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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第3部 龍神湖と不死皇帝
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第7話_玉座の奥の少女

 シオゥルの廃都を出た後、誰もすぐには眠れなかった。丘の陰へ戻り、黒い城壁を見下ろす場所に火を隠すよう小さく焚いても、その火は暖かさを持たなかった。薪は燃えているのに、炎の芯だけが青く冷え、周囲の石は温まらない。死者の国から吹き上げてくる風が、火の意味まで奪っているようだった。イリスは記録帳を抱えたまま座り込み、玉座で聞いた名の濁流を一つでも逃すまいと、震える手で書き続けていた。だが、いくら書いても追いつかない。頁の上には、ラディウス、名不明の修道女、子を抱いた母、青い灯を持つ少年、顔のない兵士、帝国書記官らしき亡霊、と断片が並び、その合間に何度も「玉座へ流されている」と書かれている。彼女は涙を拭うことも忘れ、時折、息だけで祈りの言葉を繰り返した。


 テイルは火から離れた場所で地面に掌を押し当てていた。彼の首筋の鱗は鈍く光り、額には汗が滲んでいる。大地の冷えを聞き続けることは、竜族の血を持つ彼にとっても楽ではないのだろう。アリアは火の外側に立ち、廃都の城門と周囲の丘を交互に見ていた。彼女の目には、戦う者の苛立ちがある。敵を見た。剣を抜いた。だが、斬れなかった。その悔しさは彼女にとって、恐怖よりも深い傷になるのだと、エノクには分かり始めていた。アイオンは竪琴を膝に置いたまま弦に触れず、帽子の影で目を伏せている。あの男が沈黙している時ほど、何かを考えすぎている時だ。ティンカーベルは鞘の中で静かだった。静かすぎるほどだった。


「骸骨皇帝を斬れば、終わると思いますか」


 エノクは低く訊いた。誰に向けた問いでもなかった。だが、答えたのはティンカーベルだった。


「終わらん」


 短い声だった。


「やっぱり?」


「あれは大きすぎる。大きすぎるものは、たいてい誰かに見せるための形だ」


 アイオンが顔を上げた。


「剣殿にしては詩的ですね」


「お前の詩より実用的だ」


「痛いところを」


 アリアが火の方へ戻りながら言った。


「外殻ってこと?」


 ティンカーベルはしばらく黙ってから答えた。


「確証はない。だが、あの骸骨皇帝には、魂の芯が薄い。玉座と死者の糸を通じて動いている。大きな器ではあるが、主ではない」


 イリスが顔を上げた。


「でも、名はあの玉座へ流れていました」


「玉座へ、だ。骸骨へではない」


 テイルが地面から手を離し、荒い息を吐いた。


「大地の冷えも、あの骨の体からじゃない。都の下、城の奥、もっと細いところから広がってる。でかい骨野郎は、寒さを見せるための旗みたいなもんだ」


「旗」


 エノクは昨夜の死の行進を思い出した。黒い旗の下へ死者が集まっていった。旗は中心ではない。中心へ導く印だ。不死皇帝として現れた巨大な骸骨も、もしかすると同じなのかもしれない。見上げさせ、恐れさせ、言葉を聞かせるための外側。


 アリアは双剣の柄を指で叩いた。


「つまり、本体は別にいる。玉座の奥?」


「見たのか」


 ティンカーベルの声が鋭くなった。


 エノクは頷いた。


「少しだけ。黒い幕の奥に、何か小さい影がありました。人の形みたいな、でも」


「見るなと言った」


「うん。だから、よくは見てない」


「なら、次は見るな。見に行け」


「どう違うの」


「覗くのと、向かうのは違う」


 ティンカーベルの言葉に、エノクは唇を結んだ。たしかに、玉座の奥を盗み見るように覗いた時、何かに引かれそうになった。だが、そこに敵の中心があるなら、見ないままでは進めない。向かう。こちらの名を握ったまま、相手の隠した名へ向かう。それが必要なのだろう。


 イリスは記録帳を閉じた。


「もう一度、入るのですね」


「怖い?」


 アリアが訊くと、イリスは正直に頷いた。


「怖いです。あの玉座の声をまた聞いたら、今度は自分の名前まで書き損じるかもしれません。でも、あのままにしておく方がもっと怖いです。死者の名が流れているのを見てしまったから」


 テイルが低く言った。


「オレは、あの骸骨を斬る」


「それだけだと、また外殻に引っかかる」


 アリアが言う。


「分かってる。だから、斬るのは足止めだ。大地の冷えが集まってる場所を探る。お前らが奥へ行くまで、骨野郎をこっちへ向ける」


「珍しく考えてる」


「うるせぇ」


 テイルは怒鳴ったが、以前ほど棘はなかった。彼はまだ不死皇帝を許せない。死者を眠らせず、大地を冷やす者への怒りは本物だ。だが、その怒りをそのまま足に乗せれば罠になることを、龍神湖で学んでしまった。学んだことが彼を少しだけ重くしている。


 アイオンはようやく竪琴を持ち上げた。


「骸骨皇帝の声は、名の濁流を玉座から広げるための喉です。喉を完全に潰すのは無理でも、歌で別の拍子を混ぜれば、糸の流れを一瞬乱せるかもしれません」


「一瞬?」


 アリアが問う。


「長くは無理です。あの都全体が楽器になっている。私は一人ですし、非常に繊細で美しい声帯を失いたくもありません」


「後半はいらない」


「大事なことです」


 イリスが真剣に言った。


「私が死者の名を呼びます。全員は無理でも、近くにいる名から。一つずつでも糸が緩むなら」


「危険だ」


 ティンカーベルが制した。


「分かっています。でも、呼ばなければ糸は緩みません。呼ぶ名を、玉座に取られないようにする方法を考えます」


 エノクは胸元の守り石に触れた。母の白い石は、黒い都の冷気の中でもかすかに温かい。ミルファでイリスが名を呼んだ時、この石は反応した。エノクは石を外し、イリスへ差し出した。


「これを持っていてください」


 イリスは驚いた。


「これは、大切なものでは」


「母の守り石です。名を呼ぶ時に、少し温かくなったことがあります。役に立つか分からないけど」


 イリスは両手で受け取った。白い石は彼女の掌の中で淡く光った。イリスの目が揺れる。


「お借りします。必ず返します」


「はい」


 テイルが横でぼそりと言った。


「お前、簡単に大事なもの渡すな」


「簡単ではないよ」


「そうかよ」


 彼はそっぽを向いたが、それ以上言わなかった。


 再び廃都へ向かう道は、最初より重かった。城門は閉じていたが、彼らが近づくと何も言わずに開いた。骸骨兵はいない。いや、いたのかもしれないが、今回は門番の形を取らなかった。招かれている。あるいは、戻ってくることを予想されていた。エノクはその事実に寒気を覚えた。


 街路は昨日と同じように死者の暮らしを繰り返していた。白骨のパン屋が空の棚へ見えないパンを並べ、半透明の子どもたちが水のない噴水で手を洗い、顔のない兵士が巡回している。だが、二度目に見ると、その動きの細部に糸が見えた。かすかな黒い線が、死者の背、手首、足首、喉元から街路の石へ沈み、宮殿の方へ伸びている。すべての糸が玉座へ向かっているわけではない。いくつかは途中の黒い旗へ、いくつかは地下へ、いくつかは壁の肖像画へ吸い込まれている。この都全体が巨大な人形箱だった。死者たちは住人ではなく、配置された人形のように動かされている。


「吐き気がする」


 アリアが低く言った。


「同感だ」


 テイルも言った。二人が同じ感情で言葉を揃えるのは珍しかった。


 イリスは記録帳を開きかけ、閉じた。今はまだ書かない。見て、覚えて、あとで書く。書くより先に、名を取り返すための余力を残す。彼女もまた、旅の中で優先順位を学んでいた。


 宮殿の扉は開いていた。廷臣の亡霊たちは昨日と同じ位置に並び、青白い火を胸に抱いている。玉座の間へ近づくほど、死者の名の濁流が強くなる。エノクは耳を塞ぎたくなったが、手をティンカーベルから離せなかった。イリスは守り石を握り、アリアは彼女のすぐ隣に立つ。テイルは先頭へ出すぎないよう、アリアと同じ歩幅で進んだ。本人は気づいていないふりをしているが、明らかに合わせている。アイオンは最後尾で、静かに弦の調子を確かめていた。


 玉座の間へ入ると、不死皇帝は待っていた。


 骨の玉座。黒い王冠。朽ちた皇帝衣。青白い眼窩の炎。巨大な骸骨皇帝は、昨夜と同じ姿でそこに座していた。だが、エノクは今度、真っ先にその背後を見なかった。覗かない。向かうために見る。その時を待つ。


「生者よ。戻ったか」


 不死皇帝の声が響いた。


「余の都を見てなお、死を理解せぬか」


 アリアが双剣を抜いた。


「死は理解するものじゃない。利用しないものよ」


 テイルも竜剣を抜く。青い竜気が刃に宿る。


「大地を返せ、骨野郎」


 イリスは一歩前に出た。守り石を握り、聖印を胸に当てる。


「名を返してください」


 アイオンは竪琴を構えた。


「そして私には帽子の修理代を」


 全員が一瞬だけ彼を見た。


「緊張をほぐそうかと」


「ほぐれない」


 テイルが言った。


「でしょうね」


 不死皇帝は笑った。骨の顎が開き、玉座の間の黒い旗が揺れる。


「ならば来い。生者の剣、生者の祈り、生者の歌、生者の竜血。余の玉座が受け止めよう」


 戦いは、不死皇帝の一振りで始まった。巨大な骨の手が動き、玉座の周囲の糸が一斉に張る。廷臣の亡霊が黒い書板を掲げ、骨の兵士が槍を構え、死者の名の濁流が圧力となって押し寄せた。昨日なら、その波だけで膝をつきそうになった。だが、今回はイリスが先に声を出した。


「ラディウス」


 小さな名だった。確定ではない名。けれど、彼女はその名を呼んだ。守り石が白く光り、玉座へ流れ込む名の波の中に細い楔を打つ。玉座の近くに立っていた帝国兵の骸骨が、わずかに動きを止めた。眼窩の青白い火が揺れる。


「あなたの名を、まだ探しています。あなたを兵としてではなく、ラディウスとして呼びます」


 不死皇帝の指が動く。黒い糸がその骸骨へ伸びる。だが、アリアが走った。双剣が閃き、糸を斬るのではなく、糸が骸骨の胸へ食い込む直前の空気を裂いた。切断ではない。ずらす。彼女の剣は、死者の身体を傷つけず、糸の通り道だけを曲げた。骸骨兵が膝をつく。完全に解放されたわけではない。だが、槍を下げた。


「一つ」


 イリスが息を吐く。


「数えるな」


 アリアが言った。


「はい。……一人」


「それでいい」


 テイルはその横を駆けた。今度は玉座へ真っ直ぐ突っ込まない。床の冷えが濃い場所、糸が大地へ沈む場所を竜剣で叩き割る。青い竜気が石床へ入り、黒い糸のいくつかが浮き上がった。


「ここだ! 下から吸ってる!」


 ティンカーベルが叫ぶ。


「エノク、見ろ。床の糸じゃない。玉座の脚へ行け」


 エノクは走った。巨大な骸骨皇帝の腕が振り下ろされる。避けるだけで精一杯だ。骨の手が床を叩くと、石が砕け、青白い火が噴き上がる。アリアが左から飛び込み、骨の指の節へ刃を入れる。テイルが右から竜気で腕を押し返す。二人がかりでも、骸骨皇帝の巨体はほとんど揺らがない。


「硬いだけじゃない」


 アリアが歯を食いしばる。


「中身がないくせに、重い!」


「死者の名を詰めてるんだ」


 テイルが叫ぶ。「骨の中、空洞じゃねぇ。冷えた名で満たしてる!」


 アイオンの竪琴が鳴った。彼は歌わなかった。言葉を使えば、玉座に縫われる危険がある。代わりに、短い旋律を繰り返す。死者の行進の拍子とは違う、ほんの少し揺れる旅人の歩調。完全には揃わないが、倒れない歩調。その音が玉座の間に広がると、黒い旗の揺れが乱れ、廷臣たちの動きが半拍遅れた。


 不死皇帝の眼窩の炎がアイオンへ向く。


「歌い手。余の都に不協和を持ち込むか」


 アイオンは弦を鳴らしながら微笑んだ。


「死者にまで行進曲だけを聴かせるのは、音楽への冒涜ですので」


「縫え」


 玉座の背後から黒い糸が伸びる。アイオンの喉へ向かう。テイルが反応し、竜剣で糸を叩き落とした。


「借りは返したぞ、嘘つき」


「私は貸した覚えが多すぎて帳簿が必要です」


「今言うな」


 エノクは玉座の脚元へ近づいた。そこには、骨の王座を支える黒鉄の輪があり、無数の糸がそこから背後の幕へ伸びている。骸骨皇帝の胸にある暗い宝玉からも糸が出ていた。だが、糸の流れを追うと、宝玉は中心ではない。中継点だ。糸は玉座の背、黒い幕の向こうへ流れている。


「ティンカーベル」


「分かっている。あの宝玉は心臓ではない。留め具だ」


「壊す?」


「壊せば外殻は乱れる。だが、死者の名が逆流する。イリスが支えられるか」


 エノクはイリスを見た。彼女は汗を流しながら名を呼び続けている。ミレナの守り石が彼女の掌で白く輝き、呼ばれた名の近くに小さな光を置いていく。全部は無理だ。それでも、彼女は一人ずつ呼んでいる。エノクは息を吸った。


「イリス!」


 彼女がこちらを見る。


「宝玉を壊す。名が溢れるかもしれない」


 イリスの顔が青ざめた。だが、彼女はすぐに頷いた。


「呼びます。全部は無理でも、呼べるだけ呼びます」


 アリアが叫ぶ。


「無理はするな!」


「します!」


 イリスが珍しく叫び返した。


「無理をしなければ、届かない時があります!」


 アリアは一瞬目を見開き、すぐに笑った。


「いいわ。倒れる前に言いなさい」


「はい!」


 テイルが骸骨皇帝の腕を押し返しながら怒鳴る。


「おい、エノク! やるなら早くしろ!」


「分かってる!」


「分かった顔じゃなくやれ!」


「君までそれ言う!」


 ティンカーベルが低く言った。


「行くぞ」


 エノクは玉座の脚を蹴り、砕けた骨を足場にして跳んだ。高い。腕が震える。巨大な骸骨皇帝の胸へ向かって登るなど、普通なら考えない。だが、アリアが右腕を押さえ、テイルが左腕を受け、アイオンが廷臣たちの拍子を乱し、イリスが名の濁流に楔を打っている。今しかなかった。


 骸骨皇帝の胸の宝玉が近づく。暗い。深い。中に無数の名が渦巻いている。覗き込めば呑まれる。エノクは見ない。見るのではなく、斬る。ティンカーベルが刃を導く。


「宝玉の中央ではない。縁だ。留め具を外す」


「壊すんじゃなく?」


「外殻なら、留めを切る」


 エノクは刃を振った。ティンカーベルの銀の刃が、宝玉を囲む黒鉄の爪へ入る。硬い。腕が痺れる。だが、刃は滑らず、黒鉄の爪の一本を切り落とした。次の瞬間、宝玉から青白い名の光が噴き出した。


 玉座の間が悲鳴を上げた。死者たちの声ではない。骸骨皇帝そのものの外殻が、内側から空洞であることを暴かれた悲鳴だった。巨大な骨の体が揺らぎ、黒い王冠が傾き、皇帝衣の裾から糸がほどける。イリスが両手で守り石を握り、声を張った。


「あなたの名を、玉座に渡さない! あなたは兵ではない! 臣民ではない! あなたは、あなたの名を持って眠る人です!」


 具体の名ではない。だが、イリスの祈りは、名を探す者として死者へ向けられた。玉座へ流れていた名のいくつかが、白い光に触れて横へ逸れる。亡霊の廷臣たちが膝をつき、骸骨兵の槍が床に落ちる。


 不死皇帝の巨大な声が歪んだ。


「余は……余は不死皇帝……死を越え……時を越え……」


 声が途切れた。骨の喉から響いていた声の奥に、別の声が混じる。細い、幼い、苛立った少女の声。


「やめて」


 エノクは息を呑んだ。


 骸骨皇帝の胸の宝玉に、亀裂が走る。巨大な体が崩れかけ、玉座の背後へ糸が一斉に引かれた。黒い幕が激しく揺れる。アリアが叫ぶ。


「エノク、降りて!」


 エノクは宝玉から飛び降りた。着地に失敗しかけ、テイルが乱暴に襟を掴んで引き寄せる。


「転ぶな、薄い人間!」


「助かった!」


「礼を言うな!」


 骸骨皇帝は玉座の上で崩れた。完全に倒れたわけではない。骨の巨体は糸に吊られ、黒い王冠はまだ頭蓋にかかっている。だが、威厳は失われた。胸の宝玉は留め具を失い、暗い光を漏らしながら不規則に脈打っている。皇帝の声はもう広間全体を満たさない。代わりに、玉座の奥から糸を手繰る小さな音が聞こえた。


 こつ、こつ。


 木の指が骨の肘掛けを叩くような音。


 黒い幕が、ゆっくり開いた。


 そこに、少女がいた。


 十二か、十三ほどに見える小さな少女。だが、人間ではなかった。肌は陶器のように白く、光を受けても血の色が透けない。髪は古い蜂蜜を思わせる淡い金色で、ところどころ銀糸のように光っている。黒と白を基調にした古い少女服をまとい、レースとリボンは丁寧に整えられているのに、裾には長い年月の埃が染み込んでいた。硝子細工の瞳は美しく、深い青灰色をしている。だが、その美しさは人間の瞳とは違う。瞬きの間隔が長すぎる。首を傾げる角度がわずかに不自然。指先は糸で吊られたように滑らかに動き、その細い指から無数の黒い魂糸が伸び、骸骨皇帝の外殻、玉座、死者の廷臣たち、街路の亡霊たちへ繋がっていた。


 胸元には、小さな光があった。心臓ではない。名の核。そう呼ぶしかないものが、硝子の奥で白く、弱く、そして頑なに輝いている。


 少女は玉座の背後に置かれた小さな椅子に座っていた。骨の玉座の陰に隠れるような、子ども用の椅子。いや、人形用の椅子だった。彼女の足は床に届いていない。黒い靴の先が、空中でわずかに揺れている。


 不死皇帝の巨大な外殻は、背後の少女に操られていた。


 エノクはその光景を理解するまでに、数呼吸かかった。巨大な骸骨皇帝ではない。あの骨の王は仮面だ。玉座の奥の、この小さな人形の少女こそが、不死皇帝なのだ。


 イリスがかすれた声で言った。


「人形……?」


 その言葉に、少女の硝子の瞳がイリスへ向いた。冷たい目だった。だが、その奥で何かが傷ついたようにも見えた。


「人形って呼ばないで」


 少女の声は、先ほど外殻に混じった声と同じだった。幼く、澄んでいて、しかし棘に満ちている。


「人形って呼ぶなら、あなたも骸骨って呼ばれればいい。肉と骨でできているからって、人間は自分を人形じゃないと思い込むのね」


 イリスは言葉を失った。アリアが双剣を構え直す。


「あなたが、不死皇帝?」


 少女は笑った。あまりにも綺麗な笑顔だった。作られた笑みのように。


「そう。余が不死皇帝。シオゥルの死者を統べる者。死を越えた者。誰にも壊されない者」


 声は途中まで尊大だった。だが、最後の「壊されない者」だけが、ひどく子どもじみていた。


 テイルが低く唸る。


「小さいな」


 少女の瞳がテイルへ向く。


「大きければ偉いの? 竜族は単純ね。大きい身体と硬い鱗があれば、死者を踏まないで済むと思ってるの?」


「てめぇ」


「怒った。竜はすぐ怒る。怒れば自分が生きてるって分かるものね。羨ましい」


 テイルが一歩踏み出そうとしたが、アリアが腕で止めた。少女の指先の糸が、テイルの影へ伸びかけていたからだ。テイルは気づき、歯を食いしばって止まる。


 アイオンは、少女を見たまま固まっていた。彼の顔から、いつもの仮面が抜け落ちていた。驚きだけではない。後悔。痛み。ずっと昔に置いてきたものを、最悪の形で見つけてしまった者の顔だった。


 少女もまた、アイオンを見た。


「あなた」


 その声が低くなる。


「その顔。名前を変えても、弦の匂いは消えないのね」


 アイオンは何も言わなかった。


「生きてたんだ。いいえ、あなたはそういう人だものね。世界を救う歌は歌うのに、ひとりの人形の泣き声は聞こえないふりをする」


 エノクはアイオンを見た。アイオンは目を伏せたまま、竪琴を握っている。その手が震えていた。


 少女の視線が、次にティンカーベルへ移った。エノクの腰の剣へ。


「その剣も、まだ喋るのね」


 ティンカーベルが低く言った。


「アリス」


 名前が出た瞬間、玉座の間の糸が一斉に震えた。


 少女の顔から笑みが消えた。


「その名を、勝手に呼ばないで」


 エノクは息を呑んだ。


「アリス」


 その名は、あまりにも小さかった。不死皇帝という名に比べて。死者の国を支配する骸骨皇帝に比べて。けれど、その小さな名こそが、目の前の少女の核に繋がっているのだと分かった。


 ティンカーベルの声は、いつになく重かった。


「お前が、ここにいたのか」


「お前?」


 アリスの硝子の瞳が細くなる。


「剣まで、わたしに上から言うの。シモンの作ったものは、みんなそう。自分は物じゃない顔をして、わたしを見る」


 エノクの心臓が跳ねた。


 シモン。


 その名が、玉座の間に落ちた。


 アリアが鋭くエノクを見た。イリスも息を呑む。テイルは意味を掴めず、しかし場の空気が変わったことだけは分かったようだった。アイオンは目を閉じた。


 エノクは一歩前へ出た。


「シモンを、知っているんですか」


 アリスの瞳が彼へ向いた。最初は興味の薄い目だった。だが、エノクの顔を見て、彼の腰の剣を見て、胸元の鍵の気配を感じたのか、表情が変わった。嫌悪と嫉妬と、信じたくない何かが混じる。


「あなた」


 アリスはゆっくり言った。


「シモンの森の匂いがする」


 エノクは何も言えなかった。


「生きた道具。喋る扉。勝手に歩く椅子。歌う鍋。壊れたものを捨てない家。あの人の指の匂い。古い糸。木屑。雨の日の暖炉。……あなた、あそこで育ったの」


「はい」


 アリスの指が、椅子の肘掛けを強く握った。木の指が軋む音がした。


「人間の子を育てたんだ」


 声が低くなる。


「わたしには、人間として生きる方法を教えてくれなかったのに」


 エノクの胸が痛んだ。目の前の少女は敵だ。死者を操り、都を死者の国にし、名を玉座へ流した。不死皇帝として許されないことをした。だが、その声は、森の片隅で置いていかれた子どもの声でもあった。


「あなたは、シモンが作ったんですか」


 イリスが震える声で問うた。


 アリスは彼女を睨んだ。


「作ったって言った。やっぱり神官はそう言う。作られたものには魂がないって顔をする。祈る価値がないって目をする」


「違います」


 イリスは首を振った。


「私は、まだ分かりません。人形に魂があるのか、作られた命を神殿の言葉でどう呼べばいいのか、分かりません。でも、あなたの名前を祈りから外すとは言っていません」


 アリスの表情が、一瞬だけ凍った。


「祈らないで。わたしを憐れまないで。わたしは皇帝よ。死者を従える不死皇帝。小さな人形じゃない」


「なら、なぜ大きな骨の外殻を作ったの」


 アリアが鋭く言った。


「小さいと見られたくなかったからじゃないの」


 アリスの糸が音を立てて張った。骸骨皇帝の外殻が再び動き、崩れかけた胸を起こす。青白い火が強くなる。


「黙って」


 アリスの声は子どもの怒りを含んでいた。


「あなたたちに何が分かるの。生まれた人間に。血を持つ王女に。名前を呼ばれて育った子に。祈れば誰かが魂を認めてくれる神官に。怒れば大地が答える竜に。歌えば世界が聞く英雄に」


 最後の言葉がアイオンへ刺さった。彼は何も言わない。


「わたしは、シモンに名前をもらった。命をもらった。心をもらった。なのに、どう生きればいいかは誰も教えてくれなかった。人形じゃないって言うくせに、人間でもない。娘だって言うくせに、歳を取らない。命だって言うくせに、死ねない。ねえ、エノク」


 アリスはエノクを見た。


「あなたは、先生に育てられた人間の子。わたしは、先生に作られた人形。どっちが本物の子どもなの?」


 エノクは答えられなかった。答えられるはずがなかった。その問いは、彼に向けられているようで、シモンへ向けられている。だが、シモンはここにいない。彼が逃げたのではないとしても、アリスの孤独の場にはいなかった。


 ティンカーベルが低く言った。


「アリス。死者を操る理由にはならない」


 アリスの顔が歪んだ。


「知ってるわよ!」


 初めて、不死皇帝の仮面ではない叫びだった。


「知ってる! 死者は眠りたいかもしれない。名前を返してほしいかもしれない。わたしだって、本当は分かってる。でも、死者は置いていかない。死者は老いない。死者は、わたしを忘れない。生きてる人はみんな先に行く。シモンだって、いつか老いて、わたしを置いていく。あなたたちだってそう。なら、最初から死者の国の方が正直じゃない!」


 玉座の間の死者たちが震えた。アリスの叫びが糸を通じて広がり、亡霊たちの身体が揺れる。イリスが苦しげに聖印を握る。


「その寂しさで、死者を縛らないでください」


「神官の言葉なんかいらない!」


 骸骨皇帝の外殻が拳を振り上げた。巨腕が落ちれば、玉座の間の床ごと砕ける。テイルが竜剣を構え、アリアがイリスの前へ出る。エノクもティンカーベルを抜いた。だが、ティンカーベルが叫ぶ。


「外殻を斬るな。糸だ!」


 エノクはアリスの指を見た。細い指から伸びる無数の糸。その中に、ひときわ太い糸があった。骸骨皇帝の胸の宝玉へ繋がる糸ではない。玉座の奥、アリスの胸の核から、骸骨皇帝の頭蓋へ伸びる糸。自己像を支える糸。不死皇帝という仮面と、アリスという名を無理やり結びつけている糸。


「切っていいのか」


 エノクは呟いた。


「今は、切るな」


 ティンカーベルが言った。


「なぜ」


「切れば外殻は落ちる。だが、アリスの名の核まで裂くかもしれん」


 エノクは歯を食いしばった。斬れば止まる。だが、斬れば壊すかもしれない。救うことと許すことは違う。まだその言葉を知らない彼は、しかしその重さだけを感じていた。


 アイオンの竪琴が鳴った。今度は歌だった。小さな歌。玉座の間を支配するためではなく、一人の少女に届くための歌。


「木の指に名を結び、硝子の瞳に朝を入れ、糸の先で泣く子へ、誰かが名を呼んだ」


 アリスが凍りついた。


「歌うな」


 彼女の声は震えていた。


「その歌を、歌うな」


 アイオンの声にも、震えがあった。


「昔、聞いたことがあるはずです」


「あなたたちは、いつもそう」


 アリスの瞳に、硝子の内側から涙のような光が浮いた。人形に涙は流れない。だが、光が揺れた。


「世界は救うのに、目の前のひとりは置いていく」


 アイオンは歌を止めた。止めるしかなかった。


 その隙に、アリスは糸を引いた。骸骨皇帝の外殻が再び立ち上がり、玉座の間の黒い旗が一斉に燃えた。炎ではなく、青白い名の火。死者たちの声が再び濁流となって押し寄せる。


「出ていって」


 アリスは言った。声は不死皇帝の声ではなかった。


「今すぐ出ていって。次に来たら、あなたたちも臣民にする。エノク、あなたは特に。シモンの森の匂いをしたまま、わたしの前に立たないで」


「アリス」


 エノクは呼んだ。


 アリスの顔が歪む。


「呼ばないで!」


「君がしたことは」


 言いかけて、エノクは言葉を止めた。まだ、言うには早い。彼女の罪を消せない。救うと言うのも軽い。今はただ、名を呼ぶことしかできなかった。


「君は、不死皇帝じゃない」


 アリスの糸が震える。


「君は、アリスだ」


 その瞬間、玉座の間のすべての糸が張り詰めた。骸骨皇帝の眼窩に青白い火が戻り、巨大な手が振り下ろされる。アリアが叫び、テイルがエノクを横へ突き飛ばし、イリスが守り石を掲げ、アイオンが最後の一音を弾いた。衝撃が広間を襲った。


 気づくと、彼らは玉座の間の外へ押し出されていた。扉が閉じる。黒い宮殿の回廊で、エノクは床に倒れ、肩で息をしていた。テイルが横で悪態をつき、アリアがイリスを支え、アイオンが切れた弦を見つめている。ティンカーベルの刃には、黒い糸の焦げ跡がついていた。


 扉の向こうから、骸骨皇帝の声と少女の声が重なって響いた。


「余は不死皇帝。死者の王。誰にも壊されぬ者」


 そして、かすかに、別の声が続いた。


「わたしは……アリスじゃない」


 嘘だった。


 それが嘘だと、エノクには分かった。


 シオゥルの廃都は、再び沈黙した。だが、沈黙の奥にいるものの形は、もう変わっていた。巨大な骸骨皇帝ではない。玉座の奥で糸を握る、小さな人形の少女。シモンによって命を与えられ、愛され、置いていかれることを恐れ、死者の国を作り上げた少女。


 不死皇帝の正体は、アリスだった。


 そしてその名は、エノクが思っていたよりもずっと重く、シモンの罪へと繋がっていた。

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