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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第4部 七英雄の罪と星の船
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第11話_消された七英雄

 テムナテ・セラの山を降りた後、翼船の中には長い沈黙があった。けれど、それは先ほどまでの山の沈黙とは違っていた。何かを隠す沈黙でも、聞かぬふりをするための沈黙でもない。誰もが、それぞれの内側で受け取った言葉を測っている沈黙だった。ヨシュアは叡智を渡した。だが、同時に沈黙の罪も明かした。知っていながら語らなかったこと。世界全体のためという名で、後の者へ傷を渡したこと。イーサーはその場で、叡智は継ぐが、逃げるための沈黙は継がないと誓った。空の長老の額には、ヨシュアから渡された星図の光がまだ淡く残っている。銀環の内側に、新しい紋が刻まれたように見えた。星図の点のそばに名を書くための空白。セラフィアの記録にはなかったものだ。


 翼船は、雲海を切ってヴェルナ旧街道の方角へ向かっていた。黒星片の落下点はまだ遠い。だが、空から見る地上の景色は少しずつ赤みを帯び、海風の匂いが混じり始めていた。アリアは船首近くに立ち、動かなかった。白い雲の下に隠れた故国の方角を、見えないまま見つめている。境界を斬る力を得たばかりの彼女の双剣は、鞘の中で静かだった。だが、静けさこそが今は重い。ヤクシャの呪いも、星の船の断片も、ヴェルナの傷も、すべてが一つの道の先で待っている。


 イリスは膝の上に記録帳を置き、ヨシュアの言葉を書き留めていた。筆はゆっくりだった。あまりに重い言葉は、急いで書くと意味がこぼれる。彼女は一行を書き、止まり、また書いた。知っていて沈黙することの罪。聞くための沈黙と、逃げるための沈黙の違い。星図と帳面を結ぶ必要。イーサーは、その筆の動きを見ていた。以前の彼なら、地上神官の個人的記録として処理したかもしれない。だが今は違う。彼の視線は、イリスの帳面に宿る近さを学ぼうとしていた。


 ハルナは翼船の機構を見たい気持ちと、ヨシュアの水盤を写した紙片を確認したい気持ちで、尻尾を落ち着きなく揺らしていた。テイルは空の旅にまだ慣れず、片手で船縁を掴み、もう片方の手で竜剣の柄を確かめている。アリスはエノクの少し後ろに座り、風の中で自分の指先を見ていた。糸はもう出ていない。けれど、彼女は時々、何かを繋ぎ止めるように指を動かす。繋ぐためではなく、手放したことを忘れないために。


 そして、アイオンは一番後ろにいた。


 いつもなら、彼はどこにいても真ん中にいるような男だった。歌い、喋り、軽口を投げ、場の重さを少し斜めへずらす。だが今は、船尾の影に座り、竪琴を膝に置いたまま、誰とも目を合わせない。帽子のつばを下げ、風が外套を揺らしても直さない。テムナテ・セラでヨシュアは彼を「欠けた弦」と呼んだ。ダイダロスの記録は、名封じ真言を運ぶべき英雄の名を呼んだ。アリオン。真言の英雄。七英雄の一席でありながら、後世の歌から消された名。


 エノクは何度かアイオンに声をかけようとして、やめた。ヨシュアは急がせるなと言った。けれど、聞かないままではいられない。沈黙が罪になる時を見誤るな。それはアイオンに向けられた言葉であり、同時に周囲の者にも向けられた言葉のように思えた。問い詰めれば、彼はまた笑って逃げるだろう。待てば、逃げる時間を与えることになるかもしれない。その境が、今のエノクにはまだ見えなかった。


 翼船が山脈を越え、低く降下し始めた時、イーサーが白い卓ほどの小型星図板を開いた。セラフィアから持ち出した携行用の観測盤である。盤面には、黒星片の落下点と霊脈の流れ、そして近隣の古い遺構が映っていた。イーサーの指が、一つの点で止まる。


「このまま落下点へ向かう前に、立ち寄るべき場所があります」


 アリアが振り向く。


「また遠回り?」


「遠回りではありません。ヨシュア様の庵で受け取った叡智鍵が、セラフィアの古記録と反応しています。ヴェルナ旧街道の北に、旧聖戦記録碑があります。地上側では、無名の戦勝碑として放置されているはずです」


「戦勝碑?」


 イリスが顔を上げる。


「はい。千年前の最終戦に関する記録の一つ。セラフィアの星図には、七つの入力点を示す補助記録として登録されています」


 ハルナが耳を立てた。


「七つ? じゃあパンドラボックスの認証紋と関係ある?」


「その可能性があります」


「行く価値あり」


 ハルナは即断した。


 アリアは少し迷った顔をした。ヴェルナへ急ぎたい。だが、暗黒剣と星の船が接触するなら、情報なしに飛び込む危険も分かっている。彼女は短く息を吐き、頷いた。


「分かった。寄る。でも長居はしない」


 翼船は旧街道から少し外れた丘へ降りた。そこは、風に削られた草地だった。遠くには海の気配があり、空気に塩の薄い匂いが混じっている。丘の上には、白い石碑が立っていた。だが、戦勝碑と呼ぶにはあまりにも傷んでいる。表面の文字は半ば剥がれ、周囲には人の手が入った気配もない。草に埋もれた石畳、折れた柱、古い祈祷台。かつては聖地だったのかもしれない。今は旅人が雨宿りに使う程度の廃墟だった。


 イリスは石碑の前に立ち、眉をひそめた。


「文字が削られています」


「風化?」


 エノクが問うと、アリアが首を振った。


「違う。刃物か鑿で削った痕よ。意図的に消してる」


 テイルが地面へ掌を当てる。


「ここ、変な感じがする。大地は怒ってない。でも、何かを飲み込まされてる。名前を喉に詰まらせたみたいだ」


 アリスが胸元を押さえた。


「消された名の場所は、そういう音がする」


 その言葉に、皆が石碑を見た。


 イーサーは星図板を石碑へ近づけた。ヨシュアから受け取った叡智鍵の紋が額の銀環で淡く光る。すると、石碑の削られた表面に、薄い線が浮かび上がった。完全な復元ではない。消された文字の残響が、光の影として戻ってきたのだ。


 石碑には、七つの紋が刻まれていた。


 聖騎士の剣。傀儡子の器。竜王の鱗。剣神の刃。機械使いの歯車。盲目の賢者の閉じた瞳。聖天使の翼ある名。


 エノクは違和感を覚えた。


「七つ……?」


 ハルナがすぐに言った。


「違う。数え方がおかしい。聖天使の紋が入ってるなら、七英雄じゃなくて、六英雄とアルティエルになってる」


 イリスが息を呑む。


「本来の七英雄とは、違う並びです」


 アリアが低く言った。


「弦がない」


 その一言で、空気が固まった。


 弦の紋がない。ダイダロスの工房で傷ついていた入力点。セラフィアの扉で起動しなかった認証紋。名を封じる真言を運ぶはずだった力。その紋だけが、この石碑から完全に削り取られていた。そこには不自然な空白がある。最初から何もなかったのではない。何かがあった場所を、別の紋で埋めた痕があった。聖天使の紋は、美しく刻まれている。だが、石の深さが違う。後から刻まれたものだ。


 イリスが震える声で言った。


「アルティエル様の紋が、代わりに入れられている」


 ティンカーベルが低く鳴った。


「後世の改竄だな」


 その言葉は重かった。聖天使アルティエルの名は、信仰の中心であり、エノクたちの旅を導く光でもある。だが、その名を使って誰かの名を消したのだとすれば、それは光ではなく蓋だ。


 イーサーは石碑の空白部分へ手を伸ばした。


「叡智鍵で、下層記録を読むことができます」


「読んでください」


 エノクが言う。


 イーサーは頷き、額の銀環を石碑へ向けた。星図の光が石に染み込み、削られた文字の下から、さらに古い文字が浮かび上がる。はじめは断片だった。音の欠片、真言の一節、名前の残り。イリスが記録帳を開き、ハルナが星図板の側面を覗き込み、アリスが息を止める。アリアはアイオンを見た。彼は船尾ではなく、今は石碑から少し離れた場所に立っている。外套の影に半分隠れ、いつでも背を向けられる距離だった。


 文字が読める形になった。


 聖騎士アベル・ランバード。

 傀儡子シモン。

 竜王ザッハ。

 吟遊詩人アリオン。

 剣神阿修羅。

 機械使いダイダロス。

 盲目の賢者ヨシュア。


 その下に、小さく刻まれていた。


 七つの力、七つの罪、七つの欠落。聖天使アルティエルは七人を導き、名を守る光なり。七人の席に数えるべからず。


 イリスの手から筆が滑りかけた。


「アルティエル様は、七英雄ではない」


 彼女は呟いた。


「導く光。名を守る方。けれど、一席ではない」


 エノクは石碑を見つめた。聖天使の紋を入れることで、アリオンの名が消されている。いや、消されただけではない。アルティエルの名で上書きされている。後世の信仰が、真言の英雄を押し出し、聖天使を七英雄の一席に数え直したのだ。人々は悪意でそうしたのだろうか。あるいは、欠けた英雄の名を思い出せず、最も美しい名で空白を埋めたのか。どちらにせよ、結果は同じだった。アリオンは伝承から消えた。


 ハルナが苦々しく言った。


「欠けた入力点を、違う部品で埋めたみたいなもんだ。見た目は整うけど、回路は戻らない」


 イリスが静かに頷く。


「名前も同じです。空白を別の名で埋めても、その人が戻るわけではありません」


 テイルがアイオンを見る。


「おい」


 アイオンは答えなかった。


「お前、今の名前、聞いて何も言わねぇのか」


 アリアが鋭く言う。


「アイオン」


 アイオンは、ゆっくり顔を上げた。笑おうとした。だが、笑みは失敗した。口元だけが歪み、目は笑っていない。


「困りましたね。古い石は、時々余計なことを喋る」


「余計?」


 アリアの声が低くなる。


「名が消されていたのよ。真言の英雄アリオン。パンドラボックスの封印に必要だった弦の力。その名が、聖天使の名で上書きされていた。それが余計?」


「失礼。言葉を誤りました」


「誤ったのは言葉だけ?」


 アイオンは黙った。


 エノクは一歩前へ出た。胸が強く鳴っている。ザッハがアイオンを見た時の沈黙。アリスが「名前を変えても、弦の匂いは消えない」と言った時の声。ダイダロスの記録で呼ばれた名。ヨシュアの「欠けた弦」。そして今、石碑に現れた真言の英雄アリオン。


「アイオン」


 エノクは言った。


「あなたは、アリオンなんですか」


 風が吹いた。丘の草が揺れ、削られた石碑の光がちらつく。アイオンはその風の中で立っていた。いつもなら、ここで冗談を言うはずだった。歌に逃げるはずだった。話を別の方角へ逸らすはずだった。けれど、今回はそうしなかった。いや、できなかったのかもしれない。


「私は」


 彼は言いかけ、止まった。


 イリスが静かに言う。


「答えたくないなら、そう言ってください。でも、嘘で埋めないでください」


 その言葉は優しかったが、容赦がなかった。


 アイオンはイリスを見た。彼女の記録帳には、今まさに消された名が書かれようとしている。彼女なら、アリオンの名を空白にしない。だからこそ、彼はその前で嘘をつきにくかったのだろう。


「答えたくありません」


 やがて、アイオンは言った。


 アリアの眉が動く。


「否定はしないのね」


「肯定もしません」


「ずるい」


「ええ」


 その短い肯定に、誰もすぐ言い返せなかった。


 アイオンは竪琴を抱え直した。指が弦を撫でる。音は鳴らない。鳴らせないのではない。鳴らさないのだ。


「アリオンという名がありました。真言の英雄。名を運ぶ者。封印の時、欠けた一音に関わった者。後世の歌から消えた者。そこまでは、石が語った通りです」


「あなたは?」


 エノクが問う。


 アイオンは目を伏せた。


「今ここで、その名を私のものとして受け取る資格があるかどうか、私には分かりません」


「資格?」


 テイルが苛立った声を出す。


「名前って資格で持つもんなのかよ」


 アイオンの顔が少し歪んだ。


「時には、そう思ってしまうことがあります」


 アリスが低く言った。


「名前を捨てた人は、そう言う」


 アイオンは彼女を見た。アリスは逃げなかった。


「わたしは、不死皇帝って外殻を作った。アリスって呼ばれるのが苦しくて、怖くて、自分にはその名前が合わないと思ったから。あなたも、似てる」


「同じではありません」


「同じじゃない。でも、似てる」


 アイオンは返せなかった。


 イーサーは石碑の下層記録を読み続けていた。彼の額の銀環が光り、空白の部分からさらに断片が浮かぶ。真言の文字列。音の並び。だが、多くは欠けている。意図的に削られたのは名前だけではなかった。アリオンに関わる真言も、歌も、記録も、ひどく傷つけられていた。


「これは、単なる風化ではありません」


 イーサーが言った。


「複数の時代にわたり、アリオンに関する記録が削除されています。初期は秘匿。後期は改竄。さらに後世では忘却による置換。聖天使アルティエルの名が空席を埋めたのは、おそらく最後の段階です」


 ハルナが顔をしかめる。


「つまり、最初は誰かが隠して、その後に誰かが都合よく直して、最後はみんな本当に忘れた?」


「そうです」


「最悪の修理履歴」


 イリスは記録帳に震える筆で書いた。


「アリオン。真言の英雄。七英雄の一席。後世の伝承から消失。聖天使アルティエルの名で置換された可能性。名封じ真言の欠落と関係」


 そこで彼女は少し迷い、さらに一行を加える。


「現在のアイオンとの関係、未確認」


 アイオンが小さく笑った。


「優しい記録ですね」


「事実です」


 イリスは顔を上げた。


「未確認です。あなたがまだ答えていないので」


 アイオンは何も言わなかった。


 アリアが一歩近づいた。


「答えないなら、それでもいい。でも、これだけは聞く。あなたは、私たちの敵?」


 エノクの胸が跳ねた。問いは鋭すぎる。だが、避けられない。欠けた真言。封印失敗。消された名。アイオンがその中心にいる可能性がある以上、仲間として歩き続けるには、最低限の線が必要だった。


 アイオンはアリアを見た。


「敵ではありません」


「信じていいの?」


「信じるべきではありません」


 その答えに、テイルが怒鳴りかけた。


「お前な」


 アイオンは穏やかに、しかし悲しげに続けた。


「信じるとは、相手が何者かを知った上でするものです。私はまだ、それを渡していない。だから、信じてくださいとは言えません」


 エノクは拳を握った。


「でも、一緒に旅してきました」


「ええ」


「何度も助けてくれた」


「助けました」


「嘘もついた」


「つきました」


「これからも?」


 アイオンは目を閉じた。


「つくかもしれません」


 その正直さが、かえって痛かった。エノクは怒ればいいのか、引き止めればいいのか、分からなくなった。


 ティンカーベルが低く言った。


「逃げる気か」


 アイオンは剣を見た。


「相変わらず、刃物は核心を嫌な角度で突きますね」


「答えろ」


「距離を置きます」


 全員の空気が変わった。


 アイオンは一歩後ろへ下がった。丘の端、風が強く吹く方へ。


「ヴェルナへ向かう道は危険です。黒星片、暗黒剣の残滓、星の船の反響。そこに、欠けた弦が近づけば何が起こるか分からない。私は同行すれば、あなた方を助けるかもしれない。ですが、同時に壊すかもしれない」


「それは、また自分だけで決める沈黙じゃないの」


 イリスが言った。


 アイオンの肩がわずかに震えた。


「そうかもしれません」


「なら」


「ですが、今は近すぎる」


 彼の声が初めて強くなった。


「近すぎるのです。石碑がアリオンの名を呼び、星の船が名を求め、欠けた真言が反応している。この距離で私が迷えば、あなた方全員を巻き込む。私は、自分が何をしたのか、何をしなかったのか、まだあなた方の前で言えない。言えないまま隣にいることは、もうできません」


 アリスが小さく言った。


「置いていくの」


 その声に、アイオンの顔が痛ましく歪んだ。


「置いていきたいわけではありません」


「置いていく人は、だいたいそう言う」


 アリスの言葉は、彼を責めるというより、自分の古い傷をなぞるようだった。


 アイオンは彼女へ向かって深く頭を下げた。


「すみません」


 アリスは唇を結んだ。許すとは言わなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、小さな手を胸元へ当てた。


 エノクは前へ出た。


「どこへ行くんですか」


「少し先へ」


「先?」


「ヴェルナ旧街道の落下点周辺を、別の道から見ます。あなた方が着く前に、欠けた真言が黒星片とどう反応するか確認する。私が危険なら、あなた方から離れていた方がいい。私が必要なら、戻ります」


「戻るって、約束できますか」


 アイオンは答えなかった。


 エノクの胸が冷えた。


「約束できないんですか」


「約束を破るのが怖いのです」


「それでも、してください」


 エノクの声は震えていた。怒りだけではない。寂しさも、恐れもあった。旅の初め、嘘つき吟遊詩人として現れた男。軽口ばかりで、いつも肝心なところを隠していた。それでも、彼は一緒に歩いた。船に乗り、黒い炎の村を見て、龍神湖を越え、死者の都で歌い、アリスを見て沈黙し、血潮野で阿修羅の言葉を聞き、ダイダロスの記録室で欠けた一音に震えた。今さら、ただの同行者ではない。


「戻るって、言ってください。嘘でもいいから」


 アイオンは目を見開いた。


 エノク自身も、自分の言葉に驚いた。嘘でもいい。そんなことを言うつもりはなかった。けれど、今だけはそう思った。いつも嘘をつく彼からでも、戻るという言葉が欲しかった。


 アイオンは、ひどく悲しそうに笑った。


「嘘でいいと言われると、嘘つきは困るのですよ」


「困ってください」


 アリアが低く言った。


「あなた、今まで私たちを困らせてきたんだから」


 ハルナが頷く。


「そうそう。困り賃を払ってほしいくらい」


 テイルが腕を組む。


「戻らなかったら、探して殴る」


 イリスは静かに言う。


「戻らない可能性も、記録します。でも、戻る余白も残します」


 アリスは小さく言った。


「置いていくなら、せめて戻る道を消さないで」


 アイオンは、ひとりずつ見た。いつもなら、ここで美しい言葉を返すだろう。だが、彼は言葉を選びきれないようだった。


「戻ります」


 やがて、彼は言った。


 その声は小さかった。


「約束は、怖い。ですが、戻ります。少なくとも、戻ろうとします」


「弱い約束ね」


 アリアが言う。


「今の私には、それが精一杯です」


 ティンカーベルが低く鳴った。


「それでいい。完全な約束を軽く言う者よりはましだ」


 アイオンは少しだけ剣へ頭を下げた。


「刃物に慰められる日が来るとは」


「慰めではない。評価だ」


「なおさら珍しい」


 ほんの少しだけ、昔の調子が戻った。だが、それはすぐ風にさらわれた。


 アイオンは石碑へ向き直り、削られた弦の空白へ手を伸ばした。指先が触れる寸前で止まる。彼は触れなかった。ただ、深く頭を下げた。


「アリオン」


 エノクは、その名を聞き逃さなかった。


 アイオンの口から出た名は、誰かを呼ぶようでもあり、自分から切り離されたものを遠くから見るようでもあった。


「あなたは、まだ私を許さないでしょうね」


 彼はそう呟いた。


 誰に向けた言葉か、分からなかった。消された英雄へか。過去の自分へか。名封じ真言を待っていた仲間たちへか。アルティエルへか。世界へか。


 次の瞬間、アイオンは竪琴を一度だけ鳴らした。短い音だった。けれど、その一音は、いつもの旅の歌とはまるで違っていた。音が風に乗ると、彼の姿が薄く揺らぎ、影がいくつもの道へ分かれる。真言ではない。完全な魔法でもない。言葉と音と気配をずらす、吟遊詩人の古い術。エノクが手を伸ばした時には、アイオンは数歩先の草地にいた。そして、さらに次の瞬間には、丘の下へ降りる道へ向かっていた。


「アイオン!」


 エノクが叫ぶ。


 彼は振り返った。帽子のつばを少し上げる。顔は遠く、風の中で読みにくい。


「その名で呼んでくれるのですね」


「今は、それしか知らないから!」


 アイオンは、今度こそ少しだけ笑った。


「では、その名で戻りましょう。まだ、しばらくは」


 そして彼は、丘の下へ消えた。


 追おうとしたテイルを、アリアが止めた。


「今追っても、あの人は逃げるわ」


「放っておくのか」


「放っておくんじゃない。戻る道を残すの」


 その言葉に、アリスが小さく反応した。


 エノクは石碑の前に立ち尽くした。胸元の鍵が鳴っている。消された七英雄。真言の英雄アリオン。現在のアイオンとの関係は、もう疑いではなく、答えの手前まで来ている。けれど、本人はまだ認めない。認められない。名を持つことは、時に罪を持つことでもある。アリスが不死皇帝の外殻を捨てるのに時間が必要だったように、アイオンにもまた、アリオンという名へ戻るための痛みが必要なのかもしれない。


 イリスは記録帳を開いた。


「書いてもいいですか」


 エノクは頷いた。


 イリスは静かに書いた。


「アイオン。アリオンとの関係、未確認。本人は否定せず、肯定せず。旅の一行から一時距離を置く。戻ると約束。ただし、本人は約束を怖れている」


 少し迷ってから、彼女は最後に一行加えた。


「戻る道を残す」


 イーサーは石碑を見つめていた。彼の額の銀環には、弦の空白が淡く映っている。


「セラフィアの記録も、修正しなければなりません」


 彼は言った。


「アルティエル様を七英雄の一席として数える記録は、少なくとも技術的には誤りです。真言の英雄アリオンの席が消されている。空の記録にも、空白を戻す必要がある」


 イリスが頷いた。


「名前を戻すのですね」


「はい」


 イーサーは静かに答えた。


「まだ本人が受け取れなくても、空白として残します。別の美しい名で埋めません」


 その言葉に、イリスは少しだけ微笑んだ。ヨシュアから継いだものが、確かに彼の中で動き始めている。


 ハルナは石碑の削られた跡を見て、拳を握った。


「記録って、壊れるんだね」


「壊されることもあります」


 イリスが言う。


「直せる?」


「全部は無理かもしれません」


「でも、直すんでしょ」


「はい」


 ハルナは頷いた。


「じゃあ、手伝う。壊れた記録の修理代は高いよ」


 アリアが少しだけ笑った。


「誰に請求するの」


「後世」


「壮大ね」


「利子もつける」


 テイルが呆れたように言った。


「お前、本当にぶれねぇな」


「ぶれたら歯車が噛まないから」


 小さなやり取りの中で、少しだけ空気が戻った。だが、アイオンの不在はすぐに分かった。軽口の間に入るはずの弦の音がない。話を斜めにずらす声がない。嘘か本当か分からない笑いがない。それだけで、彼がどれほど旅の一部になっていたのかを、エノクは思い知らされた。


 アリスは丘の下を見ていた。


「戻ってくるかな」


 エノクは答えた。


「戻るって言いました」


「嘘つきでも?」


「嘘つきだから、言葉を選んだんだと思う」


 アリスは少し考え、頷いた。


「なら、待つ」


 アリアが石碑へ背を向けた。


「待つけど、止まらない。黒星片はヴェルナ方面に落ちてる。アイオンが別の道を行くなら、私たちは私たちの道を行く」


「はい」


 エノクは頷いた。


 彼はもう一度石碑を見た。削られた弦の空白に、イーサーの星図光が淡く残っている。そこにはまだ、完全な名は戻っていない。だが、空白は空白として見えるようになった。誰かが消した名を、なかったことにはしない。聖天使の名でさえ、別の者の席を埋めるために使ってはならない。


 消された七英雄。


 真言の英雄アリオン。


 その名は、まだ風の中で震えている。アイオンが認めるかどうかに関係なく、世界の設計図には、その一席が必要だった。パンドラボックスを完全に閉じるためにも、カオスの名を封じるためにも、欠けた弦は戻らなければならない。


 だが、弦を鳴らす者は、今、仲間から距離を置いた。


 エノクは胸元の鍵を握り、丘の下の道を見た。遠く、海風が吹いている。ヴェルナへ向かう道。そのどこかを、アイオンもまた別の影として歩いているのだろう。


 旅の一行は、ひとつ欠けた。


 けれど、その欠けた一音こそが、これからの戦いに必要なのだと、誰もがもう知っていた。

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