第3話_帰還者たち
黒い星が空に開いてから、風の向きが変わった。海風はまだヴェルナの廃門を撫でている。潮の匂いも、焼けた草の匂いも、崩れた石に残る古い雨の匂いも消えていない。だが、そのすべての奥に、別の匂いが混じった。金属でもない。血でもない。焦げた魔導炉でもない。星の外の冷たい闇を、無理やりこの世界の空気に溶かしたような匂いだった。エノクはそれを吸い込むたび、胸元の鍵が内側から細く震えるのを感じた。パンドラボックスの鍵は、世界に属さぬものを覚えている。いや、覚えているのではない。かつて閉じ損ねたものの拍子に、否応なく応えているのだ。
ヴェルナ北門跡の黒星片は、ハルナの組んだ仮封じによって沈黙していた。沈黙といっても、眠っているわけではない。地面へ打ち込まれた霊脈鉱の針が白く光り、銀線が黒い金属の外殻を縛り、イーサーの星図が上から反響を遅らせ、テイルの竜気が大地の震えを押さえている。アリアが切り離した刃紋は、まだ石畳の端で赤黒く燻っていたが、ヴェルナの紋へ絡みつくことはできなくなっていた。アリスは穴の縁から少し離れたところに座り、両手で胸元の核を包んでいる。彼女の硝子の瞳は、穴ではなく空を見ていた。黒い星。そこから降る見えない糸。帰還者たちが目覚める音。
イリスは記録帳を膝に置いたまま、しばらく筆を動かせなかった。書くべきことは多すぎる。大陸各地への黒い金属片の落下。霊脈汚染。星の船の再起動。旧魔王軍との戦いから、星外の災厄との戦いへの転化。だが、彼女の胸を最も強く締めつけていたのは、仮封じの奥で身じろぎした帰還者の影だった。名がなかった。だが、何もなかったわけではない。あの影には、名が入るべき場所があった。空白のまま傷口になっている場所。そこを見た時、イリスの中で神官としての祈りと、記録者としての手が同時に震えた。
「イリス」
アリアが声をかけた。
「大丈夫?」
「……大丈夫ではありません」
イリスは正直に言った。
「でも、書きます。書かないと、また“魔物”という言葉だけで片づけてしまいそうで」
アリアは黙って頷いた。彼女は魔物という言葉の便利さを知っている。ヴェルナを滅ぼしたものをすべて魔王軍と呼べば、怒りはまっすぐになる。だが、その奥には裏切った者、利用された者、封印を担わされた者、黙っていた者、呪いに引き寄せられた者がいる。名を一つにまとめれば、剣は振りやすい。けれど、弔いは遠ざかる。
ハルナは黒星片の仮封じを調べながら、耳を伏せていた。
「こいつ、中から叩いてる。強くじゃない。戸を探してる感じ。開け方を忘れた人が、壁を叩いてるみたいな」
「出していいものではないのでしょう」
イーサーが言う。
「もちろん駄目。出したら北門跡が黒星片の巣になる。でも、ただの魔物ならこんな叩き方しない。魔物なら、壊す。これは……帰り道を探してる」
アリスが小さく反応した。
「帰り道」
「ごめん。変な言い方だった?」
「ううん」
アリスは首を振る。
「分かるから、怖い」
テイルは大地から手を離し、立ち上がった。額に汗が滲んでいる。竜神族の血を持つ彼が、霊脈を押さえるだけでこれほど消耗している。黒星片の汚染は、それだけ大地の奥へ深く入り込もうとしていた。
「ここだけ押さえても駄目だ。近くにもう一つ落ちてる。小さいけど、そこから変な足音がする」
イーサーが星図板を確認する。
「北門跡の南西、旧祭礼街道の水路橋付近です。黒星片の規模は小。帰還者反応、三体以上。霊脈接続は浅い」
「浅いうちに止める」
アリアが即座に言った。
イーサーは頷いた。
「同意します。北門跡の仮封じは、私が星図で維持できます。ただし、距離が離れすぎると精度が落ちる」
「じゃあ、私たちが行く。あなたはここで封じを見て」
「いいえ」
イーサーは静かに首を振った。
「私も行きます。星図を見ているだけでは、また同じことになります」
アリアは少しだけ彼を見た。以前のイーサーなら、最も合理的な位置に留まり、全体を観測しただろう。今もそれが正しいのかもしれない。だが、彼はヨシュアの山で沈黙までは継がないと決めた。見える場所から指示を出すだけではなく、地上の名を聞く場所へ降りると決めたのだ。
「なら、遅れないで」
「努力します」
「それ、そろそろ本気の意味で使ってる?」
「はい」
「ならいいわ」
イーサーは、ほんの少しだけ目元を緩めた。
北門跡の仮封じには、ハルナが機械鼠を残した。小さな歯車仕掛けの鼠は、黒星片の周囲を走り、銀線の緩みを見張る。ハルナはその頭を指で弾き、「壊れたら修理代を自分で稼いで帰ってくるんだよ」と言った。イリスが「それは無理では」と言い、ハルナは「無理だね。でも言っておくと戻ってきそうな気がする」と答えた。アリスがその機械鼠をじっと見て、「帰る場所がある鼠」と呟いた。ハルナは少し笑い、「ぼろ工房だけどね」と返した。
旧祭礼街道へ降りる道は、かつて海へ灯籠を運ぶための石道だった。今は草に覆われ、ところどころ崩れ、石の間から黒い線が走っている。黒星片の影響だ。水路橋に近づくと、風が重くなった。水はほとんど残っていない。かつて山から港へ清水を送っていた水路は、ヴェルナ滅亡後に干上がり、今では乾いた溝になっている。その底に、黒い金属片が刺さっていた。北門跡のものより小さい。拳ほどの大きさしかない。だが、そこから伸びる黒い根は、乾いた水路の壁へ絡みつき、白い石を内側から染めていた。
その周囲に、三体の帰還者がいた。
一体目は、機械の骨を持っていた。腕は細い金属管と黒い腱で組まれ、背中には壊れた翼のような装置がある。頭部は半分が人の頭蓋に似て、半分が歯車と仮面で覆われていた。胸の空白には、砕けた星図板のようなものが埋まり、そこから青黒い光が漏れている。動くたび、歯車が噛み合わずに泣く音がした。
二体目は、ほとんど魂だけだった。身体の輪郭は薄く、内部にいくつもの影が重なっている。老人、子ども、鳥のようなもの、蛇のようなもの、そして人間に似た細い影。それらが一つの器へ押し込められ、どの輪郭も自分の場所を得られないまま揺れていた。顔は何度も変わる。泣いているようにも、笑っているようにも、叫んでいるようにも見えた。
三体目は、ひざまずいていた。黒い外套のような膜をまとい、両手を祈りの形に組んでいる。胸の空白には、黒い王冠の紋が刻まれていた。目はない。だが、その姿勢だけで分かる。何かを崇めている。誰かを待っている。カオスを、救い主として。
イリスは息を呑んだ。
「それぞれ、違います」
イーサーが星図を開く。
「帰還者反応、分類不能。第一個体、機械融合魂魄。第二個体、多重魂魄混在。第三個体、黒星王信仰反応あり」
「分類するなとは言わないけど」
イリスは震える声で言った。
「分類だけでは、足りません」
イーサーは頷いた。
「はい」
以前なら、彼はここで反論したかもしれない。今は、星図の点のそばに小さな空白を作った。名を書くための空白。まだ何も入っていないが、空白があるだけで、見え方は変わった。
機械の骨を持つ帰還者が、ぎこちなく顔を上げた。壊れた歯車の奥から、ひび割れた声が漏れる。
「門……修理……帰還路……王座……」
ハルナが一歩前へ出そうになり、テイルが肩を掴んだ。
「近づくな」
「でも、あれ、修理って言った」
「だから危ない」
ハルナは唇を噛んだ。機械の音が苦しんでいる。噛み合わない歯車、曲がった軸、魂の拍子に合わない器。彼女にはそれが聞こえてしまう。直したい。構造を見たい。けれど、あれはただの壊れた機械ではない。魂が混ざっている。触れば、自分の手も引き込まれるかもしれない。
「聞こえる」
ハルナは言った。
「あの腕、修理したがってる。違う、腕がじゃない。中の誰かが、自分の身体を直したがってる。でも、どれが身体なのか分かってない。機械の部品を自分だと思ってるのか、自分の骨を部品だと思ってるのか、混ざってる」
アリスが震えた。
「分かる」
全員が彼女を見る。
アリスは、機械骨の帰還者ではなく、二体目の多重魂魄を見ていた。薄い輪郭の中で、いくつもの魂が場所を奪い合っている。器が一つ。中身が多すぎる。名がない。境界がない。誰が誰なのか、どこまでが自分なのか分からない。かつて不死皇帝の外殻をまとい、死者の名を自分の国へ縛った彼女にとって、それは最も恐ろしい姿だった。
「わたしも、こうなれた」
アリスの声は、ほとんど息だった。
「死者をもっと縛って、もっとたくさん入れて、わたしの寂しさと、死者の名前と、玉座の外殻と、全部混ぜたら……わたしも、どれがアリスか分からなくなったかもしれない」
イリスがそっと彼女の名を呼んだ。
「アリス」
その一言で、アリスの肩が震えた。彼女は自分の胸元の核を押さえ、頷いた。
「うん。ここにいる」
多重魂魄の帰還者が、イリスの声に反応した。顔が何度も変わる。小さな子どものような顔が現れ、すぐに老人の輪郭へ溶け、鳥の嘴のような影が開き、最後に人の口が歪んだ。
「名……名……名……」
声が重なった。求めているのか、恐れているのか、分からない。
イリスは一歩前へ出た。
「あなたたちにも、名があったのですね」
帰還者たちは答えない。だが、三体すべてが彼女へ顔を向けた。名という言葉に反応している。イリスの胸が痛んだ。魔物なら、聖印を掲げて祓えばよい。邪悪なら、拒めばよい。だが、名を失った者が名に反応する姿を見てしまったら、ただ消せばいいとは言えない。
黒い王冠を胸に刻んだ帰還者が、祈りの手を解いた。声は意外なほど穏やかだった。
「王は、名をくださる」
全員が身構える。
「黒き王は、滅びた星の民を拾われた。壊れた魂を船へ乗せられた。肉を失った者に器を、名を失った者に帰還を、眠れぬ者に王座を。王は救済者。王は混沌。王は名のない者の名」
イーサーの翼がこわばる。
「カオスを救済者と信じている」
アリアが低く言った。
「こんな姿にされて?」
黒王冠の帰還者は、ゆっくり首を傾げた。
「姿……器……一時。王のもとへ帰れば、すべて一つ。痛みも、名も、境も、不要」
アリスが顔を歪めた。
「不要じゃない」
帰還者は彼女を見る。
「器の娘。境を苦しむ者。王のもとへ来れば、器と魂のずれは消える」
「消えるんじゃない。混ざるだけ」
「混ざれば、寂しくない」
アリスの顔が白くなる。
その言葉は、彼女にとって最も危険な刃だった。かつて彼女は、死者と自分を混ぜることで寂しさを消そうとした。死者なら置いていかないと思った。外殻を大きくすれば、自分が何者か分からなくても傷つかないと思った。帰還者の言葉は、その古い誘惑を別の星の声で語っていた。
イリスがアリスの手を握った。
「アリスは、アリスです」
アリスは息を震わせながら頷いた。
「うん。混ざらない。寂しくても、混ざらない」
黒王冠の帰還者は、理解できないというように首を傾けた。名を持たない者にとって、境界は苦痛なのかもしれない。ひとりでいること、別々でいること、名を持つこと。それらは救いであると同時に孤独を生む。カオスはその孤独を、混沌によって消すと約束しているのだ。名を失った者たちにとって、それは救済に聞こえたのかもしれない。
テイルが竜剣を構えた。
「話してる間に、黒星片が根を伸ばしてる」
確かに、三体の足元から黒い線が水路橋へ伸びていた。彼らは会話をしながらも、無意識に、あるいは黒星片の命令で霊脈へ接続しようとしている。止めなければ、ここも北門跡のように汚染される。
エノクはティンカーベルを抜いた。
「イリス、名を呼べますか」
イリスは苦しげに首を振った。
「本当の名が分かりません。無理に呼べば、黒星片に利用されるかもしれない」
「では、どうする」
イーサーが問う。
イリスは一瞬、記録帳を見た。空白。名があったはずの場所。彼女はそこへ筆を置いた。
「仮の記録をします」
彼女は三体へ向き直った。
「あなたたちを、魔物としてだけは書きません。でも、まだ名を呼べません。だから、今はこう記します。機械と融合した魂。多くの魂が混ざった者。黒き王を救済者と信じる者。いずれも、名を失う前には名があった者」
聖印が光る。名そのものではない。だが、分類だけでもない。名を探すための仮の記録。イリスの祈りは、帰還者たちの胸の空白へ届き、黒星片の侵食を一瞬だけ遅らせた。
ハルナが叫ぶ。
「今なら封じられる! でも、三体を一緒に押し戻すと混ざる。個別に境界を作って!」
「任せなさい」
アリアが踏み込む。双剣が白い線を引き、三体と黒星片を結ぶ境を分けた。一つの敵としてではなく、それぞれ別の存在として切り分ける。機械骨、多重魂魄、黒王冠。その間に境界を置く。混ざらせない。まとめて斬らない。それが、今のアリアにできる弔いだった。
テイルは地面を押さえ、竜気で水路橋の霊脈を守る。
「大地、こいつらを飲むな。噛まれても飲み込むな。吐き出せ!」
イーサーは星図を広げ、三つの空白を別々の点として記録した。
「帰還者反応、個別保持。黒星片接続、分離。名空白、三」
ハルナは銀線を投げるように打ち込んだ。
「蓋を分ける! 一個の箱に三つ詰めると最悪になる。アリス、二体目を見て! 混ざりそうになったら教えて!」
アリスは震えながらも前へ出た。多重魂魄の帰還者の輪郭が崩れかけている。老人、子ども、鳥、蛇、人。その全部が一つの穴へ戻ろうとしている。アリスはそれを見つめ、自分の核を両手で包んだ。
「混ざらないで」
彼女は言った。
「あなたたちが誰だったか、今は分からない。でも、ひとつのぐちゃぐちゃに戻らないで。寂しくても、怖くても、痛くても、混ざったら、あとで名前を探せなくなる」
多重魂魄の帰還者が震えた。顔が何度も変わる。小さな子どもの顔が、泣きそうに歪む。アリスも泣きそうだった。
「わたしも、まだ探してる。アリスって名前を、ちゃんと持てるように。だから、あなたたちも、まだ探せる形でいて」
その言葉が届いたのかどうかは分からない。だが、多重魂魄の輪郭は一瞬だけ分かれた。完全にではない。けれど、一つの塊へ戻ろうとする動きが止まった。
「今!」
ハルナの仮封じが光る。黒星片の欠片が地面から抜けかけ、三体の帰還者がそれぞれ別の黒い輪へ押し戻される。機械骨の帰還者は最後まで壊れた腕を伸ばし、歯車の泣く音を残した。多重魂魄は、名、名、と重なる声を漏らした。黒王冠の帰還者は祈りの姿勢を崩さず、最後に言った。
「王は、また呼ぶ」
そして黒い輪が閉じた。
水路橋に沈黙が戻った。だが、誰も勝利とは言わなかった。三体は倒されたのではない。押し戻された。仮に封じられた。問題は何も終わっていない。けれど、霊脈への接続は止まり、水路橋の白い石は完全に黒く染まらずに済んだ。
イリスはその場に膝をつき、記録帳へ書き込んだ。筆は震えていた。
「帰還者。単なる魔物ではない。滅びた星の民、またはその残響。機械と融合した魂。複数魂魄の混在体。カオスを救済者と信じる者。名を失う前には、それぞれ名があったと推定」
彼女は涙をこらえるように瞬きをした。
「本当の名、未確認。仮記録。後日、再調査」
アリアが静かに言った。
「再調査って、危険よ」
「分かっています」
「でも書くのね」
「はい。危険だから、書きます。忘れたら、ただの敵になります」
アリスはイリスの隣に座り込んだ。肩が震えている。イリスがそっと手を伸ばすと、今度はアリスの方からその手を握った。
「怖かった」
アリスが言った。
「わたし、あれを見て、怖いのに、少し分かった。混ざれば寂しくないって言葉、嫌なのに分かった。だから、怖い」
イリスは彼女の手を握り返した。
「分かったまま、選ばなければいいのです」
「選ばないでいられるかな」
「一人では難しいかもしれません」
イリスは優しく、だがはっきり言った。
「だから、名前を呼びます。アリス、と」
アリスの核が淡く光った。彼女は小さく頷く。
「うん。呼んで」
ハルナは仮封じの具合を確かめながら、耳を伏せていた。
「あの機械骨の帰還者、直せるのかな」
テイルが顔をしかめる。
「直す気か」
「今すぐじゃない。触ったらこっちが壊れる。でも、いつか。あの音を聞いたまま、ただ敵ってことにしたら、機械師として寝覚めが悪い」
「お前、寝るのか?」
「寝るよ。部品代の夢を見る」
「どんな夢だよ」
「いい部品が全部半額」
「幸せそうだな」
ハルナは少しだけ笑った。だが、その笑みはすぐ消える。
「でも、あいつらに必要なのは、部品だけじゃない。名前の部品って、どこで買えるんだろうね」
誰も答えられなかった。
イーサーは星図に三つの空白を刻んでいた。名のない点。だが、点だけではなく空白として残す。彼にとって、それは小さな反逆だった。セラフィアの記録なら、帰還者三体、分類不能、封鎖成功、とまとめただろう。だが、今のイーサーはそこに名を探す余地を残している。
「空白を増やすことは、記録として不完全です」
彼は自分に言い聞かせるように言った。
「ですが、埋めてしまうより正しい場合がある」
イリスが微笑む。
「はい」
テイルは空を見上げた。黒い星はまだ回っている。遠い大陸各地で、同じような帰還者たちが目覚めているのだろう。機械と融合した魂。複数の魂が混ざったもの。カオスを救い主と信じるもの。もっと違う姿のものもいるはずだ。旧魔王軍の兵なら、敵として殴ればよかった。だが、帰還者たちは違う。殴らなければ止まらない時もある。けれど、殴るだけでは何も分からない。
「面倒くせぇ戦いになったな」
テイルが言った。
アリアが答える。
「最初から面倒だったわよ」
「いや、もっとだ。敵かどうか考えながら戦うとか、竜族向きじゃねぇ」
「考えずに戦ったら、ヤクシャが喜ぶわ」
「それは嫌だ」
テイルは素直に顔をしかめた。
エノクは水路橋の向こうを見た。ヴェルナの海が、遠くで鈍く光っている。黒星片は各地に落ち、帰還者たちは目覚め始めた。アイオンはまだ戻らない。真言の英雄アリオンの名は空白のまま、名を封じる音は欠けたままだ。だが、目の前にいる帰還者たちにも名があったのだと知ってしまった。カオスを止めることは、彼らをすべて憎むことではない。かといって、すべてを救えると軽く言えるものでもない。
ティンカーベルが低く言った。
「未熟者。覚えておけ」
「何を」
「敵を敵と呼ぶのは簡単だ。名を探しながら斬るのは難しい。だが、お前たちの道はたぶん後者だ」
「難しすぎます」
「なら、難しいまま進め」
エノクは苦く笑った。
「最近、そればかりですね」
「簡単な道なら、喋る剣など要らん」
水路橋の仮封じが、白く小さく光っている。その下には、名のない三体の帰還者がいる。敵であり、被害者であり、信徒であり、壊れた星の民であり、まだ何者だったのか分からない存在。イリスは彼らのために空白を残した。アリスは彼らを見て、自分の恐れと向き合った。ハルナはいつか直せる可能性を捨てなかった。イーサーは星図に名の場所を空けた。
戦争は始まった。
だが、それはただ斬り伏せる戦争ではない。名を奪うものと戦いながら、名を失った敵の名をも探す、ひどく矛盾した戦いだった。
エノクたちは水路橋を後にし、再びヴェルナへ続く旧街道へ戻った。背後で仮封じの銀線が風に鳴る。その音は、弦の音には似ていなかった。それでも、欠けた一音を待つ世界の中で、確かに小さな響きとして残った。




