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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第6部 アルティエルの名
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第3話_魂と器

 イリスの帳面に残された白い光を道標として、一行は棺の列の奥へ進んだ。星の船の内側は、歩けば歩くほど船らしさを失っていく。黒い金属の床はところどころ柔らかく沈み、白い骨めいた支柱の内側では赤黒い光が脈打つ。壁のように見えていたものは、近づくと巨大な肋骨であり、通路のように見えていたものは棺の隙間であり、天井のように覆いかぶさる闇の奥には、上下の区別もないまま無数の器が吊られていた。人の形をしたもの、獣の形をしたもの、硝子の卵、金属の胎、木で編まれた檻、石の仮面、白い繭。どれにも魂魄の残響が詰め込まれている。けれど、その魂と器は合っていなかった。小さな器に大きな魂が押し込まれ、金属の殻に水のような意識が流され、鳥の魂が人の骨格へ縛られ、いくつもの名の断片が一つの黒い胸腔へ詰められている。


 アリスは歩く速度を落とした。足音が遅れる。彼女の小さな靴が黒い床へ触れるたび、床の下から誰かの指が叩くような音が返ってきた。魂と器が合っていない音。収まりきらないものが、内側から爪を立てる音。彼女にはそれが聞こえた。ほかの者にはただの船の軋みでも、アリスには違う。かつて自分が死者を臣民として縛り、自分の寂しさの国へ閉じ込めたからこそ分かる。器に合わない魂は、泣く。名を失った魂は、器の中で自分の形を探して暴れる。器だけが残ったものは、中身を求めて空っぽのまま誰かを呼ぶ。


 イリスが気づいて振り向いた。


「アリス、大丈夫ですか」


「大丈夫、じゃない」


 アリスは正直に答えた。自分の胸元の名の核を両手で押さえている。そこが少し熱い。いや、熱いのではない。船の中の器たちが、彼女の核へ反応しているのだ。人形。器。魂を入れられたもの。命を与えられたもの。死者を縛ったもの。星の船は、アリスをそういう分類で見ている。


 ハルナは近くの器へ小鏡を向けた。鏡面に黒い波が走り、すぐに彼女は顔をしかめる。


「この区画、魂魄槽と器庫が一緒になってる。普通は別々に扱うものを、黒星核の拍子で無理やり同期させてるんだ。器の形に魂を合わせるんじゃなくて、魂の境界を削って器へ流し込んでる。ひどい。機械としても最悪。これ、修理じゃなくて拷問だよ」


 テイルが鼻に皺を寄せた。


「臭ぇ。血の臭いじゃねぇ。魂が腐る臭いって言えばいいのか」


「竜神族の感覚では、そう認識されるのでしょう」


 イーサーの声も硬かった。星図板はこの区画に入ってから何度も乱れている。名前ではなく器の型で空間が作られているため、彼の星図は点を結べない。イリスの帳面だけが、かろうじて地上側の基準を保っていた。


 アリアは双剣の柄に触れながら、通路の奥を睨んだ。


「ここは、嫌な場所ね」


「お前にも分かるのか」


 テイルが訊くと、アリアは短く答える。


「境が腐ってる。人と剣の境が曖昧になった時と似てる。剣になれば楽だって囁いてくるものと、同じ臭いがする」


 アリオンは何も言わず、竪琴の弦を指で押さえていた。鳴らしていない。ただ、鳴らないように押さえている。真言の音がここで不用意に響けば、魂と器の混交をさらに強めかねない。彼の表情には、千年前の封印の場を思い出した者の苦さがあった。


 やがて通路の先に、巨大な広間が開けた。


 そこには、玉座があった。


 アリスは足を止めた。


 広間の中央、無数の黒い管と白い繭に囲まれた場所に、陶器のように白い玉座が置かれている。だが、それは不死皇帝の玉座そのものではなかった。似ている。あまりにも似ている。高すぎる背もたれ、細い肘掛け、座る者を小さく美しく見せる形。だが、玉座の背後には星の船の管が無数に絡み、そこから魂魄の光が流れ込んでいた。玉座の上には、アリスに似た人形が座っていた。白い肌。硝子の瞳。金と銀の髪。胸には名の核に似た黒い星。だが、その口元は微笑んでいるのに、目は空っぽだった。


 アリスの喉が鳴った。


「わたし」


 玉座の人形が、同じ声で答えた。


「わたし」


 エノクが前へ出ようとした。だが、床から白い繭の糸が伸び、彼の足元を阻む。アリアが即座に斬ろうとするが、イーサーが止めた。


「待ってください。無理に斬れば、周囲の魂魄槽が破れます」


「なら、どうしろっていうの」


 アリアの声に怒りが滲む。


「境界を見極めてください。あの玉座は、アリスを中心に反応しています」


「つまり、アリスを狙ってるってことね」


「はい」


 アリスは一歩後ずさった。玉座の人形も、同じように首を傾ける。すると、広間中の器が一斉に震えた。人形の器、金属の器、骨の器、硝子の器。そこに詰められた魂たちが、アリスの胸の核へ手を伸ばすように揺れる。


 黒星核の声が、広間に満ちた。


 器の娘。


 魂を入れられたもの。


 人間でもなく、人形でもないもの。


 アリスの体が強張る。


 お前は苦しかった。


 人間になれず。


 人形にも戻れず。


 作った者に置かれ。


 死者を集め。


 王を名乗り。


 それでも空だった。


 イリスが叫んだ。


「聞かないで、アリス!」


 だが、声は届いていた。黒星核の声は耳から入るのではない。名の核へ直接触れてくる。アリスは胸を押さえたまま、玉座の人形を見つめた。怖い。そこにあるのは、ただの幻ではない。自分がなれたかもしれない姿だ。不死皇帝の外殻を脱がなかった場合の姿。死者をもっと縛り、魂と器の境をもっと壊し、寂しさを消すために全部を混ぜた場合の姿。


 玉座の人形が微笑んだ。


「人間でも人形でもなくなれば、苦しまない」


 アリスの肩が震えた。


「魂でも器でもなくなれば、置いていかれない。誰が誰でもなくなれば、誰も寂しくない。混ざれば、終わる。混ざれば、痛みは一つになる。一つになれば、名はいらない」


 アリスは唇を噛んだ。血は出ない。人形の唇だから。それがまた苦しかった。血が出ないこと。涙が出ても、人間の涙と同じなのか分からないこと。寒いと感じても、痛いと感じても、自分が何なのか分からなくなること。


 玉座の人形は囁き続ける。


「シモンは、お前を置いた。死者は、お前を王と呼んだ。仲間たちは、お前を許していない。人間は、お前を人形と呼ぶ。人形は、お前を異物と呼ぶ。ならば、境など捨てればいい。カオスの王座へ来れば、魂も器も、罪も寂しさも、一つに溶ける」


 アリスの足元へ黒い糸が伸びた。玉座からではない。周囲の器たちからだ。器に合わない魂たち、名を失い、輪郭を失い、苦しみ続けるものたちが、アリスの核へ触れようとしている。彼女を仲間にしようとしている。救おうとしているのかもしれない。呑み込もうとしているのかもしれない。その区別すら曖昧だった。


 エノクは聖剣を抜きかけた。


「アリス!」


 ティンカーベルが鋭く鳴る。


「待て、未熟者! お前が斬れば、アリスごと境が裂ける」


「でも」


「呼べ!」


 エノクは息を吸った。


「アリス!」


 イリスも叫ぶ。


「アリス!」


 アリアが続く。


「アリス、そっちへ行くな!」


 テイルが怒鳴る。


「アリス! 混ざるな!」


 ハルナが震える声で叫ぶ。


「アリス! あんたの核は部品じゃない!」


 イーサーが星図を開き、名の位置を固定する。


「アリス。現在座標、保持」


 アリオンが竪琴の弦を一本だけ鳴らした。


「アリス」


 皆が呼ぶたび、アリスの胸元の核が白く光った。黒い糸が少し退く。だが、玉座の人形は笑った。


「呼ばれれば苦しい。名があるから、ひとりになる。名があるから、罪を持つ。名があるから、置いていかれる。名がなければ、苦しまない」


 アリスは目を閉じた。


 その言葉は嘘ではない。名があるから、アリスは罪を覚えている。不死皇帝として死者を縛ったことを、自分のものとして持っている。名があるから、シモンに置いていかれた寂しさも、自分の傷として残っている。名があるから、仲間たちに完全には許されていないことも分かる。名があるから、恐怖は自分の恐怖になる。


 名がなければ、楽かもしれない。


 魂と器が混ざり、人間でも人形でも何でもないものになれば、もう考えずに済むかもしれない。罪も、寂しさも、恐怖も、誰のものか分からなくなる。カオスはそれを救いと呼んでいる。帰還者たちの中には、そう信じた者もいるのだろう。


 けれど。


 アリスは、イリスに名を呼ばれた時のことを思い出した。死者の都で、外殻が砕け、玉座の少女として立っていた時。アリス、と呼ばれた。罪を消されたわけではない。許されたわけでもない。それでも、その名で自分の輪郭が戻った。怖くても、寂しくても、罪があっても、わたしはここにいると分かった。


 アリスは目を開けた。


「わたしは、人間じゃない」


 黒い糸が止まった。


 彼女の声は小さかった。だが、広間に響いた。


「人間じゃない。死者でもない。普通の人形でもない。シモンがくれた器に、魂があって、名があって、でも、何なのか分からない時がある」


 玉座の人形が微笑む。


「だから、混ざればいい」


「違う」


 アリスは首を振った。


「分からないから、名がいる。苦しいから、境がいる。混ざったら、誰が苦しかったのか分からなくなる。誰にごめんなさいって言えばいいのか、分からなくなる。わたしがわたしでなくなったら、死者を縛った罪も、置いていかれて寂しかった気持ちも、仲間に怒られたことも、全部どこかへ溶ける」


 彼女は胸元の核を両手で包んだ。白い光が強くなる。


「それは、楽かもしれない。でも、逃げること」


 アリオンがわずかに息を呑んだ。逃げること。その言葉は、彼にも刺さったのだろう。


 アリスは玉座の人形をまっすぐ見た。


「わたしは人間じゃない。でも、アリスよ」


 広間の空気が震えた。


「人形の器でも、死者の国を作った罪があっても、寂しくても、怖くても、わたしはアリス。混ざらない。消えない。名前を捨てない」


 胸元の名の核から、白い糸が伸びた。


 黒い糸ではない。死者を縛る糸でもない。魂と器の間に引かれる、細く柔らかな境界だった。それはまずアリス自身を包み、次に足元へ伸び、周囲の器たちへ触れた。黒星核に混ぜられかけていた魂が、一瞬だけそれぞれの輪郭を取り戻す。人の魂は人の形へ、鳥の魂は翼の残響へ、水の魂は流れへ、獣の魂は獣の輪郭へ。完全ではない。名前までは戻らない。だが、混ざりきる前に境が生まれる。


 玉座の人形が顔を歪めた。


「境は痛み」


「うん」


 アリスは頷いた。


「でも、境があるから、呼べる」


 イリスが帳面を開いた。白い糸に触れた魂たちの微かな名の断片が、次々と頁へ浮かび上がる。言葉にならない音。文字にできない線。だが、空白ではない。イリスは必死に記録する。アリスの白い糸が、名の断片をカオスの命令から分けているのだ。


「アリス、続けられますか」


「少しなら」


「少しでいいです」


 アリアが双剣を抜いた。


「黒い糸はあたしが斬る」


 彼女の刃が走り、玉座から伸びる混交の糸を断つ。テイルが竜剣を床へ叩きつけ、魂魄槽の揺れを押さえる。ハルナが器庫の管へ遮断針を打ち込み、黒星核からの拍動を遅らせる。


「この管、魂を流す管じゃない! 魂を潰して器に合わせる圧縮管だ。最悪! 切るよ!」


「切っていいのか」


 テイルが叫ぶ。


「アリスの糸が境を作ってる間なら、魂が全部漏れない。今だけ!」


 イーサーが星図で広間全体の配置を固定する。


「器庫の中央座標、保持。混交反応、分離中。アリスの境界糸を基準線にします」


 アリオンが竪琴を鳴らす。


「魂と器、名と境。混ざるな。失うな。まだ帰るな」


 真言が白い糸に乗る。完全な名封じではない。けれど、名を奪われた魂たちに、今だけ自分の輪郭を思い出させる音だった。


 エノクは聖剣を抜いたまま、玉座へ向き直った。黒いアリスの人形が、今度は彼へ目を向ける。いや、その奥にいるものが、エノクを見た。


 カオスの声が響く。


 王家の子。


 器を守るか。


 魂を守るか。


 どちらかを選べ。


 すべては救えぬ。


 エノクは聖剣を握りしめた。


「全部を救えるとは言いません」


 彼は言った。


「でも、選べと言われて捨てるために来たんじゃない。守れる境を、みんなで作るために来ました」


 聖剣アーク・リヴァイヴが白く輝く。その光はアリスの糸を強め、イリスの帳面を守り、アリアの刃の境界を照らす。ティンカーベルが腰で鳴った。


「よし、未熟者。今のは少し聖剣向きだ」


「少しですか」


「まだ褒めすぎん」


 玉座の人形が立ち上がった。黒い星の核が胸で開き、無数の魂と器の残骸がそこへ吸い込まれようとする。アリスの白い糸が悲鳴のように震えた。彼女の小さな体が傾く。イリスが支えようとするが、アリスは首を振った。


「立つ」


「でも」


「立つ。わたしの境だから」


 アリスは一歩前へ出た。


 黒い人形も一歩進む。二人のアリスが向かい合う。片方は、カオスが見せる混ざり合った救い。もう片方は、罪を持ち、寂しさを持ち、人間ではなく、人形でもあり、それでも名を持つ少女。


 黒い人形が囁く。


「苦しむ」


「うん」


「置いていかれる」


「うん」


「許されない」


「うん」


「それでも?」


 アリスは頷いた。


「それでも、アリスでいる」


 彼女の名の核が、強く光った。


 白い糸が一斉に広がる。広間に並ぶ器たちの間へ、魂魄槽の管へ、棺の名札へ。混ざりかけたものを完全に救うことはできない。だが、混ざる速度を止め、境を作り、イリスが記録できるだけの時間を生む。玉座の人形は白い光に包まれ、ひび割れた。割れ目から黒い星の光が漏れる。カオスの声が低く唸った。


 境を持つ者は、孤独に死ぬ。


 アリスは答えた。


「境があるから、手を伸ばせる」


 黒い人形は砕けた。


 玉座も同時に崩れた。魂魄槽と器庫を結ぶ黒い管が何本も切れ、ハルナが慌てて遮断針を追加する。テイルが崩れかけた床を押さえ、アリアが暴走する黒い糸を斬り、イーサーが星図で退路を固定し、アリオンが真言で残響を鎮める。イリスは帳面へ、浮かび上がった名の断片を可能な限り書き込んだ。すべては無理だった。それでも、空白を残した。名が戻るための空白を。


 やがて広間は静まった。


 玉座のあった場所には、白い糸で区切られた小さな円が残っている。そこに、混ざりかけていた魂の断片がいくつも静かに浮かんでいた。眠っている。カオスの命令ではなく、ほんの一時、境を持ったまま眠っている。


 アリスはその場に座り込んだ。イリスがすぐに抱き寄せる。アリスの体は軽い。人形のように軽い。だが、震えは確かに生きている者の震えだった。


「アリス」


 イリスが呼ぶ。


「うん」


「アリス」


 エノクも呼んだ。


「うん」


「アリス」


 アリア、テイル、ハルナ、イーサー、アリオンが順に呼ぶ。ティンカーベルも、少し間を置いて低く鳴った。


「アリス」


 アリスは顔を上げた。硝子の瞳に、涙のような光が浮かんでいる。


「わたし、いる?」


「いる」


 エノクが答える。


「人間ではないです」


 イリスが言った。


「でも、アリスです」


 アリアが腕を組む。


「罪もある。そこは忘れない」


「うん」


「でも、アリスよ」


「うん」


 ハルナが壊れかけた遮断針を拾いながら言った。


「あと、あんたのおかげで魂魄槽の構造が少し分かった。これ、後でちゃんと図にする。境界糸、すごい。修理技術としては反則級」


 アリスは少しだけ首を傾げた。


「修理代、取る?」


「取らない。今回は、あんたの働きだから」


 テイルが珍しく柔らかい声で言った。


「よく踏ん張ったな」


「踏ん張った」


「偉い」


 アリスは目を瞬かせた。


「テイルが褒めた」


「悪いかよ」


「悪くない」


 イーサーは星図に新しい線を刻んでいた。


「アリスの境界糸により、魂魄槽と器庫の混交反応を一時分離。今後、魂魄層へ進むための基準線として利用可能です」


 イリスが帳面へ同じ内容を記録する。だが、最後に彼女は別の一文を加えた。


 アリス。人間ではない。けれど、アリス。魂と器の境界を守る者。


 それを見たアリスは、胸元の核を押さえた。


「それ、わたし?」


「はい」


「そっか」


 彼女は小さく息を吐いた。


「わたし、人間じゃない。でも、アリス」


 その言葉は、もう震えていなかった。


 広間の奥で、新しい扉が開いた。扉というより、白い糸で縁取られた通路だった。魂魄槽のさらに深い場所へ続いている。そこからは、さきほどよりも濃い黒星核の鼓動が聞こえる。カオスの魂魄に近づいているのだ。


 アリオンが竪琴を抱え直した。


「この先は、魂そのものへ触れる層です。器を失った者、器を奪われた者、器を間違えた者。今よりもさらに深く、境が崩れます」


 アリスはイリスの手を借りて立ち上がった。


「行く」


「休まなくていいのですか」


「怖いけど、行く。わたし、境を見られるから」


 エノクは頷いた。


「お願いします、アリス」


「うん」


 彼女は一歩前へ出た。小さな体。人形の器。名の核。罪と寂しさを抱えたまま、それでも自分の名を選んだ少女。その足元から、白い境界糸が細く伸び、暗い通路の奥へ道を作る。


 カオスの声は、まだ遠くで囁いていた。


 混ざれば救われる。


 境は痛み。


 名は孤独。


 アリスは振り返らずに答えた。


「痛くても、わたしはわたし」


 その言葉とともに、一行は魂魄槽のさらに奥へ進んだ。

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