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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第5部 帰還者戦争と魔大陸の傷
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第6話_王家の聖剣

 ランバード城を出たはずだった。エノクはたしかに城門を越え、焼けた坂道を下り、黒い星の下で仲間たちの名を心の中に呼んだ。アリア、イリス、テイル、アリス、ハルナ、イーサー、ティンカーベル、そしてまだ戻らないアイオン。そうやって名を一つずつ確かめながら、廃墟の外へ足を進めた。だが、坂道の途中で風が止まった。城門の裂けた鎖が鳴らなくなり、空の黒い星が大きく脈打ち、胸元の鍵が熱ではなく痛みに変わった。次の瞬間、視界の中の坂道が薄く剥がれ、焼けた城壁と荒れた中庭と白い名守りの木が、遠ざかるのではなくこちらへ戻ってきた。


 エノクは地下聖堂の前に立っていた。


 扉は開いている。さきほど降りた時と同じ青白い光が、階段の奥から漏れている。だが、光の色が変わっていた。白銀の清らかな輝きの底に、赤黒い影が混じっている。聖剣が眠っていた場所から、黒い星の拍動が響いている。遠い星の船の再起動が、ランバード城の地下にまで届いたのだ。


「戻されたな」


 腰のティンカーベルが低く言った。


「城が?」


「いや。剣が呼んだ」


「聖剣が?」


「目を開けた剣は、次に持ち主を見る。お前が去ろうとしたから、逃がさなかったのだろう」


「逃げたつもりはありません」


「剣はそう思わなかったらしい」


 エノクは階段の奥を見た。地下から響く音は、ただの剣の呼び声ではない。そこには、黒星片に触れた時と似た異質な拍動が混じっている。もし聖剣が黒い星の反響に触れているなら、放っておくわけにはいかない。聖剣は王家のっておくわけには剣であり、パンドラボックスと同じくアベルの血とランバードの名に関わるものだ。星の船がそれへ触れようとしているのなら、今ここで止めなければならない。


 エノクは階段を降りた。足音が石に吸われる。地下聖堂の壁に刻まれた王家の名が、さきほどより強く光っていた。アルクス。セリス。パーカス。王宮の兵や侍女や書記たち。まだ読みきれない名も、焼けて欠けた名も、そのすべてが青白い光を帯びている。まるで、眠っていた聖剣を守るために、廃墟の名たちが最後の灯を集めているようだった。


 聖堂の中央に、剣はあった。


 台座に横たわっていた王家の聖剣は、今は刃を浮かせていた。誰の手にも握られていないのに、柄がわずかに上がり、刃の中心を走る青い線が強く発光している。だが、その光の周囲に黒い筋が絡んでいた。細い黒根。星の船から落ちた黒星片の根と同じものではない。もっと薄く、もっと古い。復讐、責務、王家の血、アベルの死、英雄の伝承。それらに黒い星の拍動が染み込んで、聖剣の眠りを別の色へ変えようとしている。


 台座の奥に、父王アルクスの残響が立っていた。さきほどよりも輪郭は薄い。けれど、その表情は厳しかった。王としての顔だった。


「エノク」


「父上。これは」


「聖剣が試されている。いや、試されているのはお前だ」


 アルクスの残響は、聖剣へ視線を向けた。


「この剣は、最初から聖剣だったわけではない」


 エノクは息を呑んだ。


「違うのですか」


「王家は、そう語ってきた。聖天使の光を受け、アベルの血を守り、魔を祓う剣だと。だが、真実は少し違う。剣は、使い手の意志を映す。王家の名を背負う者が、何のために剣を取るかで、その性質を変える」


 ティンカーベルが低く鳴った。


「生きた剣ではないが、意思を映す剣か。面倒な代物だ」


「はい」


 アルクスは頷いた。


「復讐のために握れば、災厄の剣となる。王家の血を誇り、他者を従わせるために振るえば、支配の剣となる。死ぬために握れば、殉教の剣となる。生きて終わらせる覚悟を持って握るなら、聖剣となる」


 エノクは聖剣を見た。刃は美しい。だが、その美しさの中に危うさがある。アリアが暗黒剣を前にした時のことを思い出した。剣はただの道具ではない。握る者の怒り、願い、恐れを受け取る。ヤクシャの剣は、復讐を喰って人を剣へ変えた。王家の聖剣も、違う形で使い手の意志を増幅するのだ。だからこそ、聖剣にも災厄の剣にもなる。


 アルクスは続けた。


「アベルは、この剣の原型を持っていた。彼の意志は強く、清かった。だが、彼は最後に死を選んだ。世界を救うため、自分の命を差し出した。その選択が間違いだったとは言えない。彼が死ななければ、あの時代の世界はそこで終わっていたかもしれぬ。だが」


 父王の声が重くなる。


「死による救済は、後の者を縛る。王家は長く、アベルのように死ぬことを尊いと語り続けた。私も、その歌に育てられた。だから、城が落ちる時、私は残ることを選んだ。それは王として必要な選択だったかもしれない。だが、息子よ。お前に、同じ歌を押しつけたくはない」


 エノクの胸が痛んだ。


「父上は、僕に生きろと言いました」


「そうだ」


「でも、世界を救うには、いつか命を差し出さなければならないのでは」


 その言葉は、ずっと心の底にあった。アベルは死んだ。アルティエルは消えた。父と母は城に残った。パーカスは自分を運んで命を落とした。大切なものを救うためには、誰かが死ななければならない。そういう物語ばかりを見てきた。なら、自分もいつか、アベルのように死ななければならないのではないか。そうでなければ、王家の血を継ぐ意味がないのではないか。


 地下聖堂の空気が震えた。


 聖剣の光が強くなり、エノクの足元に幻が広がった。


 そこは千年前の戦場だった。星の船の影、黒い炎、カオスの巨大な肉体、パンドラボックスの輝き。アベルが立っている。エノクが伝承で聞いてきた聖騎士アベル。銀の鎧、血に濡れた剣、傷ついた身体、それでも折れない意志。彼の周囲には七英雄の影が揺れ、アルティエルの光が降っている。だが、その姿は英雄譚の絵よりもずっと疲れていた。鎧は割れ、息は荒く、目には恐怖も迷いもあった。完璧な英雄ではない。生きていた人間だった。


 アベルの残響が、エノクを見た。


「お前が、後の子か」


 声は若かった。だが、ひどく遠かった。


 エノクは息を整え、頭を下げた。


「エノク・ランバードです」


「ランバードの血は、まだ続いていたのだな」


「はい」


「それは、重かっただろう」


 予想していない言葉だった。エノクは顔を上げた。アベルは微かに笑っていた。聖騎士というより、疲れた若者の笑みだった。


「私は、後の者を軽くしたかった。自分たちの時代で終わらせたかった。だが、終わらなかった。肉体だけを封じ、魂魄と名を逃がした。後の者へ傷を渡した。私の死も、アルティエルの消失も、完全な終わりにはならなかった」


「それでも、あなたは世界を救いました」


「一部をな」


 アベルは静かに言った。


「一部だけだ。だから、お前はここにいる。私のように死ぬためではない。私が救い損ねた続きを、生きて持つために」


 エノクの胸が震えた。


「でも、僕は弱いです。あなたのようには戦えません。聖騎士でもありません。剣も、ティンカーベルに助けられてばかりで」


「剣に助けられるのは、恥ではない」


 ティンカーベルが鞘の中で小さく鳴った。


「良いことを言う」


 アベルの残響は少しだけ笑ったようだった。


「私は強かった。だが、強さだけでは終わらなかった。私は死ねた。だが、死んでも終わらなかった。ならば、私に似ることに意味はない。お前は、私と違う答えを持たねばならない」


「違う答え」


「生きて終わらせろ」


 その言葉が、地下聖堂全体に響いた。


「死んで終わらせるのではない。誰かを残して英雄になるのでもない。生きて、見届け、責任を次の世へ投げず、自分の足で終わりまで歩け。私ができなかったことだ」


 聖剣の黒い筋がうねった。


 幻の戦場が変わる。アベルの姿が消え、代わりに別のエノクが立った。王家の鎧をまとい、聖剣を握ったエノク。彼は美しかった。目は冷たく、刃は眩い。足元には魔王軍の死体、帰還者の残骸、黒星片の破片が積み重なっている。仲間たちの姿はない。アリアの剣、イリスの帳面、テイルの竜剣、アリスの割れた核、ハルナの壊れた工具、イーサーの折れた翼、ティンカーベルの砕けた刃。全てが足元にある。別のエノクは聖剣を掲げ、言った。


 世界を救うためだ。


 その声は、エノク自身の声だった。


 エノクは息を呑んだ。


「これは」


「復讐と責務に呑まれた未来だ」


 アルクスの声が背後から聞こえた。


「王家の血を、世界を救うための理由にし、仲間の名を犠牲の数へ変え、自分だけが正しい終わりを持つと信じた時、聖剣は災厄の剣となる」


 別のエノクの刃が、赤黒く染まる。ヤクシャの暗黒剣とは違う。もっと清らかで、もっと恐ろしい赤。正義の名で血を吸った剣。聖なる災厄。


 ティンカーベルが低く唸った。


「嫌な剣だ」


「僕が、こうなるかもしれないんですか」


「誰でもなる」


 アベルが答えた。


「強い願いは、よく磨かれた刃に似ている。救いたいという願いも、使い方を誤れば人を斬る。王家の聖剣は、それを増幅する。だから、剣は問う。お前は何のために握るのか、と」


 幻がまた変わった。


 今度のエノクは、白い光の中で立っていた。傷つき、血を流し、聖剣を胸へ当てている。周囲には仲間たちが泣いている。エノクは微笑み、言う。これで終わるなら、僕は。そう言いかけて、刃を自分へ向ける。アベルのように死ぬために。世界を救うために。誰も責めないように。誰も自分を止めないように。


 エノクの足が震えた。こちらの未来は、先ほどの災厄の剣よりも美しく見えた。だからこそ怖かった。死ねば、きっと許される。王家の血も、鍵の責務も、父母の死も、パーカスの選択も、すべてに報いることができる。そう思えてしまう。


 セリスの声が遠くから響いた。


 あなたが生きたことを、私たちの死の罪にしないで。


 パーカスの声も続く。


 生きることを罰にしないでほしい。


 エノクは目を閉じた。胸が痛い。死による救済は、あまりにも美しく、あまりにも簡単に見える。自分が死ねば、誰かが救われるのなら。アベルのようになれるのなら。そう思う心が、確かに自分の中にある。


 だが、それは本当に終わらせることなのか。


 アベルは死んだ。だが終わらなかった。アルティエルは消えた。だが終わらなかった。父母は残った。パーカスは走った。シモンは育てた。ザッハは沈黙した。阿修羅は封じ損ねた。ダイダロスは記録を残した。ヨシュアは沈黙の罪を抱えた。アイオンは名から逃げた。みんなが何かを渡し、何かを残し、何かを背負いきれずに次へ送った。なら、自分が死ねば終わるという考えもまた、誰かへ続きを渡すだけではないのか。


 エノクは目を開けた。


「違います」


 幻の中の殉教のエノクが、こちらを見る。


「僕は、死んで終わらせたいんじゃない。怖いから、死ねば許されると思いたいだけだ」


 言葉にした瞬間、胸の奥で何かが割れた。恥ずかしく、苦しく、けれど真実だった。


「僕は、アベルのように死にたいわけじゃない。父上や母上やパーカスの死に報いるために、僕の死を並べたいわけじゃない。死ねば、同じ場所に立てると思いたかった。でも、それは違う」


 アベルの残響が、静かに見ている。


 エノクは聖剣へ向き直った。


「僕は、生きます」


 地下聖堂の名が、淡く光った。


「エノクとして生きます。アベルの代わりではなく、父上の代わりでもなく、王家の鍵だけでもなく。怖くても、弱くても、逃げたくても、仲間と一緒に、生きて終わらせます。もし終わりまで歩けるなら、最後に死ぬためじゃなく、最後を見届けて、その後の朝へ戻るために剣を握ります」


 聖剣の黒い筋が激しく震えた。復讐の未来、殉教の未来、支配の未来。それらが刃の周囲に浮かび、エノクを取り巻く。王家の亡霊たちの声が響く。民を守れ。血を継げ。敵を討て。死んで証明せよ。王になれ。鍵になれ。英雄になれ。


 エノクは叫んだ。


「僕は、エノクだ!」


 その名が、地下聖堂の壁に跳ね返った。


 エノク。


 兵士たちの名の光が応える。パーカスの記録が光る。セリスの白い木の葉が地上から鈴のように鳴る。アルクスの残響が静かに頷く。アベルの影が、疲れたように、しかし安堵したように微笑む。


 聖剣の黒い筋が、剥がれ落ちた。


 刃の中心を走る青い線が、白銀の光へ変わる。だが、その光は眩しく人を押し潰すものではなかった。朝の光に似ていた。夜を完全に否定するのではなく、夜を越えた後に差す光。地下聖堂の台座が静かに割れ、聖剣の柄がエノクの手へ少し近づいた。


 ティンカーベルが言った。


「取れ」


「いいんですか」


「剣が呼んでいる。ここで遠慮するな」


「ティンカーベルは」


「私はお前の喋る剣だ。あれは王家の聖剣。役目が違うと言っただろう。二本持ちが下手なら鍛え直すだけだ」


「厳しい」


「嬉しいなら嬉しいと言え」


 エノクは、涙の残る顔で少し笑った。


「嬉しいです」


「よし」


 彼は聖剣の柄を握った。


 今度は、剣が抜けた。


 重かった。だが、腕を下げさせる重さではない。自分が立っている地面の重さに似ていた。父母の選択、パーカスの記録、王宮に刻まれた名、アベルの未完、アルティエルの光、そして自分自身の生。すべてが刃の中にある。聖剣は、抜かれた瞬間に高く鳴った。音は地下聖堂だけでなく、ランバード城全体へ広がり、焼けた城壁、崩れた中庭、白い名守りの木、城門の兵士たちの残響を通って、空の黒い星へ向かった。


 黒い星が一瞬だけ揺れた。


 星の船の拍動が、ほんのわずかに遅れた。


 アベルの残響が言った。


「名を」


 エノクは聖剣を胸の前に立てた。


「名?」


「剣は、名を持って初めてお前のものになる。王家はこの剣をただ聖剣と呼んできた。だが、お前が握るなら、お前の意志にふさわしい名を呼べ」


 エノクは刃を見た。復讐でもない。殉教でもない。支配でもない。生きて終わらせるための剣。死を美しくする剣ではなく、生の続きを守る剣。王家の負債を罰ではなく選択として抱く剣。


 彼は静かに言った。


聖剣アーク・リヴァイヴ


 名を口にした瞬間、刃の白銀が柔らかく広がった。復活ではない。蘇生でもない。終わったはずのものを無理に戻す名ではない。生きて続ける方舟。失敗の後にも、朝へ向かうための剣。エノク自身も、なぜその名が浮かんだのか分からなかった。だが、剣は応えた。


 ティンカーベルが少し唸る。


「悪くない。少々気取っているが」


「気取っていますか」


「王家の剣だからな。多少は仕方あるまい」


 アベルの影が笑った。今度は、英雄ではなく人としての笑みだった。


「エノク。お前は私にはならぬ。それでよい」


「アベル様」


「私は死んで終わらせようとした。お前は生きて終わらせろ。私の失敗を、私の真似で繰り返すな」


「はい」


「そして、アリオンを探せ」


 その名に、エノクの胸が震えた。


「アリオンを」


「欠けた真言は、まだ戻っていない。聖剣だけでは、カオスの名は閉じられぬ。お前が生きることを選んだなら、欠けた者も生きて戻さねばならない」


 アイオンの顔が浮かんだ。嘘つきの笑み。遠ざかる背中。戻るという弱い約束。


「戻る道を残します」


 エノクは言った。


 アベルは頷いた。


「それがお前の道だ」


 アベルの残響は光へ薄れた。アルクスの残響も、地下聖堂の入口で静かに頭を下げる。セリスの白い葉が地上で鳴り、パーカスの記録帳がエノクの荷の中で温かくなった。王家の名たちが、少しずつ壁へ戻っていく。役目を終えたのではない。エノクの中へ移ったのだ。


 聖剣アーク・リヴァイヴは、エノクの手の中で静かに光っていた。ティンカーベルは腰にある。二本の剣。一本はシモンが与えた、喋り、叱り、守る剣。一本は王家が眠らせていた、名と選択を背負う剣。どちらかを捨てる必要はない。エノクは森で育った少年であり、ランバードの血を持つ者でもある。その二つを裂くのではなく、両方を持って生きる。


 地上へ戻る階段を上がる時、聖剣は重かった。だが、足取りは沈まなかった。城門へ出ると、兵士たちの残響が薄く並んでいた。彼らは、エノクの手にある剣を見て、一斉に膝をついた。


「王子」


 一人が言いかけた。


 エノクは首を振った。


「エノクで」


 兵士の影が、かすかに笑った。


「ご武運を、エノク様」


 城の外では、黒い星がまだ空を回っている。大陸各地の黒星片は止まっていない。帰還者たちは目覚め、仲間たちはそれぞれの道で戦っている。聖剣を得たからといって、世界が軽くなるわけではなかった。むしろ、重さは増した。だが、エノクはもう、その重さを死ぬ理由にはしない。


 彼は坂道を下りながら、仲間たちの名を呼んだ。


 アリア。イリス。テイル。アリス。ハルナ。イーサー。ティンカーベル。アイオン。


 最後の名だけ、風の中で少し遠く鳴った。


「戻ってください」


 エノクは誰もいない坂道で言った。


「僕は、生きて待ちます。生きて進みます。だから、あなたも戻ってきてください」


 返事はなかった。


 だが、腰のティンカーベルが小さく鳴り、手の中の聖剣アーク・リヴァイヴが淡く光った。二つの剣の響きは違う。片方は口うるさく、片方は静かだ。それでも、どちらも今のエノクを支えていた。


 廃墟のランバード城は背後に遠ざかる。そこは、死者の城ではなかった。エノクを生かすと選んだ名たちの城だった。


 彼は聖剣を背に、ティンカーベルを腰に、黒い星の下を歩き出した。アベルのように死ぬためではない。エノクとして生きて、終わらせるために。

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