第9話_死者の名を返す
シオゥルの地下霊廟へ続く入口は、宮殿の正門にはなかった。王族だけが使う隠し扉でも、古い下水道でもなかった。それは帝都の中央広場、空の噴水の底にあった。水のない噴水に半透明の子どもたちが手を伸ばし続けていた、その真下である。テイルが最初に気づいた。彼は噴水の縁へ片膝をつき、掌を石へ当て、長い間黙っていた。周囲では死者たちが同じ暮らしの形を繰り返している。骨の商人が空の布を畳み、顔のない兵士が巡回し、首の傾いた亡霊の少年が水のない水面を覗き込んでいる。エノクたちは、その全てに見られながら、見られていないようにも感じていた。死者たちは目を向ける。だが、そこに自分の意思があるのか、玉座の糸が目を向けさせているのか、もう分からない。
「下だ」
テイルが言った。声は低く、額には汗が滲んでいた。
「冷えの根が、ここから下へ落ちてる。玉座へ行く糸とは逆に、名の欠片がここへ沈んでる。墓じゃない。倉だ」
「倉?」
イリスが聞き返す。
「死者の名を溜めてる場所だ。たぶん」
「たぶんは危ない言葉です」
イリスは反射的に言った。言ってから、こんな場所でそのやり取りが出たことに自分で少し驚いたようだった。テイルはむっとしたが、怒鳴らなかった。
「なら、たぶんじゃねぇ。ここだ」
アリアは噴水の底を見た。ひび割れた石皿の中央に、黒い鷲と折れた冠の紋が刻まれている。だが、その紋の周囲には、無数の小さな名が彫り込まれていた。古い帝国文字、人間の共通文字、地方の符号、兵士の略名、家族だけが使う短い呼び名。どれも半ば削れ、半ば黒く塗りつぶされている。
「入口を隠すためじゃないわね」
アリアが言った。
「名で蓋をしている」
アイオンは竪琴を抱えたまま、紋の周りを見つめた。
「帝国は、生者の名簿も死者の名簿も大切にした国でした。兵、納税者、貴族、奴隷、修道者、職人。名を書き、役目を書き、階級を書き、どこへ属するかを定める。アリスは、その仕組みを拾ったのでしょう。死者の名を玉座へ送るために」
イリスの表情が痛みに歪んだ。
「名簿は、人を数にするためにも、人を忘れないためにも使えます」
「ええ」
アイオンは静かに頷いた。
「どちらへ傾くかは、書く者の心次第です」
ティンカーベルが低く言った。
「エノク。ここは斬る入口ではない。開く入口だ」
「どうやって」
「名を読む」
皆の視線がイリスへ向いた。イリスは一瞬だけ息を呑んだが、逃げなかった。彼女は記録帳を胸に抱え、エノクから預かっていた白い守り石を握った。石は淡く光っている。彼女は噴水の底に膝をつき、消えかけた名の中から読めるものを探した。
「ラディウス」
最初に呼んだ名は、あの帝国兵の名だった。確定ではない名。けれど、昨夜から彼女が追い続けてきた名である。
「ラディウス。北辺の兵。墓から起こされ、黒い旗の行進に加えられた人。あなたの名を、玉座ではなく、あなた自身へ返します」
噴水の石が、かすかに震えた。黒く塗りつぶされた文字の一つが、白い光を帯びる。イリスは続けた。
「名を探しているあなた。水のない噴水に手を伸ばしていた子。パンを並べ続ける人。扉を閉めようとしている人。私はまだ、あなたたちの名を全部知りません。でも、知らないまま終わらせません。あなたたちは臣民ではありません。誰かの数ではありません。ひとりの名を持つ死者です」
白い守り石が強く温もった。エノクの胸も、同じように熱を持った。噴水の底の名が、一つ、また一つと淡い光を取り戻していく。全てではない。ほとんどはまだ黒いままだ。それでも、名前が読まれるたび、死者の街の動きがほんの少し乱れた。骨の商人の手が止まり、顔のない兵士の足が半歩遅れ、噴水の縁の亡霊の少年が、初めてこちらを見た。
アリアが双剣を抜いた。
「来るわよ」
宮殿の方から、黒い糸が伸びてきた。空中を走るそれは、風でも影でもなく、意志を持つ糸だった。イリスが呼んだ名を再び玉座へ縛り戻そうとしている。テイルが竜剣で地面を叩いた。青い竜気が噴水の周囲へ広がり、黒い糸を一瞬浮かせる。
「今だ、斬れ!」
アリアの双剣が走った。糸を完全に断つのではなく、名の光から引き剥がす。アイオンの竪琴が短い旋律を重ねた。死者の行進の拍子ではない。歩く者がそれぞれの足音を取り戻すための不揃いな調べ。黒い糸が震え、噴水の底の紋が割れた。
石皿が音もなく開いた。そこから、冷たい階段が下へ伸びていた。
地下へ降りると、空気は一変した。上の街が死者の暮らしをなぞる場所なら、地下霊廟は名を保管する場所だった。壁一面に石板が並び、そこに無数の名が刻まれている。帝国の皇帝、将軍、兵士、宮廷楽師、粉挽き、墓守、孤児、奴隷、巡礼者、ランバードとの戦で死んだ者、魔王との聖戦で死んだ者、黒い旗の行進に加えられた者。名の量に、イリスが息を失った。石板は何層にも重なり、奥へ奥へと続いている。だが、その名の多くは、黒い糸で縫われ、玉座の方角へ引かれていた。名はある。だが、持ち主のものではない。倉に収められ、玉座の財として扱われている。
「こんなに」
イリスの声は涙に濡れていた。
「こんなに、名前が残っているのに」
「残っているから使われている」
ティンカーベルが言った。
「胸糞悪いな」
テイルの声が低くなる。彼は壁に手を当て、顔をしかめた。
「名が石に縫い止められてる。大地が重いはずだ。墓が墓じゃなくて、倉庫にされてる」
アリアは奥を見た。
「玉座の根は?」
「この先。かなり深い。けど、近い」
彼らは名の石板の間を進んだ。イリスは歩きながら名を呼び始めた。最初は一つずつ。ラディウス。ハンナ。オルク。セラ。ガルム。ノエ。ミルファで記した名も混じっている。シオゥルの名だけではない。黒い旗は各地から死者を集めていたのだ。イリスが呼ぶたび、壁の糸が一つずつ白くほどける。だが、同時に地下霊廟全体が震え、玉座からの力が強くなっていった。
やがて、奥の広間へ出た。そこは地下の玉座の根だった。天井から無数の黒い糸が垂れ、床には名の石板が円形に埋め込まれ、中央に巨大な黒い柱が立っている。柱は骨でも石でもない。名を縫い合わせて固めたものだった。そこから上へ、骸骨皇帝の外殻と、玉座の奥のアリスへ力が送られている。
柱の前に、アリスが立っていた。
骸骨皇帝の外殻はない。黒い王冠もない。少女の人形の姿そのものだった。だが、彼女の背後には影のように巨大な骸骨皇帝の輪郭が立ち上がっている。外殻はまだ捨てられていない。彼女の怒りと孤独が作る、巨大な影としてそこにある。
「また来たの」
アリスは静かに言った。前のような尊大さは薄い。代わりに、疲れた子どもの苛立ちがあった。
「どうして放っておいてくれないの。あなたたちは、生きているんだから、どこへでも行けるでしょう。森へも、湖へも、街道へも、神殿へも。わたしにはここしかない」
エノクは前へ出た。ティンカーベルを抜いている。だが、刃先はアリスへ向けなかった。
「ここしかないって、誰が決めたの」
アリスの硝子の瞳が細くなる。
「わたしよ」
「本当に?」
「そうよ。わたしは不死皇帝。死者の国を作った。誰にも置いていかれない国を作った」
「死者に置いていかない役目を押しつけたんだ」
エノクの言葉に、アリスの糸が一斉に震えた。背後の骸骨皇帝の影が膨らむ。アリアが一歩踏み出し、イリスを守る位置へ立つ。テイルが地面を踏み、竜気を低く構える。
「あなたに何が分かるの」
アリスの声が鋭くなる。
「あなたはシモンに育てられた。人間の子として。名前を呼ばれて、食卓に座って、眠って、朝が来て、背が伸びて、いつか大人になる。わたしは違う。ずっと同じ顔。ずっと同じ手。壊れなければ死なない。壊れても直される。誰かが愛してくれても、その人は先に老いる。誰かが名前を呼んでも、その人は先に消える。なら、死者の方が正直よ。死者はもう老いない。もう先へ行かない」
「死者は、眠りたいかもしれない」
イリスが言った。
アリスは彼女を睨んだ。
「またそれ? 神官は死者の味方のふりをするのが上手ね」
「味方のふりではありません」
イリスは守り石を握ったまま前へ出た。アリアが止めようとしたが、彼女は首を振った。
「私は、あなたも祈りから外しません。でも、死者の名は返してください。あなたが寂しいからといって、死者を臣民にする権利はありません」
「権利?」
アリスが笑った。硝子を爪で引くような笑いだった。
「権利なんて、生まれた人間が作った言葉でしょう。作られた命には、いつも後から言葉を当てる。魂があるのか。権利があるのか。祈っていいのか。壊していいのか。わたしは待ちくたびれたの。誰かが決めてくれるのを待つのは、もう嫌」
「なら、自分で決めろ」
テイルが言った。
アリスの視線が彼へ向く。
「竜に言われたくない」
「言う。お前は自分で決めた顔をして、死者に決めさせてない。そいつらを起こすか眠らせるか、自分で全部握ってる。竜王の息子として言うのは癪だけどな、力を持ってる奴がそれをやったら、ただの支配だ」
アリスは言い返さなかった。テイル自身、その言葉が父の言葉を借りたものだと気づいているのか、苦い顔をしていた。
アイオンが静かに竪琴を鳴らした。
「アリス。あなたは、人形であることを憎んでいる。けれど、不死皇帝という外殻もまた人形です。大きな骸骨の形をした、あなた自身のための人形です」
アリスの目が揺れた。
「黙って」
「黙りません。昔、黙ったので」
アイオンの声は低く、逃げなかった。
「あなたの泣き声を、歌にできなかった。シモンだけの罪ではない。私たちも、七英雄も、世界を救った顔をして、小さな孤独を置いていった。だから今、黙りません」
「今さら!」
アリスが叫んだ。背後の骸骨皇帝の影が腕を振り上げる。黒い糸が一斉に襲いかかる。アリアが双剣でそれを受け、テイルが竜気で床の糸を浮かせ、エノクがイリスの前へ立つ。ティンカーベルが糸を弾くたび、刃に黒い焦げ跡が増えていく。
「イリス!」
アリアが叫ぶ。
「呼べる?」
「呼びます!」
イリスは地下霊廟の名を見回した。あまりにも多い。全部は呼べない。だから彼女は、近くの石板に刻まれた名から、一つずつ呼んだ。
「ラディウス。ハンナ。トマ。エル。ミレナ。リウ。ガルム。セラ。ノエ。オルク。名を探しているあなた。家族に呼ばれていたあなた。兵ではなく、臣民ではなく、玉座の財ではなく、あなた自身の名を持つ人」
白い光が広がった。守り石と聖印と記録帳が、三つの光を重ねる。名を呼ばれた石板から黒い糸がほどけ、地下霊廟の空気が少しだけ温かくなる。テイルが大地の変化を感じて目を見開いた。
「戻ってる。熱が、少し」
「続けて!」
アリアが糸を斬りながら叫ぶ。
イリスは呼び続けた。名が分からない者には、「あなたの名を探しています」と呼んだ。完全な解放ではない。それでも、玉座へ一直線に流れていた名の濁流が、少しずつ枝分かれし、持ち主の眠りへ戻ろうとし始めた。死者たちの影が地下霊廟に現れる。帝国兵。修道女。パン屋の女。噴水の少年。顔のない兵士の影も、わずかに顔の輪郭を取り戻していく。
アリスの顔が歪んだ。
「やめて」
今度の声は怒りよりも恐怖に近かった。
「みんな、行かないで。わたしを置いていかないで」
エノクはその声を聞いて、剣を握る手を強めた。斬れば、早い。アリスの糸を、名の核ごと斬れば、この支配は終わるかもしれない。だが、それはアリスを物として壊すことだ。シモンの罪を、別の形で繰り返すことだ。
ティンカーベルが言った。
「エノク。今、お前が決める」
「斬らない」
エノクは即答した。
「甘いな」
「そうかもしれない」
「だが、決めたなら行け」
エノクはアリスへ向かって歩いた。糸が襲ってくる。アリアが右を斬り、テイルが左を押さえ、アイオンの歌が糸の拍子を乱す。イリスは名を呼び続ける。皆が作る細い道を、エノクは進んだ。守られている。支えられている。だから、届く。
「アリス」
「呼ばないで!」
「呼ぶ」
エノクは叫んだ。
「君は不死皇帝じゃない。少なくとも、それだけじゃない。君はアリスだ。シモンに名前をもらって、孤独になって、怒って、間違えて、死者を縛ったアリスだ」
アリスの硝子の瞳が震えた。
「間違えてなんか」
「間違えた」
エノクの声も震えていた。それでも言った。
「君は苦しかった。寂しかった。シモンは君の孤独を引き受けきれなかった。僕はそれを、シモンに聞かなきゃいけない。でも、死者を臣民にしたのは君だ。死者の名を玉座へ集めたのは君だ。そこから逃げて、不死皇帝の外殻に隠れたら、君の罪も君の名も骸骨に取られる」
アリスは両手で胸元の核を押さえた。
「じゃあ、どうすればいいの。わたしは人間じゃない。死ねない。老いない。許されない。帰る森もない。先生に会ったら、何を言えばいいの」
「分からない」
エノクは答えた。
アリスが呆然とした顔をした。
「分からないのに来たの」
「うん。分からない。でも、君を斬って終わりにしたくない。死者の名を返して、君がアリスとして立つなら、その先を一緒に探せる」
「一緒に?」
アリスの声が小さくなる。
「償うために」
イリスが名を呼びながら、涙声で言った。
「罪は消えません。死者を縛ったことは、なくなりません。だから、一緒に行くなら、あなたは死者の名を返す旅をしなければなりません。私が記録します。あなたが奪った名を、あなた自身の手で返すんです」
アリアが糸を斬りながら言った。
「逃げたら止める。死者をまた縛るなら斬る」
テイルが続けた。
「大地を冷やした分、あっため直すまで働け。人形だろうが皇帝だろうが関係ねぇ」
アイオンは静かに言った。
「そして、シモンに会いに行きましょう。あなたが何を言うかは、あなたが決めればいい。私たちが代わりに歌うことではない」
アリスの周囲の糸が、少しずつ緩んでいった。背後の骸骨皇帝の影が揺らぐ。不死皇帝という巨大な外殻が、彼女を守る鎧であり、彼女を閉じ込める檻でもあったことが、誰の目にも分かった。
「罪は消えないのね」
アリスが呟いた。
「消えない」
エノクは言った。
「でも、罪があるから君はアリスじゃない、とは言わない」
長い沈黙があった。地下霊廟の名が、イリスの声に応じて淡く光っている。死者たちは待っていた。アリスが握る糸の先で、眠りへ戻ることを待っていた。
アリスはゆっくりと、自分の頭に手を伸ばした。そこには見えない王冠があった。不死皇帝としての名を縛る、黒い糸の冠。彼女はその糸を掴み、震える指で引き剥がした。硝子の瞳から涙は落ちない。だが、胸の核が白く揺れた。
「わたしは」
声が震える。
「わたしは、不死皇帝じゃない」
背後の骸骨皇帝の影が大きく揺らいだ。
「わたしは、アリス」
その名を自分で呼んだ瞬間、巨大な外殻が崩れた。地上の玉座で、骸骨皇帝の体が音を立てて倒れるのが遠く聞こえた。黒い王冠が割れ、骨の玉座を縛っていた糸が一斉にほどける。地下霊廟の名の石板から黒い縫い目が消え、青白い火が白い光へ変わっていく。死者たちの影が、ひとり、またひとりと立ち上がり、イリスの方へ頭を下げた。言葉はない。だが、名が戻っていく気配があった。完全ではない。傷ついた名も、欠けた名も多い。それでも、玉座へ強制的に流される濁流は止まった。
イリスは膝をつき、泣きながら祈った。
「眠れますように。名を持って、帰れますように。まだ名を探している人には、いつか届きますように」
アリスはその光景を見ていた。自分が縛っていた死者たちが離れていく。置いていかれる恐怖が、彼女の顔に浮かぶ。エノクはその前に立った。
「置いていかれるんじゃない」
「でも、みんな行く」
「君が返したから、行ける」
アリスの小さな手が震えた。彼女は自分の指から切れた糸の残骸を見つめている。
「わたし、ひどいことをした」
「うん」
「謝ったら、許される?」
「分からない」
「また分からない」
「分からない。でも、謝らなきゃ始まらないと思う」
アリスは目を伏せた。硝子の瞳に、白い光が映る。
「わたし、死者の名を返す」
彼女は小さく言った。
「全部は覚えてない。たくさん奪った。壊した名もある。戻せない人もいるかもしれない。でも、返す。探す。……それが終わるまで、わたしは皇帝じゃなくていい」
イリスが顔を上げた。
「それは、償いの旅になります」
「旅」
アリスはその言葉を、初めて聞く言葉のように繰り返した。
「森から出た時は、ひとりだった。誰も待ってくれなかった。今度は」
彼女はエノクたちを見た。
「今度は、連れていってくれるの」
アリアが厳しい声で言った。
「勘違いしないで。私たちは、あなたを許したわけじゃない。見張る。止める。必要なら斬る」
「うん」
アリスは頷いた。
テイルが腕を組む。
「荷物運びくらいはしろ。人形だから疲れねぇんだろ」
「疲れるわよ」
アリスがむっとした顔をする。
「心が」
テイルは言葉に詰まった。
「……そこは否定しねぇけど」
アイオンが静かに微笑んだ。
「では、旅の仲間に小さな皇帝ではなく、アリスが加わるわけですね」
「歌にしたら糸で口を縫う」
アリスが言った。
アイオンは胸に手を当てた。
「その脅し方は本当にやめていただきたい」
ティンカーベルが低く笑った。
「相変わらずだな、アリス」
アリスは剣を見た。少しだけ、昔の森を思い出すような顔をした。
「あなたも、相変わらず偉そう」
「私は剣だ」
「剣は偉そうにしていいの?」
「手入れされていればな」
アリスの口元が、ほんのわずかに動いた。笑ったのかもしれない。けれどすぐに、その表情は消えた。彼女は地下霊廟の名の石板へ向き直り、小さく頭を下げた。
「ごめんなさい」
声は小さかった。だが、地下に響いた。
「名前を奪って、ごめんなさい。眠りを壊して、ごめんなさい。臣民なんて呼んで、ごめんなさい」
死者たちは答えなかった。赦しの声はない。抱きしめる手もない。けれど、白い光が一つ、アリスの足元へ落ちた。拒絶ではなかった。赦しでもなかった。ただ、始まりを許す沈黙だった。
地上へ戻ると、シオゥルの帝都は変わり始めていた。骸骨皇帝の外殻は玉座の間で崩れ、黒い王冠は割れ、骨の玉座を縛っていた糸は切れていた。街路の死者たちは全員が消えたわけではない。まだ空の棚へ手を伸ばす者も、噴水に座る子どもも、巡回を続ける兵士もいる。だが、動きは変わっていた。繰り返しではなく、迷いがあった。迷えるなら、戻れる可能性がある。イリスはそれを見て、また記録帳を開いた。
「ここから、返していきます」
アリスはその隣に立った。人形の少女は、もう黒い糸の冠をかぶっていない。胸の核は白く弱く光り、硝子の瞳には恐れが残っている。
「わたしも書く」
彼女は言った。
「書けるの?」
イリスが優しく問うと、アリスは少しむっとした。
「字は書けるわ。シモンが教えたもの」
その名が出ると、空気が少しだけ重くなった。エノクはアリスを見た。アリスもエノクを見返した。
「シモンに会ったら」
アリスは言った。
「わたし、怒ると思う。泣けないけど、怒る。たぶん、ひどいことを言う」
「それでいいと思う」
エノクは答えた。
「僕も聞かなきゃいけないことがある。シモンに」
「あなたは、先生を嫌いになる?」
アリスの問いは、子どものように鋭かった。
エノクはしばらく考えた。
「分からない。でも、嫌いになるかもしれないことを怖がって、聞かないままにはしない」
アリスは黙った。やがて、小さく言った。
「変な人間」
「よく言われる」
「薄いし」
「それも最近よく言われる」
テイルが横から言った。
「事実だからな」
「テイル」
「でも」
若竜は言葉を探すように視線を逸らした。
「薄い紙でも、名前は書けるんだろ」
イリスが微笑んだ。
「はい」
「なら、まあ、破れるなよ」
エノクは少し笑った。
「ありがとう」
「礼じゃねぇ」
アリアが歩き出した。
「長居はできない。死者の名を返すには時間がかかるけど、ここで全て終えるのは無理よ。アリス、あなたは自分が奪った名の道筋を覚えている?」
アリスは頷いた。
「全部じゃない。でも、糸の跡は分かる。黒い旗を出した墓地、玉座へ繋いだ霊廟、遠くの村、戦場、川沿いの墓。たくさんある」
「なら案内しなさい」
「命令するの?」
「そうよ」
アリスは一瞬、怒りかけた。だが、すぐに視線を落とした。
「……分かった」
それは、皇帝の返事ではなかった。償いを始める少女の返事だった。
廃都を出る時、城門の骸骨兵たちは槍を下げていた。青白い火はまだ眼窩にある。だが、その火は先ほどよりも穏やかだった。一体の兵士が、エノクたちの前で膝をついた。イリスが記録帳を開く。
「あなたの名は」
骸骨兵は声を出さなかった。だが、胸甲の裏に小さな文字が浮かび上がった。ラディウス。イリスは息を呑み、涙を浮かべた。
「ラディウスさん」
名を呼ばれた骸骨兵は、槍を床に置いた。骨の体が白い光に包まれ、少しずつ崩れていく。崩壊ではない。眠りへ戻るためのほどけ方だった。最後に、兜だけが残った。イリスはそれを両手で受け止めた。
アリスはその光景を見て、何も言わなかった。自分が奪った名の一つが、自分の前で返されたのだ。その顔には安堵も、悲しみも、恐れもあった。罪は消えない。けれど、最初の名が返った。
シオゥルの廃都の門を出ると、朝の光が丘へ差していた。完全な光ではない。街の上にはまだ黒い霧が残り、眠れない死者も多い。それでも、風が少しだけ温かかった。テイルが地面に手を当て、短く言った。
「少し、戻った」
イリスはラディウスの兜を抱きしめた。
「一人、戻りました」
「一人だけよ」
アリアが言った。
「はい」
イリスは頷く。
「でも、一人です」
その言葉に、アリスが小さく反応した。数ではなく、一人。イリスが最初から言い続けてきたことが、アリスの胸にも届いたのかもしれない。
エノクは振り返った。シオゥルの廃都は、まだ死者の都だった。だが、不死皇帝の外殻は崩れた。玉座の奥の少女は外へ出た。罪を抱えたまま、旅に加わる。
アリスはエノクたちの少し後ろを歩いていた。小さな人形の足取りは軽いのに、背負っているものは誰よりも重い。彼女は時折、胸元の名の核に手を当てる。不死皇帝ではなく、アリスとして立つために、その名を確かめているのだろう。
エノクは前を向いた。旅の仲間はまた増えた。けれど、それは単純な喜びではない。アリスは守るべき少女であり、止めるべき罪人でもあり、シモンの未完の責任でもある。彼女と歩くことは、死者の名を返す旅であり、シモンの罪へ向かう旅でもある。
ティンカーベルが静かに言った。
「重くなったな、エノク」
「うん」
「持てるか」
「一人では無理」
「なら、そう言え」
エノクは仲間たちを見た。アリア、イリス、アイオン、テイル、アリス、ティンカーベル。誰も軽くはない。誰も完全ではない。けれど、一緒に歩いている。
「みんなで持つ」
エノクは言った。
風が廃都から吹き抜けた。まだ冷たい。けれど、その中にほんの少し、眠りへ戻る死者の安らぎが混じっていた。




