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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第6部 アルティエルの名
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第4話_黒星核

 アリスの白い境界糸が示した通路は、星の船のさらに奥へ伸びていた。魂魄槽と器庫を抜けた先は、もう棺の列ではなかった。そこには、鼓動があった。床も壁も天井も、その鼓動に合わせてわずかに脈打っている。黒い金属の表面に、青白い文字のような傷が走り、走った傷がまた消え、消えた場所から赤黒い光が滲む。通路の両脇には、星導機巧とも血管ともつかぬ管が束になって並び、その中を魂の残響、器の欠片、名の空白、そして黒い炎の粒が流れていた。それらは一つの方向へ向かっている。船の中枢。黒星核へ。


 ハルナは歩きながら、ずっと無言だった。いつものように部品へ飛びつくことも、危険手当の請求を口にすることもない。耳は立ち、尻尾は低く、視線は壁の管と床の傷と天井の拍動を順に追っている。彼女の手には、父トルクの設計図がある。何度も開き、何度も閉じ、折り目が擦り切れた図面。星導封印機構。パンドラ系補助環。ダイダロス式、未完。その文字が、星の船の黒い光に照らされ、まるで今ようやく本来の場所へ連れてこられたように震えていた。


 イーサーもまた、星図板から目を離さない。彼の翼は狭い通路では広げられないが、羽先の一枚一枚が微細な星図のように光を宿している。ヨシュアから受け継いだ叡智と静寂の鍵は、船の中枢へ近づくほど強く反応していた。だが、その光は安定しない。地上の星図なら、大陸の霊脈、空の星、風の流れを線で結べる。ここでは線そのものが歪む。上へ伸びたと思った航路が下へ落ち、隣にあったはずの棺が遠い星の墓標へ変わり、名の空白が突然、通路の座標になった。


 エノクは聖剣アーク・リヴァイヴの柄に手を置きながら、二人を見た。ここでは剣を振るうだけでは進めない。アリアの双剣も、テイルの竜剣も、アリスの境界糸も、イリスの帳面も、アリオンの真言も、必要だ。だが、黒星核そのものへ触れるには、ハルナとイーサーが見ているものを理解しなければならない。


 やがて通路が開けた。


 そこは、巨大な心臓の中のようだった。広間の中央には、黒い星が浮いている。空に見えていた黒い星とは違う。こちらは核だ。黒星核。大きさは城の塔ほどもありながら、形は一定しない。球に見えた次の瞬間には多面体となり、花の蕾のように閉じ、また開き、開いた内側に無数の小さな星の残骸を見せる。表面には黒い金属の殻と白い骨の環が重なり、その周囲を七つではない、数えきれないほどの輪が回っていた。輪の一つには魂魄槽からの管がつながり、一つには器庫からの管が、一つには棺の名札からの空白が、一つには地上の黒星片へ伸びる反響線がつながっている。


 鼓動が響く。


 どん、と一拍鳴るたび、全員の胸の奥で何かがずれた。エノクは一瞬、自分の名がエノクではなかったような気がした。アリアは双剣の柄を握り、刃になれという古い囁きを振り払う。テイルは大地のない床へ足を踏みしめ、竜の血が地上へ帰ろうと暴れるのを抑えた。アリスは胸元の核を押さえ、イリスがすぐに名を呼ぶ。ハルナは耳を塞ぎかけ、しかし止めた。イーサーは羽を震わせ、星図板を胸に押し当てる。アリオンは竪琴の弦を押さえ、音が勝手に鳴らないよう必死にこらえていた。


「これが」


 エノクが呟く。


 ハルナが低く答えた。


「黒星核」


 彼女の声には、恐怖と怒りと、技師としての抑えがたい理解欲が混じっていた。


「炉じゃない。最初は、外の星の魔導炉だと思ってた。でも違う。これは炉でも心臓でも、ただの動力核でもない。もっと嫌なもの」


「何が嫌なんですか」


 イリスが問う。


 ハルナは黒星核を睨んだまま、父の図面を広げた。


「普通の機械は、同じ拍子で動く部品を組む。ずれが出たら壊れる。だから調律する。油を差す。歯車の噛み合わせを直す。でも、こいつは逆。ずれを作って動いてる」


 イーサーが星図板を重ねる。


「ライラの不協和」


 その言葉に、アリオンが息を呑んだ。


「そうです」


 イーサーは続けた。


「地上の魔導体系は、形こそ違えど、根底ではライラの調和に依存しています。名と形、魂魄と器、大地と血脈、刃と境界、機構と星導、叡智と静寂、言葉と真言。それぞれ異なるが、互いに響き合う。黒星核は、その響き合いを逆用している」


「逆用?」


 テイルが眉をひそめる。


「調和させるのではなく、わざと不協和を作るのです。魂と器をずらす。名と形をずらす。帰りたいという願いと帰る場所をずらす。生者と死者、記録と空白、剣と人、大地と星。そのずれを修正しようとする世界側の力を、黒星核が吸い上げている」


 ハルナが歯を食いしばった。


「だから、混ぜるんだ。魂と器を合わないまま押し込む。名札を空白にして命令を入れる。帰還者に帰る場所を与えず、帰れって言い続ける。ずっとずれ続けるようにしてる。ずれが大きいほど、直ろうとする力が生まれる。その力を、こいつが食ってる」


 アリスが青ざめる。


「苦しみを、動力にしてる」


「そう」


 ハルナの声は震えていた。


「苦しみそのものじゃない。苦しみから生まれる、元に戻ろうとする力。最悪。技術としては、すごい。すごいけど、最悪。こんなの作ったやつ、工具箱に頭から突っ込みたい」


 ティンカーベルが低く言った。


「表現が独特だが、怒っていることは分かる」


 エノクは黒星核を見た。カオスはただ壊しているのではない。ずらしている。元に戻ろうとする力を奪い続けるために、傷を治さず、苦しみを終わらせず、名を完全には消さず、空白のまま残している。帰還者たちが救われない理由が、そこにあった。彼らが完全に死んでしまえば、動力にはならない。完全に救われても、動力にはならない。だから、星の船は彼らを中途半端に保つ。帰りたいまま、帰れないまま、名を失ったまま、器に合わないまま。


「止める方法は」


 アリアが問う。


 ハルナはすぐには答えなかった。父の図面、ダイダロスの古い記録片、自分が黒星核の反響層で写し取った図、そしてイーサーの星図を床に並べる。黒星核の拍動で紙が揺れ、黒い光が文字を汚そうとする。イリスが帳面をその中央に置き、名の空白を守る光で図面を支えた。


「普通に壊せば」


 ハルナは言った。


「大爆発する。黒星核に繋がってる魂魄槽、器庫、名層、地上の黒星片、全部が反動を受ける。星の船も崩れる。私たちはたぶん帰れない。地上の傷も広がる」


 テイルが鼻を鳴らす。


「自爆案は却下だな」


「言われなくても却下」


 ハルナは強く言った。


「父さんの図面にも、ダイダロスの記録にも、自爆停止の線はある。あるけど、最後に赤字で消してある。父さんの字で書いてあった。黒星核は直すな。まず止め方を探せ。さらに、その下に……」


 彼女は図面の端を指でなぞった。古い煤の下に、かすれた文字があった。


 帰路を残せ。


 ハルナは唇を噛んだ。


「父さん、ここまで考えてた。黒星核を止めるだけなら、ぶっ壊せばいい。自分ごと壊せば、一瞬は止まる。でも、それじゃ駄目だって分かってた。止めた後に、誰かが帰る道を残さないといけないって」


 イーサーの表情が変わる。


「それは、星外航路の制御と同じ発想です。閉じるのではなく、帰路を保存したまま流れを弱める」


「そう。あんたの理論と父さんの図面、ダイダロスの補助環が噛み合う」


 ハルナは床に膝をつき、工具を広げた。


「黒星核の不協和をゼロにするのは無理。いきなり調和させようとすれば反発で爆ぜる。でも、不協和を食わせる経路を変えられる。苦しみから直接吸うんじゃなくて、戻る道へ逃がす。魂と器、名と形のずれを、黒星核の餌じゃなくて、帰還路の印に変える」


 アリオンが静かに目を見開いた。


「名封じと、帰路の真言を合わせるのですか」


「たぶんね。あんたの真言で名層の向きを作る。イーサーの星図で航路を読む。イリスの帳面で奪われた名をカオスの所有から外す。アリスの境界糸で魂と器を混ぜない。テイルが地上の霊脈へ逆流しないよう支える。アリアが黒い根と境界を切る。エノクの鍵と聖剣で、王家側の封印命令をつなぐ。ティンカーベルは……」


「私は何だ」


 ティンカーベルが不満そうに鳴る。


「エノクが自分を蓋にしようとしたら叱る係」


「重要だな」


「重要だよ」


 エノクは少し笑ったが、すぐに表情を引き締めた。


「装置は作れますか」


「作る」


 ハルナは即答した。


「作れるかじゃない。作る。ただし、ここにある材料だけじゃ足りない。黒星核の外周輪から部品を剥がす。星導管を何本か切る。帰還者の棺は傷つけない。魂魄槽の圧を下げる。イーサー、外周輪の回転周期を読んで」


「読みます」


 イーサーは星図板を黒星核へ向けた。彼の翼が少し開く。狭い広間では危険だが、今は羽一枚一枚が星図の補助板として機能している。黒星核の輪は地上の時間に従わない。だが、彼はヨシュアの静寂を思い出すように目を閉じ、不協和の中から周期の空白を読む。


「三拍ごとに魂魄槽。五拍ごとに器庫。七拍ごとに名層。重なるのは百五拍後。ただし、黒星核がこちらを認識すれば周期が変わります」


「百五拍。短い?」


「非常に短い」


「うん、最悪。よし」


 ハルナは工具を噛むようにくわえ、両手で銀線と霊脈鉱の針を組み合わせ始めた。彼女の動きは速かった。だが、ただ速いのではない。父の図面を横目で見て、ダイダロスの記録片を足元に固定し、イーサーの星図が示す周期へ合わせて、部品の向きを変えていく。彼女の手元で、小さな輪が作られていった。補助環に似ている。だが、パンドラボックスの補助環とは違う。閉じるための輪ではない。戻る道を残したまま、黒星核の餌となる不協和を逃がす輪。


 ハルナは呟いた。


「名前は……帰路環。いや、停止環。だめ、どっちも足りない。黒星核停止帰路環。長い。後で決める」


 アリアが苦笑する。


「名前で悩んでる場合?」


「名前大事でしょ。ここまで来て名前を雑にしたら、イリスに怒られる」


 イリスは真面目に頷いた。


「怒ります」


「ほら」


 そんな短い会話の間にも、黒星核は反応を強めていた。周囲の管が赤黒く光り、棺の方角から帰還者たちの声が流れ込む。帰る。王へ。名を。混ざる。眠る。ハルナの作業台代わりになっている床にも、黒い根が伸び始める。


 アリアがすぐに斬った。


「作業続けて」


「言われなくても!」


 テイルが床へ竜剣を打ち込み、黒い根が地上の霊脈へ逆流するのを押さえる。


「長くは無理だぞ!」


「百五拍!」


「拍で言われても分かんねぇ!」


「だいたい、すごく短い!」


「余計分からねぇ!」


 アリスはハルナの周囲へ白い境界糸を伸ばし、魂魄槽から流れ込む声が装置に混ざらないよう守っている。混ざれば、装置そのものが帰還命令を持ってしまうかもしれない。彼女は震えながらも、核の光を保った。


「ハルナの部品、混ざらせない」


「助かる、アリス!」


「部品じゃないものも、混ざらせない」


「もっと助かる!」


 イリスは帳面を開き、聞こえてくる名の断片を空白ごと保持していた。名の断片が黒星核へ戻れば、装置は名の空白を餌として吸われる。彼女の帳面が、それを防ぐための仮の保管庫になっている。


「全部は、書けません」


 イリスの声が苦しげに漏れる。


 アリオンが竪琴を鳴らしながら言った。


「聞こえたものだけでいい。無理に拾えば、あなたが引き込まれます」


「でも」


「呼べない名も、空白として残せばいい。あなたがそう教えた」


 イリスは一瞬、彼を見た。それから頷いた。


「はい」


 エノクは黒星核の前に立ち、聖剣を構えた。黒い声が、彼へ向かって囁く。


 壊せ。


 聖剣で斬れ。


 核を砕けば、終わる。


 お前は生きて帰りたいのだろう。


 仲間を守りたいのだろう。


 ならば、ためらうな。


 エノクの手が微かに震えた。壊せば早い。黒星核を聖剣で斬れば、少なくとも目の前の拍動は止まるかもしれない。自分たちが帰れなくても、地上が助かるなら。そんな考えが、一瞬だけ胸をよぎる。アベルのように死ぬ道。自分を蓋にする道。


 ティンカーベルが鞘の中で怒鳴った。


「未熟者!」


「分かっています!」


「分かっているなら、剣先を下げるな。だが、核へ突っ込むな」


 エノクは苦く笑った。


「難しい注文です」


「生きるとは難しいことだ」


 エノクは聖剣を握り直した。


「僕は、壊すために来たんじゃない。帰る道を残して止めるために来た」


 聖剣が白く光り、黒星核の囁きを押し返す。


 ハルナの手元で、装置が形になった。小さな輪。中心には霊脈鉱の針、外周には星導銀線、内側には父の図面にあった帰路保持の符、ダイダロス式補助環の噛み合わせ、イーサーの星図理論に基づく航路位相、そしてイリスの帳面から写した空白保護の祈りが刻まれている。完成品と呼ぶには荒い。部品も足りない。仮組みに近い。だが、黒星核の拍動に対して、確かに別の拍子を持っていた。


 ハルナはそれを両手で持ち上げた。


「できた」


「名前は」


 こんな時にイリスが訊くので、ハルナは一瞬だけ目を丸くした。それから、にっと笑った。


「黒星核停止帰路環。仮名」


「長いですね」


「後で短くする!」


 イーサーが星図を見た。


「外周輪の三拍後、魂魄槽の接続が薄くなります。その次の五拍で器庫。その後、七拍で名層。三つが重なる瞬間に差し込む必要があります」


「失敗したら?」


 テイルが問う。


「爆ぜる」


 ハルナが即答する。


「やっぱり最悪だな!」


「だから失敗しない!」


 黒星核が反応した。外周の輪が速度を上げ、赤黒い光が広間を満たす。帰還者たちの声が悲鳴に変わり、魂魄槽の管が膨れ上がる。カオスの声が強くなる。


 帰路など不要。


 我が王座こそ帰還。


 戻る場所なきものは、我に混ざれ。


 ハルナは叫んだ。


「混ざるなって、さっき言ったでしょ!」


 彼女は走った。黒星核の足場へ向かって。すぐに黒い根が伸びる。アリアが斬る。テイルが押さえる。アリスが境を作る。イリスが名の空白を守る。アリオンが真言で拍子を整え、イーサーが外周輪の隙間を読む。エノクは聖剣の光でハルナの道を照らした。


「今です!」


 イーサーが叫ぶ。


 ハルナは跳んだ。猫人の身軽さで黒い足場を蹴り、外周輪の隙間へ身を滑り込ませる。黒星核の拍動が耳を潰す。目の前に、巨大な黒い星の表面がある。そこには父の設計図で見た接続点が、確かにあった。だが、接続点の奥から声がした。


 ハルナ。


 彼女の手が止まりかけた。


 父の声だった。


 トルク・ミャウレンの声。古い工房の匂い。油まみれの手。部品代を数えながら笑う横顔。危ない場所へ行く時に、すぐ戻ると言った声。


 ハルナ。


 ここまで来たなら、見ろ。


 中へ入れば、全部分かる。


 黒星核の中に、父の影が見えた。機械に絡まれ、けれどどこかで生きているような影。ハルナの喉が詰まる。ここで装置を差し込めば、接続は切れる。父の手がかりも消えるかもしれない。中へ入れば、父がどうなったのか分かるかもしれない。


 だが、父の図面の文字が目に入った。


 帰路を残せ。


 ハルナは歯を食いしばった。


「父さんが本当にそこにいるなら、あたしを迷わせる言い方しないで」


 彼女は装置を接続点へ叩き込んだ。


「帰る道を残す。あたしも、みんなも、あんたも!」


 黒星核停止帰路環が光った。


 白ではない。青でもない。複数の光が重なり、互いに喧嘩しながらも、一つの輪を作る。魂魄槽、器庫、名層、地上の霊脈、星外航路。そのすべてに細い帰路の線が引かれた。黒星核の拍動が大きく乱れる。苦しみから直接力を吸う経路が、一瞬だけ帰路へ逃がされる。棺の中の帰還者たちがざわめき、名札の空白に白い光が走る。


 だが、核は止まらない。


 ハルナは顔を歪めた。


「やっぱり、完全停止は無理か!」


 イーサーが星図を確認する。


「不協和吸収は低下。外周輪、一部停止。魂魄槽への圧力低下。器庫混交、遅延。名層への侵食、三割減。ただし、黒星核本体は稼働継続」


「つまり」


 テイルが叫ぶ。


「効いたけど、まだ動いてるってことか!」


「そう!」


 ハルナは黒星核の足場から飛び降り、アリアに支えられた。


「完全に止めるには、肉体、魂魄、名を同時に処理しないと無理。核だけ止めても、カオス本体が不協和を再生成する。だけど、帰路は作った。自爆しなくても、帰る道を残したまま弱められるって証明した!」


 彼女は息を荒げながら笑った。


「父さん、見た? 自爆じゃなくても止められる。まだ途中だけど、止め方はある」


 黒星核の奥で、父の影のようなものが一瞬だけ揺れた。声は聞こえない。だが、ハルナには、工具が一つ軽く鳴ったように感じられた。


 エノクはハルナへ駆け寄った。


「無事ですか」


「無事に見える?」


「見えません」


「じゃあ正解。でも生きてる」


 ハルナは笑った。疲れ切っていたが、その笑みには誇りがあった。


「帰る道、残したよ」


 イーサーは星図板に新しい線を刻んでいた。黒星核停止帰路環によって生まれた細い線。船の奥へ進む道であり、戻るための道でもある。


「この線があれば、さらに奥へ進んでも帰還不能にはなりにくい。完全ではありませんが、星外航路を地上側へ結び直せます」


「完全じゃなくても、あるだけで違う」


 アリオンが言った。


「真言も、そこへ乗せられる」


 イリスは帳面に記録した。


 黒星核。不協和を動力とする。魂と器、名と形、帰還願望と帰還不能のずれを利用。ハルナ・ミャウレン、父トルクの設計図、ダイダロスの記録、イーサーの星図理論を統合し、黒星核停止帰路環を作成。完全停止には至らず。ただし、不協和吸収低下、帰路保持成功。


 彼女は最後に、もう一行書いた。


 自爆ではなく、帰る道を残す。


 アリスがそれを見て、小さく言った。


「それ、大事」


「はい」


 イリスは頷いた。


「とても大事です」


 黒星核はまだ鼓動している。カオスの声も消えていない。奥へ進むほど、肉体、魂魄、名の三つが絡み合う本当の戦いが待っている。けれど、今、一行の背後には道があった。帰るための道。仲間が戻るための道。帰還者の名が、いつかカオスのものではなくなるための細い道。


 エノクは聖剣を握り直した。


「進みましょう」


 ハルナが息を整えながら、工具帯を叩いた。


「次に壊れる前にね。あの装置、仮組みだから長持ちしない」


「どれくらい持つ」


 テイルが訊く。


「希望的観測で、ちょっと」


「また分からねぇ!」


 ティンカーベルが呆れたように鳴った。


「だが、戻る道はある。なら、未熟者ども、進むしかあるまい」


 イーサーが星図を開き、アリオンが弦を鳴らし、アリスが境界糸を足元へ伸ばし、イリスが帳面を胸に抱いた。アリアが先頭へ立ち、テイルが背後を支える。ハルナは一度だけ黒星核を振り返った。父の影はもう見えない。だが、図面は彼女の手にある。未完だった線は、今、仲間の帰路として船内に刻まれている。


「父さん」


 彼女は小さく呟いた。


「未完は、あたしが継ぐ。でも、あたしは帰るからね」


 その言葉を残し、一行は黒星核の鼓動を背に、さらに奥へ進んだ。

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