第5話_廃墟のランバード城
石標の光が消えた時、エノクはひとりで立っていた。ヴェルナ旧街道の潮風も、黒星片の仮封じが鳴らす銀線の音も、仲間たちの呼び声もなかった。足元には灰色の石畳が広がり、空には黒い星が開いたまま、鈍い輪を描いて回っている。風は冷たく、どこか懐かしい匂いを含んでいた。焼けた木、古い雨、錆びた鉄、そして長く誰にも呼ばれなかった名の匂い。エノクは胸元を押さえた。王家の鍵が、今までにないほど熱く鳴っている。
目の前には、城があった。
ランバード城。
かつて白亜の王城と呼ばれ、聖天使の光を受ける高塔を持ち、青い旗を掲げていたという城は、今は黒く焼けた骨のように丘の上へ残っていた。外壁は崩れ、城門の片側は斜めに傾き、堀は干上がって草に埋もれている。旗竿には何もない。ただ、裂けた鎖が風に揺れ、かすかな音を立てていた。十六年前、ここから赤子だったエノクが逃がされた。老執事パーカスが、命を懸けて王家の血を森へ運んだ。父王アルクスと王妃セリスは、この城へ残った。エノクの知っている事実はそれだけだった。だが、その事実の上に、自分の足が立っていると本当に思ったのは、今が初めてだった。
「……ここが」
声がかすれた。
腰のティンカーベルが低く鳴る。
「お前の始まりの場所だ」
「僕の家、ですか」
「家だった場所だ。家でなくなった場所でもある」
「厳しいですね」
「甘く言えば、足が鈍る」
エノクは苦笑しようとしたが、うまくできなかった。ひとりで来たのだと、改めて思う。アリアはいない。イリスも、テイルも、アリスも、ハルナも、イーサーもいない。アイオンはどこにいるか分からない。いつもなら、誰かが言葉をくれる。怖さを分ける声がある。だが、今はティンカーベルだけだ。喋る剣は頼もしいが、剣である。抱きしめる相手には向かない。
城門へ向かう坂道には、折れた槍と割れた盾が半ば土に埋もれていた。十六年の歳月が草を伸ばし、蔦を這わせ、鳥の巣を作った。けれど、黒い炎に焼かれた跡は消えていない。石は内側から黒く変色し、触れると指先に冷たい粉がついた。名を焼く炎。あれは、十六年前にもここを通ったのだろうか。父と母の名も、兵士たちの名も、侍女や料理人や門番の名も、その炎に触れたのだろうか。
城門の前に来ると、折れた門扉が勝手に軋んだ。風ではない。エノクの胸元の鍵に反応している。門の上には、ランバード王家の紋が残っていた。翼を持つ獅子と、聖天使の光を受ける剣。その紋章の中央に、細い亀裂が走っている。エノクが一歩近づくと、亀裂の奥から青白い光が漏れた。
ティンカーベルが言った。
「鍵を出せ」
エノクは鍵を取り出した。小さな金属片は、城の紋章へ向かって震えている。王家の血に反応する鍵。パンドラボックスの命令片。父王が赤子の胸へ託したもの。エノクはそれを門の紋へ近づけた。
光が走った。
城門の周囲に、薄い人影が現れた。鎧をまとった兵士たち。槍を構えた門番。若い見習い兵。年老いた弓兵。彼らの輪郭は煙のように薄く、顔は崩れかけている。だが、門の前に立つ姿勢だけは変わらない。十六年前に死んだ者たちの残響。死者そのものではなく、城に焼きついた最後の務めの影だった。
エノクは息を呑む。
「僕は」
何と言えばいいのか分からなかった。王子だと名乗るべきなのか。生き残った者として頭を下げるべきなのか。遅くなったと謝るべきなのか。
すると、ティンカーベルが低く言った。
「名乗れ」
エノクは背筋を伸ばした。
「エノク・ランバードです。アルクス王とセリス王妃の子。……あなたたちに守られて、生き延びた者です」
兵士たちの残響が、少しだけ揺れた。門番の一人が膝をついた。声はほとんど風だったが、聞こえた。
「王子……ご無事で」
その一言が、エノクの胸を打った。彼らにとって、時間は進んでいない。赤子を逃がし、城門を守り、死んだ瞬間の願いだけが残っている。ご無事で。その言葉を聞くために、彼らは十六年ここにいたのかもしれない。
「はい」
エノクは喉を詰まらせながら答えた。
「生きています」
兵士たちの影が、門を開けるように左右へ退いた。折れた門扉が、音を立てて少しだけ開く。エノクは深く頭を下げ、その間を通った。通り過ぎる時、兵士たちの名が分からないことが、胸に刺さった。イリスなら聞いただろう。記録しただろう。だが、今のエノクは知らない。王家の者でありながら、自分を守って死んだ者たちの名を知らない。
「ティンカーベル」
「何だ」
「僕は、帰ってきたのに、何も知らない」
「知るために来た」
その言葉は慰めではなかった。だから、少し助かった。
中庭は、かつての庭園の面影をわずかに残していた。噴水は割れ、水はない。花壇は荒れ、黒い蔦が石柱へ絡みついている。だが、中央には一本だけ白い木が立っていた。焼けた庭の中で、その木だけが葉をつけている。細い葉は銀を帯び、風に揺れるたび、かすかに鈴のような音を立てた。聖天使アルティエルの神殿に植えられるという名守りの木。王宮にも一本植えられていたのだろう。
木の下に、女の人影が立っていた。
セリス王妃。
エノクは見たことがない。記憶にあるはずもない。それでも、分かった。長い淡金の髪、穏やかな目、白と青の王妃衣。輪郭は淡く、風が吹けば消えそうだったが、彼女は両腕を抱くようにして立っていた。まるで、今も赤子を胸に抱いているかのように。
「母上」
言葉が勝手に出た。
王妃の残響は、ゆっくり顔を上げた。目が合った。いや、残響に本当の目があるのかは分からない。けれど、その瞬間、エノクは確かに見つめられた。
「エノク」
声は風よりも柔らかかった。
エノクの膝が崩れそうになった。母に名を呼ばれた。たったそれだけで、自分の中のどこかがほどけそうになった。彼は十六年間、シモンに育てられた。シモンは父のようであり、師であり、時には不器用な保護者だった。だが、母という言葉は、彼の中で空白のままだった。その空白へ、今、声が落ちた。
「僕は」
何を言えばいいのか分からない。
「生きています」
同じ言葉しか出なかった。
セリスの残響は微笑んだ。悲しそうで、嬉しそうな笑みだった。
「それでよいのです」
「でも、父上も、母上も、パーカスも、兵士たちも、みんな」
「あなたが生きたことを、私たちの死の罪にしないで」
エノクは息を止めた。
王妃は、ゆっくり白い木の幹へ手を置いた。
「私たちは、あなたを生かすことを選びました。選んだのです。奪われたのではなく、選んだ。もちろん、怖かった。あなたを抱いたまま逃げたかった。王でも王妃でもなく、ただ父と母として生きたかった。けれど、できなかった。ならばせめて、あなたが生きる道を残そうとした」
「僕は、その上に」
「はい」
セリスの声は優しかった。
「あなたは、多くの選択の上に生きています。死の上に、ではありません。死だけを見れば、あなたは生きるたびに自分を責めるでしょう。けれど、私たちは死にたかったのではありません。あなたを生かしたかったのです」
エノクは唇を噛んだ。涙が出そうになる。だが、残響の母を前に泣いていいのかも分からなかった。
「僕は、何者になればいいんですか」
ずっと聞きたかった問いだった。王子なのか。鍵なのか。アベルの子孫なのか。カオスを封じるための血なのか。シモンに育てられたただの少年なのか。何者になれば、死んだ者たちに顔向けできるのか。
セリスは首を振った。
「何者かになる前に、生きてください」
「それだけで、いいのですか」
「それだけが、難しいのです」
その言葉は、アベルの物語とは違った。英雄として死ぬことではなく、生きること。エノクがこれまで何度も選ぼうとして、怖くなった道だった。
王妃の残響が薄くなり始める。
「奥へ。王の間へ行きなさい。あなたの父が待っています。そして、パーカスの記録も」
「母上」
「エノク」
セリスは最後に、両腕を少しだけ広げた。触れることはできない。けれど、エノクは一歩近づき、その残響の前で深く頭を下げた。母の腕は彼を抱けなかった。それでも、風が一瞬だけ温かくなった。
「生きて」
その声を残し、王妃の姿は白い木の葉の光へ溶けた。
エノクはしばらく動けなかった。
ティンカーベルも、珍しく黙っていた。やがて、剣が小さく言った。
「よい母だ」
「はい」
「泣くなら泣け」
「今泣いたら、進めなくなりそうです」
「なら、進んでから泣け」
エノクは袖で目を拭い、王宮へ入った。
廊下は、記憶で見た時よりも暗かった。窓は割れ、壁画は焼け、青い絨毯は灰に埋もれている。かつて王家の歴史を描いた壁面には、アベルとアルティエル、七英雄、カオスとの聖戦が残っていた。だが、一部の壁画は黒く焼けている。特に、聖戦の最後を描いた区画。パンドラボックスを掲げるアベルの隣に、かすかに弦を持つ人物がいた痕跡がある。だが、その部分だけが後から塗り潰され、聖天使の光で上書きされていた。消された七英雄。真言の英雄アリオン。ここにも、その空白があった。
「ここにも、あったんですね」
エノクが呟くと、ティンカーベルが低く鳴った。
「王宮の記録も例外ではない。都合の悪い名は、どこでも消される」
「アイオンは、これを知っていたのでしょうか」
「知っていたかもしれん。見ないようにしていたかもしれん。どちらにせよ、今ここにはいない」
胸が痛んだ。アイオンの不在は、廃墟の中でさらに大きくなった。もし彼がここにいれば、きっと壁画を見て冗談を言っただろう。あるいは、何も言わずに目を逸らしただろう。そのどちらも今はない。
王の間の扉は半ば焼け落ちていた。エノクが近づくと、扉の残骸が青い光を帯びて左右へ開く。玉座の間は広かった。天井の一部が抜け、黒い星が見える。床には割れた大理石、焼けた旗、折れた王笏。奥の玉座は、背もたれが裂け、片側が崩れている。その前に、一人の男の影が立っていた。
アルクス王。
エノクの父。
若い頃の姿ではない。最後まで王であり続けた時の姿だった。肩に裂けた王衣をまとい、胸には焼け跡がある。顔は青白く、片目の輪郭が炎に溶けていた。それでも、立ち姿はまっすぐだった。王冠はない。剣も持っていない。ただ、玉座の前に立ち、城門の方角を見ていた。
「エノク」
父王の声は、母の声より低く、遠かった。
エノクは膝をつきそうになり、堪えた。王の前だからではない。息子として立っていたかった。
「父上」
「大きくなった」
その一言が、胸に深く刺さった。
「見ていたのですか」
「城に残った残響は、外の時をほとんど知らぬ。ただ、鍵が生きていることだけは感じていた。森で、海で、湖で、死者の都で、血の野で、空で。お前がどこかで名を呼ばれ、生きていることだけは」
エノクは拳を握った。
「僕は、王ではありません。何も知らずに育ちました。剣も弱くて、魔法もほとんど使えず、何度も仲間に助けられました。王家の血があると言われても、まだよく分かりません」
「それでよい」
アルクスは言った。
「王家の血とは、最初から王である証ではない。多くの者に生かされたことを忘れぬための鎖だ」
「鎖」
「重いものだ。飾りではない」
父王は玉座を振り返った。
「ランバード王家は、聖天使の光を受ける家として語られた。アベルの血を継ぐ家。聖剣を守る家。だが、その輝きの下には、いくつもの選択がある。民を守れなかった日。戦を避けられなかった日。真実を知らぬまま伝承を守った日。消された名に気づかぬまま、聖天使の美しい絵を掲げた日。私も、その上に立っていた」
エノクは壁画の空白を思い出した。
「父上も、アリオンのことを?」
「名までは知らなかった。だが、欠けているとは感じていた。王家の古い儀式には、弦の席があった。だが、いつの頃からか聖天使の紋に置き換えられ、誰も疑わなくなった。私も、疑いきれなかった」
アルクスの声に、苦さが滲んだ。
「お前は、私たちの正しさだけを継いではならぬ。間違いも、知らなかったことも、見過ごした空白も継げ。その上で、同じようには黙るな」
「それは、僕に王になれということですか」
アルクスはしばらく黙った。
「王になるかどうかは、まだ先の問いだ。今のお前に必要なのは、王冠ではない。自分が何の上に生きているかを知ることだ」
その言葉で、玉座の間の床が光った。割れた大理石の隙間に、無数の名が浮かぶ。兵士、侍女、料理人、書記、馬丁、神官、門番、乳母、庭師、王宮魔導士、名もなき避難民。王家の紋の下に埋もれていた人々の名だった。完全ではない。焼けて読めないものもある。途中で欠けたものもある。それでも、名はそこにあった。
エノクは息を呑んだ。
「こんなに」
「王家は、これらの名の上に立つ」
アルクスは言った。
「王は一人で国を持たぬ。王家の血も、一人で続かぬ。お前が生きているのは、私とセリスだけの選択ではない。門を閉じた兵。道を開いた侍女。赤子の泣き声を隠すため歌った乳母。追手を誤魔化した料理人。最後まで記録室を守った書記。パーカス。多くの者が、お前を生かす方へ自分の最後を置いた」
エノクの視界が滲んだ。
「僕は、知らなかった」
「これから知ればよい」
「全部は、覚えきれないかもしれません」
「覚えきれぬほどの名の上に立つことを、忘れるな」
その時、玉座の間の奥で、小さな音がした。石が動く音。アルクスの残響がそちらへ視線を向ける。
「パーカスの記録だ」
エノクは奥へ進んだ。玉座の背後、焼けた王旗の下に小さな扉があった。昔、王家の秘密記録を保管するための隠し室だったのだろう。鍵を近づけると扉が開き、中には石の記録箱があった。箱の上には老執事の紋章が刻まれている。パーカス。十六年前、エノクを抱いて森へ向かい、シモンへ託した男。
箱を開くと、一冊の記録帳と、小さな水晶板が入っていた。記録帳は古びているが、魔導処理で焼け残っている。水晶板に触れると、淡い光が浮かび、パーカスの声が流れた。老人の声。疲れているが、揺るがない声だった。
『この記録を、いつか若君が読むことを願う。読まぬ方が幸せであるかもしれぬ。だが、知らぬまま背負うことは、より重い。ゆえに残す』
エノクは息を止めた。
『城は落ちる。王と王妃は残られる。私は若君を連れ、不思議の森へ向かう。シモン殿ならば、王家の血を隠し、子として育てることができる。王は仰せになった。あの子を鍵として育てるな、と。王妃は仰せになった。あの子の名を、最初に呼んでやってくれ、と』
エノクは記録帳を抱えそうになった。
『若君。あなたは、多くを失って生き延びたのではない。多くが、あなたを生かすと選んだ。そのことを、どうか負債だけにしないでほしい。生きることを罰にしないでほしい。私は老いぼれの執事で、最後まであなたをお守りできぬかもしれぬ。だが、森へ辿り着いたなら、私は最後にあなたの名を呼ぶ。エノク、と。王でも、鍵でも、血でもなく、あなたの名を』
水晶板の声が少し乱れた。遠くで扉を叩く音、炎の音、赤子の泣き声が混じる。
『もし、いつか城へ戻られたなら、地下聖堂へ。王家の聖剣は眠っている。あれは勝者の剣ではない。王家が、自らの罪と民の名を忘れぬために置いた剣である。抜く資格は血では測れぬ。若君が、自分の生を罰ではなく選択として持てた時、剣は目覚めるだろう』
記録はそこで一度途切れた。最後に、かすれた声が戻る。
『エノク様。どうか、生きてください。私たちの死のためではなく、あなた自身の明日のために』
水晶板の光が消えた。
エノクは、しばらく声を出せなかった。パーカスの名は知っていた。自分を救った老執事。けれど、それは物語の中の役割だった。今、彼の声を聞いて初めて、パーカスがひとりの人として胸に入ってきた。恐れ、迷い、それでも選んだ人。赤子の名を呼ぶために、森へ走った人。
ティンカーベルが静かに言った。
「お前は、名を呼ばれて生き延びた」
「はい」
「なら、呼び返せ」
エノクは記録帳を胸に抱き、目を閉じた。
「アルクス王。セリス王妃。パーカス。門を守った兵士たち。名をまだ知らない人たち。僕は、あなたたちの選択の上に生きています」
玉座の間に浮かぶ名の光が、静かに揺れた。
「負債だけにはしません。罰にも、しません。僕は、生きます。僕自身の明日のために。そして、あなたたちの名を、できる限り忘れません」
言い終えた時、玉座の奥の床が開いた。
地下へ続く階段が現れる。暗い階段の奥から、青白い光が漏れていた。聖堂の光。アルクスの残響が、エノクの背後に立つ。
「行きなさい」
「父上」
「私が渡せるものは、記録だけだ。剣は、私から受け取るものではない。眠っている剣に、お前自身で問え」
エノクは頷き、階段を降りた。
地下聖堂は、城のどこよりも無事だった。黒い炎の痕跡はあるが、中心部までは届いていない。壁には聖天使アルティエルの紋、アベルの古い剣印、そしてランバード王家の名簿が刻まれている。中央には、透明な石で作られた台座があり、その上に一本の剣が眠っていた。
王家の聖剣。
刃は銀でも鋼でもない。月光を固めたような淡い白銀で、中心に細い青い線が通っている。柄には翼ある獅子の紋、鍔には小さな鍵穴に似たくぼみ。長く眠っていたにもかかわらず、錆も埃もなかった。ただ、眠っている。剣でありながら、呼吸をしているように静かだった。
エノクは思わずティンカーベルへ触れた。
「……浮気では?」
ティンカーベルが言った。
エノクは吹き出しそうになり、涙と笑いが同時に込み上げた。
「こんな時に何を言うんですか」
「大事な確認だ。私は喋る剣としての立場がある」
「ティンカーベルは、僕の剣です」
「ならよい」
ティンカーベルは少しだけ満足そうに鳴った。
「だが、あれは王家の剣だ。私とは役目が違う」
「役目」
「あれは、お前を強くするためだけの剣ではない。王家が忘れてはならぬ名を束ねる剣だ」
エノクは聖剣へ近づいた。台座の前に立つと、胸元の鍵が光る。聖剣の鍔のくぼみが同じ光を返した。鍵と剣が反応している。だが、エノクはすぐに手を伸ばせなかった。怖かった。触れて、拒まれることが。触れて、逆に王家の重さを背負いきれないことが分かることが。
その時、背後から母の声がした気がした。
生きて。
父の声が続く。
名の上に立つことを、忘れるな。
パーカスの声が、最後に届く。
若君ではなく、エノク様。
エノクは深く息を吸った。
「僕は、アベルではありません。父上でもありません。王として何ができるかも、まだ分かりません。世界を救うと、簡単には言えません」
聖剣は静かだ。
「でも、僕は自分が何の上に生きているかを知りました。たくさんの選択の上に、名の上に、生かすと決めてくれた人たちの上に、生きています」
彼は手を伸ばし、聖剣の柄に触れた。
「だから、生きます。罰としてではなく、逃げるためでもなく。僕の明日のために。その明日を、誰かの名を消すためには使いません」
聖剣が光った。
抜けたわけではない。台座から動いたわけでもない。だが、長い眠りの底で、確かに目を開けた。刃の中心の青い線が灯り、地下聖堂の壁に刻まれた名が一斉に淡く光る。エノクの手の中へ、熱ではなく、静かな重さが流れ込んだ。王家の重さ。だが、それは押し潰すための重さではない。立つ場所を教える重さだった。
ティンカーベルが言った。
「まだ抜く時ではないな」
「分かります」
エノクは柄から手を離した。
「でも、起きてくれた」
「お前が起こした。少しだけな」
「少しだけ」
「十分だ。寝起きの聖剣を無理に引っ張るな。寝ぼけて斬られたら笑えん」
「聖剣でも寝ぼけるんですか」
「剣にも都合がある」
エノクは今度こそ少し笑った。涙が頬を伝っていたが、笑えた。
地下聖堂を出る時、アルクスの残響は玉座の間で待っていた。セリスの光も、中庭の白い木から微かに届いている。パーカスの記録帳は、エノクの荷に収められた。城の名たちは、まだ全てを読めない。だが、いつかイリスに見てもらいたいと思った。彼女なら、欠けた名にも空白を残してくれる。
エノクは玉座の間で父へ向き直った。
「また来ます」
アルクスは頷いた。
「生きている者は、何度でも戻れる」
「聖剣は、まだ眠っています」
「お前もまだ、途中だ」
「はい」
「それでよい」
父王の姿が薄くなる。最後に、彼は王ではなく父の顔で言った。
「エノク。行きなさい」
エノクは深く頭を下げた。
城門を出る頃、空の黒い星はまだ回っていた。大陸各地では黒星片が霊脈を汚し、帰還者たちが目覚め、仲間たちはそれぞれの道で戦っているだろう。アイオンはまだ戻らない。聖剣は眠ったまま、しかし確かに目を開けた。エノクは自分が何の上に生きているのかを知った。父母の死の上だけではない。パーカスの選択、兵士たちの名、王宮で働いた無数の人々、そして自分を呼んだ全ての声の上に。
城門の兵士たちの残響は、もう薄くなっていた。役目を終えかけているのだろう。エノクは彼らに向かって言った。
「あなたたちの名を、必ず探します」
門番の影が、かすかに笑ったように見えた。
「ご武運を、エノク様」
王子ではなく、名で呼ばれた。
エノクは頷き、廃墟のランバード城を後にした。胸元の鍵は静かになっている。だが、その奥で、王家の聖剣が眠りの中から彼を覚えている気配がした。
次に戻る時、自分は何を持っているだろう。何を失っているだろう。分からない。それでも、もう自分の生を罰とは呼ばない。
エノクは黒い星の下、仲間たちの名を一人ずつ心の中で呼びながら、荒れた坂道を降りていった。




