第8話_イリスとアルティエル
アリオンの裏真言が最後の鎖を剥がした時、扉の奥から流れ出したものは闇ではなかった。闇よりも淡く、光よりも冷たい、名になる前の風だった。王ではない。神ではない。救済ではない。名ではない。終われなかった滅び。そう告げられたカオスは、まとっていた仮の名を失い、星の船の奥で初めて輪郭を乱した。だが、輪郭を乱したものほど危険だった。仮面を剥がされた滅びは、今度は他者の名を掴もうとした。扉の隙間から吹く風が、一行の名へ触れる。エノクの王家の血へ、アリアのヴェルナの名へ、テイルの竜王の血へ、アリスの核へ、ハルナの父の記憶へ、イーサーの星図へ、アリオンの真名へ。そして、イリスの帳面へ。
帳面の頁が、一斉にめくれた。
白麦原。水晶の羽の帰還者。寒い、と訴えた者。ヴェルナの死者。シオゥルの死者。ランバード城の名。名前の分からない兵士たち。空白として残した者たち。すべての頁に、黒い風が触れた。書かれた文字が揺れる。墨が浮き、紙の上で名がほどけようとする。イリスは反射的に帳面を抱きしめた。
「駄目です」
声は小さかった。だが、彼女の腕には必死の力がこもっていた。
「これは、あなたのものではありません」
カオスの奥から、声とも圧ともつかぬものが返る。
名は砕ける。
記録は燃える。
呼ばれぬものは、我が空白へ落ちる。
イリスの膝が震えた。ここに入ってから何度も名を呼んだ。帳面を守った。帰還者の欠けた名を記録し、空白を空白として残してきた。けれど、扉の奥から流れる名の風は、そのすべてを上回っていた。彼女一人の祈りでは押し返せない。聖印が熱を持ち、指が焼けるように痛む。帳面の角が黒く染まり始めた。
「イリス!」
エノクが聖剣の光を伸ばす。アリアが黒い風と帳面の間の境を斬ろうとする。アリスが白い境界糸を伸ばし、ハルナが慌てて帳面保護枠を作動させ、イーサーが星図で記録座標を固定し、テイルが大地側への逆流を押さえ、アリオンが真言を重ねる。だが、黒い風はすり抜ける。剣で斬るには細かすぎ、星図で読むには多すぎ、機械で遮るには名そのものに近すぎた。
イリスは帳面を胸に抱いたまま、目を閉じた。
その瞬間、音が消えた。
黒星核の鼓動も、仲間たちの声も、星の船の軋みも消えた。代わりに、遠い鐘の音が聞こえた。彼女は目を開ける。そこは星の船ではなかった。白銀の水面が広がる場所。空はなく、地もない。ただ、無数の名が星のように浮かんでいる。読める名もある。読めない名もある。文字ではなく光の震えとして存在する名もある。その中央に、ひとりの女性が立っていた。
白銀の髪。夜明け前の空を映したような瞳。背には翼があるように見えたが、それは羽ではなく、無数の名を結んだ光の帯だった。鎧を着ているようにも、祈りの衣をまとっているようにも見える。近づけば近づくほど輪郭が変わり、女神にも、聖天使にも、戦場で誰かを抱きしめるただの女性にも見えた。
イリスは息を呑んだ。
「アルティエル様」
その名を呼ぶと、水面の名が一斉に震えた。女性は静かにイリスを見た。怒りも、悲しみも、慈しみも、すべてを含んだ瞳だった。
「あなたは、私を知っているのですね」
声は優しかった。けれど、あまりに遠かった。長い時の彼方から、やっと届いた声のようだった。
「神殿で、教わりました。聖天使アルティエル。七英雄とともにカオスを封じ、世界を救った方だと」
イリスは言い、そして唇を噛んだ。
「でも、それは全部ではありませんでした。あなたは、完全に勝ったのではありません。カオスの魂魄とともに、遠い時空へ飛ばされて……そのまま、ずっと」
アルティエルは目を伏せた。
「はい」
たった一言だった。その一言に、千年分の静けさがあった。
「私は、勝利したのではありません。落ちていく魂魄を抱え、世界から遠ざけた。ただ、それだけです。肉体を閉じる箱が動き、アベルが死をもって支え、仲間たちがそれぞれの力を尽くしました。それでも名は閉じきれず、魂魄は逃れようとした。私は、それを抱えて飛ぶことしかできなかった」
「それで、世界は救われたと」
「救われました。一部は」
アルティエルの声に、痛みが滲む。
「救われなかったものも、多くありました。私はすべての名を呼べなかった。カオスの中で砕けた星々の名。帰還者たちの真の名。黒い炎に焼かれた名。アリオンが言えなかった真言の先にあった名。アベルが死んでも届かなかった名。私は、それらを抱えながら、呼びきれなかった」
イリスの胸が痛んだ。
アルティエルは、完全な女神のように語られる存在だった。神殿ではそう教わった。聖なる光。救済。勝利。祈れば守ってくれる名。けれど、目の前にいる残響は、救いきれなかった名を覚えている。呼べなかったことを悔やんでいる。高き場所から世界を見下ろす神ではなく、名を抱えきれず、それでも手放さなかった者だった。
「では、私は」
イリスは震える声で訊いた。
「私は、あなたの代わりなのですか」
その問いは、ずっと怖かった。神殿の未熟な神官でしかない自分が、なぜここまで来たのか。なぜ、名を呼ぶたびに光が応えるのか。なぜ、帳面が星の船の中で抵抗点になるのか。もし自分がアルティエルの再来なら、もっと強くなければならない。もっと正しく、もっと聖らかで、もっと恐れを知らぬ存在でなければならない。けれど、イリスは怖い。間違える。名を聞き取れない。全部を救えない。泣きそうになる。怒る。アリオンを許せないと言った。そんな自分が、聖天使の再来であるはずがないと思っていた。だが、そうでなければ、この光は何なのか。
アルティエルは、イリスの前へ歩み寄った。
「いいえ」
その答えは、あまりに静かで、イリスの胸から力が抜けた。
「あなたは、私ではありません」
イリスの目に涙が浮かんだ。
「よかった」
思わず漏れた言葉に、彼女自身が驚いた。失礼かもしれない。そう思ったが、アルティエルは微かに笑った。
「よかった、と言えるあなたでよかった」
「すみません」
「謝ることではありません。誰かの再来であることは、時に名を奪うことです。あなたが私であれば、イリスという名が薄くなる。私は、それを望みません」
アルティエルはイリスの帳面へ視線を落とした。ここにも帳面はあった。黒い風に焼かれかけたはずの帳面が、彼女の腕の中で白く光っている。頁には、これまで記録してきた名と空白が並んでいた。
「あなたは、あなたの足で歩き、あなたの手で書き、あなたの声で名を呼んできました。私は、あなたの中に生まれ変わったのではありません。あなたが拾い続けた名の中に、私の光が応えたのです」
「私が、拾い続けた名」
「はい」
アルティエルは水面に浮かぶ無数の名を見上げた。
「名は、高き者だけが呼ぶものではありません。神官だけのものでも、英雄だけのものでも、王だけのものでもない。誰かが誰かを呼ぶ時、そこに小さな聖性が生まれます。私はその聖性の守り手であろうとしました。ですが、私は多くを呼べなかった」
イリスは帳面を抱く手に力を込めた。
「私も、全部は呼べません」
「知っています」
「聞き取れない名があります。書けない名があります。空白ばかり増えます。救えなかった帰還者もいます。寒いと言った人の名も、まだ分かりません」
「知っています」
「それでも、いいのですか」
アルティエルは首を横に振らなかった。頷きもしなかった。ただ、イリスの両手を包むように光を重ねた。
「それでも呼ぶ者が、必要なのです」
イリスの涙がこぼれた。
「あなたが呼べなかった名を」
「はい」
「私が、呼んでいいのですか」
「あなたにしか呼べない名があります。私では届かない名があります。私は千年前の光です。あなたは今を歩く者。地上で泥にまみれ、怖がり、怒り、間違え、それでも帳面を開く者。今、カオスに奪われている名を呼べるのは、今そこにいるあなたです」
アルティエルの背後に、いくつもの光景が浮かんだ。ランバード城でエノクを見送った名もなき兵士たち。白麦原の村人たち。水晶の羽の帰還者。ヴェルナの死者。死者の都で名を縛られていた者たち。魂と器の間で震えていた者たち。まだ名を聞き取れない帰還者たち。どれも完全には光らない。半分は空白。半分は黒い風に削られている。
「アルティエル様」
イリスは言った。
「私は、あなたにはなれません」
「はい」
「聖天使でも、女神でもありません」
「はい」
「怖いです」
「はい」
「でも、呼びます」
水面の名が震えた。
「あなたが呼べなかった名を、私が呼びます。全部はできないかもしれません。間違えるかもしれません。空白ばかりになるかもしれません。でも、カオスのものにはしません。名が戻る場所を、帳面に残します」
アルティエルの瞳に、初めて涙のような光が宿った。
「ありがとう、イリス」
その名を呼ばれた瞬間、イリスの胸の奥で何かが開いた。聖印ではない。神殿で習った術式でもない。彼女が旅の中で何度も開いてきた帳面の、さらに奥。名を書き、空白を残し、呼べないことに泣き、呼ぶことを諦めなかった場所。そこから白銀の光が溢れた。
アルティエルは両手を差し出した。
「これは、鎧ではありません」
光がイリスの周囲へ集まる。
「これは、誰かを閉じ込めるものではありません。傷をなかったことにするものでも、死なない英雄を作るものでもありません。名と形が砕ける時、その輪郭を一拍だけ守る光。呼ばれた者が、自分の名へ戻るための守り」
白銀の光は、イリスの肩に、胸に、腕に、背に、薄い衣のように重なった。金属ではない。だが、鎧に見えた。祈りの衣であり、光の盾であり、名を守るための殻だった。背には翼ではなく、帳面の頁のような白銀の板が幾重にも浮かぶ。そこには名が刻まれていない。空白がある。名が戻るための空白が、光として彼女を守っている。
イリスは息を呑む。
「これは」
「いつか、遠い後の世で、形を変えて語られるかもしれません。私の名も、あなたの祈りも、時の中で変わるでしょう。アルティエルという名は、別の響きへ移り、人々はこの守りを鎧と呼ぶかもしれない。けれど、忘れないでください」
アルティエルはイリスを見つめた。
「始まりは、名を守りたいと願った一人の神官の帳面です」
イリスは涙を拭った。
「私の、帳面」
「はい。あなたの帳面です」
白銀の守護が、イリスの体へ馴染んでいく。重くはない。むしろ、背筋が伸びる。強くなったというより、怖さの中で立てる場所ができたような感覚だった。アルティエルの再来になったわけではない。聖天使が自分に乗り移ったわけでもない。イリスはイリスのままだ。未熟な神官で、怖がりで、時に怒り、泣き、名を聞き間違えるかもしれない者のまま、白銀の光を纏っている。
遠くで、仲間たちの声が聞こえた。
「イリス!」
エノクの声。
「イリスさん!」
ハルナ。
「イリス!」
アリス。
「神官!」
テイル。少し雑な呼び方に、イリスは思わず笑いそうになった。
「戻りなさい」
アルティエルが言った。
「あなたを待つ名があります」
イリスは頷いた。
「はい」
「そして、伝えてください。私は、完全には守れませんでした。けれど、あなたたちが続けてくれるなら、私の失敗も、ただの終わりではなくなります」
「伝えます」
「イリス」
「はい」
「あなたは私ではありません」
アルティエルは微笑んだ。
「だから、私が呼べなかった名を呼べるのです」
白銀の水面が割れた。
イリスは星の船の中へ戻った。
戻った瞬間、黒い風が帳面へ殺到した。だが、今度は頁が燃えなかった。イリスの周囲に、白銀の守護が展開していた。薄い鎧のような光。肩から腕へ、胸から背へ、無数の空白頁が重なったような白銀の板が浮かび、黒い風を受け止める。風は名を奪おうとする。しかし、光の板に触れた瞬間、そこで一拍止まる。その一拍で、イリスは名を呼べる。
「エノク・ランバード!」
エノクの輪郭が戻る。黒い風に削られかけていた王家の鍵が白く光る。
「アリア・ヴェルナ!」
アリアの腕に残った刃紋が暴れかけたが、白銀の光に抑えられる。
「テイル・ザッハリオン!」
テイルの竜気が地上の霊脈へ安定して戻る。
「アリス!」
アリスの名の核が白く輝き、混ざりかけた魂の声をはねる。
「ハルナ・ミャウレン!」
ハルナの黒星核停止帰路環が、黒い風に名を奪われず拍子を保つ。
「イーサー!」
イーサーの星図が焼け落ちた羽の代わりに白い線を得る。
「アリオン!」
アリオンの喉に絡みついた沈黙の残滓が一拍緩む。
「ティンカーベル!」
鞘の中の剣が不満そうに鳴った。
「私まで呼ぶ必要があるのか」
「あります!」
イリスが叫ぶと、ティンカーベルは短く笑った。
「よし、今のは悪くない」
エノクは目を見開いていた。
「イリスさん、その光は」
「アルティエル様に会いました」
皆が息を呑む。アリオンの顔が強張り、アリスがイリスの光を見つめ、イーサーが星図板を震わせた。
イリスは、はっきりと言った。
「でも、私はアルティエル様の再来ではありません」
その言葉に、白銀の守護が一層強く光った。まるで、その否定こそが正しい継承であると示すように。
「私は、イリスです。怖がりで、全部の名は呼べなくて、間違えるかもしれない神官です。でも、呼びます。アルティエル様が呼べなかった名を。カオスに奪われた名を。空白のままでも、カオスのものにはしません」
黒い風が唸った。
白銀の守護へ、カオスの声が叩きつけられる。
名は砕ける。
守りは剥がれる。
お前は神ではない。
イリスは帳面を開いた。
「はい。私は神ではありません」
彼女は筆を取る。
「だから、一人ずつ呼びます」
その瞬間、帳面の空白頁が光となって広がった。星の船の棺の名札、帰還者の空白、仲間たちの輪郭、黒星核停止帰路環の線、イーサーの星図、アリスの境界糸、アリオンの真言、エノクの聖剣。それらを白銀の守護がつないでいく。鎧のようで、鎧ではない。守るのは肉体だけではない。名と形、魂と器、呼ばれるまでの一拍。それを守る光だった。
アリアが双剣を構えながら、少し笑った。
「似合ってるわよ、イリス」
「鎧みたいですか」
「鎧というより、帳面が戦う気になったみたい」
ハルナが目を輝かせる。
「それ、技術的にすごく見たい! 白銀の名守り外装? いや、祈祷式防護鎧? 後で構造を」
「今は後です!」
「分かってる!」
テイルが笑う。
「神官が一番固そうになったな」
「固くなったわけではありません」
イリスは少しだけむっとする。
「守っているだけです」
「同じようなもんだろ」
「違います」
アリスがイリスの袖を掴んだ。
「イリス、イリスのまま?」
イリスは頷いた。
「はい。イリスのままです」
「よかった」
「はい。私も、よかったです」
アリオンは、白銀の守護を見つめていた。彼の瞳には、千年前の光を見た者の痛みがあった。けれど、そこに安堵も混じっている。
「アルティエルは」
彼は声を詰まらせた。
「何か、言いましたか」
イリスは彼を見た。
「完全には守れなかった、と」
アリオンは目を閉じた。
「そうですか」
「でも、私たちが続けるなら、失敗はただの終わりではなくなる、と」
アリオンの肩が震えた。彼は竪琴を抱え直し、深く頭を下げた。
「……その言葉を、聞けてよかった」
エノクは聖剣を前へ向けた。扉の奥、カオスの肉体へ続く闇が揺れている。アリオンが仮の名を剥がし、イリスが白銀の守護を得たことで、カオスの名はさらに不安定になっていた。黒い風はなお吹いているが、もう一行をただ削ることはできない。名を守る白銀の光がある。
イリスは帳面を胸に抱いた。
そこには、まだ空白が多い。聞き取れない名も、救えなかった者の記録も、未確認の断片もある。白銀の守護を得ても、全部を救えるわけではない。けれど、彼女はもう、自分が聖天使でないことを恐れなかった。
聖天使ではないから、今ここで呼べる名がある。
「行きましょう」
イリスは言った。
「カオスの奥へ。呼べなかった名を、呼びに」
白銀の守護が、一行の前に薄い道を作った。後の世で、誰かがその光を鎧と呼ぶかもしれない。アルティエルの名が変わり、別の響きで語られる時、この白銀の守りもまた、聖なる鎧の伝承として残るのかもしれない。だが、今この瞬間、それはただ、イリスの帳面から生まれた光だった。
名を失わせないための、小さな神官の光だった。
一行は、その光に守られながら、カオスの肉体が眠る闇へ踏み込んだ。




