第10話_沈黙した賢者
星図塔の鐘が鳴り終わっても、透明球の中に浮かぶ黒い落下点は消えなかった。ヴェルナへ続く旧街道の近く、血潮野と海辺の廃国を結ぶ傷の道、その上に星の船の断片が落ちた。黒星片。イーサーはそう呼んだ。星の船から剥がれた外宇宙由来構造物の一部であり、霊脈へ触れれば黒星核の反響を地上へ流し込む危険な異物である、と。だが、名前を与えられたからといって、危険が小さくなるわけではない。むしろ、名を持ったことで恐ろしさは形を得た。星の船は神話ではなかった。カオスは玉座に座る一人の魔王ではなかった。四天王を倒しても、星の外から戻ろうとする魂魄と名を止めなければ、戦いは終わらない。
アリアはその落下点を見つめたまま、しばらく動かなかった。ヴェルナ。彼女の国の名は、星図の上では細い海岸線と廃された港の記号にすぎない。けれど、彼女の中では焼けた祭壇と血の匂いと、逃がされた夜の足音を持つ場所だ。ヤクシャの呪い、阿修羅の封印、星の船の断片。その三つが近づいている。もし黒星片がヴェルナの眠れない傷へ触れたなら、何が起きるのか、誰にも分からない。
「すぐ行く」
アリアは言った。
その声は静かだった。だからこそ、誰も軽く扱えなかった。
だが、イーサーは星図を閉じずに首を振った。
「向かうべきではありません。少なくとも、今すぐには」
アリアの視線が鋭くなる。
「地図の上で切り捨てる話なら、もう聞いたわ」
「切り捨てる話ではありません。到達するための話です」
イーサーは白い指で星図を示した。黒い落下点から、三本の細い線が伸びている。一本はヴェルナ旧街道へ、一本は霊脈の谷へ、そしてもう一本は山岳地帯へ向かっていた。高く、険しく、雲の下に沈む山脈。その名が星図に浮かぶ。
テムナテ・セラ。
「黒星片の反響が、テムナテ・セラ山地にも届いています」
イーサーは言った。
「そこには、盲目の賢者ヨシュアがいる」
アイオンの指が、竪琴の弦へ触れた。鳴らない。けれど、その沈黙だけで、名の重さが分かった。ダイダロスが工房で語った七つの入力点。阿修羅、シモン、ザッハ、アリオン、ダイダロス、ヨシュア、そしてアルティエル。ヨシュア。叡智と静寂のライラに触れ、世界の魔導体系の共通項を見抜いた盲目の賢者。
エノクは訊いた。
「ヨシュアは、生きているんですか」
「生きている、という言葉をどう定義するかによります」
イーサーの返答に、テイルが顔をしかめた。
「また面倒な言い方だな」
「彼は肉体を持っていると記録されています。ですが、長く沈黙の山に籠もり、外界との接触をほとんど断っている。セラフィアでも、彼が完全な意味で地上の時を生きているかは不明です」
ハルナが腕を組む。
「つまり、会ってみないと分からない?」
「そうです」
「最初からそう言って」
「情報を正確に」
「正確すぎると遠回り」
ハルナの耳がぴんと立ったまま揺れた。イーサーはその言葉を少し考え、真面目に頷く。
「努力します」
「それ、便利な逃げ道になってきてない?」
「指摘として記録します」
「記録じゃなくて直して」
アリアは苛立ちを抑えるように息を吐いた。
「どうしてヨシュアなの。ヴェルナに落ちたものへ向かう方が先でしょう」
イーサーは彼女へ向き直った。
「黒星片へ不用意に近づけば、暗黒剣の残滓と共鳴する危険があります。あなたは境界を斬る力を得たばかりです。完全に制御できているわけではない。ヨシュアは、叡智と静寂のライラを通じて、反響を鎮める方法を知っている可能性が高い」
「可能性」
「はい。確定ではありません」
「なら」
「それでも、無策で向かうより生存率は高い」
アリアの双眸に怒りが走った。だが、彼女は反論しなかった。言葉は冷たい。けれど、内容は間違っていない。自分が暗黒剣に引き寄せられたばかりであることを、彼女自身が一番よく知っている。
イリスが静かに言った。
「ヨシュアさんは、封印が不完全だったことを知っているのですね」
「知っていたはずです」
イーサーは答えた。
「七英雄の一人として、彼はパンドラボックスの起動にも関わっている。名封じ真言の欠落、魂魄層の捕捉不全、星の船の帰還可能性。全てを理解していた可能性がある」
アリスが小さく呟いた。
「知っていて、黙っていたの」
その声は、静かだった。だが、痛みを持っていた。彼女もまた、シモンやアイオンや七英雄たちの沈黙によって、置いていかれた一人だった。
イーサーは一瞬だけ言葉を探した。
「沈黙にも理由があります。情報が広がれば、混乱が起きる。王国は争い、神殿は教義を守ろうとし、魔王軍は弱点を探る。真実をすぐに語ることが、必ずしも救いにはなりません」
「それは」
イリスは記録帳を胸に抱えた。
「あなたの考えですか。それとも、セラフィアの教えですか」
イーサーは答えなかった。答えられなかったのかもしれない。エノクはその沈黙を見て、胸の奥が痛んだ。イーサーは悪人ではない。冷たく見えるが、世界を守ろうとしている。ただ、彼はまだ、沈黙を賢さと呼ぶ場所に立っている。
アイオンが低く言った。
「なら、ヨシュアに会いに行きましょう。沈黙の専門家に」
その声には皮肉があった。だが、皮肉だけではない。自分自身へ向けた刃も混じっていた。
セラフィアは彼らに翼船を貸した。船と呼ぶには小さく、鳥籠と翼を合わせたような乗り物だった。白銀の骨組みに薄い帆布の翼が張られ、下部には浮遊石と風魔法の環が組み込まれている。ハルナは乗り込む前から舷側へ張りつき、構造を見て耳を震わせた。
「うわ、風圧逃がしの羽根板が自動で角度変える。これ、地上の飛行機械に応用できる。いや、まず材料費が無理。くやしい。空の人、お金持ちすぎる」
「これは公用船です」
イーサーが説明する。
「公費か。なおさら腹立つ」
「なぜ」
「公費でいい部品を使ってるから」
テイルは翼船の縁を掴みながら顔をしかめた。
「また飛ぶのか」
「あなたは竜でしょう」
イーサーが言う。
「今は人の形だ」
「竜の誇りは形で変わるのですか」
テイルの目が細くなる。
「おい、鳥野郎」
「鳥ではありません。有翼人です」
「今のはわざとか?」
「半分ほど」
ハルナが吹き出し、イーサーは少しだけ目を瞬かせた。
「冗談の使用法として適切でしたか」
「相手は怒ってるけど、まあ進歩」
「記録します」
「だから記録じゃなくて」
翼船は、雲海を裂いて飛んだ。セラフィアの白い庭園が遠ざかり、やがて空の島は雲の上の光点になった。下には地上が広がる。山脈、森、川、廃都、赤茶けた古戦場、鉱山都市の煙。上から見れば、全ては模様になる。テイルはそれを見て低く言った。
「こうやって見ると、確かに小せぇな」
イーサーは頷く。
「空から見れば、国も戦場も、地上の者が思うほど大きくはありません」
「でも、大地の声は聞こえねぇ」
テイルは船縁から下を睨んだ。
「小さく見えるだけだ。静かに見えるだけだ。下じゃ、うるせぇくらい生きてる」
イーサーはしばらく黙っていた。やがて静かに言う。
「私は、その声を聞く訓練を受けていません」
「なら、聞け」
テイルの言葉は乱暴だった。だが、不思議と突き放すものではなかった。
イーサーは頷いた。
「努力します」
「それ、また逃げか?」
「いいえ。今のは、たぶん本当に」
テイルは少しだけ目を逸らした。
「ならいい」
翼船は北東の山脈へ向かった。テムナテ・セラ山地は、地図で見るよりも険しかった。高い峰がいくつも連なり、山肌には緑よりも灰色の岩が多い。頂付近には雪が残り、雲が巻きつき、雷を孕んだ薄い光が峰から峰へ走っている。だが、近づくにつれ、奇妙なことに気づいた。音が消えていく。風の音が薄くなる。翼船の帆布が震える音、金具の軋み、ハルナの小さな独り言、テイルの不満げな息遣い、それらが少しずつ遠ざかる。完全な無音ではない。けれど、音が山に吸われているようだった。
「気持ち悪い」
ハルナが耳を伏せた。
「音が返ってこない。工具を落としたら、どっちへ跳ねたか分からないやつ」
アイオンは竪琴へ触れた。弦を弾いても、音はすぐに消えた。彼の顔がわずかに曇る。
「沈黙の山、ですか」
イーサーが言った。
「テムナテ・セラ。古い空語で、聞こえぬ光の山。ヨシュアは聖戦後、この山へ入りました」
イリスが小さく訊く。
「なぜ、この山へ」
「世界の響きを聞きすぎたからだと、セラフィアには記録されています。すべての声を聞く者は、やがて沈黙を求める」
アリスがぽつりと言った。
「でも、聞こえないふりをしたい時にも、沈黙は便利」
誰もすぐに返せなかった。
翼船は山腹の石庭へ降りた。そこには建物らしい建物はない。ただ、白い石が円形に並び、中央に古い杖が一本立っている。杖の上には小さな鈴が吊られていたが、風が吹いても鳴らなかった。石庭の奥には、岩壁へ掘られた細い階段が続いている。階段は雲の中へ消え、上に何があるのか見えない。
イーサーが一歩進んだ。
「ここからは歩きます。翼で飛ぶことは禁じられています」
「空の民の山なのに?」
テイルが言う。
「ヨシュアの山では、空から降りてきた者も地上の足で登る。そう記録されています」
「気に入った」
テイルは少しだけ笑った。
階段は長かった。山に音を吸われるため、誰も大きく喋らなかった。いや、喋ろうとしても言葉が小さくなる。イリスの祈りも、アリアの足音も、ハルナの工具の揺れも、テイルの舌打ちも、すべて山肌へ吸い込まれていく。エノクは、自分の心臓の音だけが大きく聞こえる気がした。沈黙は、外の音を消すだけではない。内側の音を露わにする。
途中、イーサーが足を止めた。彼は雲海を見下ろしていた。そこからは地上が見えない。ただ白い雲だけが続いている。
「セラフィアから見る地上に、似ています」
彼は言った。
「何も見えないように見える。だから、線を引きやすい」
イリスが隣に立った。
「でも、下には名があります」
「はい」
イーサーは頷いた。
「その言葉を、私はまだ完全には理解していません。ですが、理解しないまま判断することが危険だとは、少し分かってきました」
イリスは記録帳を開かなかった。ただ、静かに言った。
「分からないと書くことも、記録の一つです」
イーサーは彼女を見た。
「あなたは、厳しい」
「最近、よく言われます」
階段の終わりに、庵があった。石と木で作られた小さな庵だ。扉は開いている。屋根には白い苔が生え、軒先には鳴らない鈴がいくつも吊られている。庵の前には水盤があり、水は張られていない。ただ、乾いた水盤の底に、星図にも魔法陣にも見える円が刻まれていた。
その水盤の前に、老人が座っていた。
盲目の賢者ヨシュア。
彼は、英雄譚に描かれる賢者とはまるで違っていた。冠も、光る杖も、豪奢な衣もない。灰色の古い法衣をまとい、裸足で石の上に座り、痩せた手を膝に置いている。目は布で覆われていた。白布は古く、何度も洗われ、端が擦り切れている。髪も髭も白く、肌は木の皮のように薄い。だが、彼の周囲だけ、山の沈黙がさらに深かった。音が消えているのではない。音が、彼の前で膝をついているようだった。
「来たか」
ヨシュアは言った。
声は小さかった。だが、全員の耳に届いた。
「誰が来るか、知っていたのですか」
エノクが問う。
「知らぬ」
ヨシュアは答えた。
「だが、来るべき者が来た音は、長い沈黙の中でも分かる」
彼は顔を少し上げた。布に覆われた目は何も見ていないはずなのに、ひとりずつ正確に捉えるようだった。
「ランバードの鍵。シモンの剣。アベルではない少年。名を記す神官。怒りを刃に渡さなかった剣舞姫。竜王の息子。死者を手放した人形。油と歯車の猫。欠けた弦。空から降りた若き長老」
アイオンの指が弦へ触れた。
イーサーの翼がわずかに揺れた。
「ヨシュア様」
イーサーは膝を折った。セラフィアの若き長老としてではなく、後継を求める弟子のように。
「イーサー・セラフィム。星図塔の管理者です。あなたの叡智を求めて参りました」
「叡智だけか」
ヨシュアが問う。
イーサーは言葉を失った。
ヨシュアは静かに続けた。
「叡智は軽い。書に載せられる。星図に刻める。弟子に渡せる。だが、叡智に付いた沈黙は重い。お前は、それも求めてきたのか」
イーサーは頭を下げたまま答えた。
「私は、知るために来ました」
「知るだけか」
その言葉は、空気よりも冷たく刺さった。
テイルが小さく呟く。
「きっつい爺さんだな」
「聞こえておる」
「聞こえんのかよ」
「見えぬ分、余計な声も聞こえる」
ハルナが少し身を乗り出した。
「耳、どうなってるの? 魔導補助器なしで音場を読んでる?」
「猫の娘。耳だけで聞くな。手も、足も、失敗も聞け」
「……分かったような分からないような」
「分からぬなら、まだよい。分かったふりをするな」
ハルナは口を閉じた。珍しく、反論しなかった。
ヨシュアは乾いた水盤へ手を伸ばした。水のない底に、指先が触れる。すると、円の刻みが淡く光り、空中に薄い映像が浮かび上がった。ダイダロスの記録室やセラフィアの星図とは違う。もっと簡素で、もっと静かな記録。音の形だった。波紋のように広がる線。七つの響き。肉体を縛る低音、魂魄を受ける器の中音、名を運ぶ高い弦音。だが、その弦音は途中で途切れている。
アイオンが目を伏せた。
ヨシュアは言った。
「千年前、私は聞いていた。パンドラボックスが閉じる音を。肉体が落ちる音を。魂魄が逃げる音を。名が封じられず、世界の外へ裂けていく音を」
イリスが息を呑む。
「知っていたのですね」
「知っていた」
「その時に?」
「その時に」
ヨシュアの答えは、逃げなかった。
「なぜ、語らなかったのですか」
イリスの声は震えていた。
ヨシュアは顔を上げた。
「語れば、世界はもう一度割れると思った。七英雄の勝利が偽りだと知れば、王は争い、神殿は崩れ、民は絶望し、魔王軍の残滓は逃げた魂魄を追う。だから私は沈黙した。七英雄は救ったのだと、世界が信じることを許した」
アリアが低く言った。
「それで、後の者が傷を背負った」
「そうだ」
「ヴェルナも?」
「阿修羅の封じ損ねた刃が、いずれどこかを傷つけると知っていた。どこかまでは見えなかった。だが、知っていた」
アリアの拳が震えた。エノクは思わず彼女を見る。彼女は剣へ手を伸ばさなかった。ただ、歯を食いしばっていた。
「なら、あなたも同罪ね」
「そうだ」
ヨシュアは静かに言った。
そのあまりにも簡単な肯定が、怒りの行き場を奪った。アリアは顔を歪める。
「謝らないの」
「謝る。だが、謝罪は滅びた国を戻さぬ」
「知ってるわよ」
「それでも、すまなかった」
ヨシュアは頭を下げた。盲目の賢者が、地に額が近づくほど深く。アリアは息を止めた。許す言葉は出なかった。出なくてよかった。謝罪は赦しを買うものではない。ただ、沈黙した者が初めて声にした責任だった。
アリスが小さく言った。
「みんな、黙ってたのね」
ヨシュアは彼女へ顔を向けた。
「そうだ。シモンも、ザッハも、阿修羅も、ダイダロスも、私も、それぞれ違う理由で黙った。黙っていれば、世界が少し長く持つと思った。だが、沈黙は傷を消さぬ。傷を見えにくくするだけだ。見えぬ傷は、深く膿む」
アイオンがかすれた声で言った。
「アリオンも」
ヨシュアは、彼の方を向いた。
沈黙が、山より重くなった。
「名を呼ばぬことを望むか」
ヨシュアが問う。
アイオンはしばらく答えなかった。やがて、小さく言った。
「今は、まだ」
「なら、呼ばぬ」
エノクは驚いてヨシュアを見た。彼は全てを暴く賢者ではない。知っているからこそ、どこで言葉を止めるかを知っている。だが、その沈黙は逃避ではなく、相手が自分で立つための間だった。エノクには、そう感じられた。
ヨシュアはイーサーへ向き直った。
「空の長老」
イーサーの背が伸びる。
「はい」
「お前は多くを見る。星図、霊脈、国境、戦の動き、犠牲の計算。だが、見えるものが多い者ほど、聞くことを忘れる」
その言葉は、イーサーの胸をまっすぐ貫いたようだった。彼の翼がわずかに震える。
「私は、聞いていないのでしょうか」
「聞かぬようにしている。見えるものだけで世界を測れば、耳を塞げる。地図の線は泣かぬ。星図の点は怒らぬ。記録の数字は名を呼ばぬ」
イーサーは唇を結んだ。
「私は、世界全体を守るために」
「私もそう言った」
ヨシュアの声は静かだった。
「世界全体のために、今は語るべきではない。世界全体のために、一つの真実を伏せるべきだ。世界全体のために、小さな名は後で記録すればよい。そう言った。そして千年後、若い者たちが私の沈黙の負債を払いに来た」
イーサーの顔から血の気が引いた。エノクは、彼が初めて本当に揺らいでいるのを見た。イーサーは賢い。彼は自分とヨシュアが似ていることを理解してしまったのだ。空から見る者。全体のために沈黙できる者。知っていながら、語らないことを選べる者。
「沈黙は、常に罪なのでしょうか」
イーサーが問うた。
「違う」
ヨシュアは即答した。
「沈黙は祈りにもなる。聞くための器にもなる。怒る相手を待つための間にもなる。だが、責任から逃げるための沈黙は罪だ。知っていながら、誰かが失われるのを計算の外へ置く沈黙は罪だ。沈黙によって自分の手を汚さぬようにするなら、それは声よりも深く人を傷つける」
イリスが記録帳を開いた。だが、筆はすぐには動かなかった。ヨシュアの言葉は、書き写すには重すぎた。
エノクはイーサーを見た。
イーサーはゆっくり顔を上げた。
「私は、地上の一部を切り捨てる判断も必要だと語りました」
「聞いている」
「その判断は、完全に誤りだとは今も言えません」
テイルが眉をひそめた。だが、イーサーは続けた。
「大きな破局を防ぐため、局所を封鎖しなければならないことは、あるかもしれない。そこから逃げては、長老として無責任です。ですが」
彼はイリスの帳面を見た。アリアの剣を見た。アリスの胸元の核を見た。ハルナの工具帯を、テイルの大地を聞く手を、エノクの鍵を、アイオンの鳴らない弦を見た。
「私は、その局所に誰がいるのかを聞かずに、線を引こうとしていました。記録すれば足りると思っていた。名を聞く前に、地域、種族、被害範囲、汚染度で測ろうとしていた」
ヨシュアは黙って聞いている。
「それは、あなたの沈黙と似ています」
「そうだ」
「私は、あなたの叡智を継ぎたい」
イーサーは言った。
「星図を読む力。魔導体系を結ぶ知。カオスの魂魄と名を理解するための静寂。それは必要です」
彼は深く息を吸った。
「ですが、沈黙までは継ぎません」
風が止まった。
山の沈黙が、初めて揺れたように感じられた。
ヨシュアは、ゆっくりと顔を上げた。
「では、何をする」
「語ります。まだ不完全でも。恐ろしくても。世界全体を見ながら、そこにいる一人の名を聞きます。セラフィアへ戻れば、長老会に星の船の真実を伏せるなと求めます。地上へ降りれば、星図にない名を学びます。切り捨てを論じる時は、まずそこへ行きます。見て、聞いて、それでも必要なら、その判断を自分の名で背負います。掟の名に隠れません」
その言葉は、整っていた。けれど、単なる理論ではなかった。イーサーの翼が、かすかに震えている。彼にとってそれは、空の民としての教育と、若き長老としての責務と、今ここで聞いた沈黙の罪のすべてに逆らう言葉だった。
ヨシュアは微かに笑った。
「よい。賢者は答えを持つ者ではない。問われた時、逃げぬ者だ」
彼は乾いた水盤へ両手を置いた。すると、山全体が深く鳴った。音が鳴ったのではない。沈黙そのものが形を変えた。水盤の底に刻まれた円が光り、そこから幾重もの文字が浮かび上がる。古代語、竜語、聖術式、星図紋、機巧記号、真言の断片。それらはばらばらに見えたが、イーサーの前で一つの環を作った。
「これは」
イーサーが息を呑む。
「叡智と静寂の鍵。ヨシュアの系譜などと大げさに呼ばれてきたものの残りだ。世界の響きを聞き、異なる魔導体系の共通する底を読むためのもの。お前には素地がある。空の星図を読み、大地の声を聞く者たちと歩くなら、これを使える」
光の環がイーサーの額の銀環へ触れた。彼の翼が大きく広がる。白銀の羽根の奥に、淡い星図が浮かんだ。だが、その星図は以前のように地上を点と線で測るものではなかった。ひとつひとつの点のそばに、空白の名札が現れる。まだ知らない名を書き込むための空白だった。
イリスが小さく息を呑む。
「星図に、名前の場所が」
ヨシュアが言った。
「記録だけでは足りぬ。祈りだけでも足りぬ。星図は広さを持つ。帳面は近さを持つ。二つを結べ、空の長老」
イーサーは両手を胸に当て、深く頭を下げた。
「継ぎます。叡智を。静寂を、聞くために。ですが、逃げるための沈黙は継ぎません」
「なら、行け」
ヨシュアは顔を伏せた。
「黒星片はヴェルナ旧街道に落ちた。暗黒剣の残滓と触れれば、怒りの名を食う。急ぐがよい」
アリアが一歩前へ出た。
「ヨシュア」
「何か」
「あなたを許したわけじゃない」
「それでよい」
「でも、聞いた。あなたが黙ったことも、謝ったことも。ヴェルナへ行く時、その沈黙も持っていく。あたしの怒りを、ヤクシャだけに渡さないために」
「強いな」
「震えてるわよ」
「震えていても立つ者を、強いという」
アリアは何も言わなかった。少しだけ顔を逸らした。
ハルナが手を挙げた。
「あの、すごく大事な場面なのは分かってるんだけど、ひとつだけ」
「何だ、猫の娘」
「その水盤の構造、写しを取っていい? あと、できれば触って」
「よい」
ハルナの耳が跳ねた。
「本当に?」
「ただし、壊すな」
「壊さない。多分」
「多分を外せ」
テイルとアリアとイリスが同時に言った。ハルナは「はい」と小さく答えた。ヨシュアは少しだけ笑ったようだった。
アイオンは最後まで黙っていた。ヨシュアは彼へ顔を向けた。
「欠けた弦」
アイオンは目を閉じた。
「はい」
「お前の沈黙は、まだお前のものか」
アイオンは答えない。山の沈黙が、その答えを待つ。長く、長く。
「分かりません」
やがて彼はそう言った。
「半分は、自分を守るため。半分は、今ここで鳴らせば壊れるものがあるため。どちらが多いのか、もう分からない」
「なら、急いで名を明かすな」
ヨシュアの言葉に、アイオンは目を開いた。
「意外ですね。責められるかと」
「責めることと、急がせることは違う。沈黙が罪になるのは、語るべき時を過ぎても自分を守るために黙る時だ。お前は、その時を見誤るな」
アイオンの顔が、ほんの少し歪んだ。
「難しい助言ですね」
「簡単なら、千年も失敗せぬ」
その言葉に、アイオンは小さく笑った。痛い笑みだったが、逃げる笑みではなかった。
山を降りる時、音は少し戻っていた。風の音、石を踏む足音、ハルナの工具の小さな揺れ、テイルの不満そうな息、イリスが帳面を閉じる音、アリスの衣の裾が石に触れる音。完全ではない。だが、沈黙はもう彼らを閉じ込めてはいなかった。
イーサーは階段の途中で立ち止まり、山の庵を振り返った。
「私は、見ていたつもりでした」
彼は言った。
「ですが、見えるものの多さに隠れて、聞いていなかった」
エノクは隣に立った。
「僕は、目の前ばかり見ています。たぶん、全体を見落とします」
「だから、互いに必要なのでしょう」
イーサーはそう言った。以前の彼なら、もっと整った理論で語っただろう。今の言葉は少し不器用だった。だから、エノクには信じやすかった。
「ヴェルナへ行きましょう」
イーサーは続けた。
「黒星片の落下点を、星図だけで封鎖しません。まず、そこにある名を聞きます」
イリスが微笑んだ。
「記録します」
「私も、星図に空白を作ります。あなたの帳面から、後で名を写させてください」
イリスは驚いたように目を開き、それから頷いた。
「はい」
テイルがぼそりと言う。
「鳥野郎が少し地面に近づいたな」
「有翼人です」
イーサーは返し、少しだけ間を置いた。
「ですが、地面に近づくという表現は、悪くありません」
「……調子狂う」
ハルナが笑い、アリスも小さく笑った。アリアは先を見ている。ヴェルナへ向かう道。そこには黒星片が落ち、暗黒剣の残滓が待ち、星の船の影が触れようとしている。だが、今の一行には、ほんの少しだけ新しい力がある。境界を斬る剣。星図に名を空ける賢者。沈黙を聞く叡智。
翼船へ戻る頃、空の向こうで黒い雲が動いた。ヴェルナの方角だった。エノクの胸元の鍵が鳴る。ティンカーベルが低く言った。
「急げ、未熟者。今度は、沈黙している時間も惜しい」
「分かってる」
エノクは答えた。
ヨシュアの山は背後で静かだった。けれど、その沈黙はもう、罪を隠すための沈黙ではない。聞くための沈黙だった。
一行は空へ戻り、黒星片の落ちた地上へ向かった。




