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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第6部 アルティエルの名
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第6話_境界の剣

 大地は押さえられた。空は閉じられた。黒星核はまだ脈打っているが、地上の霊脈をこれ以上裂いて力を奪うことも、星外の闇へ魂魄と名を逃がすこともできなくなった。テイルは竜剣を支えに片膝をつき、荒い息を吐いている。イーサーの翼は焦げ、銀白の羽が数枚、星の船の黒い床に落ちていた。ハルナの作った黒星核停止帰路環は悲鳴のような音を立てながらも、細い帰路を維持している。イリスの帳面は白い光を保ち、アリスの境界糸は足元に頼りない道を描き、アリオンの竪琴はまだ完全ではない真言を震わせている。エノクは聖剣アーク・リヴァイヴを構え、カオスの肉体が眠る封印区画へ続く道を見つめていた。


 その道の入口で、刃の音がした。


 金属が金属を噛む音ではない。血が乾いた刃の上で剥がれる音。復讐を思い出した心が、まだ疼く音。アリアは誰よりも早くその音に気づいた。彼女の双剣が鞘の内側で小さく鳴り、足元の白い境界糸が赤黒く染まりかける。エノクが振り向くより先に、アリアは一歩前へ出た。


「来たわね」


 彼女の声は低い。


 通路の奥、黒い肉体へ続くはずの道に、赤黒い霧が満ち始めた。その霧は黒星核のものではない。もっと古く、もっと地上に近い。血潮野の土、剣塚に突き立てられた折れた刃、ヴェルナの祭壇にこびりついた怒り、戦場で名を奪われた者たちの怨嗟。星の船の外宇宙の闇とは異なる、地上で積み重なった復讐の臭いだった。霧の中から一本の剣が現れる。刃は黒く、縁だけが血のように赤い。暗黒剣ブラッディソード。そこにはもう完全な本体はないはずだった。アリアはヴェルナの祭壇でヤクシャの残滓を斬り、血潮野で暗黒剣の誘惑を退けた。阿修羅の声も聞いた。剣になるな、と。剣を握ったまま人でいろ、と。


 だが、呪いは死なない。完全に斬られなかったものは、より深い場所へ逃げる。ヤクシャは星の船の外殻に寄生し、カオスの眷属たちと黒星核の不協和をつなぐ刃の縁となっていたのだ。


 霧の奥から、声がした。


「姫」


 アリアの眉が動いた。


「その呼び方、嫌いなのよ」


「ヴェルナの姫。滅びた国の刃。怒りを残した女。お前の剣は、まだ血を求めている」


 声はヤクシャだった。あるいは、ヤクシャの残響だった。鎧の形をした影が霧の中に立つ。以前より輪郭は薄い。だが、その背後には無数の細い赤黒い糸が伸びている。糸の先は、カオスの眷属に繋がっていた。帰還者の器へ、黒星片へ、星の船の管へ、地上に残る古い怨嗟へ。ヤクシャの呪いは、復讐を望む名、斬られた名、斬り返したい名をまとめ、星の船の軍勢へ接続する役目を担っている。カオスにとって、復讐は便利な縁だった。人を剣へ変え、剣を命令へ変え、命令を眷属へつなぐ。


 アリアは双剣を抜いた。


 片方はヴェルナの剣舞を継ぐ細身の刃。もう片方は旅の中で何度も研ぎ直した実戦の刃。二本とも、赤黒い霧に触れると微かに震えた。怒りがある。ヴェルナを失った怒り。国を焼かれ、名を奪われ、姫であることを隠して生きた怒り。ヤクシャに利用されかけた怒り。今も地上を傷つけるカオスへの怒り。アリアはその怒りを否定しなかった。否定すれば、刃の内側に溜まる。溜まった怒りは、いつか自分を剣へ変える。


「怒ってるわよ」


 アリアは言った。


「ええ、怒ってる。今さら違う顔なんてしない。ヴェルナを返せって思う。死んだ人たちを返せって思う。あなたを何度でも斬りたいって思う」


 ヤクシャの影が笑った。


「ならば握れ。復讐のために振れ。お前の怒りは正しい。正しい怒りほど、よく斬れる」


「そうね」


 アリアは一歩進んだ。


「正しい怒りは、よく斬れる。だから、気をつけないと人まで斬る」


 ヤクシャの霧が一瞬揺れた。


 アリアは続ける。


「あなたが欲しいのは、あたしの怒りじゃない。怒りと剣の境を消したあたし。復讐と名の弔いを混ぜたあたし。人であることをやめて、刃になるあたし。そうでしょ」


 暗黒剣が低く鳴る。


「刃になれば苦しみはない。迷いもない。お前の国を滅ぼした者を斬れる。カオスの眷属も、帰還者も、名を奪った王も、すべて斬れる。剣に問うな。剣であれ」


 アリアの双剣に赤黒い光が走った。彼女の腕へ、暗黒剣の刃紋が這い上がろうとする。エノクが聖剣を構えた。


「アリアさん!」


「来ないで」


 アリアは背を向けたまま言った。


「これは、あたしの境」


 エノクは足を止めた。ティンカーベルが低く鳴る。


「信じろ。今、踏み込めば、あいつの剣の意味を奪う」


 イリスは帳面を開き、アリアの名を書く頁に手を添えた。


「アリア・ヴェルナ」


 彼女が名を呼ぶと、赤黒い刃紋の進みがわずかに止まる。アリスも胸元の名の核から白い境界糸を伸ばし、アリアの足元を支えた。


「アリア、剣じゃない」


 テイルは歯を食いしばり、膝をついたまま竜剣を握る。


「お前、前に俺へ散々言ったろ。力任せに斬るなって。自分で破るなよ」


「うるさいわね、分かってる」


 アリアは笑わなかったが、その声にはほんの少しだけいつもの調子が戻った。ハルナは黒星核停止帰路環を見ながら叫ぶ。


「赤黒い糸、カオスの眷属への接続線になってる! アリアが斬れるなら、そこを切れば眷属の再起動が遅くなる。けど、怒りで斬ると逆流する!」


「つまり、冷静に怒れってことね」


「矛盾してるけど、そう!」


 イーサーが星図板を開いた。


「ヤクシャの呪いは地上由来ですが、今は星の船の管へ接続されています。刃の縁が、カオスの眷属と黒星核を結んでいる。境界を見誤れば、眷属ではなく帰還者の残った名まで切断する」


 アリオンが竪琴の弦を押さえながら言った。


「復讐の言葉は短い。弔いの言葉は長い。アリアさん、短い方に引かれないでください」


「分かってる」


 アリアは息を吸った。


「分かってる、けど」


 霧が濃くなる。そこにヴェルナが現れた。燃える王都。剣舞の祭壇。倒れた兵士。母の声。民の悲鳴。逃げる自分。血のついた双剣。姫として立てなかった自分。すべてが、黒い霧の中で鮮やかになる。ヤクシャは記憶を刃に変える。アリアの足元へ、死者たちの手が伸びた。


 なぜ逃げた。


 なぜ生きた。


 斬れ。


 仇を。


 すべてを。


 アリアの手が震えた。怒りは、消えない。復讐したいと思う心は、消えない。ここまで来ても、消えていない。彼女はそのことに少しだけ絶望した。何度も乗り越えたはずだった。暗黒剣を拒み、ヤクシャの残滓を断ち、ヴェルナの怒りを敵へ渡さないと決めた。なのに、怒りは残っている。残り続けている。


 その時、霧の中に別の足音が響いた。


 裸足に近い静かな足音。剣神阿修羅の残響が、赤黒い霧の向こうに立っていた。完全な姿ではない。肩から先は煙のように崩れ、顔もはっきりしない。それでも、その立ち方だけで分かった。刃の者。境界を斬る者。かつてヤクシャを完全には断てず、後の者へ傷を残した剣神。


「怒りは、消えぬ」


 阿修羅の声が響いた。


 アリアは霧の中の影を睨んだ。


「消えないのに、どうやって剣にならずにいろっていうのよ」


「怒りを握るな。怒りが向く先を見ろ」


「同じじゃない」


「違う」


 阿修羅の影は、折れた刃を掲げた。


「復讐は、過去へ斬る。弔いは、縛られた名を解く。怒りは、そのどちらにも乗る。お前が選ぶのは、怒りの有無ではない。刃の向きだ」


 アリアの胸が震えた。


 刃の向き。


 ヤクシャは復讐へ刃を向けさせる。カオスはその復讐を縁にして、眷属と星の船をつなぐ。恨みが強いほど、呪いは強くなる。斬りたい相手を斬るほど、刃は次の恨みを呼ぶ。だから、ヤクシャの剣は終わらない。


 だが、縛られた名を解くために斬るなら。


 アリアは霧の中の死者たちを見た。彼らは復讐を求めているように見えた。だが、本当にそうか。カオスの呪いとヤクシャの刃が、その声を復讐へ変えているだけではないのか。彼らの名は、怒りに縛られている。ヴェルナの死者も、ヤクシャの刃に奪われた者も、星の船の眷属にされた帰還者も、ただ斬れと叫びたいだけなのか。違う。中には、帰りたい者がいる。眠りたい者がいる。自分の名を、復讐の燃料ではなく弔いの灯として呼ばれたい者がいる。


 アリアは双剣を構え直した。


 刃の向きが変わる。


 ヤクシャの影が吠えた。


「姫! お前の国は滅びた!」


「知ってる」


「お前の民は死んだ!」


「知ってる!」


「ならば、怒れ!」


「怒ってる!」


 アリアは踏み込んだ。


「でも、あたしの怒りは、あなたの餌じゃない!」


 双剣が白い線を描いた。最初の一閃は、ヤクシャの影を狙わなかった。影から伸びる赤黒い糸の一つ、帰還者の棺へ絡みつく呪いの縁を斬った。切断された糸の先で、棺の名札が一瞬だけ白く灯る。イリスがすぐに帳面へその空白を記録した。


 次の一閃で、星の船の黒い管へ絡む刃紋を斬る。ハルナの黒星核停止帰路環が軽くなり、拍動が安定する。


「いい! その調子! 赤黒い糸だけ、黒い管は残して! いや、黒い管も嫌だけど今切ると爆ぜるから!」


「注文が細かい!」


「細かくないと死ぬ!」


 アリアは三歩目で、ヴェルナの幻へ向き合った。燃える王都の中に、かつての自分が立っている。血まみれの双剣を持ち、泣きながら敵を探している少女。ヤクシャの呪いは、その少女へ暗黒剣を差し出す。


 斬れ。


 全部斬れ。


 生き残った罪を、血で払え。


 アリアは歯を食いしばった。双剣が震える。少女の姿は、他人ではない。消せない。否定もできない。あの怒りがあったから、彼女はここまで来た。あの怒りをなかったことにすれば、ヴェルナの名まで薄くなる。


 だから、アリアは少女へ言った。


「怒っていい」


 少女が顔を上げる。


「でも、剣にならなくていい」


 アリアは双剣を交差させ、少女と暗黒剣の間に走る赤黒い縁を斬った。少女は消えない。ただ、暗黒剣から離れ、炎の中で泣きながら膝をつく。イリスが遠くから呟いた。


「名を」


 アリアは息を吸った。


「ヴェルナ王女、アリア」


 自分の名を、自分で呼んだ。


「滅びた国の生き残り。復讐の刃ではなく、名を弔う剣」


 その名に、霧の中のヴェルナの死者たちが一瞬だけ静まる。イリスの帳面が白く光る。アリオンの竪琴が、短い弔いの音を鳴らした。阿修羅の残響が頷いた。


「見えたか」


「ええ」


 アリアはヤクシャへ向き直った。


「あなたを斬るんじゃない。あなたに縛られた名を解く」


 ヤクシャの影が巨大化した。暗黒剣が赤黒く燃え、星の船の管と眷属の棺が一斉に震える。カオスの声も重なる。


 刃よ、戻れ。


 復讐は我が縁。


 血は我が道。


 恨みは我が眷属。


 アリアは走った。


 彼女の足元に、ヴェルナの剣舞の型が開く。だが、それは王宮の祭壇で踊られた美しい型だけではなかった。血潮野の泥、剣塚の石、阿修羅の足跡、旅の中で踏んだ街道、仲間たちと駆け抜けた戦場、そのすべてが足運びに重なる。剣舞は過去の保存ではなく、今ここで境を見つけるための歩みへ変わった。


 一閃。


 ヤクシャとカオス眷属をつなぐ第一の縁が切れる。帰還者の器から赤黒い刃紋が剥がれ、アリスの境界糸がそこへ入り、魂と器の混ざりを止める。


 二閃。


 暗黒剣と黒星核の不協和吸収線が切れる。ハルナの装置が息を吹き返し、黒星核の拍動が一拍遅れる。


 三閃。


 ヴェルナの怒りを利用した呪いの残響が切れる。霧の中にいた死者たちの声が、復讐の叫びから、名を呼ぶ声へ変わり始める。イリスが必死に聞き取り、帳面へ空白と断片を書き込む。


 四閃。


 ヤクシャの暗黒剣そのものに届く。だが、アリアは刃を砕かなかった。砕けば、破片がまた怒りへ散る。彼女が斬ったのは、暗黒剣が新たな持ち主へ食い込む縁。剣が人を剣に変える、その境界を断った。


 ヤクシャが叫ぶ。


「なぜ斬らぬ! 我を憎むのだろう! 復讐せよ!」


「憎んでるわよ!」


 アリアは叫び返した。


「でも、あたしの剣は、あなたを気持ちよくするためにあるんじゃない!」


 最後の一歩。


 阿修羅の残響が彼女の背後に重なる。剣神の力が、刃そのものではなく、刃の向こうにある境界としてアリアへ流れ込む。アリアの双剣の刃が白くなった。聖剣の白銀とは違う。イリスの祈りとも違う。境界の白。斬るものと斬らないものを選び取る、細く鋭い光。


 アリアは双剣を振り下ろした。


「境界断ち」


 その一言に、真言のような響きはなかった。だが、世界は応えた。


 ヤクシャの影と星の船をつなぐ呪いの縁が、まとめて断たれた。赤黒い糸が一斉に切れ、棺の名札が白く瞬き、黒星核の管から刃紋が剥がれ落ちる。カオスの眷属として再起動しかけていた影たちが、糸を失って崩れ、ただの残響へ戻る。暗黒剣ブラッディソードは悲鳴を上げた。刃はまだある。呪いそのものは世界から完全には消えない。血と復讐がある限り、似た刃はどこかで生まれるかもしれない。だが、今この星の船の中で、ヤクシャはカオスの眷属をつなぐ縁ではなくなった。


 ヤクシャの影が、アリアの前に膝をついた。


「姫」


「違う」


 アリアは言った。


「アリアよ」


 影は笑ったのか、泣いたのか分からない音を立てた。


「剣では、ないのか」


「剣を握った人よ」


 その言葉を聞いた瞬間、阿修羅の残響が背後で静かに消えた。満足ではない。赦しでもない。ただ、後を託した者が役目を終えたような消え方だった。


 赤黒い霧が晴れる。


 アリアはその場に立っていた。双剣の刃は白く光ったまま、やがてゆっくり元の鋼の色へ戻る。腕には赤黒い刃紋の跡が薄く残っている。完全には消えない。復讐の傷がなかったことになるわけではない。けれど、その跡はもう彼女を暗黒剣へつなぐ鎖ではなかった。


 イリスが駆け寄った。


「アリアさん!」


「大丈夫」


 アリアは答えたが、膝が崩れかけた。テイルが慌てて支えようとし、彼自身もよろめく。二人まとめて倒れそうになり、ハルナが叫んだ。


「重傷者同士で支え合わない!」


「うるさい」


 アリアとテイルが同時に言った。


 アリスがアリアの袖を掴む。


「アリア、剣じゃない?」


 アリアは少し息を整え、それからアリスの頭を軽く撫でた。


「剣じゃないわ」


「人?」


「人。たぶん、かなり怒りっぽい人」


「それは知ってる」


「生意気」


 エノクは聖剣を下ろした。胸の奥が熱かった。アリアは復讐を消したのではない。怒りを捨てたのでもない。それでも、刃の向きを選んだ。縛られた名を解くために剣を振るった。その選択が、カオスの眷属と星の船を結ぶ呪いの縁を断った。


 イーサーが星図板を確認する。


「カオス眷属への刃紋接続、消失。黒星核の不協和吸収、さらに低下。帰還者棺の一部、再起動停止。呪いを媒介した攻撃経路が閉じました」


 ハルナが黒星核停止帰路環を見て、ほっと息を吐く。


「助かった。赤黒い刃紋が装置に食い込んでたら、こっちまで暗黒剣付きの停止装置になるところだった」


「それは嫌ですね」


 イリスが真顔で言う。


「嫌どころじゃないよ。請求先も分からない呪いの修理とか、絶対やだ」


 アリオンが竪琴を抱え、アリアへ深く頭を下げた。


「お見事でした。復讐の言葉を弔いの言葉へ変えた」


 アリアは顔をしかめる。


「褒め方が吟遊詩人くさい」


「吟遊詩人ですので」


「逃げてたくせに」


「はい。逃げていました」


「そこで素直に認めるのも調子狂うわね」


 アリオンは少しだけ笑った。


「少しずつ、逃げない練習中です」


 アリアは鼻を鳴らした。


「練習なら、次は遅れずに弾きなさい」


「はい」


 イリスは帳面に記録していた。アリア・ヴェルナ。復讐の刃ではなく、縛られた名を解くために剣を振るう。阿修羅の力を継ぎ、ヤクシャの残響、暗黒剣、カオスの呪いが結んでいた縁を断つ。彼女は最後に、少し迷ってから一文を加えた。


 怒りは残る。けれど、刃の向きは選べる。


 アリアがそれを覗き込み、照れたように目を逸らした。


「ちょっと綺麗に書きすぎじゃない?」


「事実です」


「イリス、最近強くなったわね」


「皆さんのせいです」


「いいことじゃない」


「たぶん」


 その時、星の船の奥で、重い扉が開く音がした。


 ヤクシャの縁が断たれたことで、黒い霧に隠されていた道が露わになっていた。そこは、これまでの棺の通路とも、黒星核の中枢とも違う。より重く、より古い封印の気配がある。カオスの肉体が眠る場所へ続く道。千年前、パンドラボックスが肉体だけを閉じた、その封印の奥へ。


 テイルが竜剣を担ぎ直し、痛みに顔をしかめた。


「次は肉体か」


 イーサーが頷く。


「逃走路は閉じ、呪いの縁も断たれました。カオスは、肉体、魂魄、名を切り離して逃げる余地を失いつつあります。ですが、その分、直接の抵抗は強くなるでしょう」


 ハルナが装置を見ながら言う。


「帰路環、まだ持ってる。でも長くない。呪いの負荷は消えたけど、黒星核本体が怒ってる」


 アリスが胸元を押さえる。


「奥、重い。眠ってるけど、起きてる」


 アリオンが弦に指を置く。


「肉体の封印へ触れれば、千年前の失敗もまた響きます。私の真言も、試される」


 エノクは聖剣を握った。アリアが横に並ぶ。彼女は疲れている。腕には刃紋の跡が残り、息も荒い。それでも、その目はまっすぐ前を向いていた。


「行けるんですか」


 エノクが訊くと、アリアは唇の端を上げた。


「行くのよ」


「無理は」


「するに決まってるでしょ。でも、剣にはならない。そこは約束する」


 エノクは頷いた。


「お願いします」


「任せなさい。縁を斬るのは、あたしの役目みたいだから」


 彼女は双剣を鞘に収めた。斬るべき時までは抜かない。その姿は、以前よりずっと静かだった。怒りを捨てた静けさではない。怒りを鞘に収めた静けさだった。


 一行は、カオスの肉体が眠る封印区画へ向かって歩き出した。背後では、ヤクシャの赤黒い霧が消え、棺の名札がかすかに白く灯っている。すべての名を救えたわけではない。暗黒剣の呪いが世界から完全に消えたわけでもない。だが、少なくとも今、復讐を縁にしてカオスへ縛られていた名たちは、少しだけ離れることができた。


 アリアは振り返らなかった。


 振り返れば、また燃えるヴェルナが見えるかもしれない。だが、もうその炎は彼女を剣に変えるためだけのものではない。弔うべき名として、彼女の背に残っている。


 境界の剣は、怒りを抱えたまま、次の闇へ進んだ。

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