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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第5部 帰還者戦争と魔大陸の傷
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第1話_四天王崩壊

 アイオンが去った丘を離れてから、旅の音は変わった。足音は同じ数だけあるはずなのに、どこか一音足りない。エノクの腰ではティンカーベルがいつものように重く、イリスの帳面は荷の中で静かに揺れ、アリアの双剣は鞘の内側で細い白光を宿し、テイルの竜剣は大地の熱へ低く応え、アリスは胸元の名の核を両手で守り、ハルナの工具帯は歩くたびに忙しく鳴り、イーサーの額にはヨシュアから継いだ星図の光がかすかに残っていた。だが、弦の音がなかった。軽口を一つ斜めにずらす声がなかった。誰もその名を口にしないまま、空いた場所だけが一行の真ん中にあった。


 ヴェルナ旧街道へ向かう丘陵は、海風に削られた低い土地だった。遠くで白く光るのは海ではなく、塩を含んだ湿地である。かつてヴェルナの祭礼街道は、港へ至る花道だったという。剣舞の季節には、旅人が花を手に歩き、王宮の祭壇では境界の舞が奉じられ、夜には海上へ灯籠が流された。だが今、街道の両側に咲くのは白い花ではない。黒星片の落下によって焼けた草が、銀黒く反り返っていた。空から落ちた異物は、まだ見えない。けれど霊脈の底で、何かが起きている。地面のところどころに細い亀裂が走り、その隙間から青黒い光が漏れていた。


 テイルは膝をつき、掌を土へ押し当てた。


「大地が熱い。血潮野の怒りとは違う。これは……中から噛まれてる」


「噛まれてる?」


 エノクが問うと、テイルは顔をしかめた。


「根みたいなものが刺さってる。星の船の欠片が、地面を食って自分の居場所を作ろうとしてる。龍神湖の霊脈にこんなのを入れられたら、親父でも怒るどころじゃ済まねぇ」


 イーサーは携行星図板を開いた。白銀の盤に、黒い点と霊脈の線が浮かぶ。彼はしばらくそれを見つめ、以前よりほんの少し遅れて言った。


「黒星片は、旧ヴェルナ北門跡の地下へ沈着しています。周囲に旧魔王軍の反応が複数。ベルフェゴールの旗印、ジャッジメントの裁定印、ヤクシャの刃紋。三系統の残党が同じ地点へ集まっている」


 アリアの目が細くなった。


「ベルフェゴールもいるの」


「観測上は、そうです」


 ハルナが星図板を覗き込む。


「三系統ってことは、仲良く手を組んでるってより、黒星片に引き寄せられてる感じ? 壊れた機械に磁石を近づけたら、周りの釘が全部くっつくみたいな」


「比喩として近い」


 イーサーは頷いた。


「旧魔王軍の魔導は、カオスの肉体が地上にあった時代の命令系統を残している。黒星片は、その命令系統を再活性化する核になっている可能性があります」


「つまり、放っておけば?」


 イリスが問う。


「旧魔王軍の残党が統合されます。さらに、星の船由来の別系統と接続する危険がある」


「別系統」


 エノクは胸元の鍵を握った。


「帰還者、ですね」


 イーサーは頷いた。


「まだ完全な覚醒反応ではありません。ですが、黒星片の内部に、地上由来ではない魂魄反応があります」


 アリスが小さく震えた。


「魂と器が、混ざってる音がする」


 彼女は自分の胸を押さえた。


「遠いけど、聞こえる。人形でもない。死者でもない。機械でもない。なのに、全部少しずつ混ざってる」


 ハルナの耳が伏せられた。


「それ、すごく嫌な説明」


「うん。嫌」


 イリスはアリスの肩へそっと手を置いた。前なら、アリスは身を固くしただろう。今はほんの少しだけ、その手を受け入れた。


 アリアは旧街道の先を見た。黒く焼けた北門跡。倒れた石柱。海風に揺れる破れた祭礼旗。そこは、彼女が逃がされた国の入口だった。復讐のためではなく、弔いのために戻ると決めた場所。その入口に、旧魔王軍と星の船の欠片が集まっている。


「行くわ」


 彼女は言った。


「ベルフェゴールでも、ジャッジメントでも、ヤクシャでも、ヴェルナの門をまた踏ませない」


 ティンカーベルが低く鳴る。


「剣になるな」


「分かってる」


 アリアは短く返した。


「でも、人でいるからこそ怒るのよ」


 その言葉に、ティンカーベルはそれ以上何も言わなかった。


 旧ヴェルナ北門跡は、すでに戦場になっていた。だが、そこにいたのは生きた軍勢だけではない。黒い鎧を着た魔族兵、裁判官の仮面をつけたジャッジメントの従僕、赤黒い刃を持つ傭兵の成れの果て、眠ったまま歩くようなベルフェゴール配下の魔導奴隷、さらに壊れた機械に肉が絡んだような不完全な影。これらが北門の内側に集まり、互いに争うこともなく、一つの黒い穴を囲んでいた。黒星片が沈んだ場所だ。地面は円形に陥没し、その中央から黒い金属の角が突き出ている。船の外殻の一部なのか、棺の破片なのか、王座の欠片なのか分からない。表面には地上の文字ではない刻みがあり、そこから細い根のような黒線が霊脈へ伸びていた。


 その穴の前に、巨大な玉座が据えられていた。


 玉座と言っても、王の座ではない。倒れた門柱、古い刑具、血に濡れた剣、眠りの棺、壊れた審判台を寄せ集めて作った醜い台座である。その上に、肥えた魔族が座っていた。ベルフェゴール。旧魔王軍四天王の一角、怠惰と腐敗の魔公。全身は暗い紫の肉と黒い鱗に覆われ、重い瞼はほとんど閉じている。だが、眠っているわけではなかった。閉じた目の奥で、無数の小さな瞳が動いている。口元には笑みがあり、肩から伸びる管が黒星片へ繋がっていた。彼の周囲には、ジャッジメントの裁定札がいくつも浮かび、足元には赤黒い刃紋が走っている。三つの旧魔王軍系統が、彼の眠りの玉座へ絡め取られていた。


「遅かったではないか」


 ベルフェゴールは、目を閉じたまま言った。声は低く、湿っていた。


「ランバードの子。竜王の子。ヴェルナの残り花。名を書く神官。死者の人形。歯車猫。空の鳥。そして……弦がいない」


 エノクの胸がざわついた。


 ベルフェゴールの笑みが深くなる。


「欠けた弦は来ぬか。よい。あれは、来れば目覚めるものを早める。来なければ、また逃げる。どちらも同じこと」


「アイオンのことを知ってるのか」


 テイルが低く唸る。


「魔王軍は、七英雄を忘れぬ。人間が忘れても、石碑が削られても、歌が嘘をついても、我らは覚えている。アリオン。名を閉じ損ねた弦。あれの沈黙は、我らの蜜だった」


 アリアが双剣へ手を伸ばす。


「口を閉じなさい」


「怒るな、剣舞姫。怒れば刃が喜ぶぞ。ヤクシャはまだ眠っているだけだ。そなたの国の下で、そなたの足音を聞いている」


 アリアの指が止まる。だが、彼女は剣を抜いた。抜いたが、切っ先をまっすぐ向けなかった。足を置く。境界を確かめる足。復讐のためではなく、怒りを渡さないための足。


「残念ね。眠っているなら、もう一度寝かせるだけよ」


 ベルフェゴールは笑った。肉の奥で、無数の鐘が濁るような笑いだった。


「眠りを侮るな。私は怠惰を司るのではない。終わったと思わせる眠りを司る。戦が終わった。魔王軍は崩れた。四天王は倒れた。これで世界は少し救われる。そう思わせる。そこで人は目を閉じる。そこへ本当の王が帰ってくる」


 エノクはティンカーベルを抜いた。


「あなたを倒しても、終わらないんですね」


「終わらぬ」


 ベルフェゴールはあっさり答えた。


「我ら旧き四天王は、王の影にすぎぬ。ヤクシャは刃。ジャッジメントは罪。私は眠り。まだ名を持つ地上の概念だ。だが、星の船より帰る者たちは違う。彼らは地上の概念を必要としない。彼らは壊れた星の民。黒星核に焼かれ、器と魂を混ぜられ、名を奪われた者たち。彼らが目覚めれば、魔王軍など古い衣にすぎぬ」


 ハルナが顔をしかめた。


「じゃあ、あんたたちは古い制御機構みたいなもの?」


「制御? 違う。蓋だ」


 ベルフェゴールの腹が揺れた。


「我らがいる限り、地上の者は魔王軍を敵と見る。四天王を倒せば勝てると思う。よい夢だ。甘い眠りだ。その眠りが深いほど、星の船は静かに根を下ろせる」


 イーサーの銀環が光る。


「旧魔王軍中枢の崩壊は、帰還者覚醒の前兆ではなく、封を失う過程……」


「今さら気づいたか、空の若鳥」


 ベルフェゴールは嘲った。


「お前たちは空から見ていた。見て、記録し、分類し、何もせず、そして今、記録の中の敵が古くなったことに気づく。よい長老だ。眠りに向いている」


 イーサーの表情は動かなかった。だが、翼の羽先が震えた。ヨシュアの言葉が彼の中でまだ生きている。知っていて沈黙する罪。見て、分類し、線を引くことの危うさ。ベルフェゴールの言葉は、その古い傷を狙っていた。


「私は、もう見ているだけではありません」


 イーサーは静かに言った。


「ならば、何をする」


「空を閉じない。地上を見捨てない。あなたの眠りを、星図に記録して終わらせない」


 彼の額の銀環が光り、星図が広がった。以前の星図ではない。点のそばに空白の名札がある。そこへ、イリスの帳面から写した名がいくつも浮かんだ。ラディウス。ヴェルナの名を探す者たち。黒い炎の村で名を失った人々。シオゥルの死者。まだ完全ではない。だが、星図はもう、地上をただの線として扱っていなかった。


 ベルフェゴールの周囲で、裁定札が一斉に揺れた。


「判決を」


 ジャッジメントの残響が、札の中から声を上げた。


「罪ある者、名を隠す者、死者を縛った者、王家の鍵を持つ者、竜の血を持つ者、地上を見捨てた空の者。すべて有罪。すべて処刑」


 テイルが竜剣を構える。


「またそれか。聞き飽きた」


「判決は不変」


 裁定札が黒い鎖を放つ。テイルの腕へ、イリスの聖印へ、アリスの胸元へ、イーサーの翼へ。罪を持つ者を縛る鎖。かつて龍神湖でテイルを縛ったあの冷たい理屈だ。だが、今の一行はあの時とは違う。


 イリスが一歩前へ出た。


「罪はあります」


 彼女は言った。


「でも、罪だけで名前を閉じません」


 聖印が光り、鎖に触れた。彼女はひとりずつ名を呼んだ。テイル・ザッハリオン。アリス。イーサー・セラフィム。エノク・ランバード。アリア。ハルナ・ミャウレン。そして、帳面の端に書かれた未確認の名へ一瞬だけ目を落とす。アイオン。アリオンとの関係、未確認。戻る道を残す。彼女はその名も、声には出さなかったが、手で触れた。鎖の理屈が緩む。


 テイルが竜気を叩き込む。


「俺の罪を、お前の判決に預ける気はねぇ!」


 竜剣が大地へ刺さり、北門跡の霊脈が轟いた。黒星片から伸びる根の一部が浮き上がる。大地が悲鳴を上げた。だが、その悲鳴はまだ生きている声だった。テイルは歯を食いしばり、両腕に鱗を浮かべながら、その根を押さえ込む。


「ハルナ!」


「分かってる!」


 ハルナは工具箱を開け、霊脈鉱の針と銀線を取り出した。戦場の真ん中で膝をつき、地面へ耳を当てる。


「黒星片の根、三本が主導。一本はベルフェゴールの管、一本はジャッジメント札、一本はヤクシャの刃紋。三つまとめて切ると霊脈が跳ねる。順番がいる。大地係、押さえて! 空係、星図で反響を遅らせて! 剣舞係、刃紋だけ斬って!」


「係って呼ばないで!」


 アリアが叫びながら踏み込む。双剣が白い線を引き、ヤクシャの赤黒い刃紋とヴェルナの地脈の境を斬った。物を切る音ではない。糸をほどく音。怒りと霊脈を混ぜようとする呪いが裂け、赤黒い光が跳ねる。


「眠れ、ヤクシャ。ここはあなたの舞台じゃない」


 刃紋が唸り、暗黒剣の声が遠くで怒った。だが、アリアはもう振り向かない。彼女の怒りはそこにある。けれど、その怒りを剣へ渡さない。


 アリスは、ベルフェゴールの玉座から伸びる眠りの糸を見ていた。死者を縛った彼女には、糸の誘いが分かる。ベルフェゴールの眠りは、人を殺す眠りではない。終わったと思わせる眠りだ。苦しいものを見ないようにする眠り。罪を記録へ押し込む眠り。敗北を勝利の歌で覆う眠り。


「それ、知ってる」


 アリスは震える声で言った。


「わたしも、死者の国を作って、終わったことにしようとした。死んだ人は置いていかないって、自分に言い聞かせた。眠ったふりをしてた」


 ベルフェゴールの瞼の奥の小さな目が、一斉にアリスを見た。


「ならば眠れ、人形。罪を忘れれば楽になる」


「忘れない」


 アリスの胸元の核が光った。


「わたしは、アリス。罪を持って、起きている」


 彼女の指から糸は伸びなかった。代わりに、胸元の名の核から淡い白い輪郭が広がり、ベルフェゴールの眠りの糸を弾いた。魂と器の境界を守る、小さな力。まだ弱い。だが確かだった。


 エノクはティンカーベルを握り、ベルフェゴールへ向かった。魔公は玉座から動かない。動く必要がないのだ。彼の管は黒星片へつながり、裁定札と刃紋と眠りの糸が周囲を守っている。旧魔王軍中枢の残滓が、ひとつの巣になっている。ここを崩せば、旧魔王軍は大きく揺らぐ。だが同時に、ベルフェゴールの言葉通り、蓋が外れる可能性もある。


「迷うな、未熟者」


 ティンカーベルが言った。


「迷ってます」


「迷うな、ではない。迷ったまま止まるな、だ」


「意味が違うじゃないですか」


「お前は細かい言葉に突っ込める程度には落ち着いている。行け」


 エノクは走った。ジャッジメントの鎖が伸びる。イリスの祈りがそれをほどく。ヤクシャの刃紋が足元から立ち上がる。アリアの双剣が境を斬る。眠りの霧が視界を覆う。アリスの白い輪郭がそれを裂く。黒星片から伸びる根が霊脈を食おうとする。テイルが押さえ、ハルナが針を打ち、イーサーの星図が反響を遅らせる。


 だが、まだ一音足りない。


 ベルフェゴールは笑った。


「弦がない。名を閉じる音がない。お前たちは強くなった。継承もした。だが、欠けたものは欠けたままだ。肉を斬り、罪をほどき、刃を眠らせ、眠りを覚ましても、名は閉じぬ」


 エノクは歯を食いしばった。アイオンの不在が、ここで痛みになる。彼がいれば。アリオンかもしれない彼がいれば。そう思った瞬間、ベルフェゴールの眠りが甘く囁く。


 待てばよい。弦が戻るまで。今は引け。勝てる時まで眠れ。戦いはまだ本番ではない。なら、ここで無理をするな。


 その囁きは正しく聞こえた。正しく聞こえるから危険だった。


 エノクは胸元の鍵を握った。熱が返る。パンドラボックスの鍵。まだ完全封印には届かない。名の真言もない。聖剣もない。自分はまだ未熟者だ。けれど、今ここで止まれば、北門跡の名が食われる。ヴェルナの傷が、星の船の根へ奪われる。アリアが立っている場所を、眠りに渡すことになる。


「終わらないなら」


 エノクは言った。


「終わらないって分かった上で、今できるところまで進む」


 ティンカーベルが重く鳴った。


「上出来だ」


 エノクはベルフェゴールの玉座へ斬り込んだ。ティンカーベルの刃が、眠りの管を切る。肉ではなく、旧魔王軍の命令系統をつなぐ黒い管。ベルフェゴールの肥えた身体が大きく震えた。彼の瞼が初めて開く。無数の小さな目の奥に、巨大な一つの黒い瞳があった。


「眠りを破るか、ランバードの子」


「まだ起きていない人たちがいるから」


 エノクは叫んだ。


「あなたの眠りで、終わったことにしない!」


 ベルフェゴールの管が切れる。ジャッジメントの裁定札が一斉に燃え上がり、鎖が崩れる。アリアの双剣がヤクシャの刃紋を北門の石から切り離す。テイルが霊脈を押さえ、ハルナが最後の霊脈鉱針を打ち込む。


「今! 空係、閉めて!」


「承知しました」


 イーサーの翼が広がり、星図が空から降りた。彼の星図には、ただの点と線ではなく、イリスの帳面から写された名の空白がある。北門跡。ヴェルナ旧街道。まだ探している名。失われた港の人々。星図はその空白を抱えたまま、黒星片の反響へかぶさった。完全な封印ではない。だが、反響の流れが遅くなる。


 ベルフェゴールの玉座が崩れた。


 魔公の巨体が傾く。腐った紫の肉が裂け、そこから黒い煙が噴き出す。だが、彼は悲鳴を上げなかった。むしろ、笑っていた。


「よい。よいぞ。四天王は崩れる。旧き軍は倒れる。地上の者よ、勝利を歌え。魔王軍の中枢は砕けた。旗は折れ、判決は燃え、刃は眠り、怠惰は目覚めさせられた」


 イリスが叫ぶ。


「エノクさん、離れて!」


 ベルフェゴールの身体が、内側から膨らんだ。ハルナが顔を青ざめさせる。


「黒星片の根が逆流してる! 爆発じゃない、孵化!」


「孵化?」


 アリスが震える。


 ベルフェゴールの肉が裂けた。そこから出てきたのは魔族ではなかった。黒い金属の骨、半透明の魂魄、割れた仮面、文字のない名札を胸に埋め込まれた人型の影。まだ完全には形を持たない。だが、旧魔王軍のものではない。地上の魔物でも、死者でも、機械でもない。星の船から来るもの。帰還者の影。


 それは生まれかけの手を伸ばし、ベルフェゴールの崩れた肉を内側から押し開けた。


「おはよう」


 ベルフェゴールは、眠るような声で言った。


「我らは蓋であった。蓋は割れた。王の客人たちよ、地上の朝だ」


 その言葉を最後に、ベルフェゴールの身体は灰になった。旧魔王軍の旗が燃え落ちる。ジャッジメントの裁定札は灰へ、ヤクシャの刃紋は黒い石の下へ沈み、眠りの玉座は崩れた。北門跡に集まっていた旧魔王軍の兵たちは、命令系統を失い、次々に倒れた。ある者は灰になり、ある者は逃げ、ある者は自分が何のために戦っていたのか分からない顔で膝をついた。


 勝った。


 そう見えた。


 ヴェルナ北門跡を覆っていた旧魔王軍の中枢は崩れた。ベルフェゴールは消え、ジャッジメントの残響は燃え、ヤクシャの刃紋は切り離され、黒星片の霊脈侵食は一時的に止まった。もしここに酒場の吟遊詩人がいれば、勝利の歌を作る場面だったのかもしれない。だが、弦の音はなかった。代わりに、黒星片の穴の奥から、聞いたことのない低い鼓動が響いた。


 一つ。


 また一つ。


 まるで、遠い船の中で眠っていた無数の心臓が、順に目を覚ましていくような音だった。


 イーサーの星図が赤く染まる。彼の顔が青ざめた。


「同時覚醒反応。これは……旧魔王軍ではありません」


 ハルナは膝をついたまま、黒星片の周囲に打った針が震えるのを見ていた。


「根が止まったのに、奥が動いてる。旧い回路を切ったら、本来の回路が通ったみたいに……」


「つまり?」


 テイルが問う。


 ハルナは唇を噛んだ。


「ベルフェゴールたちは、邪魔でもあったけど、栓にもなってた。栓を抜いた」


 アリアが黒い穴を見た。双剣を構える手に、迷いはない。けれど、その表情には勝利の喜びがなかった。


「旧魔王軍は崩れた。でも、その下に別のものがいた」


 アリスは胸元を押さえ、震える声で言った。


「名前がない。たくさんいる。みんな、名前がないのに、帰ってくる」


 イリスの記録帳が風で開いた。彼女は震える手で筆を取る。


「旧魔王軍中枢、崩壊。ベルフェゴール消滅。ジャッジメント残響焼失。ヤクシャ刃紋、一時分離。黒星片侵食、一時停止」


 そこまで書いて、筆が止まる。


 エノクは言った。


「続けてください」


 イリスは頷き、書いた。


「しかし、黒星片内部より帰還者反応。旧魔王軍は、真の軍勢の蓋でもあった可能性。勝利ではなく、次の災厄の開封」


 テイルが悔しそうに地面を殴った。


「勝ったのに、これかよ」


「勝ったわ」


 アリアは言った。


「少なくとも、ヴェルナの門を旧魔王軍には渡さなかった」


「でも」


「でも、終わってない」


 彼女は黒い穴を見据えた。


「それだけよ」


 エノクはティンカーベルを鞘へ戻した。手が震えていた。怖い。勝ったはずなのに、怖い。だが、その恐怖を眠りへ渡してはならない。ベルフェゴールが囁いたように、終わったと思って目を閉じれば、星の船の本当の軍勢は静かに根を伸ばす。


「次が始まったんですね」


 エノクは言った。


 イーサーが星図を見つめたまま頷いた。


「はい。旧魔王軍との戦いは、終わりへ近づきました。ですが、帰還者戦争が始まります」


 その言葉と同時に、空が鳴った。


 見上げると、雲の上に黒い星が開いていた。星ではない。穴だ。世界の外側へ通じるような黒い裂け目。その縁から、細い光の雨が降り始める。遠い大陸各地へ落ちていく黒い金属の欠片。黒星片。星の船の破片。帰還者の種。


 ハルナが呟いた。


「落ちてる。ここだけじゃない。あちこちに」


 イーサーの星図が、次々と赤い点を増やす。山脈、森、廃都、湖、鉱山、神殿、古戦場。大陸の霊脈へ、黒い点が刺さっていく。


 イリスは帳面を抱きしめた。


「全部の場所に、名前があります」


 アリスは空を見上げた。


「名前のないものが、名前のある場所へ落ちていく」


 テイルは竜剣を握り直す。


「なら、叩き落とす」


 ハルナは工具を握る。


「全部は無理。でも、止め方を考える」


 イーサーは翼を広げる。


「星図を開きます。今度は、点だけではなく名の空白も」


 アリアはヴェルナの門跡に立った。


「ここから先は、簡単に勝利なんて言わない」


 エノクは仲間たちを見た。アイオンはいない。欠けた一音は、まだどこか別の道を歩いている。だが、今は進むしかない。戻る道を残したまま、欠けた音を待ちながら、目の前で開いた戦いへ向かうしかない。


 北門跡の黒い穴の奥で、帰還者の影が身じろぎした。


 旧魔王軍は崩れた。


 その瓦礫の下から、星の船の本当の戦争が目を覚ました。

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