第7話_アイオンの逃亡
ランバード城を離れたエノクが、荒れた王道の分岐まで戻った時、日はすでに傾きかけていた。空の黒い星は昼から夜へ渡ろうとする空の中でなお消えず、ゆっくりと回り続けている。廃墟の城から吹く風は背中にあり、胸には王家の鍵、腰にはティンカーベル、そして背には新たに得た聖剣があった。重かった。だが、その重さは歩みを鈍らせるものではない。自分が何の上に生きているのかを、背中から忘れるなと告げる重さだった。
石標のそばには、すでに何人かの仲間が戻っていた。テイルは片腕を布で縛り、大地を押さえ続けた疲労で顔色が悪い。ハルナは黒星核の反響図を抱えたまま、工具帯の中身を数えては渋い顔をしている。イーサーは額の銀環に星図の光を宿し、黙って大陸各地の黒い落下点を追っていた。アリスはイリスの隣に座り、胸元の名の核を両手で包んでいる。イリスは帳面を開き、分断された間にそれぞれが見たものを書き取っていた。アリアだけは少し離れた場所に立ち、ヴェルナの方角を見ていた。双剣の鞘には新しい白い線が走り、ヤクシャの残滓を断ったことを示すように微かに光っている。
エノクが近づくと、最初に気づいたのはティンカーベルではなくハルナだった。
「増えてる」
彼女は目を丸くした。
「剣が増えてる。ちょっと待って、王家の聖剣? 本物? 刃の中に霊脈式と名束ねの回路がある。うわ、すごい。触っていい?」
「駄目」
エノクとティンカーベルが同時に言った。
ハルナは唇を尖らせた。
「触るだけ」
「分解する目をしている」
ティンカーベルが冷たく言う。
「分解しない。今は」
「今は、を付けるな」
テイルが呆れたように息を吐いた。
「エノク、お前、本当に取ってきたのか」
「はい。抜けました」
「似合ってるかは別だな」
「そこは、もう少し励ますところでは」
「似合うようになれ」
テイルらしい返事だった。エノクは苦笑しようとして、ふと足を止めた。
「アイオンは」
その一言で、石標の周囲の空気が変わった。
誰もすぐには答えなかった。イリスは帳面の頁へ視線を落とし、アリスは肩を小さく震わせた。アリアは振り返らない。ハルナは口を閉じ、イーサーは星図板を伏せた。
エノクは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「まだ、戻っていないんですか」
アリスが小さく言った。
「戻るって、言ったのに」
その声は責めるというより、置いていかれた子どもの声に近かった。エノクは胸が痛んだ。アイオンは戻ると言った。戻ろうとすると言った。それがどれほど弱い約束か、みんな分かっていた。だが、弱くても約束だった。だから、戻る場所を残してきた。
イーサーが静かに言った。
「彼の足跡は追えません。通常の星図にも、魂魄反応にも、種族識別にも映らない。意図的に、観測から外れています」
「そんなこと、できますか」
「普通はできません」
イーサーの銀環がかすかに光る。
「ですが、真言と名隠しに長けた者ならば可能です。特に、観測される名をずらす術を持つ者なら」
アリアがようやく振り返った。
「つまり、アイオンは逃げた」
誰も否定しなかった。
エノクは背の聖剣へ手を伸ばしかけた。怒ったわけではない。いや、怒りもあった。だが、それ以上に不安があった。アイオンがひとりでどこかへ行った。黒い星が開き、帰還者が目覚め、欠けた真言が必要だと分かっている今、この時に。まるで、彼自身が最も見つけられてはならないもののように。
「何か、残していませんか」
エノクは訊いた。
「彼なら、逃げる時でも何か残す気がします。嘘でも、歌でも、言い訳でも」
「言い訳なら置いてほしかったわね」
アリアは苦い顔で言った。
「追いかけて殴る理由が増えるから」
「殴るんだ」
アリスが小さく言う。
「殴るわよ。剣では斬らない。そういう相手じゃないから」
テイルが腕を鳴らした。
「俺も殴る」
「順番待ちだね」
ハルナが言った。
「でも、殴るには場所がいる。場所を探さないと」
イリスは帳面の頁をめくった。そこには、以前書いた記録があった。アイオン。アリオンとの関係、未確認。本人は否定せず、肯定せず。戻る道を残す。彼女はその下に筆を置いたまま、まだ書けずにいた。
その時、エノクの背の聖剣が鳴った。
音は小さい。だが、弦に似ていた。ティンカーベルがすぐに反応する。
「抜け」
エノクは聖剣を抜いた。白銀の刃に青い線が走り、その光が石標の根元へ落ちる。そこには、誰も気づいていなかった細い糸が絡んでいた。銀でも、絹でもない。音で編まれた糸。弦の響きが物質になったような、かすかな線だった。黒星片の汚染でも、セラフィアの星図でもない。アイオンの気配が、そこに残っていた。
アリスが息を呑んだ。
「弦の匂い」
イーサーが星図板を開く。ヨシュアから継いだ叡智の光が銀環から走り、石標の糸と聖剣の光を結ぶ。ハルナが慌てて小鏡を取り出し、反響を写し取った。
「待って、これ、ただの残り香じゃない。封じてある。開くには……王家の鍵と聖剣と、名の記録がいる?」
イリスが帳面を抱えて立ち上がった。
「名の記録なら、あります」
「未確認って書いてるやつ?」
「はい。未確認でも、消してはいません」
「それで十分かも」
エノクは胸元の鍵を取り出し、聖剣の鍔へ近づけた。鍵と剣が応え、青白い光が糸へ流れる。イリスが帳面を開き、アイオンの名が書かれた頁を石標へ向けた。
糸が震えた。
そして、音がほどけた。
最初に聞こえたのは、アイオンの声ではなかった。古い戦場の風の音、パンドラボックスの起動音、遠い星の船の軋み、そして欠けた弦の震えだった。そこに、誰かの名を呼ぶ声が混じる。
『アリオン、応答せよ』
ダイダロスの記録で聞いた声と同じだった。
『名封じ真言、入力未達。弦入力、不安定。アリオン、応答せよ』
アリスが両手を胸元で握った。イリスの筆が震える。テイルは歯を食いしばり、アリアは目を細めた。イーサーは星図の光を強め、声の波形を見つめる。
糸の中で、次に別の声が聞こえた。
アイオンの声だった。
いつもの軽い調子ではない。掠れ、疲れ、笑う余裕を失った声。
『これを聞いているなら、私はまた逃げたのでしょう。まったく、成長がありませんね。千年もあれば、少しはましな逃げ方を覚えてもよさそうなものですが』
「千年」
エノクは呟いた。
その言葉だけで、もう逃げ場はなかった。
アイオンの声は続く。
『エノク。イリス。アリア。テイル。アリス。ハルナ。イーサー。ティンカーベル。全員の名を言える程度には、私はあなた方と旅をしてしまいました。それが嬉しく、怖かった。名前を覚えると、捨てにくくなる。置いていきにくくなる。だから、私は昔から、名前を曖昧にしてきたのです』
アリアが低く言った。
「馬鹿」
声は怒っていた。だが、震えていた。
『私は、アリオンです』
糸の音が、一瞬止まった。
誰も動かなかった。
『吟遊詩人アリオン。真言を運ぶ者。七英雄の一席。後の歌から消された名。パンドラボックスの名封じを完成させるはずだった者』
エノクは聖剣を握る手に力を込めた。胸の奥で、疑いが形を失い、真実として沈んでいく。アイオンはアリオンだった。嘘つきの吟遊詩人。軽薄な旅人。何度も助け、何度もはぐらかし、何度も大事なことを隠してきた男は、失われた七英雄の一人だった。
イリスは静かに帳面へ書いた。未確認の文字を消すのではなく、その下へ新たに記す。
アイオン。真名、アリオン。
筆は震えていたが、文字は崩れなかった。
『封印が失敗した理由は、私にあります』
その声は、先ほどよりも低くなった。
『そう言うべきか、そうではないと理屈を並べるべきか、私は千年考えました。戦場は混乱していた。黒星核の反響は強すぎた。カオスの名は地上の言語では掴めなかった。ダイダロスの機構にも無理があった。ヨシュアの計算も完全ではなかった。アルティエルは過負荷だった。アベルは血を流しすぎていた。言い訳はいくらでもあります。事実も、いくらでもあります』
糸の向こうで、アイオンが小さく息を吸う音がした。
『でも、欠けたのは私の音でした』
アリスが目を伏せた。
『私の真言が届かなかった。私が、最後の名を閉じられなかった。怖かったからか。遅れたからか。迷ったからか。逃げたからか。それを今ここで語ることが、まだできません。語れば、あなた方は私を見るでしょう。英雄としてではなく、失敗として。あるいは、許そうとするかもしれない。それが、なお怖い』
「許そうとするのが怖い?」
テイルが眉をひそめた。
イリスが小さく言った。
「許されてしまうと、自分で自分を罰する場所がなくなるからではないでしょうか」
誰もすぐには返せなかった。
アイオンの声は震えていた。
『私は、自分のせいで封印が失敗したと語ることを恐れています。千年前も、今も。英雄と呼ばれることも、罪人と呼ばれることも怖い。なら、ただの吟遊詩人でいればよかった。アイオンと名乗れば、少しだけ息ができた。アリオンという名から一音だけ欠けた偽名で、私は長く歩けた』
エノクは奥歯を噛んだ。アイオン。アリオンから一音欠けた名。気づけたはずだった。けれど、気づけなかった。いや、気づきかけても、彼の笑みに流されてきた。
『黒い星が開いた今、私の真言は危険です。私が近くにいれば、帰還者たちは私の音へ反応する。星の船も、カオスの名も、欠けた一音を探している。あなた方のそばにいれば、私は仲間ではなく、鍵穴になります』
ハルナが顔をしかめる。
「自分を部品扱いしてる」
ティンカーベルが低く言った。
「あいつの悪癖だ」
『だから離れます。あなた方を信じていないからではありません。むしろ、信じ始めたから離れるのです。ここで私が崩れれば、あなた方は私を支えようとするでしょう。それが怖い。支えられる資格がない者が、支えられることが怖い』
エノクは思わず叫んだ。
「資格じゃない!」
糸の記録に声は届かない。分かっていても、叫ばずにはいられなかった。
「資格で仲間を支えるんじゃない!」
記録の声は続く。
『エノク。あなたは、たぶん追ってくるでしょう。王家の聖剣を得たあなたなら、なおさら。やめろと言っても無駄でしょうね。あなたは妙なところで頑固です。シモンの教育でしょうか。いえ、あなた自身の性格ですね』
エノクの目が熱くなった。
『もし追ってくるなら、ひとつだけ覚えておいてください。私を英雄として追わないでください。七英雄アリオンを取り戻すために追わないでください。そんなものを期待されると、私はまた逃げます』
アリアが吐き捨てるように言った。
「面倒な男」
『アイオンとしても、アリオンとしても、私は逃げた者です。ですが、もしそれでも追ってくるなら』
少しだけ、声が止まった。
『私を、名前で呼んでください。どちらの名でも、かまいません。私が振り返れる名で』
糸の光が薄くなる。
『戻ると言った約束を、私はまだ果たしていません。だから、これは逃亡です。言い訳はしません。ですが、完全に消えるつもりも、まだありません。……まだ、と言っているあたり、本当に情けないですね』
最後に、短い弦の音が鳴った。
『追跡できるだけの音は残します。私は、黒星片の本流を逆に辿ります。星の船の名層へ近づく。欠けた真言が何を失ったのか、見に行くために』
イーサーの星図板に、細い線が浮かび上がった。黒い星から大陸へ伸びる反響路。その中を、一本だけ別の光が逆流している。弦の光。アイオン、いやアリオンが残した追跡可能な音だ。
『来ない方が安全です。ですが、来るのでしょう』
声が、ほんの少しだけ笑った。
『困った人たちです』
そこで、糸は切れた。
石標の根元に残っていた銀の糸は、風にほどけるように消えた。あとには、イーサーの星図板に残った細い航路と、イリスの帳面に書かれた新しい名だけが残った。
しばらく、誰も話さなかった。
最初に動いたのはアリスだった。彼女は拳を握り、俯いたまま言った。
「また、置いていった」
イリスがそっと彼女の肩へ手を置く。
「はい」
「でも、戻る音を残した」
「はい」
「ずるい」
「はい」
アリスは唇を噛んだ。
「でも、追う」
アリアが頷く。
「当然よ。あんな長い言い訳を残して逃げるなんて、捕まえて直接言わせるしかない」
テイルが拳を鳴らした。
「俺は殴る」
「殴った後、話を聞いてください」
イリスが言うと、テイルは渋い顔をした。
「……分かった。軽く殴る」
「軽くも駄目です」
「じゃあ肩を掴む」
「強くしすぎないでください」
「注文が多い」
ハルナは星図板を覗き込み、目を細めた。
「追跡路、細すぎる。黒星片の本流を逆に辿るって、正気じゃない。普通に行けば魂魄汚染、名の侵食、星図迷子、あと多分、部品代がすごい」
「最後は関係あるの」
アリアが問う。
「あるよ。こういう危険な追跡は、道具が壊れる」
ハルナは腰の工具を確かめた。
「でも、追える。あいつ、逃げながら本当に追えるだけの音は残してる。逃げたいのか追ってほしいのか、どっちかにしろって感じ」
ティンカーベルが低く鳴る。
「どちらもだ。あの手の者は、追われる資格がないと思いながら、追われなければ本当に消える」
エノクは聖剣を鞘へ戻した。背に感じる重さが、先ほどよりもはっきりしている。アベルのように死ぬのではなく、エノクとして生きると選んだばかりだった。その直後に、アリオンの逃亡を知った。偶然ではない気がした。アベルの残響は言った。欠けた者も生きて戻さねばならない、と。
「追います」
エノクは言った。
全員が彼を見た。
「アリオンを英雄として取り戻すためではありません。封印を完成させる部品として連れ戻すためでもありません。アイオンとして旅した人を、アリオンという名から逃げている人を、どちらの名でも振り返れるように追います」
イリスが静かに頷いた。
「記録します。アイオン。真名アリオン。七英雄の一席。封印失敗を自分の罪と恐れ、逃亡。追跡路を残す。一行、追跡を決定」
彼女はそこで少し止まり、もう一行書いた。
「追う理由。英雄ではなく、仲間として」
アリアが双剣を腰で確かめた。
「それでいいわ。英雄として扱うと、あの人はまた壁に隠れる」
テイルが言う。
「仲間なら殴れるしな」
「だから殴らないでください」
イリスが再度止める。
ハルナは星図板へ自分の黒星核反響図を重ねた。
「追跡するなら、二手必要。黒星片の本流は危険すぎるから、全員で一列に進むとまとめて汚染される。イーサーが星図で航路を読み、あたしが遮断具を作る。エノクの鍵と聖剣で弦の音を拾う。イリスは名の侵食を止める。アリスは魂と器の混ざりを見て。テイルは霊脈側から引っ張られた時に押さえる。アリアはヤクシャ系の刃紋が混じったら斬る」
「相変わらず、係の割り振りが雑ね」
アリアが言う。
「実用重視」
イーサーは星図を見た。
「追跡路は、北西へ向かっています。黒星片の本流を遡り、いくつかの落下点を経由している。最終的な接続先は……不明。ですが、星外航路の名層に近い」
「名層」
エノクの胸が鳴る。
「カオスの名が戻ろうとしている場所ですか」
「おそらく」
イーサーの声は硬かった。
「そして、アリオンの真言が最も強く反応する場所でもあります」
アリスが不安そうに言った。
「ひとりで行ったら、混ざる?」
イーサーはすぐに答えられなかった。
「危険は高いです」
「じゃあ、急がないと」
アリスは立ち上がった。
「置いていかれたくないから追うんじゃない。置いていった人が、戻れなくなるのが嫌だから追う」
その言葉に、エノクは頷いた。
石標の周囲に、風が戻った。黒い星はまだ空にあり、大陸各地で帰還者が目覚め、霊脈は汚染され続けている。ランバード城で得た聖剣は背にあり、王家の鍵は胸にある。欠けた弦は遠ざかりながら、追跡の音だけを残している。
エノクは仲間たちを見た。
アイオンのいた場所は、まだ空いている。だが、その空白はもう、ただの不在ではない。追うべき名の場所だった。
「行きましょう」
エノクは言った。
「今度は、逃げられる前に」
ティンカーベルが鞘の中で笑うように鳴った。
「逃げ足の速い英雄を追うのは骨が折れるぞ」
ハルナが肩を回した。
「追跡料、高くつける」
テイルが竜剣を担ぐ。
「捕まえたら、まず説教だ」
アリアが歩き出す。
「説教の順番も決めないとね」
イリスが帳面を閉じる。
「その前に、名前を呼びます」
アリスが小さく言った。
「アイオン」
誰も訂正しなかった。
エノクも、空へ向かって呼んだ。
「アイオン。アリオン。どちらでも、振り返ってください」
返事はない。けれど、イーサーの星図板に残る細い弦の光が、わずかに震えた。
一行はその光を追い、黒い星の反響路へ踏み出した。




