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氷菓に欠けていて千佳と瑠璃に備わっているもの。それは基礎体力だ。足腰の強さがものをいうこの立体的な戦場ならば地の利は千佳達にある。わざわざ氷菓をこのビル街に誘導してきたのはそれが狙いであり、忍の策の一つだった。ビルは丈夫で壊れにくいというのは建前にすぎない。
先に路面に立った千佳達に、氷菓はいら立ちに歯を食いしばりながら飴玉を連射する。しかし、瑠璃に届く前にすべて千佳が消し去ってしまう。そのせいで氷菓の目に怒りと憎しみの色が濃く浮かんでいく。
乱射した飴玉が千佳と瑠璃のタッグを分断した瞬間、氷菓は瑠璃ではなく千佳の方へ向き直った。そして計六発もの飴玉を千佳一人に集中して撃ち出したのだ。まずは防御役の千佳から先に仕留めるつもりらしい。
これほどの集中攻撃はさばききれない。一つか二つを消すうちに残りの飴玉に押しつぶされる。そしてこのままでは逃げきることもできずに被弾する。極度に集中し時間がゆっくりと流れる世界の中でそう判断した千佳は即座にスイッチを切り替える。
瞬時に身体を瑠璃へと変え、爆発的に上がった脚力で千佳は横へと跳ぶ。回避不能と思われたほどに目の前まで迫った飴玉の群れを楽々かわし、勢いがあまった千佳は隣のビルの中へ突っこんだ。
ビルの二階から飛び出し瑠璃のそばへ戻った千佳に、今度こそ氷菓は驚愕の声を上げた。目を手でこすり、二人の瑠璃をあわてて見比べている。
瑠璃の隣にふたたび立ったはいいが、千佳は変身が続かずに元の姿へ戻ってしまう。今度は瑠璃から千佳へと変わったことに氷菓も目をぱちくりさせる。
「ど、どういうこと!? ねえ、クマァ!?」
「詳しいことはわからねぇ。だが千佳の方は瑠璃の偽者だ。偽者には構わずに本物の瑠璃を狙え」
余計なことは気にせずに目的達成のみに集中。クマァの簡単で的確な指示に、氷菓もいくらか落ち着きを取り戻したようだ。腰を落とし、攻撃の要であるクマァを胸にしっかりと抱く。
瑠璃の姿になっていられる時間は練習よりもはるかに短い。実戦の緊張と疲労のせいで心が激しく乱れ、理想的な精神状態からはかけ離れているからだ。やはり瑠璃化はしょせん付け焼き刃に過ぎず、頼りにならないと千佳は冷や汗を流す。
瑠璃が先に走り、その後ろへ千佳が続く。こうして瑠璃の動きを真似て、彼女の足を引っぱらないようについていくだけで千佳はせいいっぱいだった。幽姫同士の戦争はまさに怪物同士の殺し合いに等しく、千佳の知る常識を超えた世界に戦慄するしかない。
ためていた呪いを浄化して全快した瑠璃と氷菓ではそれぞれの身体能力に雲泥の差があり、攻めの手数では瑠璃の方が勝っている。しかし不浄霊だけでなく幽姫の武器をもお菓子に変えてしまう氷菓に対する剣を生み出す瑠璃の能力の相性は最悪といっていい。いくら剣を突き出してもすべてをクッキーに変えられ、決定打にならないのだ。
瑠璃と共に氷菓へ迫った千佳は防御の役目の合間を縫って瑠璃へ変わり、両手から剣を飛ばして氷菓を斬ろうとする。まだまだ瑠璃の力を使いこなせない千佳の剣は遅く、一度に生み出せる剣もたった三本が限界だった。ことごとくクッキーに変えられ無効化されてしまう。
千佳の攻撃はとどかなくても氷菓への精神面への影響は大きかった。瑠璃へと変わる千佳への警戒がいっそう強くなり、千佳達が距離を詰めるとその分氷菓は離れてしまう。今はそのように動けとクマァが命令し、氷菓がうなずくのを千佳は見た。
武器をお菓子に変えて無効化してしまう氷菓の能力も手強いが、彼女の武器であり指令塔となっているしもべのクマァが真にやっかいな存在だ。氷菓本人よりもクマァを先にどうにかしないことには何も始まらないと千佳は焦りに唇を噛む。
氷菓に離れられては不利になる。氷菓は距離を取りつつ飴玉やこんぺいとうを飛ばして攻撃できるが、千佳達はいくら氷菓に剣を飛ばしてもすべてクッキーに変えられるから攻め手が届かない。氷菓の懐に入らなければ忍の立てた作戦が成り立たないのだ。
こんぺいとうの弾丸から瑠璃を守りつつ、千佳は瑠璃と共に氷菓を囲む。いくら氷菓が逃げても脚力の差は大人と子どもほどにある。
目の前の瑠璃と背後の千佳に氷菓はいびつな笑みを浮かべ、クマァの口を頭上へと向ける。その直後、バレーボールほどの大きさをした白い球がクマァの口から飛び出した。
何かの攻撃なのか、それとも防御なのか。氷菓の頭のすぐ上で静止する不審な球を見上げる千佳と瑠璃だったが、一瞬後に白い球は爆発するようにはじけて周囲に大量の粉砂糖をまき散らす。
もうもうと立ちこめる白い砂糖の煙。千佳達は降り注いできた粉砂糖の目つぶしを受けて視力を封じられ、煙の中で涙を浮かべながらせき込むことしかできない。
わざわざ二人を罠に誘い込んだ氷菓はその隙を逃さなかった。無防備の千佳をピンク色の飴玉で吹き飛ばし、千佳の短い悲鳴を聞いて名前を呼ぶ瑠璃へパラソル型のチョコレートを飛ばす。
瑠璃は反射的に横へかわすものの、目が封じられていたせいで完全にはよけきれない。円錐のとがった先端が瑠璃の左肩をかすめ、ブラウスが破けて血がにじむ。傷を負った肩を右手で押さえる瑠璃に、氷菓も息を切らしつつ得意げな表情を浮かべた。
飴玉の直撃を受けた千佳は瑠璃と氷菓の居る場所から数十メートル離れた路上であおむけに倒れていた。飴玉に押される途中で運よく地面に落ちたため巨大な飴と壁の間に挟まれることはなかったものの、死んでしまったのかと疑うほどの浮遊感を味わっていた。
全身がばらばらに壊れてしまったかのような激しい痛みと息苦しさ。身体が宙にふわふわと浮いているように感じるほどに平衡感覚が遠い。間違いなく、今の重く速い飴玉攻撃は千佳の生涯で最大の衝撃だった。大型トラックに正面から追突されたらこんな痛みを受けるのかもしれない。
首すじやももに触れる雪の冷たさがほてった身体に心地良い。強い目まいのせいでこのままずっと寝ていたい気分だったが、全身の痛みが急に引いていくのに気づく。上半身を起こせば腕の赤黒いあざや脚のすり傷がみるみるうちに治っていくのが確認できた。世界が揺れているような激しい目まいも、胸が詰まる息苦しさもすでに消えている。
瑠璃の呪いを取り込んだ影響で、もともと優れていた千佳の自己治癒力は人間の領域をはるかに超えてしまったらしい。化け物じみた自分の身体に言葉を失いつつも、千佳はすぐに気持ちを切り替えた。
顔を上げて遠くの瑠璃を見る。瑠璃は大剣を両手で構えたまま氷菓の飛ばす飴玉を次々と斬り裂いていた。氷菓の近くにいては剣をクッキーに変えられてしまう。だから近づくこともできず、距離をとって受けに回っているのだ。
千佳は歯を食いしばって立ち上がり、氷菓に向かって道路を駆ける。復活した千佳にぎょっとする氷菓の顔がいい気味だった。
動けるようにはなったものの、千佳は完全回復したわけではない。明らかに動きが数段鈍り、これまで積み重なった疲労も加わって戦いについて行けなくなりつつあった。優勢だった戦いの流れが千佳の被弾を機に変わってしまった。
氷菓が千佳の方へ向き、クマァの口を開ける。目で見えても腕の動きが間に合わない。氷菓のお菓子を無に変える手を構える前に巨大な青色のアイスバーが飛び出し、それに胸を突かれて吹き飛ばされる。異様に硬く、鉄筋で突き飛ばされたような威力だった。
防御役の千佳が崩れたことで瑠璃も飴玉の砲撃やキャラメルの弾丸にさらされはじめる。氷菓の間合いに踏みこまなければ勝機はないが、そうすると瑠璃の剣はすべてクッキーに変えられる。必然的に瑠璃は素手でいる時間が増え、氷菓の攻撃を武器無しで受けなければならないからだ。
常人ならばあっけなく死ぬであろう氷菓の攻撃を五回も十回も食らいつつ、千佳はそのたびに痛みと恐怖に耐えて立ち上がる。骨が折れ、身体の中身が潰され、それが修復する気持ちの悪い音と感触も雪が積もった路面に倒れながら同じ回数だけ味わってきた。
クマァから生えた大きな黒い手が瑠璃を殴り飛ばすのが千佳の目に映る。飴玉を受けたダメージにひざまずきながら、今行かなきゃと千佳は目をむく。だが、傷がある程度治るまでは足が動いてくれない。死ぬほどの痛みと苦しみを味わって何度も立ち向かってもなお氷菓を倒せない。果てしなく続く苦痛と報われない徒労感はまさに生き地獄であり、千佳は絶望で心が折れてしまいそうだった。
間合いをとって剣を構えたままかろうじて立っている瑠璃と、しつこく迫ってくる二人に息を切らす氷菓。そしてビルのエントランス前でひざまずく千佳。
「どうにも変だ。こいつら、何かおかしいぜ」
一時の静寂の中に響くクマァの低い声。三人それぞれの視線がクマァに向かう。何かに気づいたらしいクマァに瑠璃と千佳は肩を震わせた。
「瑠璃の剣も、千佳が瑠璃に変わった時の剣も氷菓には通じねぇ。それなのになぜ何度もこりずに氷菓に近づいてくる?」
「もう勝てないから、きっと意地だけで氷菓にからんでくるんだよ。頭の悪いゾンビみたいにさ」
「……いや。やけになって勝負を捨ててるわけじゃねぇよ。こいつらの目は何かを狙って、待ち望んでる目だ。……氷菓、このまま二人を組ませておくのは何か危険だ。どっちか片方を優先して潰せ!」
「うん!」
氷菓が首をひねり、千佳を見て薄笑いする。千佳は全身を氷の中に封じこめられたような悪寒を覚えた。千佳と瑠璃のどちらか一人を選ぶなら弱い千佳の方がより簡単に戦闘不能にできる。自明の理だった。
作戦の具体的な内容がバレたわけではないが、クマァの指示は千佳達にとって非常にまずい。二人のうちのどちらかが欠ければ作戦を成功させることは一気に困難になる。氷菓の知性は子ども並でやることなすことすべてあさはかだが、クマァが補佐すると氷菓の行動に隙が無くなる。実際の脅威の程は主の氷菓よりもしもべのクマァの方が大きい。
氷菓がクマァの口を向け、千佳に白い飴玉を撃ち出した。氷菓との距離が開いているから飴玉がぶつかるまでに時間があるし、クマァの話の間に休めたおかげで傷もほとんど治っている。これなら確実に無効化できると千佳は開いた右手を前へ突き出した。
だが、千佳の目の前で白い飴玉が砕けて無数の破片と化した。白い飴玉にもう一つの飴玉を衝突させて意図的に粉砕させたらしい。飴玉二つ分の破片が手足に突き刺さり、千佳はたまらず瑠璃化してとっさに横へ跳ぶ。
「最初はびっくりしたけど、それはもう慣れたもんね」
並行して前に跳ぶ氷菓に、千佳は驚きで息が止まる。
「今の瑠璃の半分くらいの速さしかないよね、それ。慣れちゃえばどうってことないよ」




