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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第5部 帰還者戦争と魔大陸の傷
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第2話_星の船再起動

 ヴェルナ北門跡に落ちた黒星片は、沈黙しなかった。ベルフェゴールの肉が灰となり、ジャッジメントの裁定札が燃え、ヤクシャの刃紋がアリアの双剣によって石畳から切り離された後も、穴の底では黒い金属が脈打っていた。まるで、壊れた心臓が自分の死を認めず、別の血管を探しているかのようだった。エノクたちはしばらく動けなかった。旧魔王軍の中枢は崩れた。確かに崩れたのだ。北門を覆っていた眠りの玉座は瓦礫となり、魔族兵たちは命令を失って散り、裁きの鎖は灰へ落ち、赤黒い刃の囁きは地中へ沈んだ。だが、勝利の後に訪れるはずの静けさは来なかった。かわりに、地の底からゆっくりと、聞き慣れない拍動が響き続けていた。


 テイルは膝をつき、両手を地面へ押し当てていた。竜の鱗が指先から手首へ浮かび、金色の瞳が縦に細くなる。彼は歯を食いしばり、まるで暴れる獣の首を押さえるように霊脈へ竜気を流していた。


「止まらねぇ」


 彼は低く言った。


「根は切った。黒星片の食いつきも、さっきより弱い。でも、下で別のものが動いてる。地面の中じゃない。もっと遠い。なのに、ここへ響いてくる」


「星の船だ」


 イーサーの声が、風の中で硬く響いた。


 彼は携行星図板を開いていた。白銀の盤面には、大陸を縫う霊脈が浮かび、そこに赤い点が次々と灯っている。最初はヴェルナ北門跡だけだった。次に血潮野の南。さらに鉱山都市ガルドベルクの外縁、シオゥル廃都の北壁、龍神湖へ流れ込む支脈、名を失った村々の跡、古い神殿、廃鉱、深い森、港、墓地。まるで大陸そのものが、黒い釘を打ち込まれているようだった。


 ハルナは星図板を覗き込み、顔を青ざめさせた。先ほどまで黒星片の根へ打ち込んだ霊脈鉱の針を握っていた手が、油と土にまみれたまま震えている。


「同時落下じゃない。連動してる。ここで旧い制御系が崩れた瞬間、空の外側で何かが起動して、残ってた欠片をばらまいてる。違う、ばらまいてるだけじゃない。配置してる」


「配置?」


 イリスが問う。


「霊脈の継ぎ目、古い封印地、死者の名が濃い場所、王家や神殿や戦場の記録が残ってる場所。そこを選んで落としてる。偶然じゃない。誰かが、世界の傷口を知ってる」


 アリアの表情が硬くなる。


「ヴェルナも、傷口として選ばれたのね」


 ハルナは答えられなかった。答えなくても分かる。黒星片は、ただ地上へ落ちているのではない。世界の弱いところへ、過去の傷へ、名が揺らいだ場所へ食いついている。そこへ星の外の拍動を流し込むために。


 北門跡の穴の奥で、黒い金属の角が割れた。


 音は小さかった。けれど、その場にいた全員が振り返った。割れ目から黒い光が漏れ、光の中に細い影が浮かぶ。人の形に見えた。だが、人ではない。黒い金属の骨格に、半透明の膜が絡みつき、その内側を星屑のような白い粒が流れている。顔にあたる場所には目も口もなく、かわりに割れた仮面の欠片が何枚も浮いていた。胸には空白の名札のような窪みがあり、そこから声にならない音が漏れる。


 帰る。


 その意味だけが、全員の頭に届いた。


 帰る。帰る。帰る。


 アリスが両手で胸元の核を押さえた。硝子の瞳が大きく揺れる。


「名前がない。なのに、帰るって言ってる」


 イリスは聖印を握った。


「どこへ帰ろうとしているのですか」


 影は答えなかった。答えられないのだろう。口がない。名がない。だが、帰りたいという衝動だけがある。黒星片の中から生まれかけているそれは、魔王軍の兵士ではなかった。魔族でもない。死者でもない。機械でも、人形でも、精霊でもない。星の船の内側で長く壊れたまま眠っていた、別の世界の残響だった。


 テイルが竜剣を構える。


「敵か」


 イーサーは即答しなかった。星図を見、影を見、額の銀環を光らせる。ヨシュアから継いだ叡智が、彼の星図に空白を作っている。その空白には、まだ名がない。


「不明です」


「不明なら、どうする」


「近づけば侵食されます。触れれば霊脈が汚染される。放置すれば黒星片を通じて地上へ根を伸ばす。少なくとも、今は止めなければなりません」


「なら敵だ」


 テイルが踏み込もうとした瞬間、イリスが腕を出して止めた。


「敵と決める前に、名がないことを覚えておきましょう」


「名前をつけてる暇があるのか」


「ありません。でも、忘れる暇もありません」


 イリスの声は震えていた。だが、退かなかった。黒い炎に名を焼かれた者たち、死者の都に縛られた名、消された真言の英雄。彼女はそれらを見てきた。だから、目の前の帰還者をただの敵とだけ記録することを恐れていた。倒すべきものと、名を持てないもの。その境を見失えば、また別の外殻を作ってしまう。


 アリアが一歩前へ出た。


「なら、止める。殺すためじゃない。ここから出さないために」


 彼女の双剣が抜かれた。刃の根元に刻まれた白い線が光る。阿修羅の足跡とヴェルナの剣舞が彼女の中で重なり、境界を斬る力が静かに目を覚ます。帰還者の影は、黒星片から半身を出し、地面へ手を伸ばした。指先が石に触れた瞬間、北門跡の古い石畳が黒く染まる。石に刻まれていたヴェルナ王家の古紋が歪み、別の文字へ変わりかけた。


「させない」


 アリアの刃が走る。帰還者そのものを斬ったのではない。黒星片と北門の石を結ぼうとする黒い線、その境を斬った。音はなかった。だが、黒い染みは広がる前に止まり、石畳の古紋がかすかに元へ戻る。


 帰還者の影が、顔のない顔をアリアへ向けた。


 帰る。


「ここは、あなたの帰る場所じゃない」


 アリアは言った。


「ここはヴェルナの門よ。たとえ壊れていても、あたしが名前を知っている」


 イリスが記録帳を開いた。


「ヴェルナ北門。黒星片より帰還者影、初出現。名なし。帰還衝動あり。接触により石紋汚染。アリアさん、境界切断により侵食を一時阻止」


 ハルナが叫んだ。


「記録しながらでいいから、こっちもお願い! 黒星片の外殻、開きっぱなし! 閉めないと第二、第三が出る!」


「閉められるのですか」


「完全には無理。でも、蓋ならできる。旧魔王軍の蓋は壊れた。なら、こっちで仮蓋を作る。部品はある。時間はない。人手はもっとない」


 ハルナは工具箱をひっくり返すように開いた。霊脈鉱の針、銀線、星導昇降籠からこっそり写した浮遊石制御紋、ダイダロス工房で受け取った小さな補助環の図、ヨシュアの水盤から写した静寂紋。その場にある知識を無理やり組み合わせて、彼女は黒星片の周囲へ仮封じの枠を作り始めた。


「猫の娘、構造を説明しなさい」


 イーサーが言う。


「あとで!」


「今、星図側と合わせなければ」


「じゃあ短く! あたしが黒星片の口を少し眠らせる。テイルが霊脈を押さえる。イーサーが外から星図で拍子を遅らせる。イリスが名前のある場所を守る。アリアが境界を斬る。エノクが鍵で反応を引き受ける。アリスは、あの子がこっちへ来すぎないよう、器の輪郭を見て!」


 テイルが怒鳴る。


「雑だ!」


「雑じゃない! 急ぎ!」


「俺の役、痛そうなんだが!」


「全員痛い!」


 ハルナの尻尾が逆立っていた。だが、彼女の手は迷っていない。金にうるさく、機械に目がない貧乏工房の猫人機械師は、今や星の船の欠片へ自分の工具を突きつけている。父が追ったダイダロスの設計図。その続きを、自分の手で繋げようとしている。


 エノクは胸元の鍵を取り出した。鍵は黒星片へ向かって強く鳴る。まるで、パンドラボックスの失敗した起動記録が、星の船の再起動に反応しているようだった。ティンカーベルが低く言った。


「引き受けすぎるな。鍵は万能ではない」


「でも、必要なんですよね」


「必要だ。だからこそ、使い方を誤るな。お前は鍵であって、蓋ではない。お前自身を閉じるな」


 エノクは頷いた。鍵を黒星片へ向ける。瞬間、胸の奥へ冷たいものが流れ込んだ。肉体ではない。魂魄でもない。名を探す、黒い手のようなものが、彼の血へ触れようとする。ランバードの血。アベルの血。パンドラボックスの鍵として選ばれた血。その血を通じて、黒星片は箱の位置を探ろうとしていた。


 エノクの視界に、知らない場所が映った。


 黒い船内。星のない廊下。壁に埋め込まれた無数の仮面。名前を失った者たちが眠る棺。黒星核の鼓動。誰かが王座へ膝をついている。誰かが「帰還」とだけ繰り返している。誰かが、自分の胸の空白を指で掻きむしっている。帰る。名を。帰る。名を。


 エノクは息を詰まらせた。


「エノクさん!」


 イリスの声が届く。彼女は聖印を掲げ、エノクの名を呼んだ。


「エノク・ランバード!」


 その名で、彼は自分の輪郭へ戻った。黒い船内の幻が遠ざかる。イリスの祈りが、鍵と彼自身の境を守っている。アリスが震えながら、エノクの背後へ手を伸ばした。糸ではない。彼女は自分の核から白い輪郭を広げ、エノクの影へ絡もうとする黒い手を弾いた。


「帰る場所がないからって、他の人の名前に入らないで」


 アリスの声は小さかったが、強かった。


 帰還者の影がまた揺れた。アリスの言葉を理解したのかどうかは分からない。だが、その影の胸にある空白が一瞬だけ明滅した。そこには、名が入るべき場所がある。だが、何もない。


 イリスは唇を噛んだ。


「名を、仮にでも呼べれば」


 イーサーが星図から目を離さずに言う。


「危険です。不完全な名を与えれば、黒星片がその名を足場にする可能性があります」


「でも、名がないまま押し返すだけでは」


「今は、押し返すしかありません」


 その声には、以前の冷たさだけではない苦さがあった。イーサー自身も、名を空白のまま扱うことに痛みを覚え始めている。だが、無理に名を与えることが救いではないことも、彼は理解していた。


 ハルナが最後の針を打った。


「いま!」


 テイルが大地へ竜気を流し込む。霊脈が大きく震えた。イーサーの星図が黒星片の拍動を遅らせ、イリスの祈りが北門跡に残るヴェルナの名を守り、アリアが帰還者と地上の境を斬り、エノクの鍵が黒星片の口を一瞬だけ引きつけ、アリスが空白の胸を持つ影を押し戻す。ハルナの組んだ仮封じの銀線が一斉に白く光った。


 黒星片の割れ目が閉じた。


 完全ではない。黒い金属はまだ地中にあり、拍動も消えない。だが、帰還者の影は穴の奥へ押し戻され、北門跡の石畳へ広がりかけた汚染は止まった。ハルナはその場に尻餅をつき、工具を握ったまま天を仰いだ。


「仮蓋、成功。たぶん」


「たぶんを外せと何度言えば」


 テイルが息を切らしながら言う。


「こういう時のたぶんは外せない。外したら嘘になる」


 ハルナの声は震えていた。だが、目は生きている。怖がりながら、なお次の構造を考えている目だった。


 アリアは黒星片の上に立ち、北門の向こうを見た。ヴェルナの街はまだ遠い。廃墟の向こうに海がある。祭壇がある。失われた名がある。だが、その前に、世界そのものが変わり始めている。


 空が裂けた。


 全員が見上げた。雲の上に、黒い星が開いていた。星ではない。穴でもない。星の船の中枢、黒星核の影が、空の裏側に映っているのだ。そこからいくつもの黒い線が伸び、大陸の各地へ降りていく。線の先では、黒い金属片が霊脈へ刺さり、土地を汚染し、眠っていたものを起こしている。遠くで、何本もの光柱が上がった。白ではない。青黒く、冷たい光。霊脈が悲鳴を上げる光だった。


 イーサーの星図板が制御しきれないほど赤い点を増やしていく。彼の翼がこわばった。


「星の船、外縁機構再起動。黒星核、反響増大。帰還者反応、複数地点で覚醒。これは……局所災害ではありません」


 テイルが空を睨んだ。


「大陸中か」


「はい」


 イリスが記録帳を開く。手が震えている。だが、彼女は書いた。


「大陸各地に黒い金属片落下。霊脈汚染発生。空に黒い星開く。星の船、再起動。帰還者、複数地点で覚醒」


 筆が止まる。


 エノクは言った。


「続けてください」


 イリスは深く息を吸い、書いた。


「戦いの性質、変化。魔王軍との戦争から、星外の災厄との戦争へ」


 その言葉が書かれた瞬間、風が変わった気がした。旧魔王軍の旗を折る戦いは、もう中心ではない。ジャッジメントやヤクシャやベルフェゴールを倒すことは必要だった。けれど、それは古い蓋を壊す戦いでもあった。これから相手にするのは、星の船から帰ろうとする名なき者たち。黒星核の反響。カオスの魂魄と名。そして、それに食われていく大陸そのものだった。


 アリスが空を見上げた。


「帰りたいものが、たくさん起きた」


 彼女の声は恐怖だけではなかった。理解できてしまう者の痛みがあった。


 アリアは双剣を鞘へ戻した。


「帰る場所を奪うために来るなら、止める。名前を奪うなら、斬る。迷っている暇はない」


 テイルが頷く。


「龍神湖にも落ちてるなら、親父が黙ってねぇ。でも、全部は任せられない」


 ハルナは立ち上がり、黒星片の仮封じを確認した。


「各地に仮蓋の方法を送らないと。材料は霊脈鉱と銀線と、星図同期が必要。そんなもの普通の村にあるわけない。くそ、部品が足りない。人手も足りない。金も足りない。全部足りない」


「それでも考えるのでしょう」


 イーサーが言う。


「当たり前。足りない時ほど、機械師は考えるの」


 イーサーは頷いた。


「セラフィアへ星図を開きます。地上へ警告を送る。長老会が拒んでも、私の名で送ります」


 その言葉に、イリスが彼を見る。


「沈黙しないのですね」


「はい」


 イーサーの声は揺れなかった。


「この黒い星を記録するだけでは、足りません」


 エノクは空を見上げた。黒い星の奥で、何か巨大な輪がゆっくり回っているように見えた。星の船の外殻か、黒星核の反響か、あるいはカオスの名を求める影か。胸元の鍵が鳴る。その音は、遠い弦の欠落を思い出させた。アイオンはいない。アリオンかもしれない男は、今どこかでこの黒い星を見ているのだろうか。欠けた一音を抱えたまま、どの道を歩いているのだろうか。


 ティンカーベルが低く言った。


「未熟者」


「はい」


「これは、英雄譚の次の頁だ。だが、頁をめくる手は震えていい」


「震えています」


「なら、落とすな」


 エノクは鍵を握りしめた。


「落としません」


 北門跡の下で、仮封じされた黒星片がまた一度だけ脈打った。遠くの大陸各地でも、同じ鼓動が鳴っているのだろう。名のある土地へ、名のない帰還者たちが落ちていく。大地は汚染され、霊脈は黒く染まり、空には黒い星が開いたまま閉じない。


 旧魔王軍との戦争は、終わりへ向かっている。


 だが、世界の外から来た災厄との戦争は、今まさに始まった。


 一行は黒い空の下で立ち尽くした。誰も勝利を歌わなかった。弦の音もない。ただ、イリスの帳面に走る筆の音と、ハルナが次の封じ方を考える工具の音、テイルが大地を押さえる唸り、アリアの鞘の中で境界の刃が鳴る微かな響き、アリスの胸元の名の核が震える音、イーサーの星図が広がる音、そしてエノクの胸で鍵が応える音だけがあった。


 その全てを飲み込むように、空の黒い星は静かに回り続けていた。

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