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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第6部 アルティエルの名
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第10話_パンドラボックス再封印

 カオスの肉体を押し戻した後、星の船の奥には、深い裂け目が残っていた。パンドラボックスの外殻は閉じた。黒い肉体は再び箱の中へ押し込まれ、封印文字も白く燃えている。けれど、それはまだ終わりではない。むしろ、肉体の解放を止めたことで、残された二つ――魂魄と名が、いっそう激しく暴れ始めていた。肉体を失った滅びは、魂魄を黒星核へ逃がそうとし、名を空白の中へ隠そうとする。星の船の壁から黒い風が吹き、棺の名札が震え、黒星核停止帰路環は悲鳴のような高音を上げ続けていた。大地と空は閉ざされている。復讐の縁も断たれている。仮の名も剥がされた。自らを王とも神とも救済とも名とも呼べなくなったカオスは、終われなかった滅びとして、最後の抵抗を始めたのだ。


 通路はもう、通路ではなかった。パンドラボックスの封印区画、魂魄槽、名層の王座、黒星核の外周、帰還者の棺、地上の霊脈、星外航路。それらが一つの場所に重なっている。足元には黒い金属の床があり、同時に白麦原の黒い畑が見え、龍神湖の底が揺れ、ヴェルナの祭壇が軋み、ランバード城の地下聖堂が薄く光っている。頭上には星外の闇が閉じられたまま広がり、そこへ逃げようとする黒い魂魄の流れが何度も銀白の格子にぶつかって砕けた。周囲の棺からは帰還者たちの声が漏れる。帰る。終わる。寒い。暗い。名を。誰か。誰か。呼んで。


 イリスは白銀の守護を纏い、帳面を胸に抱えて立っていた。光の鎧は薄く揺れ、肩や背に浮かぶ空白頁のような板が、黒い風を一拍ずつ受け止めている。彼女の顔は蒼白だった。名を呼ぶたびに力が削られる。それでも、帳面を閉じない。


 アリスは彼女の隣で、白い境界糸を床へ、棺へ、魂魄槽へ伸ばしている。器と魂が混ざらないように。帰還者たちが、カオスの魂魄と一つにされないように。小さな体は震えているが、胸元の名の核は確かに光っている。


 ハルナは黒星核停止帰路環の前に座り込み、工具を何本も歯でくわえながら両手を動かしていた。帰路環は今にも壊れそうだった。黒星核の不協和を逃がし、帰る道を残すための輪は、限界に近い。だが、彼女は止めない。


「あと少し、あと少し保って。今壊れたら、あたし一生、いや死んでも怒るからね」


 テイルは竜剣を床に突き立て、大地の裂け目を押さえ続けている。彼の腕には竜鱗の光が浮かび、胸元の黒く焼けた竜王の鱗が青く燃えていた。もう膝は何度も崩れかけている。それでも、倒れれば地上の霊脈が再び裂ける。彼は歯を食いしばり、竜気を流し続けた。


 イーサーは焦げた翼を広げ、星図板を掲げていた。星外航路は閉じたまま揺らぎ、カオスの魂魄が何度もそこへ穴を開けようとしている。羽はさらに焼け、銀白の光が剥がれ落ちる。だが、彼は空を読み続ける。逃走路だけを閉じ、帰還路だけを残すために。


 アリアは双剣を抜き、星の船とカオスの残った呪いの縁を見張っていた。ヤクシャの赤黒い霧は消えたが、カオスはまだ無数の縁を作ろうとしている。恐怖、後悔、復讐、救済、崇拝、死の美しさ。人の心に触れるものすべてを縁に変えようとする。アリアはそれらを一つずつ見極め、必要なものだけを斬る。


 アリオンは竪琴を抱えて立っていた。裏真言で仮の名を剥がした喉は傷つき、声を出すたびに血のような光が滲む。それでも、彼はアリオンとしてそこにいる。アイオンの逃げ道ではなく、真名の震えでカオスの名を見張っている。


 そして、エノクは中央に立っていた。左手には王家の鍵。右手には聖剣アーク・リヴァイヴ。腰にはティンカーベル。死で封印を完成させる道を拒み、生きたまま肉体封印の命令を更新した少年は、まだ息を荒げている。腕は痛み、鍵は熱く、聖剣は重い。けれど、足は前を向いていた。


 黒い風が、八人の周囲を渦巻いた。


 終われぬ。


 終わらぬ。


 我は滅び。


 滅びは、名を変えて戻る。


 肉を閉じても、魂は逃れる。


 魂を縛っても、名は残る。


 名を剥がしても、恐怖は残る。


 恐怖こそ、我が次の名。


 イリスの帳面が強く震えた。カオスは、自らが王でも神でも救済でも名でもないと剥がされた後、最後に恐怖を名にしようとしていた。恐怖の名として世界へ残れば、封印されても終わらない。語られるたびに、恐れられるたびに、黒い風は戻ってくる。後の世で人々がカオスの名を口にするたび、恐怖が新たな器となる。それでは終わらない。千年後、さらにその先で、また別の誰かが同じ傷を背負うことになる。


 アリオンが顔を上げた。


「恐怖の名にさせてはいけません」


 声は掠れていた。


「カオスを恐怖として残せば、名層のどこかで再び発芽します。完全な消滅は、おそらく不可能です。終われなかった滅びを、なかったことにはできない」


 イーサーが星図を見ながら頷く。


「記録から消すことも危険です。消せば、空白として戻る」


 イリスが帳面を握りしめる。


「なら、記録します。恐怖の名ではなく、終わった神話として」


 エノクは彼女を見る。


「終わった神話」


「はい」


 イリスの声は震えていた。だが、白銀の守護は揺らがない。


「なかったことにしません。恐怖だけの名にもさせません。カオスは、王ではなく、神ではなく、救済ではなく、名ではない。終われなかった滅びであり、今ここで終わらせる神話。そう記録します」


 アリオンが静かに目を閉じた。


「名を封じるだけではなく、意味を定める。恐怖の名ではなく、終わった神話として」


「できますか」


 エノクが問う。


 アリオンは苦く笑った。


「一人ではできません。千年前も、一人ではできなかった。今回は、八人で」


 ハルナが工具を握り直す。


「八人って、あたしも入ってるよね」


「入っています」


「なら、やる。けど、手順をはっきりして。こういう大がかりな封印は、曖昧な掛け声でやると爆ぜる」


 ティンカーベルが鳴る。


「爆ぜる話が多いな、この船は」


「だいたい爆ぜる構造してるから!」


 エノクは息を吸った。


「手順を決めましょう」


 その言葉に、全員の視線が集まった。弱い少年だった。剣も魔法も政治も未熟で、何者でもなかった少年。だが今、彼は鍵を持ち、聖剣を持ち、仲間たちの力を一つの場所へ結ぶために立っていた。王冠はない。玉座もない。けれど、多くの名に生かされた者として、彼は声を出した。


「肉体は、僕が鍵と聖剣で箱へ留めます」


 ハルナが頷く。


「その間、黒星核の不協和はあたしが止める。完全停止じゃなく、吸収経路を帰路へ逃がす。カオスの餌にさせない」


「魂魄は」


 イリスが言い、アリスが続けた。


「わたしが、魂と器を混ぜない」


「私が、奪われた魂の名を呼び戻します。全員の真名は分からなくても、カオスのものではないと呼びます」


 アリオンが竪琴を構える。


「私は、名を剥がし、最後の記録へ結びます。恐怖の名を否定し、終わった神話として閉じる」


 アリアが双剣を肩に担ぐ。


「あたしは、呪いの縁を斬る。復讐、恐怖、救済、崇拝。カオスがまた何かを縁にしようとしたら、そこだけ切る」


 テイルが竜剣を握る。


「俺は、大地を支える。霊脈へ逆流させねぇ。大陸の傷を、これ以上広げさせねぇ」


 イーサーが星図板を高く掲げる。


「私は、星外への逃走路を閉ざし続けます。帰還路は残し、逃走路だけを封鎖する」


 エノクは全員を見た。


「八人で、同時に」


 黒い風が笑った。


 同時など、不可能。


 名は遅れる。


 魂は漏れる。


 肉は暴れる。


 大地は裂ける。


 空は開く。


 お前たちは、また欠ける。


 その声に、アリオンの指がわずかに震えた。けれど、今度は誰も沈黙しなかった。


「欠けたら呼びます」


 イリスが言う。


「ずれたら直す」


 ハルナが言う。


「混ざったら分ける」


 アリスが言う。


「裂けたら押さえる」


 テイルが言う。


「逃げたら閉じる」


 イーサーが言う。


「縁ができたら斬る」


 アリアが言う。


「名が偽れば剥がす」


 アリオンが言う。


「死にたくなったら叱る」


 ティンカーベルが言う。


 エノクは小さく笑った。


「お願いします」


 黒星核が激しく脈打った。パンドラボックスの封印外殻が揺れ、肉体の内側から巨大な爪が突き出ようとする。エノクは鍵を掲げ、聖剣を外殻へ突き立てた。斬るのではない。鍵穴を開く。生きたまま命令を届けるための道を、再び開く。


「エノク・ランバードの名において命じます。肉体よ、箱へ戻れ。暴れるな。逃げるな。魂魄と名を待ち、同時の終わりを受けよ」


 聖剣が白銀に燃え、鍵が応える。パンドラボックスの肉体封印が一段深く閉じる。だが、同時に黒い魂魄が肉体から剥がれ、黒星核へ逃げようとする。


 アリスが白い境界糸を広げた。


「魂と器、混ざらない」


 彼女の糸が魂魄と肉体の間へ入り込む。カオスの肉体は魂を引き戻そうとし、魂魄は黒星核へ逃げようとする。アリスの糸は、その二つの境を一拍だけ固定する。そこへイリスの白銀の守護が重なった。


「奪われた魂たち、あなたたちはカオスの魂ではありません!」


 イリスが叫ぶ。


「名を失っても、寒いと訴えた人。帰りたいと願った人。混ざりたくなかった人。眠りたかった人。あなたたちは、カオスの部品ではありません。聞こえる名から呼びます。聞こえない名は、空白として守ります」


 帳面の頁が広がる。白銀の鎧の背に浮かぶ空白頁が、棺の名札とつながる。帰還者の魂魄がカオスへ吸い戻されるのを、一つずつ否定していく。完全な名は戻らない。だが、カオスのものではないと宣言される。それだけで、魂魄の流れは大きく乱れた。


 黒星核がその乱れを餌にしようとした。


 ハルナが叫ぶ。


「させるか!」


 彼女は黒星核停止帰路環へ最後の霊脈鉱を差し込んだ。父の図面にあった未完の線、ダイダロスの補助環、イーサーの星図理論、イリスの帳面の空白、アリスの境界糸。すべてをつなげた輪が、激しく青白く光る。


「不協和は、餌じゃない。帰る道の印!」


 帰路環が回った。黒星核へ流れ込もうとした魂魄の乱れが、吸収経路から外れ、細い帰路へ逃がされる。カオスは怒り、黒星核から星外へ穴を開こうとする。


 イーサーが翼を広げた。


「星外逃走路、閉鎖」


 焦げた羽から銀白の星図が広がる。逃走路だけを閉じ、帰還路だけを残す精密な星図。ヨシュアが沈黙の中で見ていた空を、イーサーは今、声にして読む。


「カオスの名に属する航路を閉じる。帰還者の欠けた名へ属する帰路を残す。混同を許さない」


 星外の穴が銀白の格子で塞がる。カオスの魂魄は空へ逃げられない。すると、今度は地上の霊脈へ逆流しようとした。魔大陸の傷をさらに裂き、そこへ魂魄の一部を落とそうとする。


 テイルが竜剣を床へ叩きつけた。


「大地へ逃げるな!」


 竜王ザッハの血が青く燃える。龍神湖、白麦原、ヴェルナ、ランバード、血潮野、剣塚、シオゥル。傷ついた大地の霊脈へ、テイルの竜気が広がる。裂け目を癒すことはできない。だが、これ以上裂けることは許さない。強い者が場を支える。その教えを、若い竜の血が受け継いでいた。


 カオスは恐怖へ手を伸ばした。帰還者の恐怖、地上の民の恐怖、仲間たちの内側の恐怖。死ぬ恐怖、残される恐怖、罪を背負う恐怖、名を失う恐怖。それらを縁にしようとする。赤黒い線が無数に伸びた。


 アリアが双剣を構えた。


「それは、あんたの縁じゃない」


 彼女の剣が走る。復讐の縁、恐怖の縁、死の美しさへ引き込む縁、救済を騙る縁。それらを一つずつ断つ。怒りは残る。恐怖も残る。けれど、それらをカオスへつなぐ鎖だけを斬る。阿修羅から継いだ境界の剣が、赤黒い線を白く断っていく。


 カオスが、最後に名へ逃げた。


 恐怖の名。終わらぬ滅びの名。語られるたびに戻る名。未来の子どもたちが震え、神官が封じ、王が利用し、魔物が崇める名として残ろうとする。カオスは自らを、終わらない恐怖へ変えようとした。


 アリオンが竪琴を鳴らした。


「させません」


 その声は弱く、しかし真名の響きがあった。


「真名アリオン。言葉と真言のライラを継ぐ者。仮の名を剥がし、恐怖の名を閉じる」


 彼はイリスを見た。


「記録を」


 イリスは頷いた。


「はい」


 エノクが聖剣を掲げる。鍵が白く燃える。八人の力が、今、一つの輪になった。肉体を閉じる鍵と聖剣。名を剥がす真言。奪われた魂を呼ぶ帳面と白銀の守護。呪いの縁を断つ双剣。大地を支える竜気。魂と器の境界糸。黒星核を止める帰路環。星外への逃走路を閉じる星図。


 アリオンが言う。


「カオス。お前は王ではない」


 イリスが書く。


 王ではない。


「お前は神ではない」


 神ではない。


「お前は救済ではない」


 救済ではない。


「お前は名ではない」


 名ではない。


 そして、エノクが言った。


「お前は、終わる」


 その言葉に、全員の力が重なった。


 アリオンが続ける。


「お前は、終われなかった滅び。だが今、終わった神話として記録される」


 イリスは帳面に書いた。


 カオス。異なる創世の残骸。黒星核を通じ、不協和を糧とし、肉体、魂魄、名を分けて逃れようとしたもの。王ではない。神ではない。救済ではない。名なき者の名ではない。恐怖の名として残ることを許さず。今ここに、終わった神話として記録する。


 帳面の文字が白銀に輝いた。


 カオスが叫んだ。


 叫びは言葉ではなかった。星が崩れる音、海が乾く音、名が焼ける音、棺が閉じる音、無数の滅びが終われず重なった音。それが一斉に噴き上がり、星の船全体が砕けそうに揺れた。


 エノクは鍵を握りしめた。


「今です!」


 ハルナが叫ぶ。


「帰路環、最大! 黒星核、吸収停止!」


 黒星核停止帰路環が限界まで回り、黒い核の鼓動が途切れた。不協和を吸えない黒星核は、ただの傷ついた炉となる。


「大地、保持!」


 テイルが吠える。地上の霊脈が踏ん張り、カオスの魂魄を受け入れない。


「星外航路、閉鎖!」


 イーサーが翼を広げる。空の逃げ道は閉じ、帰還路だけが残る。


「境界、保持!」


 アリスが叫ぶ。魂と器が混ざらず、カオスの魂魄だけが封印へ向かう。


「呪いの縁、断つ!」


 アリアが双剣を振るう。恐怖も復讐も救済の偽名も、カオスへ戻る縁を失う。


「名を剥がします!」


 アリオンの竪琴が鳴る。カオスの恐怖の名が剥がれ、終わった神話という記録へ落ちる。


「名を呼びます!」


 イリスの帳面が開く。帰還者の魂魄がカオスに混ざらないよう、聞こえる名、聞こえない空白、すべてを守る。


 エノクは聖剣をパンドラボックスへ向けた。


「肉体、魂魄、名。同時に閉じます」


 王家の鍵が、最後の光を放った。


 パンドラボックスが開いた。開いたのに、閉じている。蓋が開くのではなく、内部の三つの層――肉体の棺、魂魄の眠り、名の封じが同時に露わになり、同時に閉じていく。千年前には揃わなかった三つが、今、八人の力で重なった。肉体は聖剣と鍵に押さえられ、魂魄はイリスとアリスに分けられ、名はアリオンと帳面の記録により恐怖ではない形へ落とされる。大地と空は逃走を許さず、黒星核は力を吸えず、呪いの縁はアリアに断たれた。


 カオスの肉体が箱の奥へ沈む。


 魂魄が黒い炎ではなく、重い眠りへ落ちる。


 名が恐怖として世界へ散る前に、イリスの帳面とアリオンの真言を通じて、終わった神話として封じられる。


 その瞬間、星の船の中で、無数の棺の名札が白く光った。


 帰還者たちの声が変わる。帰る、という命令ではない。終わる、という絶望でもない。眠る、という小さな声。名を、という願い。ありがとうではない。救われたわけでもない。けれど、カオスの命令から一拍だけ離れた声だった。


 水晶の羽の帰還者の棺から、かすかな声がした。


 さむく、ない。


 イリスは泣きそうになりながら、その一行を書き足した。


 パンドラボックスが閉じた。


 黒い光が消える。


 黒星核の鼓動が、止まった。


 星の船全体が沈黙した。


 完全な静寂ではない。遠くで崩れる音がする。黒い管が力を失い、白い骨の柱が軋み、棺の列は眠りへ戻っていく。黒星核停止帰路環は砕け、ハルナが慌てて受け止めた。イーサーの星図は光を失い、テイルの竜剣は床から抜け、アリアの双剣には細い白い傷が残り、アリスの境界糸はふっと消えた。イリスの白銀の守護も薄くなり、帳面だけが淡く光り続けている。アリオンは竪琴を抱えたまま膝をつき、エノクは聖剣を支えにしてようやく立っていた。


 誰もすぐには声を出さなかった。


 終わったのか、と訊くのが怖かった。終わったと口にした瞬間、またどこかで黒い声が返るのではないかと、全員が思っていた。


 やがて、ティンカーベルが小さく鳴った。


「未熟者」


 エノクは息を吐く。


「はい」


「生きているか」


「はい」


「なら、まずはそれでよい」


 その言葉で、誰かの張り詰めていた息が切れた。ハルナがその場に座り込み、テイルが竜剣に寄りかかり、アリアが壁に手をつき、アリスがイリスの袖を掴み、イーサーが焦げた翼を畳み、アリオンが静かに目を閉じた。イリスは帳面を抱きしめ、エノクは閉じたパンドラボックスを見つめた。


 カオスは消えたのではない。


 終われなかった滅びは、終わった神話として記録された。恐怖の名ではなく、戻ってくる王でもなく、救済を騙る神でもなく。世界に残るのは、傷と記録と、そこから続く生者の歩みだ。魔大陸の傷は消えない。帰還者のすべてが救われたわけでもない。名の空白は多く残る。けれど、カオスはもう、その空白を自分の王座にはできない。


 イリスが帳面を開いた。


 最後の頁ではない。まだ多くの頁が残っている。彼女はそこに書いた。


 パンドラボックス再封印。八人の力により、肉体、魂魄、名を同時に処理。カオスを恐怖の名として残さず、終わった神話として記録。帰還者の名、調査継続。地上の傷、継続記録。


 エノクがそれを見て、静かに言った。


「終わっても、続くんですね」


 イリスは頷いた。


「はい。記録は続きます」


 アリアが疲れた声で笑う。


「戦いは終わったのに、仕事が増えた気がするわ」


 ハルナが砕けた帰路環を抱えたまま言う。


「修理仕事も増えた。請求先は世界、後世、あとたぶん王家」


 エノクが少し困った顔をする。


「王家は、今ほとんどありません」


「じゃあ復興後に分割払い」


 テイルが呆れる。


「お前、本当にそこはぶれねぇな」


「価値を守るの。無料で世界救ったら、次も無料だと思われる」


 アリスが真面目に頷く。


「大事」


 イーサーが静かに言った。


「地上への帰路は、まだ残っています。黒星核が止まったことで、星の船の構造は崩れ始めています。長くは留まれません」


 アリオンが顔を上げる。


「帰りましょう」


 その言葉を、彼が言った。


 かつて帰ることから逃げ続けた者が、今は帰ろうと言った。エノクは頷く。


「はい。帰りましょう」


 パンドラボックスの前に、白い道が開いた。ハルナの帰路環が砕けても、その最後の仕事として残した道。イーサーの星図が支え、イリスの帳面が地上の名へ結び、アリスの境界が魂を混ぜず、テイルの竜気が大地へつなぎ、アリアが黒い縁を斬り、アリオンの真言が方向を与え、エノクの鍵が道を開いている。


 八人は、その道へ向かった。


 背後で、星の船の奥に封じられたパンドラボックスが静かに沈んでいく。恐怖の王座ではなく、終わった神話の棺として。そこに眠るものが再び名を得ることがないよう、白銀の帳面に記された言葉が淡く光っていた。


 カオスは、終わった。


 だが、世界は続く。


 傷を抱えた大陸へ、名の空白が残る地上へ、生きて帰るために、一行は光の道を歩き出した。

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