第1話_暗黒剣の噂
シオゥルの廃都を離れてからも、アリスはしばらく振り返らなかった。振り返る資格がないと思っているのか、振り返れば戻りたくなるのを恐れているのか、エノクには分からなかった。小さな人形の少女は、イリスの少し後ろを歩いている。黒と白の古い服は旅に向かず、裾はすぐに土埃を含んだ。それでも彼女は文句を言わなかった。人形の足取りは軽い。だが、歩くたびに胸元の名の核がかすかに光り、その光が消えそうになるたび、彼女は指先でそこを押さえた。不死皇帝ではなく、アリスとして立つために、自分の名を確かめているのだろう。
イリスは、ラディウスの兜を布に包んで背嚢の上に結んでいた。兜は軽くはない。アリアは持とうかと訊いたが、イリスは首を振った。最初に返せた名の証だから、自分で持ちたいのだという。テイルは「荷物を増やしてどうする」と言いかけ、途中で黙った。代わりに、何も言わずにイリスの背嚢の紐を締め直した。イリスが「ありがとうございます」と言うと、テイルは「緩んでたから直しただけだ」とそっぽを向いた。アリスはそのやり取りをじっと見ていた。羨ましいのか、不思議なのか、それとも自分が奪った名の重さを見ているのか、硝子の瞳からは読みきれない。
道はシオゥルの旧街道を南西へ折れた。アイオンの話では、この道はかつてランバードとの戦線へ向かう軍用路だったという。石畳はところどころ崩れ、草に埋もれ、橋は半ば落ちている。それでも、帝国の道は死んでいなかった。直線を好み、丘を削り、谷へ石橋を架け、行軍する者が迷わぬよう、古い標柱を規則正しく置いている。シオゥルの国は死者の国になっても、道だけはまだ軍隊のための顔をしていた。
エノクはその道を歩きながら、胸元の鍵を服の上から押さえた。ランバードとシオゥル。長く争った二つの国。かつては敵同士だった血が、魔王カオスを前に同じ戦場へ立った。だが、その休戦の記憶すら、いまは死者の都の黒い旗に塗りつぶされかけていた。世界は何度も同じものを失う。名、国、眠り、誇り。それを一つずつ拾う旅になっているのだと、彼は少しずつ知り始めていた。
「次はどこへ向かうの」
アリスが、不意に訊いた。
誰もすぐには答えなかった。彼女の声はまだ輪の外側から投げられる。仲間として馴染んだ声ではない。同行を許されている罪人が、道を確認する声だった。
アイオンが、いつもの軽さを少し戻して答えた。
「暗い噂の方へ、ですね」
「それ、全部じゃない」
アリアが言う。
「たしかに。最近は暗い噂が多すぎて、方角だけでは旅が成立しません」
「具体的に」
「ヤクシャ」
その名が落ちた瞬間、アリアの足がわずかに止まった。ほんの一瞬だった。だが、エノクは気づいた。テイルも気づいたのか、横目でアリアを見る。イリスは知らない名に息を潜め、アリスは首を傾げた。ティンカーベルが鞘の中で低く鳴る。
「魔王軍四天王の一人だな」
剣が言った。
「ええ」
アイオンは帽子のつばを下げた。「千年前、ランバードの王子アベルを死の淵へ落とした者。黒い刃を振るい、戦場の境界を血で閉じ、魂の帰路を断つ剣士。歌では『暗黒剣ヤクシャ』と呼ばれることが多い」
「アベルを」
エノクは声を低くした。アベル。自分の祖先。聖天使アルティエルに死の淵から戻された王子。その出来事がなければ、七英雄は集まらなかった。つまり、ヤクシャはただの四天王ではない。七英雄の旅の始まりに、血で名を刻んだ存在なのだ。
「そいつは、まだ生きてるのか」
テイルが問う。
アイオンは肩をすくめた。
「生きている、という言葉がどこまで通じるかは分かりません。千年前に討たれたという歌もあれば、阿修羅に斬られたという歌もある。封じられたという記録もある。剣だけが残ったという噂もある。最近は、その最後の噂が濃くなっている」
アリスがぽつりと言った。
「剣だけが残ることもあるの?」
ティンカーベルが即座に答えた。
「ある」
短い答えだった。アリスは剣の方を見た。少しだけ気まずそうに、そして少しだけ納得したように。
「ただし、よい残り方ばかりではない」
ティンカーベルは続けた。「器に宿る意志が、持ち主を守ることもある。逆に、器が持ち主を喰うこともある」
アリアの手が、腰の双剣へ動いた。彼女は気づいてすぐ手を離したが、その動きは誰の目にも残った。アイオンはそれを見て、あえて何も言わなかった。
日が傾く頃、一行は旧街道沿いの宿場跡に着いた。完全な廃墟ではない。崩れた石壁の間に、まだ数軒の家が残り、旅人相手の酒場兼宿屋も一軒だけ煙を上げていた。看板は古く、黒い鷲の紋を削った上に、粗い筆で《欠け剣亭》と書き直されている。入口には馬ではなく、痩せた山羊が二頭つながれていた。中からは人の声がする。死者の都を見た後では、生きている人間の騒がしさでさえ眩しく感じられた。
だが、戸を開けた瞬間、その眩しさはすぐに曇った。酒場の中は薄暗く、客は少ない。旅の商人、古い鎧を着た傭兵、顔を布で覆った墓荒らしらしき男、そして帝国跡を巡る物好きな学者風の老人。誰も心から酔っていない。酒を飲むのは温まるためであり、黙っているのが怖いからだ。壁には獣除けの札と、帝国風の古い短剣と、折れた剣の柄が飾られていた。その柄には、赤黒い染みが残っている。エノクはそれを見た瞬間、胸の奥がざわついた。
アリアは一歩入ったところで止まった。
宿の主人は片足を引きずる老人だった。白髪を後ろで結び、片目に濁りがある。彼は一行を見て、最初にテイルの角と鱗を見、次にアリスの陶器のような肌を見、最後にアリアの双剣で目を止めた。そこで表情が少し変わった。
「旅の方々か」
「ええ」
アイオンが前へ出る。
「部屋と温かい食事を。できれば、噂も少々」
「噂は酒より高い」
「良質なら払います」
「悪質なら?」
「歌にします」
老人は鼻で笑った。
「それは脅しか」
「職業上の習慣です」
アリアが低く言った。
「暗黒剣の噂を聞きたい」
酒場の空気が変わった。客たちの視線が一斉にアリアへ向く。誰かが杯を置く音がした。イリスが記録帳を抱え直し、テイルが周囲を見る。アリスは反射的にエノクの後ろへ半歩隠れた。死者の国を支配していた少女が、生者の沈黙に怯える。その奇妙さに気づく余裕は、今のエノクにはなかった。
宿の主人は、アリアの顔を長く見た。
「その名を、軽く言うものじゃない」
「軽く言ってない」
「なら、なおさら悪い。重く言う者は、だいたい死に近い」
「知ってる」
アリアの声は硬い。主人はさらに彼女を見て、やがて目を細めた。
「あんた、どこの剣舞だ」
アリアの指が動いた。
「ただの踊り子よ」
「ただの踊り子は、足音を殺して酒場に入らん。剣を抜かずに入口と窓と梁を数えん。まして、その腰の細剣。柄の細工がヴェルナの古い王宮式だ」
エノクは息を呑んだ。イリスもアリアを見る。テイルは空気を読めないわけではない。何も言わずに黙った。アリスだけが、ヴェルナという名を知らず、けれどその場の温度で重要な名だと悟ったようだった。
アリアは静かに言った。
「見間違いよ」
「なら、そういうことにしておこう」
主人は布で杯を拭きながら、声を落とした。「暗黒剣の噂なら、南の剣塚道から来ている。夜に剣の音がする。墓場からではない。古戦場からでもない。鞘の中で、剣だけが笑う音だ」
「剣が笑う?」
テイルが眉をひそめる。
「竜の坊や、剣にも性格はある」
「坊やって言うな」
「剣にも性格はある」
ティンカーベルが被せるように言った。
主人の目が剣へ向く。喋る剣にも驚きはしたが、この土地では驚き疲れているのか、彼は深く問わなかった。
「暗黒剣は、人を選ぶんじゃない。人の中の血を選ぶ。怒り、復讐、誇り、負けたくないという意地。そういうものを嗅ぐ。握った者は、自分が強くなったと思う。実際、強くなる。剣筋は鋭くなり、痛みは遠くなり、敵の息が遅く見える。だが、最後には自分の手がどこまで剣で、どこから自分なのか分からなくなる」
アリアの顔から血の気が少し引いた。彼女はそれを隠すように、唇を引き結ぶ。
アイオンが静かに訊いた。
「それはヤクシャの剣ですか」
主人はしばらく答えなかった。酒場の客たちも黙っている。やがて、老人は壁に飾られた折れた柄を見た。
「この辺りでは、そう呼ぶ。暗黒剣ブラッディソード。四天王ヤクシャの刃。アベル王子を血潮野で倒した剣。剣神阿修羅が封じたはずの呪い。歌では、みんなそう言う」
「歌では?」
エノクが問う。
主人は目を伏せた。
「現実では、封じられたはずの剣が時々現れる。敗れた軍の将が握る。復讐者が握る。家を焼かれた娘が握る。国を失った者が握る。握った者は、しばらく英雄のように戦い、それから人ではなくなる」
アリアが低く言った。
「ヴェルナにも現れたのね」
老人は彼女を見た。今度は、隠す気がない目だった。
「ああ」
空気が凍った。
「ヴェルナが滅びた夜、黒い刃を見た者がいる。王宮の奥、剣舞の祭壇、境界を祓うはずの舞台。その中心で、赤黒い剣が立っていたと。誰が握っていたのかは、噂が割れている。魔王軍の手の者。王家の裏切り者。護衛隊長。狂った神官。あるいは、誰も握っていなかった。剣だけが立ち、周囲の者に争わせた」
アリアの肩がわずかに震えた。エノクは声をかけられなかった。彼女の国。彼女が「国を失った」としか言わなかったヴェルナ。その滅びに、ヤクシャの暗黒剣が関わっている。
「嘘よ」
アリアは言った。
声は静かだった。静かすぎて、痛かった。
「ヴェルナは内乱で滅びた。疫病と、港の封鎖と、海賊と、王家の失政と。そう言われている」
「そう言われている」
主人は繰り返した。
「言われていることが、多すぎる国は、たいてい何か隠されている」
アリアの指が双剣の柄へ動いた。アリスがそれを見て、少しだけ後ずさる。イリスがアリアの名を呼ぼうとして、ためらった。今、呼べば彼女の怒りを止めることになるのか、傷を押さえつけることになるのか、分からなかったのだ。
アイオンが静かに割って入った。
「老人。剣塚道、と言いましたね」
「ああ。南へ二日。古い戦場の先だ。千年前、アベル王子がヤクシャに倒された血潮野へ続く道でもある。そこからさらに海へ折れれば、ヴェルナへ続く旧街道に出る」
「都合がよすぎる」
テイルが言った。
「血潮野とヴェルナが、同じ道で繋がっているなんて」
「道は、血で繋がることがある」
老人は答えた。「人が忘れても、戦場は道を覚えている」
アリアは何も言わなかった。彼女は壁の折れた柄を見ている。赤黒い染み。暗黒剣そのものではないだろう。だが、その模倣か、欠片か、あるいはそれに触れた者の剣か。ティンカーベルが低く唸った。
「嫌な残り香だ」
「ヤクシャの?」
エノクが小声で問う。
「断定はできん。だが、刃が境界を切り損ねた匂いがする。血と魂の間、名と怒りの間、人と剣の間。その境が乱れている」
アリアの目が一瞬だけ動いた。
「境界」
その言葉は、彼女の剣舞の根に触れるものだった。ヴェルナの王族が受け継いだ境界祓いの剣舞。阿修羅の系譜にある、刃で境を定める舞。もし暗黒剣が境界を乱すものなら、ヴェルナが狙われた理由は偶然ではない。
宿の主人は奥から古い地図を持ってきた。羊皮紙ではなく、帝国時代の軍用布地図だ。端は焼け、中央にはいくつもの朱の印がある。血潮野。剣塚。旧阿修羅道。ヴェルナ北門跡。海沿いの祭礼街道。その名を見た時、アリアの顔がさらに硬くなった。
「この地図、どこで」
「死んだ傭兵から買った。いや、死ぬ前に売られた。暗黒剣を探す連中が、このあたりを通るようになってな。黒い刃を握れば、魔王軍にも、死者にも、竜にも勝てると信じる馬鹿どもだ」
「勝てるのか」
テイルが問う。
「しばらくはな」
老人は言った。
「だから始末が悪い」
その夜、一行は《欠け剣亭》の二階に部屋を取った。部屋は二つだけで、男女で分けるには人数が合わず、結局アリア、イリス、アリスが一室、エノク、テイル、アイオンが一室、ティンカーベルは「剣に部屋割りを求めるな」と言ってエノクの枕元に置かれた。だが、誰もすぐには眠れなかった。下の酒場からは低い声が漏れてくる。暗黒剣、ヤクシャ、血潮野、ヴェルナ。客たちはその名を小さく、小さく口にしていた。噂は火のように広がるが、誰も真正面から見たがらない。暗闇の中で、名だけが行き交っている。
エノクは窓辺に立ち、外の旧街道を見た。月明かりの下、道は南へ伸びている。あの先に、アベルが死の淵へ落ちた血潮野がある。さらに先に、アリアの祖国ヴェルナへ続く道がある。二つの傷が一本の街道で繋がっていることが、偶然とは思えなかった。
「アリアのところへ行きたい顔をしている」
アイオンが背後で言った。
「分かりますか」
「あなたは顔に全部出ますから」
「最近、隠すのを少し覚えたと思ってた」
「少しは。ですが、窓辺に立って月を見る少年は、だいたい誰かのことを心配しています」
テイルが寝台の上で腕を組んだまま言った。
「行けばいいだろ」
「でも、今は」
「行かなきゃ、余計面倒になる顔だったぞ。あの剣舞女」
「テイルにそういうの分かるんだ」
「馬鹿にすんな。怒ってる奴の顔くらい分かる」
「怒ってる人をよく見るから?」
「自分がよく怒るからだろうな」
アイオンがさらりと言うと、テイルは枕を投げた。アイオンは見事に避け、枕は壁に当たって落ちる。ティンカーベルが呆れたように言った。
「夜の宿で騒ぐな」
「剣に叱られた」
「お前もよく叱られてるだろ」
テイルが言う。
「うん」
「素直に認めるな。調子が狂う」
エノクは少しだけ笑い、それから廊下へ出た。隣室の前で立ち止まり、声をかけるべきか迷っていると、扉の向こうからアリアの声がした。
「入れば」
「気づいてたんですか」
「足音が迷いすぎ」
中へ入ると、イリスは寝台の端で記録帳を抱えて座っていた。アリスは窓際の椅子に腰かけ、膝を抱えている。人形だから眠らなくてもよいのか、それとも眠れないのかは分からない。アリアは窓のそばに立ち、双剣のうち細い方を抜いて、月明かりに刃をかざしていた。その刃の柄には、小さな紋がある。港で見た時から気になっていた。波と剣舞の靴を組み合わせたような紋。ヴェルナのものなのだろう。
「さっきの話」
エノクは言った。
「ヴェルナのことを、聞いてもいいですか」
「聞いてどうするの」
「分かりません。でも、聞かないままだと、アリアが一人で行きそうだから」
アリアは笑わなかった。
「行くわよ」
「一人で?」
「必要なら」
イリスが不安そうに顔を上げる。
「アリアさん」
「分かってる。今すぐ飛び出したりはしない。……そこまで子どもじゃない」
アリスが小さく言った。
「怒ってる時は、みんな子どもみたいになる」
アリアの視線が彼女へ向く。アリスは少し身を固くしたが、目を逸らさなかった。
「あなたが言うの」
「言う。わたしも、怒って国を作ったから」
その言葉に、部屋の空気が静かに沈んだ。アリアはしばらくアリスを見ていたが、やがて剣を鞘へ戻した。
「そうね」
アリアは窓の外へ目を向けた。
「あたしの国は、ヴェルナ。港の小さな国だった。大国じゃない。ランバードやシオゥルみたいに歴史書へ何十頁も載る国じゃない。でも、海風があって、祭りがあって、剣舞があった。王族は剣を持って舞った。敵を斬るためだけじゃない。海から来るものと陸に住むもの、生者と死者、祭りと戦、そういう境を乱さないために踊るって教わった」
エノクは黙って聞いた。アリアの声は淡々としていた。だが、淡々としすぎている。思い出を扱う手が、震えないよう固められている。
「滅びた夜、あたしは城の奥にいた。剣舞の祭壇へ行けと言われた。父も、母も、兄も、護衛たちも、みんな別々の場所にいた。煙が出て、鐘が鳴って、誰かが裏切ったと言われて、疫病だと言われて、港が焼けたと言われて、魔物が入ったと言われて、何が本当か分からなかった。あたしが最後に見たのは、祭壇の赤い光。剣の形をした、赤黒い光だった」
イリスが息を呑む。
「暗黒剣」
「当時は、そうだと知らなかった。ただ、祭壇の中心に立つはずの聖剣が黒く見えた。ヴェルナの剣舞は境界を守るものだった。なのに、その夜は境界が全部壊れた。味方と敵。生者と死者。王家と反逆者。祈りと呪い。何もかも混ざって、みんな斬り合った」
アリアは拳を握った。
「あたしは逃がされた。王女だから。血を残すために。国が滅びる時、血だけ残されるのがどれほど腹立たしいことか、あの時知った」
エノクは胸が痛んだ。自分もまた、ランバードの血として逃がされた。だが、彼は赤子だった。覚えていない。アリアは覚えている。焼ける国の音を、手を離した者の顔を、逃がされた屈辱を。
「アリアさん」
イリスが静かに呼んだ。
「その国の名を、もっと聞かせてください。今すぐではなくても。私、記録します。ヴェルナを、ただ滅びた国として終わらせたくありません」
アリアの顔が少しだけ歪んだ。
「イリスは、本当に容赦ないわね」
「すみません」
「謝らなくていい。……たぶん、必要なことよ」
アリスが膝を抱えたまま言った。
「国があった人は、国を記録してもらえるのね」
その声には、棘があった。アリアは振り向く。
「羨ましい?」
「羨ましい。わたしには生まれた国がない。血もない。滅びた王家もない。シモンの森は、わたしの国じゃなかった」
「じゃあ、これから持てばいい」
アリアは言った。
アリスが目を見開く。
「国を?」
「名を残す場所を。領土のことじゃない。あたしも、たぶんヴェルナを領土として取り戻すわけじゃない。戻せたとしても、昔の国にはならない。でも、舞は残せる。名は残せる。あんたも、死者を縛る国じゃなく、返した名を残す場所を作ればいい」
アリスは何も言えなかった。硝子の瞳が、月明かりを映していた。
エノクは、アリアの言葉を聞きながら、彼女自身も今それを初めて言葉にしたのだと感じた。復讐だけではない。ヴェルナをどう残すか。暗黒剣の噂は、彼女の傷を裂いたが、その奥にある問いも露わにした。
その夜更け、宿の下で騒ぎが起きた。
悲鳴ではない。剣の音だった。乾いた、短い、何かを切り損ねたような音。アリアが真っ先に動き、エノクもティンカーベルを掴む。イリスは記録帳を置いて薬袋を取り、アリスは一瞬迷い、自分の胸元を押さえてから立ち上がった。廊下へ出ると、テイルとアイオンもすでに部屋から出ていた。
「下だ」
テイルが言う。
「血の匂いがする」
階段を駆け下りると、酒場の中央で傭兵の男が立っていた。昼間、隅の席で黙って飲んでいた男だ。彼の手には、赤黒く光る短剣が握られている。壁に飾られていた折れた柄ではない。自分の剣のはずだ。だが、刃の色が変わっている。赤黒い光が、刃から手首へ、手首から首筋へ這い上がっていた。男の目は焦点を失い、口元だけが笑っている。
「聞こえる」
男は呟いた。
「剣が、聞こえる。斬ればいい。斬れば、全部戻る。斬れば、負けなかったことになる」
アリアの顔が変わった。
「剣を捨てなさい」
「うるさい。踊れ」
男の目がアリアを捉えた。
「ヴェルナの姫。血の舞を、もう一度」
その言葉で、酒場の空気が凍った。アリアの正体を知らないはずの男が、姫と呼んだ。暗黒剣が見ている。あるいは、ヤクシャの噂そのものが、彼女の血を嗅いでいる。
アリアは双剣を抜いた。だが、踏み込まなかった。怒りが足を押したはずだ。けれど、彼女は止まった。シオゥルで学んだこと、不死皇帝の外殻を斬るだけでは届かないこと、怒りが罠になること。それらが彼女の足を一瞬だけ止めた。
「エノク、下がって」
彼女は言った。
「イリス、主人を壁際へ。テイル、他の客を出して。アイオン、あの剣の声を乱せる?」
「やってみましょう」
アイオンの竪琴が鳴る。テイルは文句を言わずに客たちを扉の外へ追いやり、イリスは宿の主人の腕を取り、アリスは倒れた椅子を動かして逃げ道を作った。エノクはティンカーベルを抜き、アリアの斜め後ろに立つ。邪魔にならない位置。守る線を塞ぐ位置。彼は少しずつ、その場所を覚えてきていた。
傭兵が踏み込んだ。短剣とは思えない速さだった。刃が赤黒い尾を引き、空気の境を裂くように走る。アリアは受けない。身を沈め、半身でかわし、双剣の片方で男の手首ではなく刃の影を払った。火花ではなく、黒い血のような光が散る。
「持ち主を使ってる」
ティンカーベルが言った。
「本体じゃない。残り香だ」
「残り香でこれ?」
エノクは息を呑んだ。
「本体なら、もっと悪い」
アリアは踊るように動いた。だが、それは酒場で観客を魅せる舞ではない。足元の皿を踏まず、倒れた椅子を避け、逃げ遅れた客の前へ刃が流れないよう、全ての動きが境界を作っている。傭兵の刃は、そこを壊そうとする。斬れば戻る、斬れば負けなかったことになる、斬れば国が、仲間が、誇りが。男の口から漏れる言葉は、彼自身のものでもあり、剣に吹き込まれたものでもあった。
アリアの目が冷たくなった。
「戻らないわよ」
彼女は低く言った。
「斬っても、戻らない。国も、人も、負けた夜も」
傭兵が吠えるように斬りかかる。アリアは一歩下がる。逃げたのではない。距離を作った。次の瞬間、彼女の双剣が交差し、短剣の刃を柄元で挟んだ。テイルが背後から傭兵の腕を掴み、竜の力で押さえる。
「早くしろ!」
アリアは短く息を吐いた。
「エノク、柄を叩いて。刃じゃない。手から剣を落とす」
「はい!」
エノクはティンカーベルの刃の腹で、傭兵の短剣の柄を強く打った。重い手応え。男の指が痙攣し、短剣が床へ落ちる。イリスがすかさず聖印を掲げた。
「その人の名を、剣へ渡さないで!」
白い光が男の腕を包む。赤黒い筋が少しずつ引いていく。男は膝をつき、荒い息を吐いた。アリスが床へ落ちた短剣を見つめる。細い黒糸のような光が刃から伸び、彼女の指先へ触れかけた。アリスはびくりとし、自分で一歩下がった。
「触らない」
アリアが言った。
「分かってる」
アリスの声は小さかった。
短剣の赤黒い光は、やがて消えた。だが、完全に普通の剣へ戻ったわけではない。刃の根元に、小さな黒い紋が残っている。血を吸った花のような紋。アイオンがそれを見て、顔を険しくした。
「ヤクシャの刻印です」
アリアは剣を鞘へ収めなかった。
「残り香じゃないの」
「残り香に刻印が混じっています。誰かが意図的にばら撒いている。暗黒剣本体ではないとしても、その呪いの欠片を」
宿の主人が震える声で言った。
「剣塚道から来た連中だ。南の古戦場で拾った剣を、売り歩いている奴らがいる。『ヤクシャの刃の欠片』だと。持てば強くなると」
テイルが吐き捨てた。
「馬鹿どもが」
「馬鹿で済めばいい」
アリアの声は低かった。
「怒りを持つ者に剣を渡している。復讐したい者に、負けた夜をやり直したい者に」
彼女は床の短剣を見下ろした。その目には怒りがあった。恐れもあった。そして、どこかに引かれるような危うさも。エノクはそれを見て、胸が冷えた。暗黒剣はアリアを呼んでいる。ヴェルナの姫として。剣舞の継承者として。失った国を取り戻したい者として。
アリアは静かに言った。
「南へ行くわ」
誰も止めなかった。止める理由がなかった。
「血潮野。剣塚。ヴェルナへの旧街道。ヤクシャの痕跡がそこにあるなら、見に行く」
エノクは頷いた。
「一緒に行きます」
「当然でしょ」
アリアは彼を見た。少しだけ、いつもの調子が戻る。
「今さら一人で行かせる気なら、蹴るわよ」
「逆です。一人で行くって言われたら止めるつもりでした」
「止められるの?」
「たぶん」
「たぶんは危ない言葉です」
イリスが真面目に言い、テイルが吹き出しかけて咳払いした。アリスはそのやり取りを見て、少しだけ不思議そうにしていた。
アイオンは、地図の上に指を置いた。血潮野、剣塚、ヴェルナ旧街道。その三つの点が、月明かりの下で赤黒く見えた。
「ヤクシャは、アベルを死の淵へ送った剣士です。そして、その刃はおそらく阿修羅の罪にも繋がる。アリア、あなたの剣舞はこの道で試されることになるでしょう」
「知ったような口を」
「知っていることもあります」
アリアが鋭く睨む。
「なら、隠していることもあるわね」
「ええ」
アイオンは珍しく、否定しなかった。
「ですが、今はまだ歌の順番を間違えたくない」
「便利な言い方ね」
「便利でなければ千年も使えません」
エノクはその言葉に引っかかった。千年。アイオンはすぐに笑ってごまかしたが、アリアの目も細くなった。テイルは意味を掴みきれず、アリスはアイオンをじっと見ている。彼女はかつての彼を知っている。偽名の底にあるものへ、誰より近い場所から。
その夜、短剣は宿の裏庭に埋められた。イリスが簡単な清めをし、ティンカーベルが刃の残り香を見張り、テイルが大地へ竜気を流して黒い筋が広がらないよう押さえた。アリスは少し離れて見ていたが、最後に自分から前へ出て、短剣が埋められた土に小さく頭を下げた。
「剣に使われた人の名は、分かるの」
彼女が訊くと、宿の主人が答えた。
「ダグ。南から来た傭兵だ」
イリスはすぐに記録帳へ書いた。
「ダグ。暗黒剣の欠片に触れ、剣に名を奪われかけた人。生存。経過観察」
アリスはそれを見て、小さく言った。
「生きている人の名も、記録するのね」
「はい」
「死んでからじゃなくて?」
「死んでからでは、遅いこともあります」
アリスは黙った。その言葉は、彼女自身にも向けられているようだった。
翌朝、一行は南へ向かった。空は薄曇りで、風は乾き、旧街道の先には赤茶けた丘が連なっている。血潮野へ続く道。そのさらに先に、剣塚と、ヴェルナへ通じる旧街道がある。アリアは先頭を歩いた。足音は静かだが、背中には張り詰めたものがある。怒りだけではない。恐れもある。自分が剣に引き寄せられるかもしれないという恐れ。復讐の剣と弔いの剣、その違いをまだ掴みきれていない者の危うさ。
エノクはその少し後ろを歩いた。今度の旅路は、アリアの傷へ向かう道だ。彼はそれを守れるとは思っていない。代わりに、見落とさないようにしようと思った。彼女が一人で剣になろうとした時、その名を呼べるように。
ティンカーベルが腰で言った。
「ヤクシャの刃は、人を剣にする」
「アリアを?」
「そうならないよう、見ていろ」
「止められるかな」
「止めるのではない。呼び戻す。剣になるな、と」
エノクは頷いた。前を行くアリアの背を見つめる。失われた国の名を背負い、双剣を鳴らさず歩く剣舞姫。その先で、暗黒剣の噂が待っている。
千年前、アベルを死の淵へ追いやったヤクシャの痕跡。
ヴェルナを滅ぼした夜へ繋がる赤黒い刃。
七英雄の罪と星の船の真実へ向かう旅は、まず、剣の傷口から始まった。




