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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第5部 帰還者戦争と魔大陸の傷
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第7話_アイオンの逃亡

 ランバード城を離れたエノクが、荒れた王道の分岐まで戻った時、日はすでに傾きかけていた。空の黒い星は昼から夜へ渡ろうとする空の中でなお消えず、ゆっくりと回り続けている。廃墟の城から吹く風は背中にあり、胸には王家の鍵、腰にはティンカーベル、そして背には新たに得た聖剣アーク・リヴァイヴがあった。重かった。だが、その重さは歩みを鈍らせるものではない。自分が何の上に生きているのかを、背中から忘れるなと告げる重さだった。


 石標のそばには、すでに何人かの仲間が戻っていた。テイルは片腕を布で縛り、大地を押さえ続けた疲労で顔色が悪い。ハルナは黒星核の反響図を抱えたまま、工具帯の中身を数えては渋い顔をしている。イーサーは額の銀環に星図の光を宿し、黙って大陸各地の黒い落下点を追っていた。アリスはイリスの隣に座り、胸元の名の核を両手で包んでいる。イリスは帳面を開き、分断された間にそれぞれが見たものを書き取っていた。アリアだけは少し離れた場所に立ち、ヴェルナの方角を見ていた。双剣の鞘には新しい白い線が走り、ヤクシャの残滓を断ったことを示すように微かに光っている。


 エノクが近づくと、最初に気づいたのはティンカーベルではなくハルナだった。


「増えてる」


 彼女は目を丸くした。


「剣が増えてる。ちょっと待って、王家の聖剣? 本物? 刃の中に霊脈式と名束ねの回路がある。うわ、すごい。触っていい?」


「駄目」


 エノクとティンカーベルが同時に言った。


 ハルナは唇を尖らせた。


「触るだけ」


「分解する目をしている」


 ティンカーベルが冷たく言う。


「分解しない。今は」


「今は、を付けるな」


 テイルが呆れたように息を吐いた。


「エノク、お前、本当に取ってきたのか」


「はい。抜けました」


「似合ってるかは別だな」


「そこは、もう少し励ますところでは」


「似合うようになれ」


 テイルらしい返事だった。エノクは苦笑しようとして、ふと足を止めた。


「アイオンは」


 その一言で、石標の周囲の空気が変わった。


 誰もすぐには答えなかった。イリスは帳面の頁へ視線を落とし、アリスは肩を小さく震わせた。アリアは振り返らない。ハルナは口を閉じ、イーサーは星図板を伏せた。


 エノクは胸の奥が冷たくなるのを感じた。


「まだ、戻っていないんですか」


 アリスが小さく言った。


「戻るって、言ったのに」


 その声は責めるというより、置いていかれた子どもの声に近かった。エノクは胸が痛んだ。アイオンは戻ると言った。戻ろうとすると言った。それがどれほど弱い約束か、みんな分かっていた。だが、弱くても約束だった。だから、戻る場所を残してきた。


 イーサーが静かに言った。


「彼の足跡は追えません。通常の星図にも、魂魄反応にも、種族識別にも映らない。意図的に、観測から外れています」


「そんなこと、できますか」


「普通はできません」


 イーサーの銀環がかすかに光る。


「ですが、真言と名隠しに長けた者ならば可能です。特に、観測される名をずらす術を持つ者なら」


 アリアがようやく振り返った。


「つまり、アイオンは逃げた」


 誰も否定しなかった。


 エノクは背の聖剣へ手を伸ばしかけた。怒ったわけではない。いや、怒りもあった。だが、それ以上に不安があった。アイオンがひとりでどこかへ行った。黒い星が開き、帰還者が目覚め、欠けた真言が必要だと分かっている今、この時に。まるで、彼自身が最も見つけられてはならないもののように。


「何か、残していませんか」


 エノクは訊いた。


「彼なら、逃げる時でも何か残す気がします。嘘でも、歌でも、言い訳でも」


「言い訳なら置いてほしかったわね」


 アリアは苦い顔で言った。


「追いかけて殴る理由が増えるから」


「殴るんだ」


 アリスが小さく言う。


「殴るわよ。剣では斬らない。そういう相手じゃないから」


 テイルが腕を鳴らした。


「俺も殴る」


「順番待ちだね」


 ハルナが言った。


「でも、殴るには場所がいる。場所を探さないと」


 イリスは帳面の頁をめくった。そこには、以前書いた記録があった。アイオン。アリオンとの関係、未確認。本人は否定せず、肯定せず。戻る道を残す。彼女はその下に筆を置いたまま、まだ書けずにいた。


 その時、エノクの背の聖剣が鳴った。


 音は小さい。だが、弦に似ていた。ティンカーベルがすぐに反応する。


「抜け」


 エノクは聖剣アーク・リヴァイヴを抜いた。白銀の刃に青い線が走り、その光が石標の根元へ落ちる。そこには、誰も気づいていなかった細い糸が絡んでいた。銀でも、絹でもない。音で編まれた糸。弦の響きが物質になったような、かすかな線だった。黒星片の汚染でも、セラフィアの星図でもない。アイオンの気配が、そこに残っていた。


 アリスが息を呑んだ。


「弦の匂い」


 イーサーが星図板を開く。ヨシュアから継いだ叡智の光が銀環から走り、石標の糸と聖剣の光を結ぶ。ハルナが慌てて小鏡を取り出し、反響を写し取った。


「待って、これ、ただの残り香じゃない。封じてある。開くには……王家の鍵と聖剣と、名の記録がいる?」


 イリスが帳面を抱えて立ち上がった。


「名の記録なら、あります」


「未確認って書いてるやつ?」


「はい。未確認でも、消してはいません」


「それで十分かも」


 エノクは胸元の鍵を取り出し、聖剣の鍔へ近づけた。鍵と剣が応え、青白い光が糸へ流れる。イリスが帳面を開き、アイオンの名が書かれた頁を石標へ向けた。


 糸が震えた。


 そして、音がほどけた。


 最初に聞こえたのは、アイオンの声ではなかった。古い戦場の風の音、パンドラボックスの起動音、遠い星の船の軋み、そして欠けた弦の震えだった。そこに、誰かの名を呼ぶ声が混じる。


『アリオン、応答せよ』


 ダイダロスの記録で聞いた声と同じだった。


『名封じ真言、入力未達。弦入力、不安定。アリオン、応答せよ』


 アリスが両手を胸元で握った。イリスの筆が震える。テイルは歯を食いしばり、アリアは目を細めた。イーサーは星図の光を強め、声の波形を見つめる。


 糸の中で、次に別の声が聞こえた。


 アイオンの声だった。


 いつもの軽い調子ではない。掠れ、疲れ、笑う余裕を失った声。


『これを聞いているなら、私はまた逃げたのでしょう。まったく、成長がありませんね。千年もあれば、少しはましな逃げ方を覚えてもよさそうなものですが』


「千年」


 エノクは呟いた。


 その言葉だけで、もう逃げ場はなかった。


 アイオンの声は続く。


『エノク。イリス。アリア。テイル。アリス。ハルナ。イーサー。ティンカーベル。全員の名を言える程度には、私はあなた方と旅をしてしまいました。それが嬉しく、怖かった。名前を覚えると、捨てにくくなる。置いていきにくくなる。だから、私は昔から、名前を曖昧にしてきたのです』


 アリアが低く言った。


「馬鹿」


 声は怒っていた。だが、震えていた。


『私は、アリオンです』


 糸の音が、一瞬止まった。


 誰も動かなかった。


『吟遊詩人アリオン。真言を運ぶ者。七英雄の一席。後の歌から消された名。パンドラボックスの名封じを完成させるはずだった者』


 エノクは聖剣を握る手に力を込めた。胸の奥で、疑いが形を失い、真実として沈んでいく。アイオンはアリオンだった。嘘つきの吟遊詩人。軽薄な旅人。何度も助け、何度もはぐらかし、何度も大事なことを隠してきた男は、失われた七英雄の一人だった。


 イリスは静かに帳面へ書いた。未確認の文字を消すのではなく、その下へ新たに記す。


 アイオン。真名、アリオン。


 筆は震えていたが、文字は崩れなかった。


『封印が失敗した理由は、私にあります』


 その声は、先ほどよりも低くなった。


『そう言うべきか、そうではないと理屈を並べるべきか、私は千年考えました。戦場は混乱していた。黒星核の反響は強すぎた。カオスの名は地上の言語では掴めなかった。ダイダロスの機構にも無理があった。ヨシュアの計算も完全ではなかった。アルティエルは過負荷だった。アベルは血を流しすぎていた。言い訳はいくらでもあります。事実も、いくらでもあります』


 糸の向こうで、アイオンが小さく息を吸う音がした。


『でも、欠けたのは私の音でした』


 アリスが目を伏せた。


『私の真言が届かなかった。私が、最後の名を閉じられなかった。怖かったからか。遅れたからか。迷ったからか。逃げたからか。それを今ここで語ることが、まだできません。語れば、あなた方は私を見るでしょう。英雄としてではなく、失敗として。あるいは、許そうとするかもしれない。それが、なお怖い』


「許そうとするのが怖い?」


 テイルが眉をひそめた。


 イリスが小さく言った。


「許されてしまうと、自分で自分を罰する場所がなくなるからではないでしょうか」


 誰もすぐには返せなかった。


 アイオンの声は震えていた。


『私は、自分のせいで封印が失敗したと語ることを恐れています。千年前も、今も。英雄と呼ばれることも、罪人と呼ばれることも怖い。なら、ただの吟遊詩人でいればよかった。アイオンと名乗れば、少しだけ息ができた。アリオンという名から一音だけ欠けた偽名で、私は長く歩けた』


 エノクは奥歯を噛んだ。アイオン。アリオンから一音欠けた名。気づけたはずだった。けれど、気づけなかった。いや、気づきかけても、彼の笑みに流されてきた。


『黒い星が開いた今、私の真言は危険です。私が近くにいれば、帰還者たちは私の音へ反応する。星の船も、カオスの名も、欠けた一音を探している。あなた方のそばにいれば、私は仲間ではなく、鍵穴になります』


 ハルナが顔をしかめる。


「自分を部品扱いしてる」


 ティンカーベルが低く言った。


「あいつの悪癖だ」


『だから離れます。あなた方を信じていないからではありません。むしろ、信じ始めたから離れるのです。ここで私が崩れれば、あなた方は私を支えようとするでしょう。それが怖い。支えられる資格がない者が、支えられることが怖い』


 エノクは思わず叫んだ。


「資格じゃない!」


 糸の記録に声は届かない。分かっていても、叫ばずにはいられなかった。


「資格で仲間を支えるんじゃない!」


 記録の声は続く。


『エノク。あなたは、たぶん追ってくるでしょう。王家の聖剣を得たあなたなら、なおさら。やめろと言っても無駄でしょうね。あなたは妙なところで頑固です。シモンの教育でしょうか。いえ、あなた自身の性格ですね』


 エノクの目が熱くなった。


『もし追ってくるなら、ひとつだけ覚えておいてください。私を英雄として追わないでください。七英雄アリオンを取り戻すために追わないでください。そんなものを期待されると、私はまた逃げます』


 アリアが吐き捨てるように言った。


「面倒な男」


『アイオンとしても、アリオンとしても、私は逃げた者です。ですが、もしそれでも追ってくるなら』


 少しだけ、声が止まった。


『私を、名前で呼んでください。どちらの名でも、かまいません。私が振り返れる名で』


 糸の光が薄くなる。


『戻ると言った約束を、私はまだ果たしていません。だから、これは逃亡です。言い訳はしません。ですが、完全に消えるつもりも、まだありません。……まだ、と言っているあたり、本当に情けないですね』


 最後に、短い弦の音が鳴った。


『追跡できるだけの音は残します。私は、黒星片の本流を逆に辿ります。星の船の名層へ近づく。欠けた真言が何を失ったのか、見に行くために』


 イーサーの星図板に、細い線が浮かび上がった。黒い星から大陸へ伸びる反響路。その中を、一本だけ別の光が逆流している。弦の光。アイオン、いやアリオンが残した追跡可能な音だ。


『来ない方が安全です。ですが、来るのでしょう』


 声が、ほんの少しだけ笑った。


『困った人たちです』


 そこで、糸は切れた。


 石標の根元に残っていた銀の糸は、風にほどけるように消えた。あとには、イーサーの星図板に残った細い航路と、イリスの帳面に書かれた新しい名だけが残った。


 しばらく、誰も話さなかった。


 最初に動いたのはアリスだった。彼女は拳を握り、俯いたまま言った。


「また、置いていった」


 イリスがそっと彼女の肩へ手を置く。


「はい」


「でも、戻る音を残した」


「はい」


「ずるい」


「はい」


 アリスは唇を噛んだ。


「でも、追う」


 アリアが頷く。


「当然よ。あんな長い言い訳を残して逃げるなんて、捕まえて直接言わせるしかない」


 テイルが拳を鳴らした。


「俺は殴る」


「殴った後、話を聞いてください」


 イリスが言うと、テイルは渋い顔をした。


「……分かった。軽く殴る」


「軽くも駄目です」


「じゃあ肩を掴む」


「強くしすぎないでください」


「注文が多い」


 ハルナは星図板を覗き込み、目を細めた。


「追跡路、細すぎる。黒星片の本流を逆に辿るって、正気じゃない。普通に行けば魂魄汚染、名の侵食、星図迷子、あと多分、部品代がすごい」


「最後は関係あるの」


 アリアが問う。


「あるよ。こういう危険な追跡は、道具が壊れる」


 ハルナは腰の工具を確かめた。


「でも、追える。あいつ、逃げながら本当に追えるだけの音は残してる。逃げたいのか追ってほしいのか、どっちかにしろって感じ」


 ティンカーベルが低く鳴る。


「どちらもだ。あの手の者は、追われる資格がないと思いながら、追われなければ本当に消える」


 エノクは聖剣アーク・リヴァイヴを鞘へ戻した。背に感じる重さが、先ほどよりもはっきりしている。アベルのように死ぬのではなく、エノクとして生きると選んだばかりだった。その直後に、アリオンの逃亡を知った。偶然ではない気がした。アベルの残響は言った。欠けた者も生きて戻さねばならない、と。


「追います」


 エノクは言った。


 全員が彼を見た。


「アリオンを英雄として取り戻すためではありません。封印を完成させる部品として連れ戻すためでもありません。アイオンとして旅した人を、アリオンという名から逃げている人を、どちらの名でも振り返れるように追います」


 イリスが静かに頷いた。


「記録します。アイオン。真名アリオン。七英雄の一席。封印失敗を自分の罪と恐れ、逃亡。追跡路を残す。一行、追跡を決定」


 彼女はそこで少し止まり、もう一行書いた。


「追う理由。英雄ではなく、仲間として」


 アリアが双剣を腰で確かめた。


「それでいいわ。英雄として扱うと、あの人はまた壁に隠れる」


 テイルが言う。


「仲間なら殴れるしな」


「だから殴らないでください」


 イリスが再度止める。


 ハルナは星図板へ自分の黒星核反響図を重ねた。


「追跡するなら、二手必要。黒星片の本流は危険すぎるから、全員で一列に進むとまとめて汚染される。イーサーが星図で航路を読み、あたしが遮断具を作る。エノクの鍵と聖剣で弦の音を拾う。イリスは名の侵食を止める。アリスは魂と器の混ざりを見て。テイルは霊脈側から引っ張られた時に押さえる。アリアはヤクシャ系の刃紋が混じったら斬る」


「相変わらず、係の割り振りが雑ね」


 アリアが言う。


「実用重視」


 イーサーは星図を見た。


「追跡路は、北西へ向かっています。黒星片の本流を遡り、いくつかの落下点を経由している。最終的な接続先は……不明。ですが、星外航路の名層に近い」


「名層」


 エノクの胸が鳴る。


「カオスの名が戻ろうとしている場所ですか」


「おそらく」


 イーサーの声は硬かった。


「そして、アリオンの真言が最も強く反応する場所でもあります」


 アリスが不安そうに言った。


「ひとりで行ったら、混ざる?」


 イーサーはすぐに答えられなかった。


「危険は高いです」


「じゃあ、急がないと」


 アリスは立ち上がった。


「置いていかれたくないから追うんじゃない。置いていった人が、戻れなくなるのが嫌だから追う」


 その言葉に、エノクは頷いた。


 石標の周囲に、風が戻った。黒い星はまだ空にあり、大陸各地で帰還者が目覚め、霊脈は汚染され続けている。ランバード城で得た聖剣は背にあり、王家の鍵は胸にある。欠けた弦は遠ざかりながら、追跡の音だけを残している。


 エノクは仲間たちを見た。


 アイオンのいた場所は、まだ空いている。だが、その空白はもう、ただの不在ではない。追うべき名の場所だった。


「行きましょう」


 エノクは言った。


「今度は、逃げられる前に」


 ティンカーベルが鞘の中で笑うように鳴った。


「逃げ足の速い英雄を追うのは骨が折れるぞ」


 ハルナが肩を回した。


「追跡料、高くつける」


 テイルが竜剣を担ぐ。


「捕まえたら、まず説教だ」


 アリアが歩き出す。


「説教の順番も決めないとね」


 イリスが帳面を閉じる。


「その前に、名前を呼びます」


 アリスが小さく言った。


「アイオン」


 誰も訂正しなかった。


 エノクも、空へ向かって呼んだ。


「アイオン。アリオン。どちらでも、振り返ってください」


 返事はない。けれど、イーサーの星図板に残る細い弦の光が、わずかに震えた。


 一行はその光を追い、黒い星の反響路へ踏み出した。

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