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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第4部 七英雄の罪と星の船
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第2話_剣神阿修羅の足跡

 剣塚道へ入ると、風の音が細くなった。旧街道の石畳はまだ残っていたが、その隙間から伸びる草は赤茶け、踏むたびに乾いた血のような粉を散らした。丘は低く、空は広く、遠くには黒い針の群れのようなものが地平に刺さっている。最初、エノクは枯れた木かと思った。近づくにつれ、それが剣であることが分かった。折れた剣。曲がった槍。錆びた斧。柄だけ残った短剣。戦場で拾われ、誰かの墓標として地に突き立てられた無数の刃。それらが丘の向こうまで続き、風を受けるたび、かすかに鳴っていた。音は鈴のようではない。泣き声にも似ていない。金属が忘れられた名を思い出そうとして、喉の奥で擦れているような音だった。


 アリアは先頭を歩いていた。前の宿場で暗黒剣の欠片に触れた傭兵を止めてから、彼女の口数は少ない。いつものような鋭い叱責はある。エノクが足場の悪い石畳で何度もつまずきかけると、「踵から落とさない」「視線を足元だけに落とさない」「剣塚で転ぶと、剣に笑われるわよ」と短く飛んでくる。だが、それは習慣の言葉であって、心は別の場所にあるようだった。彼女の目は南へ、赤黒い噂の源へ向いている。ヴェルナを滅ぼした夜に見たという赤い光。アベルを死の淵へ追いやった暗黒剣。血潮野と剣塚とヴェルナ旧街道を結ぶ、一本の傷の道。その全てが彼女の背中を引いていた。


 イリスは道端の小さな碑を見つけるたび、立ち止まった。碑には兵の名が刻まれているものもあれば、名を失い「北方軍の者」「海から来た者」「剣を抱いて眠る者」とだけ記されたものもある。彼女は記録帳へ書き写し、読めない名には「探す」と添えた。アリスはその横で、黙って碑を見ている。死者の名を奪った手で、今は名を返す旅をしている。彼女の小さな指は、碑に触れようとして、何度も途中で止まった。許されるかどうか分からないのだろう。イリスは一度だけ、その手に気づいて言った。


「触れるなら、祈ってからです」


 アリスはびくりとした。


「触っていいの」


「名を奪うためではなく、覚えるためなら」


「……覚える」


 アリスはその言葉を小さく繰り返し、両手を胸の前で合わせた。神官の祈りとは違う。不器用で、形も整っていない。だが、彼女は碑へ向かって頭を下げた。それを見ていたテイルが、ぼそりと言った。


「人形も祈るのか」


 アリスは顔を上げ、少しだけ尖った声で返した。


「竜も薬を飲むんだから、人形も祈るわ」


「それとこれを一緒にするな」


「どっちも嫌そうだった」


「嫌だったんだよ」


 イリスが柔らかく言った。


「でも、飲みました」


「蒸し返すな」


 アリアが振り返らずに言う。


「静かに。ここから先は、冗談で踏んでいい場所じゃない」


 その声に、全員が口を閉じた。剣塚の入口に着いていた。そこは、丘陵の中央に開けた円形の窪地だった。何百、何千もの剣が地に突き立ち、刃を空へ向けている。中央には黒い石の台座があり、その上に一本の巨大な剣の形をした石碑が立っていた。だが、石碑の刃は折れている。折れた部分はなく、初めからそこに存在しなかったかのように滑らかだった。石碑の根元には古い文字が刻まれている。帝国文字でも、ランバードの聖堂文字でも、竜文字でもない。もっと古く、刃の傷のように鋭い線で刻まれた文字だった。


 アイオンが台座の前で足を止めた。


「阿修羅文字です」


「読めるの?」


 エノクが問う。


「少しだけ。正確には、読める歌を知っている」


 テイルが眉をひそめる。


「また歌か」


「古いものは、石に刻まれる前に歌われることが多いのです」


 アイオンは石碑の文字を目で追い、声を落とした。


「『ここに刃を埋める。勝者のためではなく、帰らぬ者のため。剣は墓標ではない。剣は境である。復讐に握れば、死者をさらに戦場へ縛る。弔いに伏せれば、死者へ帰る道を開く』」


 イリスが息を呑んだ。


「剣を、伏せる?」


 アリアは黙って石碑を見ていた。彼女の右手が、腰の細剣の柄へ触れている。ヴェルナ王家の古い剣。その柄の紋が、石碑の根元に刻まれた紋とよく似ていた。剣の線と、舞う足の線と、境界を示す円。全く同じではない。だが、同じ源から分かれたものだと、素人のエノクにも分かった。


 アリアは低く言った。


「……嘘でしょ」


「何が」


 テイルが訊く。


「この足運び」


 アリアは石碑の横に刻まれた小さな図形を指した。人の形をした線が、剣を持って円を踏むように配置されている。舞の譜だった。踊りの足形を、刃の軌跡として刻んだもの。アリアの顔色が変わっていた。


「ヴェルナの剣舞と同じ」


 イリスがそっと言った。


「似ている、じゃないのですか」


「同じよ。古すぎて、形は違う。でも、重心の置き方、踏む順、最後に刃を伏せる動き……王宮の祭壇で教わったものと同じ」


 ティンカーベルが重く鳴った。


「ヴェルナの剣舞は、阿修羅の系譜だ」


 アリアは剣から手を離した。だが、その指は震えている。


「知らなかった」


「伝承が切れていたのだろう」


 アイオンが言った。「あるいは、切られた。国が長く続くと、由来は儀式になり、儀式は作法になり、作法は飾りになる。剣神阿修羅の境界祓いが、港国ヴェルナの王宮舞として残った。そういうことはあります」


「飾りじゃない」


 アリアの声が鋭くなった。


「アリア」


 エノクが呼ぶと、彼女はすぐに息を吸い直した。


「分かってる。今のは、あたしが悪い」


「悪くない」


「悪いわ。怒りを剣の近くに置いた」


 彼女はそう言って、石碑の前に立った。剣塚の刃が風に鳴る。音は少しずつ変わっていた。先ほどまでの擦れるような響きに、別の音が混じり始めている。低い囁き。言葉の形を持たないが、意味だけが肌へ刺さってくる。握れ。斬れ。取り戻せ。負けた夜を戻せ。国を焼いた者を斬れ。裏切り者を斬れ。暗黒剣を握れば、もう負けない。


 アリアの肩がわずかに強張った。


 テイルが低く唸る。


「嫌な声だ」


「聞こえるの?」


 エノクが訊く。


「声じゃない。地面に染みた血が、まだ熱を持ってる。復讐しろって足元から押してくる」


 アリスが自分の胸元を押さえた。


「糸に似てる。死者を起こす糸じゃないけど、怒ってる人の手に絡む糸」


 イリスは聖印を握った。


「この剣塚も、危ない場所なのですね」


 ティンカーベルが言った。


「危ない。だが、悪い場所ではない。ここは本来、刃を眠らせるための場所だ。眠らせるための塚に、誰かが復讐の声を混ぜている」


「ヤクシャの残り香か」


 エノクが言う。


「あるいは、残り香を使う者がいる」


 その時、剣塚の奥で、一本の剣が震えた。黒く錆びた長剣だった。刃は欠け、柄には赤い布が巻かれている。布は千年も経っているはずなのに、濡れた血のように鮮やかだった。剣が少しずつ地面から抜けていく。誰の手も触れていない。にもかかわらず、刃は自ら立ち上がろうとしていた。


 アリアが双剣を抜きかけた。


「待て」


 ティンカーベルの声が飛ぶ。


「斬るな。ここで斬れば、剣塚全体が起きる」


「じゃあ、どうするの」


「伏せる」


 アリアは石碑を見た。阿修羅文字の言葉。剣は墓標ではない。剣は境である。復讐に握れば、死者をさらに戦場へ縛る。弔いに伏せれば、死者へ帰る道を開く。


 黒い長剣が地面から半ば抜けた。そこから赤黒い霧が流れ出し、剣塚の刃を次々に震わせる。無数の剣が鳴り始めた。死者の声ではない。戦場に残った怒りの声だ。自分を殺した者を斬れ。自分の負けをなかったことにしろ。自分の国を焼いた者を、同じ火で焼け。アリアの目が、赤黒い霧を映した。


 エノクは一歩前へ出ようとして、アリアに止められた。


「来ないで」


「でも」


「これは、あたしの足で踏む」


 彼女は双剣を抜いた。ただし、敵へ向けるようには構えなかった。両の剣を下げ、刃先を地へ向け、石碑に刻まれた足形を見た。呼吸を整える。最初の一歩を踏む。剣塚の風が変わった。


 それは舞だった。だが、酒場で見た華やかな剣舞とは違う。観客の目を奪うための舞ではない。死者の前で、刃を静めるための舞だった。アリアの足は円を描き、刃は斬る軌跡ではなく、地と空、生者と死者、怒りと眠りの間に線を引く。赤銅色の髪が風に揺れ、彼女の表情から飾りが消えていく。王宮で教わった作法、港の祭りで踊った身のこなし、戦場で生き残るための剣技、その全てが一つの古い形へ戻っていく。


 黒い長剣は、さらに抜けようとした。霧の中から声がした。


 ヴェルナを忘れるのか。


 アリアの足が一瞬乱れた。


 エノクは息を呑む。イリスがアリアの名を呼びかけ、しかし声を止めた。今、外から名を呼ぶべきか、舞の中で彼女自身が名を保つのを待つべきか、迷ったのだ。テイルが拳を握り、アリスが不安そうに糸のない指を握る。


 霧の声が続く。


 焼けた港を忘れるのか。倒れた父を忘れるのか。祭壇で斬り合った者たちを忘れるのか。お前だけ逃げた夜を、血で洗わないのか。


 アリアの目が揺れた。双剣の片方が、わずかに黒い長剣へ向いた。復讐の剣。斬れば楽になるかもしれない。自分の怒りが、正しい形を得たように思えるかもしれない。


 その時、石碑の奥から別の音がした。


 低い、重い、古い剣の音。誰かが、刃を鞘へ戻す音ではない。刃を地へ伏せる音だった。剣塚の中央に、半透明の影が現れた。人の形をしているが、輪郭は炎のように揺らいでいる。長い髪を束ね、肩に古い戦装束をまとい、巨大な刀を背に負った男。顔ははっきり見えない。ただ、その立ち姿だけで、剣そのものが人の姿を取ったようだった。


 剣神阿修羅。


 誰もが、その名を口にしなかった。だが、全員がそう感じた。彼の影はエノクたちを見ず、アリアだけを見ていた。


 声はなかった。代わりに、剣塚の全ての刃が一度だけ鳴った。


 斬るな、とは聞こえなかった。


 忘れるな、とも聞こえなかった。


 ただ、境を見よ、という意味だけが伝わってきた。


 アリアの息が変わった。彼女は赤黒い長剣へ向けかけた刃を、ゆっくり下ろした。


「忘れない」


 彼女は言った。声は震えていた。


「忘れない。ヴェルナも、父も、母も、兄も、祭壇で斬り合った者たちも。裏切った者も、裏切らされた者も。あたしだけ逃げたことも。全部、忘れない」


 黒い霧が彼女へ絡む。


「でも」


 アリアの足が、最後の円を踏んだ。


「それを、あんたに握らせない」


 双剣が交差し、斬るのではなく、黒い長剣の周囲へ境界を描いた。刃と地面、怒りと死者、復讐と弔い。その間に線が引かれる。アリアは双剣を地へ伏せた。両膝をつくのではない。剣士として立ったまま、刃だけを伏せる。ヴェルナの剣舞の最後の形。阿修羅の石碑に刻まれていた、弔いの刃の形だった。


 イリスがそれに合わせて祈った。


「名を持つ死者たちへ。剣に縛られず、怒りに戻されず、眠るべき場所へ帰れますように」


 アリスも、たどたどしく続けた。


「わたしが、死者を縛った時みたいに、剣に縛られませんように」


 テイルは地面へ竜気を流し、赤黒い霧が土へ染み込まないよう押さえた。


「大地へ帰るなら帰れ。剣の中に残るな」


 アイオンが竪琴を鳴らす。歌詞のない、短い鎮めの音。剣塚に満ちていた怒りの音が、少しずつ低くなる。


 黒い長剣は、完全に抜ける前に止まった。刃が震え、赤い布がほどけ、風に散る。アリアは伏せた双剣のまま、長い息を吐いた。やがて黒い長剣は、自ら地面へ沈み直した。剣塚の刃が一斉に静まる。半透明の阿修羅の影は、最後にアリアへ向かってわずかに顎を引いたように見えた。そして、風に溶けて消えた。


 しばらく、誰も動けなかった。


 アリアはゆっくり双剣を拾い、鞘へ戻した。顔は青ざめている。だが、目は濁っていなかった。


「今のが」


 エノクは声を探した。


「阿修羅……?」


 アイオンが静かに答えた。


「おそらく、足跡です。本人の魂ではなく、剣塚に残された一太刀の記憶。剣神阿修羅がここで、復讐の刃を弔いの刃へ伏せた。その痕跡でしょう」


 テイルが唸る。


「七英雄ってのは、どいつもこいつも面倒な傷を残してるな」


「英雄だからでしょうね」


 アイオンは言った。「正しいだけの者なら、足跡など残りません。踏み外し、悔い、なお立った場所に足跡が残る」


 アリアは石碑を見た。


「あたしの剣舞は、阿修羅のものだったのね」


「阿修羅そのものではありません」


 アイオンは首を振る。


「阿修羅が残した境界の剣が、ヴェルナの王宮舞として受け継がれた。血と祭りと国の形を通って、あなたに届いた。だから、あなたの剣舞です。由来が分かったからといって、あなたのものではなくなるわけではありません」


 アリアはしばらく黙っていた。やがて、低く言った。


「復讐の剣と、弔いの剣」


 イリスがそっと近づいた。


「違いが、分かりましたか」


「いいえ」


 アリアは正直に答えた。


「まだ分からない。でも、復讐の剣は、死者を自分の怒りへ連れ戻す。弔いの剣は、死者を自分の怒りから解放する。……そんな気がした」


 イリスは頷いた。


「それは、とても大きな違いだと思います」


 アリアは苦笑した。


「大きすぎて、今は持てないわ」


「なら、少しずつ」


「あなた、本当に容赦ない神官ね」


「はい。最近、少し分かってきました」


 アリスが小さく言った。


「弔いって、置いていくこと?」


 アリアは彼女を見た。


「置いていくんじゃない。帰すことよ。自分の手元に置いておきたい気持ちを、切ること」


 アリスは胸元を押さえた。死者を臣民として縛っていた彼女には、その言葉が誰よりも痛かっただろう。


「難しい」


「ええ。難しい」


 アリアは剣塚を見渡した。


「だから、剣塚が必要だったんでしょうね。みんな、剣を手放すのが下手だから」


 その時、石碑の根元で小さな音がした。エノクが見ると、地面に細い金属片が落ちていた。古い鍔飾りの欠片のようだった。そこには、阿修羅文字ではなく、別の紋が刻まれている。赤黒い花。宿の短剣に残っていたものと同じ、ヤクシャの刻印だった。


 ティンカーベルが低く言った。


「ここにも刻んでいたか」


 アイオンが拾い上げ、目を細める。


「剣塚の封じを探っている者がいる。暗黒剣本体、あるいはその欠片を目覚めさせるために」


「目的は?」


 エノクが問う。


「ヤクシャの刃を再び使うこと。あるいは、ヤクシャそのものを呼ぶこと」


 アリアの顔が硬くなる。


「血潮野へ行くわ」


 声に迷いはなかった。だが、さきほどとは違う。怒りだけで前へ出る声ではない。


「アベルが倒れた場所。ヤクシャがその刃を振るった場所。そこに、何が残っているのか見たい」


 テイルが言った。


「今度は復讐のためじゃないって顔だな」


 アリアは少しだけ彼を見た。


「そう見える?」


「半分くらい」


「上出来ね」


 エノクはアリアの隣に立った。


「行きましょう」


「ええ」


 アリアは剣塚の中央へ向き直り、もう一度だけ深く頭を下げた。王女としてではなく、剣舞姫として。復讐者としてではなく、弔いを学び始めた者として。


 剣塚の風が、少しだけ穏やかになった。無数の刃はもう泣いていない。ただ、風を受けて静かに鳴っていた。それは戦いを求める音ではなく、眠りを見張る音だった。


 一行は剣塚を後にした。南には血潮野がある。千年前、アベルがヤクシャに斬られ、死の川辺へ落ちた場所。そこへ向かう道は赤く乾き、夕陽を浴びて刃のように光っていた。


 アリアは先頭を歩く。足音は変わっていた。怒りに急かされる足ではなく、一歩ごとに境界を確かめる足。彼女の剣舞が、阿修羅の足跡へ繋がっていることを知った今、その背中には新しい重さがあった。


 復讐の剣と弔いの剣。


 その違いをまだ完全には持てないまま、彼女は次の戦場へ進んでいった。

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