第6話_ダイダロスの工房
ガルドベルクの朝は、夜明けより早く始まる。山腹の煙突がまだ星明かりを吸っている頃から、鉱山の鐘が鳴り、軌道車の鉄輪が石路を噛み、猫人の屋根渡りが瓦を鳴らし、工房の炉に青い火が入る。ハルナはその音の中で、まるで魚が水に戻るように生き生きしていた。前夜まで徹夜で修理をしていたはずなのに、眠気を見せるどころか、工具帯を二重に締め、背嚢には父の設計図、折り畳み式の小型炉、替え歯車、霊脈鉱の針、油壺、非常食、そして「何かあった時に売れる部品」を詰め込んでいた。最後の荷を入れようとして、アリアに「それは銅管じゃなくて壊れた燭台よ」と指摘されると、ハルナは胸を張って「売る相手によっては銅管」と答えた。
「あなた、本当に全部持っていく気?」
アリアが呆れると、ハルナは尻尾で背嚢を支えながら言った。
「全部じゃない。工房に置いていくものの方が多い。発明家の旅支度はね、持っていく物を選ぶんじゃなくて、泣きながら置いていく物を決める作業なの」
「そのわりに楽しそうですが」
イリスが言うと、ハルナは片耳をぴんと立てた。
「泣きながら笑うの。部品代がない時と同じ」
「それは笑っていい場面なのですか」
「笑わないと請求書が増えた気がする」
テイルは早くも額を押さえていた。
「朝からうるさい」
「鉱山都市では静かな方だよ、竜族さん。うるさいっていうのは、三番昇降機が噛み合いを失って鉱車十二台が同時に落ちた時みたいなのを言うの」
「それ、事故じゃないの」
「大事故。だからうるさい」
アリスは工房の扉を見上げていた。傾いた看板、煤けた窓、閉じられた三つの錠前。昨日まで彼女には帰る場所がなかった。シオゥルの死者の都は彼女が作った国であり、同時に檻だった。ミャウレン工房はぼろく、油くさく、雨漏りがし、借金取りを避けるために入口が二つある。だが、ハルナはそこを「戻るために閉める」と言った。その言葉を、アリスはまだ胸のどこかで転がしているようだった。
「戻ってくるのね」
アリスが言うと、ハルナは工具箱を肩に掛けながら振り向いた。
「戻るよ。部品もあるし、借金もあるし、父さんの机もあるし。あと、あの屋根、雨が降ると水が三筋垂れるの。ほっとくと四筋になる。四筋は許せない」
「三筋はいいの?」
「ぎりぎり許せる」
アリスは少しだけ考えた後、小さく言った。
「帰る理由って、そういうものでもいいのね」
「大きい理由は高くつくからね。小さい理由をいっぱい持ってる方が丈夫」
ハルナは何気なく言ったのだろう。だが、その言葉にイリスが静かに微笑み、エノクも胸の奥が温かくなった。帰る理由。名前を覚えてくれる人、直さなければならない屋根、未払いの部品代、預けた兜、まだ聞いていない問い。それらは、旅人を世界へつなぎ止める小さな杭なのかもしれない。
古代坑道へ入るには、ガルドベルクの鉱山組合を通す必要があった。少なくとも表向きは。ハルナは、組合の許可証を買うほど金がないことを三度説明した上で、裏道へ案内した。屑鉄坂のさらに下、廃棄炉の裏を抜け、猫人しか通れないような細い梁を渡り、旧鉱山用の通気管を這っていく道である。テイルが最初に激しく抗議した。
「こんな管、竜族が通れるか!」
「角を横にして、肩を少し畳めばいける」
「肩は畳むものじゃねぇ!」
「じゃあ通行料を払って正面から行く?」
テイルは黙った。金銭という言葉は、ハルナの手にかかると非常に強い封印術になるらしい。結局、彼は低く唸りながら管を潜った。アリアは「竜族の誇りも銅貨には弱いのね」と言い、テイルは油だらけの肩で「聞こえてるぞ」と返した。イリスは裾を汚さないよう苦戦し、アリスは身体が小さいためすんなり通れたが、逆にハルナから「関節構造すごい」と見つめられて警戒した。アイオンは優雅に通ろうとして帽子を引っかけ、ティンカーベルに「詩より帽子の方が長い」と言われていた。
通気管を抜けると、そこは鉱山の古い背骨だった。大きな坑道ではない。今の鉱夫たちが使うものより古く、壁の支柱は石ではなく、黒ずんだ合金で組まれている。表面には星形の刻印と、歯車とも花ともつかぬ紋が繰り返し刻まれていた。魔導灯を掲げると、壁の奥に青白い線が走る。眠っていた機構が、わずかに目を開けたようだった。
ハルナが息を呑んだ。
「父さんの図面と同じ」
彼女は背嚢から真鍮筒を取り出し、設計図を広げた。坑道の壁に刻まれた紋と、図面の端の星導印がぴたりと一致する。ハルナの耳が震え、尻尾がゆっくり膨らんだ。興奮しているのに、声は出ない。ここに来るために、彼女は修理屋を続け、借金を払い、父の残した紙を守ってきたのだ。今、その紙の線が現実の壁と重なっている。
「本当にあった」
彼女は小さく言った。
「父さん、嘘じゃなかった」
イリスがそっと頷いた。
「よかったですね」
「まだよくない。見つけただけ。中に入って、壊れてるか動くか、使えるか危ないか、値段がつくか、全部見ないと」
「最後」
「癖」
アリアは坑道の奥を見た。空気は冷たいが、シオゥルの死者の都の冷えとは違う。ここには死の匂いよりも、止まった時間の匂いがある。歯車が千年動かず、炉が千年燃えず、記録が千年読まれないまま眠っていた匂い。エノクの胸元の鍵が、服の下で微かに熱を持ち始めた。
「鳴ってる」
ハルナがすぐに言った。
「鍵の音が変わった。ここ、反応してる。エノク、ちょっと出して」
「触らないなら」
「見るだけ。聞くだけ。舐めない」
「舐める選択肢があったの?」
「金属の味で分かることもある」
「駄目です」
エノクは鍵を取り出した。青白い坑道の線が、鍵へ向かって細く光る。鍵の表面に、これまで見えなかった微細な溝が浮かび上がった。歯車の歯ではない。文字でもない。星の軌道を何重にも縮めて刻んだような紋。ハルナは息を止めるように見つめ、アイオンは表情を消した。アリスの胸元の名の核も、かすかに白く震えた。
「これ、地上の機械じゃない」
ハルナが言った。
「星導機巧って、父さんの本には書いてあったけど……ほんとに星を測ってる。歯車で時間を測るんじゃなくて、星の位置で封印の順番を決める。違う。星の位置じゃない。星の外から来た何かの回転に合わせてる。気持ち悪い。きれいだけど、気持ち悪い」
テイルが眉をひそめる。
「機械が気持ち悪いとかあるのか」
「ある。音が合ってるのに、世界の拍子と合ってない機械。よく動くのに、動かしちゃいけない気がする機械」
アリスが小さく言った。
「魂があるのに、帰る場所がない器みたい」
その言葉に、全員が少し黙った。ハルナはアリスを見る。前なら、珍しい存在として観察しただろう。今は、少しだけ慎重に頷いた。
「たぶん、それに近い」
坑道の奥には、最初の扉があった。巨大な円形扉で、表面に七つの小さな窪みと、中央にひときわ大きな鍵穴がある。窪みには、それぞれ異なる紋が刻まれていた。剣、器、竜鱗、弦、歯車、閉じた瞳、そして翼ある名の印。エノクはそれらを見て、背筋に震えが走った。七英雄とアルティエルの印だ。だが、弦の紋だけが傷つき、浅く削れている。
アイオンの表情がわずかに変わった。誰も見ていなければ、すぐに笑みで覆い隠しただろう。だが、アリアは見ていた。イリスも見ていた。エノクも、今度は見逃さなかった。
「ここにも、弦の印」
アリスが呟いた。
アイオンは軽く肩をすくめた。
「古い職人は、装飾に凝るものです」
「装飾にしては、削れてるわね」
アリアの声は低い。
「千年も経てば、装飾も傷みます」
「その言い方、逃げてる」
アイオンは何も返さなかった。ハルナは場の空気を読むより扉に夢中で、中央の鍵穴へ顔を近づけていた。
「これ、エノクの鍵を入れる場所だと思う。でも、そのまま入れたら駄目」
「どうして」
「鍵穴が全部起きてない。七つの窪みが認証輪になってる。多分、本来は七つの力を読み取ってから中央を開く。でも今は一部の輪が死んでる。特にこれ」
ハルナは弦の紋を指した。アイオンが視線を逸らす。
「音が欠けてる。ここだけ、拍が足りない」
ティンカーベルが低く言った。
「一音欠けた扉か」
その言葉に、アイオンの指が竪琴の弦を強く押さえた。音は鳴らなかった。だが、その沈黙がかえって重かった。
「開けられる?」
エノクがハルナへ問う。
「正攻法なら無理。七つの認証が必要。迂回なら、できるかもしれない」
「迂回?」
「機械はね、作った人が必ず裏口を残すの。修理する時に自分が困るから」
ハルナは得意げに言い、設計図を広げた。
「父さんの図面に補助環ってあるでしょ。パンドラ系補助環。これ、たぶん本体を開けるためじゃなくて、整備時に封印を一時的に眠らせる部品。完全な開錠じゃない。扉に『ちょっと寝てて』って言うだけ」
「機械にそんな言い方が通じるの?」
テイルが言う。
「通じるように作るのが技術」
「お前の説明、分かる時と分からない時の差が激しいな」
「分かる方を増やして」
ハルナは工具箱から細い銀線、霊脈鉱の針、小さな歯車を取り出し、扉の縁へ取り付け始めた。彼女の動きは早い。だが、雑ではない。耳で扉の内側の音を聞き、尻尾で均衡を取り、指先で見えない拍子を数える。エノクたちは息を詰めて見守った。アリスは興味深そうに近づきすぎ、イリスに袖を引かれた。テイルは「爆発しないだろうな」と呟き、ハルナは「小さい爆発なら許容」と言って全員から同時に止められた。
やがて、扉の内側で深い音がした。眠っていた獣が寝返りを打つような音だった。七つの紋のうち、歯車の紋が青く光り、次に剣、器、竜鱗、閉じた瞳、翼ある名が淡く灯る。弦の紋だけは、傷の奥で弱くちらついた。完全には灯らない。
「今!」
ハルナが叫んだ。
エノクは鍵を中央へ差し込んだ。鍵は吸い込まれるように穴へ入り、手の中で熱く震える。扉全体に星図が浮かび上がった。地上の星座ではない。見たことのない黒い星々の配置。中央には、黒い円がある。円の中心から細い線が伸び、箱のような図形へ繋がっている。
扉が開いた。
その先は、工房ではなかった。少なくとも、エノクが想像していた工房ではない。山の内側をくり抜いた巨大な空洞に、金属の塔と歩廊と吊り橋と、いくつもの円形機構が浮かんでいた。天井には星のような魔導灯が無数に吊られ、床の下には青白い霊脈光が流れている。空洞の中央には、巨大な球体機械があった。外殻は半ば失われ、内部の歯車と星導管が露出している。その周囲を、いくつもの環がゆっくり回転していた。環には七つの紋と、さらに細かい文字が刻まれている。空中には浮遊する記録板が何枚も漂い、近づく者の気配で淡く光った。
ハルナは完全に言葉を失っていた。
猫耳が震え、尻尾がまっすぐ立ち、口が開いたまま閉じない。しばらくして、彼女はかすれた声で言った。
「……値段がつけられない」
「そこ?」
アリアが呆れたように言う。
「値段がつけられないものは、怖いんだよ」
ハルナは真剣だった。
エノクは工房の奥へ目を向けた。そこには、巨大な机があった。いや、机というより、星図を刻んだ石の台である。上には巻物ではなく、薄い金属板が何百枚も並び、細い針が自動で動いて文字を刻んでいるものもあった。壁には設計図が浮かぶ。箱。環。炉。鍵。七つの力の入力点。名を受ける回路。魂魄を閉じる層。肉体拘束陣。何もかもが複雑で、エノクには半分も分からない。だが、パンドラボックスという文字だけは、何度も見えた。
イリスが息を呑む。
「これが、魔王を封じた箱の記録……」
「箱だけじゃない」
ハルナが歩き出した。声が震えている。
「補助環、星導炉、黒星核観測器、名の受け皿、魂魄回収層……待って。黒星核?」
彼女は浮遊する記録板の一枚へ手を伸ばしかけ、寸前で止めた。
「触っていい?」
誰に訊いたのか分からない。だが、工房全体が低く鳴り、記録板が彼女の手元へ滑ってきた。まるでハルナを待っていたかのように。彼女は息を吸い、指先で縁に触れた。記録板が光り、文字と図が空中に展開する。
黒い球体の図。周囲に歪んだ星の環。注記には、「黒星核」とある。
その下に、さらに細い文字。
外宇宙由来魔導炉。調和律ではなく反響律を用いる。世界のライラに接続不能。無理接続時、存在輪郭の腐食を確認。
エノクには意味が分からなかった。だが、イリスの顔が青くなる。アリスも胸元を押さえた。テイルは低く唸る。
「気持ち悪い音だ」
「見えるの?」
エノクが問う。
「音だ。あの黒い丸、絵なのに鳴ってる。龍神湖の霊脈と反対の音がする」
ハルナは記録にかじりつくように見ていた。
「世界のライラに接続不能……無理接続時、存在輪郭の腐食……黒い炎って、これ? カオスの黒い炎は、黒星核の反響で世界の形を削ってる?」
アイオンが静かに言った。
「ずいぶん早く危険なところへ届きますね」
「危険なところほど、部品が面白いから」
ハルナは即答し、それから自分で顔をしかめた。
「今の駄目な言い方だった。面白いじゃ済まない。これ、使っちゃいけない炉だ」
その時、工房の奥で何かが落ちる音がした。
小さな金属音。続いて、老人の咳。
「使っちゃいけない炉を、使わずに済むなら、誰も工房など作らんよ」
全員が振り向いた。
奥の歩廊の上に、老人が立っていた。いや、立っているというより、身体を支える機械椅子に半ば乗っている。羊人だった。頭には巻いた角があり、白く縮れた髪と髭が顔の半分を覆っている。背は曲がり、身体は痩せ、片目には歯車仕掛けの拡大鏡がかかっていた。指は震えているが、その指先には細かな油汚れが染みついている。衣は古びた作業衣で、胸には七英雄の紋ではなく、擦り切れた工具差しがぶら下がっていた。彼の周囲には小さな修理機械が二つ三つ浮かび、椅子の車輪を支えている。
老いた羊人は、こちらを順に見た。エノク、アリア、イリス、テイル、アリス、ハルナ、アイオン、そしてティンカーベル。最後に、エノクの手にある鍵へ視線を落とした。拡大鏡の奥の瞳が、急に鋭くなる。
「アベルか」
その一言に、工房の空気が止まった。
エノクは首を振った。
「僕は、エノクです。エノク・ランバード」
老人はしばらく彼を見つめた。やがて、眉を寄せ、遠い記憶を手繰るように呟いた。
「エノク……ああ。そうか。そうか、アベルは死んだ。知っておった。知っておったはずだ。なのに、鍵の音はまだあの若造に似ておる」
ティンカーベルが低く言った。
「ダイダロス」
老人の目が剣へ向いた。
「喋る剣。シモンの悪癖の一つ。まだ口が悪いか」
「そちらはまだ耳が遠いか」
「都合の悪い音だけ聞こえぬようにしておる」
老人はにやりと笑った。だが、その笑みはすぐに咳へ変わる。機械椅子が彼の背を支え、小さな蒸気を吐いた。
ハルナは固まっていた。目の前にいるのが、父が追い続けた名そのものだと分かっている。七英雄ダイダロス。機械使い。パンドラボックスの造り手。星導機巧の天才。彼女の耳は震え、尻尾は完全に立っている。口が何度も開いたが、言葉が出ない。
ダイダロスは彼女を見た。
「猫人の娘。工具の握り方が悪い」
ハルナの口が、ようやく動いた。
「第一声がそれ?」
「親指に力を入れすぎだ。長時間作業で腱を痛める。あと、腰の三番レンチは安物だな。軸が歪んでおる」
「分かるの?」
「見れば分かる」
「触ってないのに」
「目が悪い分、嫌なところがよく見える」
ハルナの顔が一気に輝いた。
「本物だ」
「失礼な。偽物ならもっと若く作る」
アイオンが静かに頭を下げた。
「お久しぶりです、と申し上げるべきでしょうか」
ダイダロスの目が、アイオンへ向いた。ほんの一瞬、工房の歯車の音が止まったように感じられた。
「……誰だ、お前は」
アイオンは微笑んだ。
「しがない吟遊詩人です」
ダイダロスはじっと彼を見た。拡大鏡の歯車が一つ回る。
「音が一つ足りん」
アイオンの笑みが、ほんの少しだけ凍った。
「歳を取ると、耳が鋭くなるのですね」
「耳ではない。設計の穴は、千年経っても見える」
ダイダロスはそれ以上言わなかった。だが、エノクはその言葉を聞き逃さなかった。音が一つ足りない。弦の紋。開かなかった扉。アイオンの偽名。すべてが同じ方向を向きかけている。
イリスが一歩前へ出た。
「あなたが、パンドラボックスを作ったのですか」
ダイダロスは彼女を見る。聖印、記録帳、疲れの残る目。死者の名を呼び続けてきた少女の姿を。
「作った」
老人は短く答えた。
「世界を救うために?」
「そう思っておった」
「今は?」
ダイダロスは笑った。自分を嘲るような笑いだった。
「世界は、箱だけでは救えん。そんなことも計算に入れられなかった。天才というのは、愚かさの言い換えでな。自分の分かるものだけで世界を測りたがる」
ハルナが思わず言った。
「でも、これだけの工房を作って、星導機巧を組んで、パンドラボックスを作ったんでしょ? それは、すごい。すごいなんて言葉じゃ足りない。父さんが一生追ってたものが、ここにある」
「父の名は」
ダイダロスが問う。
「ミャウレン。トルク・ミャウレン。猫人の機械師。あなたの工房を探して、古代坑道へ入って、帰ってこなかった」
ハルナの声は震えていた。
ダイダロスは目を閉じた。長い沈黙があった。
「トルク。ああ……来た。来たな。若い猫人。耳がよく、手が早く、金の話ばかりして、しかし壊れた記録板を無料で直した。『部品代だけでも払ってください』と怒っておった」
ハルナの顔がくしゃりと歪んだ。
「父さんだ」
「死んだとは限らぬ」
ダイダロスは言った。
ハルナの耳が跳ねる。
「え?」
「この工房は、縦にも横にも深すぎる。迷った者は、死ぬ前に迷子になる。トルクは、下層の観測室へ行った。黒星核の記録を見たいと言ってな。戻らなかった。死んだか、閉じ込められたか、記録の中へ落ちたか。私は探しに行けなかった」
「どうして!」
ハルナの声が跳ね上がった。
「どうして探さなかったの。あなたの工房でしょ。あなたなら」
「私なら、何でもできると思うか」
ダイダロスの声は静かだった。静かすぎて、ハルナの怒りが一瞬止まった。
「昔の私も、そう思っておった」
老人は機械椅子の肘掛けに手を置いた。震える指が、古い傷のある金属を撫でる。
「できると思った。星の船を解析できる。黒星核の反響を逆算できる。カオスの肉体も魂魄も名も、箱へ閉じられる。七つの力を正しく並べ、アルティエルの聖性を通し、アベルの血を鍵にし、言葉の真言で名を縛れば、世界は救える。計算は合っていた。装置も動いた。だが、世界は計算書ではなかった」
工房の奥の球体機械が、ゆっくり回った。まるで老人の言葉に反応するように。
「私は、欠落を計算に入れなかった」
ダイダロスの声は低くなった。
「恐れ、沈黙、逃避、迷い、愛、犠牲。そういうものを、誤差として扱った。誤差が、世界を割った」
エノクは胸元の鍵を握りしめた。
「カオスは、なぜ戻ってきたのですか」
ダイダロスは彼を見た。
「肉体はまだ箱にある。少なくとも、完全には戻っておらん。戻ってきているのは、別のものだ。星の外を漂い、黒星核を抱え、名を欲しがるもの」
「魂魄と名」
イリスが小さく言った。
ダイダロスの目が彼女へ移る。
「よくそこへ届いたな、神官の娘」
「死者の名を奪うものを見てきました。黒い炎で名を失う人たちも。不死皇帝の玉座へ流される名も。だから、カオスも名と関係しているのではと」
「正しい。痛いほど正しい」
老人は目を伏せた。
「だが、詳しい話は記録室でせねばならん。ここで口だけで語れば、また誰かが美しい伝承に整える。私はもう、美しい言葉で失敗を包む気はない」
ハルナは唇を噛んでいた。父がここに来た。ダイダロスに会った。黒星核の記録を見ようとし、戻らなかった。その事実が、彼女の胸を揺さぶっている。
「下層の観測室に行けば、父さんの手がかりがあるの」
「あるかもしれん」
「かもしれん、で危険な場所へ行けって?」
「行くかどうかは、お前が決める」
ダイダロスは真っ直ぐにハルナを見た。
「機械師なら、自分の手で決めろ。部品のせいにするな。金のせいにするな。父の夢のせいにするな。私の名のせいにするな」
ハルナは一瞬、怒った顔をした。だが、その怒りはすぐに悔しさへ変わった。彼女は工具帯の三番レンチに触れ、それが安物だと言われたことを思い出したのか、乱暴に手を離した。
「行く」
声は小さかったが、はっきりしていた。
「父さんを探す。黒星核も見る。あなたの失敗も見る。見ないで帰ったら、工房に戻っても歯車の音が気持ち悪くなる」
ダイダロスは少しだけ笑った。
「よい耳だ」
「褒めても工賃は安くならない」
「そこは師に似る必要はないな」
「師じゃない」
「まだな」
ハルナは言葉に詰まった。耳が赤くなる。テイルが小さく笑い、彼女に睨まれた。
アリアが静かに言った。
「下層観測室へ行くなら、危険は何?」
ダイダロスの顔から笑みが消えた。
「工房の防衛機構。星導炉の漏れ。黒星核の残響。記録に宿った帰還者の影。あと、私の作った失敗作がいくつか徘徊しておる」
「さらっと多い」
テイルが言った。
「老人の工房は危険が多いものだ」
「多すぎる」
「若者の旅も大概だろう」
ティンカーベルが低く笑った。
「言われているぞ、エノク」
「僕のせいですか」
「だいたい中心にいる」
「否定できない……」
ダイダロスは機械椅子を動かし、奥の歩廊へ向かった。椅子の車輪は古びているが、音は驚くほど滑らかだった。ハルナが思わず足元を覗き込み、「軸受け、何使ってるの」と呟いた。ダイダロスは振り返らずに答えた。
「羊角粉と霊脈鉱の混合焼結。真似るなら三度は爆発する」
「二度で済ませる」
「よい心がけだ」
「よくありません」
イリスが即座に言った。
一行は工房の奥へ進んだ。歩廊の下では、星導環がゆっくり回り続けている。記録板には、パンドラボックスの設計断片が次々と浮かび上がった。肉体拘束層。魂魄回収層。名封じ真言槽。黒星核遮断壁。アルティエル聖名受信環。アベル血統鍵。七英雄入力点。どれも重く、どれも未完の傷を抱えている。エノクは、その全てが自分の胸元の鍵へ繋がっていると感じた。
ハルナは歩きながら、父の設計図を握りしめていた。さっきまでの金の話は消えている。機械に目がない少女ではある。だが今の彼女は、機械を見ているだけではない。父の消えた道、ダイダロスの失敗、世界を救えなかった装置、その全てを見ようとしている。
ダイダロスは、巨大な黒い扉の前で止まった。扉の表面には、星のない黒い円が刻まれている。黒星核の印。近づくだけで、エノクの胸がざわついた。イリスの聖印が震え、テイルが低く唸り、アリスは胸元の名の核を両手で押さえた。アイオンだけが、沈黙していた。その沈黙には、逃げ道を探す者の匂いがあった。
ダイダロスは扉を見上げた。
「この先に、記録がある。パンドラボックスが何で、何を封じ損ねたのか。その一部がな」
「一部?」
エノクが問う。
「一度に全部知ると、人は都合よく忘れる。だから断片から読むのだ」
老人は振り返った。拡大鏡の奥の目は、ぼけた老人のものではなかった。千年前、星の船を前に機械を組み上げた天才の目。そして、その機械で世界を完全には救えなかった失敗者の目だった。
「ようこそ、私の工房へ」
ダイダロスは言った。
「ここは、世界を救うために作られた場所であり、世界を救い損ねた場所だ。若い機械師よ、若い王の血よ、そして古い罪を連れた旅人たちよ。ここで美しい英雄譚は終わる。残るのは、設計図と、欠落と、支払われなかった代金だけだ」
ハルナが小さく言った。
「代金は、誰が払うの」
ダイダロスは少しだけ笑った。
「これから決める」
黒い扉が、ゆっくりと開き始めた。




