第6話_王家の聖剣
ランバード城を出たはずだった。エノクはたしかに城門を越え、焼けた坂道を下り、黒い星の下で仲間たちの名を心の中に呼んだ。アリア、イリス、テイル、アリス、ハルナ、イーサー、ティンカーベル、そしてまだ戻らないアイオン。そうやって名を一つずつ確かめながら、廃墟の外へ足を進めた。だが、坂道の途中で風が止まった。城門の裂けた鎖が鳴らなくなり、空の黒い星が大きく脈打ち、胸元の鍵が熱ではなく痛みに変わった。次の瞬間、視界の中の坂道が薄く剥がれ、焼けた城壁と荒れた中庭と白い名守りの木が、遠ざかるのではなくこちらへ戻ってきた。
エノクは地下聖堂の前に立っていた。
扉は開いている。さきほど降りた時と同じ青白い光が、階段の奥から漏れている。だが、光の色が変わっていた。白銀の清らかな輝きの底に、赤黒い影が混じっている。聖剣が眠っていた場所から、黒い星の拍動が響いている。遠い星の船の再起動が、ランバード城の地下にまで届いたのだ。
「戻されたな」
腰のティンカーベルが低く言った。
「城が?」
「いや。剣が呼んだ」
「聖剣が?」
「目を開けた剣は、次に持ち主を見る。お前が去ろうとしたから、逃がさなかったのだろう」
「逃げたつもりはありません」
「剣はそう思わなかったらしい」
エノクは階段の奥を見た。地下から響く音は、ただの剣の呼び声ではない。そこには、黒星片に触れた時と似た異質な拍動が混じっている。もし聖剣が黒い星の反響に触れているなら、放っておくわけにはいかない。聖剣は王家のっておくわけには剣であり、パンドラボックスと同じくアベルの血とランバードの名に関わるものだ。星の船がそれへ触れようとしているのなら、今ここで止めなければならない。
エノクは階段を降りた。足音が石に吸われる。地下聖堂の壁に刻まれた王家の名が、さきほどより強く光っていた。アルクス。セリス。パーカス。王宮の兵や侍女や書記たち。まだ読みきれない名も、焼けて欠けた名も、そのすべてが青白い光を帯びている。まるで、眠っていた聖剣を守るために、廃墟の名たちが最後の灯を集めているようだった。
聖堂の中央に、剣はあった。
台座に横たわっていた王家の聖剣は、今は刃を浮かせていた。誰の手にも握られていないのに、柄がわずかに上がり、刃の中心を走る青い線が強く発光している。だが、その光の周囲に黒い筋が絡んでいた。細い黒根。星の船から落ちた黒星片の根と同じものではない。もっと薄く、もっと古い。復讐、責務、王家の血、アベルの死、英雄の伝承。それらに黒い星の拍動が染み込んで、聖剣の眠りを別の色へ変えようとしている。
台座の奥に、父王アルクスの残響が立っていた。さきほどよりも輪郭は薄い。けれど、その表情は厳しかった。王としての顔だった。
「エノク」
「父上。これは」
「聖剣が試されている。いや、試されているのはお前だ」
アルクスの残響は、聖剣へ視線を向けた。
「この剣は、最初から聖剣だったわけではない」
エノクは息を呑んだ。
「違うのですか」
「王家は、そう語ってきた。聖天使の光を受け、アベルの血を守り、魔を祓う剣だと。だが、真実は少し違う。剣は、使い手の意志を映す。王家の名を背負う者が、何のために剣を取るかで、その性質を変える」
ティンカーベルが低く鳴った。
「生きた剣ではないが、意思を映す剣か。面倒な代物だ」
「はい」
アルクスは頷いた。
「復讐のために握れば、災厄の剣となる。王家の血を誇り、他者を従わせるために振るえば、支配の剣となる。死ぬために握れば、殉教の剣となる。生きて終わらせる覚悟を持って握るなら、聖剣となる」
エノクは聖剣を見た。刃は美しい。だが、その美しさの中に危うさがある。アリアが暗黒剣を前にした時のことを思い出した。剣はただの道具ではない。握る者の怒り、願い、恐れを受け取る。ヤクシャの剣は、復讐を喰って人を剣へ変えた。王家の聖剣も、違う形で使い手の意志を増幅するのだ。だからこそ、聖剣にも災厄の剣にもなる。
アルクスは続けた。
「アベルは、この剣の原型を持っていた。彼の意志は強く、清かった。だが、彼は最後に死を選んだ。世界を救うため、自分の命を差し出した。その選択が間違いだったとは言えない。彼が死ななければ、あの時代の世界はそこで終わっていたかもしれぬ。だが」
父王の声が重くなる。
「死による救済は、後の者を縛る。王家は長く、アベルのように死ぬことを尊いと語り続けた。私も、その歌に育てられた。だから、城が落ちる時、私は残ることを選んだ。それは王として必要な選択だったかもしれない。だが、息子よ。お前に、同じ歌を押しつけたくはない」
エノクの胸が痛んだ。
「父上は、僕に生きろと言いました」
「そうだ」
「でも、世界を救うには、いつか命を差し出さなければならないのでは」
その言葉は、ずっと心の底にあった。アベルは死んだ。アルティエルは消えた。父と母は城に残った。パーカスは自分を運んで命を落とした。大切なものを救うためには、誰かが死ななければならない。そういう物語ばかりを見てきた。なら、自分もいつか、アベルのように死ななければならないのではないか。そうでなければ、王家の血を継ぐ意味がないのではないか。
地下聖堂の空気が震えた。
聖剣の光が強くなり、エノクの足元に幻が広がった。
そこは千年前の戦場だった。星の船の影、黒い炎、カオスの巨大な肉体、パンドラボックスの輝き。アベルが立っている。エノクが伝承で聞いてきた聖騎士アベル。銀の鎧、血に濡れた剣、傷ついた身体、それでも折れない意志。彼の周囲には七英雄の影が揺れ、アルティエルの光が降っている。だが、その姿は英雄譚の絵よりもずっと疲れていた。鎧は割れ、息は荒く、目には恐怖も迷いもあった。完璧な英雄ではない。生きていた人間だった。
アベルの残響が、エノクを見た。
「お前が、後の子か」
声は若かった。だが、ひどく遠かった。
エノクは息を整え、頭を下げた。
「エノク・ランバードです」
「ランバードの血は、まだ続いていたのだな」
「はい」
「それは、重かっただろう」
予想していない言葉だった。エノクは顔を上げた。アベルは微かに笑っていた。聖騎士というより、疲れた若者の笑みだった。
「私は、後の者を軽くしたかった。自分たちの時代で終わらせたかった。だが、終わらなかった。肉体だけを封じ、魂魄と名を逃がした。後の者へ傷を渡した。私の死も、アルティエルの消失も、完全な終わりにはならなかった」
「それでも、あなたは世界を救いました」
「一部をな」
アベルは静かに言った。
「一部だけだ。だから、お前はここにいる。私のように死ぬためではない。私が救い損ねた続きを、生きて持つために」
エノクの胸が震えた。
「でも、僕は弱いです。あなたのようには戦えません。聖騎士でもありません。剣も、ティンカーベルに助けられてばかりで」
「剣に助けられるのは、恥ではない」
ティンカーベルが鞘の中で小さく鳴った。
「良いことを言う」
アベルの残響は少しだけ笑ったようだった。
「私は強かった。だが、強さだけでは終わらなかった。私は死ねた。だが、死んでも終わらなかった。ならば、私に似ることに意味はない。お前は、私と違う答えを持たねばならない」
「違う答え」
「生きて終わらせろ」
その言葉が、地下聖堂全体に響いた。
「死んで終わらせるのではない。誰かを残して英雄になるのでもない。生きて、見届け、責任を次の世へ投げず、自分の足で終わりまで歩け。私ができなかったことだ」
聖剣の黒い筋がうねった。
幻の戦場が変わる。アベルの姿が消え、代わりに別のエノクが立った。王家の鎧をまとい、聖剣を握ったエノク。彼は美しかった。目は冷たく、刃は眩い。足元には魔王軍の死体、帰還者の残骸、黒星片の破片が積み重なっている。仲間たちの姿はない。アリアの剣、イリスの帳面、テイルの竜剣、アリスの割れた核、ハルナの壊れた工具、イーサーの折れた翼、ティンカーベルの砕けた刃。全てが足元にある。別のエノクは聖剣を掲げ、言った。
世界を救うためだ。
その声は、エノク自身の声だった。
エノクは息を呑んだ。
「これは」
「復讐と責務に呑まれた未来だ」
アルクスの声が背後から聞こえた。
「王家の血を、世界を救うための理由にし、仲間の名を犠牲の数へ変え、自分だけが正しい終わりを持つと信じた時、聖剣は災厄の剣となる」
別のエノクの刃が、赤黒く染まる。ヤクシャの暗黒剣とは違う。もっと清らかで、もっと恐ろしい赤。正義の名で血を吸った剣。聖なる災厄。
ティンカーベルが低く唸った。
「嫌な剣だ」
「僕が、こうなるかもしれないんですか」
「誰でもなる」
アベルが答えた。
「強い願いは、よく磨かれた刃に似ている。救いたいという願いも、使い方を誤れば人を斬る。王家の聖剣は、それを増幅する。だから、剣は問う。お前は何のために握るのか、と」
幻がまた変わった。
今度のエノクは、白い光の中で立っていた。傷つき、血を流し、聖剣を胸へ当てている。周囲には仲間たちが泣いている。エノクは微笑み、言う。これで終わるなら、僕は。そう言いかけて、刃を自分へ向ける。アベルのように死ぬために。世界を救うために。誰も責めないように。誰も自分を止めないように。
エノクの足が震えた。こちらの未来は、先ほどの災厄の剣よりも美しく見えた。だからこそ怖かった。死ねば、きっと許される。王家の血も、鍵の責務も、父母の死も、パーカスの選択も、すべてに報いることができる。そう思えてしまう。
セリスの声が遠くから響いた。
あなたが生きたことを、私たちの死の罪にしないで。
パーカスの声も続く。
生きることを罰にしないでほしい。
エノクは目を閉じた。胸が痛い。死による救済は、あまりにも美しく、あまりにも簡単に見える。自分が死ねば、誰かが救われるのなら。アベルのようになれるのなら。そう思う心が、確かに自分の中にある。
だが、それは本当に終わらせることなのか。
アベルは死んだ。だが終わらなかった。アルティエルは消えた。だが終わらなかった。父母は残った。パーカスは走った。シモンは育てた。ザッハは沈黙した。阿修羅は封じ損ねた。ダイダロスは記録を残した。ヨシュアは沈黙の罪を抱えた。アイオンは名から逃げた。みんなが何かを渡し、何かを残し、何かを背負いきれずに次へ送った。なら、自分が死ねば終わるという考えもまた、誰かへ続きを渡すだけではないのか。
エノクは目を開けた。
「違います」
幻の中の殉教のエノクが、こちらを見る。
「僕は、死んで終わらせたいんじゃない。怖いから、死ねば許されると思いたいだけだ」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが割れた。恥ずかしく、苦しく、けれど真実だった。
「僕は、アベルのように死にたいわけじゃない。父上や母上やパーカスの死に報いるために、僕の死を並べたいわけじゃない。死ねば、同じ場所に立てると思いたかった。でも、それは違う」
アベルの残響が、静かに見ている。
エノクは聖剣へ向き直った。
「僕は、生きます」
地下聖堂の名が、淡く光った。
「エノクとして生きます。アベルの代わりではなく、父上の代わりでもなく、王家の鍵だけでもなく。怖くても、弱くても、逃げたくても、仲間と一緒に、生きて終わらせます。もし終わりまで歩けるなら、最後に死ぬためじゃなく、最後を見届けて、その後の朝へ戻るために剣を握ります」
聖剣の黒い筋が激しく震えた。復讐の未来、殉教の未来、支配の未来。それらが刃の周囲に浮かび、エノクを取り巻く。王家の亡霊たちの声が響く。民を守れ。血を継げ。敵を討て。死んで証明せよ。王になれ。鍵になれ。英雄になれ。
エノクは叫んだ。
「僕は、エノクだ!」
その名が、地下聖堂の壁に跳ね返った。
エノク。
兵士たちの名の光が応える。パーカスの記録が光る。セリスの白い木の葉が地上から鈴のように鳴る。アルクスの残響が静かに頷く。アベルの影が、疲れたように、しかし安堵したように微笑む。
聖剣の黒い筋が、剥がれ落ちた。
刃の中心を走る青い線が、白銀の光へ変わる。だが、その光は眩しく人を押し潰すものではなかった。朝の光に似ていた。夜を完全に否定するのではなく、夜を越えた後に差す光。地下聖堂の台座が静かに割れ、聖剣の柄がエノクの手へ少し近づいた。
ティンカーベルが言った。
「取れ」
「いいんですか」
「剣が呼んでいる。ここで遠慮するな」
「ティンカーベルは」
「私はお前の喋る剣だ。あれは王家の聖剣。役目が違うと言っただろう。二本持ちが下手なら鍛え直すだけだ」
「厳しい」
「嬉しいなら嬉しいと言え」
エノクは、涙の残る顔で少し笑った。
「嬉しいです」
「よし」
彼は聖剣の柄を握った。
今度は、剣が抜けた。
重かった。だが、腕を下げさせる重さではない。自分が立っている地面の重さに似ていた。父母の選択、パーカスの記録、王宮に刻まれた名、アベルの未完、アルティエルの光、そして自分自身の生。すべてが刃の中にある。聖剣は、抜かれた瞬間に高く鳴った。音は地下聖堂だけでなく、ランバード城全体へ広がり、焼けた城壁、崩れた中庭、白い名守りの木、城門の兵士たちの残響を通って、空の黒い星へ向かった。
黒い星が一瞬だけ揺れた。
星の船の拍動が、ほんのわずかに遅れた。
アベルの残響が言った。
「名を」
エノクは聖剣を胸の前に立てた。
「名?」
「剣は、名を持って初めてお前のものになる。王家はこの剣をただ聖剣と呼んできた。だが、お前が握るなら、お前の意志にふさわしい名を呼べ」
エノクは刃を見た。復讐でもない。殉教でもない。支配でもない。生きて終わらせるための剣。死を美しくする剣ではなく、生の続きを守る剣。王家の負債を罰ではなく選択として抱く剣。
彼は静かに言った。
「聖剣」
名を口にした瞬間、刃の白銀が柔らかく広がった。復活ではない。蘇生でもない。終わったはずのものを無理に戻す名ではない。生きて続ける方舟。失敗の後にも、朝へ向かうための剣。エノク自身も、なぜその名が浮かんだのか分からなかった。だが、剣は応えた。
ティンカーベルが少し唸る。
「悪くない。少々気取っているが」
「気取っていますか」
「王家の剣だからな。多少は仕方あるまい」
アベルの影が笑った。今度は、英雄ではなく人としての笑みだった。
「エノク。お前は私にはならぬ。それでよい」
「アベル様」
「私は死んで終わらせようとした。お前は生きて終わらせろ。私の失敗を、私の真似で繰り返すな」
「はい」
「そして、アリオンを探せ」
その名に、エノクの胸が震えた。
「アリオンを」
「欠けた真言は、まだ戻っていない。聖剣だけでは、カオスの名は閉じられぬ。お前が生きることを選んだなら、欠けた者も生きて戻さねばならない」
アイオンの顔が浮かんだ。嘘つきの笑み。遠ざかる背中。戻るという弱い約束。
「戻る道を残します」
エノクは言った。
アベルは頷いた。
「それがお前の道だ」
アベルの残響は光へ薄れた。アルクスの残響も、地下聖堂の入口で静かに頭を下げる。セリスの白い葉が地上で鳴り、パーカスの記録帳がエノクの荷の中で温かくなった。王家の名たちが、少しずつ壁へ戻っていく。役目を終えたのではない。エノクの中へ移ったのだ。
聖剣は、エノクの手の中で静かに光っていた。ティンカーベルは腰にある。二本の剣。一本はシモンが与えた、喋り、叱り、守る剣。一本は王家が眠らせていた、名と選択を背負う剣。どちらかを捨てる必要はない。エノクは森で育った少年であり、ランバードの血を持つ者でもある。その二つを裂くのではなく、両方を持って生きる。
地上へ戻る階段を上がる時、聖剣は重かった。だが、足取りは沈まなかった。城門へ出ると、兵士たちの残響が薄く並んでいた。彼らは、エノクの手にある剣を見て、一斉に膝をついた。
「王子」
一人が言いかけた。
エノクは首を振った。
「エノクで」
兵士の影が、かすかに笑った。
「ご武運を、エノク様」
城の外では、黒い星がまだ空を回っている。大陸各地の黒星片は止まっていない。帰還者たちは目覚め、仲間たちはそれぞれの道で戦っている。聖剣を得たからといって、世界が軽くなるわけではなかった。むしろ、重さは増した。だが、エノクはもう、その重さを死ぬ理由にはしない。
彼は坂道を下りながら、仲間たちの名を呼んだ。
アリア。イリス。テイル。アリス。ハルナ。イーサー。ティンカーベル。アイオン。
最後の名だけ、風の中で少し遠く鳴った。
「戻ってください」
エノクは誰もいない坂道で言った。
「僕は、生きて待ちます。生きて進みます。だから、あなたも戻ってきてください」
返事はなかった。
だが、腰のティンカーベルが小さく鳴り、手の中の聖剣が淡く光った。二つの剣の響きは違う。片方は口うるさく、片方は静かだ。それでも、どちらも今のエノクを支えていた。
廃墟のランバード城は背後に遠ざかる。そこは、死者の城ではなかった。エノクを生かすと選んだ名たちの城だった。
彼は聖剣を背に、ティンカーベルを腰に、黒い星の下を歩き出した。アベルのように死ぬためではない。エノクとして生きて、終わらせるために。




