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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第4部 七英雄の罪と星の船
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第3話_ヤクシャの本体

 血潮野へ向かう道は、剣塚を越えたあたりから赤くなった。土そのものが赤いのではない。乾いた草の根、砕けた石の粉、古い鉄錆、そして幾度も雨に洗われながらなお消えきらなかった戦場の名残が、道の色を変えていた。丘は低く、空は広い。風は遮るものなく吹き抜けるのに、その風にはどこか詰まるような重さがあった。呼吸をするたび、胸の奥に冷えた鉄粉が入り込むような気がする。エノクは歩きながら、何度も喉を押さえた。ここは、かつてアベルがヤクシャの刃に倒れた場所へ続く道である。聖堂の歌では、そこから英雄譚が始まった。けれど、実際の道は歌のように輝いていなかった。そこにあるのは、乾いた血の匂いと、戻らない者たちの沈黙だった。


 アリアは先頭を歩いていた。剣塚で阿修羅の足跡に触れてから、彼女の足取りは変わっていた。速いわけではない。むしろ、以前より一歩ずつ確かめるようになった。足を置くたび、地面と空の間に見えない線を引いているような歩き方だった。復讐の剣は、死者を自分の怒りへ連れ戻す。弔いの剣は、死者を自分の怒りから解放する。彼女自身が口にしたその言葉は、まだ彼女の中で完全には固まっていないのだろう。時折、右手が王宮式の細剣へ触れる。だが、以前のようにすぐ握らない。触れて、離す。そのたびに、彼女は自分の怒りの重さを確かめているようだった。


 イリスは道端の碑を見つけるたびに名を読んだ。ここには墓標が多い。剣塚のように刃を突き立てたものだけではなく、平たい石、砕けた楯、焼けた兜、折れた旗竿に布を巻きつけたものまで、様々な形の死者のしるしがあった。だが、名の残り方はまちまちだった。完全な名もあれば、家名だけのもの、役職だけのもの、そして何か鋭い刃物で名の部分だけ削り取られたものもある。イリスは削られた名の前で膝をつき、「名を探しています」と小さく記した。アリスはその横で、黙って碑を見ていた。死者の名を奪った者が、いまは誰よりも名の消えた碑を恐れている。エノクには、それがよく分かった。


 テイルは何度も地面へ手を当てた。シオゥルの死者の都で聞いた大地の冷えとは違い、ここでは熱が残っているらしい。だが、それは命の熱ではなかった。


「怒りが乾いて固まってる」


 彼は不機嫌そうに言った。


「血じゃなくて?」


 エノクが訊くと、テイルは首を振った。


「血は流れれば土に戻る。ここに残ってるのは、流れそこねたものだ。死んだ奴の怒りだけじゃねぇ。斬った奴の怒りも、斬らせた剣の怒りも混じってる。気持ち悪い」


 アリスが胸元を押さえた。


「死者の国より、熱いのに寒い」


「分かるの?」


 イリスが問う。


「糸がないのに、引っ張られる感じがする。手を伸ばせば握れる、握れば強くなれる、強くなれば失ったものを取り戻せる、って」


 アリアが足を止めた。


「失ったものは、取り戻せない」


 声は低かった。


 アリスは彼女を見た。


「分かってる。……分かってるけど、そう聞こえるの」


 誰もそれを責めなかった。暗黒剣の声は、弱い者だけを誘うのではない。強くなりたい者、失いたくなかった者、負けた夜をやり直したい者へ囁く。つまり、この場にいるほとんど全員が、どこかでその声を聞く可能性があるのだ。


 昼過ぎ、彼らは血潮野へ着いた。


 そこは、想像していたよりも静かな場所だった。広い草原ではない。低い窪地がいくつも連なり、その中央を干上がった小川が蛇行している。小川の底は赤く、雨が降れば血のような泥水が流れるのだろう。周囲には古い戦陣の土塁が崩れ残り、斜めに傾いた旗竿が数本、骨のように立っていた。中央には、黒い石の円がある。戦場の心臓部。そこだけ草が生えていない。円の中心には裂けた岩があり、岩の裂け目には古い鎖が何重にも巻かれていた。鎖は錆びている。だが、朽ちていない。鎖の上には阿修羅文字が刻まれ、ところどころ白い塩のような結晶が吹き出していた。


 アイオンが帽子を取った。


「ここですね」


 声は軽くなかった。


「アベルが倒れた場所?」


 エノクが問うと、アイオンは頷いた。


「歌では、そうです。血潮野。アベル王子が暗黒剣ヤクシャに胸を割かれ、死の川辺へ落ちた場所。そこから聖天使に名を呼ばれ、再び地上へ戻った、と」


 ティンカーベルが低く鳴った。


「そして、阿修羅がヤクシャを追い詰めた場所でもある」


 アリアは鎖の巻かれた裂け岩を見つめた。


「封印地」


「そうだ」


 剣塚で拾ったヤクシャの刻印が、アイオンの手の中でかすかに赤黒く光った。鎖の一部がそれに応じるように震える。イリスが息を呑み、聖印に手を当てた。テイルは竜剣を抜きかけ、アリアが視線だけで制した。彼は舌打ちし、だが抜かなかった。


 エノクは裂け岩へ近づいた。近づくほど、胸元の鍵が熱を帯びる。アベルの血が反応しているのか。ヤクシャの刃がランバードの血を覚えているのか。どちらにせよ、心地よい熱ではない。喉の奥が鉄の味になる。


 鎖の内側から、音がした。


 刃が鞘の中で笑うような音だった。


 アリアが一歩前へ出る。


「出てきなさい」


「アリア」


 エノクが呼ぶが、彼女は止まらなかった。


「そこにいるんでしょう。ヤクシャ」


 風が止まった。血潮野に突き立つ古い旗竿が、一本ずつ低く鳴る。裂け岩の鎖が、ぎり、と軋んだ。赤黒い光が岩の奥から漏れる。影が立ち上がった。最初は人の形に見えた。黒い甲冑、長い腕、顔のない兜、手にした大剣。魔王軍四天王ヤクシャ。歌に描かれる通りの姿。だが、影はすぐに崩れた。甲冑は霧になり、腕は剣の影になり、兜は空洞へ沈む。最後に残ったのは、一振りの剣だった。


 赤黒い大剣。


 刃は血を固めた硝子のように暗く、縁だけが黒い炎に似た光を帯びている。鍔は獣の顎の形をし、柄には古い布が巻かれている。その布には何人もの血が染み込んでいるようで、時折、別々の色の赤が浮かんでは消えた。剣は誰にも握られていない。ただ空中に立っている。だが、その存在感は、人間の剣士よりもはるかに濃かった。


 声は、刃の中から聞こえた。


「我を呼んだか、境を踊る娘」


 アリアの双剣が、自然に抜かれた。


「あなたがヤクシャ?」


「名は刃についた血が呼ぶもの。ヤクシャとは、肉の名ではない。恐れが我に与えた名だ。怨みが我を研ぎ、復讐が我を握り、英雄が我を封じ損ねた」


 エノクの背筋が冷えた。


「肉体ではない……」


 アイオンが低く言った。


「やはり」


 テイルが唸る。


「どういうことだ。四天王じゃなかったのか」


 ティンカーベルが答えた。


「四天王だった。だが、最初から人とは限らん。あるいは、肉を捨てて刃へ逃げた。どちらにせよ、今のヤクシャは剣そのものだ」


 赤黒い剣は笑った。金属が擦れるような声だった。


「人は肉を本体と思う。愚かだ。肉は折れる。骨は砕ける。名は消える。だが刃に宿る衝動は残る。斬りたい。勝ちたい。奪われたものを奪い返したい。その願いがある限り、我は錆びぬ」


 イリスが聖印を握る。


「あなたは、人の怒りを利用している」


「利用ではない。応えるのだ、神官。怒る者へ力を。復讐する者へ切れ味を。敗者へ二度目の戦場を。お前たちの祈りより、よほど親切ではないか」


「親切?」


 アリアの声が低くなった。


「ヴェルナで、あなたは何をした」


 剣の刃に、赤い光が走った。


「ヴェルナ」


 その名を、ヤクシャは楽しむように舌のない刃で転がした。


「海風の国。境界を踊る小さな王家。阿修羅の足跡を祭りに変え、剣を花飾りで鈍らせた者たち。あの国は、よい鞘だった」


「鞘?」


「我を完全に封じるための鞘」


 その言葉に、アリアの顔が凍った。


 アイオンが目を細める。


「阿修羅は、ヤクシャをここで封じたのではなかったのですか」


「封じたさ」


 赤黒い剣が笑う。


「阿修羅は我の肉を斬った。持ち手を斬った。戦場を裂き、血の道を伏せ、我をこの地へ縛った。見事な剣だった。剣神と呼ばれるだけはある。だが、剣は剣を知りすぎていた。刃は折れば終わると思った。違う。刃は折れても、斬りたいという願いは折れぬ」


 ティンカーベルが低く唸る。


「封じ損ねたのか」


「損ねた? いいや、途中までは成功した。阿修羅は我を一つに縛れなかった。だから、欠片へ分け、境界を守る系譜へ散らした。血潮野に本影。剣塚に怒り。ヴェルナに鞘。海辺の祭壇に眠り。いくつもの場所に、我の刃を分けて置いた」


 アリアの双剣が震えた。


「ヴェルナは、あなたを封じるために」


「知らずにな」


 ヤクシャの声は甘かった。


「お前たちは祭りだと思っていた。王宮の誇りだと思っていた。剣舞は国の美しい伝統だと思っていた。だが、その足は封印の円を踏んでいた。その刃は我の欠片を眠らせていた。王族の血は、鞘を温める油だった」


「黙れ」


 アリアの声が震えた。


「そして、ある夜、鞘が割れた」


 ヤクシャは続けた。


「誰が割ったのかは、知りたいか。魔王軍か。人間の裏切り者か。復讐を願った者か。王家の中の誰かか。すべてだ。剣は、ひとりでは国を滅ぼさぬ。剣を握りたい手が、国の中に満ちていた。ヴェルナは外から滅んだのではない。内側の怒りが、我を招いた」


 アリアが踏み込もうとした。エノクは反射的に前へ出かけ、すぐに止まった。止めるべきか、見守るべきか。アリアの足は、剣塚で学んだ弔いの足取りではなかった。復讐の足だ。赤黒い剣へ一直線に向かう足。


 イリスが叫んだ。


「アリアさん!」


 その名が、血潮野に響いた。


 アリアの足が止まった。ほんの一瞬。だが、その一瞬で、赤黒い剣から伸びた影の糸が彼女の剣に絡むのを逃した。テイルが舌打ちし、竜剣で地面を叩く。青い竜気が黒い影を弾いた。


「今の危なかったぞ!」


「分かってる!」


 アリアは歯を食いしばった。


「分かってるけど、黙って聞けるわけないでしょう!」


 ヤクシャは笑った。


「それでよい、ヴェルナの娘。怒れ。国の名で怒れ。父の名で怒れ。逃がされた夜で怒れ。復讐の剣は、お前によく似合う」


 アリスが小さく震えた。


「同じだ」


 エノクが彼女を見る。


「不死皇帝って呼ばれた時と同じ。欲しい言葉をくれる。自分が間違ってないって思える言葉を」


 アリアはその言葉を聞いた。聞いてしまった。彼女の顔が苦しげに歪む。アリスに言われたことが、かえって深く刺さったのだろう。死者を縛った少女が、復讐の刃に縛られかける自分を見ている。


 エノクはティンカーベルを抜いた。


「どうすればいい」


「ヤクシャ本体は斬れん。今見えているのは本影だ。封印の奥から声と形だけを出している。斬れば欠片が散る」


「じゃあ」


「封じ直すには、境界の剣が要る。阿修羅の系譜。アリアの舞だ」


 アリアは息を呑んだ。


「また、あたし?」


「お前だ」


 ティンカーベルの声は厳しかった。


「だが、ひとりではない。剣塚で学んだろう。復讐の剣は死者を怒りへ連れ戻す。弔いの剣は死者を怒りから帰す。ここでお前が復讐を選べば、ヴェルナはもう一度ヤクシャの鞘になる」


「なら、あたしは何を斬ればいいの」


「斬らないものを決めろ」


 アリアの呼吸が乱れた。赤黒い剣はその動揺を見逃さない。刃から霧が広がり、血潮野の古い死者の影が立ち上がる。ランバードの騎士、シオゥルの兵、名もなき傭兵、そしてヴェルナの装束をまとった影まで混じっていた。アリアの顔が白くなる。彼女の国の死者。祭壇で倒れた者たち。そこに、王宮の護衛らしき影が立っていた。顔はない。だが、アリアには誰か分かったようだった。


「やめて」


 彼女が小さく言った。


 ヤクシャが囁く。


「斬れば戻る。お前が我を握れば、あの夜に届く。裏切り者を斬れる。王宮を守れる。逃げた足を、戦う足に変えられる」


 アリアの双剣が赤黒い光を帯びかける。


 イリスが聖印を掲げた。


「それは、死者の声ではありません!」


「では、死者は何を望む」


 ヤクシャの声が彼女へ向く。


「眠りか。祈りか。忘却か。神官、お前も決めつけているだけではないか」


 イリスは唇を噛んだ。だが、退かなかった。


「だから、名を呼びます。勝手に望みを決めないために」


 彼女は記録帳を開いた。剣塚と道中で記したヴェルナの断片、アリアから聞いた名、宿で拾った噂、まだ不完全な国の記録。そこに記された少数の名を、イリスは呼んだ。


「ヴェルナの王。名はまだ探しています。王妃。名はまだ探しています。王宮の剣舞師。名はまだ探しています。祭壇で倒れた護衛たち。港の人たち。名を、まだ探しています」


 完全な名ではない。だが、イリスは「死者たち」とまとめなかった。一人ずつ探すと言った。その祈りが、赤黒い霧の中に白い細線を引く。


 アリスも、震えながら言った。


「死者を、怒りの中へ戻さないで」


 それは彼女自身への言葉でもあった。


 テイルは大地へ竜気を流し、血潮野に残る怒りの熱を押さえた。


「おい、地面。怒るなとは言わねぇ。でも、剣に食われるな。お前の熱は、お前のものだろ」


 アイオンが竪琴を鳴らす。今度の歌は、阿修羅の石碑で読んだ言葉をなぞっていた。勝者のためではなく、帰らぬ者のため。剣は墓標ではない。剣は境である。その旋律に、血潮野の風が応じる。


 エノクはアリアの横へ立った。


「アリア」


「何」


 彼女の声は苦しげだった。


「僕は、君の国を知らない。君の家族の名前も、全部は知らない。だから、君の代わりに怒ることはできない」


「なら、黙ってて」


「黙らない」


 エノクは続けた。


「君が剣になるなら、呼び戻すって決めたから」


 アリアの目が揺れた。


「剣になる?」


「ヤクシャは、人を剣にするってティンカーベルが言った。君が自分の名を、ヴェルナの怒りだけに渡すなら、それは剣になることだと思う」


「分かったようなことを」


「分かってない。でも、呼ぶ」


 エノクはまっすぐ言った。


「アリア。君は、ヴェルナの復讐の剣だけじゃない。アリアだ。踊って、叱って、助けて、怒って、でも死者を自分の怒りへ戻さないって、剣塚で言ったアリアだ」


 アリアの双剣を覆っていた赤黒い光が、わずかに揺らいだ。


 ヤクシャの刃が低く唸る。


「ランバードの血よ。お前もまた我を知るはずだ。アベルは我に斬られた。お前の血は、我の味を覚えている。お前が我を握れば、魔王の首へ届くぞ」


 エノクの胸元の鍵が熱くなる。魔王を倒す力。弱い自分が強くなれる刃。その誘惑は、思ったよりも近かった。だが、ティンカーベルが彼の手の中で重くなった。


「私を持っていながら、浮気するなよ、未熟者」


 場違いな言葉だった。だが、エノクは笑いそうになり、誘惑から一歩離れられた。


「しないよ」


「よし」


 アリアが小さく息を漏らした。笑ったのではない。泣きそうになったのを、息で逃がしたのだろう。


 彼女は双剣を構え直した。今度はヤクシャへ向ける構えではない。剣塚で踏んだ舞の構え。だが、より鋭い。より痛い。ヴェルナの祭壇で教わったものと、阿修羅の足跡で知ったものが、彼女の中で重なっていく。


「ヤクシャ」


 アリアは言った。


「あたしは、あなたを握らない」


 赤黒い剣が震えた。


「国を失った娘が、復讐を捨てるか」


「捨てない」


 アリアの目が燃えた。


「復讐したい。今でも。ヴェルナを焼いたもの全部を斬りたい。裏切った者も、招いた者も、利用した者も、阿修羅の失敗も、あなたの呪いも、全部憎い」


 イリスが息を呑む。エノクも手に力を込める。だが、アリアは続けた。


「でも、その怒りをあなたには渡さない。あたしの怒りは、あたしが持つ。死者を縛るためじゃなく、死者の名を忘れないために」


 双剣が動いた。舞が始まる。血潮野の赤い土の上で、アリアは剣を振るった。斬るためではない。封じるためでも、完全にはない。境を引くためだ。ヤクシャの声と死者の名の間に、ヴェルナの怒りとヴェルナの弔いの間に、阿修羅の失敗とアリア自身の選択の間に、刃の線を引く。


 赤黒い剣が襲いかかった。誰にも握られていないのに、凄まじい速さだった。アリアは受けず、流した。受ければ怒りごと吸われる。流し、伏せ、足で円を踏み、刃で道を閉じる。テイルが地面の熱を押さえ、イリスが名を探す祈りを続け、アイオンが阿修羅の古い旋律を支え、アリスが死者を糸で縛らないよう必死に自分の指を握りしめ、エノクはアリアの背後を守った。彼女が剣にならないよう、名を呼べる距離に立った。


 やがて、裂け岩の鎖が白く光り始めた。阿修羅文字が一つずつ目を覚ます。だが、その光は完全ではない。いくつもの文字が欠け、古い封印が不完全だったことを示していた。ヤクシャは笑う。


「見たか、ヴェルナの娘。阿修羅は我を封じ損ねた。剣神の失敗が、お前の国を鞘にした。七英雄の傷が、お前の故郷へ届いたのだ」


 アリアの舞が一瞬止まりかけた。


 その一言は、刃より深く刺さった。ヴェルナはただ魔王軍に滅ぼされたのではない。阿修羅の封印の一部として、知らぬまま暗黒剣を眠らせる役目を背負い、その封印が破れた時、国ごと呑まれた。英雄の失敗が、自分の国の滅亡へ繋がっている。美しい伝承の裏にある罪が、彼女の人生を焼いた。


「だったら」


 アリアの声が低くなった。


「だったら、あたしの国は、英雄の後始末で滅びたの」


 誰もすぐには答えられなかった。


 アイオンが苦しげに言った。


「そう言い切るのは違います。けれど、無関係ではありません」


「同じよ」


「同じではない」


 アイオンの声が強くなった。


「阿修羅は失敗した。封じ損ねた。隠した。後の者へ重荷を残した。だが、ヴェルナを焼いた手は他にもある。ヤクシャを招いた者たちがいる。暗黒剣を握った者たちがいる。罪を一つの名にまとめるな。そうすると、また剣が喜ぶ」


 アリアは歯を食いしばった。ヤクシャの刃が、彼女の動揺を狙って迫る。エノクが飛び出そうとした。だが、アリアは自分で踏みとどまった。


「……そうね」


 彼女はかすれた声で言った。


「まとめたら、楽になるものね」


 双剣が再び動く。


「全部、阿修羅のせい。全部、ヤクシャのせい。全部、裏切り者のせい。そう言えたら、あたしはただ斬ればいい」


 赤黒い剣と双剣が交差する。火花の代わりに、黒い血の光と白い境界の光が散る。


「でも、違う。ヴェルナはたくさんの手で滅びた。たくさんの名が失われた。だから、あたしも一つの刃にはならない」


 アリアは最後の足を踏んだ。剣塚で覚えた伏せの形ではない。血潮野の裂け岩へ向かう、封じ直しの足。阿修羅の足跡とヴェルナの剣舞が重なり、彼女の双剣が赤黒い大剣を挟む。斬らない。握らない。刃と刃の間に境界を置く。


「眠りなさい、ヤクシャ」


 アリアは言った。


「あなたを完全に消す力は、今のあたしにはない。でも、あたしの国の怒りを、これ以上あなたの刃に渡さない」


 鎖が一斉に光った。赤黒い大剣が裂け岩へ引き戻される。ヤクシャは吠えた。声ではなく、戦場全体が叫ぶような音だった。


「我は消えぬ。復讐がある限り、我は戻る。ヴェルナの娘よ、お前が眠っても、次の怒りが我を握る」


「だから、見張る」


 アリアは答えた。


「弔いの剣で」


 赤黒い剣は裂け岩の奥へ沈んだ。鎖が巻きつき、阿修羅文字が光を失いながらも封を閉じる。完全ではない。あくまで一時の封じ直しだ。だが、血潮野に満ちていた赤黒い霧は薄れ、風が戻った。古い旗竿が、今度は静かに鳴った。


 アリアはその場に膝をついた。剣を落とさなかったが、肩は大きく震えている。イリスが駆け寄ろうとし、アリアは首を振った。


「少しだけ」


 そう言って、彼女は血潮野の赤い土へ額を近づけた。


「少しだけ、ここで」


 誰も邪魔しなかった。エノクは少し離れた場所に立ち、ティンカーベルを鞘へ戻した。テイルは地面へ手を当て、まだ残る熱を聞いている。アリスは名の消えた碑の前で小さく祈り、イリスは記録帳を開いた。アイオンは、裂け岩を見つめていた。彼の顔には、また何か古い後悔が浮かんでいた。


「阿修羅は」


 エノクは静かに言った。


「知っていたんでしょうか。自分の失敗が、ヴェルナに繋がることを」


 アイオンはすぐには答えなかった。


「知っていたかもしれません。知らなかったかもしれません。ですが、少なくとも、封印が完全でないことは知っていたでしょう。だから足跡を残した。剣塚を残した。境界の舞を残した。いつか、誰かが失敗の続きを引き受けるように」


「それは、ずるいですね」


 エノクの言葉に、アイオンは静かに頷いた。


「ええ。英雄は、時々ずるい。死んだ後まで、後の者へ続きを託す」


「それでも、引き受けるしかないんですか」


「引き受けるかどうかは、後の者が決めることです」


 アイオンはアリアを見た。


「少なくとも、彼女は今日、ヤクシャではなく自分の剣で立った」


 アリアは顔を上げた。目元は赤かったが、涙は落ちていない。落とせなかったのか、落とさなかったのかは分からない。彼女は立ち上がり、血潮野の中央へ向かって深く一礼した。アベルが倒れた場所へ。阿修羅が封じ損ねた場所へ。ヴェルナへ伸びる傷の始まりへ。


「ヴェルナは、あなたたちの失敗だけで滅びたわけじゃない」


 彼女は言った。


「でも、無関係でもなかった。そのこと、覚えておく」


 風が吹いた。血潮野の赤い土が舞い上がり、すぐに落ちる。裂け岩の鎖は沈黙していた。だが、その奥でヤクシャが眠ったとは思えなかった。彼は呪いだ。肉体ではない。怒りがあれば戻る。復讐を望む手があれば、刃はまた現れる。


 エノクはその事実を胸に刻んだ。魔王軍四天王という言葉だけでは足りない。敵は肉のある魔族だけではない。剣に宿る呪い、封印の失敗、英雄の後悔、人の怒り。その全てが形を取って、次の災いになる。


 アリアは双剣を鞘へ戻した。


「行くわよ」


 声は疲れていた。けれど、折れてはいなかった。


「次は?」


 テイルが問う。


「ヴェルナへ続く旧街道」


 アリアは答えた。


「ヤクシャの欠片が、まだあたしの国に残っているなら、見に行く。復讐のためじゃない。……弔いのために」


 イリスが静かに頷き、記録帳へその言葉を書いた。アリスはアリアの背を見つめ、自分の胸元の核へそっと手を当てた。アイオンは何も歌わなかった。ティンカーベルも黙っていた。


 血潮野を後にする時、エノクは一度だけ振り返った。裂け岩と鎖は遠ざかり、赤い草原の中へ沈んでいく。千年前、アベルを倒した刃。阿修羅が封じ損ねた呪い。ヴェルナを滅ぼした夜へ繋がる暗黒剣。すべてが一本の線になって、彼らの前に伸びている。


 その線の先で、星の船の真実もまた待っているような気がした。なぜなら、肉体なき呪いが千年を越えて残るなら、魔王カオスという存在も、ただ玉座に座る肉の王ではないはずだからだ。


 エノクはその考えに、まだ言葉を与えられなかった。だが、胸元の鍵は、血潮野を離れても静かにはならなかった。

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