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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第4部 七英雄の罪と星の船
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第4話_剣に呑まれる者

 血潮野の裂け岩は、夕暮れの光の中で沈黙していた。阿修羅文字を刻まれた鎖は赤黒い光を失い、錆びた鉄のような姿に戻っている。だが、それは眠りではなかった。眠りに似せた静けさだった。先ほどまで刃の中から笑っていたヤクシャの声は聞こえない。風も戻った。赤い草は揺れ、古い旗竿もかすかに鳴る。けれど、エノクは裂け岩の奥から視線のようなものを感じ続けていた。肉体を持たない呪い。暗黒剣ブラッディソードに宿る四天王。怒りがある限り錆びない刃。その存在は、封じられた後の方がむしろはっきりしているように思えた。姿が見えないからこそ、誰の手の中にも入り込める。誰の怒りにも囁ける。


 アリアは裂け岩から少し離れた場所に立っていた。双剣は鞘に収められている。だが、彼女の両手はまだ戦いの形を覚えているのか、指先がわずかに曲がっていた。ヴェルナは阿修羅の失敗と無関係ではなかった。王宮の剣舞は、かつて暗黒剣の欠片を眠らせるための鞘だった。祖国の祭り、誇り、王家の血、すべてが知らぬうちに封印の一部として使われ、その綻びから国は焼けた。ヤクシャの言葉を全て信じることはできない。だが、完全な嘘なら、あそこまで彼女の胸を裂きはしなかった。


 イリスは血潮野に散る碑の名を記録していた。ラディウスの兜はまだ彼女の荷に結ばれている。アリスはその横で、名を削られた石を見つめている。テイルは地面に掌を当て、封じ直された裂け岩の熱を確かめていた。アイオンは竪琴の弦を張り直しながら、いつもより遠い目をしている。ティンカーベルは鞘の中で静かだった。


「今夜はここを離れた方がいい」


 テイルが言った。


 彼は地面から手を離し、嫌そうに指先を払った。竜族の鱗の間に赤い砂が入り込んでいる。


「こいつ、まだ下で動いてる。岩の下じゃねぇ。怒ってる奴の足元を探ってる。ここで野営したら、夢の中まで剣が来るぞ」


「夢の中まで?」


 エノクが訊く。


「そう聞こえる」


「なら離れましょう」


 イリスは即座に言った。「名の記録は続けたいですが、皆さんが危険です」


 アリアがゆっくり振り返った。


「離れても、ついてくるわ」


 その声は疲れていた。だが、弱ってはいない。


「ヤクシャは、場所だけじゃない。怒りについてくる。あたしがいる限り、ここを離れたって無駄よ」


「なら、なおさら一人になるな」


 ティンカーベルが低く言った。


 アリアは剣の方を見た。


「剣に心配されるほど落ちてない」


「落ちている最中の者は、地面が近いことに気づかん」


「あなた、たまに本当に腹が立つわね」


「たまにで済んでいるなら寛大だ」


 アリアは短く息を吐いた。笑ったのか、怒りを逃がしたのか、エノクには分からなかった。


 彼らは血潮野を離れ、裂け岩を背にして西の小丘へ向かった。そこには古い見張り台の跡があった。石組みは半ば崩れ、屋根はなく、壁の隙間から風が通る。だが、血潮野の中央よりはましだった。テイルが大地の熱を確かめ、「ここなら剣の声は薄い」と言い、アリアが周囲の見通しを確認し、ようやく夜を越す場所が決まった。火は小さく焚かれた。シオゥルの死者の都を離れてから、火が少しずつ暖かさを取り戻していることに、エノクは気づいた。死者の名が一つずつ返っていくことで、大地も少しずつ呼吸を取り戻しているのかもしれない。


 食事は干し肉と硬い黒麦パン、イリスが薬草を入れて煮た薄いスープだった。アリスは食べる必要がないと言ったが、イリスが「必要がないことと、食卓にいないことは違います」と言って小さな器を渡した。アリスは困惑しながら、その器を両手で持っていた。飲むわけではない。ただ、湯気を見ている。その姿に、エノクはシモンの森の暖炉を思い出した。あの森にも、人間でないものが食卓についていた。椅子が冗談を言い、鍋が勝手に蓋を鳴らし、ティンカーベルが悪態をつく。アリスもかつて、あの暖かさの中にいたのだろう。けれど、その暖かさだけでは、彼女の孤独を覆いきれなかった。


 アリアは火から少し離れ、崩れた壁にもたれて座っていた。食事には手をつけていない。イリスが見かねて声をかけようとしたが、エノクが首を振った。今は待つべきだと思った。けれど、待つだけでよいのかは分からない。


 アイオンが静かに竪琴を爪弾いた。明るい曲ではない。剣塚で鳴らした鎮めの旋律とも違う。短い音が夜へ落ち、血潮野から吹く風にすぐ散っていく。


「その曲、何」


 アリアが問う。


「剣を持ったまま眠れない人のための曲です」


「嫌味?」


「半分は」


「残り半分は?」


「心配です」


 アリアは目を細めた。


「あなたに心配されると、裏がありそう」


「裏しかない男と思われているのは不本意ですね」


「表を見せないからでしょ」


 アイオンは微笑んだが、その笑みは少しだけ薄かった。アリスが彼を横目で見ている。彼女だけは、アイオンの笑みの奥にあるものを知っているのかもしれない。あるいは、知っていた頃の彼を覚えているのかもしれない。


 テイルはパンを噛みながら言った。


「剣舞女、寝るなら剣から手を離せ」


「離してる」


「さっきから右手が柄の位置を探ってる」


 アリアは自分の手を見た。無意識だったのだろう。指は腰の剣から少し離れた空を掴んでいた。彼女はその手を膝の上へ置く。


「よく見てるじゃない」


「怒ってる奴の手は見ろって、親父に言われてた。竜族の喧嘩は、手が先に出るからな」


「役に立つ教えね」


「お前にも役立ってるだろ」


「否定はしない」


 テイルは少しだけ満足そうにしたが、すぐに顔をしかめた。


「でも、まだ剣の声がしてる。お前の近くで濃い」


 火の周りの空気がわずかに冷えた。アリアは目を伏せる。


「聞こえてるわよ」


 彼女はそう言った。


「ずっとね」


 エノクは息を呑んだ。


「何て」


「言わなくていいことばかり」


 アリアは視線を血潮野の方へ向けた。月はまだ出ていない。南の空だけが赤黒く暗い。


「ヴェルナを忘れるな。剣を取れ。踊るな、斬れ。弔いなんて負け犬の言葉だ。復讐しなければ、死者は報われない。……そういう声」


 イリスが静かに言った。


「それは、死者の声ではありません」


「分かってる」


「分かっていても、聞こえるのですね」


「ええ」


 アリアは苦く笑った。


「分かっていることと、揺れないことは別ね」


 アリスが器を握ったまま、小さく言った。


「わたしも、分かってた。死者が本当は臣民になりたくないかもしれないって。でも、声が聞こえたの。死者なら置いていかない。死者なら、わたしを捨てない。そういう声。たぶん、自分の声だった」


 アリアはアリスを見た。以前なら、ここで鋭い言葉を返したかもしれない。だが、今夜の彼女は黙っていた。


「アリアさんの声も、少しは自分の声なのかもしれません」


 イリスが言った。


 アリアは目を閉じた。


「そうね。ヤクシャのせいだけにできたら、楽だった」


 その言葉を最後に、会話は途切れた。夜が濃くなり、見張りが決まった。最初はアリアが立つと言ったが、アリア以外の全員がほぼ同時に反対した。テイルは「今のお前が見張りに立ったら、剣の声と二人きりになるだけだ」と言い、イリスは「休むのも役目です」と言い、アリスは「眠らなくていい私がいる」と言い、アイオンは「眠らない者に見張りを任せると歌の出番が減りますが、今回は賛成です」と言い、ティンカーベルは「寝ろ」とだけ言った。アリアは珍しく反論に負け、崩れた壁際で横になった。双剣は少し離れた場所に置いた。置いた瞬間、彼女の顔がひどく心細く見えた。


 夜半、エノクは目を覚ました。


 火は熾火になっている。アリスが見張りとして座り、器を膝に置いたまま血潮野の方を見ていた。テイルは壁にもたれて眠っているが、角の先がかすかに光っている。イリスは記録帳を抱えて浅く眠り、アイオンは竪琴に手を置いたまま目を閉じていた。ティンカーベルはエノクの傍らで沈黙している。


 アリアの寝床が空だった。


 エノクは息を呑み、すぐにティンカーベルを掴んだ。


「起きてる?」


「当然だ」


 剣は低く答えた。


「アリアが」


「血潮野へ戻った」


「どうして止めなかったの」


「止めたら、お前は起きなかったか?」


 エノクは返事に詰まった。


「追うぞ」


 ティンカーベルが言った。


 アリスが立ち上がった。


「私も行く」


「危ない」


「分かってる。でも、あの声は知ってる。置いていかれる方じゃなく、置いていく方に変わる時の声を」


 エノクは頷いた。大声を出せば皆が起きる。だが、アリアがすでに剣に引き寄せられているなら、一瞬の遅れが危ない。彼はテイルの肩を揺すった。若竜は即座に目を開ける。


「来たか」


「アリアが」


「分かってる。地面が騒いでた」


 テイルは竜剣を掴み、イリスとアイオンも起こされた。説明は短く済んだ。全員がすぐ動いた。眠気の残る者はいない。血潮野から吹く風が、すでに赤黒く変わっていたからだ。


 夜の血潮野は、昼とは別の場所だった。赤い土は月のない闇の中で黒く沈み、古い旗竿は人影のように揺れている。裂け岩の鎖は遠くからでも分かるほど赤黒く光っていた。そこに、アリアが立っていた。


 彼女は双剣を抜いていない。


 代わりに、裂け岩の前に片膝をつき、両手を伸ばしていた。鎖の隙間から、赤黒い柄が少しだけ突き出している。暗黒剣ブラッディソードの柄。封印の奥から、剣が彼女へ手を伸ばすように現れていた。


「アリア!」


 エノクが叫ぶ。


 アリアの肩が揺れた。だが、振り返らない。


「来ないで」


 声は低く、掠れていた。


「今、離せばいい」


 テイルが前へ出る。


「お前、自分で言っただろ。復讐の剣は死者を怒りに戻すって」


「分かってる!」


 アリアが叫んだ。


「分かってるのよ。分かってるのに、手が伸びるの。あの夜へ届く気がする。王宮の祭壇で、あたしが逃げなかった道へ届く気がする。握れば、誰を斬ればよかったのか分かる気がする!」


 イリスが顔を歪めた。


「それは、あなたの傷を使っている声です」


「知ってる!」


 アリアの指先が柄に触れた。


 瞬間、血潮野が裏返った。


 エノクの視界から夜が消えた。赤い空、燃える港、剣舞の祭壇、倒れる人々、走る足音、鐘の音、血に濡れた石床。ヴェルナの滅びた夜が、戦場の幻として広がった。これはアリアの記憶なのか、ヤクシャが作った偽の夜なのか、分からない。アリアはその中央に立っていた。彼女の手には、暗黒剣の柄があった。まだ完全には握っていない。だが、刃は彼女の影から伸びようとしている。


 その前に、ひとりの男の影が立った。


 長い髪を束ね、戦装束をまとい、巨大な刀を背に負う影。剣塚で見た阿修羅の残響よりも濃い。だが、生きているわけではない。かつてこの血潮野に残された、一太刀の記憶。失敗を知る剣士の残響。


 アリアは息を呑んだ。


「阿修羅」


 影は答えなかった。だが、刃のような沈黙が彼女へ向けられる。エノクたちは、幻の端に立っていた。近づけない。ヤクシャの呪いと阿修羅の残響が作る境界の内側に、アリアだけが入っている。


 やがて、阿修羅の影が口を開いた。


「握るか」


 声は低く、乾いていた。英雄の威厳というより、戦場に長く居すぎた者の声だった。


 アリアは暗黒剣の柄を見た。


「握れば、強くなれる」


「なる」


「ヴェルナを滅ぼしたものを斬れる」


「いくつかは斬れる」


「全部は?」


「斬れぬ」


 アリアの顔が歪んだ。


「なら、意味がない」


「そう思うなら、すでに剣に呑まれかけている」


 アリアは阿修羅を睨んだ。


「あなたが封じ損ねたんでしょう」


 その言葉は刃だった。阿修羅の影は避けなかった。


「そうだ」


 短い答えだった。


「あなたが失敗したから、ヴェルナは」


「滅びの一因となった」


「一因?」


 アリアの声が震えた。


「言葉を薄めないで。あたしの国は、あなたの失敗の後始末を知らずに背負わされていた。王家の舞も、祭壇も、血も、全部。知らなかった。誰も教えてくれなかった。あなたたちは英雄として歌われて、後の者に傷だけ残した」


「そうだ」


 阿修羅は再び言った。


 謝罪ではなかった。言い訳でもなかった。事実として受ける声だった。その静けさが、アリアの怒りをさらに揺さぶった。


「怒らないの」


「怒れと言いに来たのではない」


「謝りに来たの?」


「謝って済むなら、剣は要らぬ」


 アリアは奥歯を噛んだ。


「じゃあ、何しに来たの」


 阿修羅の影は、暗黒剣の柄へ視線を向けた。


「お前が剣になる前に、止めに来た」


 その言葉に、血潮野の幻が一瞬静まった。


 阿修羅は続けた。


「私は、剣になった。剣であることを誇り、剣であることを逃げ場にした。敵を斬ればよい。呪いを斬ればよい。魔王の手を斬り、暗黒剣の持ち手を斬り、戦場を裂けばよい。そう思った。だが、斬って残るものがある。刃が届かぬものがある。怒り、名、呪い、失敗、後悔。私はそれを斬りきれず、封じ損ねた」


「だから、あたしにどうしろっていうの」


「私と同じになるな」


 阿修羅の声が初めて鋭くなった。


「剣になるな。剣を握ったまま人でいろ」


 アリアの手が震えた。暗黒剣の柄から赤黒い光が彼女の指へ這い上がる。ヤクシャの声が、幻の底から囁く。


 人でいるから苦しい。剣になれば迷わない。斬ればよい。斬れば痛まない。斬れば、死者は報われる。


 アリアの唇が震える。


「人でいると、手が震える」


「震えろ」


「怒りで目が曇る」


「曇ったことに気づけ」


「斬りたい相手を、斬ってはいけない時がある」


「だから人が剣を握る」


 阿修羅の影は、背の刀を抜かなかった。剣神と呼ばれた者が、ここでは一度も剣を抜かない。そのことが、アリアには何より重く見えた。


「剣になる者は、斬るものしか見えぬ。人でいる者は、斬らぬものを選べる」


「選べなかったら」


「間違える」


「間違えたら」


「背負う」


 アリアの目に涙が浮かんだ。落ちる前に、彼女は歯を食いしばった。


「あなたは背負ったの?」


 阿修羅は沈黙した。


 長い沈黙だった。血潮野の幻の中で、燃えるヴェルナの鐘が遠く鳴っている。やがて、阿修羅は低く言った。


「背負いきれなかった。だから残響になった。足跡だけを残した。後の者へ、失敗の続きを渡した。英雄とは、時に卑怯なものだ」


 アリアは目を閉じた。怒りは消えない。阿修羅を許したわけでもない。ヤクシャを憎まなくなったわけでもない。ヴェルナの夜が軽くなったわけでもない。だが、その怒りを暗黒剣へ渡せば、自分は剣になる。剣になれば、迷わず斬れる。けれど、人ではなくなる。死者の名を、自分の怒りへ縛るものになる。


 彼女はゆっくり、暗黒剣の柄から手を離した。


 ヤクシャが吠えた。血潮野の幻が赤黒く崩れ、暗黒剣の刃が彼女の影から伸びようとする。エノクが境界の外で叫んだ。


「アリア!」


 イリスの声も重なる。


「アリアさん!」


 テイルが竜気を地面へ叩き込み、アリスが震えながら両手を広げた。


「糸じゃない、でも絡んでる! アリア、あなたの手を剣に渡さないで!」


 アイオンの竪琴が鳴った。阿修羅の旋律。剣塚の弔いの音。そこに、アリア自身の足音が重なる。


 アリアは目を開いた。


「アリア」


 自分で自分の名を呼んだ。


「ヴェルナの娘。逃げた王女。剣舞姫。復讐したい者。弔いたい者。……全部、あたし」


 彼女は双剣を抜いた。暗黒剣ではなく、自分の剣を。赤黒い刃ではなく、ヴェルナから持ち出した二振りを。刃は震えている。持つ手も震えている。だが、握っているのは彼女だった。


 阿修羅の影が、わずかに頷いた。


「ならば、斬れ」


「何を」


「境界を」


 その瞬間、アリアには見えた。ヤクシャの呪いが、一本の刃としてではなく、いくつもの境をまたいでいるのが。怒りと弔いの境。死者の名と復讐者の願いの境。ヴェルナの記憶とヤクシャの囁きの境。阿修羅の失敗と自分の選択の境。今までは一つの赤黒い霧にしか見えなかったものが、細い線の重なりとして見えた。


 彼女は踏み込んだ。


 剣舞ではない。戦闘でもない。両方だった。足が円を踏み、双剣が交差し、刃先が赤黒い霧の“つなぎ目”へ入る。物を斬る音はしなかった。代わりに、布を裂くような、あるいは糸をほどくような音がした。ヤクシャの呪いが、アリアの怒りへ絡もうとしていた境界が切れる。


 赤黒い刃が悲鳴を上げた。


「境界を斬るか、ヴェルナの娘!」


「全部は斬れない」


 アリアは言った。


「でも、あたしの怒りと、あたしの死者の間に入り込む分は斬る」


 二撃目。血潮野の幻と現実の境が裂けた。燃えるヴェルナの祭壇が薄れ、現実の裂け岩が戻る。三撃目。暗黒剣の柄とアリアの影を繋いでいた赤黒い筋が切れた。四撃目。ヤクシャが囁く「斬れば戻る」という言葉が、意味を失って風へ散る。


 アリアの双剣が白く光った。光は聖なるものではない。竜気でもない。刃そのものが、どこを斬り、どこを斬らないかを知った時の光だった。境界を見つけ、境界だけを斬る力。阿修羅の足跡から、ヴェルナの剣舞を通り、今のアリアへ届いた力。


 ヤクシャの呪いは完全には消えなかった。裂け岩の奥で、赤黒い刃が再び鎖へ引き戻される。だが、今度はアリアを引けなかった。鎖の阿修羅文字が光り、血潮野の封印は先ほどより深く閉じた。暗黒剣は最後に囁いた。


「復讐は消えぬ。お前はまた我を欲する」


「そうかもね」


 アリアは息を切らしながら言った。


「その時は、また斬るわ。あたしとあんたの境界を」


 呪いの声が沈んだ。裂け岩の赤黒い光が消え、血潮野の幻は完全に崩れた。夜の草原が戻る。古い旗竿が風に鳴り、遠くでテイルが大きく息を吐いた。


 アリアはその場に立っていた。倒れなかった。だが、双剣を握る手は震えている。阿修羅の影は、もう薄くなっていた。彼女は振り返る。


「待って」


 影は止まった。


「あなたを許したわけじゃない」


 阿修羅は答えない。


「でも、継ぐ。失敗ごと。怒りごと。あたしは、あなたの剣にはならない。あたしの剣で継ぐ」


 阿修羅の影が、今度こそはっきりと頭を下げた。剣神が、後の剣舞姫へ。謝罪ではなく、託す者として。あるいは、自分の失敗を引き受けてくれた者への礼として。


 影は風に溶けた。


 境界が解けた瞬間、エノクたちはアリアへ駆け寄った。イリスが真っ先に彼女の腕を取る。


「怪我は」


「ない」


「本当に?」


「心配性ね」


「今のあとで心配しない方が無理です」


 アリアは少しだけ笑った。疲れきった笑みだったが、確かに彼女自身のものだった。


 テイルが腕を組む。


「剣に呑まれかけてたぞ」


「知ってる」


「知ってて握りかけたのか」


「そうよ」


「馬鹿だな」


「否定しないわ」


 テイルは言葉に詰まった。アリアが素直に認めたせいで、続きが出てこなかったのだろう。代わりに彼は顔をしかめる。


「でも、戻ってきた」


「ええ」


「なら、まあ、いい」


「あなたにしては優しいわね」


「うるせぇ」


 アリスがそっと近づいた。


「今の、どうやったの」


「分からない」


 アリアは正直に答えた。


「ただ、見えた。何を斬ればいいかじゃなくて、何と何が混ざってはいけないか。その境が」


「境を斬る力」


 アリスは胸元を押さえた。


「わたしの糸も、そういう境を越えていたのね」


「たぶん」


 アリアは彼女を見る。


「だから、これからはあんたも見なさい。どこまでが償いで、どこからが自分を許してほしいだけの甘えか。その境を」


 アリスは一瞬傷ついた顔をした。だが、頷いた。


「うん」


 アイオンは少し離れたところで、竪琴を抱えていた。彼の表情は複雑だった。


「見事でした」


「あなたに褒められると、また裏がありそう」


「今日は素直に褒めています」


「本当に?」


「半分ほど」


「残り半分」


「阿修羅の足跡を継いだ者が現れたことに、少し怖くなりました」


 アリアは彼を見た。


「どうして」


 アイオンは夜の血潮野を見渡した。


「七英雄の失敗は、ただ古いものではありません。後の者が継ぐたび、傷もまた新しく動く。あなたが阿修羅の力に触れたということは、阿修羅の罪にも触れるということです」


「もう触れてるわ」


「ええ。だから怖いのです」


 アイオンの言葉は、いつものように少し逃げている。だが、そこに本物の心配があることも分かった。アリアはそれ以上追及しなかった。


 エノクはアリアの双剣を見た。さきほどの白い光は消えている。だが、刃の根元に、細い線のような紋が浮かんでいた。阿修羅文字に似ているが、完全には同じではない。ヴェルナの足形の紋とも違う。二つが重なり、アリア自身の剣として刻まれたものだった。


「それ」


 エノクが言うと、アリアも気づいた。指で刃の根元に触れる。


「増えたわね」


 ティンカーベルが言った。


「刻印ではない。通り道だ。力が通った痕だな」


「呪い?」


「違う。少なくとも今は。お前が剣になることを拒んだ痕だ」


 アリアは黙ってその紋を見た。


「剣になるな。剣を握ったまま人でいろ」


 彼女は阿修羅の言葉を繰り返した。


「簡単に言ってくれるわ」


「阿修羅も簡単にはできなかった」


 ティンカーベルが答えた。


「だから残響になってまで言ったのだろう」


 アリアは小さく息を吐いた。


「そうね。失敗した人の言葉って、腹が立つけど重いわね」


 イリスが静かに言った。


「それでも、受け取ったのですね」


「受け取ったというか、投げつけられたというか」


「似ています」


「似てないわ」


 ほんの少し、皆の間に笑いが戻った。だが、その笑いはすぐに夜風へ消えた。ヤクシャは封じ直されたにすぎない。完全には断てなかった。暗黒剣の欠片はまだ外に散っている。ヴェルナの旧街道には、まだ呪いの痕跡が残っているだろう。アリアが得た力は始まりであり、決着ではない。


 エノクは裂け岩を見た。封印の奥からはもう声はしない。だが、沈黙の中に刃があることを知っている。


「次はヴェルナへ?」


 彼が問うと、アリアは頷いた。


「ええ。怖いけど、行く」


「怖いって言うんですね」


「言うわよ。人でいろって言われたばかりだもの」


 その言葉に、エノクは少し胸が熱くなった。アリアは強い。だが、強いから怖くないのではない。怖さを認めても、剣を握ったまま人でいる。それが、阿修羅から受け取った継承なのだろう。


 テイルが大きく伸びをした。


「じゃあ戻るぞ。ここにいると、また地面が変なこと言い出す」


「何て?」


 アリスが訊く。


「斬れとか、怒れとか、腹が減ったとか」


「最後はあなたじゃないの」


「……少しな」


 イリスが呆れたように笑い、アイオンが「若竜の腹も大地の声」と即興で言いかけ、テイルに睨まれて口を閉じた。


 彼らは血潮野を後にした。夜の草を踏み、崩れた見張り台へ戻る。背後で裂け岩は静かに沈み、鎖は月のない闇の中で鈍く光った。アリアは一度だけ振り返った。そこには、もう阿修羅の影はない。だが、彼の足跡は彼女の刃に残っている。


 剣になるな。


 剣を握ったまま人でいろ。


 その言葉は、怒りを消す呪文ではなかった。復讐を忘れさせる慰めでもなかった。むしろ、怒りを持ったまま、剣に自分を渡さないための重い楔だった。


 アリアは自分の手を見た。まだ震えている。だが、その震えを恥じなかった。震える手で剣を握る。震えるからこそ、人でいられる。そう思えたのは、ほんの一瞬だった。けれど、その一瞬が彼女を血潮野から連れ戻した。


 南西の空には、雲が流れている。その向こうにヴェルナへ続く旧街道がある。焼けた港、壊れた祭壇、暗黒剣の欠片、阿修羅の封印の綻び。全てが待っている。


 アリアは静かに歩いた。


 復讐の剣ではなく、弔いの剣として。


 そして、まだ完全ではない境界を斬る力を、震える手の中に抱いたまま。

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