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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第6部 アルティエルの名
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第5話_大地と空

 黒星核停止帰路環が刻んだ光は、星の船の暗い中枢を細く走り続けていた。ハルナの作った輪は、黒星核を完全には止められなかった。だが、魂と器のずれ、名と空白の不協和、帰りたいのに帰れない者たちの苦しみを、ただ動力として吸われる流れから少しだけ外した。船の奥に続く黒い管のいくつかは赤黒い光を失い、棺の名札には白い空白が戻り、イリスの帳面とイーサーの星図の間には、帰るための細い線が生まれている。自爆ではなく、帰路を残して止める。その証明は、星の船の中に小さな反逆として刻まれた。


 だが、カオスはそれを許さなかった。


 黒星核の鼓動が一度、止まった。止まったように聞こえた。次の瞬間、船全体が深く沈み込むように揺れた。床ではない。空間そのものが落ちたのだ。白い骨の柱が軋み、黒い管が蛇のように暴れ、遠くの棺の列から帰還者たちの声が一斉に噴き上がる。帰る。王へ。名を返せ。混ざれ。帰る。帰る。だが、その合唱の下に、別の音が混じった。大地の悲鳴だった。


 テイルが顔色を変えた。


「地上が裂ける」


 彼は竜剣を床に突き立てた。黒い金属の床は大地ではない。けれど、星の船は地上の黒星片と霊脈でつながっている。テイルの竜気はそのつながりを伝い、遠い地上の響きを拾った。龍神湖の支脈。ヴェルナ旧街道の裂け目。白麦原の黒い畑。ランバード城の地下聖堂。血潮野。剣塚。シオゥルの死者の地。黒星片が刺さった場所から、霊脈が内側へ引き裂かれようとしている。


 ハルナが黒星核停止帰路環の反応を見て叫んだ。


「まずい! 黒星核が餌を吸えなくなった分、地上側の霊脈を直接裂いてる。大陸の傷を広げて、不協和を新しく作る気だ!」


 イーサーの星図板にも、赤黒い線が一気に広がった。大陸の霊脈図が破れた紙のように裂け、その裂け目から黒い光が星の船へ流れ込んでいる。イーサーは息を呑んだ。


「同時に、星外航路が開いています。黒星核の本体が逃走路を作っている。地上の裂け目で力を補いながら、カオスの魂魄と名を外へ逃がすつもりです」


 アリアが双剣を抜いた。


「地上を裂いて、空へ逃げるってこと?」


「はい」


 イーサーの声は硬い。


「肉体を封じられ、黒星核を弱められれば、カオスは肉体を捨ててでも魂魄と名を外へ出す。千年前と同じことが起こります。ただし、今度は大陸そのものを裂いた傷を踏み台にして」


 エノクは聖剣アーク・リヴァイヴを抜いた。刃は白銀に光るが、黒星核の鼓動に押されて細かく震えている。彼の胸元の王家の鍵も、熱を帯びていた。千年前の封印が不完全だったのは、カオスの肉体だけを閉じ、魂魄と名を逃がしたからだ。今また、同じ逃走が起ころうとしている。違うのは、今の大陸にはすでに黒い傷が残り、その傷をさらに裂かれれば、地上は取り返しのつかない形で魔へ傾くことだった。


「止めるには」


 エノクが言うと、ハルナが即座に答えた。


「大地側と空側、両方を閉じる! 片方だけじゃ駄目。大地を押さえないと黒星核に力が戻る。空を塞がないとカオスが逃げる。帰路環は帰る道を残すためのものだから、敵の逃げ道まで全部は塞げない!」


 テイルが竜剣を引き抜いた。


「大地は俺がやる」


 その声には迷いがなかった。だが、エノクには分かった。迷いがないのではない。迷っている時間がないだけだ。テイルの額には汗が滲み、瞳の奥には龍神湖で父と向き合った時の緊張が宿っている。竜王ザッハの血を継ぐ者。強いからこそ場を支える者。彼はその言葉を、今ここで証明しなければならない。


 イーサーも星図板を掲げた。


「空は私が読みます。星外航路を封じる。ただし、切断ではなく、閉鎖です。逃走路だけを閉じ、帰還路は残す」


 アリアが彼を見た。


「できるの?」


「できる、と言うべき場面でしょうね」


「言えるようになったじゃない」


「恐怖で判断が雑になっている可能性もあります」


「それは言わなくていい」


 ハルナは黒星核停止帰路環へ追加の銀線をつなげながら叫んだ。


「テイル、これを床じゃなくて霊脈の裂け目に刺すつもりで竜気を流して! 船の床は大地じゃないけど、黒星片経由で地上につながってる。あんたが踏み抜けば、地上側の裂け目へ竜気が届く!」


「踏み抜けってことか!」


「壊さずに踏み抜いて!」


「無茶言うな!」


「無茶じゃない仕事、今まであった?」


「ねぇな!」


 テイルは笑った。獰猛な笑みだった。彼は竜剣を両手で握り、黒い床へ深く突き立てた。金属と骨の床が悲鳴を上げる。竜剣の刃から金色の竜気が走り、黒星片の反響線を通じて地上へ落ちていく。


 その瞬間、テイルの視界が変わった。


 彼は星の船の中にいながら、大陸の下を見ていた。霊脈は川のように流れている。ただし、今の川は裂け、ねじれ、黒い根に引き裂かれていた。龍神湖の底で青い流れが悲鳴を上げ、ヴェルナ旧街道の下で剣舞の祭壇跡が黒く軋み、白麦原の畑の下で細い水脈が震え、ランバード城の地下で王家の古い封印が再び熱を帯びている。どこも、黒星核へ引かれている。裂け目が広がれば、そこから大陸の力が吸われ、傷は魔大陸の奥へ深く沈む。


 黒い根の向こうで、竜王ザッハの影が見えた。


 老いた竜王は、湖の底のような暗い場所に立っていた。厳しい目。焼けた青い鱗。テイルの胸に残る黒く焦げた鱗と同じ色の傷。彼は何も言わなかった。ただ、大地へ手を置いている。


「親父」


 テイルの喉から声が漏れた。


 ザッハの影は、ようやく口を開いた。


「斬るな」


「分かってる!」


「押さえろ」


「分かってる!」


「力は、敵を砕くためだけにあるのではない」


「それも、分かってる!」


 テイルは叫んだ。叫びながら、竜剣をさらに深く押し込む。


「強い奴が、場を支えるんだろ! 何度も言うな!」


 ザッハの影が、少しだけ目を細めた。笑ったのかもしれない。次の瞬間、テイルの背に竜の影が開いた。翼ではない。大地へ根を張る竜の影。湖を抱え、山を支え、霊脈を押さえる巨大な竜の姿。テイルの身体は小さい。竜王には遠い。だが、その血は確かに流れている。


「テイル・ザッハリオン!」


 イリスが名を呼んだ。


「テイル!」


 アリスも叫ぶ。


「踏ん張れ、テイル!」


 アリアが怒鳴る。


「竜の若造、倒れんな!」


 ハルナが銀線を締める。


「落ちたら引っ張り上げるけど、高いよ!」


「請求するな、この状況で!」


 テイルは歯を食いしばり、黒い根と霊脈の間へ竜気を流した。壊すのではない。切り離すのでもない。裂け目の両側へ、竜の爪を立てるように力を広げ、これ以上裂けないよう押さえる。大陸の下で、幾つもの裂け目が止まった。完全に癒えたわけではない。傷は残る。だが、広がらない。黒星核へ向かって吸われていた大地の力が、一拍、二拍、三拍と遅れる。


 黒星核の鼓動が乱れた。


 同時に、上空が開いた。


 星の船の中枢の天井が裂け、そこに本物の空ではない星海が現れる。地上から見上げる夜空ではなく、世界の外側を流れる航路。黒い星々の川、滅びた星の破片、名のない光、遠い創世の残骸。それらを貫くように、カオスの逃走路が伸びていた。黒星核から立ち上がる赤黒い線が、星海の奥へ向かっている。その先には、別の外宇宙があるのだろう。カオスがかつて来た場所、あるいは新たな墓場を作る場所。


 イーサーは星図板を両手で掲げた。だが、星図は乱れ続ける。地上の星では足りない。ここは世界の外縁だ。彼がこれまで学んだ空の地図だけでは、カオスの逃走路を閉じられない。


 黒い声が響く。


 空の子よ。


 見えるのなら、切り捨てよ。


 一つの線を閉じればよい。


 大陸の傷を封じるため、帰還者の帰路も閉じよ。


 星外航路をすべて断て。


 イーサーの指が止まった。


 それは、かつて彼が選びかけた答えだった。危険な線を切る。汚染区域を地図から外す。大陸を救うため、戻れない者を戻さない。星の船も、帰還者も、カオスも、まとめて外へ放逐する。そうすれば、大地は助かるかもしれない。名を知らない者たちを切り捨てれば、計算は容易になる。


 だが、イリスの帳面が光った。


 水晶の羽の帰還者。寒い、と訴えた。


 白麦原。傷を受けた土地。名を保持。


 アイオン。アリオン。どちらの名も消さない。


 イーサーは息を吸った。


「私は、もう線だけを見ません」


 彼は星図板を開き、翼を広げた。狭い中枢で無理に翼を広げたため、羽先が黒い管に触れ、焦げる。痛みが走る。それでも彼は閉じなかった。羽の一枚一枚に星図が浮かび、地上の空、世界の外縁、帰還者の空白、黒星核の逃走路が重なる。


「イーサー!」


 エノクが叫ぶ。


「大丈夫ですか!」


「大丈夫ではありません」


 イーサーは歯を食いしばった。


「ですが、見えています」


 彼の目に、ヨシュアの静寂が宿る。かつて沈黙した賢者が見ていたもの。言えば世界が揺らぐから黙った真実。イーサーは、その沈黙を繰り返さないために声を出す。


「逃走路は三重です。表層は黒星核の反響線。中層は魂魄の帰還願望。深層はカオスの名が外へ戻ろうとする名層航路。表層だけを閉じても、魂魄か名が逃げる。すべてを切れば、帰還者の帰路も消える。だから、逃走と帰還を分けます」


 アリオンが竪琴を構えた。


「私の真言を乗せます。逃げる名と帰る名の境を作る」


「まだ完全な真言ではないのでしょう」


 イーサーが言う。


「はい」


 アリオンは苦笑した。


「ですが、逃げ続けてきた者として、逃走路の音くらいは聞き分けます」


 アリアが短く笑う。


「使える自虐ね」


「役に立てて光栄です」


「調子に乗らない」


 アリオンは竪琴を鳴らした。音は細い。だが、逃げる線と帰る線の違いを震わせるには十分だった。イリスが帳面を開き、帰還者の空白を守る。アリスが境界糸を伸ばし、魂魄の帰還願望がカオスの逃走に混ざらないよう支える。ハルナの黒星核停止帰路環が、帰路だけを細く光らせる。


 イーサーは星図板を頭上へ掲げた。


「星外航路、封鎖。ただし、帰還路は保持。カオスの名に属する逃走線のみを閉じる」


 黒い声が唸った。


 空は我がもの。


 星外は我が故郷。


 我は、帰還する。


 イーサーの声が強くなる。


「いいえ。あなたの逃走と、帰還者たちの帰路は同じではない」


 彼の翼から銀白の光が放たれた。星図板の線が、黒い星海へ伸びる。逃走路の表層が閉じる。黒星核の反響線が切れ、赤黒い光が跳ね返る。中層の魂魄の願望が暴れ、カオスの名に引きずられそうになるが、アリスの境界糸とイリスの帳面がそれを押し留める。深層の名層航路では、アリオンの真言が一音だけ震え、カオスの名と帰還者の欠けた名を分けた。


 イーサーの羽が何枚も焦げ落ちた。


 エノクが一歩踏み出そうとしたが、アリアが止めた。


「今は駄目。あれはイーサーの場所」


「でも」


「支えるなら、名を呼びなさい」


 エノクは唇を噛み、叫んだ。


「イーサー!」


 イリスも続く。


「イーサーさん!」


 アリスも、テイルも、ハルナも、アリオンも、彼の名を呼んだ。呼ばれるたび、焦げ落ちた羽の輪郭が星図の光で補われる。完全には戻らない。傷は残る。だが、翼は折れなかった。


 イーサーは最後の線を閉じた。


 星海の奥へ伸びていたカオスの逃走路が、銀白の格子に阻まれる。逃げるための線は閉じる。だが、帰還者の欠けた名へつながる細い帰路は残る。黒星核停止帰路環の光が、その線を保持した。地上へ戻る道、名が戻るかもしれない道、仲間たちが帰る道。


 空が閉じた。


 黒星核が、大きく脈を乱した。


 同時に、テイルが叫んだ。


「地上側、止めた!」


 彼の竜気が大陸の裂け目を押さえきった。龍神湖の支脈、ヴェルナの祭壇跡、白麦原の水脈、ランバード城の地下、剣塚、血潮野、シオゥルの死者の地。傷は消えない。けれど、裂け目はそこで止まった。大地が完全に癒えるわけではない。魔大陸の傷は残る。だが、今この瞬間、カオスは大地から新たな不協和を吸うことができなくなった。


 大地と空が、揃った。


 黒星核の鼓動が初めて、恐れに似た乱れ方をした。


 カオスの声が、深く低く響く。


 なぜ、閉じる。


 我は王。


 我は混沌。


 我は星々の死を抱くもの。


 大地は、我が傷。


 空は、我が道。


 エノクは聖剣を構えた。


「違う」


 彼は言った。


「大地は、テイルたちが支えている。空は、イーサーたちが読んでいる。帰還者の名は、イリスさんが記録している。魂と器の境は、アリスが守っている。黒星核の帰路は、ハルナが作った。言葉の道は、アリオンが残した」


 ティンカーベルが腰で鳴る。


「そして、お前は?」


 エノクは少しだけ息を吸った。


「僕は、逃がさないためにここに立つ」


 聖剣アーク・リヴァイヴが白銀に輝いた。カオスを斬り捨てるためではない。アベルのように死んで蓋になるためでもない。大地と空が閉じ、帰路が残り、名が記録され、境界が守られている。その場で、カオスと向き合うための剣だった。


 テイルは膝をついた。竜剣を床に突き立てたまま、肩で息をしている。腕には竜鱗のような光が浮かび、黒く焼けた父の鱗が胸元で青く輝いていた。イーサーも翼を半ば焦がし、星図板を抱えて片膝をつく。それでも、二人は倒れなかった。


 ハルナが二人を見比べる。


「大地係と空係、無事?」


「係で呼ぶな」


 テイルが呻く。


「無事ではありませんが、機能はしています」


 イーサーが答える。


「それを無事って言うの、たぶん技師だけだよ」


「あなたが言いそうなことですが」


「言うけど」


 アリスが二人に境界糸を伸ばし、イリスが名を呼んで輪郭を保つ。アリアは黒星核の奥へ向けて双剣を構え、アリオンは竪琴の弦を押さえて次の真言に備えた。


 黒星核の奥で、巨大な影が動いた。


 逃走路を封じられ、大地からの不協和も断たれたカオスは、もはや外へ逃げられない。星の船の奥、肉体の封印、魂魄の棺、名層の王座。その中心へ、影が集まっていく。いよいよ、カオス自身がこちらを向いたのだ。


 エノクは仲間たちを見た。


 誰も無傷ではない。テイルは大地を押さえた代償で立つのもやっとだ。イーサーの翼は焦げ、ハルナの装置は悲鳴を上げ、イリスの帳面は黒い侵食の跡を残し、アリスの核は震え、アリアの双剣にも黒い筋がまとわりつき、アリオンの真言はまだ完全ではない。勝ってはいない。むしろ、これからが本当の戦いだ。


 だが、カオスは逃げられない。


 地上を裂いて力を補うことも、星外へ魂魄と名を逃がすことも、今はできない。大地と空が揃った。逃げ道は閉じ、帰る道だけが細く残された。


 エノクは聖剣を前へ向けた。


「ここで、終わらせます」


 奥から、カオスの声が答えた。


 ならば来い、名を持つ者たち。


 我が名を知り、なお立てるなら。


 黒い影が開き、星の船のさらに奥、カオスの肉体が眠る封印区画への道が現れた。


 一行は、傷ついた大地と焦げた空の光を背に、その道へ踏み出した。

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