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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第4部 七英雄の罪と星の船
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第5話_鉱山都市の猫人機械師

 血潮野を離れた一行は、すぐにヴェルナへ向かうことはできなかった。アリアは何も言わなかったが、彼女の双剣は境界を斬った夜から微かに鳴り続けていた。刃そのものが傷んだわけではない。むしろ刃は澄んでいる。だが、鞘の中へ戻しても、ときおり薄い白線のような光が根元に走り、柄へ触れたアリアの指を小さく震わせた。ティンカーベルはそれを見て、「力が通った道具は、道具の方も持ち主を見るようになる」と言った。アリアは「見られるほど悪い使い方はしていないつもり」と返したが、その声には疲れがあった。テイルも竜剣の竜気を抑えるための革帯が焦げ、イリスの聖印は死者の名を呼び続けたため銀縁が歪んでいた。アリスの胸元の名の核は安定しているようで、時折、糸を失った反動のように細い震えを起こす。エノクの剣帯も血潮野で裂け、ティンカーベルを腰へ吊るたび、金具が不安な音を立てた。


「つまり、修理が必要ということです」


 アイオンは、旅人用の古い地図を広げて言った。街道脇の岩に腰かけ、帽子のつばを指で上げる仕草だけは優雅だったが、彼の竪琴にも切れかけた弦が二本ある。彼も無傷ではない。


「ヴェルナへ続く旧街道へ入る前に、鉱山都市ガルドベルクへ寄りましょう。古くはシオゥルの鉱区、今は猫人と人間と土小人の職人が入り混じる工房都市です。武器、防具、馬車、魔導灯、鉱山用昇降機、だいたい何でも直ります。直らないものは、直ると言い張って代金を取られます」


「最後、悪質じゃない」


 アリアが言う。


「職人町とはそういうものです」


「偏見です」


 イリスが真面目に訂正した。


「少なくとも、真面目な職人さんもいるはずです」


「もちろんいます。真面目に高い職人が」


 テイルが鼻を鳴らした。


「修理なんざ、竜気で補強すりゃいいだろ」


「あなたがそれをやると、だいたい周辺のものまで焦がします」


 イリスが即答した。


「焦がすのは弱い革が悪い」


「革に謝ってください」


「革に?」


「革にも役目があります」


 アリスがぽつりと言った。


「役目があるものを、勝手に焦がしたらかわいそう」


 テイルは言葉に詰まった。アリスに言われると妙な説得力がある。彼はしばらく顔をしかめ、結局「……悪かったな、革」と小さく言った。ティンカーベルが鞘の中で低く笑った。


「若竜が革に謝った。明日は槍が降るかもしれん」


「剣、黙れ」


「黙る剣なら、エノクは今ごろ三回死んでいる」


「否定できないのが腹立つ」


 エノクは苦笑しながら、地図のガルドベルクの印を見た。山脈の裾、ヴェルナへ向かう旧道から少し北へ逸れた場所にある。鉱山都市。工房。機械。彼はシモンの森の動く道具たちを思い出したが、アイオンの言う機械とは少し違うらしい。シモンの道具は命を呼ばれたものだった。ガルドベルクのものは、歯車と軸と鉱石と魔導回路で動くものだという。祈りでも剣でもなく、実際に組み上げられた仕組みが世界を動かす場所。そう聞くと、これまでの旅路とは少し空気が違って思えた。


 ガルドベルクの姿が見えたのは、翌日の昼過ぎだった。山腹を削って作られた都市で、遠目には巨大な鉄の巣のようだった。岩山の斜面に階段状の居住区が張りつき、その間を鉱山用の軌道車が走っている。太い鎖で吊られた昇降台が上下し、蒸気とも霊脈の白煙ともつかぬものが煙突から噴き上がる。街の上空には小型の機械鳥が何羽も飛び、歯車仕掛けの鐘塔が時を刻んでいた。耳を澄ませば、槌の音、車輪の音、蒸気弁の噴く音、猫人の高い呼び声、鉱夫の怒鳴り声、商人の値切り声が重なっている。死者の都や血潮野の後では、その騒音さえ生きている証のように感じられた。


 テイルは街を見上げて眉をひそめた。


「うるさい」


 アイオンが笑う。


「生きている街は、だいたいうるさいものです」


「龍神湖は静かでも生きてる」


「竜は大きいので、静かでも圧があります」


「どういう意味だ」


「褒めています」


「嘘だろ」


「少し」


 アリスは街の機械鳥を目で追っていた。硝子の瞳に歯車の羽が映る。彼女の指先が胸元でそわそわと動いた。


「生きてないのに、動いてる」


 彼女が呟くと、ティンカーベルが答えた。


「機械だ。命を呼ばずとも動くものはある」


「寂しくないのかな」


「機械に聞け」


「聞けるの?」


「聞ける者もいる」


 その言葉の意味を理解する前に、都市の門で一行は止められた。門番は猫人の男と人間の女の二人組で、武器よりも帳簿を重視しているようだった。通行税、鉱区保全税、外来魔導具検査料、竜族入市保証金、喋る剣登録料、動く人形安全確認料。読み上げられる名目が増えるたび、エノクの顔から血の気が引いていった。


「ちょっと待ってください。喋る剣登録料?」


「喋るんだろう?」


 門番の猫人が耳を動かす。


「喋る剣は、喋らない剣より揉め事が多い。登録料がいる」


 ティンカーベルが鞘の中で低く言った。


「差別だな」


「喋った。追加で発声確認料」


「おい」


「抗議受付料もある」


 アリアがエノクの肩に手を置いた。


「ここで剣を抜いたら、もっと取られるわよ」


「抜きません」


 イリスが財布を確認し、顔を曇らせる。死者の名を記録する帳面や薬草を買い足したせいで、旅費はかなり心細い。アリスは金銭感覚が薄く、「骨の玉座ならたくさんあったけど」と言いかけてアリアに睨まれ、黙った。テイルは「門ごと飛び越えれば」と呟いたが、門番の女が即座に「無許可飛翔罰金」と言ったため、彼も黙った。


 結局、アイオンが古い帝国銀貨を数枚出し、門番と歌一曲分の交渉をして、なんとか通行料を半額にした。もっとも、アイオンは「交渉術にも報酬が必要です」と言い、エノクの財布から追加で銅貨を二枚取った。アリアが「今あなたに剣を向けたら、抗議受付料は誰に払うの」と言うと、アイオンは「それは私の心が受け付けます」と優雅に答え、テイルに軽く蹴られた。


 市内は、門の外から見た以上に混沌としていた。上層には鉱山主の館や大工房があり、真鍮の管と魔導灯で飾られている。中層には職人街が広がり、鋳物屋、歯車屋、魔導石研磨師、刃物鍛冶、軌道車修理場が軒を連ねる。下層へ降りるほど空気は煤っぽくなり、貧しい工房と部品市場、屑鉄置き場、猫人の小さな屋台が増えた。猫人たちは耳と尻尾を忙しく動かし、狭い梁の上を歩き、窓から窓へ飛び移り、手にした部品を値切りながら走っていく。エノクはその速さに目を回しそうになった。


「ここで修理屋を探すの?」


 イリスが問う。


 アイオンは頷く。


「名のある大工房は高い。無名の工房は安いが、当たり外れが大きい。今回は、腕がよく、安く、口が堅く、喋る剣と人形と竜族と王家の鍵を見ても気絶しない職人が必要です」


「条件が多すぎるわね」


 アリアが言った。


「そういう職人に心当たりが?」


「噂なら」


 アイオンは地図の端に小さく書かれた工房名を指した。


「ミャウレン工房。鉱山下層、屑鉄坂の奥。貧乏、腕は確か、代金にうるさい、変な機械を見せると客を忘れる。猫人の少女が切り盛りしているそうです」


「客を忘れるのは駄目では?」


 イリスの不安そうな声に、アイオンは爽やかに笑った。


「職人とはそういうものです」


「また偏見です」


 屑鉄坂は、その名の通り坂の両側に壊れた機械や使えなくなった鉱車、折れた歯車、曲がった蒸気管が積まれていた。足元には油が滲み、上からは細い管を通って水とも排油ともつかぬものが滴る。テイルは明らかに嫌そうな顔をしていた。


「大地が見えねぇ」


「床があります」


 イリスが言う。


「床じゃなくて地面だ。石と油と鉄くずだらけで、下の声が聞きづらい」


 アリスが屑鉄の山を見つめる。


「捨てられたものが多い」


「ここでは、捨てられたものも売り物よ」


 アリアが言った。


「直せるなら部品。直せないなら鉄。鉄にもならないなら、猫の足場」


 その時、上の梁から声が降ってきた。


「失礼な。鉄にもならないものだって、使い道くらいあるよ」


 全員が見上げる。そこには、猫人の少女がいた。年はエノクたちと同じか少し下。煤で少し汚れた栗色の髪、ぴんと立った猫耳、油の染みた作業上着、腰には工具帯、膝当て、革手袋。額に乗せた丸いゴーグルの片方はひびが入り、尻尾は機嫌よく左右へ揺れている。手には大きなレンチ。肩には小型の機械鼠が乗っており、歯車の尻尾をちろちろ動かしていた。


 少女は梁の上から身軽に飛び降り、着地と同時にレンチを肩へ担いだ。


「あんたたちが修理の客? それとも借金取り? 借金取りなら右の坂。あっちはうちの工房じゃないって言い張る予定だから」


「いきなり情報が多い」


 テイルが呟く。


 少女の耳がぴくりと動いた。


「竜族? うわ、本物? ちょっと尻尾の鱗、叩いていい? 音を聞くだけ。剥がさない。多分」


「多分って何だ!」


「じゃあ絶対。たぶん絶対」


「近づくな!」


 少女は今度はアリスを見た。硝子の瞳、陶器の肌、胸元の名の核。彼女の目が一気に輝く。


「うわ」


 アリスが一歩下がる。


「何」


「動いてる」


「動くけど」


「関節は? 魔導糸? 自律核? 魂器? ねえ、指一本だけ外していい? 戻すから。九割くらい」


 アリアが即座に前へ出た。


「駄目」


 少女はアリアを見て、今度は腰の双剣に目を止めた。


「その鞘、古い。しかも変な力の通り道がある。修理した方がいいよ。今のままだと、あと三回くらい境界とか何とか斬ったら留め金が弾ける。弾けたら鞘代、かなり高い」


 アリアの眉が上がる。


「見ただけで分かるの?」


「音で分かる」


 少女は自分の耳を指で弾いた。「あたしの耳は安物じゃない。値段をつけるなら、左耳だけで銀貨二十枚。右耳はもっと高い」


「自分の耳にも値段をつけるのですか」


 イリスが驚くと、少女は胸を張った。


「価値あるものには値段がある。値段があるものは守れる。無料の善意は壊れるのが早い。というわけで、修理ならうちへどうぞ。安くはないけど、他よりは安い。安く見せて後で部品代を乗せる店よりは誠実」


 アイオンが微笑んだ。


「ミャウレン工房の方ですか」


「そう。ハルナ・ミャウレン。工房主、機械師、修理屋、発明家、借金返済予定者。修理ならできるよ。安くはないけどね」


 彼女はそう言って、エノクの腰へ視線を移した。そして、固まった。


「……その剣、今、喋った?」


「まだ喋ってない」


 ティンカーベルが言った。


「喋った!」


 ハルナの耳と尻尾が一斉に立った。彼女は一歩でエノクの前へ滑り込み、ティンカーベルの鞘を両手で覗き込む。


「ねえ、分解していい? 先っぽだけ。ほんの先っぽだけだから。生きた剣って器魂系? 魔導回路ある? 歯車はないよね? いや、音が普通の剣じゃない。中で何か鳴ってる。うわ、すごい。何これ。売ったらいくらかな」


「最後の言葉で信用を失ったな」


 ティンカーベルが冷たく言った。


「売らないよ。たぶん」


「たぶんを外せ」


「売らない。分解は?」


「論外だ」


「じゃあ調律だけ」


「お前に調律される筋合いはない」


「料金は取るよ?」


「なお悪い」


 エノクは慌てて一歩下がった。


「ハルナさん、修理をお願いしたいのは確かですが、剣の分解はしません」


「さん、いらない。ハルナでいい。敬称をつけると工賃が上がるから」


「上がるんですか」


「気分がよくなると、いい部品を使いたくなる。いい部品は高い」


 イリスが真剣に頷きかけ、アリアが小声で「納得しない」と止めた。


 ミャウレン工房は、屑鉄坂の一番奥にあった。看板は傾き、歯車の絵の上に煤が積もり、扉は半分壊れている。だが、扉には複雑な錠前が三つもついており、ハルナはそれを鍵ではなく、耳を近づけて音を聞きながら開けた。中は狭い。いや、狭く見えるのは部品が多すぎるからだった。壁一面に工具が吊られ、床には解体途中の機械鳥、魔導灯、壊れた鉱山用腕甲、歯車の山、古い設計図の束が積まれている。天井からは真鍮の管がぶら下がり、奥の炉では青白い火が小さく燃えていた。作業机は三つあるが、まともに使える空きはない。椅子の上にも部品が置かれているため、客は立つしかなかった。


「座る場所は?」


 テイルが言うと、ハルナは胸を張った。


「ない。立ってる方が早く帰るから効率的」


「客商売としてどうなの」


 アリアが呆れる。


「安さの秘訣」


「安くないって自分で言ってたわよね」


「それはそれ」


 ハルナは次々に道具を取り出し、アリアの鞘、テイルの竜剣革帯、イリスの聖印、エノクの剣帯、アイオンの竪琴弦、アリスの肩関節へ視線を走らせた。


「全部直すと高い」


「でしょうね」


 イリスが財布を抱える。


「優先順位をつけましょう。戦闘に関わるもの、祈りに関わるもの、命に関わるものから」


「それ全部じゃない?」


 ハルナは即答した。


「剣帯が切れたら剣が落ちる。鞘が壊れたら剣が暴れる。聖印が割れたら祈りが乱れる。竜剣の帯が焼けたら回路……じゃなかった、竜気が暴れる。竪琴の弦が切れたら嘘つきさんが黙る」


「最後は利点では?」


 テイルが言う。


「でも、黙った吟遊詩人は不気味でしょ」


「それはそうだな」


「納得されました」


 アイオンが胸に手を当てた。


「アリスの肩は?」


 エノクが問うと、アリスが少し身を固くした。ハルナは彼女を見て、今度は先ほどより少しだけ慎重な顔になった。


「音がかすれてる。壊れてるってほどじゃない。でも、糸をいっぱい切った後みたいな反動がある。……触っていい? 分解しない。見るだけ。料金は取る」


「取るんだ」


 アリスが言う。


「見るのも技術」


「……見るだけなら」


 ハルナは指先でアリスの肩に触れ、耳を近づけた。先ほどの好奇心だけの顔ではない。機械の音を聞く職人の顔だった。


「うわ」


「何」


「機械じゃない」


 アリスの顔が硬くなる。


「だから?」


「でも、機械みたいに音がある。関節の音、核の音、魂……これはあたしには分かんない。でも、音がずれてる場所は分かる。ごめん。さっき分解したいとか言ったの、撤回」


 アリスは驚いたようにハルナを見た。


「撤回するの?」


「する。あんた、機械じゃない。見たことないものだけど、機械じゃない。見たことないものを分解したら、元に戻せないかもしれない。元に戻せないものを開けるのは、職人として負け」


 アリスの硝子の瞳が揺れた。


「……そう」


 ハルナはすぐにいつもの調子へ戻った。


「でも、肩の軸鳴りは直せる。軸って言い方が嫌なら、肩の動きのきしみ。油は使わない。魔導絹の緩衝布がいい。高いけど」


「高いのね」


「高い。でも良い。安い布だと三日で駄目。高い布だと三ヶ月。長い目で見ればお得」


 イリスが財布をさらに強く抱えた。


 修理の見積もりは、当然のように一行の予想を超えた。ハルナは黒板に部品代、工賃、緊急対応料、危険物観察料、喋る剣対応手当、竜気熱損傷手当、人形倫理的慎重作業料、吟遊詩人面倒料を書き並べた。アイオンが最後の項目を指して抗議すると、ハルナは「初対面で面倒そうだから先払い」と言った。テイルは「ぼったくりだ」と怒り、ハルナは「正義で歯車は回らない。油と部品と職人代で回るの」と即座に返した。


 エノクは困り果てた。旅費は限られている。だが、ここで装備を整えなければヴェルナへの道は危ない。アリアの鞘は特に危険だ。境界を斬る力が通った以上、普通の鞘では耐えられない。イリスの聖印も、死者の名を返す旅を続けるには保護が必要だった。


「分割払いは」


 エノクが恐る恐る言うと、ハルナの耳がぴくりと動いた。


「利子がつく」


「利子」


「慈善事業じゃないから」


「でも、僕たちは今、あまり」


「知ってる。見るからに金がなさそう」


 ハルナは容赦なかった。


「でも、変なものは持ってる」


 その視線が、エノクの胸元へ向いた。服の下に隠している鍵。ランバードから託された、パンドラボックスに関わる鍵。エノクは反射的に手で押さえた。ハルナの目が細くなる。彼女の耳が、わずかな振動を拾うように動いた。


「それ、何」


「大切なものです」


「大切なのは見れば分かる。音が変。歯車じゃないのに歯車みたいな拍子がある。鍵? いや、鍵にしては中に回路がある。魔導鍵? 星導式? ちょっと見せて」


「駄目です」


 エノクが即答すると、ハルナの尻尾が不満そうに跳ねた。


「見るだけ」


「見せるだけでも危ないものです」


 ハルナは、今までの軽さを少しだけ消した。


「星導機巧に関係ある?」


 工房の空気が変わった。


 アイオンの目が細くなり、ティンカーベルが静かに鳴った。アリアはハルナを見つめ、テイルは状況が分からずとも警戒する。イリスはエノクのそばへ寄り、アリスは胸元を押さえた。


「どうして、その言葉を」


 エノクが訊く。


 ハルナはしばらく黙っていた。やがて、作業机の奥へ行き、部品の山の下から古い筒を取り出した。真鍮の筒だ。油と煤で汚れ、蓋には猫人の氏族紋と、見慣れない星形の印が刻まれている。彼女はそれを開き、中から丸められた設計図を出した。


 広げられた図面には、精密な円、歯車、魔導回路、星の軌道のような線、そして中央に箱のようなものが描かれていた。エノクは見た瞬間、胸元の鍵が熱を帯びるのを感じた。図面の端には、古い文字でこう記されている。


 星導封印機構。パンドラ系補助環。ダイダロス式、未完。


 イリスが小さく息を呑んだ。アリスが図面を見つめ、アイオンは笑みを完全に消した。ティンカーベルが低く言う。


「ダイダロス」


 ハルナの耳が動いた。


「知ってるんだ」


「七英雄の機械使い」


 エノクは答えた。


「父さんが追ってた名前」


 ハルナは図面の端を指で押さえた。いつもの早口ではない。


「父さんは貧乏発明家だった。変な機械ばっかり作って、売れなくて、修理代は踏み倒されて、それでも古代機巧の研究をやめなかった。ダイダロスはただの英雄じゃない、星の外から来たものを封じる機械を作った人だって言ってた。みんな笑った。酒場でも、工房組合でも、猫人の親戚にも笑われた。『英雄譚で飯は食えない』って」


「あなたは信じたのですか」


 イリスが問う。


「信じるしかないでしょ。父さんの作った飯を食べてたんだから」


 ハルナは少し笑った。だが、その笑みはすぐに消えた。


「父さんは数年前、星導機巧の手がかりを追って、山の奥の古代坑道へ入った。帰ってこなかった。残ったのは、この設計図と借金と、使えない発明品の山。だからあたしは修理屋をやってる。部品代を稼いで、借金を返して、いつか父さんが見てたものを見に行くために」


 彼女の金への執着が、初めて違う色に見えた。部品代。工賃。報酬。金。すべては夢と研究と生活を続けるための油だったのだ。


 エノクは胸元の鍵を見下ろした。見せるべきか迷った。これは王家の鍵であり、カオスが狙うものだ。軽々しく人に見せるものではない。だが、図面は明らかに鍵と共鳴している。ハルナの父が残したものは、旅の核心に触れている。


 ティンカーベルが言った。


「見せろ」


「いいの?」


「見せずに済む段階は過ぎた。こいつの図面は本物に近い。少なくとも、偽物ならこの鍵は鳴らん」


 エノクはゆっくりと鍵を取り出した。小さな金属片。鍵とも、機械部品とも、聖具ともつかない形。ハルナはそれを見た瞬間、目を見開いた。


「触っていい?」


「見るだけ」


「手袋越し」


「見るだけ」


「近くで」


「見るだけ」


「けち」


「大切なものです」


 ハルナは不満そうに耳を伏せたが、今度は無理に触れようとはしなかった。彼女はゴーグルを下ろし、鍵をじっと見つめる。耳が微細に動き、尻尾がゆっくり揺れる。彼女は音を聞いていた。機械の音を読む猫人の耳が、星導機巧の内部の拍子を拾おうとしている。


「……これ、鍵じゃない」


 ハルナが呟いた。


「鍵じゃない?」


「鍵の形をした、命令片。箱を開けるだけじゃなく、箱に何を封じるか、どう閉じるか、どの順で回路を起こすかを伝える部品。たぶん、これだけじゃ動かない。パンドラボックス本体と、補助環と、星導炉が要る。……何これ。父さん、こんなの追ってたの」


 エノクは背筋が冷えた。パンドラボックス。カオスの封印。ダイダロス。星の外から来たもの。まだ点だったものが、ハルナの言葉で線になりかけている。


 アイオンが静かに言った。


「ハルナ。あなたのお父上は、古代坑道で何を探していたのですか」


「ダイダロスの工房跡」


 ハルナは即答した。


「鉱山都市の下には、古い坑道がある。もっと下には、シオゥルより古い星導坑道があるって父さんは言ってた。そこに、ダイダロスが一時使った整備場があるって。誰も信じなかったけど」


「場所は分かる?」


 アリアが問う。


「入口は封鎖されてる。鉱山組合が危険だからって。入るには許可がいる。許可を取るには金がいる。金がないから、あたしはまだ入れてない」


「また金」


 テイルが言う。


「また金よ。夢と勇気で封鎖扉は開かない。鍵と賄賂と許可証と爆薬で開くの」


「爆薬は駄目だと思います」


 イリスが言うと、ハルナは真顔で答えた。


「小さい爆薬なら、ほぼ鍵」


「違います」


 エノクは図面と鍵を見比べた。ヴェルナへ向かうはずだった旅路が、急に別の深みへ落ちていく。だが、第4部の旅は、七英雄の罪と星の船の真実へ向かうものだ。阿修羅の失敗を知った今、次にダイダロスの足跡へ触れることは、偶然ではないのだろう。


「ハルナ」


 エノクは言った。


「この図面を、僕たちにも読ませてください。代わりに、できる範囲で修理代を払います。あと、古代坑道へ行くなら、協力します」


 ハルナの耳がぴんと立った。


「協力?」


「僕たちはダイダロスの手がかりを探しています。あなたのお父さんが探していたものも、僕たちの旅に関係しているかもしれない」


「関係してる。絶対してる」


 ハルナは即座に言った。


「その鍵が鳴ってる。図面も鳴ってる。あたしの耳も鳴ってる。これは逃したら一生後悔するやつ」


「でも、危険です」


 イリスが言う。


「知ってる。危険手当も乗せる」


「請求する側なのですね」


「当たり前。危険なことを無料でやると、次からもっと危険なことを無料で頼まれる」


 アリアが腕を組んだ。


「同行する気?」


 ハルナは一瞬だけ黙った。工房の中を見回す。壊れた機械、父の設計図、借金の札、積まれた部品、煤けた炉。彼女の全てがここにある。だが、彼女の見たいものは、ここにはもうないのだろう。


「条件がある」


 ハルナは言った。


「修理代は踏み倒さない。旅の途中で拾った古代部品は、最初にあたしが見る。危ない機械は勝手に触らせる。じゃなかった、相談してから触らせる。あと、父さんのことを馬鹿にしない」


「しません」


 エノクはすぐに答えた。


 ハルナは少し驚いたように彼を見た。


「即答なんだ」


「お父さんが見ていたものが、僕たちの旅に必要なら、馬鹿にする理由がありません」


「……変な王子様」


 エノクは固まった。


「王子って」


 ハルナは耳を伏せる。


「あれ、違った? 鍵の音が王家系の命令片だったから、てっきり」


 空気が固まった。アリアが額を押さえ、アイオンが小さく笑い、テイルが「また一人増えたぞ、気づくやつ」と呟いた。イリスは困ったように微笑み、アリスはエノクを見て「隠すの下手なの?」と真顔で訊いた。


 ティンカーベルが言った。


「下手だ」


「剣まで」


 エノクは肩を落とした。


 ハルナは慌てて両手を振った。


「大丈夫大丈夫。秘密料は取らない。今のところは」


「今のところ?」


「口止め料って相場があるから」


 アリアが双剣の柄へ手を置いた。


「その相場、今ここで斬っていい?」


「冗談! 半分!」


「残り半分は?」


「商売人としての本能!」


 テイルが呆れたように言う。


「こいつ、本当に同行させるのか」


 ハルナは彼を睨んだ。


「こいつじゃなくてハルナ。竜族さん、あなたの竜剣帯、あたしが直さなかったら次の戦闘で焼き切れるよ」


「……直せるのか」


「直せる。安くはないけど」


「その言葉、もう聞き飽きた」


「でも大事」


 アリアがため息をついた。


「いいわ。同行の前に、まず修理。話はそれから」


「はいはい、仕事ね。仕事は好き。支払いのある仕事はもっと好き」


 ハルナは手を叩き、機械鼠を肩から作業机へ走らせた。


「ミャウレン工房、臨時全力営業開始! 喋る剣、竜剣、聖印、人形の肩、王子様の剣帯、嘘つきさんの竪琴、ついでに剣舞姫の鞘。全部まとめて直す。徹夜料金は乗せるから安心して」


「安心できる要素がない」


 テイルが言った。


 だが、その声には少しだけ笑いが混じっていた。


 その夜、工房には久しぶりに明るい火が入った。ハルナは驚くほど手早かった。耳で音を聞き、指で振動を確かめ、工具を噛むように持ち替え、猫のように机から棚へ、棚から梁へ飛び移る。機械鼠は小さな部品を運び、古い魔導灯は彼女の合図で角度を変える。彼女は金にうるさく、口も悪く、油断すると本当にティンカーベルを分解しようとする。けれど、道具を見る目は真剣だった。道具を雑に扱う者ではない。値段をつけるのは、軽んじないためでもあるのだと、エノクは少しだけ分かった。


 アリアの鞘には、境界の力を逃がすための細い銀線が組み込まれた。イリスの聖印には、名を呼ぶ時に割れないよう柔らかい霊脈鉱の縁取りが加えられた。テイルの竜剣帯には、竜気の熱を逃がす鱗型の金具がつけられた。アリスの肩には魔導絹の小さな緩衝布が仕込まれ、彼女は腕を回して「音がしない」と少し驚いた顔をした。エノクの剣帯は補強され、ティンカーベルは「悪くない」とだけ言った。ハルナはそれを聞いて勝ち誇った。


 夜明け近く、修理を終えたハルナは、父の設計図を丸めて背嚢へ入れた。工具帯を締め、ゴーグルを額に上げ、炉の火を小さく落とす。工房の扉に鍵をかける時だけ、彼女の動きは少し遅くなった。


「いいのですか」


 イリスが訊いた。


「工房を置いていって」


「置いていくんじゃない。戻るために閉めるの」


 ハルナはそう言った。


「父さんも、そう言って出ていった。戻ってこなかったけど」


 少しだけ沈黙が落ちる。ハルナはすぐに明るく笑った。


「だから、あたしは戻る。借金もあるし、部品も置いてあるし、あの屋根、雨が降ると漏れるから直さなきゃいけない。死んでる暇ないんだよね」


 アリスが静かに言った。


「帰る場所があるのね」


「ある。ぼろいけど」


「ぼろくても、あるのはいいことだと思う」


 ハルナはアリスを見て、少しだけ目を柔らかくした。


「じゃあ、あんたもいつか作ればいい。ぼろくても帰れる場所」


 アリスは何も言わなかった。けれど、胸元の名の核が淡く光った。


 工房の外へ出ると、鉱山都市の朝はすでに騒がしかった。軌道車が走り、猫人たちが屋根を渡り、煙突から白い煙が上がる。ハルナはその喧騒の中で大きく伸びをし、背嚢の重さを確かめた。


「さて、古代坑道か、ヴェルナか、ダイダロスか、魔王退治か。順番は知らないけど、報酬だけは忘れないでよ」


 エノクは苦笑した。


「払える範囲で」


「それが一番信用ならない言葉なんだよね」


 アリアが横から言った。


「でも、うちの旅はだいたいそうよ」


「うわ、先行き不安」


 ハルナはそう言いながら、楽しそうに尻尾を揺らした。


 テイルがぼそりと言う。


「また騒がしいのが増えた」


「静かな旅がよかったの?」


 イリスが訊く。


「いや」


 若竜は少し考え、顔をしかめた。


「静かすぎる旅は、最近ろくでもなかった」


 誰も反論しなかった。死者の都も、血潮野も、静かすぎた。


 エノクは鉱山都市の上層に輝く朝の魔導灯を見上げた。ハルナの父が残した設計図。パンドラボックスに似た星導封印機構。ダイダロス式、未完。星の船の真実へ向かう鍵が、また一つ増えた。旅はヴェルナへ向かうだけではなくなった。阿修羅の失敗の次には、ダイダロスの失敗が待っている。その失敗を受け継ぐのは、油汚れの頬をした猫人の少女かもしれない。


 ハルナは先頭へ出ようとして、すぐに道を間違え、アリアに襟首を掴まれた。


「そっちじゃない」


「知ってた。確認しただけ」


「嘘ね」


「半分」


「うちにはもう半分嘘の人がいるから増やさないで」


 アイオンが胸に手を当てる。


「私の席が脅かされています」


「席を守りたければ家賃を払って」


 ハルナが即座に返し、テイルが吹き出した。イリスも笑い、アリスは少し遅れて小さく笑った。エノクも笑った。


 剣の傷、死者の名、英雄の罪。重いものばかりを背負った旅に、油と歯車と銅貨の音が加わった。世界を救うには、祈りも剣も名も必要だ。だが、壊れたものを実際に直す手もまた、必要なのだと、エノクはその朝初めて思った。


 一行は鉱山都市ガルドベルクの坂を下り、次の道へ進んだ。背後でミャウレン工房の傾いた看板が、朝風にからんと鳴った。まるで、閉じた工房が「部品代を忘れるな」と送り出しているようだった。

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