第8話_シモンの罪
シオゥルの廃都を出た後、丘の上にはしばらく誰の声もなかった。背後では黒い城壁が朝の光を拒み、骨の玉座を抱えた宮殿が沈黙している。城門は閉じていた。だが、閉じたからといって遠ざかったわけではない。あの内側にいる小さな少女の気配は、いまだエノクの胸の奥に糸のように絡みついていた。巨大な骸骨皇帝、不死の王冠、死者の軍勢、玉座へ流される無数の名。その奥にいたのは、陶器の肌と硝子の瞳を持つ少女型の人形だった。アリス。ティンカーベルがそう呼んだ。アイオンが声を失った。アリス自身は、その名を拒んだ。けれど、拒む声こそが、その名をまだ自分の核に抱いている証のように、エノクには思えた。
イリスは丘の斜面に座り、記録帳を膝に置いたまま、しばらく筆を動かせなかった。白い守り石はまだ彼女の掌の中にある。石はかすかに温かい。だが、その温かさは彼女を慰めきれない。死者の名を奪った者が、人形の少女だったこと。死者を臣民と呼んだ声が、孤独に震える子どもの声でもあったこと。それは、イリスの祈りを真っ二つに裂いた。許せない。けれど、祈りから外せない。その矛盾が、彼女の指先を止めていた。
テイルは少し離れた場所で、膝を立てて座り込んでいた。竜剣は抜かれていないが、手は柄に置かれている。彼の視線はずっと廃都の方へ向いていた。死者の眠りを乱し、大地の熱を奪う不死皇帝を、彼は本能から憎んでいる。けれど、その本体が小さな人形の少女だと知った今、怒りの置き場所が少し歪んでしまったのだろう。怒りはある。だが、どこへ向ければよいのか、以前ほど単純ではなくなっている。アリアはその横に立ち、黙って双剣の手入れをしていた。刃には黒い糸の焦げ跡が細く残っている。彼女はそれを丁寧に拭いながら、一度も「かわいそう」とは言わなかった。彼女がそう言わないことに、エノクは少しだけ救われた気がした。アリスはかわいそうだ。だが、それだけで終わらせては、死者たちの名が置いていかれる。
アイオンは、火のない石の上に腰を下ろし、切れた竪琴の弦を見つめていた。いつもなら、たとえ冥界の入口であっても一言は軽口を挟む男が、今はひと言も喋らない。彼の沈黙は、廃都よりも不気味だった。エノクは何度か声をかけようとして、ためらった。アイオンはアリスを知っていた。ティンカーベルも知っていた。シモンの森にいた、人形の少女。エノクが知らないシモンの過去が、あの玉座の奥に座っていた。
「聞きたいんでしょ」
最初に口を開いたのは、アイオンだった。彼は弦から目を離さないまま言った。
「聞かない方が礼儀だと思っていましたか。それとも、聞いたら私がいつものように嘘をつくと思いましたか」
「両方です」
エノクは正直に答えた。
アイオンは小さく笑った。だが、その笑いは乾いていた。
「今日は、嘘をつくには少し弦が重い」
ティンカーベルが低く鳴った。
「なら、話せ。お前が黙ると、余計に悪い」
「剣殿は本当に遠慮がない」
「遠慮で死者が眠るなら、いくらでもする」
アイオンは弦を一本、指で弾こうとしてやめた。
「アリスは、シモンの傍にいました。千年前の聖戦より後のことです。世界が救われたことになり、けれど本当は誰も完全には救われておらず、七英雄がそれぞれ自分の傷を持って散っていった頃。シモンは不思議の森に戻り、壊れたもの、捨てられたもの、戦場から持ち帰られたものを集めていました。彼は昔からそうでした。割れた椀にも、折れた椅子にも、失われた兵士の鈴にも、名前を呼ぶ。誰もが灰にするものを、彼は捨てられなかった」
エノクは森を思い出した。歩く椅子。喋る扉。散歩する鍋蓋。古い人形たち。そこにいたシモンの静かな手つき。壊れたものへ向ける優しい目。あの森の温かさが、アリスの孤独へ繋がっていることが、まだ信じられなかった。
「アリスは、もとはただの人形でした」
アイオンは続けた。「ただし、特別に美しい人形でした。戦争で死んだ子どものために作られたものだったのか、シモン自身が失われた命を弔うために作ったものだったのか、そこまでは知りません。けれど、彼はあの人形を捨てなかった。修理し、服を整え、名前をつけた。アリス、と」
イリスが小さく呟いた。
「名前を与えたのですね」
「ええ。シモンは、名前を軽く扱わない。だからこそ重かった。名前を呼ばれた器は、ただの器ではいられなくなる」
ティンカーベルの声が沈んだ。
「あの子は、他の道具とは違った」
「どう違ったの」
エノクが問う。
「深すぎた」
剣は短く答えた。
「シモンは器に眠る声を聞く。椅子は椅子として立ち上がり、扉は扉として喋り、鍋蓋は鍋蓋として勝手に散歩する。だがアリスは、人形として目を開けたのではない。自分が何であるかを問う命として目を開けた。人形なのか。娘なのか。作品なのか。生き物なのか。シモンはそれを喜んだ。奇跡だと思った。だが、奇跡には世話がいる」
その言葉が、エノクの胸に重く落ちた。奇跡には世話がいる。シモンが命を与えたことは、きっと悪ではない。だが、命を与えた後、その命が抱える問いと孤独を、最後まで引き受ける必要があった。
アリアが刃を拭く手を止めた。
「シモンは、引き受けなかったの?」
「引き受けようとはしたでしょう」
アイオンの声には、簡単に責められない苦さがあった。
「少なくとも、シモンはアリスを道具として扱わなかった。娘のように呼んだ。学ばせ、話し、服を替え、雨の日には暖炉の前に座らせ、春には花を見せた。アリスも彼を慕っていました。おそらく、父として。先生として。世界で最初に自分をアリスと呼んだ人として」
「なら、どうして」
イリスが言いかけ、言葉を詰まらせた。
テイルが低く言った。
「それだけじゃ足りなかったんだろ」
彼自身、言ってから少し驚いた顔をした。アイオンは頷いた。
「ええ。足りなかった。シモンの愛は、本物でした。けれど、人間の愛でした。時間に限りがある者の愛です。アリスは老いない。壊れても修復できる。食べなくても動ける。病にかからない。眠らなくてもよい。けれど、心だけは眠らずに傷つく。彼女は何度も問いました。私は作られたのか、生まれたのか。私は娘なのか、作品なのか。私の命は祝福なのか、呪いなのか」
エノクは、玉座の奥でアリスが叫んだ言葉を思い出した。シモンは、わたしを娘だと言った。でも、娘なら、どうしてわたしだけ置いていくの。あの問いは今も耳に残っている。
「シモンは、答えられなかった」
ティンカーベルが言った。
「答えなかったのではなく?」
「答えられなかった。あいつは命を呼ぶことに長けていた。だが、呼んだ命がどこまで歩くかまでは、知らなかった。知っているつもりでいたのかもしれん。優しい者ほど、自分の優しさで届くと思い込む」
アリアが小さく息を吐いた。
「痛い話ね」
「お前にも刺さるか」
「誰にでも刺さるでしょ」
アリアは刃を鞘へ戻した。「助けたつもりで、相手のその先までは背負えないことがある」
エノクはうつむいた。自分も、誰かを助けたいと思って何度も前へ出た。アリアに叱られた。助けるとは、相手が必要としているものを見ることだと教わった。シモンもまた、アリスへ命を与えた。だが、その命が何を必要としていたかを、最後まで見切れなかったのだろうか。
「アリスは森を出たのですか」
イリスが訊いた。
アイオンは頷いた。
「ある日、姿を消しました。最初は旅に出たのだと言われました。人形にも旅が必要だ、と。シモンは笑っていました。寂しそうに、けれど止めなかった。止めれば、彼女を人形として箱に戻すことになると思ったのでしょう。自由を与えたかったのです」
「でも」
「自由だけでは、孤独に名前がつかない」
アイオンの声は低かった。「アリスは外で、人間に見られました。人形として。珍しい道具として。魂のない器として。魔導師には調べられ、神官には祈りの外に置かれ、貴族には飾りとして欲しがられ、魔族には壊れぬ玩具として見られた。彼女が自分を命だと訴えるほど、人々は気味悪がった。命があるなら、なぜ老いないのか。魂があるなら、なぜ肉を持たないのか。人間ではないなら、何なのか。問いはいつも彼女を削りました」
イリスの手が、記録帳を強く握った。彼女は神官として、人形の魂をどう扱うべきか分からないと口にしていた。だが、分からないことと、祈りから外すことは違う。彼女はその違いを今、痛いほど感じているのだろう。
「やがて、アリスは死者の都へ来た」
アイオンは廃都を見た。
「ここには、古いシオゥルの伝説が残っていた。死者を従える皇帝。墓から戻る軍団。玉座へ集まる名。おそらく最初は、彼女が作ったものではなく、帝国の残した禁忌の仕掛けだったのでしょう。アリスはそれを見つけた。死者なら老いない。死者なら去らない。死者なら自分を人形と笑わない。死者なら、自分の国を作れる。そう思ったのかもしれません」
「死者は、望んでない」
テイルが低く言った。
「ええ」
アイオンは頷く。
「でも、孤独は時に相手の望みを聞こえなくします」
その言葉に、全員が黙った。丘の下の廃都から、かすかな鐘の音が聞こえた。鐘というより、骨を打つ音だった。死者の都が、また夜へ向かって支度を始めているのかもしれない。
エノクは胸元の鍵を押さえた。鍵は静かだった。代わりに、胸の奥が痛む。
「シモンは、アリスが不死皇帝になったことを知っているんでしょうか」
ティンカーベルはすぐには答えなかった。
「知っている」
やがて、剣は言った。
「少なくとも、薄くは知っている。完全な名と場所を掴んでいなかったとしても、アリスが森を離れ、不死の影へ近づいたことは知っていたはずだ」
「どうして止めなかったの」
テイルが荒く言った。
「親なら、止めろよ」
その言葉は、ザッハへの反発と重なっていた。テイル自身も、父に外へ出されたばかりだ。だからこそ、シモンがアリスを止められなかったことが許せないのだろう。
ティンカーベルは低く答えた。
「止め方を間違えるのが怖かったのだろう。強く縛れば、彼女を人形に戻す。放せば、遠くへ行く。シモンは、自由と放置の境を見失った」
「それは」
イリスが目を伏せた。
「罪、なのですね」
誰もすぐには答えなかった。シモンはエノクにとって父のような人だった。優しく、静かで、壊れたものを捨てない人。森のすべてに名を呼び、エノクを王子ではなくエノクとして育てた人。そのシモンの愛が、不完全だったと言われている。彼の優しさの影で、アリスは孤独になった。エノクは、それを簡単に受け入れられなかった。けれど、アリスの言葉が嘘ではないことも分かってしまった。
「シモンは悪い人じゃない」
エノクは言った。子どものような言い方だと、自分でも分かった。
アリアは彼を責めなかった。ただ、静かに言った。
「悪い人じゃなくても、傷つけることはある」
エノクは拳を握った。
「でも、アリスが死者を操ったことは」
「アリスの罪」
アリアは即座に言った。
「そこは分けなさい。シモンの罪は、アリスに命を与えた後、その孤独を引き受けきれなかったこと。アリスの罪は、その孤独で死者を縛ったこと。どちらか一方に押しつけたら、また誰かの名前が消える」
その言葉は鋭く、正しかった。エノクは息を吐いた。アリアは許さない者の言葉を知っている。国を失い、死者の名を背負う者として、彼女は同情と赦免の違いを本能で分かっているのだ。
イリスが記録帳を開いた。
「書きます」
「今?」
エノクが問うと、彼女は頷いた。
「今、書かないと、私も混ぜてしまいます。アリスは、シモンに作られた命。シモンは、アリスの孤独を引き受けきれなかった。けれど、不死皇帝として死者を縛った責任は、アリス自身にもある。……そして、私はアリスの名を祈りから外さない」
彼女はそう書きつけた。筆跡は震えていたが、言葉は逃げていなかった。
テイルが小さく言った。
「外さないのか。あれだけやった奴を」
「外しません」
イリスは顔を上げた。
「外したら、彼女は本当に不死皇帝の仮面だけになります。私は、それをしたくありません。許すという意味ではありません。でも、アリスという名を祈りから外すことは、彼女が一番恐れていることを私もすることになる」
テイルは言葉を失った。やがて、乱暴に頭をかいた。
「神官って、面倒だな」
「はい。私もそう思います」
「自分で言うな」
ほんの少しだけ、空気が緩んだ。だが、すぐに重さが戻る。廃都はまだそこにあり、死者の名は玉座へ流れ続けている。アリスの孤独を知ったところで、事態は何も解決していない。
エノクは立ち上がった。
「シモンに、聞かなきゃいけない」
ティンカーベルが鳴った。
「いつかはな」
「今すぐ戻るわけにはいかない。でも、聞かなきゃいけない。アリスのことを。命を与えるって、どういうことなのか。彼女をどう思っていたのか。どうして、止められなかったのか」
「聞いて、どうする」
アイオンが問うた。
エノクは答えに詰まった。シモンを責めたいのか。守りたいのか。分からない。どちらもある。父のような人が傷つけた少女の前で、自分は何を言えばよいのか。
「分かりません」
エノクは正直に言った。
「でも、知らないまま、アリスを斬るか救うかなんて決められない」
「救うと、言うのですね」
アイオンの声は静かだった。
「許すとは、まだ言えません」
エノクは廃都を見た。
「アリスがしたことは消えない。死者を臣民にしたことも、名を奪ったことも、大地を冷やしたことも。でも、彼女がシモンに作られた命なら、彼女を物として壊して終わりにはできない。僕は、シモンの森で育ったから」
ティンカーベルが小さく言った。
「それは、お前の甘さでもある」
「うん」
「だが、捨てるな。甘さは、研げば刃ではなく鞘になる」
「鞘?」
「刃を抜く前に、何を斬らないかを決めるものだ」
エノクはティンカーベルを見た。剣はそれ以上言わなかった。
アリアが立ち上がる。
「次はどうする。もう一度入るなら、今度はアリスの糸を切る方法が必要よ。外殻を叩くだけじゃ駄目。玉座の奥へ届いても、名の核を壊したら終わり。イリスの祈りも、あの都では奪われる危険がある」
テイルが地面を睨む。
「大地の冷えは、玉座の下に集まってる。地下へ入れる道があるはずだ。表から行けばまた骸骨皇帝に押し返される。下から糸の根を探る」
アイオンが指で切れた弦を結びながら言った。
「シオゥル帝国には、皇帝の死を隠すための地下霊廟があったという歌があります。もちろん歌なので、九割は嘘です」
「残り一割は?」
アリアが問う。
「地下霊廟があった、という部分です」
「一番大事なところが残ってるなら、珍しく役に立つ」
「珍しくは余計です」
イリスは記録帳を閉じた。
「地下へ行くなら、墓碑や名札が残っているかもしれません。死者の名を辿れるかも」
エノクは頷いた。
「アリスを止めるには、死者の名を返すことと、アリス自身の名を不死皇帝から切り離すことが必要なんだと思います」
ティンカーベルが言う。
「そして、そのためにはアリスが自分で選ぶ必要がある。糸を外から切るだけでは、また別の外殻を作る」
「自分で?」
「不死皇帝であり続けるのか、アリスとして罪を背負うのか。選ぶのはあの子だ」
エノクは、玉座の奥の少女の硝子の瞳を思い出した。怒り、嫉妬、孤独、恐怖。死ねない命。消えることを恐れながら、死者を縛ることで自分の国を作った少女。彼女に選ばせる。それは、斬るよりもずっと難しいことに思えた。
その時、廃都の方から鐘が鳴った。
一度、二度、三度。
夜の鐘ではない。朝の鐘でもない。玉座からの呼び声だった。黒い城壁の上に、青白い火がひとつずつ灯っていく。街がまた動き始める。死者の国が、次の行進の準備をしている。
イリスが顔を上げた。
「また墓が開きます」
テイルが地面に掌を当てる。
「南の方だ。遠いけど、冷えが伸びてる。あいつ、こっちが考える時間も削る気だ」
アイオンは弦を結び終え、竪琴を抱え直した。
「なら、こちらも急ぎましょう。ただし、急ぎすぎると若竜が喜びます」
「余計なことを言うな」
テイルが睨む。
「喜んだ?」
「喜んでねぇ!」
アリアが短く言った。
「行くわよ。地下霊廟への入口を探す。エノク、ぼんやりしない」
「はい」
「返事だけは早い」
「それ、最近みんな言います」
「言われるだけの実績があるからね」
少しだけ、いつもの調子が戻った。だが、その下には重いものが沈んでいる。シモンの罪。アリスの罪。死者の名。不死皇帝の外殻。これから進む先は、ただ敵を倒すための道ではない。過去に命を与えた者の責任と、命を与えられた者の選択へ降りていく道だ。
エノクは廃都へ向かって歩き出した。胸元の鍵は静かで、母の守り石はイリスの掌で淡く光っている。ティンカーベルは腰で重く、いつもより口数が少なかった。剣もまた、昔を思い出しているのかもしれない。シモンの森にいた小さな人形。アリスと呼ばれた少女。きっとその頃の彼女は、不死皇帝ではなかった。ただ、名前をもらい、自分が何者か分からず、それでも誰かに置いていかれたくなかっただけの命だった。
だが、今は死者の国の支配者である。
救うことと許すことは違う。
エノクはその言葉を、まだ自分のものにできていなかった。けれど、できていないまま進むしかなかった。彼が向かう先には、シモンが与え、シモンが引き受けきれなかった命がいる。その命が積み上げた罪を、ただ斬るのではなく、ただ抱きしめるのでもなく、どう終わらせるのか。
答えは、シオゥルの地下に沈んでいる。
死者の都の鐘が、もう一度鳴った。今度は、エノクにはそれが、アリスの泣き声にも聞こえた。




