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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第6部 アルティエルの名
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第9話_エノクの鍵

 白銀の守護が開いた道の先で、星の船は心臓の音を失った。黒星核の鼓動が消えたのではない。むしろ、奥へ進むほどそれは深く、重く、骨の内側から鳴るように響いている。だが、そこにはもはや機械の拍子も、棺の軋みも、帰還者たちの声もなかった。あるのは、封じられた肉体が夢の中で身じろぎする音だった。大きすぎるものが、長い眠りから目覚めようとしている。肉と星と骨を持ち、名を奪われた者たちの怨嗟を纏い、王でも神でも救済でも名でもないと剥がされてもなお、終われなかった滅びとして残るもの。その肉体が、パンドラボックスの奥で動き始めていた。


 通路の壁は、もう壁ではなかった。黒い金属と白い骨の層が剥がれ、その奥から巨大な筋肉のような繊維が露出している。繊維の間を星屑が流れ、ところどころに古い封印文字が焼きついていた。ランバード王家の獅子紋、ダイダロスの機構印、竜王ザッハの爪痕、阿修羅の刃痕、ヨシュアの静寂符、シモンの器印、アリオンの弦符。そして、アルティエルの白銀の名守り。それらが幾重にも重なり、千年前から肉体を縛っている。だが、今、その封印文字の間に黒い裂け目が走っていた。アリオンが仮の名を剥がし、カオスの名が揺らいだことで、肉体の内側からも抵抗が始まったのだ。仮面を剥がされた滅びは、自分を閉じている箱を壊してでも、再び形を得ようとしていた。


 ハルナが息を呑んだ。


「パンドラ系の封印外殻……まだ残ってる。でも、継ぎ目が開いてる。黒星核停止帰路環で不協和吸収は落としたのに、肉体側から押し返してるんだ。あれ、外から壊れてるんじゃない。中から起きようとしてる」


 イーサーが星図板を開く。焦げた翼の羽先が震え、星図の線が肉体封印の奥へ吸われそうになる。


「肉体、魂魄、名の接続が再編されています。アリオンの真言で仮名は剥がれましたが、それによって仮の支配経路が失われ、カオスの本体が直接動き始めた。ここで肉体が解放されれば、魂魄と名を再び受ける器になります」


 テイルが竜剣を床へ叩きつけた。すでに大地を押さえた疲労が残っている。腕は震えているが、声は荒い。


「つまり、起こすなってことだな」


「起きたら、面倒どころではありません」


 ハルナが早口で答える。


「黒星核だけなら止める道がある。魂と器の混ざりも、アリスの糸とイリスの帳面で遅らせられる。空と大地の逃げ道も押さえた。でも、肉体が完全に解放されたら全部まとめて引っ張られる。船そのものがカオスの体になる」


 アリアが双剣を抜いた。ヤクシャの縁を断ったばかりの腕には、赤黒い痕がまだ残っている。


「斬る場所は?」


「いっぱいあるけど、全部斬ったら爆ぜる!」


「またそれ?」


「封印機構っていうのはね、雑に切るとだいたい爆ぜるの!」


「便利な説明ね」


「便利じゃなくて真理!」


 アリスは白い境界糸を足元へ伸ばしたが、すぐに顔をしかめた。


「奥、境が硬い。魂と器じゃない。肉体そのものが、箱を押してる」


 イリスは白銀の守護を纏ったまま帳面を開いた。彼女の周囲には薄い鎧のような光が浮かび、黒い風が名を削ろうとするたび、一拍だけ受け止める。だが、その光でさえ肉体封印の奥から来る圧には揺らいだ。


「名を呼ぶ前に、形が押し潰されそうです」


 アリオンは竪琴の弦に指を置いた。真名で立ったばかりの喉には、まだ裏真言の痛みが残っている。


「肉体は、言葉より鈍く、しかし重い。名を揺らしても、肉体そのものはすぐには解けません。千年前、パンドラボックスが閉じたのは肉体だけでした。だからこそ、ここは最も古く、最も固い封印です」


 エノクは胸元に手を当てた。


 王家の鍵が熱い。


 それは小さな金属片だった。森を出る時から持ってきたもの。自分の出自を示し、ランバード王家の血を示し、パンドラボックスへ繋がる命令片でもあるもの。長い旅の中で、それは何度も反応した。星の船の破片を引き寄せ、黒星核の口を開かせ、王家の記憶へ導き、聖剣を目覚めさせた。けれど、今の熱はこれまでと違った。鍵が、帰りたがっている。封印の中心へ。肉体を閉じた箱へ。王家の血が最後に果たすべき役目へ。


 聖剣アーク・リヴァイヴも背で鳴った。


 ティンカーベルが低く言う。


「来たな」


「何がですか」


「お前が、自分を蓋だと思いたくなる場所だ」


 エノクは唇を結んだ。


 言われなくても、分かっていた。パンドラボックス。王家の鍵。聖剣。アベルの死。アルティエルの消失。千年前の封印。すべてがここへ向かって一本の道を作っているように見える。その道の先に、自分が立っている。鍵を持つ王家の子として。アベルの血を引く者として。死ねば、封印が強まるのではないか。自分の命を使えば、肉体を閉じられるのではないか。その考えは、黒い声に囁かれるまでもなく、胸の底に生まれかけていた。


 そして、カオスはそれを聞き逃さなかった。


 封印区画の扉が開いた。


 そこには、巨大な箱があった。パンドラボックスと呼ばれるものの本体。だが、手に持てる箱ではない。星の船の中枢に埋め込まれた、黒い棺にも、白い祭壇にも、機械の炉にも見える巨大な封印装置だった。周囲を七つの古い入力環が囲み、その中央に黒い肉塊のようなものが眠っている。肉塊と呼ぶには星に近く、星と呼ぶには生々しい。無数の腕の跡、翼の残骸、王冠に似た骨、獣の顎、胎児のような丸まり、砕けた星の殻。それらが一つの肉体として折り畳まれ、パンドラボックスの中に押し込められていた。封印文字がその表面を縛っている。だが、黒い裂け目が走り、裂け目から肉のような闇が溢れている。


 その肉体が、目を開けた。


 目は一つではなかった。あらゆる裂け目が目になり、エノクを見た。


 王家の鍵よ。


 声がした。仮の名を剥がされた後の声は、以前よりずっと粗く、飾りがない。王の威厳も、神の響きも、救済者の甘さもない。ただ、終われなかった滅びが、他者の名を使って形を保とうとする音だった。


 来たか。


 アベルの血。


 死に場所を求める子。


 エノクの指が鍵を握った。


 違う、と言おうとした。だが、声がすぐには出なかった。カオスの肉体の前に立った瞬間、空間が変わった。星の船の中枢が、千年前の戦場へと重なる。アベルが立っていた。血まみれの聖騎士。白い鎧は砕け、胸にはヤクシャにつけられた深い傷があり、それでもパンドラボックスの前で剣を支えている。隣にはアルティエルの光。遠くにはザッハ、シモン、阿修羅、ダイダロス、ヨシュア、アリオンの影。皆が必死だった。皆が傷ついていた。アベルは死を選んだのではない。死ぬしかない場所へ追い込まれ、それでも世界を閉じようとした。その姿は、美しかった。痛々しいほどに、美しかった。


 カオスの声が、優しくなった。


 見よ。


 英雄とは、死によって完成する。


 アベルは死んだ。


 だから語られた。


 だから称えられた。


 だから、お前はここまで来た。


 エノクの目の前に、別の光景が開いた。自分が聖剣を胸に突き立て、王家の鍵を心臓へ沈め、パンドラボックスの蓋となる未来。仲間たちは泣き叫ぶ。黒星核は止まり、肉体は閉じ、地上には朝が来る。人々は語る。最後の王子エノク・ランバードは、命を捧げて世界を救った。アベルの血を継ぎ、アベルのように死んだ英雄として。


 死ねば、英雄になれる。


 声が囁く。


 死ねば、責任から解かれる。


 死ねば、仲間はお前を責められない。


 死ねば、王家の血は美しい物語になる。


 死ねば、アベルに並べる。


 死ねば、誰もお前に続きを求めない。


 エノクの息が止まりかけた。


 甘い誘惑だった。


 恐ろしいほど甘かった。逃げではなく、犠牲の顔をしている。臆病ではなく、勇気の姿をしている。自分を捨てることを、愛と責任と英雄の名で包んでいる。死ねば、もう怖がらなくていい。失敗しなくていい。誰かを救い損ねる未来を見なくていい。生き残って傷を見続ける必要もない。白麦原の黒い畑を、帰還者の空白を、仲間の痛みを、魔大陸の傷を、背負い続けなくていい。


 聖剣が震えた。


 もしここで握り方を間違えれば、聖剣は殉教の剣になる。ランバード城の地下聖堂で見た幻が、再び刃の中で揺れた。美しい死。尊い犠牲。後世が涙する物語。


 ティンカーベルが叫んだ。


「エノク!」


 鞘の中からではない。腰の剣が自ら抜けかけるほど強く鳴った。


「その道は楽だ! 楽だから罠だ!」


 エノクの手が止まる。


 イリスが名を呼ぶ。


「エノク・ランバード!」


 白銀の守護が光を伸ばし、彼の輪郭を支えた。


 アリアが怒鳴る。


「死んだら怒るって、何回言わせる気!」


 テイルも叫ぶ。


「生きて終わらせるんじゃなかったのかよ!」


 アリスの声が震える。


「エノク、混ざらないで。死ぬ英雄に混ざらないで」


 ハルナが工具を握りしめる。


「自分を部品にするな! 鍵は部品だけど、あんたは部品じゃない!」


 イーサーが星図板を掲げる。


「生存帰路、保持。エノク・ランバードの座標、消させません」


 アリオンが竪琴を鳴らす。声は掠れていたが、真名の響きがあった。


「アベルではなく、エノク」


 その音が、千年前の戦場の幻を揺らした。


 エノクは、ようやく息を吸った。


 胸が痛い。怖い。死にたいわけではない。だが、死ねば許されると思いたい自分がいる。それを認めるのは、剣を握るより怖かった。ランバード城で、彼は一度その答えに辿り着いたはずだった。アベルのように死ぬのではなく、エノクとして生きると。だが、カオスの肉体の前では、その誓いさえ揺らぐ。だからこそ、もう一度選ばなければならない。誰かに与えられた覚悟ではなく、自分の口で。


 エノクは聖剣を抜いた。


 白銀の刃が、死の幻を照らす。胸元の鍵を左手に握り、右手に聖剣を持つ。ティンカーベルは腰で鳴り続けている。


「カオス」


 彼は言った。


 巨大な肉体の無数の目が細まる。


「ぼくは、アベルではありません」


 声は震えた。けれど、届いた。


「アベルの血を引いています。ランバードの王子です。王家の鍵も持っています。聖剣も持っています。でも、アベルではありません」


 死ね。


 英雄になれ。


 エノクは首を横に振った。


「ぼくは死ぬためにここまで来たんじゃない。生きて、この戦いを終わらせるために来た」


 聖剣アーク・リヴァイヴが強く輝いた。


 その光は、殉教の白ではなかった。死を飾る光ではない。朝へ戻るための、傷を抱えたまま歩くための光だった。鍵もまた、胸の中で熱を変える。心臓へ沈めろと囁いていた熱が、手の中で別の形へ変わった。鍵は、自分を閉じるためのものではない。パンドラボックスへ命令を戻すためのもの。王家の血が、自分を犠牲にする証ではなく、多くの名に生かされた者として封印へ命令を届けるための通路。


 エノクは鍵をパンドラボックスへ向けた。


 カオスの肉体が暴れた。黒い腕のようなものが裂け目から伸びる。アリアが境界を斬る。テイルが竜気で床を押さえる。アリスが魂と器の混ざりを防ぎ、ハルナが帰路環の拍子を合わせ、イーサーが逃走路の再接続を読んで閉じ、イリスが白銀の守護で全員の名を支え、アリオンが真言でカオスの仮名が戻らないよう押さえる。


 エノクは一歩進んだ。


 死へ向かう歩みではない。封印へ命令を届ける歩み。自分が蓋になるためではなく、蓋を正しく閉じ直すための歩み。


 カオスの声が怒りを帯びる。


 生きて終わらせるだと。


 生者は失敗する。


 生者は迷う。


 生者は傷を残す。


 死者だけが、美しい。


 エノクは歯を食いしばった。


「そうかもしれない」


 仲間たちが一瞬、彼を見る。


「生きていれば、失敗します。迷います。傷も残ります。白麦原の畑も戻せなかった。帰還者の名も全部は呼べない。アベルが残した失敗も、アルティエルが呼べなかった名も、全部を綺麗にはできない」


 彼は聖剣を構えたまま、鍵を封印装置の中央へ掲げた。


「でも、死んで綺麗な物語になるために来たんじゃない。傷が残るなら、残った傷を見ます。帰る道があるなら、帰ります。仲間が怒るなら、怒られます。失敗したなら、もう一度やり直します。ぼくは、生きて責任を持つために来た」


 ティンカーベルが低く笑った。


「ようやく言い切ったな、未熟者」


「まだ未熟です」


「そこは否定しないのか」


「はい。でも、生きます」


「なら、振れ」


 エノクは聖剣を振った。


 カオスの肉体を斬るためではない。パンドラボックスに絡みついた黒い裂け目と、鍵穴の間の歪みを開くための一閃。聖剣の白銀が封印文字を照らし、王家の鍵が光を放つ。ハルナが叫ぶ。


「そこ! 鍵穴、出た! でも古い命令が壊れてる。エノク、鍵を差すだけじゃ駄目! 生存命令を上書きして!」


「生存命令?」


「自分を蓋にしない命令! 生きたまま開閉する命令! 言葉で言って! 王家の血と聖剣が拾う!」


 アリオンがすぐに弦を鳴らす。


「言葉にしてください、エノク。鍵は言葉を待っています」


 イリスが帳面を開く。


「記録します」


 エノクは鍵を握り、パンドラボックスの中央に現れた光の穴へ向けた。穴の奥では、千年前の命令が擦り切れている。肉体を閉じよ。魂魄を眠らせよ。名を封じよ。その三つのうち、肉体だけが辛うじて動き、ほかは欠けている。今、エノクが触れられるのは肉体の封印だけだ。けれど、それを死で補ってはいけない。


 彼は言った。


「エノク・ランバードの名において命じます」


 王家の鍵が白く輝く。


「この鍵は、ぼくの命を閉じるためのものではない。ぼくを蓋にするためのものではない。ぼくは生きたまま、パンドラボックスへ命令を届ける」


 カオスの肉体が暴れる。黒い腕がエノクの胸を狙う。アリアが斬り、テイルが押さえ、アリスの糸が腕とエノクの魂を分ける。イリスが叫ぶ。


「エノク・ランバード!」


 エノクは続けた。


「肉体よ、再び箱へ戻れ。魂魄と名を待たず、暴れるな。逃げるな。閉じられたまま、終わりの時を待て」


 聖剣が鳴る。


「ぼくは、死んで封印を完成させない。仲間とともに、生きて完成させる」


 鍵が差し込まれた。


 パンドラボックス全体が震えた。黒い肉体の裂け目から、巨大な悲鳴が上がる。声ではない。星の船そのものが裂けるような震動。肉体を縛る封印文字が白く燃え上がり、剥がれかけていた外殻が再び閉じ始める。だが、完全ではない。カオスの魂魄と名がまだ揺れている以上、肉体だけを永遠に閉じることはできない。それでも、解放は止まった。肉体が、箱の奥へ一拍、二拍と押し戻されていく。


 エノクの腕に激痛が走った。鍵を通じて、肉体の重さが流れ込んでくる。死んで蓋になれば、この痛みは一瞬で終わるのかもしれない。生きたまま命令を届けるから、痛みが続く。骨が軋み、血が熱くなり、視界が白む。


 カオスが最後に囁く。


 苦しいだろう。


 死ねば、楽だ。


 エノクは叫んだ。


「楽になりに来たんじゃない!」


 聖剣がさらに光った。


 仲間たちの声が重なる。


「エノク!」


「エノクさん!」


「エノク・ランバード!」


「未熟者!」


 呼ばれるたび、エノクは戻る。死の物語へ引き込まれず、生きている痛みへ戻る。痛い。怖い。だが、そこに仲間の声がある。生きているから聞こえる声がある。


 パンドラボックスの外殻が閉じた。


 完全ではない。黒い裂け目は細く残っている。肉体の奥では、まだカオスが蠢いている。だが、解放は止まった。肉体は、再び箱の中へ押し戻された。これで、魂魄と名へ向かう時間が生まれた。


 鍵が、エノクの手から外れた。砕けてはいない。だが、以前より深く、白銀の線が走っている。聖剣アーク・リヴァイヴの刃にも同じ線が灯っていた。鍵と聖剣が、死ではなく生存の命令で結ばれたのだ。


 エノクはその場に膝をついた。


 イリスが駆け寄り、白銀の守護で彼の輪郭を包む。


「エノクさん!」


「生きています」


 彼は掠れた声で言った。


「まだ、生きています」


 アリアが息を吐き、双剣を鞘に収める。


「よろしい。死んでたら殴るところだったわ」


「死んでいたら、殴られても分かりません」


「だから生きてなさいってことよ」


 テイルが笑おうとして咳き込んだ。


「ほんと、面倒な王子だな」


 ハルナが鍵を覗き込む。


「これ、すごい。命令系が変わってる。自死封印じゃなくて、生存封印。あんた、鍵の仕様を書き換えたよ」


「よく分かりません」


「分かってなくてもやったのが怖いんだよ」


 アリスがエノクの袖を掴む。


「エノク、死ぬ英雄じゃない?」


「違います」


「生きるエノク?」


「はい」


「よかった」


 イーサーは星図を見ていた。


「肉体の解放は停止。封印維持。ただし、魂魄と名の揺らぎは増しています。カオスは肉体を失った分、次は魂魄と名へ集中するでしょう」


 アリオンが竪琴を抱え、重く頷く。


「ここからが、千年前に届かなかった場所です」


 エノクはゆっくり立ち上がった。痛みは残っている。腕は震え、胸の鍵は熱く、聖剣は重い。だが、彼は立てた。死んで英雄にならなかった。生きて、次へ進む。


 彼はパンドラボックスの閉じた外殻を見た。奥で、カオスの肉体がなお蠢いている。だが、今は出てこられない。アベルの死を繰り返さず、肉体の封印を生きたまま繋ぎ直した。それは完全な勝利ではない。けれど、千年前と違う一歩だった。


 イリスが帳面に記録する。


 エノク・ランバード。王家の鍵と聖剣を用い、カオス肉体の解放を停止。アベルの死の再演を拒む。自らを蓋とせず、生きたまま封印命令を更新。


 彼女は少し手を止め、エノクを見た。


「この言葉も、書いていいですか」


「何をですか」


「ぼくは死ぬためにここまで来たんじゃない。生きて、この戦いを終わらせるために来た」


 エノクは少し照れたように視線を落とした。


「はい。お願いします」


 イリスは頷き、その言葉を帳面へ書いた。


 白銀の守護が、頁を包む。


 その言葉は、パンドラボックスの封印文字にも小さく反響した。死で閉じる封印ではなく、生きて終わらせる封印。アベルができなかった道。エノクが選んだ道。


 奥の闇が、さらに深く開いた。


 肉体の解放を止められたカオスは、次に魂魄と名を揺らしてくる。そこには、アルティエルが抱えて遠ざけた魂魄の残響があり、アリオンが閉じ損ねた名の深層があり、イリスが呼ぶべき無数の空白がある。


 エノクは鍵を胸元へ戻し、聖剣を握り直した。


「行きましょう」


 彼の声は疲れていた。だが、死へ向かう声ではなかった。


「生きて、終わらせるために」


 一行は、再び歩き出した。閉じ直された肉体の封印を背に、魂魄と名が渦巻くさらに深い闇へ。そこにはもう、死ねば英雄になれるという甘い声は届かない。エノクはその声を聞いた上で、拒んだのだから。

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