く残っていた。そこを歩くのだと思うだけで、足が重くなる。
「行きましょう」
イリスが言った。
声は疲れていた。けれど、震えは少なかった。
「中に入れば、もっとひどいものを見るかもしれません」
エノクが言うと、イリスは記録帳を閉じて胸に抱いた。
「だから行きます。外から見ているだけでは、あの人たちの名を探せません」
「無理はするなよ」
テイルがぶっきらぼうに言った。
イリスは少し驚いたように彼を見た。
「ありがとうございます」
「礼を言うな。倒れられると、地面の音を聞く邪魔になる」
「はい。邪魔にならないように倒れません」
「そういう意味じゃ」
テイルは言い返そうとして、結局舌打ちした。アリアが小さく笑う。
「少しずつ言葉が下手になってない?」
「うるせぇ」
「最初から下手か」
「斬るぞ」
「ほら、下手」
ティンカーベルが低く言った。
「喧嘩は門を越えてからにしろ。あの都は、こちらの声も数えている」
その一言で、全員が沈黙した。エノクはティンカーベルの柄に手を置いた。抜かない。だが、いつでも抜けるように。剣は重かった。人間の敵を斬る重さとも、黒い炎の魔物を斬る重さとも違う。これから向かうのは死者の都だ。斬れば、眠れない死者をさらに傷つけるかもしれない。だが斬らなければ、自分たちが死者の列へ加わるかもしれない。
彼らは丘を下りた。死の行進が残した白い足跡を踏まないよう、テイルが先に進んで道を選んだ。彼は大地の冷えを聞き、足跡の薄い場所、まだ地面の熱が残る場所を選ぶ。以前なら自分が先頭だと威張っただろう。今も威張りたい顔はしている。だが、ただ速く歩くのではなく、後ろが通れる道を選んでいた。アリアはその横で周囲の影を見張り、エノクとイリスを中央に置いた。アイオンは最後尾で、時折、足元の石や壁の紋様を確かめる。誰も冗談を言わなかった。廃都へ近づくほど、言葉が吸い取られていくようだった。
城門は、近くで見るとさらに巨大だった。門扉の鉄は黒く錆び、表面には帝国の勝利を刻んだ浮彫りが残っている。だが、その勝利の場面に描かれた兵士たちの顔はすべて削られていた。王も、将軍も、勝者も敗者も、顔と名だけが消えている。イリスが息を呑む。門の両脇には、黒い甲冑を着た骸骨兵が立っていた。槍を持ち、頭蓋に青白い火を宿し、こちらを見ている。襲っては来ない。門番として、ただ立っている。
エノクたちが門前に立つと、骸骨兵の一体が槍を横へ動かした。金属が骨に触れる乾いた音が響く。イリスが一歩下がりかけ、踏みとどまった。テイルが竜剣の柄に手をかける。アリアが低く言った。
「まだ」
骸骨兵は顎を動かした。声は喉からではなく、兜の奥に溜まった風から出た。
「生者、六名。一振り。謁見を求むか」
エノクは一瞬、誰が答えるべきか迷った。アイオンは黙っている。アリアは視線でエノクへ促した。テイルは不満そうだが、前へ出ない。イリスは記録帳を抱いたまま、息を詰めている。
エノクは胸の奥で自分の名を握った。
「僕たちは、不死皇帝に会いに来ました」
「名を申せ」
骸骨兵が言う。
名。ここで名乗ることが、どういう意味を持つのか分からない。だが、偽っても通じない気がした。エノクは短く答えた。
「エノク」
間を置き、続けた。
「エノク・ランバード」
骸骨兵の兜の奥の火が、わずかに揺れた。城門の上に掲げられた黒旗も、風もないのに動く。
「ランバード。旧敵国王統。記録」
その言葉に、エノクの背筋が冷えた。シオゥル帝国にとって、ランバードは敵国だった。千年前の聖戦で一時休戦したとはいえ、長く争った相手。その名が、この死者の都ではまだ記録として生きている。
骸骨兵は次にアリアを見た。
「名を申せ」
アリアは一瞬だけ沈黙した。ヴェルナの名を言うかどうか迷ったのだと、エノクには分かった。彼女は短く言った。
「アリア」
「家名」
「ない」
「記録、不完全」
骸骨兵はそれ以上追及しなかった。だが、アリアの指が双剣の柄を強く握っている。家名を失った者として扱われることは、彼女にとって痛みを伴うはずだった。
「名を申せ」
骸骨兵の視線がイリスへ向かう。
「イリスです。白鐘神殿の見習い神官です」
「神官。死者記録者。記録」
イリスの顔が少し青くなる。
「死者記録者……」
テイルが前へ出た。
「テイル・ザッハリオン。龍神湖の竜王ザッハの血を継ぐ者だ」
骸骨兵の火が強く揺れた。
「竜王血族。旧同盟戦力。記録」
「旧同盟?」
テイルが眉をひそめる。だが、骸骨兵は答えない。
アイオンは帽子を取り、少しだけ笑って言った。
「アイオン。しがない吟遊詩人です」
骸骨兵の火が、不自然なほど静かになった。
「記録……照合不能」
アイオンの笑みがわずかに深くなる。
「よくあることです」
「未登録。要監視」
「手厚い歓迎ですね」
最後に、骸骨兵はエノクの腰を見た。
「一振り。名を申せ」
ティンカーベルが即座に言った。
「ティンカーベルだ。剣にまで名を聞くとは、礼儀だけはあるらしいな」
「有名器。記録断片あり。傀儡子系統。要監視」
ティンカーベルが低く唸った。
「気に入らんな」
「知られているの?」
エノクが小声で問うと、剣は短く答えた。
「知られ方が気に入らん」
骸骨兵は槍を戻した。黒い城門が、内側から音もなく開き始める。軋む音も、鎖の音もない。ただ、巨大な闇が左右へ分かれる。門の奥から冷たい空気が流れ出した。墓の下の空気だった。古い石、乾いた布、消えた火、そして無数の名が口にされないまま積もった匂い。
「不死皇帝陛下は、生者の謁見を許す」
骸骨兵は告げた。
「武器の持ち込みは許可。逃亡は不許可。名の放棄は不許可。死亡後の臣籍編入は、陛下の裁量に従う」
「最後、聞き捨てならないわね」
アリアが低く言った。
「同感だ」
テイルも竜剣を握る。
アイオンが静かに言った。
「ここから先は、向こうの言葉に返事をしすぎない方がいいでしょう。契約に近い響きがあります」
「名の放棄は不許可、というのは?」
イリスが問う。
「死んでも名前を返さない、という意味かもしれません」
その言葉に、彼女は唇を結んだ。
エノクは一歩を踏み出した。門の内側へ入る。冷気が全身を包んだ。死者の都は、彼らを呑み込んだ。
シオゥル帝都の街路は、まだ街路だった。石畳は割れ、ところどころに草が生え、家々の壁は崩れている。だが、完全な廃墟ではなかった。窓には青白い灯がともり、店先には商品らしきものが並び、広場には市の名残がある。けれど、そこにいるのは生者ではない。骨だけの商人が、朽ちた布を広げている。半透明の女が、空の籠を抱えて石畳を歩いている。首の傾いた少年の亡霊が、井戸の縁に腰かけて足を揺らしている。顔のない兵士たちが隊列を組み、同じ道を何度も巡回している。鍛冶屋の前では、骨の職人が冷たい炉に槌を振り下ろし続けていた。火はない。鉄もない。それでも槌は振られ、音だけが街に残る。
死者たちは暮らしていた。いや、暮らしの形を繰り返していた。
パン屋の看板の下では、白骨の女が空の棚へ見えないパンを並べている。彼女は並べ終えると、また最初から並べ直す。路地では、亡霊の老人が扉を閉めようとしていた。扉は蝶番ごと外れている。それでも老人は、閉める動きを繰り返す。広場の噴水には水がない。だが、半透明の子どもたちがそこへ手を伸ばし、濡れもしない掌を笑いもせず見つめている。宿屋の入口では、骸骨の主人が帳簿をめくっていた。帳簿の紙はすべて白紙だった。
イリスの呼吸が乱れた。
「これは、生活ではありません」
「そう見えるよう作られているだけだ」
アリアの声は硬い。
「死者に生前の形をなぞらせてる。悪趣味にもほどがある」
テイルは地面へ目を向けた。
「大地が、冷たいだけじゃない。重い。死者の足が同じ場所を踏み続けて、土が眠れない。街全体が墓なのに、墓として閉じられてない」
エノクは街路の両側を見た。死者たちはこちらを見ている。眼窩の火、半透明の目、顔のない影。敵意は薄い。だが、好奇心もない。生者が珍しいのではなく、すでに分類されているものを見る目だった。生者。未編入。謁見者。やがて臣民になる可能性のある者。そんな冷たい札を貼られている気がした。
「名を呼べるでしょうか」
イリスが小さく言った。
「今はやめておけ」
ティンカーベルが即座に制した。
「どうして」
「この街では、呼んだ名を誰が聞くか分からん。お前が呼ぶ前に、皇帝が受け取るかもしれない」
イリスは悔しそうに記録帳を抱きしめた。
「でも、あの人たちには名が」
「分かっている」
ティンカーベルの声は少しだけ柔らかかった。
「だからこそ、奪い合いになる場所で軽く呼ぶな」
イリスは目を伏せ、頷いた。エノクは彼女の横顔を見て胸が痛んだ。名を呼ぶことが彼女の祈りであり、戦いである。だが、この街ではその祈りすら敵の糸に絡め取られるかもしれない。死者の国は、イリスの力を最も必要とする場所であり、同時に最も危険な場所だった。
彼らは骸骨兵に案内されて大通りを進んだ。通りの両側には黒い旗が垂れている。旗の下には帝国の標語らしき文字があったが、どれも途中から別の文言へ書き換わっていた。「皇帝に忠誠を」が、「永遠に忠誠を」へ。「帝国に命を」が、「死後も命を」へ。「家名を誇れ」が、「名は玉座へ」へ。エノクはその言葉を見て、寒気を覚えた。
「名は玉座へ」
アイオンが低く呟く。
「なるほど。ここでは名も税のように集められるらしい」
「ふざけないでください」
イリスの声は鋭かった。アイオンは少しだけ目を伏せた。
「失礼。ふざけたつもりではありませんでした」
珍しく素直な謝罪だった。イリスもそれ以上言わなかった。
大通りの先に、宮殿があった。かつてのシオゥル帝国宮殿。黒い石で築かれ、巨大な階段と、折れた列柱と、天へ突き立つような尖塔を持っている。ランバードの白城が水と光の城だったなら、シオゥルの宮殿は鉄と影の城だったのだろう。だが、今はその壮麗ささえ死に支配されている。階段には骨の兵士が並び、踊り場には亡霊の侍女が立ち、窓には青白い火が灯っている。宮殿の背後には黒い霧が渦を巻き、霧の中から時折、無数の糸のようなものが伸びては消えた。エノクはそれを見て、なぜかシモンの森の糸を思い出した。だが、あの森の糸が壊れたものを支え、声を与えるものだったのに対し、この糸は魂を吊るし、動かしているように見えた。
ティンカーベルが小さく鳴った。
「嫌な糸だ」
「糸?」
エノクが小声で問う。
「見えたか」
「少し」
「なら、目を凝らすな。見すぎると向こうにも見られる」
エノクは慌てて視線を戻した。だが、胸の奥に引っかかりが残った。糸。傀儡。死者を動かすもの。どこかで聞いた力の歪んだ形のような気がした。
宮殿の大扉は開かれていた。内部へ入ると、空気はさらに冷たくなった。広間の天井は高く、壁にはシオゥル皇帝たちの肖像画が並んでいる。だが、顔はすべて黒い布で覆われていた。名前の銘板は残っている。いや、残っているようで、読もうとすると文字がずれる。名が玉座へ吸われているのだと、イリスがかすれた声で言った。床には赤黒い絨毯が敷かれ、その両側に亡霊の廷臣たちが並んでいる。骨だけの将軍、首のない貴婦人、半透明の書記官、壊れた楽器を持つ楽師、兜を抱えた兵士。誰も喋らない。だが、全員が一行を見ている。
「謁見の間へ」
骸骨兵が告げた。
巨大な扉が開く。
その奥に、玉座の間があった。
玉座の間は、死の劇場だった。黒い柱が左右に並び、天井からは朽ちた帝国旗と、無数の細い糸のような影が垂れている。床の中央には、昨日の死の行進で見た黒い旗が何本も突き立てられ、その間を青白い火が流れている。火は燃えているのではなく、死者の目の光を集めたもののようだった。奥には玉座があった。骨で組まれた巨大な玉座。人間の骨だけではない。馬、竜に似た獣、鳥、名も知らぬ古い生き物の骨。それらを積み重ね、黒い鉄で縛り、王座の形にしている。その玉座に、不死皇帝は座っていた。
巨大な骸骨だった。
ただの骸骨ではない。城門よりも高いとは言わないが、人間の三倍、四倍はある。骨は古い象牙のように白く、ところどころ黒い呪紋が走り、胸の中央には暗い宝玉が埋め込まれている。頭には黒い王冠。王冠には折れた角と、死者の小さな指骨が飾られていた。肩には朽ちた皇帝衣がかかり、衣の裾からは無数の糸が垂れている。巨大な手は玉座の肘掛けに置かれ、その指先だけで人間の頭を容易に砕けそうだった。眼窩の奥には青白い炎が燃えている。だが、その炎の中心に、ほんの一瞬、硝子玉のような冷たい光が見えた気がした。
エノクは息を忘れた。テイルでさえ言葉を失った。アリアが双剣に手をかける。だが、抜かない。抜いても届かない。届いたところで、あれを斬れるのか分からない。イリスは聖印を握りしめ、顔を青ざめさせている。アイオンの笑みは消えていた。ティンカーベルは、鞘の中で重く沈黙していた。
不死皇帝が動いた。
骨の指が肘掛けを叩く。たったそれだけで、玉座の間にいる亡霊たちが一斉に膝を折った。青白い火が低く揺れ、黒い旗が頭を垂れる。エノクたちだけが立っていた。いや、立っているのがやっとだった。膝をつかせる圧力が、見えない雪のように肩へ積もっていく。
骸骨皇帝は口を開いた。声は骨の内側から響き、天井の糸を揺らした。
「生者よ。余の都へようこそ」
それは大人の男の声のようでもあり、老人の声のようでもあり、どこかで子どもが真似ているような響きもあった。エノクはその奇妙さに気づいたが、恐怖が先に立った。
「余は不死皇帝。シオゥルの玉座を継ぎ、死を越え、朽ちた帝国を再び起こす者。眠る民を呼び戻し、忘れられた兵を整列させ、墓の底に捨てられた名を集める者である」
イリスが一歩前へ出ようとした。アリアが腕で止める。イリスは震える声で言った。
「名を集めるのではありません。奪っているのです」
玉座の間の火が、わずかに揺れた。不死皇帝の眼窩の炎がイリスを見下ろす。
「神官。死者記録者。お前は死者に名を返すと言うか」
「返すのではありません。死者の名は、最初から死者のものです」
エノクはイリスの横顔を見た。青ざめている。震えている。それでも、彼女は言った。ここは彼女にとって、最も恐ろしい場所のはずだった。死者の名が玉座へ吸われる場所。祈りが奪われかねない場所。それでも、彼女は引かなかった。
不死皇帝は笑った。骨の顎が開き、空洞の奥で青白い火が揺れる。
「死者は名を持って何をする。墓の下で朽ちるだけではないか。名を持って眠るだけなら、余のもとで立つ方がよい。死者は裏切らぬ。泣かぬ。老いぬ。ゆえに、余の臣民にふさわしい」
「違います」
イリスの声は震えていたが、細くはなかった。
「死者は眠る権利があります。弔われる権利があります。誰かに名を呼ばれ、帰る権利があります。あなたの臣民になるために死んだのではありません」
玉座の間に並ぶ亡霊たちが、わずかにざわめいた。いや、ざわめきかどうかも分からない。空気が揺れた。黒い糸が天井でぴんと張る。次の瞬間、その揺れは消えた。不死皇帝の指が一本動いただけで、亡霊たちは再び静まった。
テイルが低く唸った。
「糸だ。あの骨野郎、死者を糸で押さえてる」
「見えるの?」
エノクが問う。
「大地の冷えとつながってる。死者の足から土へ、土から城へ、城から玉座へ。全部、冷たい糸になってる」
ティンカーベルが静かに言った。
「やはり傀儡の系統だ。だが、ねじ曲がっている」
「傀儡?」
エノクは心臓が跳ねた。傀儡。シモン。器に眠る声を聞く者。命のきっかけを与える者。シモンの優しい糸とは違う。だが、根のどこかで似ている。認めたくない近さがある。
アイオンもそれに気づいたのか、表情が硬かった。
不死皇帝の視線がエノクへ移る。
「ランバード」
その名を呼ばれた瞬間、胸元の鍵が熱を持った。エノクは息を呑む。
「白き王家の残り火。かつてシオゥルと刃を交え、のちに同じ魔王へ膝を向けた血。生き残っていたか。面白い」
「僕は、あなたに名を渡しません」
エノクは言った。声は思ったより小さかった。だが、消えなかった。
「余はまだ求めておらぬ」
不死皇帝は笑う。
「だが、いずれ死ねば、すべての名は余の都へ来る。王も、騎士も、神官も、踊り子も、竜も、吟遊詩人も、剣すらも。死は平等である。ならば、死を統べる余こそが、最も公平な皇帝ではないか」
アリアが双剣を抜いた。刃が青白い火を映す。
「公平? 死者を眠らせない支配のどこが公平なの」
「剣舞の女。お前は死を憎むか」
「死そのものじゃない。死者を利用する奴を憎む」
「ならば、生者はどうだ。生者は死者を利用しないのか。国のため、復讐のため、歌のため、神殿の教えのため。死者の名を掲げ、生者は何度も剣を取る。余は正直なだけだ。死者を臣民と呼ぶ。道具とは呼ばぬ」
アリアの顔が険しくなる。彼女の祖国の死者たち。復讐の剣。弔いの剣。そのすべてを突かれたようだった。アイオンが低く言った。
「言葉がうまいですね、骸骨陛下」
「吟遊詩人。未登録の名を持つ者。お前の声は、余の記録に穴を開ける。好ましくない」
「それは光栄」
「だが、穴は縫える」
不死皇帝が指を動かした。空中の黒い糸が一本、アイオンの方へ伸びる。エノクにはかすかにしか見えなかった。だが、ティンカーベルが叫ぶ。
「避けろ!」
アイオンは竪琴を一音鳴らし、身をひねった。糸は彼の帽子のつばをかすめ、帽子の端が黒く変色した。アイオンの顔から血の気が引く。
「なるほど。歌の息を縫う糸ですか。趣味が悪い」
「歌は死者を揺らす。余の都では不要だ」
テイルがついに竜剣を抜いた。青い竜気が刃へ走る。
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねぇ!」
「テイル、待て!」
エノクとアリアの声が重なった。テイルは踏み出しかけ、歯を食いしばって止まった。止まった。彼自身が一番驚いたような顔をした。昨日までなら突っ込んでいた。龍神湖で罠にはまった屈辱が、彼の足を止めたのだ。怒りは消えていない。だが、怒りに足を貸す前に、ほんの一瞬だけ考えた。
不死皇帝が面白そうに見下ろす。
「若き竜。大地の声を聞く者よ。怒りを飲み込んだか。よい。死者の国では、怒りもいずれ冷える。お前の熱も、余の玉座へ置くにふさわしい」
「ふざけんな」
テイルの声は低く震えていた。
「大地が寒がってる。死者が眠れない。お前がやってるんだろ」
「眠りは停滞である。余は起こしただけだ」
「起こされたくない奴もいる」
「死者に望みを問うのか。生者はいつも傲慢だ。死んだ者の望みを、自分に都合よく語る」
テイルが言葉に詰まった。彼はまだ死者の望みを語れるほど、外の世界を知らない。だからこそ、不死皇帝の言葉は刺さる。イリスが前へ出た。
「だから、名を呼ぶのです」
彼女は震えながらも、まっすぐ不死皇帝を見た。
「勝手に望みを決めないために。死者を数や兵や臣民にしないために。名を呼んで、その人がいたことを確かめるのです」
不死皇帝の青白い炎が、ほんの一瞬だけ揺れた。怒りか。嘲りか。それとも別のものか。エノクには分からなかった。だが、その揺れの奥で、胸の暗い宝玉から細い糸が伸び、玉座の背後へ消えているのが見えた。玉座の奥。黒い幕。骨の影。そのさらに向こうに、何かがある。小さなもの。人影のような、ただの影のようなもの。
エノクが目を凝らしかけた瞬間、ティンカーベルが鋭く鳴った。
「見るな」
エノクははっとして視線を戻した。心臓が早鐘を打っている。
「今、奥に」
「今は見るなと言った」
ティンカーベルの声には、珍しく焦りがあった。
不死皇帝の巨大な手がゆっくり持ち上がった。玉座の間の亡霊たちが一斉に立ち上がる。骨の兵士が槍を構え、半透明の廷臣たちが黒い書板を広げ、侍女たちが糸を垂らす。戦闘が始まる。そう思った瞬間、不死皇帝は手を止めた。
「生者よ。余は今、汝らを殺さぬ」
アリアの双剣が、わずかに下がらずに止まる。
「なぜ」
「謁見は殺戮ではない。余は皇帝である。客を迎え、言葉を交わし、選択を与える」
「選択?」
エノクが問う。
「余の都に留まれ。生者として客となるか、死者として臣民となるかは、いずれ選ぶがよい。逃げることも許す。だが、外の墓は開き続ける。死者の行進は続く。名は玉座へ集まる。汝らが一人ずつ名を拾う間に、余は千、万の死者を呼び戻す」
イリスの顔が青ざめた。不死皇帝は彼女に向けて言っている。彼女の祈りの遅さを、数の暴力で押し潰そうとしている。
「そんなこと」
「止められるか、神官」
不死皇帝の声は優しくさえあった。だからこそ残酷だった。
「一人の名を呼ぶ間に、百の墓が開く。一冊の帳面に書く間に、千の兵が立つ。お前の手は小さい。お前の声は細い。お前の祈りは遅い」
イリスは唇を噛み、記録帳を胸に押し当てた。エノクは一歩前に出た。
「遅くても、呼ぶ」
彼の声は大きくはなかった。だが、玉座の間に通った。
「一人ずつでも、呼ぶ。僕たちは、死者をあなたの臣民とは呼ばない」
不死皇帝の眼窩の炎が、エノクへ向いた。
「では、競争だ。ランバードの子。生者の旅が、余の帝国より速く名を拾えるか。見せてみよ」
その瞬間、玉座の間の床が震えた。黒い旗が一斉に立ち、青白い火が高く燃え上がる。死者の声が、初めて聞こえた。助けて、ではない。帰りたい、でもない。無数の名の断片が、低い波のように押し寄せた。ラディウス。ミナ。オルク。知らない名。途中で切れた名。呼ばれかけて消えた名。イリスが膝をつく。エノクも頭を押さえた。テイルが呻き、アリアが歯を食いしばる。アイオンは竪琴の弦を押さえ、音を漏らさないようにしていた。ティンカーベルが叫ぶ。
「名に呑まれるな!」
エノクは自分の名を握った。エノク。エノク。エノク。死者の名を拒むのではなく、自分の名を失わないように。胸元の鍵が熱を持つ。母の守り石が白く温もる。イリスの記録帳から淡い光が漏れ、アリアの双剣が青白い火を裂くように震え、テイルの鱗が大地の熱を必死に呼び戻す。アイオンが、声にならないほど小さく一音だけ弦を弾いた。その音で、押し寄せる名の波がわずかに割れた。
気づくと、彼らは玉座の間の入口近くまで押し戻されていた。自分たちで下がったのか、不死皇帝の力で押されたのか分からない。骨の廷臣たちは再び静かに並び、不死皇帝は玉座に座ったまま、巨大な顎をわずかに開いていた。笑っているのだと、エノクは理解した。
「圧倒的ですね」
アイオンがかすれた声で言った。冗談の形をしているが、顔は蒼白だった。
「笑えないわ」
アリアの声も低い。
「笑っていません。口が勝手に動いただけです」
テイルは竜剣を握ったまま、肩で息をしている。
「今の、ただの声かよ」
「名の濁流です」
イリスが膝をついたまま言った。目には涙が浮かんでいるが、意識はある。
「全部、誰かの名でした。でも、ばらばらで、痛くて、寒くて……あの玉座へ流されている」
エノクは不死皇帝を見上げた。勝てない。少なくとも今は。剣を抜いても届かない。祈っても呑まれる。歌っても縫われる。竜の力で押しても、死者の数と大地の冷えに絡め取られる。アリアの剣も、どこを斬ればよいのか分からない。
不死皇帝は告げた。
「生者よ。今宵は退け。余の都を見た。余の臣民を見た。余の玉座を見た。なお抗うなら、次は剣を持って来るがよい。祈りを持って来るがよい。歌を持って来るがよい。竜の熱を持って来るがよい。すべて、余の帝国が受け止めよう」
骨の手が振られた。玉座の間の扉が開く。退路を与えられた。逃がされるのだ。見逃しではない。圧倒した上で、生かして帰す。恐怖と無力を持ち帰らせるために。
アリアが悔しげに双剣を鞘へ戻した。
「今は、退くわよ」
テイルが反射的に言い返しかける。だが、言わなかった。彼も分かっている。今ここで飛び込めば、今度こそ死者の列へ加わるだけだ。
イリスは立ち上がろうとしてよろけた。エノクが今度は迷わず支えた。彼女は小さく「ありがとうございます」と言い、記録帳を抱え直す。
「覚えておきます」
イリスは不死皇帝を見上げて言った。
「この都のことも、玉座へ流されている名も。あなたが臣民と呼んだ人たちのことも。忘れません」
不死皇帝は答えなかった。ただ、眼窩の炎が一瞬だけ細くなった。その奥の宝玉が、かすかに脈打つ。玉座の背後の黒い幕が、ほんのわずかに揺れた。エノクは見たい衝動をこらえた。今はまだ見るな。ティンカーベルの声が胸に残っている。
骸骨兵に導かれ、一行は玉座の間を出た。亡霊とアンデッドだけが暮らす帝都の街路を戻る間、誰も言葉を発しなかった。パン屋の骨女はまた空の棚へ見えないパンを並べ、井戸の子どもは水のない噴水に手を伸ばし、顔のない兵士たちは巡回を続けていた。彼らのすべてが、不死皇帝の臣民として街に組み込まれている。生前の暮らしの形を与えられながら、生前の名を奪われている。
城門を出る時、骸骨兵が告げた。
「謁見終了。生者、退去を許可。次回入城時、臣籍編入手続きが発生する可能性あり」
「二度とそんな手続き受けない」
アリアが吐き捨てる。
「記録」
骸骨兵はただそう言った。
門が閉じる。黒い都は再び沈黙した。丘の上まで戻った時、ようやく朝の光が届いた。いや、時間としてはまだ夜明け前だったのかもしれない。廃都の中では、時間の感覚まで奪われていた。東の空が白み、黒い城壁が遠く影になっている。けれど、玉座の間の圧力はまだ肩に残っていた。
テイルは土に膝をつき、拳を地面へ叩きつけた。
「くそっ」
大地がかすかに震える。だが、その震えにも力がなかった。
「何もできなかった」
彼の声は低く、絞り出すようだった。
アリアは黙っていた。彼女も同じことを感じている。イリスは記録帳を開いた。手が震えている。それでも書き始める。
「シオゥル廃都。死者の国。不死皇帝。巨大な骸骨皇帝。死者を臣民と呼ぶ。名は玉座へ流されている。祈りは届くが、数が多すぎる。今は、救えない」
最後の言葉を書いた時、涙が落ちた。だが、彼女はその字を消さなかった。
エノクは廃都を見た。圧倒された。恐ろしかった。勝てる気がしなかった。だが、逃げて終わるわけにはいかない。あの街には名がある。奪われた名が、まだ玉座へ流れている。
ティンカーベルが静かに言った。
「見たな」
「うん」
「次は、どう斬るかではなく、何を返すかを考えろ」
エノクは頷いた。死者の都の冷たい風が、丘の上まで吹き上げてくる。シオゥルの帝都は、背後で沈黙している。だが、その沈黙の中には無数の名が閉じ込められていた。
不死皇帝は巨大だった。
あまりにも巨大で、今のエノクたちには届かなかった。
それでも、届かないと知ったことが、最初の一歩だった。死者の国を見た一行は、朝の光の下で、しばらく誰も動けずにいた。




